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現代児童文学

国内外の現代児童文学史や現代児童文学論についての考察や論文及び作品論や創作や参考文献を、できれば毎日記載します。

岩本敏男「赤い風船」

2024-07-09 08:50:29 | 作品論

 1971年出版の短編集ですが、どこにでもあるような単純な短編集ではありません。
 児童文学作家の森忠明は「児童文学の魅力 いま読む100冊ー日本編」の中で、この短編集のことを、「リアリズムあり、アフォリズム風あり、カフカ流ありの「赤い風船」は一見放縦な、何でもぶっこんだゾウスイ的短編集であるが、各篇は最後に置かれた絶品「夜の汽車」を深く旅するための、正負のフィードバック効果のようであり、そうみなすと連作短編集とも長編物語とも思えるのである。作者の不可見の念力のようなものが独特の隠し味となって全篇をつないでいる。」と定義しています。
 前半の「あいうえお」は、戦前、戦争中の作者の原体験をもとに描かれた私小説的な連作短編ですが、単なる生活童話ではなく、岩本敏男という現代詩人の眼が、貧乏、家族愛、戦争などを鮮やかに切り取っています。
 後半は中編の「赤い風船」、「ゆうれいのオマル」、「夜の汽車」が並んでいます。
 一見いわゆる無国籍童話風ですが、ナンセンス・ファンタジーあり、実存的作品あり、詩的な作品ありで、どれも一筋縄ではいかない作品です。
 この本は出版当時に、「全体に暗すぎる」、「子どもには難しぎる」、「これからを生きる子どもたちに、こんなネガティブなものを与える必要ない」などの批判を浴びました。
 しかし、一部の読者(特に大人の女性)からは熱狂的な支持を得ました。
 私の属していた大学の児童文学研究会にも、この本の全文をノートに書き写すほどのファンだった同学年の女性がいました。
 彼女は中島みゆき似の理知的な女性でしたが、その字も本人に似てきちんと整っていて美しく、彼女が写した「赤い風船」は本物の本よりも魅力的に見えました。
 私は悪筆で有名で、サークル内では「あいつだけにはガリを切らせるな」と言われていて、いつも私の汚い字で書かれた原稿は、彼女の美しい字でガリ版印刷(パソコンはもちろんワープロもコピー機もない時代だったので、皆に読んでもらうためにはガリ版用紙に一文字一文字書きうつして謄写版印刷するしかなかったのです)してもらっていたので、彼女には頭が上がりませんでした。
 そのため、当時はガチガチの「現代児童文学論者」だった私は、内心この作品に否定的だったものの、彼女の手前サークル内では批判しないでいました。
 再読しても、これはいわゆる「現代児童文学」ではないと思います。
 文章は「散文的」でなく優れて「詩的」です。
 読者としての「子ども」もほとんど(あとがきでは作者は子どもを意識していると言っているのですが)意識されていません。
 「社会変革」の意思も感じられず、強いぺシミズムの雰囲気に満ちています。
 しいていえば、「大人の童話」といった雰囲気です。
 1970年代にも、劇作家の別役実の「淋しいおさかな」のような「大人の童話」の本(もっとも別役はこれらの童話をNHKの幼児番組のために書いたのですが、本は大人向けの装丁で出されていました)も存在したのですが、児童文学界にはほとんど無視されていたようです。
 現在ではこのような「大人の童話」のジャンルの本は、一定の読者(おそらく大人の女性が中心でしょう)を獲得しています。
 ただ、「赤い風船」は、今の読者には毒が強すぎるかもしれません。


ゆうれいがいなかったころ (偕成社の創作文学 23)
クリエーター情報なし
偕成社
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森忠明「ぼくが弟だったとき」

2024-06-11 11:22:15 | 作品論

 小学三年生のぼくには、一つ年上のおねえちゃんいます。
 おねえちゃんはしっかり者で美人ですが、ぼくはにぶくてはなたらしです。
 ぼくのパパとママは、パパの浮気とママの宗教活動のために、いつも喧嘩しています。
 ぼくはおねえちゃんに「両親がわかれたらどっちへゆく」と聞かれて、「おねえちゃんがゆくほう」と答えます。
 二人は、まだ両親が仲良かったころに行った上野動物園のことを懐かしみます。
 その後も、おねえちゃんの思い出が次々に語られていくので、なんだか読者はだんだん不安になります。
 ぼくがおねえちゃんのボーイフレンドの家の飼い犬にかまれたことで、彼とうまくいかなくなったおねえちゃん。
 両親の喧嘩に愛想を尽かして、おばあちゃんの家へプチ家出した時に、ぼくに三千円をくれたおねえちゃん。
 家出から家へもどるときに、三千円に恩着せてぼくを迎えに来させたおねえちゃん。
 ぼくと背比べをして負けてひがんでいたおねえちゃん。
 中央線の多摩川を渡る鉄橋の足を作るのに貢献したひいおじいちゃんの名前を、その石の台に彫ってくるようにぼくに命令するおねえちゃん。
 お風呂にバスクリンと間違えてお風呂掃除の液体を入れてしまったおねえちゃん。
 次々と、あまり脈絡なくおねえちゃんの思い出が語られています。
 読者の不安が的中するように、ラストでおねえちゃんは脳腫瘍にかかってあっけなく死んでしまいます。
 この作品も、作者の実体験に基づいているようで、あとがきにこのよう書いています。
「死児の齢をかぞえるのは親の役割ときまったわけではないだろう。
 おろかな弟だったぼくもまた生前の姉をなにかにつけて思い出す。
 (中略)
 町の写真館の奥には、セピアに変色した姉の一葉が今も掲示されていて、時たまガラス戸ごしにのぞき見るぼくに、いつもきまった視線を向ける。
 その目には、本道からはぐれがちな弟をあやぶむようなかげりがあるが、この物語を姉にささげることで、かげりが少しでも薄くなればいい。」
 しっかり者の姉と頼りない弟、愛する者の喪失、人のはかなさ、生の多愁といった森作品の重要なテーマが、ここでも繰り返し語られます。
 作者の実体験はおそらく1950年代のおわりごろと思われますが、出版された1985年ごろにアレンジされているために、風俗やセリフがやや時代的にちぐはぐな感じを受けます。
 これは、作品を売る時の商品性に配慮したために起こることなのですが、児童文学の世界では編集者などからこのような要求がよくなされます。
 そのため、どこの国の話か分からない無国籍童話(これも初心者のメルヘン作品には今でも多いです)ならぬ、時代がいつなのかはっきりしない無時代児童文学作品(?)がよく書かれます。
 この後、森忠明は完全に開き直って、時代設定を実体験に合わせて書くようになりますが、この作品は過渡期に書かれたようです。
 森作品に限らず、あやふやな時代設定で書くよりは、現代なら現代、作者の子供時代ならその時代と、はっきりさせて書いたほうが、特にリアリズムの作品では成功することが多いようです。

ぼくが弟だったとき (秋書房の創作童話)
クリエーター情報なし
秋書房

 

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今西祐行「はまひるがおの小さな海」そらのひつじかい所収

2024-06-05 08:59:37 | 作品論

 作者の児童文学の出発点として1956年に出版された、「そらのひつじかい」(日本児童文学者協会新人賞受賞)に収録されている作者の幼年童話の代表作の一つです。

 岬のとっぱなに、ひとりぼっちで咲くひるがおと、「ぼく」の会話でお話は始まります。
 ひるがおは、「ぼく」に「自分をつみとってくれ」と、頼みます。
 「ひるがおをつむと空がくもる」という、言い伝えがあるからです。
 嵐の夜に近くに打ち上げられ、小さな水たまり(小さな海)に取り残されて、ひるがおとすっかり仲良しになったおさかなが、太陽がつよくてにえそうになっているのを見かねて、自分を犠牲にして空を曇らせようとしたのです。
 「ぼく」は、ひるがおをつみとったりせずに、さかなをすくって海へ帰そうとします。
 でも、そうすると、ひるがおはまたひとりぼっちになってしまいます。
 「ぼく」は、浜で遊んでいた子どもたちに頼んで、ひるがおの「小さな海」に毎日海の水を入れてくれるよう頼むのでした。
 子どもたちは快諾したばかりか、えびやかにも入れて「小さな海」をにぎやかにしてくれることを約束してくれます。

 この作品も選ばれている「幼年文学名作選15」の解説で、児童文学作家で研究者でもある関英雄は、「はまひるがおと「小さな海」に息もたえだえになっている小魚の間にかよう心は、まさに今西童話の核となる「心の結びあい」の、もっとも簡明で美しい結晶です。浜であそぶ子どもたちがその「小さな海」を守るという結末、何回読み返しても心をうたれずにはいられません」と激賞しています。
 現代的にいえば、「魚を小さなところへ閉じ込めたまでは残酷だ。エビやカニも入れるなんてもってのほかだ」と、動物愛護の立場から非難されるかもしれません。
 「子どもたちはすぐに飽きてしまって、「小さな海」は干上がったに違いない」という人もいるかもしれません。
 しかし、この作品の優れた点はそういった表面的なところにあるのではありません。
 「ぼく」(少年かもしれませんし大人かもしれません)の中にある「童心」が、ひるがおや浜の子どもたちの「童心」と読者の中にある「童心」とを確かに結びあわせる、作者の童話的資質(モティーフ、視点、文体などすべてをひっくるめた作品全体。私の拙い要約では伝えることができまないのが残念です)そのものにあるのです。
 この作品が世の中に出たちょうど同じころ、「さよなら未明 -日本近代童話の本質ー」(その記事を参照してください)で、「「現代児童文学」はこうした「童話」と決別しよう」と呼びかけた児童文学者の古田足日は、数十年後のインタビュー「幼年文学の現在をめぐって」(その記事を参照してください)の中で、この作品について「魂の救済」「「童話的資質」は、子ども、人間の深層に通ずる何かを持っている」と述べて、童話伝統の持っている内容・発想の価値を、特に幼年文学の分野において認めています。
 補足しますと、作者は、早大童話会で古田足日の先輩にあたるのですが、1953年の「少年文学宣言」では彼らに批判される側の立場(坪田譲治の門下生)でした。
 当時から、古田足日は、童話的資質を持っている書き手の「童話」は評価していましたが、作者のこの作品などもその念頭にあったかもしれません。
 「童話的資質」と言ってしまうと、それから先は思考停止で分析が進まないのですが、たくさんの童話作家や童話作品に出会っていると、確かにそうとしか言えないものを感じます。

 長年、児童文学の同人誌に参加していると、初心者の人がいかにも「童話」らしい作品を提出してくることがよくあります。
 「こういうのが一番厳しいんだけどなあ」と、つい思ってしまいます。
 なぜなら、こうした作品は、修練しても身につかない本人の「童話的資質」が問われるからです。



はまひるがおの小さな海 (日本の幼年童話 15)
クリエーター情報なし
岩崎書店














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国松俊英「おかしな金曜日」

2024-06-04 10:33:35 | 作品論

 1978年に書かれた家庭崩壊を描いた作品です。
 それまで児童文学でタブーとされていた問題(性・自殺・家出・離婚など)に取り組んだ先駆的な作品のひとつです。
 主人公の小学五年生の洋一の家では、父親が一年前に家出したきり帰ってこないので母子家庭になっていました。
 その頼りの母親もある金曜日に男と姿を消してしまい、洋一は小学一年生の弟の健二と二人だけで団地の家に取り残されてしまいます。
 洋一は、周囲には母親がいなくなったことは隠して、健二と二人で何とか助け合って暮らそうとします。
 その後、同じクラスの山田メガネ(ガリ勉なので敬遠していましたが、勉強のことで家で締め付けられて洋一の家にプチ家出してから、洋一たちと仲良くなりました)、隣の席のみさ子(両親や兄弟に誕生日を祝ってもらえる恵まれた家の子ですが、うすうす洋一たちの事に気がつき同情しています)の二人には、本当の事を打ち明けます。
 とうとうお金がなくなった時に、洋一は周囲の無関心で頼りにならない大人たち(担任の教師も含まれます)には最後まで頼らずに、健二と二人で家を出て、山田メガネが調べてくれた隣町の児童相談所に向かいます。
 駅まで見送りに来てくれた山田メガネとみさ子との別れのシーンは、過度に感傷的にならず淡々と描かれていますが、これから洋一たちを待ち受けているであろう厳しい現実を考えると、「どうか二人に幸あれ」と祈らざるを得ません。
 国松も同じ気持ちなのでしょう。
 最後の一行はこう書かれています。
「電車が走っていく西の空に、雲が切れた青い空がすこしだけ見えた。」
 また、その後の二人の事が心配であろう読者たちに配慮して、事前に児童相談所に勤める野鳥好きの親切そうな大沢という人物(野鳥の会の会員でもある国松自身の分身でしょう。このあたりにはエーリヒ・ケストナーの影響が感じられます)を事前に二人に出会わせています。
 この本の文庫版の解説を書いている児童文学者の砂田弘によると、1980年現在、片親だけの家庭が約八十万戸あり、そのうちの三分の二以上が離婚家庭だったそうです。
 また、養護施設で生活している約三万人の子どもの場合も、親に死なれた子はわずかに十人に一人だけだったとのことです。
 当時でも珍しくなかったこういった家庭を失った子どもたちを描いた日本の児童文学としては、この作品が初めてだったのです。
 砂田はこの作品の第一の魅力を、「深刻な問題を描いているにもかかわらず、明るさとユーモアとスリルに富んでいること」と述べていますが、まったく同感です。
 暗くなりがちな問題を、洋一と健二のバイタリティと、山田メガネとみさ子のやさしさを軸に、終始子どもの立場にたって明るく描かれています。
 そこには、国松の子どもたちに対する確固たる信頼が感じられ、こういった子どもたち(国松自身や大沢さんのような大人たちも含めて)の人間関係が、70年代はまだあったのだなと気づかされます。
 それから三十年以上がたった2013年の日本児童文学者協会賞の村中李衣の「チャーシューの月」(その記事を参照してください)は、養護施設に暮らす子どもたちを描いています。
 そこには、洋一と同じような境遇(さらに過酷になっているかもしれません)の子どもたちが、今もたくさん(いやさらに増えているでしょう)暮らしています。
 このような問題に真正面から取り組んだ作品を、児童文学者としてこれからも生みだしていかねばならないことを痛感しています。

 

おかしな金曜日 (偕成社文庫 (2080))
クリエーター情報なし
偕成社
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K.M.ペイトン「卒業の夏」

2024-06-02 16:02:48 | 作品論

 1970年にイギリスで出版されて、1972年に日本で翻訳が出た児童文学作品です。
 1973年に大学に入学してすぐに、児童文学研究会の先輩に進められて読んで、衝撃を受けた作品でした。
 今で言えばヤングアダルト物の範疇に入るのですが、児童文学研究会で賢治やケストナーの作品の研究をしようと思っていた私には、「こういう作品も児童文学なのだ]と目を開かされた思いでした。
 主人公のペン(ペニントン)は一応中学生なのですが、一年落第しているので彼の16歳(夏には17歳になります)の春休みと彼にとっては最終学期になる夏学期(イギリスでは6月までのようです)が描かれています。
 そのころの不良の象徴である長髪(日本でもそうでした)を肩まで伸ばして、酒やタバコは日常的にやり、古い漁船を操縦したり、父親の600CCのバイクでふっとばしたりするかなり豪快な不良ですが、根は友達思いで(親友のベイツは、ペンとは対象的に内気な引っ込み思案なタイプです)心優しいところもあります。
 曲がったことが嫌いなために生き方が下手なので、いつも高圧的で禁止されている体罰(むち打ちです)も平気でする担任教師や警察に睨まれています。
 私の持っている日本の本の表紙に描かれているペンは、長身やせギスで、いかにも日本の不良って感じですが、実際には体重が90キロ以上ある筋肉の塊のような体をしていて、スポーツ万能(中学のサッカーチームのキャプテンで、地区の水泳大会では400メートル自由形で優勝します)です(その点では、アメリカで出版された本の表紙(福武文庫版ではこちらが使われています)や挿絵では、忠実にマッチョなタイプに描かれています)。
 そして、ここが作品のミソなのですが、こんな野獣タイプのくせに、ピアノは天才的な腕前なのです(本人は自分の才能に無自覚ですが)。
 教師たちや警察や他の不良たちとのいざこざとともに、ベイツ(ふだんはダメですが、酒に酔うと天才的な歌手に変身します)との音楽活動やそれを通して出会った素敵な女の子(実際に付き合ってみるとそうでもないのですが)への憧れなども、しっかりと書き込まれています。
 ラストでは、ピアノコンクールで優勝して、音楽学校の教師に認められて進路が決まったおかげで、ほぼ確定的だった少年院行きを免れます(このあたりは、訳者があとがきで書いているようにデウス・エクス・マキナ的ですが)。
 なお、この本のオリジナルのタイトルは、PENNINGTON’S SEVENTEENTH SUMMERですが、私が持っているアメリカ版のタイトルは、PENNINGTON’S LAST TERMで、同じ本なのにややこしいです (アメリカや日本のタイトルの方が内容的にはあっていますが)。
 作者のペイトンは、フランバーズ屋敷シリーズでカーネギー賞やガーディアン賞を取ったばかりで、そのころのイギリスの児童文学界では最も注目を集めていた作家でした。
 この本にも、残念ながら翻訳されていませんが、続編が二冊あります。


 

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青木茂「三太花荻先生の野球」講談社版少年少女世界文学全集49現代日本童話集所収

2024-06-01 11:17:17 | 作品論

  戦後すぐに書かれ、一躍人気を博した「三太物語」の中の一作です。
 今で言うところのエンターテインメント作品のはしりのような連作短編で、ラジオ番組、映画、更にはテレビ番組にもなりました。
  私はかすかにしか記憶がないのですが、テレビ番組では、当時子役だった渡辺篤史が三太役をやり、相手役の女の子はジュディ・オングでした。
 毎回、冒頭に「おらあ、三太だ」というセリフが入るので、子どもの頃はそれがタイトルだと思っていました。
 三太物語は、村のわんぱく小僧(当時は元気のいい男の子をこう呼びました)三太とその友達の日常を生き生きと描いて、子ども読者には親近感を持たれました。
 三太の考え方や描き方にやや大人目線なのが感じられますが、言ってみれば、「とらちゃんの日記」(その記事を参照してください)の戦後版と言えなくもありません。
 戦後の民主主義の時代を象徴するように、「とらちゃんの日記」が男の子たちだけの世界だったのに対して、女の子たちも活躍します。
 この短編では、三太物語のもう一方の主役である若い女の先生、花荻先生が初めて登場します。
 若いきれいな女の先生の登場で、この作品のエンターテインメント性はぐっと上がりましたし、物怖じしないその溌剌とした姿は、戦後の新しい女性像を反映するものでした。
 壷井栄「二十四の瞳」の大石先生が戦前の若い女性の先生のシンボルだとしたら、花荻先生は戦後の若い女性の先生の代表でしょう。
 当時、花荻先生に憧れて、小学校の教師を目指す女の子が増えたと言われたのも、素直に納得できます。
 また、三太の語りや三太と花荻先生の関係は、後藤竜二の「天使で大地はいっぱいだ」のサブの語りやサブとキリコ先生の関係にも影響を与えたと思われます。
 この作品の舞台になったのは、神奈川県津久井郡津久井町(当時はまだ村だったようです。現在は相模原市緑区の一部になっています)で、現在も道志川沿いにこの物語にちなんで名前を付けたと思われる三太旅館があります。
 話は脱線しますが、現在私が住んでいるところとは隣町なので、二十年以上前になりますが、息子たちの入っていた少年野球チームで、バーベキューと水遊びをしに、その付近へ行ったことがあります。
 当時はまだ、道志川の大きな淵があったり、そこへ飛び込める高さ4、5メートルの岩があったりして、三太たちが遊んでいたころの名残りがありました。

 




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鳥野美知子「桜色の遊園地」いつも元気で自分の世界を持っている女の子所収

2023-12-31 09:30:31 | 作品論

 主人公の女の子は、春休みに、ママが働いている山の上遊園地に遊びに行きます。

 ひょんなことから、けがをしたママの代理で、ウサギの着ぐるみに入って、ヒーローショーに出演することになります。

 そこで、相手に気が付かれないうちに、憧れの男の子である「王子」と知り合いになります。

 小学校高学年の元気な女の子の様子が素直に描かれていて、好きな男の子に対する気持ちも自然に読み取れました。

 

 

 

 

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鳥野美知子「女正月」ふろむ第13号所収

2023-12-28 10:14:00 | 作品論

 雪国の冬景色を背景に、老女と彼女の亡き夫の教え子(知的障害があると思われます)との交流、そして不思議な居酒屋や雪女(外国人の若い女性の姿をしています)などとの関りが描かれています。

 著者得意の雪国(山形県と思われます)の風習や雪国の描写がふんだんに用いられ、幻想的な雰囲気を漂わせています。

 事実、この作品のもとになるものは、雪の町幻想文学賞で準長編賞に選ばれています。

 

 

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ばん ひろこ作 近藤薫美子絵 「たいへんなおひっこし」

2023-12-21 11:40:33 | 作品論

 幼稚園や保育園で購入できる「こどものくに」の一冊です。

 ありたちが巣から引っ越すことになり、その大変な様子が、絵に膨大なセリフが書かれていて、詳しく語られます。

 特に、ありたちが一番危険な奴としているあっくんという男の子との攻防は、なかなかスリルがあります。

 最後は、あっくんが落としたクッキーを手に入れて、めでたしめでたしです。

 幼い読者たちが興味を持てるような工夫が、全編になされています。

 

 

 

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安東みきえ 文、牧野千穂 絵「へそまがりの魔女」

2023-12-14 13:34:25 | 作品論

 呪うことしかゆるされない魔女と、道に迷った少女のふれあいを描いた絵本です。

 へそまがりで素直にやさしくできない魔女と、いっしょに暮らし始めた少女は、しだいに心を寄せ合うようになります。

 そして、やっと生まれた国王の世継ぎに、魔女はへそまがりの呪いをかける形で幸いをもたらす贈り物をします。

そのおかげで、それまで乱れていた国には平和が訪れるのでした。

作家の巧妙な文章と、画家の魔女以外を動物で表した卓越したアイデアで、しゃれた絵本に仕上がっています。

 

 

 

 

 

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岡沢ゆみ「さよならといえないぼく」百物語5畏怖の恐怖所収

2023-12-12 08:13:47 | 作品論

怖い物語を集めた百物語の第85話です。

急逝したおじいちゃんの死を受け入れられない主人公は、おじいちゃんの死に顔や様子をなかなか見ることができません。

生前のおじちゃんとの思い出がいろいろと思い出されます。

なかなかさよならを言えない主人公のために、おじいちゃんの幽霊が表れてお別れを告げてくれます。

怖いお話というよりは、しみじみとした趣のある短編です。

 

 

 

 

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庄野英二「日光魚止小屋」ファンタジー童話傑作選1所収

2023-06-27 08:55:40 | 作品論

 「誰も知らない小さな国」で、現代児童文学(定義などは他の記事を参照してください)のスタートを飾ったと言われている佐藤さとる(創作だけでなく、「ファンタジーの世界」のような啓蒙的な専門書の著作もあります)が編集したアンソロジーの巻頭作です。
 この作品の初出は、1970年6月に出版された作者の短編集「ユングフラウの月」です。
 主人公(作者の分身と思われます)と狐の親子との交流を、彼の山小屋(別荘)を舞台にして描いています。
 作者自身が好きなアウトドアライフと動物ファンタジーを融合させた、作者独自のおしゃれな短編になっています。
 野外調理用のスウェーデン鍋や固形スープなどともに、がんもどきを登場させるなど、和洋折衷のユニークな作品世界を展開しています。
 編者は、巻末の解説でこの作品について、
「こんなタイプの作品を書く作家は、おそらくこの人をおいてほかにいないのではないかと思う。澄んだシロホンの音色のようにハイカラな作風だが、その底には江戸以来の日本人のユーモアが漂っていて、思わずひきこまれてしまう」
と、書いていますが、全く同感です。

 

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高村有「Sビル3号室」百物語3嘆きの恐怖所収

2023-06-17 09:19:09 | 作品論

 怖いお話のアンソロジーに入っている短編です。

 入居した人々が次々と行方不明になる部屋の謎に迫ります。

 巧妙に伏線が張られていて、読者の恐怖をそそります。

 

 

 

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最上一平「ようかい村のようかいばあちゃん」

2023-01-14 11:18:26 | 作品論

 主人公の女の子と、そのひいばあちゃんであるようかいばあちゃんとの交流を描いたシリーズの三作目です(他の本については、それぞれの記事を参照してください)。

 今回は、雪に閉ざされたようかい村(ようかいばあちゃんが一人で暮らしている山奥の集落)での暮らしの様子が描かれています。

 いろりや雪の坂道などで、三世代を超えて交流する二人の様子が楽しく紹介されています。

 こうした雪国での暮らしや、昔の暮らしについて、主人公だけでなく読者たちも、興味津々にしてくれます。

 

 

 

 

 

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丘修三「ぼくのお姉さん」

2022-10-29 12:39:12 | 作品論

 偶然、この本が2015年の神奈川県の読書感想文コンクールの課題図書になったことを知り、再読したくなりました。
 こうしたいろいろな読書感想文の課題図書は、純文学的な「現代児童文学」をたくさん売るほとんど唯一の方法です。
 どういういきさつで、1986年に初版が出たこの本が30年近くたった2015年の神奈川県の課題図書になったかは知りませんが、今でも苦労しながら(時には自費出版で)「現代児童文学」の創作を続けていらっしゃる作者のために素直に喜びたいと思いました。
 この本の冒頭には、以下のような「はじめに」という文章があります。
「人生は、たのしいもの。
 けれども、くるしいことや、
 かなしいことや、心をなやますことも
 また、たくさんあります。
 人は、そのようなさまざまなことを
 体験しながら、ほんとうの<人間>
 になるのだと思います。
 ひとの心のいたみがわかる
 <人間>に。」
 30年の間に、子どもたちが読書に求めるものは大きく変化し、たんなる一時の暇つぶし的な娯楽にすぎない場合が多くなっています(大人たちも同様ですが)。
 しかし、時には本書に載っているような作品群を読むことは、今の時代だからこそ大切なことなのではないでしょうか。

ぼくのお姉さん (偕成社の創作)
クリエーター情報なし
偕成社
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