現代児童文学

国内外の現代児童文学史や現代児童文学論についての考察や論文及び作品論や創作や参考文献を、できれば毎日記載します。

夏の迷路

2020-12-24 15:45:29 | 作品

 隆志は宇宙船を旋回させると、敵の背後に回り込んだ。
 ババババッ。
 すかさずレーザー砲をたたきこむ。
 ズガガアーン。
 敵のロケットは、大爆発を起こした。
「これで、三機撃破したな」
 隆志は爆発に巻き込まれないように、愛機を急降下させながらつぶやいた。
(次のターゲットは?)
 隆志は愛機を加速させながら、あたりに敵がいないか、注意を払った。
(いた)
 前方に、敵の宇宙船を発見した。
 隆志は、全速力で追撃を開始した。
 
 真夏の昼下がり。あたりには誰もいない。今日も雲ひとつないかんかん照りで、気温は軽く三十度を超えている。隆志は、団地の中を一人で自転車を乗りまわしていた。いつの間にか、隆志の頭の中では、SFX映画やビデオゲームの中で、宇宙船を急旋回して敵と戦っている自分の姿が浮かんできていた。
 リリリリン。
 ベルを押すのは、レーザー砲の発射のつもりだ。
 ガチャガチャ
変則ギアを切り換えて、立ちこぎしてスピードアップしていく。
「グイーン」
これを、宇宙船がワープ航法をするのに見立てていた。
 団地内の道路は、ぐねぐねと入りくんでいる。自動車が通り抜けられないように、道路は行き止まりになっていたり、わざと遠回りしたりするように作られているからだ。
『住む人に優しい街』
 それが、この団地の設計コンセプトだった。おかげで、住んでいる人以外の車はめったに道路を通らないので、自転車を走らせるにはもってこいだった。いつか見た新規分譲用パンフレットの航空写真には、団地内の道路はうねうねとまるでパズルか迷路のようになっていた。
 隆志の愛車は、先月の誕生日に買ってもらったばかりの24インチのクロスバイク。五年生としては小柄な隆志には、サドルをいっぱいに下げても、少しつま先立ちにならなければ地面に足が届かない。隆志は、おかあさんが作っておいてくれた一人だけの昼食を食べ終えた後で、いつも自転車に乗りに来ていた。
 今度は、隆志は自転車での反転遊びに熱中しはじめた。幅の広い道路では、スピードをあげて大きな半円を豪快に描いてから、逆方向へそのままのスピードで進んでいく。もっと細い道路ではバランスを崩さないように注意を払って、道幅ぎりぎりに半円を描いていく。
足をつかずにうまく反転できた時には、
(やったあ!)
という達成感がこみ上げてきた。

 グオーン。
敵の巨大宇宙戦艦が迫ってくる。不意を突かれた隆志の宇宙船は、もう少しで宇宙戦艦と激突してしまうところだった。
「転回!」
 隆志は大声で叫ぶと、愛機をすばやく右へすべらせて敵から逃れた。
 ブッブーッ。
 大きくクラクションを鳴らして、隆志の自転車をかすめるようにして、宅配便のトラックが通っていった。
(あぶない、あぶない)
 隆志は、道路の脇に自転車を傾けて止めた。空想に夢中になりすぎて、自動車に気づくのが遅れてしまった。
 トラックは、排気ガスを吐き出しながら、ゆっくりと遠ざかっていく。
(行くぞ)
 隆志は、全速力でトラックを追いかけ始めた。
「ワープ!」
 変速機を操作しながら、大声で叫んだ。頭の中では、あっという間にトラックに追いついているところだ。
 でも、実際には、ますます引き離されていた。

夏休みに入って、早くも十日が過ぎようとしていた。明後日からはもう八月になってしまう。その間、隆志はいつも自転車を乗り回していた。
 隆志のクラスの友だちも、海や山や両親の実家などへ行っている人たちが多くなっている。だから、ここのところ、一人で遊ばなければならないことが増えていた。
 隆志の家は、おかあさんと二人暮しだった。両親は、隆志が幼いころに離婚している。隆志には、父親の記憶はほとんどなかった。
 おかあさんは、中学校の美術の教師をして、二人の暮らしを支えていた。
教師という仕事は、はたから見ているのとは違って、夏休みに入ってからも、やれ研修だ、やれ部活だと、なかなか忙しい。
おかあさんがまとまった休みが取れるのは、八月に入ってからだ。今年は、隆志と二人で、一週間ほど、八ヶ岳のリゾートホテルへ行くことになっている。
 親ゆずりで絵を描くのが好きな隆志は、写生の道具を持っていくつもりだった。
 でも、おかあさんの方は、のんびりと読書をするのを、楽しみにしているようだ。おかあさんが絵筆を握っているところは、もう何年も見たことがない。
 おかあさんがかつては画家を志していたと、祖父母から聞いたことがある。そんな夢は、日々の暮らしの中で、とうに忘れ去られてしまったのかもしれない。

 食卓にひろげた大きな画用紙いっぱいに、隆志はひまわりの絵を描いている。
 庭の花壇に一本だけ植えられたひまわりは、手入れが良かったせいか、とっくに隆志より背が高くなり、大きな花を咲かせていた。
 はじめは水彩絵の具で普通に写生をしてみたが、どうももうひとつ面白くない。外側の黄色い花びらはうまく描けるのだが、内側の蜜蜂の巣のような小さな花のかたまりの部分がうまく感じがでないのだ。
 次に、クレヨンを使って、スーラのような点描で描いてみた。
「ふーっ」
 この絵も気にいらなくて、大きなため息をついた。花のかたまりの部分の感じは少し出てきたが、全体に弱々しく、ひまわりの持つたくましい生命力が感じられない。
 隆志はクーラーを止めると、庭へのガラス戸を大きく開け放った。
 猛烈な暑さが、ドドッと部屋の中へ押し寄せてくる。
 でも、涼しい所でガラス越しに見ていたひまわりが、ぐっと自分に親しいものに感じられるようになってきた。
 隆志はさっき使った水彩絵の具のパレットをきれいに洗うと、その上に赤と黄色の絵の具をたっぷりと絞り出した。
 一番細い絵筆を取り出して、赤と黄色の絵の具を混ぜ合わせて、内側の花のかたまりを描き出した。
 混ぜ具合を変えながら、細く小さな円弧をたくさんたくさん描き込んでいく。
 レモンイエロー、だいだい、朱色、赤、…。
 線が重なって、予想もしなかったような様々な色彩が生まれるのが面白くて、いつの間にか隆志は夢中になっていた。

「似ているわ」
 おかあさんがポツリといった。その日の夕方、隆志が誇らしげに三枚目のひまわりの絵を見せた時だった。細かく描き込んだ様々な色の鋭い円弧が、ひまわりの生命力を表現していて、我ながらいいできだった。
「えっ、何に似てるって?」
 隆志がたずねると、
「…」
 おかあさんは、しばらくの間ためらっていた。
 でも、もう一度ひまわりの絵をじっと見つめた後で答えた。
「あなたのおとうさんの絵によ」
「ふーん」
 そう言われても、父親の絵など一度も見たことのない隆志には、まるでピンとこなかった。たしかに、父親もおかあさんと同じように、絵を描いていたことは知っていた。
 でも、家には、父親の絵は一枚も残っていなかった。
「どんな絵を描いていたの?」
 隆志がたずねても、
「そうねえ、遠い昔のことだから、…」
と、それ以上は話したがらなかった。

 隆志の両親は、彼がニ才の時に離婚している。父親は、その直後にアメリカに渡り、ほとんど連絡がないという。
 父方の祖父母はそれ以前に亡くなっていて、地方に住む親戚たちともほとんど付き合いがなかった。そのため、隆志にはほとんど父親の記憶が残っていなかった。
 それに、新生活への再出発のためか、おかあさんは父親の写真はおろか、身の回りの品物はすべて始末してしまったようだ。
 野沢吉雄。
 名前だけが、唯一のはっきりとした情報だった。
 それも、物心ついたころからずっと、おかあさんの旧姓であった「山本」を名乗っている隆志には、まったく親しみの感じられないものにすぎなかった。
 ただ、父親は画家になる夢を忘れられずにアメリカに行ったということだけは、いつか誰かから聞いたことがあった。
 はたして、その夢を果たしたのかどうかも、隆志は知らなかった。
 ただ、隆志の絵を描くことに対する情熱は、もしかすると、おかあさんではなく、父親から受け継いだものだったかもしれないと思うことがあった。美術教師でありながら、絵筆を握ろうとしないおかあさんからは、絵を描くことの情熱はまるで感じられなかった。

 その晩、自分のベッドに入ってから、隆志は父親の顔を思い浮かべようとしていた。
 なかなか思い浮かばない。それでも、心の奥底に沈んでいる父親の記憶を探ってみる。
 わずかに残る父親の記憶。
 それはあまり心地よいものではなかった。
 食卓でどなっている若い男。感情を爆発させて、声を震わせながらわめいている。
 しかし、どんな顔をしているのか、すこしも具体的なイメージが浮かんでこなかった。まるで目鼻のない、のっぺらぼうのようだ。
 テーブルを挟んで泣いている若い女。これははっきりしている。
 おかあさんだ。今よりもずっと若いけれど、顔もはっきり見えた。特徴的な大きな目に、いっぱい涙をためている。
 でも、時々、やはり大声で何かを言い返していた。すると、ますますのっぺらぼうの若い男は、いきり立ってどなり出す。
 奇妙なことに、そのそばで負けじと大声で泣くことによって、なんとか二人の言い争いを止めさせようとしている、幼い日の自分の姿までが見えてくるのだ。
 青いサロペットに、黄色い縁取りの小さなスタイをつけている。まるで現在の隆志が、窓からこっそりと三人の様子をのぞいているようだった。
 隆志は、もう一度父親の顔を想像しようとしてみたけれど、とうとう最後まで思い浮かばなかった。

 数日後、いよいよ明日から、母親が休みになる日の朝だった。
「あああっ」
 洗面所で顔を洗っていた隆志は、大きな泣き声がするのに驚いて、急いでダイニングキッチンへ戻った。
 おかあさんだった。すでに出勤のための着替えをすませていたおかあさんが、テーブルに両手をついて立ったまま泣いていたのだ。
「どうしたの?」
 隆志がのぞきこむと、おかあさんはだまってテーブルの上の新聞を指さした。そこには、小さな死亡記事がのっていた。
『新進画家、無念の早逝。
 三十一日、ニューヨーク在住の新進画家ダン野沢氏(本名・野沢吉雄さん、三十三才)が急死。死因などくわしいことは不明。
 野沢氏は、一昨年のニューヨーク国際美術展でグランプリを受賞し、いちやく注目を集めた新進の画家。その後も、ニューヨークとパリで個展を開くなど、精力的に活動を続けていた。これからの活躍がおおいに期待されていただけに、その早すぎる死を惜しむ声があがっている。…』
 記事の右上には、三十過ぎの見知らぬ男の笑顔が写っていた。
(これが、自分の父親か)
 隆志は食い入るようにその写真を見つめた。
 でも、悲しみも何も、特別な感情はわいてこなかった。

 ようやく泣きやんだおかあさんは、いすに腰をおろすと、父親のことを話し出した。それは、隆志にむかってというよりは、自分自身で思い返すためのものだったかもしれない。
 二人が美術大学で同級生だったこと。学生結婚したこと。卒業後も、父親の方は就職せずに絵に専念していたこと。隆志が生まれて、生活のためにやむなくおかあさんと同じ美術の教師になったこと。仕事に追われて絵をかく時間がなく、いつもいらいらしていたこと。
 隆志にとっては、初めて聞く話ばかりだった。
「普段は優しい人だったのよ。でも、感受性が鋭すぎたのね。どうしても、創作と実生活を両立していけなかったのよ」
「…」
「それに、二人とも若過ぎたのかもしれない。二十二才で結婚して、二十五才で別れたんだから」
 そういいながら、おかあさんは隆志にけんめいに笑顔を見せようとした。
 でも、うまく笑えずに、少しゆがんだ泣き笑いになってしまった。
「あらあら、いけない。完全に遅刻だわ」
 おかあさんは、ようやくいすから立ち上がった。
 洗面所で手早く化粧を直して戻ってくると、
「じゃあ、行ってくるからね」
と、おかあさんはまるで何事もなかったかのようにいった。
 でも、泣いたあとをごまかすためか、口紅もアイメイクも、いつもより濃くくっきりとさせていた。
 おかあさんがガチャリと音をたてて開けたドアの外は、すでに今日も猛烈な暑さだった。

 その日の昼ごはんの時、何気なくテレビをつけたら、思いがけない画面にぶつかってしまった。
『ニューヨーク在住の新進画家、孤独な死。
 死因は麻薬によるものか!?     』
 隆志は、スパゲティを食べていたフォークの動きを止めて、画面に見入った。
 その番組は、主婦向けのワイドショーだった。もちろんこのニュースが、その日のメインの話題なのではない。現地の映像も、「ダン野沢」の作品の紹介もなく、画面の写真も、新聞に載っていたのと同じ物を拡大しただけだった。
 二、三分の短いレポートの後で、司会者は、
「いくら絵の才能があっても、麻薬に溺れるようでは性格に問題があったのだろう」
と、簡単に締めくくって、次の話題に移っていった。
 隆志は、テレビの前に呆然として立ち尽くしていた。
 レポーターの説明の中に、こんな部分があったからだ。
「ダン野沢は、八年前に『妻と幼い息子を捨てて』、単身渡米し、…」
(おかあさんとぼくのことだ)
 その瞬間、隆志は思わずいすから立ちあがった。そして、初めて涙がこぼれてきた。
 でも、これは悲しみの涙ではない、当事者にとっては残酷な言い方を平気でする、軽薄なレポーターに対する悔し涙だった。
 番組では明るい話題に移ったらしく、お笑い芸人のジョークに、スタジオ内に並んですわらせられたおばさんたちが、陽気な笑い声をあげている。
(おかあさんが見なくてよかった)
 隆志は心からそう思っていた。

 隆志は、さっきの朝刊を、マガジンラックからテーブルの上に持ってきた。そして、「ダン野沢」の死亡記事の部分を、はさみでていねいに切り抜いた。
 「ダン野沢」は、隆志のてのひらの中でぼんやりと笑っている。その気弱そうな笑顔は、どうしても隆志の頭の中にある声を震わせて怒っている若い男のイメージと、結びつかなかった。
(どんな人だったんだろう?)
 隆志には、ますますわからなくなってしまっていた。
 このおとなしそうな人が、あの怒鳴ってばかりいた若い男だとは、どうしても思えない。
 おかあさんが言っていたように、いつもは優しい人だったのだろうか。
 もう一度、死亡記事を読み返してみた。
『…。なお、ダン野沢氏の作品は、その多くは海外の美術館にあるが、国内ではM区立美術館などに所蔵されている』
(美術館へ行ってみよう)
と、隆志は思った。
 「ダン野沢」の絵を見れば、何かがわかるかもしれない。

 ネットで調べたM区立美術館は、山の手線M駅から歩いて十分ほどの区民センターの中にある。
 あれからすぐに家を出た隆志は、電車を乗り継いでやってきていた。
 M駅からの長い坂道をのぼっていくと、前の方に黒い服を着た人たちが集まっているのが見えてきた。
(お葬式でもあるのかな)
 そう思いながら近づいてみると、そこは「曼陀羅(まんだら)」という名のライブハウスだった。
 黒いのは喪服なんかではなく、ただの黒い衣装だった。女の子たちが、出演するバンドを待っているようなのだった。
(「追っかけ」っていうやつなのかな?)
と、隆志は思った。
 この炎天下に、どういうわけかみんな黒ずくめの服を着ている。
 地下のライブハウスからは、エレキギターとドラムの音が響いてひびいていた。
 二十人近くのカラスのような女の子たちのそばを通ったとき、洋服のそでがレースでできているのに気がついた。
 黒く透き通る袖をとおして見えた女の子たちの腕は、ドキッとするほど青白かった。
 川の向こうに、区民センターの巨大な建物が見えてきた。
 水の少ない泥色に濁った川にかかった橋を渡ったとき、生ごみの腐ったような嫌な臭いが、隆志の鼻を強くうった。

区民センターは、思っていたよりもずっと大きな施設で、美術館だけでなく図書館や公民館、体育館や温水プールも同じ建物に入っていた。そのまわりも、広い公園になっている。
 白い大きな帽子をかぶったおばさんたちがドタドタと走りまわっているテニスコートを抜けると、目の前に大きな屋外プールが広がった。
 水の中もプールサイドも、驚くほど混み合っていた。
 プールの中は、まるで満員のお風呂のようで、とても泳ぐことなどできそうもない。そのまわりも、足の踏み場もないほどシートやタオルが広げられ、カラフルな水着をつけた人たちが日光浴をしている。
 隆志は圧倒されたような気分で、足早にプールのそばを通り抜けた。

 美術館の入り口は、たくさんの人々で混み合うプールや図書館とは対照的に、ひっそりとしていた。特別展がない常設展示だけのときは、あまり入場者がいないのかもしれない。
「ダン野沢の絵はどこですか?」
 隆志は、受け付けにいた眼鏡をかけた若い女の人にたずねた。
「えっ。ああ、ダン野沢なら、つきあたりを左に行った部屋の奥よ。ミニコーナーになっていて、天井から名前を書いたプレートが下がっているから、すぐわかるわ」
 女の人は、まだ「ダン野沢」が死んだことを知らないらしく、特に驚いた様子もなく答えてくれた。どうやら、テレビなども取材に来ていないようだ。

 隆志は、他の展示には目もくれずに、まっすぐ「ダン野沢」のミニコーナーに向かった。
 夏休みにもかかわらす、館内も観客はまばらだった。ミニコーナーにも誰もいないので、隆志はゆっくりと絵を見ることができた。
 思いがけずに、「ダン野沢」の絵は、花や風景を描いた写実的なものではなく、純粋にイメージだけを伝える抽象画だった。
 「イマージュⅢ」と名づけられた一枚目の大きな絵は、たてよこななめの鋭い直線で構成されていた。
 製作年が、横に書いてある。
(ぼくが小学校へ入学した年だな)
と、隆志は思った。
 二枚目の絵は、丸でも四角でもない奇妙にゆがんださまざまな色のかたまりを、大きなカンバスいっぱいに散らした作品だった。
 でも、それぞれのかたまりは、ホアン・ミロのようなにじんだものではなく、くっきりとした黒い線で縁取られている。
 この製作年は、
(ぼくが三年生のときだな)
そのころ隆志は、小さいころ罹っていた自家中毒が再発し、学校を二ヶ月も休んで入院していた。仕事と看病に追われて、おかあさんもげっそりやつれてしまっていた。

 三枚目の絵を見たとき、隆志のひまわりの絵を見て「おとうさんの絵に似ている」といったおかあさんの言葉が、頭の中に蘇った。
 そこには、ひまわりの絵で隆志が表現した世界が、より拡大され、より純粋に高められた形で存在していた。
 赤や黄色系統の色だけでなく、金や銀、青や紫といったさまざまな色彩が、鋭くとぎすまされた無数の円弧で描き込まれている。
 そしてひとつひとつの円弧が複雑に絡み合い、さらにさまざまな色彩を生み出していた。
 こうして見つめていると、色の渦の中に吸い込まれていきそうな気にさえなってくる。
 隆志は、作品とそれを生み出した「ダン野沢」の才能に圧倒されて、しばらくの間、絵の前から動けなくなってしまった。
「ダン野沢」の絵は、もう三枚あった。
 全部で六枚。ミニコーナーという名にふさわしい、本当にささやかなコレクションだった。
 その全部を見終えると、隆志は休憩コーナーにあった押しボタン式のウォータークーラーで、よく冷えた水を飲んだ。
 そして、かばんからあの新聞の切り抜きを取り出してみた。
 「ダン野沢」は、不鮮明な写真の中で、あいかわらず頼りなげに笑っている。
 隆志は切り抜きを手にしたまま、もう一度あの色の渦のような絵の前に立った。
 奔放に渦巻く色彩の迷路の前に、切り抜きの「ダン野沢」の写真を重ね合わせたとき、隆志は初めて「おとうさん」に出会えたような気がしていた。

       

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選手コース

2020-12-22 15:02:57 | 作品

 ドルフィンスイミングクラブの進級記録会も、最後の一級のテストになっていた。
「ラスト50」
 プールサイドから、杉沢コーチの声が飛ぶ。
 雄太は、個人メドレー四種目目のクロールを、全力で泳ぎだした。
 25メートルを勢いよく泳いで、クイックターン。
 数回力強いドルフィンキックをしてから、さらにラストスパートをかける。
 両腕を思い切りかくたびに、大きく水しぶきがとぶ。疲れてフォームが乱れてきた証拠だ。
 それでも、ゴールを目指して懸命に泳いだ。

 プールの上の階にある更衣室は、進級記録会を終えたスクール生たちで混み合っていた。
 下のプールでは、引き続き選手コースの人たちの月例記録会が行われている。
「一級よ」
 張り紙を持って入ってきた女性コーチが、みんなに声をかけた。
 雄太たちは、着替えを途中でやめて掲示板にかけよった。
「よっしゃっ!」
 雄太は小さくガッツポーズをした。
 張り出された合格者の一番上に、雄太の名前と二百メートル個人メドレーのタイムが印字されていた。
 今回もトップ合格だった。
 これで次のレッスンからは、スクールで一番上の一級になる。
 ドルフィンスイミングクラブにはこれより上の級はないので、次のレッスンからは、バタフライ、背泳ぎ、平泳ぎ、クロールのそれぞれのタイムを縮めたり、フォームを矯正したりするしかない。
 今まで上のクラスへ進級することだけを目標にしてがんばってきたので、雄太はなんだか少し拍子抜けがする思いだった。
 「山下」
 更衣室を出ると、杉沢コーチに声をかけられた。いかにも水泳選手って感じの逆三角形の身体をした、大学の水泳部の現役選手だ。
「はい」
「ここのところ、タイムが上がっているな」
 杉沢コーチは、雄太の記録票を見ながら言った。
 雄太が立ち止って黙っていると、
「どうだろ。選手コースのこと考えてみてくれないか。おまえなら、小学生のうちに全国レベルになるのも夢じゃないんだけどな」
 雄太が無言でうなずくと、
「一度、ご両親と相談してみてくれ」
 杉沢コーチは、選手コースのパンフレットを雄太に押し付けた。
「一級です」
 受け付けのおばさんに声をかけると、
「おめでとう」
と、金色のイルカのバッジを渡してくれた。
 雄太のバッグには、色とりどりのイルカのバッジがもう13個もついている。これが最後の14個目のバッジだった。

「おとうさん、これ」
 夕食の時に、雄太は選手コースのパンフレットを差し出した。いつもは会社からの帰りが遅いのでいないけれど、今日は日曜日なので夕食はみんなと一緒だった。
「なんだい?」
 とうさんはビールのグラスをテーブルに置いて、パンフレットをひろげた。
 そこには、選手コースのスケジュールや費用、そして、一流選手になった先輩たちの体験談も紹介されていた。
 選手コースは一般のスクールと違って格段に練習時間が多いけれど、月謝は普通のスクールと比べてもそれほど高くなかった。かあさんによると、好成績を上げればスクール全体の宣伝になるからじゃないかとのことだった。
「今日一級に合格したんで、選手コースに移らないかっていうんだ」
「ふーん」
 おとうさんは、パンフレットをじっくり読んでいる。
「今回もトップ合格だったので、コーチたちも期待しているのよ」
 進級記録会を見に来ていたかあさんが、横から口を挟んだ。今日の雄太のレースも、いつものようにガラス張りの二階席から見ていた。
 とうさんは、日曜日は平日の仕事の疲れを取るためにいつも昼近くまで寝ているので、一緒には来ていなかった。
「うーん、ゆうちゃんがやりたいんならいいと思うけど、ヤングリーブスの方はどうするんだい?」
 とうさんはパンフレットから目を離すと、雄太に言った。
 ヤングリーブスといわれて、雄太はドキンとした。
 雄太は、スイミングだけでなく、少年野球チームにも入っていたのだ。
 まだ五年生ながら、打順は三番で守備はサード。チームの中心選手だった。
 選手コースになると、週に三回も正式な練習がある。さらに、将来一流選手を目指すなら、それ以外の日も自主練をしなければならない。
 ドルフィンスイミングクラブのプールには、一番端に選手専用レーンがあって、選手コースの人たちはいつでも自由に練習できるようになっている。
 そして、スイミングクラブがメインテナンスのために休みの木曜日も、ほとんどの選手が市営プールで練習しているそうだ。
 週末も記録会や大会があって、一年中休みがないといってもいいくらいだった。とても、少年野球との掛け持ちはできそうにない。
 雄太には記憶がないけれど、スイミングにはおかあさんと一緒のベビークラスからずっと通っている。
 おかあさんによると、雄太は初めからぜんぜん水を怖がらなかったのだそうだ。もしかすると、生まれつき水泳に適性があったのかもしれない。
 そのあとの 幼稚園前のリトルのクラスは楽しかったことだけ覚えている。
 リトルでは、水を怖がってプールの中ではいつもコーチにおぶさっている子もいたし、おかあさんを捜してずっとプールサイドで泣いている子もいた。
 そんな中で、雄太はいつも大はしゃぎだった。
 両腕に小さな浮き輪を、腰にはウレタンのヘルパーをつけているから、泳げなくても水に沈む心配はぜんぜんない。いつも水の中で大暴れして、コーチに怒られてばかりだった。
 そして、幼稚園からは正式にスクールに入って水泳を習い始めた。
「どうしようかなあ」
 雄太は、自分のベッドに寝転がりながら、選手コースのパンフレットをながめていた。
 選手コースに入って、まずは地域の小学生の大会にでる。それから、全国大会だ。中学生になれば、学校別の大会もある。優秀な選手は、中学生の頃から大人の大会にもでる人たちもいる。
 やがては日本選手権だ。そして、オリンピックへ。
 雄太の夢はどんどん広がっていった。

 一週間後、雄太はとうとう選手コースに入ることを決意した。
 みんなでやる少年野球も魅力だったけれど、水泳でどこまで上へ行けるか挑戦したい気持ちの方が強かった。
 次の練習の時に、雄太はおかあさんについてきてもらって、選手コースへの変更手続きをした。
 ドルフィンスイミングクラブの所長の渡辺さんも、受け付けまでわざわざ出てきて、雄太を激励してくれた。
「山下くんは有望ですよ。特に平泳ぎがいい。ブッとすると、北島康介みたいになれるかもしれない」
 スイミングスクールのみんなは、雄太の選手コース入りにはびっくりしていたけれど、
「じゃあ、ぼくも」
と、一緒に選手コースに移ろうとする者はいなかった。

 翌日、雄太は今度もおかあさんと一緒に、ヤングリーブスへ退部届を出しに行った。
 チームの松井監督は残念そうだったけれど、
「じゃあ、スイミングで頑張って、いつか金メダルを取ってくれよな」
と、最後には励ましてくれた。
 もしかすると、野球の方は水泳よりは才能がないと思われていたのかもしれない。
 監督はあっさりとあきらめてくれたけれど、チームの仲間、特に同じ五年生たちは将来の主力メンバーを失ってがっかりしたようだった。
「ゆうちゃん、やめちゃうの。来年の県大会出場は絶望だあ」
 雄太と一緒に五年からレギュラーをやっている慶介は、そういって残念がっていた。

 選手コースの練習は、予想通りにきつかった。
 一応四種目とも練習は続けていたが、特に期待されている平泳ぎには特訓が待ち受けていた。
 普通に何本も泳ぐだけでなく、足にヘルパーを挟んで手だけで泳ぐ練習がきつかった。疲れてくると、上体が十分に浮き上がらずにたくさん水を飲んでしまった。
 コーチによると、野球やサッカーで鍛えていた下半身に比べて雄太は上半身が弱いので、平泳ぎのカキやクロールのプルを集中的に泳いで上半身を強化するとのことだった。まだ、小学生なので、マシンを使っての筋トレなどはできないので、水中で強化しようというのだった。
 毎日、毎日、黙々とプールで泳いでいると、雄太は少年野球チームのことが次第に懐かしく思い出されるようになった。
 選手コースにも小学生の仲間はいたけれど、水泳は基本的には個人競技なので、チームメイトというよりはライバルという感じの方が強かった。
 それほど強くなかったけれど、和気あいあいと練習していたヤングリーブスの仲間たちが恋しかった。
 そして、途中でチームを辞めてしまったことが後悔された。
 小学生の間は、いやせめて六年生の夏の県大会が終わるまでは、野球と両立させたままでもよかったのかもしれない。

月末の進級記録会の時に、選手コースの月例記録会も行われていた。
 雄太は、今回は二百メートル個人メドレーでなく、百メートル平泳ぎに出場した。
 二階席には、いつものかあさんだけでなく、今日はとうさんもやってきていた。ガラス越しに、ビデオカメラをこちらに向けている。選手コースになって初めての記録会なので、とうさんも期待しているのかもしれない。
  雄太は最下位でゴールした。タイムも練習の時のベストから5秒以上も遅かった。50メートルを過ぎてから、手のカキと足のキックがバラバラになってしまったようだ。スクールの進級記録会のレースの時にはもっとのびのびと泳げたのに、今日はすっかり緊張してしまっていた。
(よし、明日からもっと練習しよう)
 雄太はそう思っていた。
記録会での失敗が、かえって雄太の負けず嫌いな気持ちをむくむくと起させたようだ。
 もう少年野球には未練はなかった。自分が水泳でどこまでいけるかがんばってみようと思っていた。

    

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翌朝のハチ

2020-11-24 15:37:05 | 作品

「へい。パス、パス」
 浩二からのタイミングのよいパスをうけると、良平は相手のディフェンスをかわして、ジャンプシュートした。
 ザンッ。
 気もちのいい音をたてて、ボールはゴールネットにすいこまれた。
「ナイスシュー!」
 両手をあげて喜んでいる浩二のてのひらに、バチンとハイタッチ。
 ここのところ放課後に、良平たちは3オン3(ひとつのゴールだけを使って、三人対三人でやるバスケットボールのゲーム)をやっている。
 といっても、本物のコートがあるわけではない。バスケがブームだったはるか昔に、当時の高校生たちが公園の街灯にゴールをとりつけたのだった。ネットなんかとうになくなっていたが、リングだけはしっかり残っていた。そこに、みんなで金を出し合ってスポーツ用品店で買ってきたネットを取り付けると、新品同様のゴールが出来上がった。
でも、良平たちがいつもやっている小学生のミニバスケットよりも、ゴールの位置が高いので、なかなかシュートがきまらない。それにバックボードがないので、リングに直接入れる、いわゆるスプラッシュシュート(ボールが入ったはずみに、ネットが水しぶきのように跳ね返るのでそう呼ばれている)しか入らなかった。
「ちぇっ、8対12か」
 十メートルぐらいはなれた所から、こんどは相手チームの攻撃開始だ。
「良平、そっちそっち」
 浩二の指示で、良平は大きく両手をひろげて、相手のシュートをふせぎにいった。たくみに相手に体を寄せて、しだいに外側へおいこんでいく。
 苦しまぎれにはなったシュートが、リングにあたってはずれ、浩二がジャンプしてつかんだ。
「よしっ、こっちボールね」
 3オン3では、守備側がボールをうばうと攻守交代になる。
「白井くーん。がんばってえ」
 公園の向こう側で、バドミントンをやっていた五、六人の女の子たちが、いっせいに声をそろえて浩二に声援をおくった。
「おおっ、まかしとけって」
 両手でVサインをして、浩二は攻撃開始の位置へもどっていく。
「良ちゃんも、がんばってえ」
 女の子たちの中から、わざわざ前に出てきて、良平にも声援をおくった子がいた。
美津代だ。バドミントンのラケットを大きく振っている。
 でも、良平は浩二とは対照的に、てれくさそうに他の子のかげにかくれてしまった。
「ヒュー、ヒュー」
 浩二が、からかうように口笛をふいた。
(ちぇっ、美津代のやつったら)
 良平と美津代は、幼稚園以来の幼なじみだ。
 いや、かあさんの話によると、まだヨチヨチ歩きのときに、二人ともバギーにのせられて公園で出会ったのが最初だという。
そのせいか、美津代は良平に対していやになれなれしい。

「ふーっ、うめえ」
 500ミリリットルボトルのコーラを、浩二は一気に半分以上飲みほした。そのとなりで、良平はアイスを口いっぱいにほおばっている。たっぷりバスケをやってから、そばのコンビニで買い食いするのが、すっかり習慣になっていた。
「あさっての大会、絶対に勝とうぜ」
 浩二が、今度は少しまじめな顔をしていった。
 二人がはいっているミニバスケットのチーム「若葉ランニングファイブ」は、春の郡大会では決勝で敗れて、おしくも優勝をのがしていた。それ以来、秋季大会での優勝をめざして練習してきた。
「あーあ、いけないんだあ。良ちゃんたちったら、買い食いなんかしちゃって。先生にいってやろう」
 向かいの文房具屋から出てきた美津代たちに、また見つかってしまった。
「うるせえなあ」
 良平は、あわてたようにそっぽをむいた。
「アイス一個ずつで、買収されてやってもいいよお」
 美津代がちゃっかりいったので、ほかの女の子たちはクスクスわらっている。
「それよりさあ。おれたち、あさって、広川小の体育館で試合なんだ。応援にきてくれよな」
 浩二が、タイミングよく話題をかえてくれた。
「うん。いくいく」
 女の子たちが、声をそろえるようにしていった。 
「絶対、応援にいくよ。みんなでおそろいのピンクのポンポン作って、はでに応援しちゃう。でも、白井くんはいいとしても、良ちゃんは試合に出られるのお?」
 美津代がからかうような表情で、良平の顔をのぞきこんできた。

「ただいま」
 二階にある祖父母の家の玄関につながる外階段の下に、自転車をつっこむと、そばにいたとうさんに声をかけた。とうさんは、外階段が折り返しになっているおどり場で、何かをながめていた。
「良平、ちょっと来てごらん」
 とうさんが、声をひそめて手まねきしている。
「なーに?」
 とうさんが指さす方を見ると、外階段の一番上のところにハチが一匹いた。黒と黄色の縞模様の大きなハチだ。ハチは羽をふるわせて、空中の一個所に浮かんでいる。しばらくすると、外階段の手すりにとまり、家の外壁とのすきまにはいっていった。
 それと入れ替わるようにして、庭の方からもう一匹が飛んできた。同じように空中でしばらくホバリングした後で、やはり手すりの上からすきまにもぐりこんでいく。どうやら、外階段と家の外壁との間に、ハチが巣を作ってしまったようだ。
 良平はとうさんとならんで、ハチがもぐりこんだあたりをじーっとながめていた。
 しばらくすると、中からハチがいっぺんに二匹出てきた。しばらく、手すりの上で様子をうかがうようにしてから、飛び立っていく。
「あれじゃ、入り口が狭くって、とても巣はとりのぞけそうにないな。下からバルサンでもたかなきゃだめかな」
 良平が見ても、手すりと家の外壁との隙間は1、2センチしかない。
でも、きっと下の方にはもっと大きな空洞が、巣を作れるように広がっているのだろう。
 ブン。
いきなり、耳もとで大きな羽音がした。
「良平、動くな。はらうとかえって刺されるぞ」
 思わず手ではらおうとした良平を、とうさんがあわててとめた。
 間近に見るハチは、びっくりするほど大きかった。胴体だけで3、4センチはあるように見える。これに刺されたら、本当に大変なことになりそうだ
 良平ががまんしてじっとしていると、ハチはやがて巣へ戻っていった。
 その後も、ハチはひっきりなしにすきまから出入りをくりかえしていた。巣の中にいるのは、とても二、三匹だけとは思えない。いつのまにか、かなり大きな巣を作ってしまったようだ。
 ハチは巣から出てくると、いつも物置の方へ飛んでいく。そのそばには、竹ぼうきを逆さに立てたような形のムクゲの木がある。白い花がちょうど満開で、まるで大きな白いたいまつのようだった。どうやらハチは、ムクゲの花と巣の間を往復しているようだ。
 でも、ハチはミツを集めているのではないようだ。そのまわりを飛び回っているだけだ。
「早く退治しなけりゃなあ」
 とうさんは、じっくりとハチを観察してからいった。
「なんだか、かわいそうだなあ。ほっときゃ、いいんじゃないの?」
 良平がそういうと、
「だめだよ。あいつらはスズメバチなんだから。凶暴で毒もすごく強いから、年よりや小さな子が刺されたら、とんでもないことになる。肉食だから、ああしてムクゲの花に集まってくる他の虫を狩りしているんだ。」
 とうさんは、いつになく真剣な顔をしていた。
 たしかに、良平の家にはおじいちゃんとおばあちゃんもいるし、弟の孝司はまだ一年生だ。
 そういえば、この前、庭仕事をしていたおじいちゃんが、
「今年はいやにハチが多いなあ」
って、いってたっけ。
「それに、ハチ毒アレルギーも怖いし」
「何? ハチ毒アレルギーって?」
「一度刺された人がハチの毒のアレルギーになると、二度目に刺されたときショック症状を起こすんだ」
「それって、危険なの?」
「ああ。死ぬこともあるんだってよ」
「へーっ、怖いんだなあ」
 良平はあらためて、巣の近くでホバリングしているハチをながめた。

「浩二、もっとみんなに声を出させろよお」
 長崎コーチの声が、体育館にひびきわたった。女性のコーチだけれど、体育大学の現役学生のせいか、すごく元気がいい。
「ナイスシュー」
「元気出していこうぜ」
 みんなのかけ声が、あわてたように大きくなった。
キャプテンの浩二を先頭にして、大きな二つの輪を作るようにしてまわりながら、リターンパスとランニングシュートの練習をしている。
「じゃあ、明日のスターティングファイブね。センターは慎一、フォワードは雄太と達樹。そして、ガードは浩二と良平ね」
 ウォーミングアップが終わると、長崎コーチはまわりにみんなを集めていった。
 となりの浩二が、ニヤッとわらいかけてくる。良平も、ボールをチェストパス(胸の前からまっすぐ投げるパス)をするしぐさでこたえた。最近は、この二人のガードが、ランニングファイブを引っ張っている。シュートをうって得点を入れるポジションであるシューティングガードの浩二、パスまわしの中心になってゲームを組み立てるポイントガードの良平。なかなかいいコンビだった。
「でも、ゲーム中、いつものようにどんどんメンバーを変えていくからね。他のみんなも、五人に頼らないでがんばるんだよ」
 長崎コーチはノートを閉じると、他のメンバーにもハッパをかけた。
「よし、いくぞお!」
 浩二の号令のもと、ランニングファイブの練習が再開された。

 その日の夕方、良平が弟の孝司とゲームをやっていると、
「おーい。だれか、これを着るの、手伝ってくれえ!」
 玄関から、とうさんの呼ぶ声がした。二人がそのままゲームを続けていると、何度でも呼んでいる。かあさんは、買物にでもいっているのかもしれない。
「えー、なあに?」
 ようやく二人で出ていくと、とうさんはダンボール箱の中から、銀色に光るコートのような物を取り出していた。ぶ厚い生地でできていて、まるで消防士の防火服か何かのようだ。そばには、同じ色のヘルメットと手袋も置いてある。ヘルメットの顔の部分は、細かい金属の網がついていた。
「何、これ?」
 良平が、手袋をつまみあげた。孝司は、ぶかぶかのヘルメットを頭にかぶっている。
「防護服っていうんだってさ。スズメバチを駆除するっていったら、町役場で貸してくれたんだ」
「今からやるの? もう、外は暗くなってるよ」
「うん、暗い方がいいんだ。ハチは、夜は活動しないんだって。それに、巣にぜんぶ戻ってるから、一網打尽にできるし」
「ふーん」
「下からバルサンをたいて、上からは殺虫剤をまけば、きっと逃げ場がないだろう」
 上下つなぎになっている服を何とか着こんだとうさんに、二人がかりでヘルメットをかぶせ、手袋もはめさせた。
「うわーっ、かっこいい!」
 テレビのヒーロー物を熱心に見ている孝司が、うらやましそうに叫んだ。
「そうかあ?」
 とうさんも、まんざらでもないような声を出している。
 ヘルメットも手袋も、防護服にジッパーで取り付けるようになっているから、さすがのスズメバチもこれなら入りこめそうにない。
「良平、玄関、あけてくれ。それから、いいっていうまでは、絶対、外へ出てくるなよ」
 とうさんは、最後になんとかブーツをはくと、右手に大きな殺虫剤、左手に懐中電灯を持って、玄関から外へ出て行った。
「おとうさん、がんばって」
 声援を送る孝司に軽く手を上げて、さっそうと出ていった。
 と、いいたいところだけど、歩きにくいのか、なんだかヨチヨチしている。これじゃあ、正義のヒーローというよりは、せいぜいまぬけな宇宙飛行士ってところだ。良平はふきだしそうになるのを、けんめいにこらえていた。
 とうさんを送り出すと、
(どうする?)
って顔で、孝司がこちらを見た。
 良平はコクンとうなずくと、すばやくダッシュした。二階の祖父母の家へは、外階段だけでなく玄関わきの内階段でもつながっている。
「ずるい、良ちゃん。待ってえー」
 うしろから、半分泣き声をあげながら孝司が追いかけてくる。
 二階の玄関の出窓から、二人で重なるようにして外をのぞいた。そこからだと、外階段がよく見える。
 とうさんは、階段の下にでもいるのか、まだ姿が見えなかった。
 二人はなんとか下をのぞきこもうとして、窓ガラスに顔をおしつけた。鼻がつぶされてしまって、外から見たら二匹のコブタみたいな顔になっていたかもしれない。
 やがて、下の方から白い煙がたちのぼってきた。バルサンをたきはじめたのだろう。煙は外階段をつつみこむようにしてあがってくる。外階段と家の壁とのすきまからも、しだいに煙があふれて出てきた。
 しばらくして、とうさんが階段をあがってきた。銀色のヘルメットをかぶり防護服を着たまぬけな宇宙飛行士は、一歩一歩、やっとバランスをとりながら外階段の一番上にたどりついた。そして、ハチがもぐりこんでいたあたりを、懐中電灯で照らしている。
 そこからいつハチが出てくるかと思って、良平はドキドキしてしまった。
 でも、すっかりねむってしまっているのか、ハチは一匹もあらわれない。とうさんは出入口と思われるところにノズルをつっこんで、殺虫剤をまきはじめた。
 それでも、ハチはなかなか姿をみせなかった。
「下にも、ハチの出入口があるのかなあ」
 良平がそういうと、今度は孝司がすばやく先に立ってダッシュした。良平もすぐに後に続く。
 下の玄関脇の部屋の窓から、また二人で押し合いへしあいしながらのぞいた。
 でも、バルサンの煙が立ち込めているだけで、やっぱりハチの姿は見えない。
 と、そのとき、いきなりスーッと黒いものが上から落ちてきた。
 つづいて、もうひとつ。それは、窓わくに落ちた。
 ハチだ。ハチが巣から落ちてきたのだ。まだ、羽をかすかにふるわせている。
 それからは、まるで大つぶの雨のように、ハチがどんどん落ちてきた。あまりにたくさん落ちてくるので、はじめは「おーっ」とか、「すげえ」っていっていた二人も、しだいにだまってしまった。
 窓わくや階段下にとめてある二人の自転車のカバーの上に、びっくりするほどたくさんのハチが落ちている。
 かなりいるような気がしていたものの、こんなにたくさんのハチがあの狭いすきまの下にひそんでいたとは思わなかった。
 とうさんの殺虫剤や、バルサンの煙にやられたのだろう。みんな、もう死んで動かなくなっている。死んだスズメバチは、飛んでいたときとは違って、ずいぶん小さくなって2センチぐらいしかないように見える。丸くちぢこまって、まるで違う生き物のようだった。
「なんだか、かわいそうな気がするなあ」
 孝司が、いつかの良平のようにつぶやいていた。

 郡の秋季大会には、全部で十八チームが参加していた。会場の広川小には、朝早くから各チームのメンバーや応援の人たちが集まってきていた。
 ピーー。
センターサークルでのジャンプボールで、川原イーグルスとの一回戦が始まった。
「ナイス、慎一」
 コートサイドから、長崎コーチの声がひびく。チームで一番のっぽの慎一がけんめいにのばした指先でタップしたボールが、うまく浩二の手にわたっていた。浩二はすばやいドリブルで敵陣を突進すると、右サイドの良平にパス。良平はゴール下で待つ達樹にパスするとみせかけて、すばやく浩二にリターンパスした。
「シュート!」
 長崎コーチの声に合わせるように、浩二がジャンプシュート。ボールはきれいな放物線を描くと、バックボードにも、リングにもふれずに、スポッとゴールに入った。ゴールのネットが水しぶきのように跳ね返る。スプラッシュゴールだ。
「やったあ!」
 ランニングファイブの応援席は、早くも大騒ぎだ。その中には、良平のとうさんやかあさんもいる。
「おにいちゃん、がんばれえ」
 孝司の声も聞こえてきた。
応援席の前では、美津代たち、四、五人の女の子たちが、チアガールが使うようなピンクのポンポンを本当に持ってきていて、うれしそうに飛び跳ねている。
 こうして第一試合は、ランニングファイブのペースでスタートした。
 けっきょく一回戦は、26対11で快勝した。ランニングファイブの調子は上々だ。みんな、練習どおりにいきいきと動けている。

 短い休憩をはさんで、すぐに二回戦が行われる。対戦相手は串野ブルズ。
 良平たち、先発の五人が、コートに出てきた。
「フレフレ、ランファイ。がんばれ、がんばれ、ランファイ」
 観客席の声援も、一段と熱が入っている。美津代たちチアガールも、そろいの振り付けで応援してくれている。
「白井くーん、がんばってー」
 黄色い声の声援に、浩二が手をあげてこたえている。
「良ちゃーん、ファイトー」
 美津代の声も聞こえてきた。
 良平はのっぽの慎一の陰に隠れて、聞こえないふりをした。
 ピーー。
ホイッスルとともに、二回戦が始まった。
 このゲームでも、ランニングファイブは、浩二と良平を中心にゲームをすすめていった。
 良平の早いパスまわしから、一気に速攻をしかける。相手のディフェンスをくずしておいて、フリーになったシューターの浩二にボールを集める。
 ロングシュート、ミドルシュート、カットインしてのレイアップシュートと、面白いように得点を重ねていく。
 たまにシュートが外れても、慎一たちがリバウンドをがんばって、ボールをキープしつづけていた。
 けっきょく、31対8と一方的な大差で勝って、ランニングファイブは楽々と午後の準決勝に進出した。

 準決勝と決勝は、お昼の休憩をはさんで午後に行われることになっている。
 良平はランニングファイブの仲間たちと一緒に、荷物を持って体育館の外へ出て行った。
 体育館の中では気がつかなかったけれど、気持ちよく晴れ上がっている。日差しは強かったものの心地よい風が吹いていて、お弁当をひろげるのにはもってこいだった。
「ここで食べようぜ」
 浩二が、校庭のはずれにあるコンクリートの段々に腰をおろした。良平や他のメンバーも、そのまわりにすわった。校庭のあちこちには、他のチームもお昼を食べに集まってきている。
「私たちも入れてよ」
 美津代が、他の女の子たちと一緒にやってきた。
 こうしてみんなでお弁当を食べていると、まるで遠足に来たかのようにのんびりしてくる。思わずバスケの試合で来ていることを、忘れてしまいそうだ。
 そのときだった。 
「良ちゃん、一本ぐらいシュート決めてよ」
 いきなり、美津代にズバリといわれてしまった。冗談ぽいいい方だったけれど、けっこうグサッときて、何もいいかえせなかった。各試合の得点を見てもわかるように、浩二を筆頭にみんなが好調にシュートを決めていた。
 ところが、どういうわけか良平だけは、二試合ともに無得点だった。特別調子が悪いとも思えないのだが、シュートがことごとくリングにあたって外にこぼれてしまう。長崎コーチのことばを借りると、「リングに嫌われてる」っていう奴だ。
「わかっちゃないなあ。だから、素人はいやなんだ。良平はアシスト(得点をおぜん立てするパスのこと)やスチール(相手のパスをカットして奪うこと)で、今日も大活躍してんだぜ」
 となりにいた浩二が、代わりにいいかえしてくれた。  
「そんなの、あたしだって知ってるわよ。でも、一本ぐらいシュートが入ったって、いいじゃないの」
 美津代は、わざとふくれっつらをしてみせた。

準決勝でも、ランニングファイブは相手を大きく引き離していた。この試合でも、浩二を中心として、着々と得点を重ねている。
 でも、良平だけは、あいかわらず無得点だった。
さっき浩二がいっていたように、パスやリバウンド、ドリブルなどは絶好調で、ゲームは実質的に良平がコントロールしているようなものだった。相手の意表をつくたくみなパスまわしで、みんなの得点をアシストしていた。
 だけど、自分のシュートだけは、どうしてもうまく入ってくれない。
 試合時間が、残り一分を切った。得点は18対9。ダブルスコアでリードしている。
 相手選手のシュートがはずれて、味方ボールになった。リバウンドを取った慎一から、良平にパスがきた。
 もう急ぐ必要はない。良平はゆっくりとしたドリブルで、相手コートに入っていった。ゴールの右側には浩二が、左側には雄太がパスを待っている。
 良平は浩二にパスを出すと見せかけて、急に早いドリブルで相手ゴールに切り込んでいった。
 左四十五度からのジャンプシュート。良平の得意のプレーだ。ボールはきれいな放物線を描きながら、ゴールへむかっていく。
(入ってくれえー)
 必死の願いもむなしく、良平の放ったシュートは、リングにあたっておしくもはじかれてしまった。
「おしいなあ。良平、ファイト」
 長崎コーチの、残念そうな声が聞こえてくる。
 ピピーー。
試合終了の笛が鳴った。これで、ランニングファイブの決勝進出が決まった。

 決勝戦の相手は、春季大会と同じ広川ロケッツだった。中学生なみに背の高い選手が多く、春の試合ではリバウンド(ゴール下でのボールの取り合い)で負けて、ゲームの主導権を握られてしまった。
 16対18。わずか2点差で敗れて、ランニングファイブは優勝をのがしていた。
 それ以来、「打倒ロケッツ」が、チームの合言葉になっていた。秋季大会でロケッツに勝つために、夏の合宿を初めとした苦しい練習にもたえてきたのだ。
 長崎コーチがメンバーに指示していたのは、浩二と良平を中心とした速攻で対抗する作戦だった。良平たち、ランニングファイブは、その名のとおり、走り合いならどこのチームにも負けない自信があった。
「これから決勝戦を始めます」
 場内のアナウンスとともに、両チームのスターティングファイブがコートに姿をあらわした。
「がんばれ、ロケッツ!」
「ファイト、ランファイ!」
 両チームの応援席から、いっせいに声援がとぶ。
 チラッと見たら、応援席の前では、美津代たちがポンポンを持ってならんでいる。彼女たちも緊張しているようだ。
 あらためてセンターサークルの近くでながめると、やっぱりロケッツの連中は大きかった。センターやフォワードの選手たちは、ランニングファイブで一番ノッポの慎一よりも背が高い。比較的小柄なプレーヤーが多いガードポジションまで、長身の選手で固めていた。
 良平たちは、体格では劣っても気合だけは負けないように、自分の向かい側の相手選手をにらみつけた。
 試合は、予想どおりの大接戦になった。
 ロケッツは、じっくりとした球まわしでディフェンスのすきをうかがう。そして、フリーになった選手が、遠目からでもどんどんシュートを放ってくる。ゴールすればそれでOKだし、はずれても背の高さをいかしてこぼれ球をリバウンドで確保する作戦だ。
 それに対して、ランニングファイブは作戦どおりに速攻で勝負していた。ボールを良平に集めて、すばやいドリブルで敵陣に攻め込む。もちろん、浩二や他の選手たちも、全速力でゴール目指して走りこんでいく。
 たがいにチームの長所を生かしたシーソーゲームになっていた。 
「浩二ーっ!」
 相手ボールを奪った慎一からパスを受けた良平が、大声で叫んだ。
 全速力のドリブルで突っ走りながら、逆サイドの浩二にロングパス。浩二はまだ誰ももどっていない相手ゴールに、楽々とシュートを決めた。
「ナイスシュー!」
 応援席で、歓声がおこる。これで、7対6と逆転だ。
「白井くーん、かっこいいーっ!」
 美津代たちが、声をそろえて浩二に声援を送った。浩二は、派手なガッツポーズをしながら戻ってくる。
「良平、ナイス、アシスト」
 声をかけてくれた長崎コーチに軽く手を上げながら、良平もすばやく自陣に戻った。
 ゲームはその後も、一進一退の攻防が続いた。
「ラスト30秒!」
 長崎コーチの叫び声がコートにひびいたとき、ちょうど相手のシュートがはずれて味方ボールになった。
 得点は19対18。ランニングファイブのリードは、わずかに一点だけだった。
 でも、このままボールを取られなければ、優勝だ。
「浩二、キープ!」
 長崎コーチの声は、興奮ですっかり裏返っている。もう時間がないから、シュートをしないで、そのまま味方
でボールをキープして逃げ切る作戦だ。
 さっきまでとはうってかわって、浩二がゆっくりと敵陣にむかってドリブルしていく。
「オールコートディフェンス! 時間がないよお」
 相手方のコーチが必死にさけぶ。コート全体をマンツーマンでボールを取りにくる激しいディフェンスのことだ。ロケッツの選手が、猛烈な勢いで浩二にむかっていった。
 でも、浩二はあわてずにフェイントで相手をかわすと、良平にパス。良平は少しドリブルしてから、フリーになっている達樹にパス。達樹は、すぐに浩二にボールをもどした。浩二がまたゆっくりとドリブルしてから、良平にパスした。ドリブルのうまい浩二と良平を中心に、ボールをまわしながらキープする。これが時間を稼ぐときの、ランニングファイブのやり方だった。
「くそーっ!」
 ロケッツの選手の一人が、いちかばちかって感じで、良平に飛びかかってきた。良平が軽く体を入れかえると、勢いあまってころんでしまった。目の前には、がら空きの相手ゴールが、……。
 次の瞬間、良平は、ドリブルでゴール下にカットインしながら、シュートしていた。
 だめおしのゴール。飛び上がって喜ぶとうさんたち。
そして、
「良ちゃーん、かっこいーい」
って、叫ぶ美津代の声が、聞こえてくるはずだった。
 ところが、ボールはリングのまわりをグルリと一周してから、外にこぼれてしまったのだ。練習なら絶対に入るイージーシュートなのに、わずかに力が入りすぎたのかもしれない。
「リバウンド!」
 両方のコーチが、同時に叫んだ。慎一と達樹がけんめいにボールにむかってジャンプをしている。
 でも、ボールを取ったのは、相手チームの選手だった。
「速攻!」
 今度は、ロケッツのコーチの声が裏返っている。
 思い切ったロングパスが、飛んでいく。けんめいに飛びつく浩二の手をかすめて、ゴール下で待つロケッツの選手にパスがとおった。
(まさか、まさか)
 良平の願いもむなしく、ロケッツの選手のジャンプシュートは、ゴールへすいこまれていった。
 ピピーー。
次の瞬間、試合終了の笛が鳴り響いた。
 19対20。終了寸前のまさかの大逆転だった。
「うわーっ!」
 大声で喜び合うロケッツの選手たちとは対照的に、良平たちはぼうぜんとしてコートに立ちつくしていた。

「飲む?」
 帰りのバスでぼんやりと窓の外をながめていると、浩二がペットボトルのコーラを差し出してくれた。いつになくやさしい声だ。良平は黙って首を振った。
 ほかのチームのみんなも、良平の失敗を少しもせめないでくれていた。あのままボールをキープしていたら、百パーセント優勝だったのに。
 ゲームが終わって応援席に戻ったとき、
「よくがんばったぞお」
「ナイスゲーム」
 応援席からも、はげましの声がかかった。
 でも、良平はみんなの顔を見られずに下をむいていた。
「ドンマイ、ドンマイ」
 そのとき、長崎コーチが走りよってきて良平の肩をたたいてくれた。
 でも、あと一歩で優勝を逃したことを、コーチを含めたみんながどんなにがっかりしているか、なんとなく伝わってきてしまうのだ。
 それが、良平にはたまらなくつらかった。いっそのこと、思いきり失敗を責めてくれた方が、気が楽になったかもしれない。

 バスが、良平たちの学校前の停留所についた。
 チームのメンバーは、みんなそろってバスを降りていく。良平だけは、なかなか席を立てずにぐずぐずしていた。
 ようやく、良平が最後に降りてきたとき、
「良ちゃーん」
車で先に帰っていた美津代が、向こうから走りよってきた。
「ごめんね。あたしが、よけいなこといっちゃったから」
 いつも元気な美津代が、泣き出しそうな顔をしていた。
「……」
良平は何も答えることができずに、無理して美津代に笑顔を見せようとした。
「じゃあな」
「明日、学校でな」
良平は、チームのみんなや美津代とおぐり公園の前で別れた。 
「ただいま」
 良平が家に戻ると、
「お帰りなさい」
 かあさんが、いつものようにユニフォームやタオルなどの洗濯物が入ったバッグを受け取った。
 かあさんも、居間でテレビを見ていたとうさんも、そして、そばにいた孝司でさえも、今日の試合の話題にはふれないでくれた。

 翌朝、良平はめざましがなる前に眼がさめてしまった。いつものように、ふとんの中でぼんやりと今日は何曜日だったかを思い出す。
(月曜日か。あーあ、休みじゃないんだ)
 と、その時、急に昨日の失敗を思い出した。シュートがリングのまわりをグルリと一周してから外へこぼれていくのが、録画されているかのように頭の中によみがえってくる。
 月曜日の朝がゆううつなのはいつものことだけれど、その瞬間、大げさにいえば生きていくのがいやになった。学校で、浩二や美津代と顔を合わせたくない。もうこのままずーっと、ふとんにもぐりこんだままでいたい。
 そう思いながら、ギューッと目をつぶった。
(なんであんなシュートしちゃったんだろう。あのままキープするだけでよかったのに)
 自分でも、今だにわからない。やってはいけないことはわかっているのに、あの時は体が自然に動いてしまった。シュートをきめてさっそうともどっていく浩二の姿や、昼休みの美津代のことばが、やはり心のどこかにひっかかっていたのかもしれない。
(あー、もう一度あのときに戻れたら)
 ゆっくりとドリブルしながら、ボールをキープする。タイムアップのホイッスル。大喜びで良平にだきついてくる浩二。歓声をあげながら飛び上がっている美津代たち。
 だけど、それはもうかなわぬ夢だ。
 まくらもとの時計を見ると、七時十分前になっている。あと十分でめざましも鳴り出すだろう。
 でも、もうしばらく横になっていたら、本当に立ち上がれなくなってしまうような気がしてきた。ずる休みしたい気持ちをふりはらうようにして、めざましのアラームをオフにすると、良平はなんとかベッドから起き上がった。
 「おはよう」
 良平は一階に降りてくると、台所のかあさんに声をかけた。
「良ちゃん、おはよう。めずらしく早いじゃない」
 かあさんは、いつものように朝食のしたくをしているところだった。
隣の洗面所からは、とうさんの電気カミソリの音が聞こえている。
「おはよう」
 洗面所のとうさんにも声をかけた。
「おにいちゃん、おはよう」
 とうさんは、ひげそりをしながら答えた。
 良平は手早く着替えると、いつもの自分の役割を果たすために、玄関のドアを開けて新聞を取りに外に出た。
 良平の心とはうらはらに、今日も空はすっきりと晴れ上がっている。空気がすんでいて、大きく深呼吸すると気持ちがよかった。
 郵便入れに近づいて、差し込まれていた朝刊をぬきとった。月曜日はちらしがはさまっていないので、いつもより軽い。
 玄関に引き返そうとしたとき、物置のあたりで何かがピカッと光ったような気がした。
 よく見てみると、いつのまにできたのか、物置とムクゲの木の間に、大きなクモの巣がかかっていた。朝日を受けて銀色にキラキラと輝いている。
(あれっ?)
 良平は、玄関に入るのをやめて立ち止まった。クモの巣に、ハチが一匹、ひっかかっていたのだ。黒と黄色のしまもよう、スズメバチのようだ。もしかすると、おとといの生き残りかもしれない。
 良平はもっとよく見えるように、ムクゲの木に近づいていった。
 今かかったばかりなのか、ハチはけんめいに羽をふるわせてのがれようとしている。
 でも、もがけばもがくほど、クモの糸がからみついてくるようだ。
 と、そのとき、巣の反対側に一匹のクモがいるのに気がついた。足に白黒のまだらもようのある大きな奴だ。だんだんハチに近づいていく。このままだと、ハチはクモにやられてしまうかもしれない。
「あっ!」
 思わず、声を出してしまった。どういうはずみかくもの巣がちぎれて、たれさがったくもの糸にハチが宙ぶら
りんになったのだ。
 ここぞとばかりに、ハチは必死にもがいている。
(がんばれ!)
 良平は、心の中で思わず声援を送ってしまった。
 その願いが通じたように、からまっていた糸がとうとうはずれて、ハチはそのまま下へ落ちていった。
 近づいてみると、地面に落ちたショックなのか、ハチはしばらくあたりをうろうろと歩きまわっている。クモの巣からのがれるのに、力を使い果たしてしまったのかもしれない。
 良平は、そのままじーっとハチの様子をながめていた。
 しばらくして、ハチはようやく地面から飛び立つことができた。
 でも、どことなくフラフラした飛びかただった。いつものように一直線に飛べずに、ユラリユラリとした感じだ。高度もなかなか上がらない。
 良平は、ハチの飛んでいる姿を目で追っていった。
 ようやく少し高く飛べるようになったハチは、あの外階段にあった巣ではなく、どこか遠くへむかっていく。もしかすると、もうあの巣はあきらめて新天地をもとめてゆくのかもしれない。
 良平はなんだかホッとしたような気分で、遠くへ飛び去っていくハチを見送った。

 良平が食堂にもどると、テーブルの上にはもう朝食がならんでいた。
 ネクタイをしめていつもの席にいるとうさんに、良平は何もいわずに新聞を手渡した。
「良平。たしか、おぐり公園にバスケのゴールがあったよな」
 とうさんは、コーヒーを飲みながら良平にいった。
「うん」
 良平がうなずくと、
「今度、おとうさんとやってみないか?」
 とうさんはコーヒーカップをおろすと、良平の顔を見ながらいった。
「えー。ぼくもやりたい」
 起きてきたばかりの孝司が、話しに割り込んできた。まだパジャマ姿のままだ。
「しょうがないなあ。じゃあ、三人でやるか」
 とうさんはそういうと、新聞を読みながら朝食を食べはじめた。
 テーブルの上には、湯気を立てている紅茶と、二つ目玉のハムエッグが置いてある。それを見たら、良平も急におなかがすいてきた。
「いっただきまーす」
 良平は、あつあつのトーストにガブリとかぶりついた。

      

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葬送

2020-11-22 13:35:34 | 作品

 また朝が来た。
 芳樹は、やっぱりいつものように気分がすぐれなかった。胸がむかむかして、とても起き上がれない感じだった。今日も学校には行かれそうにない。
 芳樹はベッドの中で、いつまでもぐずぐずしていた。
 その時、ドアを控えめにノックする音がした。
「なに?」
 芳樹がベッドの中から返事をすると、
「よっちゃん、ちょっといいかな」
 とうさんの声がした。
(えっ?)
 枕もとの目覚まし時計を見た。もう七時半を過ぎている。いつもなら、とうさんはとっくに会社にでかけている時刻だ。
「うん、なんだよ」
 芳樹は、いつものように不機嫌な声を出してみせた。
「今日は熊谷のおばさんの葬式なんだけど、よかったら一緒に行かないかと思って」
 とうさんは、ドアの向こう側から遠慮がちに言った。おばさんというのはおとうさんからみてなので、芳樹には大おばさんにあたる。おととい、老衰のために九十二歳で亡くなったことは、かあさんから聞いていた。
「うーん、どうしようかな」
 芳樹は、枕を胸にかかえこんだ。芳樹が小学校低学年のころ、毎年夏休みに遊びに行った時に、大おばさんにはかわいがってもらっていた。
 それに、どうせ今日もこれといってやることはなかった。
 しばらく黙っていたが、
「……、じゃあ、行くよ」
 と、とうさんに返事をした。

 芳樹は了解したのをきっかけにするようにして、ようやくベッドから起き上がった。
 すると、不思議なもので、さっきまでのむかむかした気分はすっかり消えていた。
 すぐにパジャマを脱いだが、手が止まってしまった。
(どうしよう。どんな格好でいけばいいのだろう)
 おじいちゃんのお葬式の時は小学生だったし、それ以外にはお葬式に出たことがなかった。
 少し迷ってから、久しぶりに学校の制服を着た。
 一階に降りていくと、すでにかあさんが朝食を作ってくれていた。目玉焼きとソーセージとブロッコリー、それにトーストとグレープフルーツジュースと牛乳だ。
 芳樹はグレープフルーツジュースを一口飲むと、朝食を食べ始めた。
 テーブルの向かい側では、おとうさんがコーヒーを飲みながら、新聞を読んでいる。もう他の家族は、朝食は食べたのだろう。
 いつもなら、おとうさんは七時過ぎには、車で会社へ行っている。二つ年上の兄の正樹も、都内の私立高校へ通っているので、とっくに原付きで最寄駅まで行っているはずだ。
おかあさんも、二人のどちらかと一緒に朝食を食べたのだろう。前は、三人の中で出かけるのが一番遅い芳樹と一緒に食べていたけれど。
 最近の芳樹にとっては、いつもよりもかなり早い時間の朝食だったが、残さずにおいしく食べられた。

 先月から、芳樹はまったく学校へ行かなくなっていた。いわゆる不登校というやつだ。
 朝、学校へ行こうとしても、ベッドから起き上がることができなかった。無理して起きようとすると、気分が悪くなってしまう。
(学校へ行かなくては)
 そう思うと、すっぱい液体が口の中にこみあげてくる。無理に起き上がると、吐いてしまいそうだ。
「よっちゃん、時間よ」
 毎朝、部屋の外から、かあさんの遠慮がちな声が聞こえてくる。
「うーん」
 どうしても起き上がることができない。芳樹はそのままベッドに横になっていた。
「どうする?」
 しばらくして、かあさんがまたたずねてきた。
「無理みたい」
 芳樹が答えると、
「ごはんはどうするの?」
「うーん、後で」
 芳樹は、またふとんをかぶって眠り始めた。
 学校へ行かないと決めると、なんだかほっとしたような気分だった。芳樹は安心して、またぐっすりと眠った。

 次に芳樹が目を覚ますのは、いつも昼過ぎだった。たっぷり寝たせいか、朝とは違って気分はすっきりしている。
 芳樹は、さっさとベットから起きだした。いつのまにかすっかり元気になっている。
 食堂へ行くと、かあさんが仕事へ行く前に用意してくれた朝食が、ラップをかけられて置かれている。
 朝食のメニューはいつも決まっている
 卵(目玉焼きかスクランブルエッグ)にカリカリに焼いたベーコンかハムかウィンナ。それに、ホウレンソウやにんじんなどの野菜のソテーだ。
 朝食を食べるのは、お昼のバラエティ番組をやっているころだ。芳樹は、毎日、この番組を見ながら、朝ごはんを食べていた。
 テレビを見ながら、食パンを二枚オーブントースターに入れて、トーストを作る。
 パンが焼ける間に、冷蔵庫からオレンジジュースと牛乳のパックを出して、コップに一杯ずつそそぐ。
 オーブントースターがチンと鳴って、パンが焼きあがると、トーストの表にたっぷりマーガリンをぬって、朝食が出来上がる。
 おなかぺこぺこだった芳樹は、いつもがつがつと食べ始めた。
 三分後、芳樹は、あっという間に、朝食を食べ終わってしまう。いつもまだおなかがすいている。
(今度はお昼ご飯だな)
と、思いながら、カップ麺が入っている棚に手を伸ばす。
 かあさんが、学校へ行かなくなった芳樹の昼食のために、いろいろな種類を買っておいてくれていた。
 芳樹は、選んだカップ麺に勢いよくお湯を注いだ。


 埼玉県の熊谷は、芳樹のとうさんの生まれ故郷だ。
 といっても、とうさんは小さいころに、東京の下町に引っ越してしまったので、そのころの記憶は全くないのだそうだ。
 でも、熊谷には、今でもとうさんのいとこやその子どもたちが、たくさん住んでいる。
 熊谷は、東京駅から新幹線に乗れば、ほんの四十分ぐらいで着いてしまう。芳樹も、小学校低学年のころまでは、夏のお祭りのときなどに毎年行っていた。
 田舎のない芳樹にとっては、擬似「故郷」のようなものかもしれない。
 「熊谷のおばさん」というのは、四年前に亡くなった芳樹のおじいちゃんの、一番上のおにいさんの奥さんだそうだ。だから、芳樹にとっては、大おばさんにあたる。
芳樹が小さいころに遊びにいったときには、大おばさんはまだ元気で、ごはんを作ってもらったこともある。
 一年ぐらい前から寝たきりだったのだが、とうとうおととい亡くなったのだ。
 大おばさんは、五人の子どもと、十人の孫と、十三人のひ孫に恵まれていた。とうさんに言わせると、立派な大往生なのだそうだ。
 芳樹ととうさんは、中央線で東京駅まで出て、そこで上越新幹線に乗り換えた。
 熊谷までの停車駅は、上野と大宮しかない。新幹線は、あっという間に熊谷に着いてしまった。
 駅前でタクシーに乗った。
「メモリアル彩雲までお願いします」
 とうさんが運転手にいった。それが葬儀場の名前らしい。
「あんまり変わりばえがしないなあ」
 車窓から見える市内の風景を見ながら、とうさんがつぶやいた。とうさんの話だと、浦和と大宮が合併してさいたま市ができて完全に埼玉県の中心になって以来、昔は県北部の中心地であった熊谷市はますますさびれているらしい。


 葬儀場には、十分ぐらいで着いた。
 入り口付近には、もう大勢の人たちが集まっている。
「やっちゃん、遠くからどうも」
 芳樹たちがタクシーから降りると、喪服を着た美代子おばさんが声をかけてきた。とうさんのいとこで、大おばさんの子どもの一人だ。芳樹が遊びに来た時には、この人に一番世話になっている。
「このたびはご愁傷様です」
 とうさんが頭を下げている。芳樹も一緒に頭を下げた
「あれ、おにいちゃんの方かしら?」
 おばさんが、芳樹を見ながら言った。
「弟の芳樹。学校が休みだったから連れてきた」
 とうさんが、うまく説明してくれた。まさか、芳樹が不登校になっているなんて、元気な小学生だったころしか知らないおばさんには、ぜんぜん想像できないだろう。
「あらー、大きくなっちゃって。おにいちゃんの方かと思ったわよ」
 美代子おばさんは、大げさに驚いてみせている。 
 芳樹はとうさんに続いて、葬儀場に入っていった。
 式場の正面に祭壇が飾られ、黒枠の額に入ったおばさんの写真が笑っている。
 まわりにはたくさんの花が飾られて、両側にもたくさんの花かごが並べられていた。その中には、とうさんの名前が書いてある花かごもあった。


「それでは、お別れをお願いします」
 係りの人が、まわりを飾っていた花をちぎってお盆の上にのせた。それを、みんなでお棺の中に入れる。大おばさんは、お棺の中でたくさんの花に囲まれた。
 芳樹も、おとうさんと一緒に、花を一握り、お棺に入れた。
 その時、初めて遺体と対面した。
 死んだ人を見るのは、初めてではない。おじいちゃんの葬式の時に、おじいちゃんの死に顔を見ている。
 でも、ほほのこけた大おばさんの顔はまるで骸骨のようで、ちょっと薄気味悪かった。
「それでは、これでお別れです」
 係の人はそう言うと、お棺のふたを閉じた。美代子おばさんも含めた何人かの女の人たち、おそらく娘や孫娘たちだろう、が泣き出した。
 台車に載せられて運ばれていくお棺の後を、みんなが続いていく。芳樹もおとうさんと一緒に一番後ろから歩いて行った。
「ここの葬儀場はよくできてるんだぜ」
 隣からとうさんがささやいた。
「えっ?」
 芳樹が聞き返すと、
「あのさあ。火葬場は道路を隔てて、すぐ向かいにあるんだ」
「ふーん」
「だから、お棺を霊柩車で運ぶ必要がないんだ」
「でも、どうやって運ぶの?」
「実は、葬儀場と火葬場が地下通路で繋がっているんだ。だから、お棺は台車に載せたまま、直接火葬場まで運べるんだよ」
「へー!」
「参列の人たちも、そこを通っていけるから、雨の日なんかはすごく便利なんだ」
「でも、地下道にはどうやって行くの?」
 芳樹がたずねると、
「大きなエレベーターが二台もあるんだ。それで、お棺を載せた台車や参列の人たちを一気に地下まで運ぶんだよ。そして、火葬場の地下にも同じようなエレベーターが二台あるから、みんなで直接火葬場まで行けるんだ」
「すげえな」
 芳樹は感心して答えた。

 おばさんがお骨になるまで、みんなは待合室に待機していた。テーブルには簡単な料理やお菓子が並べられ、ビールやジュースなどもある。
喪主の美代子おばさんやその兄弟たちが、みんなにビールをついで回っている。
「やっちゃん、お花をありがとうね。」
 美代子おばさんは、芳樹のとうさんにもビールをついだ。
「いやあ、俺ばかりでなく、子どもたちもおばさんには世話になったから」
 とうさんはそう言うと、うまそうにビールを飲み干した。
 それを見て、芳樹もジュースに口を付けた。
 そばでは、おばさんのひ孫にあたる小さな子どもたちが、緊張から解放されたのか、お菓子を手に走り回っている。さっきまで泣いていた女の人たちも、気持ちの区切りがついたのか笑顔でおしゃべりしている。男の人の中には、早くもビールで顔を赤くしている人までいた。
「準備ができました」
 しばらくして、係の人の声掛けでみんなは火葬室へ戻った。
 そこには、すでに、熊谷のおばさんのお骨が拡げられていた。
 係の人が、大事な骨の幾つかを、そばにいる美代子おばさんたちに説明した後で、二人一組になって、長い箸のようなものでお骨を拾い上げて骨壺に収めていく。
 芳樹も、おとうさんと組になって、大きめの骨を骨壺に入れた。
「働き者だったから、高齢にもかかわらず骨がしっかりしているんだよ」
 終わってから、おとうさんが芳樹にささやいた。
 確かに、あんなに小さくしなびたようになっていたおばあさんだったのに、お骨は、骨壷に入りきれないほどだった。
「それじゃあ。精進落としの会場までは、マイクロバスで移動願います」
 美代子おばさんの夫のヤマちゃんが、大きな声で火葬室を出たみんなに声をかけている。ヤマちゃんの顔は、待ち時間に飲んだビールですでに赤かった。みんなは大きな声で話しながら建物外へ向かっている。
「さすが92歳の大往生のお葬式だねえ。ぜんぜん湿っぽい様子がないなあ」
 とうさんが、隣で感心したように言った。
「92歳か」
 芳樹もつぶやいてみた。14歳の芳樹から考えると、はるかかなたのことのようだ。そう思うと、ちょっぴりだけ元気をもらえたような気がしていた。

   

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6分30秒3

2020-11-21 17:38:15 | 作品

 中間地点を過ぎた時に、恵一には目標の6分35秒を破れないことがわかった。体がいつもより重く感じられ、ストライドものびなかった。
 ハーッ、……、ハーッ。
 呼吸もいつもより乱れている。ランニングシャツが、汗でベッタリとはりついて気持ちが悪かった。
 やっぱり調整に失敗してしまったのだ。今日の区大会の部内選考会を気にしすぎて、最近の練習がオーバーワークになっていたのかもしれない。
 思うようにスピードが出ない。その焦りが、さらに手足をこわばらせる。それがまた、スピードがでない原因になる負のスパイラルに陥っていた。最悪のパターンだ。
 次の角を曲がったときに、いっしょに走っている一年の村下の姿が、後方にチラッと見えた。
 三十メートルぐらいうしろだ。差はあまりひろがっていない。いや、前の角のときより、接近しているように感じられた。このままでは、追いつかれてしまうかもしれない。 
 あと二百メートルになってから、恵一は必死にラストスパートをかけた。
 ハーッ、ハーッ、……。
 最後の角を曲がる。遠くのゴール地点に立つ、長身の笹岡先生の姿が見えた。
 ハーッ、ハーッ、……。
 上体が、ガクガクッと左右にぶれる。あごがあがる。苦しいときに出る悪い癖だ。
 でも、それを直している余裕はなかった。
 あと百メートル。恵一は、けんめいにもう一度ラストスパートをかけようとした。
 ハーッ、ハーッ、……。
 しかし、スピードはあがらない。
 あと五十メートル。額の汗が目にしみこんでくる。それをぬぐうひまはなかった。笹岡先生が、ボーッとにじんで見える
 ハーッ、ハーッ、……。
 あと二十メートル。足がもつれてくる。
 恵一は、なかなかゴールまでたどり着けなかった。
「6分40秒3」
 笹岡先生が、ストップウォッチを確かめながらつぶやいた。そして、わきの下にはさんでいたノートに、すばやくタイムを記入している。
ハーッ、ハーッ、……。
 恵一は、学校の鉄製のフェンスにつかまってしゃがみこんだ。吐き気がして立っていられない。エネルギーを使い果たして、体中の力が抜けてしまう。
 フェンスの向こう側の校庭では、走り高飛びと走り幅跳びの選考会が行われていた。
 歓声が起こった。誰かがバーをクリアしたようだ。
拍手が起きている。
 すぐそばに村下がやってきた。恵一よりも、約十秒遅れでのゴールだった。
ハーッ、ハッ、……。
 村下も荒い息を吐いている。
 村下のタイムを記入し終えた笹岡先生は、陸上部の顧問の大川先生に報告するために、すぐに行ってしまった。
 恵一は荒い息を吐きながら、まだ道路にしゃがんでいた。隣では、村下も苦しそうに下を向いている。
 時間がゆっくりとすぎていく。
 校庭では、また歓声がおきていた。走り高跳びと幅跳びの選考会は、佳境にさしかかっているのだろう。好記録が出るたびにさかんな拍手も聞こえてきた。
 息が整ってからも、恵一はしばらくそこに座り続けた。
 いつの間にか、村下はいなくなっていた。
 やがて校庭の選考会も終わったようで、後片付けが始まっている。
 恵一は、ようやくノロノロと立ち上がった。
(やっぱりだめだったか)
 すべての力が抜けてしまったような気がする。
(目標にしていた区大会出場が、これで事実上不可能になってしまった)
絶望的な気分が、胸の中にひろがっていく。
 でも、恵一にとって、これですべてが終わったわけではない。今日のレースで目標タイムを下回ったとはいえ、恵一にはもう一回チャンスが残されていた。
 陸上部以外の生徒と競う一般選考会だ。そのレースの五位までが、区大会に出られる。
 しかし、恵一には、五位以内に入る自信がぜんぜんなかった。

 区の総合体育大会は、毎年十月に行われている。体育祭と中間テストの間の一大イベントだ。競技は、野球、バレーボールなど、全十五種目にもわたっていた。
 クライマックスは、十月の第三金曜日に行われる陸上競技だ。
 他の競技の会場は、各校持ちまわりで学校の施設で行われている。応援も、その部活に関係する人たちだけに限られていた。
 各競技とも、区内に13ある中学校のすべてに部活動があるわけではないので、八校とか、七校とかだけで行われるのだ。都内にある中学校の宿命でどこも校庭が狭いので、サッカーなどはわずか三校しかなくひっそりと行われていた。
 ところが、陸上競技だけは違った。陸上は基本的に個人競技だし、運動能力が高ければ陸上部以外の生徒でも出場できるからだ。そのため、すべての中学校の全生徒が参加して盛大に行われるのだ。
しかも、開催場所は、区の陸上競技場がないせいもあって、あの神宮の国立競技場だった。当日は、各校の全生徒が一日がかりで応援する大がかりなイベントになっていた。
 この大会では、単に個人の記録を競うだけでなく、学校対抗の団体得点も争われる。だから、出場する生徒はもちろん、学校全体の関心が集まっていた。
 東京オリンピックの舞台での陸上競技大会。ふだんは地味な練習を繰り返している陸上部員たちにとって、この大会は年に一度の晴れ舞台なのだ。
 恵一のU中学では、昨年まではこの大会に、三年生の陸上部員は、一名一種目は無条件に出場できた。それが、もくもくと三年間努力してきた陸上部員たちへのはなむけだったのだ。
 他の選手は、一般の生徒も含めた選考会で決められていた。
 陸上部員と、それ以外の運動能力の高い生徒たちとの混成チーム。それが、去年までのU中学のメンバー構成だった。
 ところが、今年は違った。
 ここ数年の不成績に業をにやした校長が、
「今年は、全選手、選考会で決定」
という案を打ち出してきた。
 これには、陸上部の顧問の大川先生が猛反対した。
「能力に恵まれているかは別として、地道な練習に耐えてきた三年生の部員たちのことを考えてください」
というのが、大川先生の主張だった。
 激しい議論の末、結局、次のような妥協案に落ち着いた。
 陸上部の生徒には、二回チャンスが与えられる。
 一回は、部内選考会。ここで一定の標準記録を上回れば、優先的に出場できる。標準記録に達しなかった者は、一般選考会で他の生徒たちと選手の座を争うことになる。
 標準記録は、過去の区大会の記録を参考に決められた。
 恵一が出場を狙う二千メートル競技の標準記録は、6分35秒になった。このタイムは、大川先生が、恵一のベストタイムである6分33秒4を考慮して、甘めに設定してくれたのにちがいない。なにしろ恵一以上のタイムを出せる生徒は、全校で十人以上はいるのだ。そんなわけで、恵一が一般選考会で五位以内に入るのは絶望的なのだった。

 恵一が陸上部に入ったのは、かっこのいい理由からではない。
 よく長距離を始めた理由を聞かれて、箱根駅伝にあこがれてだとか、オリンピックのマラソンを目標にとかいう人たちがいる。
 でも、恵一は、
(本当かな?)
と、思ってしまう。
 今の中学校では、運動神経が良く、スポーツ万能の男子生徒は、ほとんどは野球部やサッカー部に入っている。女の子たちには、バスケットボール部やバレーボール部の人気が高い。これは、野球、サッカー、ミニバスケットボール、バレーボールといった、小学生を対象とした地域クラブチームがあることの影響が大きい。
 恵一自身も、小学四年から少年野球チームに入っていた。
 でも、とうとうレギュラーにはなれなかった。六年の時でさえ、ねらっていたポジションを、あっさりと五年生の子に取られてしまったのだ。
 恵一は、週二回の平日の練習も、土日の試合にも休まず参加していた。毎年三月に行われるチームの総会で、三年続けて皆勤賞のメダルをもらったのは、恵一だけだった。
 しかし、ホームラン賞にも、首位打者賞にも、もちろん無縁だった。
 恵一は、チームメイトたちがU中学の野球部に入った時、一人だけ野球をやめることにした。彼らと争って、レギュラーを取れる自信がなかったし、もう三年間、彼らの控えとして野球を続けていくことも、自分にはできないと思ったからだ。
 恵一は、部員が少ない陸上部に入った。ここなら、いろいろな種目があって、他の人と競うことがない。
 半年後に、専門を長距離に選んだのも、他に希望者がなく、三年になれば自動的に区大会に出られることがわかっていたからだった。

 陸上部の公式練習日は、週二回だけだった。七十メートル四方の小さな校庭しかない都会の中学校の宿命で、狭いスペースを多くのクラブと交替で使っているからだ。
 とうぜん、恵一の練習はロードで行われている。
 でも、恵一は絶好のトレーニングコースを持っていた。
 U中学の道路を隔てた向かいは、国立博物館だった。ここの広大な敷地の外周が、恵一のトレーニングコースなのだ。
 一周約二キロ。緑が豊富で、平坦な美しいコース。車の多い正門側には広い歩道があるし、裏手はめったに車が通らない。だいいち、ひとつも信号を通らずにすむのがよかった。
 ここで練習しているのは、恵一だけではない。他のクラブも、ウォーミングアップに使っている。さらには、校庭が狭いので、体育の授業でも利用していた。長距離走のタイムをここで測定していたのだ。 
 学校側のフェンスには、二千メートルのタイムを測るために、スタートとゴールの位置に印がつけてあった。
 これは、恵一がタイムを計るときにもすごく便利だった。
恵一は、このコースで毎日練習していた。公式の練習日には、一年生の村下と一緒に走った。それ以外の日も、一人で練習している。
 準備体操のあと、ゆっくりしたペースでまず一周する。
ひといきいれてから、毎日一回だけ、二千メートルのタイムをとる。
この時、左手にはめたストップウォッチつきの腕時計が活躍した。陸上の雑誌の記事で読んだオリンピック選手愛用の時計と同じブランドだった。
それから、学校の前を往復しながら、インターバル走でスピード強化をはかったり、筋トレをやったりしている。
 顧問の大川先生は、砲丸投げが専門なので、あまりアドバイスはしてもらえない。「ランナーズ」とか、「陸上競技」などの雑誌を参考に、自分でメニューを工夫してやらなければならなかった。

 恵一の二千メートル走のタイムは、ここのところほとんど伸びていない。記録を示す折れ線グラフは、ずっと横ばいを続けていた。
 一枚のグラフ用紙には、五十回分のタイムが記録されている。二年間に、そんなグラフがもう十枚以上もたまっていた。
 グラフは、おととしの九月七日から始まっている。
タイムは、7分43秒6。赤のボールペンではっきりと囲ってある。
 初めのころは、順調に記録が伸びていた。その月のうちに、7分30秒を切っている。
 その後も、グラフは順調に右肩下がりになっている。
 初めて6分台を記録したのは、去年の二月二十一日だった。その日の帰りに、スポーツドリンクでささやかな祝杯をあげたことを恵一は覚えている。
 半年前までは、それでも少しずつタイムが良くなっていた。恵一は、折れ線グラフが少しずつ下がっていくのをはげみに、練習を続けていたのだ。
 ところが、三年生になると、記録は6分35秒前後で足踏みを続けるようになってしまった。最高タイムの6分33秒4は、もう三か月も前に出したものだった。
練習方法が悪いのか? 走るフォームが悪いのか? 恵一は、陸上の雑誌や専門書の長距離走の記事や章に載っている内容を参考に、いろいろと工夫をしてみた。
 しかし、成果はなかなかあがらなかった。こんな時、専門のコーチや仲間からアドバイスをもらうことができないのがつらかった。いっしょに練習している一年の岩下はまだアドバイスできるまでのレベルに達していないので、恵一は一人で苦しんでいた。また、学校には陸上部が使えるビデオ装置もないので、自分でフォームをチェックすることもできなかった。

 毎日走り続けていたものの、恵一には、自分が本当に長距離を好きなのかどうか、よくわからなかった。
 月、水、金曜には、野球部が校庭で練習している。
「バッチ、こーい」
「へい、へい、しっかりいこうぜ」
 部員たちは、互いに声をかけあっている。その中には、小学校のときに一緒のチームだったメンバーもいた。
 それを横目に見ながら、恵一は一人でわきを走り抜けていく。
(楽しそうだなあ)
と、感じるときもある。
 そんな時などには、
(補欠でもいいから、野球を続けるべきだったかもしれない)
と、思うことさえあった。
 長距離の練習は、孤独で苦しかった。特に、二年生の時は、一年にも三年にも長距離をやっている者がいなかったので、まったく一人で練習していた。
 全力を出してラストスパートをした後、国立博物館の塀にもたれながら息を整えている時、
(おれは、なんでこんな苦しいことを、一人でやっているのだろう?)
と、思ったりもしていた。
 
 部内選考会の結果は、翌日の放課後に発表された。
 教室には、陸上部の部員が全員集められた。
 大川先生は、ノートを片手にみんなの前に立った。それには、代表選手たちの選考会の記録が書かれているのだろう。
「それじゃあ、代表選手を発表します」
 先生は、みんなの顔をグルリと見まわした後、ノートに目をやった。 
「走り高飛びの岩瀬、一メートル六十。……、走り幅跳びの吉田、四メートル九十八、百メートルの高木、十二秒九。……、」
 一人一人、名前と記録が呼び上げられていく。そのたびに、みんなから小さな拍手が送られる。
 呼ばれた生徒たちは、教室の前へ並んだ。
大声で返事をして、ニコニコといかにもうれしそうに行く者。
喜びを隠して、わざと無表情を装う者。
照れて頭をかきながら出ていく者。
すでに標準記録をクリアしたことを知っているとはいえ、あらためてうれしさをかみしめている。
 そんな中で、恵一は机の上に置いた自分の手をじっと見つめていた。そして、早く発表が終わるのを願っていた。
「次、二千メートルの山口、6分30秒3」
(えっ!?)
 恵一は驚いて、大川先生の顔を見た。
 先生は、うながすように笑顔を浮かべている。
 恵一は、狐につままれたような顔をして、前へ出て行った。
「山口、がんばったな。ベスト記録じゃないか。おまえが、ここ一番にこんなに強い奴だなんて、知らなかったよ」
 大川先生は、恵一だけにはわざわざ声をかけてくれた。部員たちも、他の選手たちより大きな拍手をおくっている。
「次は女子。……」
 きっと笹岡先生が、間違って報告したんだ。40というべきところを30といったのだろうか。もしかしたら、大川先生の方の聞き違えかもしれない。
 恵一は記録が誤っていることを言おうと、大川先生の顔を見た。
先生は、そんな恵一の気持ちを知らずに、女子の選手たちの名前を次々と読み上げている。
 恵一は、とうとう最後まで、自分の記録を訂正することができなかった。
 男女合わせて十六名の選手がそろい、他の部員に向かって礼をした。
 その時、恵一は、村下が不思議そうな顔で、こちらを見つめているのに気づいた。

「山口、ちょっと待てよ」
 恵一は、げた箱の所で後ろから声をかけられて、ドキッとした。
呼び止めたのは、陸上部のキャプテンの岩井だった。
恵一は、緊張した顔で岩井を見つめた。
「一緒に帰ろうぜ」
 岩井は手早くくつをはき替えると、先に立って歩き出した。
「山口、本当に良かったな」
「何が?」
 恵一は小声で答えた。
「何がって、大会に決まってるだろ」
 恵一が黙っていると、岩井は思い切ったようにいった。
「おれよう、ほんとはおまえはだめかもしれないって思ってたんだ。だっておまえ、ここんとこ調子出てなかったからなあ」
 恵一は、警戒して岩井の様子をうかがった。
 でも、岩井は、心からうれしそうな顔をしているように見える。
「おれ、ほんとにホッとしてるんだ。三年が全員出られたからな」
 恵一は自分のことしか頭になかったから気づかなかったけれど、確かに三年の部員は全員選手に選ばれていた。もちろん岩井も八十メートルハードルの選手で、U中学の数少ない優勝候補のひとりだった。
「ゲンキさんもうれしそうだったな」
 ゲンキさんというのは、大川先生のあだ名だ。
 何かというとすぐに、
「ほら、もっと元気出せ」
って、いうのが口ぐせなのだ。
(もしかすると?)
 その時になって初めて、恵一は、大川先生が温情で自分を選んでくれたのかもしれないと思った。

 数日後に行われた一般選考会で、他の選手も決定された。
 二千メートルの一位は、サッカー部の守山で6分11秒8。四位は野球部の今井で6分28秒7だった。恵一の6分30秒3は五位相当だったから、かろうじて面目を保てた。
 しかし、恵一の本当の記録である6分40秒3では、なんと十三位になってしまうのだった。
 各種目の選手たちは、区大会に備えて、すぐに特別練習を始めた。所属する部活以外にも、放課後に練習することが認められたのだ。
二千メートルの選手たちは、一緒にトレーニングをしていた。例の周回コースを、一団になって走っている。
 でも、恵一だけは、みんなから離れて、いつものように一人で走っていた。
 大会が近づくにつれて、恵一は、ますます練習量を増やしていった。
 放課後の練習だけでなく、毎日六時から早朝トレーニングを始めたのだ。本当は、こういった正規の部活の活動時間以外の練習は認められていなかった。
 しかし、総合体育大会の前ということもあって、学校にも黙認されていた。
恵一は、朝練のために毎朝五時におきて、誰もいない学校に一人きりで登校してきていた。
 もちろん、まだ校門は開いていない。恵一は、トレーニングウェアを制服の下にきて登校していた。そして、かばんや脱いだ制服は校門の横においておいた。
 軽くウォーミングアップをしてから、いつもの博物館まわりのトレーニングコースを走り出した。
 恵一のタイムは少しずつだったが良くなり、コンスタントに6分35秒が切れるようになってきた。なんとか大会までに6分30秒3を破って、大川先生の温情にこたえたかった。
 恵一は、村下や岩井、さらに大川先生までも、意識的に避けていた。村下には何かいわれそうで、顔を合わせるのが怖かった。大川先生や岩井に対しては、6分30秒3をクリアできていないのが、負い目になっていた。

 大会前日の金曜日の放課後、選手全員が体育館に集められた。大会用のユニフォームが渡されるのだ。
 恵一には、Mサイズのグリーンのランニングシャツとパンツが手渡された。グリーンは、U中学のスクールカラーだった。
 選手たちは、更衣室でさっそく真新しいウェアに着替えている。もちろんこれは大会用のユニフォームなので、それを着て練習をするわけではなかった。
 でも、ちょっと着てみたかったのだ。
 恵一も、みんなと一緒にグリーンのウェアに着替えてみた。やせている恵一には、ランニングシャツもパンツも少し大きめでゆるかった。
「よっ、山口。なかなかにあうぞ」
 うしろから、岩井が元気よく声をかけてきた。彼もグリーンのウェアを着ていた。彼こそグリーンのユニフォームがよくにあっているし、それにふさわしい選手だ。
「そうかなあ」
 恵一は、ちょっと照れたようにいった。
「うん、にあう、にあう」
 岩井はきげん良くそういうと、すぐに更衣室を出ていった。恵一は、岩井のがっしりした後ろ姿をだまって見送っていた。
 恵一は、岩井のうしろ姿を見ていて、本田先輩のことを思い出した。
 本田先輩は、恵一が一年の時の三年生で、やはり長距離をやっていた。区大会でも、確か十位以内に入ったはずだ。
 本田先輩は受験勉強が忙しくなったので、十一月に入ると部には来なくなってしまった。恵一と一緒に走ったのは、四月からの半年に過ぎない。
 その年の区大会が終わって、最初の練習日だった。
(あっ!)
 校門の近くでウォーミングアップをやっていた恵一は、遅れてやってきた本田先輩を見て目をみはらされた。大会用のグリーンのウェアを着ていたからだ。
 本田先輩だけではない。大会に出場した三年生たちは、みんなグリーンのウェアを着ていた。U中学では、区大会出場の三年生は、大会後はグリーンのユニフォームで練習するのが伝統になっていたのだ。それが、三年間、苦しい単調な練習を続けてこられたことのあかしだった。
大会で好成績をあげたかどうかは、問題ではない。去年までは全員が区大会に出場できたので、三年生みんなが、この日からグリーンのユニフォームで練習する。区大会に出場したことが、三年生たちの誇りだったのだ。
「かっこいいなあ」
 一年の部員のひとりがつぶやいた。他の後輩部員たちも尊敬のまなざしで、三年生たちを見ている。
「じゃあ、行くか」
 軽く体操をした本田先輩は、恵一に声をかけて走り出した。
「は、はいっ」
 恵一もあわてて後を追った。
 二人は、肩を並べて走っていった。はじめは、本田先輩もウォーミングアップでゆっくり走っているので、恵一もついていける。恵一と本田先輩とでは、走るスピードがぜんぜん違う。二人が並んで走れるのは、先輩がゆっくり走っている間だけだった。
 最初の角がきた。そこから、先輩はスピードを上げる。恵一は、みるみる引き離されてしまった。
 本田先輩は、少し左右に揺れながらスピードをあげていく。恵一は、しだいに遠ざかっていく先輩のグリーンのユニフォームの背中を見ながら、二年後に同じユニフォームを着ている自分を夢見ていた。

 その日の午後、選手たちを校庭に集めて、入場行進の練習が行われた。
 授業中だったのにもかかわらず、いくつかの教室の窓からは生徒たちの顔がのぞいている。
 ターンタンタンターンタン、……。
 軽快なマーチがスピーカーから流れてくる。
 校旗をかかげて、岩井が先頭を歩いていく。堂々として、見るからにさまになっている。
 それに続いて、グリーンのユニフォームを着た選手たちが、二列に並んで行進していった。照れくさいせいもあって、みんなぞろぞろとふぞろいだった。
「ほらほら、それじゃ、まるでお葬式みたいだぞ。もっと、元気だしていこう」
 指導にあたっている大川先生が、おきまりのせりふでハッパをかけている。
 行進の練習は、何度も繰り返し行われた。時間がたつに連れて、しだいに全員の足がそろってきた。恵一もグリーンのユニフォームを着て、他の選手とならんで行進していた。できるだけ胸をはって、みんなと歩調を合わせるように努めている。
 各教室から、手拍手がおこった。
かんだかい口笛や声援もおくられる。
中には、紙ふぶきを投げて、先生におこられている者さえいた。
そんな中で、恵一は、記録に達しないのに選ばれた後ろめたさよりも、選手になった喜びの方が大きくなっていることを感じていた。

 ほとんどの選手は、その日の練習をウォーミングアップていどにしていた。明日の試合のために、体を休めるためだ。いまさら、ハードな練習をやっても逆効果になるだけだ。
 そんな中で、恵一だけは、いつもどおりの練習をやっていた。
 最近は、一年生の村下とも離れて、一人で走っていたる
 まず、たんねんに準備体操をして、体をほぐしていく。
 そのあと、例によって、ウォーミングアップの一周。ゆっくりしたペースで走る。
 国立子ども図書館の前を通り、京成電鉄の駅跡の角を曲がるころには、呼吸が整ってきた。
 スッスッ、ハッハッ。スッスッ、ハッハッ、……。
 安定したリズムで走れる。
 一周まわってから、恵一はひといきついていた。
(どうしようか?)
 最後にもう一回、タイムを計るかどうかで、迷っていた。試合前日だというのに、オーバーワークになるのが怖い。
 でも、まだ目標タイムを達成していないことのプレッシャーの方が大きかった。けっきょくタイムをとりながら全力で走ってみることにした。
 しかし、恵一は、今回も6分30秒3を上回ることはできなかった。

 大会の当日は、十月らしい好天気だった。
 恵一は、他の選手といっしょに、国立競技場の入場門の近くに整列していた。選手以外の生徒たちは、すでにメインスタンドに陣取っている。かつては、この五万人収容の大スタジアムのメインスタンドだけでは足りなく、バックスタンド側にも生徒たちが詰めかけていたものだった。でも、少子化の影響で今ではメインスタンド側の一部を占めるだけになっていた。
 入場行進のマーチが、スピーカーから鳴り響いた。練習で使ったのと同じ曲だ。
 前年度総合優勝のO中学を先頭に、開会式の入場行進が始まった。O中学では、旗手に続く選手が優勝カップを胸にだいている。
「入場行進が始まりました。盛大な拍手をお願いします」
 場内アナウンスに合わせて、観客席から拍手が起こる。今日は場内アナウンスも、正式な競技場の人がやってくれているので、まるで日本選手権のような雰囲気だ。
「先頭は、前年度優勝のO中学です。今年も連覇を目指してがんばりたいとのことです」
 各中学の選手たちは、チームごとにきちんと整列している。
 次に行進する中学は、もう足ぶみを始めている。
 U中学の順番はまだだ。
 恵一は列の後ろのほうで、チームカラーのグリーンのはちまきを、もう一度しめなおした。
 前年の成績順なので、U中学の入場は五番目だった。入場の順番がだんだん近づいてくるにつれて、恵一の胸の鼓動は、次第に速くなっていた
 ようやく、次がU中学の順番になった。みんなは旗手の岩井を先頭にして、足ぶみを開始した。恵一もみんなに続いていく。
「続いての入場はU中学、今年は最後まで優勝争いをすることが目標だそうです」
 チームの紹介と共に、U中学の選手たちが競技場に入ってきた。
 スピーカーからながれるマーチに合わせて、二列にならんで行進していた。恵一も、けんめいにみんなに足をそろえている。
 U中学の選手たちが、メインスタンド前にさしかかる。岩井は、大きく校旗をひるがえすと、前方に突き出した。
「うわーっ!」
 観客席のU中学の生徒たちが、熱狂的な声援を送ってくれた。
「いわーい!」
「たかぎーっ!]
 有力選手には、一人一人、声援がかかる。選手たちの中には、手を振ってこたえる者もいる。そんな中で、恵一は、まるでオリンピックにでも出場したかのような感激を味わっていた。思わず、涙がにじんできさえしているほどだった。

 行進を終了した選手たちは、国立競技場の広いフィールドに、学校ごとに整列した。
「……、さいわい晴天に恵まれ、……」
 大会役員のあいさつや来賓の祝辞が続いていく。
 恵一はそれらを聞きながら、今日のレースのことを考えていた。
 今日の目標には、あの6分30秒3を破ることをおいていた。順位なんかぜんぜん関係ない。たとえビリになったって、あの記録さえ破れればいい。
 二千メートル走は、四百メートルトラックを五周する。だから、一周につき1分18秒で走れれば、ぴったり6分30秒になる計算だ。
 国立競技場の電光掲示板には、経過時間が大きく表示される。恵一は、一周ごとにペースをチェックするつもりだった。
「それでは、前年度優勝校の……」
 O中学の主将が、優勝カップを手に前に走り出てきた。
「優勝杯返還」
 優勝カップが、主将から大会委員長に手渡された。
観客席からは、盛大な拍手が起こる。開会式のふんいきが、だんだん盛り上がってきた。

 男子二千メートル競争には、予選レースはなかった。各校五名ずつの選手が、全員出場する決勝だけの一本勝負だ。
 このレースが、大会の最後を飾るレースだった。だから、総合優勝をめぐって、毎年、激烈な得点争いが行われている。今年も、ここまでトップのS中と二位のK中との得点差は、わずかに四点しかなかった。このレースの結果しだいでは、逆転もありそうだ。
「うわーっ!」
 観客席全体から、歓声がわきおこってくる。
「がんばれ、がんばれ、S中」
「フレー、フレー、K中」
 優勝をあらそう両校からは、特に熱狂的な応援が送られている。まだレースが始まらないのに、両校の生徒たちは総立ちになっていた。
 恵一たちのU中学には、すでに優勝の可能性はなかった。今年も、いつもどおりに全体の中ほどの順位になりそうだった。
 でも、このレースの結果しだいでは順位が上下するので、やはり応援に熱が入っている。
「U中、ファイト!」
 誰かが叫んでいる声が、恵一にも聞こえてきた。
 スタートラインに選手が勢ぞろいした。
各校五名ずつ、計六十五人。人数が多いので、学校ごとに縦一列に並ぶ。U中学で五番目の選手である恵一は、一番うしろだった。
 選手たちは、各校から選ばれただけあって、さすがに引き締まったいい体をしている。恵一は、そんな彼らに圧倒されている自分を感じていた。
「位置について」
 選手たちは、いっせいに前傾姿勢を取った。
「……、よーい」
 スタートのピストルが鳴った。
 その瞬間、恵一は何が何だかわからなくなってしまった。
夢中で他の選手をかき分けて前へ進んでいく。他の選手たちも夢中になっているのか、たがいにひじで押し合ったりしている。
 激しい順番争いが終わって、向こう正面で列が整った時、先頭は、黄色のユニフォームのS中の選手だった。ついで紫のK中の選手。
そして、恵一はいきなり三番手になっていた。思っても見なかった展開だ。これからどうするか、のぼせ上がってしまった恵一には考えがまったくなかった。
 一周回ってホームストレッチへ。
「うわーっ!」
 各校の声援が大きく盛り上がる。
 恵一はスピードを上げると、先行する二人を抜いてトップにたった。
U中学の生徒たちは大喜びだ。
「やまぐちーっ」
「けいいちーっ」
「やまぐちさーん」
 黄色いのやら、ガラガラのやら、様々な声が恵一に飛んだ。
 電光掲示板に、一周目のラップが表示された。
1分9秒17。計画タイムを9秒も上回っている。明らかにオーバーペースだ。
 しかし、恵一は、ラップタイムを見ようともしなかった。
 二周目に入っても、恵一はトップをキープしていた。手足がいつもよりも軽く感じられる。
(奇跡だ。もしかすると、自分でも気がつかない力があったのかもしれない)
 六十四名の各校の代表選手を従えて、先頭を走っていく。恵一にとっては、生まれて初めてといっていい晴れがましい最高の気分だった。

 三周目に入ると、ピタリと後ろについていたS中の長身選手が、恵一をかわしにかかった。
恵一も、抜かさせまいとして、ピッチをあげようとする。
(あっ!)
 その時、恵一は、やはり奇跡はおこっていないことを思い知らされた。さっきまで、あれほど軽かった手足が、みるみる重くなっていく。
ハーッ、ハッ。……。ハーッ。
息づかいも、荒く不規則になってきた。
あっという間に、S中の選手に抜かれてしまった。
(くそーっ)
恵一は、けんめいに後を追いかけようとした。
でも、スピードがぜんぜんあがらない。
(だめだ!)
と思ったら、後は気が抜けたようにズルズルと後退していった。
 恵一は少しペースを落として、呼吸を整えようとした。今までも練習中にオーバーペースになった時に、よくこの手を使ったのだ。その横を、他校の選手たちが次々と抜いていく。
でも、恵一は、もうその後を追うことはできなかった。
「やまぐちーっ」
「がんばれーっ」
 その時、再びU中学の大声援が聞こえてきた。いつの間にか、またホームストレッチにきていたのだ。
「もりやまーっ、がんばれー」
 恵一がちょっと振り向くと、すぐ後ろに同じU中学の守山があがってきていた。守山はすぐに恵一に並ぶと、そのまま追い抜いていこうとした。恵一は、思わずまたスピードをあげようとしてしまった。
「あっ」
 恵一は守山に接触しそうになって、足がもつれて前へのめってしまった。
(かっこ悪い。なんてぶざまなんだ)
 スタンドのみんなの目が、恵一に集まったような気がした。
 次の瞬間、恵一はまるで足がつったかのように、数回、右足を引きずって、その場をごまかそうとしてしまった。
 守山は、なにごともなかったかのように恵一を引き離していく。他の選手たちも、どんどん恵一を追い抜いていった。
 恵一は、もう冷静にペースを落として呼吸を整えることもできず、ただあせってもがくだけだった。
 S中とK中の選手が、ゴール前で激しいデッドヒートを演じて、応援の生徒を熱狂させているころ、恵一はやっとバックストレッチに入ったところにいた。

 レース結果はみじめだった。六十五人中、六十五位。
 タイムは6分58秒6。目標の6分30秒3には遠く及ばない。
全選手の中で、ダントツのビリだった。
 恵一は、疲れきって控室へ戻ってきた。
「山口、足は大丈夫か?」
 大川先生が、恵一を抱きかかえるようにして迎えた。
「はい、ちょっと」
「つったのか?」
「ええ」
 恵一は、小さくうなずいてしまった。
 先生は、恵一の足をていねいにチェックしてくれた。
「そうか、オーバーペースだったな」
「はい」
 今度は、はっきりと返事した。
「足は大丈夫なようだけど。棄権してもよかったんだぞ。あんまり無理するな」
 恵一は、黙って目をつぶっていた。

 月曜日の朝、恵一が教室に入っていくと、みんなの視線がいっせいにそそがれた。恵一は、それに気づかないふりをして、自分の机にかばんをおろした。
 ひょうきん者の大谷が、すぐに恵一の席にやってきた。
「おい、演技派」
 大谷がニヤニヤしながらいった。
「なんだよ?」
 恵一は、何のことかわからずに、大谷にたずねた。
「なかなかうまかったぜ。足をひきずるのがよ」
 大谷は、恵一のまねをして、右足をひきずってみせた。
クラス中のみんなが、ドッと笑った。
「本当につったんだよ」
 恵一はやっとの思いでいった。
 しかし、恵一の赤くなった顔は、大谷の言葉を裏づけてしまっていた。
「まったく、学校の恥だったぜ」
 大谷はそうすてゼリフを残すと、自分の席に戻っていった。恵一は、だまってそれを見送るよりしかたがなかった。
「おっ、いたいた」
 休み時間ごとに、他のクラスの生徒までが恵一をからかいにきた。
「山口、二千メートルの時、演技したんだって?」
 どこから聞きつけたのか、大谷と同じようなことをいっている。
「そんなことないよ。足がつったんだよ」
 恵一は、けんめいに弁解した。
「そうか? でも、走り終わった後、何ともなかったっていうじゃないか」
(そんなことまで、うわさがひろがっているのか)
 恵一は、ぼうぜんとしてしまった。
 その後も、いれかわりたちかわり、いろいろな生徒にからかわれた。
「無理して先頭に立ちやがって」
「けっきょくビリじゃないか」
「U中学の恥」
「あんなタイムなら、他の奴を出せばよかった」
 いろいろな言葉があびせられた。
 恵一はもう何もいわずに、じっと机の上をみつめていた。

「山口、ちょっと」
 昼休みに、岩井が教室にやってきて入口の所から声をかけた。
 恵一が、そばへ行くと、
「ちょっと、来てくれ」
といって、先に立って歩き出した。
 恵一は、しかたなくその後についていった。
 岩井が恵一を連れてきたのは、陸上部の部室だった。
 ドアを閉めると、岩井はすぐに話を切り出した。
「山口、変なうわさがあるんだ」
 恵一はドキッとして、岩井の顔を見た。
「部内選考会でのお前のタイムは、標準記録をクリアしてなかったっていうんだ」
 恵一には、選手発表の時の村下の不思議そうな顔が浮かんできた。
「もちろん、うわさをたてた本人には、おれからくぎをさしておいたけどな」
 岩井は、しばらく恵一の顔をながめてから、ズバリといった。
「山口、本当のところはどうなんだ?」
 恵一は、しばらく黙っていた。
「えっ、どうなんだよ?」
 岩井は重ねてたずねた。
「……、自分でもどうしてだかわからないんだけど、……」
 岩井の真剣な表情に負けて、十秒のタイム差について告白してしまった。
「やっぱり、本当なのか」
 岩井は、がっかりした顔をしていた。
 恵一は、だまってうなずくしかなかった。
「ゲンキさんも、グルなのか?」
「わからない。ただの勘違いかもしれないし、ぼくだけ落ちるとかわいそうだから、わざとしてくれたのかもしれない」
 恵一は、泣き出しそうになりながらも、けんめいに説明した。
「ゲンキさんなら、そうするかもしれないなあ」
 岩井はそういうと、急に表情をひきしめた。
「でも、おれだったら、そんなお情けにはすがらない」
 岩井はきっぱりというと、さっさと部室から出て行ってしまった。
 恵一は、しばらく部室を離れられなかった。

 長い一日が終わった。
恵一は、
(まっすぐ家へ帰ろうか?)
とも思った。
 でも、やはり部室へ来てしまった。
 ドアを開いた。他の部員が、いっせいにこちらを見る。
「ちわー」
 恵一は小さな声でいった。
 でも、誰も返事をするものはいない。今度は、みんなが恵一から目をそらしている。すでにうわさを聞いたのか、みんなが恵一を無視していた。ただ、おそらく岩井からくぎをさされていたのか、昨日のことは何もいわれなかった。
 恵一は、部屋の隅に行って、一人で着替えを始めようとした
 バッグを開けると、グリーンのユニフォームが入っていた。まわりを見ると、他の三年生たちは、当然のような顔をして、グリーンのユニフォームに着替えている。
 でも、恵一は、ちょっと迷っていた。
 やがて、グリ-ンのユニフォームでなく、いつもの白いトレーニングウェアの方に着替えた。そして、黙って部室を出ていった。
 部室から校庭へ出ると、そこではいつものように野球部が練習していた。その横を通って、恵一は学校の外へ出ていった。
 校門の前で、入念にウォーミングアップをはじめた。週末の間、久しぶりに練習を休んでなまった体を、順々にほぐしていく。
 両方の足首をたんねんにまわす。ふくらはぎのストレッチ。もものうらのストレッチ。股関節のストレッチ。上半身のストレッチ。
 二十分もたつと、ようやく体中の筋肉や関節がほぐれてきた。そして、それとともに、自分がリラックスしてきたのを感じていた。
 校門の前なので、他のクラブや帰りがけの生徒たちが、恵一をジロジロ見ながら通っていく。みんな、昨日のことは知っているようだ。
 中にはわざと聞こえるように、
「演技派」
「U中の恥」
などと、いっていく者もいる。
 しかし、恵一は不思議ともう気にならなかった。ただもくもくと、一人で走る前のウォーミングアップを続けていた

 恵一は走り出した。
 例によって、まずウォーミングアップの一周。ゆっくりしたペースで走る。
 国立子ども図書館の前に差し掛かった。レリーフをほどこした重々しい建物が、右手にそびえている。
 京成電鉄の駅跡の角を曲がるころには、呼吸が整ってきた。
 スッスッ、ハッハッ。スッスッ、ハッハッ。……。
 安定したリズムで走れる。
 いつものように、国立博物館を一周して学校まで戻ってきた。
 校庭では、野球部が練習を始めていた。
「バッチ、こーい、バッチ、こーい」
 ノックを受けている部員のかけ声が聞こえてくる。
 すでに二週間前に大会が終わっている野球部には、三年の部員は来ていなかった。小学校時代に恵一をおさえてレギュラーをしていた連中は、今は受験勉強に精を出しているのだろう。
 二周目を走り始めた時、恵一は、いつもの習慣で、ストップウォッチのボタンを押していた。
 しかし、すぐに止めてしまった。
(もうタイムを計る必要はない)
 恵一は、好きなペースで三周だけ走ろうと思った。
 だんだんにスピードを上げて走っていく。
 図書館の前をすぎる。京成電鉄の駅跡の角を曲がった。
 国立博物館の正門前にさしかかる。閉館時間なので、たくさんの人たちが出てきた。恵一は、その間を上手にすりぬけた。
 博物館の角を曲がる。次はJRの鶯谷駅のそばの角だ。
 そこを曲がると、やがてゴールのU中学の校舎が見えてくる。
 三周目に入った。
 恵一は、相変わらず快調なペースで走っている。
(大会の時に、こんな風にリラックスして走れていれば、……)
 かすかに後悔にも似た感情がわいてきた。
 博物館の正門の前に来た時、急に雨が降り出した。大粒の雨で、すぐに本降りになった。恵一は、ずぶぬれになりながら走り続けた。
 予定の三周が終わった。
 でも、恵一は止まる気になれずにそのまま走り続けることにした。
 次の一周は、さすがに途中から苦しくなってきた。恵一は乱れ始めた呼吸をけんめいに整えながら、自分は本当に長距離が好きなのかもしれないと思い始めていた。

 

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コイン

2020-11-19 15:25:21 | 作品

 鋭士の人差し指にはじかれた百円玉は、きれいにみがかれた大きな机の対角線上を、スルスルと音もなくすべっていく。
 コツン。
 軽やかな音をたてて、反対側の角にあった富永の百円玉にあたった。
 富永のコインは、はじきとばされて机の下に落ちた。
 一方、鋭士のコインは、ねらいどおりにピタリとその場に残った。
 正確に、コインの真ん中にあたったからだ。
 理科でならった物理の法則でいうならば、鋭士のコインの持っていた運動エネルギーは、すべて富永のコインに伝達されたってわけだ。
「クソーッ、サーブでやられちゃ、手のうちようがねえよな」
 富永は、両手を広げて大げさにくやしがっている。天パーの髪を長くのばし、まぶたは二重というより三重か四重ぐらいにみえる。ほりも深くて、ちょっと日本人ばなれしたルックスをしていた。
「へへ、いただき」
 鋭士はすばやくコインを拾い上げると、胸のポケットにしまいこんだ。胸のポケットはもうたっぷりふくらんでいて、ジャラジャラと重かった。今日のもうけは、すでに二千円近くいっているはずだ。いつものように、鋭士のコインバトルのプレーは絶好調だった。
 二学期の終業式後の図書室。もう利用者もなく、あたりはガランとしている。さっきまで蔵書の整理をしていた、下級生の図書委員たちは、じゃまになるので先に帰らせていた。あとには、コインバトルをやっている、鋭士、富永、高崎、大谷、それに高田ブーしかいない。 
 専任の司書のいないこの学校では、図書委員長である鋭士が、いつもこの部屋の鍵をあずかっている。だから、図書室は鋭士たちのかっこうの溜まり場になっていた。煙草をすったり、スマホでアダルトサイトを見たりもしていたけれど、最近はコインバトルがはやっている。
 コインバトルというのは、コインをおはじきのようにはじいて、相手のコインを落とすゲームだ。
 もちろん、落としたコインは自分のものになる。つまり一種のギャンブルなのだ。
 相手のだけを落として、自分のコインは机の上に残さなければならない。自分のも落ちたらファールになって、そのコインは賞金としてプールされることになる。だから、コインをはじく方向性だけでなく力のコントロールも重要だった。
 最近ではみんなの腕前があがりすぎて、教室の机ではおたがいに一発でおとせるようになっていた。サーブをだれがやるかで勝負が決まってしまうので、これではゲームがなりたたない。それで、図書室にある大きな机でやるようになったのだ。
 しかし、自他共に認める学校一のコインバトルの名手である鋭士は、ここでもかなりの確率で、サーブで相手のコインを落とせるようになっていた。
 おかげで、最近は小遣いにはまったく不自由しない。
 でも、もうけた金は、ケチケチせずにパーッとみんなにおごっている。独り占めにして、友だちを失うようなへまはしなかった。
 学校の帰りに、いつも立ち寄るコンビニがある。本当は、寄り道や買い食いは禁止されているけれど、そんなことは知ったこっちゃない。
コンビニの前を通りかかると、鋭士はいつもみんなを誘う。
「ちょっと、寄っていこうぜ」
「お前にやられてスッカラカンだよ」
 高崎が口をとがらせて文句を言う。
「だから、おれがおごるよ。なんでも買っていいぜ」
 鋭士は、コンビニのドアを開けながら、みんなの方を振り返る。
「いつも悪いなあ」
 富永がニヤニヤしながら言うと、みんなはドヤドヤとコンビニの中に入ってくる。
 アイス、コーラに、たこ焼きやアメリカンドッグ。
 みんなが持ってきたものを、まとめてレジに出す。
「まとめておねがいします」
 そう言いながら、胸のポケットから今日の稼ぎのコインをつかみ出す。これが毎日のお約束の日課だった。

鋭士は、今、中学三年、十五才。
夏休み前に、野球部も引退してしまったし、他の連中のように塾にも通っていないので、すっかり暇を持て余している。
学力テストの成績は学年でトップなので、担任は国立の付属や開成などのいわゆる超難関校をすすめるけれど、鋭士にはぜんぜん興味はない。だからといってもちろん都立にいくつもりもない。もう受験なんかとはおさらばしたかったから、志望校は私大の付属一本にしぼっていた。このレベルならば、ほとんど受験勉強しなくても受かる自信が鋭士にはあった。せいぜい直前になって、一回過去問を解いてみる程度で十分だろう。これ以上誰かと競争して受験勉強にはげむなんて、鋭士にはぜんぜん性にあわなかった。
 先生たちも、いい成績をとっている限りは、鋭士には干渉しなかった。
 それに、私立志望の鋭士には、内申書というやつらの切り札がきかないことを知っているので、あえてふれないようにしているみたいだ。
 鋭士は、自慢でもなんでもなくほとんど勉強したことがなかった。
クラスのやつらから、それでも成績がいい理由を聞かれると、
「何かを読むと、一度で内容を理解して、それをそっくりいつまでも覚えてられるんだ」
って、説明することにしている。まあそれは少し大げさとしても、教科書は一回読んだだけで内容は完璧に理解して記憶することができた。
 毎年、学年の最初にまとめて配られる教科書。ひまつぶしにその日のうちにほとんど読んでしまう。そうすれば、ふだんは勉強しなくてもOKだった。もしかすると、鋭士の理解力や記憶力は、異常に強いのかもしれない。

 ガララッ。
 大きな音を立てて、いきなり図書室の入り口の扉が開いた。
(やばい)
 鋭士たちはすばやく机の上のコインを拾い上げると、ポケットの中につっこんだ。お金をやり取りするコインバトルは、もちろん学校で厳重に禁止されている。
 でも、入り口から顔を出したのは先生ではなく、三組の青木だった。
「おっ、いたいた。やっぱりここか」
 青木は、まっすぐに鋭士の方にやってきた。
「エイシ―っ。おまえ、社会の成績、いくつだった?」
 青木は他のメンバーは無視して、唐突に鋭士にたずねた。
「なんだよ。いきなり」
「いいから、教えろよ」
「えーっと、なんだったけな」
 カバンの中に突っ込んだままの通知票を取り出した。
「おっ、4だった」
 通知表にはあまり興味がなかったので、まだ見ていなかった。
「ふーん、やっぱりな。おまえ、期末は何点だった」
「100だよ」
 ヒューッ。
 富永が小さく口笛を吹いた。
「中間は?」
「やっぱ、100だよ」
 さすがに、今度は他の奴らまでが驚いたようだった。いつも、成績のことで母親にガミガミいわれている大谷なんかは、引きつったような顔をしている。
「おまえ、それで文句ないのかよ?」
 青木が怒ったような顔をして言った。
「なんで?」
「だって、中間も期末も100点なのに、なんでおまえまでが5じゃないんだよ」
 青木は中間が95で、期末が100で合計195点だったのだそうだ。それで、当然5がもらえるだろうと思っていたら4だったので、頭に来ていたってわけだ。
「山崎の野郎、やっぱり女にしか5はつけないって、うわさはほんとだったんだな」
 青木がはきすてるように言った。
 社会担当の山崎は、もちろん最悪な奴だ。
 クラスの女の子、特にかわいい子たちを舌なめずりしそうな顔をして見ていることは、みんなが知っている。
(学区外のどこかで、援交でもやってるんじゃないか)
って、もっぱらの評判だ。
「なんだよ、青木。今ごろ、そんなこと知ったのか。そんなの常識じゃねえか。一学期だって、おんなじだったぜ」
 自慢のように聞こえるかもしれないが、中学に入ってからの定期テストで、社会は100点以外をとったことがない。もちろん、一年の時から成績はぜんぶ5だった。
 山崎に初めて4をつけられたときには、
「おや?」
って、思ったけれど、学校の成績にはあんまり関心がないのでだまっていた。
 ものぐさな山崎は、ドリルなどの答え合わせの時、自分でやらないで、鋭士に答えを言わせている。解答集を見なくても、鋭士が間違えるはずがないことを知っているからだ。そのくせ、鋭士の成績には5をつけないのだから、本当ならば文句を言ってもいいところだ。
「……」
 それを聞くと、青木はエイリアンでも見るような目つきで鋭士をにらんでから、そのまま図書室を出ていった。
「なんだよ。青木の奴、せこいなあ」
 扉が閉まると、大谷が馬鹿にしたように言った。
 でも、本当は青木が鋭士だけに試験の結果を聞いて、大谷たちを無視したのがくやしかったのだろう。

 鋭士たちがコインバトルをやるようになったのは、三年になってからだ。夏休みにはいったん下火になったものの、二学期になってからはいっそうはやるようになっていた。
 初めは十円玉でやっていたのが、鋭士たちの間では、すぐに五十円玉や百円玉にエスカレートした。もっとも、他の連中のしけた勝負では、今でも十円玉が使われているみたいだった。さすがにそこでも、五円玉でやろうというと、馬鹿にされているようだ。
 いつも最高レートでやっている鋭士たちのグループでは、ついには五百円玉も登場した。
 でも、こいつは大きすぎてねらいやすいので、かえって餌食になりやすかった。それに、さすがに一発で五百円がふっとぶ勝負は、中学生にはきつすぎた。
 初めは、グループ内での金の貸し借りもあった。
 だが、借金で首がまわらなくなった奴が続出して、学校で問題になってしまった。何度か借金棒引きの「得政令」が、学校側によって出てからは、その場でのキャッシュの精算になっている。
 鋭士たちのグループが、図書室でコインバトルをやっているのは、クラスでもなかば公然の秘密になっている。
 でも、鋭士はけっこう顔がひろいから、クラスの主だったメンバーに顔がきいた。だから、先生たちに告げ口される心配はなかった。
 それに、図書委員長の肩書きにものをいわせて、邪魔者は図書室から追い出してしまった。図書室担当の荒木先生は、図書室の運営を鋭士にまかせっきりだった。
 そんなことばかりやっている自分の事を思うと、
「小人、閑居して悪を為す」
なんて言葉が頭に浮かんでくる。
鋭士は、勉強だけが異常にできる小人なのだ。

 

 

 

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リスカ

2020-11-05 15:01:06 | 作品

 康平は小学五年生。中学二年生の姉の秀香がいる。
その秀香が、最近不登校になっていた。クラスの雰囲気になじめなくて、学校へ行きたくなくなってしまったのだ。
秀香は中学生になってから、部活でバレーボール部に入っていた。一年のころはけっこう熱心に部活の練習をやっていた。
でも、先輩との関係がうまくいかなくなって、二年になってから部活を辞めてしまった。それも、不登校になった原因の一つかもしれない。
秀香は不登校といっても、自分の部屋に引きこもっているわけではない。外出こそできないが、家の中では自由に行動していた。居間でテレビを見たり、スマホをいじったりしている。
家族とは普通に話をするし、友だちともLINEでやりとりしているので、完全に孤独になっているわけでもない。
初めは、秀香は、学校に行ったり行かなかったりといった具合だった。それが、今ではぜんぜん行かなくなってしまった。
 おかあさんは、学校や教育委員会に行って、秀香の不登校のことを相談していた。
「私の育て方が間違っていたのかしら?」
 おかあさんは、さかんにおとうさんに愚痴をこぼしている。
康平の家では、おとうさんだけではなく、おかあさんもフルタイムで働いている。康平は、低学年のころは、学校が終わると学童クラブへ行っていた。秀香も、小学生の時は同じ学童クラブにいた。
もっと小さい時は、二人とも保育園に預けられていた。
おかあさんは、二人が小さい時に、自分が家にいて育てなかったことを、今になって悔やんでいるのだ。
最近は、秀香とおかあさんは、学校に行くか行かないかで、毎日のようにけんかをしている。
そして、いつも最後には、おかあさんが泣き出して、秀香が自分の部屋へ逃げ込む。これは最近の決まりの行動だった。ある日、いつものけんかの後で、秀香が自分の部屋ではなく風呂場にこもってしまった。
「大丈夫?」
あまり出てこないので、おかあさんが心配して風呂場をのぞいた。
「どうしたの?」
秀香が、風呂場に倒れている。
「キャーッ!」
おかあさんは大声で叫んだ。浴槽の中が血だらけになっていた。秀香が、発作的に風呂場で手首を切ったのだ。カッターナイフで左手首を切っていた。
秀香は、ぐったりとして目を閉じている。
「しっかりしてえ!」
あわてておかあさんが、秀香の腕をタオルで縛って止血をした。タオルはすぐに真っ赤になった。
「康平、救急車!」
おかあさんが叫んだ。
「はい」
康平が急いで119に電話をした。
「119です。どうしました?」
「大変です。けが人が…。すぐに、すぐに来てください」
康平は、あわてて救急車を呼んだ。

 かつては手首自傷症候群として重大視されていたリストカットが、現代では「リスカ」として、気晴らし食いやセックスやダイエットやピアスとおなじくらい普通の若者(特に女性)の普通の振る舞いになってしまっている。
 「リスカ」には軽い「解離」が起こっている場合が多く、血を見て初めてハッとして、生の実感を持つようだ。
 それだけ、現代の若い女性たちにとっては、生きる希望が見いだせない状況なのだろう。
 彼女たちは、リストカットは死にたいからするのではなく、生きたいからするのだ。
 現実が生きづらくて解離した状態から、リストカットで血を見てまた現実に復帰する事を繰り返しているのである。
 従来から、結婚して主婦になるということは、男性への<従属>に向けて彼女たちの<主体化>を要求されることだった。
 その場合に、女性たちには、子どもを産み育てる<再生産する身体>と、夫専属の娼婦のような<性的身体>の二重の役割が求められていた。
 そして、そこから離脱するためには、<生産する身体>としての労働者になるしかなかった。
 しかし、職場においても、女性としての役割しか求められていなかった。
 現代においても、夫のドメスティック・バイオレンスや職場などでのセクシャル・ハラスメントの問題は解決していない。
 特に、1990年代のバブル崩壊以降は、格差社会化が進行し、特に若い女性たちは、非正規労働、貧困、風俗などによる性的搾取、非婚化などによって、ますます生きづらくなっている。
 そして、本来は社会のひずみのせいであるのに、あたかも自己責任であるかのように問われて、彼女たちは益々内部で引き裂かれている。
 そんな状況では、血を見ることによって自分の「生」を確認する「リスカ」は、ますます増加することだろう。

幸い傷が浅かったので、秀香は入院もしないで、すぐに家に帰ってきた。
でも、左手首には白い包帯がまかれている。
おかあさんによると、医者からリストカットは癖になりやすいといわれたらしい。傷が深かったり、発見が遅かったりすると致命傷になるかもしれないので、おかあさんはびくびくしている。
両親は、しばらく秀香の不登校を、黙って見守ることにした。
康平には、秀香に何もしてあげることができない。
リストカット以来、秀香は部屋に引きこもったまま出てこなくなってしまった。
(部屋で何をしているのだろう?)
ある日、康平は思い切って秀香の部屋にいってみた。
 トントン。
 ドアをノックした。
「誰?」
「ぼく」
「鍵がかかっていないから、入っていいわよ」
意外にも、秀香はあっさりと部屋の中に入れてくれた。
秀香は、もう左手首に包帯を巻いていなかった。
「ほら」
康平は、秀香に左手首の傷を見せられた。白い細い線になっていた。
「もうこんな馬鹿なことやらないから、心配しないで」
 秀香は、笑いながらいっていた。
 耕平は、それを聞いて少しだけ安心した。

     

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ジグソーパズル

2020-10-29 16:15:40 | 作品

 梅雨の合間の良く晴れた日だった。ぼくは、学校の帰りに一人で横山公園のそばを通っていた。
 中からは歓声が聞こえてくる。公園では、いつものように幼稚園ぐらいの子たちがたくさん遊んでいた。
 公園の中心には、すべり台やジャングルジムやトンネルなどを組み合わせたような複合遊具がある。そこに大勢の子どもたちが群がっていた。
 複合遊具のそばで、大声で泣いている小さな男の子がいる。
(ぜんぜん変わらないな)
と、ぼくは思った。
 ぼくも幼稚園や小学校の低学年のころには、いつもここで遊んでいた。そして、あの子のように泣いたり笑ったりしていた。そのころも、この公園は、子どもたちのかっこうの遊び場だった。
 もっと早い時間には、幼稚園や小学校の子たちばかりでなく、バギーに乗せられてやってきた、もっと小さな子たちもたくさん来ていた。公園の周囲にあるベンチでは、そばにバギーを並べて、若いおかあさんたちが大勢おしゃべりをしていた。子どもたちだけでなく、おかあさんたちにとっても、この公園はちょっとした社交場なのだ。
 ぼくは足を止めて、公園の外からしばらく子どもたちが遊んでいるのを見ていた。そうすると、小さかったころのことが思い出されて、頭のすみがジーンとしびれてくるような感じがした。
 ぼくは、幼稚園のころの自分を思い出していた。

 その日も、ぼくはおかあさんに横山公園に連れてきてもらっていた。二つ年上のにいちゃんも一緒だ。ぼくは幼稚園に入ったころで、にいちゃんは小学一年生になったばかりだった。
 公園の複合遊具は、その時も大勢の子どもたちで混み合っていた。
 いつの間にか、ぼくはにいちゃんとはぐれてしまっていた。
 ぼくは、複合遊具の頂上からまわりを見渡した。
 でも、にいちゃんの姿は見えない。おかあさんは、遠くでママ友たちとおしゃべりしている。
しかたないので、ぼくはすべり台で下りていった。このすべり台は、いつも気持ちの良いスピードが出る。
「おい、どけよ」
 すべり台をすべり終わってその場にそのまま立っていたら、後ろからすべってきた男の子にどなられた。
 振り返ると、その子はぼくよりだいぶ大きかった。
「どけったら」
 その子は、いきなりぼくを力いっぱい突き飛ばした。ぼくはあおむけに倒れて、ゴンと後頭部を地面にうちつけた。
 ぼくは、驚いたのと痛かったのとで、大きな声をあげて泣き出してしまった。ぼくを押し倒した子は、ニヤニヤしながら見下ろしている。ぼくにはその子が、テレビの変身ヒーローシリーズに出てくる恐ろしい怪人のように思えた。
 と、その時だ。
「よっちゃん、どうした?」
 離れていたところにいたはずのにいちゃんが、いつのまにかぼくのそばにきていた、ぼくの泣き声を聞きつけてとんできてくれたのかもしれない。
「なんだ。てめえは」
 ぼくを泣かした子は、今度はにいちゃんにパンチしようとした。
 でも、にいちゃんはすばやく相手のパンチをかわすと、思いっきり両手で相手を突き飛ばした。
 今度は、その子が地面に後ろ向けに倒れて、後頭部を打ちつけた。
「キーック!」
 にいちゃんは、さらにその子にとどめをさしている。
 その子は大声で泣き出すと、あっさりと逃げ出していった。にいちゃんは、あっという間に、いじめっ子をやっつけてくれたのだ。
「よっちゃん、もう大丈夫だよ」
 にいちゃんは、ぼくの頭をやさしくなぜてくれた。
 ようやくぼくが泣きやむと、にいちゃんは二カッと笑った。ぼくも、もう安心しきってニコッと笑い返した。
 そう。小学一年生のにいちゃんは、そのころのぼくにとっては、いつでもピンチになると助けにきてくれるスーパーヒーローのような存在だったのだ。

 それから何年かたって、ぼくも小学校にあがった。
 にいちゃんと一緒に学校へ通うようになると、ぼくにも少しは現実がわかるようになってきた。上級生の他の男の子たちと比べて、にいちゃんがけっして飛びぬけてすぐれた存在ではないことに気がついてしまったのだ。
 いや客観的に見れば、むしろごく平凡な男の子に過ぎなかったのかもしれない。
 にいちゃんは引っ込み思案なのか、授業中もそれ以外でも、積極的にみんなを引っ張っていくタイプではなかった。
 授業参観にいったおとうさんの話によると、先生がみんなに質問した時、にいちゃんも手を挙げているのだけれど、机の上から数センチのごく低空飛行だったので、先生がぜんぜん気付いてくれなかったのだそうだ。
「わかっているんだから、もっと高く手を挙げればいいのに」
 おとうさんがそう言っても、にいちゃんは恥ずかしそうに笑っているだけだった。
 それでも、相変わらず、ぼくはそんなにいちゃんを尊敬していた。
 そのころは、四畳半の部屋に二段ベッドとそれぞれの勉強机を持ち込んだ相部屋だったので、ぼくとにいちゃんはいつも一緒だった。
 にいちゃんは、おかあさんに言われなくてもいつもこつこつと勉強していて、算数でも国語でも、ぼくがわからないことはなんでも教えてくれた。
 いつかおかあさんがそっと見せてくれたにいちゃんの通信簿は、どの科目もすごくいい成績だったので、ぼくはびっくりしたことがあった。もしかすると、おかあさんはそれを見せれば、平凡な成績のぼくが少しは発奮するんじゃないかと思ったのかもしれない。
 一緒に入っていた少年野球チームでもそうだった。
 小柄で不器用なにいちゃんは、チームではずっと補欠だったけれど、みんなが帰った後もいつも一人だけ居残り練習をしていた。
 そんなにいちゃんを監督やコーチたちも見捨てられなかったのか、いつでも誰かがつきっきりで教えてくれていた。
 そして、五年の秋に新チームになった時、にいちゃんはライパチ(守備はライトで打順は八番の、最後のレギュラーポジション)ながら、監督言うところの史上最強世代のチームのレギュラーポジションを見事に獲得していた。
 そう、その時も、まだにいちゃんはぼくの誇りだったのだ。

 ガチャン。
「ただいま」
 玄関のドアを開けて、ぼくはいつものように小さくつぶやいた。
 といっても、誰かの返事を期待しているわけではない。とうさんは会社だし、かあさんもこの時間にはまだパートから帰ってきていないからだ。いってみれば、「ただいま」と言ったのは、帰宅の時のたんなる習慣のようなものかもしれない。
 と、その時だ。左手の部屋から、
「おかえり」
と、小さな声が聞こえた。
(にいちゃんだ)
 にいちゃんが、返事をしてくれたのだ。
 ぼくは、急いで靴を脱いで家に上がると、
「にいちゃん、ただいまあ」
と、大きな声でもう一度言った。
「……」
 ぼくはにいちゃんの部屋のドアをじっとながめたが、それっきりにいちゃんから返事はなかった。
 でも、確かにさっきの声はにいちゃんだった。ぼくがにいちゃんの声を聞いたのは、数か月ぶりのことかもしれない。
(にいちゃんが返事をしてくれた)
 それだけでも、ぼくにはすごくうれしいことだった。

 にいちゃんは、今年、中学二年生になった。
 でも、中学に入ってから学校を休みがちになってしまっていた。
 初めのころは、家にいる時はすごく元気で普通に生活していた。それなのに、学校だけは休んでしまうのだ。
 朝、学校に行こうとすると、にいちゃんはおなかが痛くなったり吐き気がしたりして、家を出られなくなってしまった。
 そういった症状が出るのは、最初は月曜日だけだった。火曜日以降は、そのままずっと学校へ通うことができた
 それが、だんだん休む日が、火曜日まで、水曜日までと増えていって、そのうちにまったく学校に行かれなくなってしまった。
 詳しい理由は、ぼくにはわからない。
 いろいろな小学校から来た生徒たちがいる中学校に、なじめなかったからだとも言われていた。確かににいちゃんは人見知りで引っ込み思案だったので、新しい環境に適応するのが難しかったのかもしれない。
 誰かに『いじめられた』という噂もあった。このことでは、学校でも調査をしたようだが、真相はうやむやのままだった。
 おとうさんやおかあさんは、なんとかにいちゃんがまた学校へ行かれるようにと、いろいろなことをやっていた。
 学校の先生にも協力をお願いした。先生たちはかわるがわる家庭訪問をしてくれたり、クラスメイトたちからの手紙を届けたりもしてくれた。
 でも、それらは、まったく効果がなかった。
 その後も、両親は、教育委員会に相談したり、専門のカウンセラーの所へにいちゃんを連れていったりもした。
 それでも、にいちゃんは依然として学校へ通えなかった。
 最近は、おとうさんもおかあさんも、にいちゃんを無理に学校へ行かせることはあきらめていた。
 これには、
「しばらくあまり干渉しないように」
との、専門家のアドバイスも影響していたのかもしれない。

OK3-2.引きこもり
 にいちゃんが完全に学校へ行かなくなってしまってから、もう一年以上になる。それ以来、にいちゃんは、玄関脇の自分の部屋にこもりっきりになってしまった。
 にいちゃんの部屋は、一階の北東の角の四畳半だ。もともとは、おとうさんの書斎だった部屋で、一方の壁はすべて天井までが作りつけの本棚になっていて、読書好きのおとうさんの本がぎっしりと詰まっている。本棚を隔てて反対側にある南東向きのぼくの部屋とは対照的に、昼でも薄暗い日当たりの悪い部屋だった。しかも、本棚の分だけぼくの部屋よりも狭い。
 でも、居間からふすまを開け閉めして出入りするぼくの部屋とは違って、玄関から直接行ける独立した部屋だった。それに、ぼくの部屋のような和室ではなく、鍵のかかるドアがついたフローリングの洋室だ。
 にいちゃんが中学に上がる時に、ぼくたちは、それまでの二段ベッドで同じ部屋を使うのを卒業して、個室を持つことになった。それと同時に、とうさんは自分の書斎を失ったわけだ。
 今までの子ども部屋と書斎のどちらかを自分の部屋に選ぶ時、優先権はにいちゃんにあった。にいちゃんが中学生になってもっと勉強が忙しくなるだろうということが、それぞれの個室を持つという部屋替えの理由だったからだ。
 にいちゃんは、居間から独立していることと鍵がかけられることが気にいって、自分からその北東の部屋を選んだ。
 ぼくは、にいちゃんほど独立した部屋が欲しいわけではなかったので、日当たりが良く少し広い今の部屋に満足していた。まあ、お互いに納得できる部屋選びだったというわけだった。
 にいちゃんは、二段ベッドの上の段を解体してできた自分のベッドと勉強机を、おとうさんやぼくに手伝ってもらって、新しい自分の部屋に持ち込んだ。
 おとうさんも、パソコンデスクやチェアを部屋の外に出した。さらに、自分の蔵書の一部を他の部屋に移して、作り付けの本棚ににいちゃんのスペースを作ってあげた。にいちゃんは、自分のコミックスやライトノベルをズラリとそこに並べた。
 学校に行かなくなってからは、にいちゃんは一日中自分の部屋にこもっている。
 にいちゃんは、自分の部屋に厳重に鍵をかけていた。ドアの鍵だけでなく、ドアの取っ手にチェーンをからませて、南京錠までかけている。
 前に、おかあさんが合鍵を使って入ろうとした時、チェーンが邪魔して入れないことがあった。
「にいちゃん、中に入れて」
「いやだよ。向こうに行ってよ」
「チェーンをはずして」
「だめ。絶対入らないで」
 二人が大騒ぎをしているので、おとうさんやぼくも集まってきた。
 けっきょくにいちゃんは部屋に人が入るのを最後まで拒んで、それ以来家族の誰にもほとんど姿を見せなくなった。そのころまでは、にいちゃんはまだ時々部屋を出ていることもあったのだ。それが、今ではもうぜんぜん出てこない。
 朝昼晩の食事は、おかあさんがおぼんにのせてドアの外に運んでいる。にいちゃんは、誰もいない時を見はからって、それらを部屋に運び入れて一人で食べていた。食べ終わった食器は、またひっそりとドアの外に置かれている。
 お風呂には、みんなが寝静まった夜中にあたりを見計らって、時々は入っているようだった。
 トイレはにいちゃんの部屋を出てすぐの所にあったので、不自由はしていないようだった。
 インターネットとテレビの長いケーブルを部屋の中に引き込んで、オンラインゲームをやったりテレビを見たりして、にいちゃんは長い一日をすごしていた。
 特に、ネットゲームにははまっていて夜中にやっているので、にいちゃんは昼夜逆転した生活をしている。学校の友だちとは付き合わなくなったが、ネットゲーム仲間とはインターネットのチャットなどで交流しているようだった。夜中に起きているので、ぼくが学校に行っている間は眠っていることが多かった。

 ぼくは自分の部屋へ行くと、ランドセルを勉強机の横のフックに引っかけてつるした。
 今日は天気がいいので、ぼくの部屋には、初夏の太陽の光が窓越しにふりそそいでいる。ぼくは、いつものように公園に行って、みんなとドッジボールかサッカーでもやろうかなと考えていた。
 その時、ぼくは、ハッとした。
(そうだ!)
 にいちゃんはもう長いこと、そうやって陽の光の中で遊んでいないのだ。いや、それどころか、外に出たことすらない。
 最後に、にいちゃんが外へ出たのはいつのことだろう。
(うーん?)
 なかなか思い出せなかった。
 ぼくが五年生の時のはずだ。
(そうだ。郡大会だ)
 そのころのぼくは、六年生たちに交じって、少年野球チームのレギュラーを務めていた。
 県大会出場のかかった大事な試合の日も、今日のようにいい天気だった。
 まだ完全な引きこもりにはなっていなかったにいちゃんは、おとうさんやおかあさんと一緒に、ぼくを応援に来てくれたのだ。そして、スポーツドリンクの2リットルのペットボトルを、おこづかいでチームに差し入れてくれた。
「石川先輩、ありがとうございます!」
 チームのみんなが声をそろえてお礼を言うと、にいちゃんは照れたように笑っていた。
 あれから、もう一年以上がたっている。
 こんな天気のいい日にも、にいちゃんが薄暗い自分の部屋の中でじっとしているかと思うと、ぼくはたまらない気持ちになった。ぼくの部屋の光を、少しでもにいちゃんの部屋に分けてやりたかった。
 ぼくは椅子から立ち上がって、にいちゃんの部屋に向かった
 トントン。
 ぼくは、にいちゃんの部屋のドアをノックして、声をかけた。
「にいちゃん」
「……」
 返事がない。
「にいちゃん」
 もう一度、少し大きな声で声をかけた。
 やっぱり返事はなかったけれど、部屋の中でにいちゃんが動く気配がした。
 カチャ、カチャン。
 鍵をはずす音がした。
 ゆっくりと内側にドアが開いて、にいちゃんが顔をのぞかせた。
 にいちゃんのあごのあたりには、ポヨポヨと無精ひげのようなものが生えている。しばらく見ないうちに、にいちゃんはだいぶ太ったみたいだった。やはり、部屋にこもりっきりなので、運動不足なのだろう。
 にいちゃんがドアを大きく開けてくれたので、ぼくは部屋の中に入っていった。
 にいちゃんの部屋は、ただでさえ日当たりが悪いのに、東側と北側の窓に遮光カーテンがピッチリと閉められている。外からの光は、まったく差し込まないようになっていた。
 でも、天井の電灯も、勉強机の蛍光灯もつけられているので、部屋の中は思ったよりも明るかった。
 にいちゃんが勉強机の椅子にすわったので、ぼくはベッドに腰を下した。
 部屋の中は、意外にきちんとかたづいている。長い間、かあさんも部屋に入れなかったので、もっと乱雑に散らかっている部屋を、ぼくは想像していた。
 ベッドの脇の作りつけの本棚には、いつの間にかおとうさんの本の前に二重に置かれる形で、コミックスやライトノベルの文庫本がぎっしりとおさまっていた。部屋が狭いので、ノートパソコンとテレビは東側の出窓の上に置かれていた。

 にいちゃんは、勉強机の上でジグソーパズルをやっているところだったようだ。
 ぼくにクルリと背中を向けると、にいちゃんはジグソーパズル作りを再開した。
「そのジグソーパズルは、どこで買ったの?」
 ぼくがたずねると、
「アマゾン」
 にいちゃんは、振り返りもしないでボソッと答えた。
 ぼくはベッドから立ち上がると、後ろから覗き込んだ。
 にいちゃんのジグソーパズルは、もうほとんど完成していた。図柄は、なぜかぼくが好きなアニメのキャラクターだった。
 にいちゃんは、背中を丸めて一心にジグソーパズルを作っていた。
 ジグソーパズルは、いよいよ完成間近だ。最後の追い込みにかかっているところなので、にいちゃんは素早く手を動かして、ピースをどんどんはめ込んでいった。ぼくは、そんなにいちゃんを後ろから見つめていた。
 にいちゃんは、とうとう最後のピースをはめ込んだ。
「フー。やっと完成したぞ」
 にいちゃんは満足そうに大きく息を吐くと、ぼくにかすかに笑顔を見せた。そして、ピースがはずれないように、ジグソーパズル用の台紙に接着剤で貼り付けた。
 そんなにいちゃんを、ぼくがもう一度ベッドに腰を下ろして見ていると、
「これ、お前の好きなキャラだろ。やるよ」
 にいちゃんはぶっきらぼうに言いながら、ぼくにむかってジグソーパズルを差し出した。
「えっ、どうしてぼくにくれるの?」
 ぼくがそう言うと、
「だって、今日はお前の誕生日だろ」
 にいちゃんは、少し照れくさそうに答えた。
(そうだ!)
 たしかに今日は、ぼくの十二回目の誕生日だった。
 おとうさんはプレゼントを用意してくれているはずだし、おかあさんはパートの帰りに予約しておいたケーキを取ってきてくれることになっている。
 でも、その小さなお祝いにも、にいちゃんは参加しない。そんなにいちゃんから、まさか誕生プレゼントをもらえるとは、ぼくは思ってもみなかった。にいちゃんは、ぼくの誕生日を忘れずにいてくれたのだ。
「にいちゃん、ありがとう」
 ぼくがお礼をいうと、
「……」
 にいちゃんは黙っていたけれど、目を細くしてやさしそうに笑っていた。その笑顔は、あの公園でぼくを助けてくれた時と同じようだった。
 にいちゃんの笑顔を見るのは、本当に久しぶりだった。にいちゃんが部屋に引きこもるようになってからは、初めてかもしれない。
「にいちゃん、今日、おかあさんがケーキを買ってきてくれるんだけど、一緒に食べない?」
 そう誘ってみたけれど、にいちゃんは黙って首を横に振るだけだった。
「じゃあ、おかあさんににいちゃんの分を届けてもらうから」
 ぼくがそう言うと、にいちゃんは今度はニコッと笑った。
 ぼくは、ジグソーパズルを持ってにいちゃんの部屋を出ると、自分の部屋に戻った。
 勉強机の前の本棚には、少年野球の優秀選手賞の盾や郡大会の優勝メダルなどがたくさん並んでいる。
 ぼくはそれらをみんなはじによせると、一番いい場所ににいちゃんのジグソーパズルを飾った。
 あらためてその絵柄を眺めてみた。
 アニメのスーパーヒーローは、ぼくたちを励ますように笑顔を浮かべている。
 どんな盾やメダルよりも、そしておとうさんからのプレゼントよりも、このにいちゃんのジグソーパズルが、ぼくにとっては一番の宝物のように思えていた。

 

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隆志の学芸会

2020-10-03 09:22:14 | 作品

 樋口隆志は、吉田先生が黒板の上へはりだした大きな模造紙をながめていた。
 そこには、一番上に、「アリババと四十人の盗賊」と書かれている。あとは、アリババをはじめとして登場人物の名前がならんでいた。
「それでは、これから、『アリババと四十人の盗賊』の配役をきめたいとおもいます」
 学級会の議長の高山くんが、きびきびした声で話しだした。
 隆志たち三年二組では、来月の学芸会で、「アリババと四十人の盗賊」をやることになっている。
 きょうは、吉田先生がきめてくれた登場人物を、それぞれだれがやるのかをきめるために、学級会がひらかれていた。
 クラスは、全員で二十八人。先生は、全員に役がいくように、そしてセリフもあるようにと、ずいぶん苦労して配役を作ったようだ。そのために、セリフの多い主役のアリババやかしこい女召使いのモルギアナの役は、何人かで分担してやることになっている。
「それでは、まずアリババの役。だれか、やりたい人はいますか?」
 高山くんがそういうと、隆志はだれが手をあげるかなと、まわりを見まわしてみた。
 でも、みんなはざわざわしているだけで、だれも手をあげなかった。
 アリババといえば、なんといっても、この劇の主役だ。四人で分担してやるとはいえ、セリフも多いし、一番めだつ役なのだ。
 隆志も、
(やってみたいな)
って、気持ちが少しはあった。
 でも、自分からやりたいっていったりしたら、「ずうずうしいなあ」とか、「でしゃばり」って、他の子にいわれそうなので、とても手をあげられない。
 もしかすると、他の子たちも、同じことを考えているのかもしれなかった。
「だれも、いませんかあ?」
 高山くんが、みんなを見まわしながらもう一回いった。
「じゃあ、だれか、他の人をすいせんしてください」
「はいっ」
 黒木くんが、まっさきに手をあげた。
「黒木くん、どうぞ」
「高山くんがいいとおもいます」
「はい。わかりました」
 高山くんは、少してれたような、でも、やっぱりうれしいような顔をして答えていた。
副議長の中村さんが、模造紙にかかれている「アリババ1」の下に、きれいな字で「高山」と書きこんだ。
 それからは、順調に配役が進みだした。やはり、授業中によく意見をいう人や、クラスで人気のある人たちから決まっていくようだ。
 残念ながら、隆志の名前は、アリババ役の四人の中にも、盗賊のかしらハサンのときにもでなかった。
 女の子の配役も、賢い女召使いモルギアナをやる三人をはじめとして、順番に決まっていく。
 隆志は、早くだれかが、自分の名前をすいせんしてくれないかと、ドキドキしながらまっていた。
 でも、隆志は、アリババの兄のよくばりカシムにも、カシムのむすこにも、そして、カシムの死体をぬいあわせる仕立て屋の役にも選ばれなかった。
 隆志は、
(選ばれなくて残念だなあ)
と、思いながらも、少しホッとしたような気持ちもしていた。いままでの役は、セリフが多くてけっこうやるのがたいへんそうなのだ。
 最後に、盗賊の手下と、アリババの召使い役が残った。
 盗賊の手下の役は十人。それでも、かしらのハサンを入れても全部で十一人にしかならないので、「四十人の盗賊」にはだいぶ足りない。まあ、人数がそれだけしかいないんだから、それもしかたがない。
「じゃあ、盗賊の手下の役をやりたい人は、手をあげてください」
 高山くんが、みんなを見まわしながらいった。
「はーい」
「はい、はい」
 今度は、残っていた男の子全員が、元気よく手をあげた。
隆志も手をあげている。召使いの役よりは、盗賊の手下の方がおもしろそうだ。女の子の中には、召使い役をやりたいのか、手をあげない子もいる。
「えーっと、人数が多いようなので、ジャンケンで決めてください」
 高山くんが、少しめんどうくさそうにいった。
 みんなはガヤガヤしながら、教室の前の方に集まってきた。
 二人ずつ組みになって、ジャンケンが始まった。隆志は、大川くんと組みになった。
「ジャンケン、ポン」
 隆志がグーで、大川くんがパー。隆志は、一発であっさりと負けてしまった。

 けっきょく、隆志は、「召使い3」の役をやることになった。
 男の子で召使いの役をやるのは、隆志と山崎くんの二人だけだった。そういえば、二人ともいつもジャンケンが弱かった。
「みんな、自分の役割は、わかった?」
 吉田先生が、みんなにむかっていった。
「この劇では、盗賊が財宝をかくしている岩山。ほらっ、アリババが『開け、ゴマ』っていうところね。あそこが見せ場なの」
 隆志は、前に読んだ「アラビアンナイト」のさしえを、思い出した。アリババの前に、ごつごつした灰色の岩山が、パックリと大きな口を開けていた。
「その場面を、三人だけ手伝ってもらいたいの。二人は岩山の扉を開ける係。『開けゴマ』っていったら開けて、『閉じろゴマ』っていったら閉めるのね。それからもう一人は、アリババが盗賊たちから隠れる『大きな木』」
 隆志は、「大きな木」の出てくる場面は、思い出せなかった。
「えーっと、岩山の場面に出てこない男の子は、……。カシムの息子の平井くんと、仕立て屋の大野くん。それに召使い役の山崎くんに樋口くん。じゃあ、その人たちのだれかにお願いするね」
 隆志は、急に自分の名前が出てきたので、またドキドキしてきた。
「『大きな木』の役は、背の高い人がいいかな」
 吉田先生がいった。
「じゃあ、樋口くんだ。せいたか隆志だもの」
 すぐに高山くんがいったので、みんなはドッと笑いだした。隆志はやせっぽちだけど、クラスで一番背が高いのだ。
「じゃあ、樋口くん。お願いね」
 吉田先生は、ニコッと笑って隆志の顔を見た。隆志は、「大きな木」がどんな役なのかわからないまま、コクンとうなずいていた。

その晩、隆志は、劇のことをかあさんに話した。
「へーっ、『アリババと四十人の盗賊』をやるの。おもしろそうねえ。それで、タカちゃんはなんの役をやるの?」
 かあさんは、夕ごはんのしたくをしながらそういった。
「召使い3」
 テレビを見ていた隆志は、小さな声で答えた。
「ふーん、どんな役なの?」
 かあさんは、ちょっとがっかりしたみたいだった。
「まだ、練習してないからわかんないよ」
 隆志は、テレビを見たまま答えた。
「セリフはあるのかしら?」
 かあさんは、少し心配そうだ。
「うん。全員最低ひとつは、セリフがあるって、先生がいってたよ」
 隆志は、かあさんの方に向き直って答えた。
「そう、よかったね」
 かあさんは、ホッとしたようにいった。
 ピロロローン。
いつも電源を入れっぱなしにしているパソコンのチャイムが鳴った。
「あっ、おとうさんだ」
 かあさんが、うれしそうにいった。
「わたしでる」
「ぼくが先だよ」
 隆志と妹の由美は、同時にパソコンデスクにかけよった。
 隆志は、タッチの差で、先にパソコン用の椅子に座るとスカイプ(無料のテレビ電話)の画面を開いた。
「もしもし」
 ウィンドウいっぱいにとうさんの顔が映った。
「あっ、隆志か?」
 やっぱりとうさんだ。いつも、この時刻にスカイプがかかってくる。
「ずるーい」
 由美が泣きべそをかきながら、無理やりパソコンのカメラにうつろうとしている。
「ちょっと、待っててよ。すぐ代わるから」
 隆志は、由美を押し返しながら早口にいった。そして、さっそく学芸会のことを、とうさんに報告した。
 とうさんは、隆志が「召使い3」の役だというと、
「しっかりやれよ」
と、いってくれた。
「学芸会、何日だっけ?」
 とうさんが、隆志にたずねた。
「来月の、十二日の日曜日」
と、隆志が答えると、
「そうかあ」
 とうさんは、しばらくだまって他の画面(たぶん仕事のスケジュール表)を見ているようだったが、
「うん、だいじょうぶ。その週は家に帰れるから、一緒に見に行けるよ」
と、元気よくいった。
「ほんとっ!」
 隆志は、うれしくてつい大きな声を出してしまった。
「早く代わってよ!」
 由美がそういって、隆志の右足をけとばした。
「いてえ。……ほらっ」
 隆志は、由美に席を代わった時、「召使い3」だけでなく、「大きな木」もやるのを、とうさんにいい忘れたことを、思い出した。
(まあ、いいや。どんなことをやるのかわかってから、話せばいいもの)

 隆志のとうさんは、家族を東京の郊外にある家に残したまま、今は一人で神戸で働いていた。そういうのを、「単身赴任」って、いうんだそうだ。
とうさんの会社が、神戸に新しい工場を作っているのだ。とうさんは、神戸で、建設会社や役所の人たちと協力して、工場が仕事を始めるのに必要な準備をしている。
 工場は、来年の三月に完成する予定だ。そうしたら、隆志もかあさんや由美と一緒に、神戸へ引っ越すことになっている。
 隆志はそのことを考えると、少しさびしい気持ちになった。
 引越しをすれば、幼稚園のときから、ずっと一緒だった友だちと、別れなければならない。そのことを、まだ友だちのだれにもいっていなかった。
それに、神戸がどんな所なのか、よく知らなかった。隆志は、毎年夏休みに行く伊豆より西に行ったことがなかった。
神戸が関西地方にあることは、隆志も知っていた。新しい学校の人たちも、テレビのバラエティ番組に出ているお笑い芸人たちみたいに、こちらとは違ったことばをしゃべっているのだろうか。どうもいつものんびりしている隆志とは、違うタイプの人たちのような気がする。新しい学校の人たちと、うまく友だちになれるか不安だった。

隆志は、夕ごはんの後で、少年少女世界文学全集の「アラビアンナイト」の中に入っている「アリババと四十人の盗賊」を読んでみた。
『貧しい若者だったアリババは、ある日偶然に、ハサンをかしらとする四十人の盗賊が岩山へ隠していた財宝を見つけ出した。
 その話を聞いたアリババの兄のよくばりカシムは、さっそく岩山へ、財宝を取りに行ったカシムはたくさんの財宝を手にいれたが、どうくつから出るときに、扉を開ける合言葉の「開けゴマ」を忘れてしまう。
 カシムは、帰ってきた盗賊たちに殺されてバラバラにされてしまった。
 盗賊たちはアリババの命もつけねらうが、かしこい女召使いのモルギアナの機転によって、逆にやっつけられてしまう。
 アリババは、盗賊の財宝を町の人たちにも分けてあげ、モルギアナはカシムの息子と結婚して、めでたし、めでたし 』 
 お話を最後まで読んでも、隆志には、「召使い3」が何をやる役なのか、とうとうわからなかった。そんな登場人物は、この本にはでてこなかったからだ。みんなに役がいくようにと、吉田先生が、考え出したのかもしれない。
 でも、「大きな木」については、こう書かれていた。
『アリババは、あわててすぐそばにあった、大きな木によじのぼった』
 そのページには、黒い「大きな木」の上から、盗賊たちの様子をうかがっているアリババの姿が描かれていた。

 「アリババと四十人の盗賊」の練習が始まった。
 初めのころは、教室で、それぞれのせりふをいうだけの練習だった。
 みんながせりふを覚えると、本番の会場である体育館で、通しげいこをおこなった。
 隆志は、体育館の練習のときに、すっかりゆううつになってしまった。
 「召使い3」の役はいいのだ。セリフをいうのはたった一回だけれど、男の召使いが二人しかいないので、料理などを運ぶ力仕事のために、けっこう登場する場面が多かった。
 問題は「大きな木」だ。
 「大きな木」は、岩山の場面のときには、ずっと舞台に立っていなければならない。
両手に木の棒と紙で作った枝を持ち、おなか、腰、そして足には、幹を絵の具で描いた画用紙が巻きつけられる。頭にも、こずえを描いた画用紙を、帽子のようにかぶらなければならない。
 隆志がそのかっこうをして舞台に現れたとき、クラスのみんなは大笑いだった。
「にあう、にあう」
「さすが、せいたか隆志」
とかいって、からかう男の子たちまでいた。
 その日、家へ帰ってから、隆志は、「召使い3」がどんな役かをかあさんに話した。
 でも、「大きな木」については、とうとう何もいえなかった。

学芸会の前日の、土曜日になった。
 前の晩に家へ帰ってきたとうさんは、隆志が学校へ行くときにはまだ眠っていた。
 とうさんが家へ帰ってくるのは、月に一回だけ。そのときは、とうさんは、金曜日の夜の新幹線に飛び乗っている。
 でも、東京駅から家まではさらに二時間もかかるので、家へたどり着くのは、いつも真夜中になってしまう。
 昨日の夜も、とうさんが家に着いたときには、隆志と由美はとっくに眠っていた。
 その日の夕方、隆志は、久しぶりにとうさんとお風呂に入った。妹の由美も一緒だからギューギュー詰めだ。とうさんが湯船につかっているときには、隆志は洗い場へ出なければならない。
 ギュッ、ギュッ。ギュッ、ギュッ。
 隆志は、力をこめて、とうさんの背中をこすった。
「隆志、ずいぶん力がついたなあ」
 とうさんは、うれしそうにいった。
 お風呂からあがると、もう夕ごはんのしたくができていた。
 おさしみ、てんぷら、さといもの煮もの、……。
 テーブルには、とうさんの好物ばかりが並んでいる。とうさんが帰った日はいつもそうだ。
 でも、隆志と由美も、この日ばかりはぜんぜん文句をいわない。
「おとうさーん」
 由美が甘ったれた声を出して、とうさんのひざに上にすわった。
「お疲れさまでした」
 かあさんが、とうさんのコップにビールをついだ。かあさんもなんだかうれしそうだ。
「うーっ。やっぱりしみるなあ」
 とうさんはビールを一気に飲み干すと、大きな声でいった。

「これが、こんどの工場」
 その晩、とうさんは、撮影してきた新しい神戸の工場を、みんなに見せてくれた。とうさんは仕事にも使うので、デジタルビデオカメラと編集用のノートパソコンを持っている。今日はそれらで撮影と編集したものをディスクに入れて持ってきていた。
「へーっ、もう形になっているんだ」
 隆志が、感心していった。
「うん。けっこう作業が進んでいるだろ」
 工場は三階建てだ。すでに鉄骨の組み立ては終わって、壁もほとんどできあがっている。
「これなら、今年いっぱいに完成するわね」
 かあさんがいった。
「うん、外側はね。でも、内装にけっこう時間がかかるし、機械も入れなくちゃならないから、やっぱり完成は三月ぎりぎりになっちゃうな」
「ふーん」
 隆志がうなずいた。
「えーっと。次は、今度みんなで住む所だよ」
 画面には、新しい大きな団地がうつった。神戸の六甲山を切り崩した所なので、まわりにはまだ小さな丘や森が見える。
 四月になったら、隆志たちもここへ引っ越さなければならない。
 画面には、団地近くのスーパーや、駅前のロータリーもうつった。
「まだ、さびしそうなところね」
 かあさんがちょっと心配そうにいった。
「うん。でも、だんだんひらけてくるよ」
 とうさんがはげますようにいった。
 最後に、小学校がうつった。
「ここが、隆志が転入する学校だよ」
 鉄筋四階建ての、新しい校舎だ。校庭はひろびろとしていて、今の学校の二倍以上もありそうだ。
「ふーん」
 隆志は、興味深げにながめていた。転校したら、すぐになかのいい友だちができるだろうか。
「わたしも行くのよ」
 由美が、不満そうに口をとがらせた。
「あっ、そうか。由美も来年の四月には一年生だったな」
 とうさんが笑いながらいった。由美は、ふくれっつらのまま、とうさんをぶつまねをした。

「隆志、明日の芝居はどうだ?」
ビデオが終わると、とうさんがたずねた。
「うん、だいじょうぶ」
 それから、隆志は、「召使い3」のセリフをとうさんにいってみせた。
「うまい、うまい。隆志は、けっこう芝居が上手だな」
 とうさんは笑いながらいった。隆志はうれしくてニコニコした。
 由美も負けずに、隆志のセリフをまねてみせた。隆志が何度も練習していたので、すっかり覚えてしまったのだ。
「ほーう。うちには役者が二人もいるのか」
 とうさんはそういいながら、由美を抱きあげた。
 その日も、隆志は、「大きな木」の役のことを、とうさんやかあさんにいいそびれてしまった。

 学芸会の日になった。
いよいよ三年二組の、「アリババと四十人の盗賊」が始まる。
 隆志は、舞台の下手に「大きな木」になって立っていた。
 幕があがる。
 パチパチパチパチ。
 客席から、いっせいに拍手がおくられた。
会場の体育館は、各学年の子どもたちや家族の人たちで満員になっている。
「クスクス」
「フフフ」
 「大きな木」をやっているのが子どもだということに気がついて、あちこちから笑い声がおこった。
 隆志は、少し顔を赤くしてしまった。
 「アリババ1」の高山くんが現れた。みんなの注目は、すぐに隆志から高山くんへ移っていった。
(なーんだ)
 隆志は自分が注目されなくなって、ホッとしたようなちょっと残念なような複雑な気分だった。
 と、そのときだ。
(あっ!)
隆志は、客席にいるとうさんと、目が合ってしまったのだ。隣には、かあさんと由美もすわっている。
 とうさんは、ちょっと驚いたような顔をしていた。
 でも、すぐにニコッと笑うと、手にしていたビデオカメラを隆志のほうへ向けた。
 劇はどんどん進んでいく。
 隆志は、岩山の場面では「大きな木」を、そして、アリババの屋敷の場面では「召使い3」を、やらなければならないので、大忙しだった。
 場面の入れ替わる短い時間に、何回も衣装を替えなければならない。
 特に「大きな木」は、ずっと手をひろげたままなので、けっこう疲れる。
 隆志は手がさがらないように、両腕をいっぱいにひろげてけんめいにがんばった。
 そして、とうとう最後まで、ふたつの役をしっかりとやりとおすことができた。
 劇のできばえもまずまずだった。
「アリババ3」の加藤くんがセリフをひとつ抜かしたのと、「よくばりカシム」の遠山くんが盗賊に切り殺されたときに、一緒に岩山を倒したのを除けば、けっこううまくいった。

 隆志は、劇が終わるとすぐに、クラスのみんなから離れて、体育館の出入り口へ行った。神戸へ帰るとうさんを見送るためだ。
 とうさんはキャリングケースを引きながら、ビデオカメラを入れた小さなバッグを肩からかけていた。
これから、すぐに東京駅へ行って新幹線に乗っても、神戸の郊外にあるマンションに着くのは夜の八時過ぎになるらしい。とうさんは、明日からも忙しく働かなければならない。
「タカちゃん、なかなか良くできたな」
 とうさんが、そういってくれた。
「うん」
 隆志は、ちょっと恥ずかしそうに答えた。
「二つも役をやらなくっちゃならないから、大変だったね」
 かあさんも、そういってくれた。
「じゃあ、行くよ」
 とうさんが、すこしさびしそうにいった。
「いってらっしゃい」
 三人は、声をそろえていった。由美は、もう半分泣きべそをかいている。
 とうさんは、校門のところで振り返ると、隆志たちにむかって大きく手を振った。

 学芸会から、二週間がたった。
 ある日、隆志は、神戸のとうさんから、宅配便を受け取った。
 開けてみると、中にはブルーレイのディスクが入っていた。とうさんの太い字で、『隆志の学芸会』と書かれている。
 その晩、隆志はかあさんや由美と一緒に、『隆志の学芸会』を見ることにした。
 隆志はディスクをセットして、再生ボタンを押した。
 かあさんは、台所の洗い物を途中にして、手をふきながらやってきた。由美もソファーに座っている。
 『アリババと四十人の盗賊……三年二組』
 舞台の端に置いてあったタイトルが、まずアップになった。
 場面はすぐに、アリババが、兄さんである欲張りカシムの葬式の指図をしているところに替わった。隆志は山崎くんと二人で、カシムのなきがらを寝台の上へ運んでいく。
「あっ、お兄ちゃんだ」
と、由美がいった。
 アリババたちのセリフにまじって、客席のガヤガヤする声や、咳をする音まで入っている。
 次に、場面は、盗賊のかしらのハサンが油商人に化けて、アリババの屋敷へやってきたところに替わった。どうやらとうさんは、隆志の出てくる場面だけをつないで、編集してくれたようだ。
 隆志は、油のはいったかめ(実は、盗賊の手下たちが隠れていることになっている)を、重そうに運んでいる。
 それが終わると、次は、盗賊のかしらのハサンがカシムの息子をだまして、再びアリババの屋敷へやってきた場面だ。ここで、隆志はただ一つのセリフをいった。
「これから、踊りをお目にかけます」
セリフが、ちょっと棒読みな感じだった。
 でも、
「タカちゃん、上手にいえたね」
と、かあさんがいってくれた。
「これから、踊りをお目にかけます」
 由美が、またまねをした。隆志は、由美に一発デコピンをいれてやった。
 録画は、賢い女召使いのモルギアナとカシムの息子との結婚式を、まわりでながめている隆志の横顔をアップにして終わった。
 隆志が、ブルーレイレコーダーのリモコンのストップボタンを押そうと、手を伸ばした時、いきなりとうさんの声がした。
「これから、『隆志の学芸会』の、第二幕をおおくりします」
 画面に、いきなり隆志がアップになった。「召使い3」の隆志ではなく、「大きな木」の隆志だ。
「私は、一本の大きな木です」
 とうさんのナレーションが入った。会場内の音は消されていて、バックにはきれいな音楽が流れている。
「もう何百年もの間、この岩山で暮らしています」
「ある日、アリババという若者が、山へ薪を拾いにやってきました」
「私は、なかなか良さそうな若者だなと、思いました」
「そこへ、四十人の盗賊が急に現れました」
「アリババは、あわてて私によじ昇りました」
 高山くんのアリババが、隆志のうしろに隠してある机の上によじ昇っていく。
「私は、けんめいに枝を広げて、アリババを隠してあげました」
 高山くんをうしろにして、両腕をいっぱいにひろげている隆志が、画面いっぱいにうつしだされた。両手ができるだけピンとなるように、けんめいにがんばっているのがよくわかる。
「翌日、アリババの兄のよくばりカシムが、やってきました」
「でも、呪文の『開けゴマ』を忘れて、岩山に閉じ込められてしまいました」
「わたしは、なんとか呪文を教えようとしましたが、カシムには聞こえません」
隆志の顔がアップになった。何か、しきりに口を動かしている。
(そうだ。あのとき、……)
 隆志は思いだした。
 カシムが「開けゴマ」を思いだせなくて、「開けムギ」とか「開けコメ」とかいっているとき、つい小声で、
「ゴマ、……、ゴマ」
と、いってしまったのだ。
「カシムが盗賊に殺されているのを見つけて、アリババは涙を流しました」
「私も悲しくなって、ゴオーッ、ゴオーッと、枝をゆさぶってなきました」
 たしかにこの場面で、隆志の両腕は、すこし上下に動いている。そろそろ、疲れてきていたのかもしれない。
「アリババは、盗賊の財宝を岩山のどうくつから運び出すと、町の人たちに分けて、みんなでなかよく暮らしました。めでたし、めでたし」
 最後に、「大きな木」の役をやり終えて、ついニッコリした隆志の顔が、画面いっぱいにアップになった。
「タカちゃん、『大きな木』の役でもがんばっていたのね」
 かあさんがうれしそうにいった。
「うん」
 隆志は、ディスクを止めると、勢いよく立ち上がった。
「どうしたの?」
 かあさんがたずねた。
「おとうさんにスカイプするんだ」
 隆志はそういって、すぐにパソコンの椅子に座った。隆志はスカイプの画面を開きながら、ブルーレイのお礼をいった後で、
(早く四月になって、みんなで一緒に暮らしたいね)
って、とうさんにいおうと思っていた。

     
        

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2020-09-28 10:04:48 | 作品

ルルルー、ルルルー、……。

「ケイ、電話に出てくれ」
 店長が調理場からどなった。
「OK」
 リュウはヘルメットをぬぐと、受話器を取った。
「はい、ギャモンピザです」
「デリバリー、お願いします」
 男の子の声がした。リュウと同じ中学生ぐらいだろうか。
「はい、ご注文は?」
「スペシャルギャモンピザのLひとつ、オニオン抜きのペパロニダブルで。それにダイエットコークのラージとチキンとポテト。あとコールスローもひとつ」
「ありがとうございます。ご住所はどちらですか?」
「マリオットトウキョウホテルのラグジュアリタワー4301号室」
 マリオットトウキョウは、すぐそばにあるホテルだ。ギャモンピザとはチェーン同士で提携しているので、各部屋にメニューが置かれている。
「はい、わかりました。30分以内にお届けします」
「もっと早くならないからなあ。20分以内で来たら、チップをはずむからさ」
いかにも特別扱いになれている感じのする横柄な言い方に、リュウはカチンときた。
 しかし、気を取り直して、
「はい、できるだけ急いでお持ちします」
と、ていねいに答えて受話器を置いた。
「スペシャルL、オニオン抜き、ペパロニダブル、エクスプレスでお願いします」
 ひっきりなしに出入りしている配達用のバイクの音に負けないような大声で、リュウは調理場に大声でどなった。

リュウがこのピザ屋でバイトするようになってから、まだ2週間だ。背が170以上もあるおかげで、兄貴(ケイ)の原付の免許証も、二才もさばよんだ年令も、まだばれていない。幸いなことに、ケイとは顔がよく似ていた。
 中学三年生のリュウは、もう半年近く学校に行っていない。いちおう受験生なのだが、リュウはすっかり勉強をする気を失っていた。
両親は、リュウが学校に行くようにといろいろ手を尽くしていた。学校の先生たちや教育委員会とも相談したし、病院の専門家にリュウを見せたりしていた。
しかし、どれも効果がなく、最近はリュウを学校に行かせるのをあきらめたみたいだった。
学校に行かなくなったリュウは、家で本ばかり読んでいたが、こもりっきりなのでだんだん鬱屈してきていた。
 そんなリュウを、兄貴のケイが心配して、ピザ屋のバイトをすすめてくれた。両親もケイを信頼しているのか黙認している。
「ケイ、マリオットのスペシャルあがり」
 店長が、負けずに大きな声で怒鳴った。
 リュウはなれた手つきでできたてのピザを保温バッグに詰めると、ダイエットコークやコールスローやナプキン類をかき集めた。
「12号車、マリオット、出ます」
 リュウは三輪の配達用バイクにまたがると、大きくターンさせて出発した。
(ふーっ、寒い)
 前から吹きつけてくる風が冷たい。リュウは思わず肩をすぼめた。
 マリオットホテルは、大通りに出るともう目と鼻の先だ。リュウのバイクが正面玄関の前を通りかかると、あたりはいつになく混み合っていた。
 大きな望遠レンズのついたカメラをぶらさげたカメラマンたち。テレビカメラを肩に担いだニュース番組のクルー。メークの手直しに忙しいどこかで見かけたようなレポーターたち。そばには、テレビ中継車が何台も停まっている。
(そういえば、シクスティセブンスが泊まっているって、言ってたっけ)
 トウキョウシクスティセブンスといえば、ギグスのワールドスーパーリーグのファイナルも大詰めだ。黄金のワールドカップを、ロサンゼルススペースウォリアーズと争っている。
今、リュウが着いたマリオットホテルトウキョウは、シクスティセブンスがトウキョウに戻ってきた時の定宿なのだ。正面玄関にいる報道陣は、シクスティセブンスの取材のためなのだろう。きっと明日のテレビやスポーツ新聞には大きく取り上げられるに違いない。
 リュウはバイクを大きくターンさせると、横手にある業者用入り口の前に停めた。警備員に合図を送って、リュウはホテルの中に入っていった。
ロビーは、報道陣やファンの人たちでごったがえしている。シクスティセブンスのメンバーが現れるのを待ち受けていた。
 エレベーターホールにむかうと、そこにも私服のガードマンがいて、トランシーバーで何か話している。リュウがエレベーターに乗り込むと、こちらに鋭い視線を送ってきた。
 エレベーターは、一気に43階まで上がっていく。
 リュウはピザの入ったバッグを胸の前に抱えて、エレベーターのうしろの壁によりかかった。すごいスピードで階を示す数字が変わっていく。少しGがかかって、床に押し付けられるような感覚がある。
 ピンポーン。
軽くチャイムがなって、43階に到着した。
 ドアが開いて外に出ると、いきなり二人の男が前に立ちはだかった。一人は、ビシッとしゃれたスーツを着こなした金髪の男。右耳に銀色のピアスを二つつけている。もう一人は、まるでゴリラのように筋肉の盛り上がった大男で、両耳が潰れている。ジュージツかレスリングの選手のようだ。どうやら二人ともボディーガードらしい。
「小僧、なんのようだ」
 金髪の男が口を開いた。
「1号室に注文のピザを届けにきました」
 金髪の男がトーキーで確認している間、ゴリラ男がこっちをにらみつけた。リュウが負けじとにらみ返すと、怒った顔をして一歩進み出ようとした。
「待て、OKだ」
 金髪はゴリラをとめると、リュウにあごをしゃくって、
(こっちだ)
と、合図した。
 リュウは、金髪の後に続いて長い廊下を歩いていった。
(そうか!)
 リュウは、この階がVIP専用フロアだということに、ようやく気がついた。廊下の幅は他の階よりもずっと広いし、じゅうたんもフカフカでかかとがもぐりそうだ。
(今日、このホテルに泊まっているVIPといえば?)
 そう、シクスティセブンスのメンバーに違いない。
 リュウの心臓は、期待と緊張で急にドキドキしてきた。ごたぶんにもれず、リュウも、ギグスの、そしてシクスティセブンスの大ファンだった。
 廊下の突き当たりの部屋の前で、金髪は立ち止まった。ドアの前には、もうひとりの男がいる。金髪たちよりも年上で、がっちりした体つきをしたほほに傷のある男だった。傷男は、すでにトーキーで話しを聞いていたようだった。うさんくさそうな目つきでリュウをチラッと見ただけで、すぐに部屋のチャイムを鳴らした。
 ガチャン。
鍵を外す音がして、ドアが開いた。
 ドアを開けたのは、ほっそりした小柄な少年。銀色の髪の毛を針ネズミのようにとがらし、黒いまん丸の瞳に長いまつげ。
そう、トウキョウシクスティセブンスの、いやギグス全体にとっても最大のスーパースター、ケンだった。

「19分37秒68。すばらしい」
 腕時計のストップウォッチを止めながら、ケンがいった。
「えっ?」
「受話器を置いてから、君が来るまでさ。さっき、電話に出た人だろ。じゃあ、こっちに持ってきて」
 どうやら今いる所は、たんなる入り口にすぎなかったらしい。
 両開きの次のドアを、ケンが開けた。そこは、……。
 豪華なソファーセットやダイニングテーブルが置かれた、教室ほどもありそうな大きな部屋だった。
(これだけで、うちのマンション全部が、すっぽり入るな)
 リュウは、物珍しげにキョロキョロとあたりをながめていた。反対側の開け放したドアからは、さらにその先に、バスルームや寝室があることがわかる。どうやらとてつもなく豪華なスイートルームのようだ。部屋のすみには、ビリヤードの台や、ピンボールやエアホッケーなどのゲームマシンまでがならんでいる。
「じゃあ、そこに置いといて」
 ケンがさししめたのは、ベランダに通じる大きなガラス戸の前のテーブルだった。凝った装飾が、優美にカーブした脚や縁にほどこされている。
(ロココ調?)
 まだ学校に行っているころ、美術の時間に習った言葉が頭にうかんでくる。
「4725円になります」
「ルームにつけといてくれる?」
 ケンはそういうと、差し出した領収書にルームナンバーとサインを書き込んだ。
「ありがとうございました」
 リュウが頭を下げて、部屋を出て行こうとすると、
「ちょっと、待って、これ取っといて」
 ケンは小さくたたんだ一万円札を、リュウに押し付けようとした。
「なんですか、これ?」
「チップだよ。20分以内だったら、あげるっていったじゃない」
「いえ、こういうのは、いただかないことになってますから」
 リュウはそういって、一万円札を相手に押し返した。
「ふーん」
 ケンは、不思議そうな表情をうかべてリュウの顔をみつめていた。やがてニヤリと笑うと、部屋の向こうのゲーム台を指差した。
「じゃあ、こうしよう。ゲームで決着つけようぜ。君が勝ったらチップは受け取らなくていい。でも、おれが勝ったら受け取ってくれ。どのゲームをやるかは、そっちが決めていい」
 リュウはしばらく黙っていたが、やがて同じようにニヤリとした。
「OK、エアホッケーで一点勝負なら」
 このゲームなら、いつも兄貴たちとゲーセンでやっていたのでけっこううまい。リュウは、自信満々のこのスーパースターをギャフンといわせたくなっていた。
「そうこなくっちゃ」
 ケンはうれしそうに顔をクチャクチャにして笑いながら、すぐにエアホッケー台へ走っていった。そんなところは、まるでちっちゃい子みたいだ。ケンが電源をONにすると、すぐに盤面に均一に開いている細かな穴から、エアーがふきだしてきた。白くうすべったいパックが、盤上をゆっくりとすべりだす。
「じゃあ、やろうぜ」
 ケンが先にピンクのパドルを取った。
「いいよ」
リュウは、ブルーのパドルを手にして反対側にまわった。
 そのとき、傷男がドアの所に立ったまま、油断なくリュウの様子をうかがっているのが目に入った。なんとなく落ち着かない気分だ。
「ムラタ、もういいから、外へ行ってて」 
 リュウのけげんそうな表情に気がついたケンが、傷男にどなった。
「……」
 傷男はぜんぜん聞こえなかったかのように、そのまま動こうとしない。
 ケンは、肩をすくめながらリュウにいった。
「悪いけど、ムラタのことは気にしないでくれないかなあ。おれをガードするのが、彼のビジネスなんだ」

 勝つにしろ、負けるにしろ、一点勝負なのですぐに決着が着くと思っていた。
 ところが、いざ始めてみると、なかなか終わりそうになかった。二人の力量が不思議にきっこうしているのか、どちらもパックを相手のゴールに打ち込めないのだ。
 ケンが打ち込んでくるパックは、思ったよりスピードがなかった。だから、ゲームは初めから、リュウの攻勢で進められた。
 バチーン、……、バチーン。
リュウが打ち込んだパックが、すごいいきおいですべっていく。ワンクッション、ツークッションを使ったサイドからの攻撃。わざと相手のパドルにあててリバウンドをねらう連続攻撃。リュウは、あらゆるテクニックを駆使して攻め立てていた。
 何度も、
(決まった!)
と、思う瞬間があった。
 でも、ケンは驚異的な反射神経でパドルを動かして、パックをはじきかえしてしまった。  
 またたくうちに5分がたって、やがて10分が過ぎた。
(いけねえ、また店長にどなられる)
 クマのようなごっつい体つきの店長は、見かけに似合わず神経質で時間にうるさいのだ。帰るのが少しでも遅れると必ず文句をいわれる。
 しかし、リュウがいくら必死に攻撃しても、ことごとくケンのパドルにはね返されてしまっていた。
(待てよ、もしかしたら?)
 しばらくして、リュウの心の中に、ひとつの疑念がうかんできた。もしかすると、ケンはゲームを長引かせるために、わざと攻撃をしかけてこないのかもしれない。
 リュウはプレーを続けながら、よくよくケンが打ち返すパックの球筋をながめてみた。
(やっぱり)
 どんなにリュウがパックの方向を散らしても、ケンからのパックは実に規則正しくリュウの手元に戻ってくる。案の定、ケンはスピードをコントロールして、パックをリュウのパドルに正確に戻してきているようだ。
(こいつ、おれをひまつぶしの相手にさせているな)
 馬鹿にされたような気がして、リュウはカッと熱くなった。
 バチーン。
また、パックが正確に手元に戻ってきた。
 バッ。
リュウはパドルでパックを押さえてとめると、ケンをじっと見つめた。
 それから、正面のケンのパドルにめがけて、軽くパックを送り出した。ケンもパドルでいったんパックをとめてからゆるく返してくる。それをリュウが軽く打ち返す。ケンも軽く戻す。
 カツーン、……、カツーン、……。
白いパックは、二人の間をゆっくりといったりきたりしていた。その間、リュウは3メートルほど先にいるスーパースターをにらみつけていた。
やがて、ケンが根負けしたようにニヤリと笑った。
「本気を出さないんなら、やめるぜ」
 リュウは、ニコリともしないでいった。
「わかった」
 ケンはそう答えると、いきなりすごいスピードでパックを打ち込んできた。
 ガチーン。
リュウは、かろうじてパックをはじきかえした。 激しい音をたてて、火花がとびそうないきおいだった。こんなにすごいスピードのシュートを受けるのは初めてだ。もう少しで、パドルを手からふっとばされるところだった。
 それを境にして、ケンの一方的な攻撃が始まった。リュウの方は、それをなんとか防ぐのでせいいっぱいだった。
ケンの攻撃は、スピードがすごいだけでなく、コントロールも異常なくらい正確だった。ワンクッション、ツークッションさせても、必ず正確にリュウのゴールをとらえてくる。すべての球筋が、あらかじめ見えているようなのだ。
リュウの方は、さっきとうってかわって防戦一方で、とてもケンのゴールをねらうどころではない。かろうじて、得点を許していないだけだ。
 また、5分がたち、さらに10分がたった。一所懸命パックを受けているうちに、いつのまにか店長のことなんかは気にならなくなっていた。もうどうせ怒られるんだし、こんなすごいエアホッケーなんて、これから二度とできないかもしれない。リュウは、すっかりケンとの戦いに夢中になっていた。そして、ふと向かい側で同じように熱中しているスーパースターも自分と同い年なんだなあと、思ったりしていた。
 突然、ケンがパドルをとめた。パックはそのままゴールに吸い込まれていく。
チーン。
軽いチャイムが鳴って、リュウ側の得点ランプにあかりがともった。
「おれの負けだよ。すごい腕前だ。まさか、こんなにやれるとは思わなかった。これ以上続けて、君がピザ屋をクビになったらこまるしね」
 ケンはそういって、またニヤリとわらった。そういえば、店を出てから、もう一時間近くになっている。今ごろクマ店長は、カンカンに怒っていることだろう。
「でも、こんなにすごいゲームはほんとに初めてだよ。いつもムラタたちとやってんだけど、みんなてんで弱いんだ」
 ケンがそういっても、傷男はもちろん表情を変えない。
「おれも、こんなすげーのは初めてだ」
 リュウは息を弾ませながらそう答えた。本当に心からそう思っていたのだ。右腕はすっかりしびれていたし、額にもびっしりと汗が浮かんできている。
 ところが、ケンの方は何事もなかったようにケロリとしている。すごいスタミナだ。それに反射神経や瞬発力もすごい。
(やっぱり一流のアスリートは違うな)
と、リュウは思っていた。
「まだ、名前聞いてなかったっけ。おれは、……」
 ケンがニッコリしながらいった。
「そんなの世界中の奴が知ってる」
 リュウが息をはずませながら答えた。
「それで、君は?」
「リュウって、いってくれ。君と同い年だ」
「えっ、ほんとに? ふーん、最近のピザ屋は、中学生にバイクで配達させてんのか」
 ケンはさもおもしろそうにわらった。
「……」
 リュウは、
(しまった。ばれちまった)
と、思って、黙っていた。
「安心しろよ。チクッたりしないから」
 ケンがそういったので、リュウはホッとした。
「年齢なんて関係ないさ」
 ケンがそういうと、やっぱり説得力がある。なにしろ弱冠15才のスーパースターなのだから。
「ところで、明日さあ、試合なんだ」
 ケンは、少しはにかんだような表情を浮かべて、また話し出した。
「それも、世界中の奴が知ってる」
 リュウは、なんだか少しおかしいような気分だった。どうやらこのスーパースターは、自分が世界中でどのくらい注目されているか、ぜんぜん自覚していないみたいなのだ。まあ、こんな世間から隔離されたような生活をしていては、それも無理ないかもしれないけれど。
「良かったらさあ。一緒に明日の試合に来てくんないか」
 ケンは、まるで昔からの友だちを遊びに誘うような感じでいった。
「えっ、まじかよ。ファイナルの第五戦だろ。すげえなあ」
 リュウはびっくりしてしまった。
「だけど、バイトがあるからなあ。無断で休んだりしたらクビになっちゃうし」
 もちろん、ギグスのファイナルの試合は見てみたい。
 でも、カンカンに怒っているだろうクマ店長に、急に休ませてくださいとはいいにくかった。
「ムラタ!」
 ケンは傷男を呼ぶと、電話をする身振りをしてみせた。傷男は、すぐにギャモンピザのメニューを手に部屋を出て行った。
「だめだと思うよ、うちの店長、そういうの、うるさいから」
 クマ店長のどなり声が聞こえてくるようだ。
 でも、ケンはだまってニヤニヤしているだけだった。

しばらくして、傷男が部屋に戻ってきた。スマホをリュウに差し出す。
 リュウがおそるおそる電話に出ると、
「あっ、ケイくん。ムラタさんから話は聞いたからね。明日は休んでいいから」
 店長は、意外にも馬鹿ていねいな口調だった。
「えっ、ほんとにいいんですか?」
 リュウは、まだ信じられない思いだった。
 ところが、店長の許可は、明日、休んでいいということだけじゃなかった。なんと、今日の仕事もこのままあがっていいというのだ。リュウは、キツネにでもつままれたような気分だった。
 そのとき、ケンが傷男に向かってニヤリとしたのに、気がついた。
(ははあ、何か仕組んだな)
 傷男が、店長に何か条件を出したに違いない。もしかすると、今日の残りのピザを全部買い占めるとかなんとかいったのかもしれない。それくらいの金は、明日の試合に備えてケンのご機嫌を取るためなら、なんでもないことなのだろう。
(それとも、金髪やゴリラが店長に脅しを?)
 そういえば、店長の声は少しビビッていたようにも思えた。
 しかし、とにもかくにも、こうしてリュウはギグスのファイナルを見に行かれることになったのだ。

 ギグスというのは、内部が低重力になっている透明なアクリル製の大きなチューブの中でやるバスケットボールに似たゲームだ。リングにボールを入れる所はバスケと一緒だが、低重力において行われるので派手な空中戦が売り物だった。
 すばやいパスまわしをして、すごいスピードで相手ゴールに攻めこむ。時には、まわりの壁や天井をキックして、豪快なダンクシュートを決めることもできる。そのときに、派手な宙返りやきりもみをするのが、ギグスの最高の見せ場だった。
また、チューブの中でやるので、壁や天井を使った複雑なパスワークも見所のひとつだ。
 低重力で空中を飛びまわってやるゲームだから、バスケと違って身長などの体格差は関係ない。むしろケンのような小柄な選手の方が、スピードを生かして活躍できるようだ。だから、サッカーと同じように、世界中のどこの国の選手でも、スーパースターになれる可能性がある。ただ、低重力ドームを建設するのにお金がかかるので、今のところは先進国でしか行われていなかった。
 三年前に、アメリカと日本を中心にワールドリーグが結成されてから、急速に人気が高まっている。アメリカに十チーム、ヨーロッパに二チーム、そして、日本にも二チーム、プロのギグスのチームがある。日本からは、ケンのいるトウキョウシクスティセブンスと、大阪に本拠地のあるカンサイクレイジータイガースが参加していた。
 日本やヨーロッパのチームは、ふだんはアメリカのチームと一緒にアメリカ国内をツアーしてまわっている。
当然、日本やヨーロッパのチームにとっては、アウェイゲームばかりだ。
日本やヨーロッパのチームのホームゲームは、時々、日本やヨーロッパに全チームが終結して、一気に消化するのだった。
 トウキョウシクスティセブンスの、今年のレギュラーシーズンの成績は全体の二位。その後のプレイオフを勝ち抜いて、レギュラーシーズン一位のロサンゼルススペースウォリアーズと、ファイナルを戦っていた。
 ケンは、そのギグスで、二年前に史上最年少の13才でプロ契約した天才プレーヤーだった。驚異的な身の軽さを生かしたスピードあふれるプレーを得意としている。
得意技は、フォールスピニングダンク。サイドの壁を蹴って天井に駆け上がり、そこからまっさかさまにきりもみしながらゴールに直接シュートをきめる。世界中でも、彼にしかできない技だった。
デビューした年は、レギュラーシーズンの途中からの参戦だった。それでも、いきなり毎試合三十点以上の得点を決める大活躍で、新人王を獲得している。
昨シーズンは、予想どおりにみごと得点王に輝いた。チームもファイナルまで進出したが、今年の顔合わせと同じロサンゼルススペースウォリアーズに敗れて、惜しくも優勝は逃していた。
ケンは、レギュラーシーズンでは今年も二年連続で得点王を獲得している。今は念願のリーグ優勝とMVPをねらっている。
ケンは、本当ならばまだ義務教育の中学三年生の年令だ。プロ契約した時には公立中学の一年生だった。それからは、シーズン中は転戦転戦で、学校に行く暇がぜんぜんなかった。出席に厳しい公立中学ではとても進級できる状態ではない。それどころか、このままだと児童保護法違反になるところだ。
そこで、チームは出席に甘い私立中学に転校させた。そして、シーズン中は通信教育を受けていることになっている。
でも、それはまったくのおざなりで、ケンの学力は中学一年程度から止まったままだった。まともな学校生活もおくっていないから、同年輩の友だちもぜんぜんいなかった。
 一方、リュウの方も同じ15才だった。中学三年生だから、本当ならば今ごろは受験勉強に追われているころだ。
 ところが、半年前から学校はドロップアウトしてしまっている。
原因は、ささいなことの積み重ねだ。朝に寝坊してしまって遅刻するぐらいならばと、学校をさぼったり、学校への提出物をためてしまって学校に行きづらくなったりだった。
そして、初めは一週間に一回か二回さぼるだけだったのが、そのうちにぜんぜん学校に行かなくなってしまったのだ。
今振り返ってみると、おおもとの原因は、すっかり受験体制になった学校の雰囲気に、なじめなくなったからだったからかもしれない。
リュウは、もともと本を読んだりするのは好きだった。
でも、受験に追いまくられるような学校の勉強は大嫌いだった。
学校に行かなくなってからは、家で好きな本を読んでばかりいた。
両親や先生たちは、なんとかして学校に行かせようとした。
しかし、リュウは頑強にそれを拒んで、かえって自分の部屋に引きこもるようになってしまった。
そんなリュウを心配したアニキのケイが、
「リュウ、学校へ行かなくてもいいけれど、部屋にいてばっかりじゃだめだ」
と、いって、ギャモンピザでのバイトを斡旋してくれたのだった。
 両親から絶大な信頼を勝ち得ているケイのすすめなので、両親もこのバイトのことを黙認していた。

 翌日の昼ごはんを食べてから、リュウは家を出た。どこに行くかは、誰にも話していない。最近の両親は兄貴のケイに説得されて、リュウに対しては放任状態だ。
 リュウはギャモンピザの前を素通りして、マリオットホテルに向かった。
(クマ店長はどうしてるかな?)
と、チラッと思った。昨日の売り上げを保証されて、ホクホクしているかもしれない。
 今日はホテルの正面玄関から入って、エレベーターで43階に向かった。
 エレベーターの前には、今日も金髪とゴリラが見はっていたが、リュウを見るとニコッと笑って、あっさりとケンのスイートルームへ案内してくれた。
 部屋のドアの前には、傷男が立っていた。
「お待ちになっています」
と、いって、すぐにチャイムを押してくれた。
「よう」
しばらくして、ケンがドアを開けた。
「よう」
 リュウも答えた。
「支度するから、ちょっとここで待っててくれ」
 リビングルームに入ったリュウにケンは笑顔でいうと、寝室に戻っていった。

 リュウは豪華な専用リムジンに乗って、ケンと一緒にトウキョウギグスドームにむかった。
リムジンには、運転手以外に、ボディーガードの傷男、ムラタも乗っていた。ゴリラと金髪は、別の車でリムジンを先導している。
 リムジンに乗り込んだ時、リュウはムラタから関係者用のパスを渡された。マスコミの人が持っているような写真入りの立派なものだった。
(そういえば、さっき部屋にいるときに、タブレットで写真をとられたっけ)
 ティクティクティク、ダーン、……。
リムジンの中は、ケンの好きなラップミュージックが、大きな音で鳴り響いていた。
 リュウは、ものめずらしげに車内をキョロキョロ見まわしていた。
運転席とのしきり壁には、液晶の壁掛けテレビがついていて、ミュージッククリップが映し出されている。その横には、メタリックブルーにペイントされた冷蔵庫さえ備えてあった。ケンは、冷蔵庫から良く冷えたダイエットコーラを出して、リュウに渡してくれた。
 座席はフワフワした真っ白なムートンでおおわれていて、すわり心地が抜群だった。リュウは柔らかな座席に、深々とからだをもたれさせていた。
 でも、トウキョウギグスドームはすぐそこなので、10分たらずで着いてしまった。リュウは、もうしばらくこの豪華なリムジンに乗っていたいような気分だった。
 トウキョウギグスドームは、シンジュクの高層ビル群の真ん中にある。銀色に輝く大きなラグビーボールを縦に半分に切ってふせたような不思議な形をしていた。ここは、ギグス用の低重力チューブを備えた室内競技場だ。収容人員は約3万人。野球用のドーム球場を除くと、屋内のスポーツ施設としては日本最大級だった。
 リュウはみんなと一団になって、関係者用の出入り口から入っていった。
 制服のガードマンが、厳重にパスをチェックしてから通してくれた。
「じゃあ、着替えてくるから、先にコートへ行っててくれ」
 ケンは片手を上げて、ロッカールームに消えていった。
 観客席の下にある選手の入場口から、リュウはコートへ出て行った。その中央には、バスケットコートを立体的にしたような巨大な透明チューブが設置されている。
ギグスは、この低重力チューブの中に入って行われるのだ。あたりには、大勢の係員たちが準備のために走りまわっている。
 でも、試合開始までには、まだ二時間近くもあった。周囲にそびえる観客席には、お客さんたちは入っていない。
 リュウはコートに立って、耳をすませてみた。まだ、準備のための物音しか聞こえてこない。
でも、二時間後には、熱狂した観衆の割れんばかりの叫び声であふれかえるのだ。
(わーっ!)
 リュウには、その歓声が聞こえるような気がした。

 ギグスのファイナルは、ホームアンドアウェイの全七戦行われている。
レギュラーシーズン一位のロサンゼルススペースウォリアーズが、自分の本拠地で一試合余計にやるホームコートアドバンテージを持っているので、ロサンゼルスで四試合、トウキョウで三試合が行われる。
初めの二試合は、先週、ロサンゼルスで行われた。
トウキョウシクスティセブンスは、ケンの大活躍で初戦を幸先よく勝っていた。
 でも、スペースウォリアーズも、すぐにケン対策を立て直した。徹底的なマンツーマンのマークでケンを押さえ込んで、第二戦を接戦の末に物にした。これで、一勝一敗。
 続いては、トウキョウに移動しての三連戦。
第三戦は、シクスティセブンスがまたケンの活躍で勝った。これで、対戦成績を二勝一敗とリードした。
 ところが、第四戦の前半にケンが相手選手とぶつかって、ひざをけがしてしまった。そのため、一気にシクスティセブンスが劣勢になった。けっきょくその試合は大敗して、二勝二敗のタイになった。特に、後半は、ケンは出場すらできずに、一方的なゲームになってしまった。
 そして、トウキョウでの最終戦である第五戦が、今日行われるのだ。第四戦でけがをしたケンのひざの具合が心配されるところだ。
この試合は、どちらが勝っても、優勝は決まらない。二日間の移動日をはさんで、ロサンゼルスでの第六戦以降で決着がつけられることになっている。

第1クォーターが始まった。
トウキョウシクスティセブンスは、速いパスまわしで敵陣に攻め込んでいく。選手たちは、めまぐるしく空中を飛びまわって、相手チームをかく乱している。
ボールは、だんだん相手ゴールに近づいてきた。
とつぜん、ケンがすばやく右の壁をかけのぼった。そこにタイミングのいいパスが。
ケンは、空中でそのパスをキャッチ。相手ゴールの上にフリースペースができた。
次の瞬間、ケンは左足で天井をけるとキリモミしながらゴールへまっさかさま。
 フォールスピニングダンクだ。
 ザンッ。
鮮やかにゴールが決まった。相手チームの選手は、呆然と見送ったままだった。
 ウワーッ!
 観客は熱狂して、総立ちで歓声を送っている。
(すげえ!)
 リュウも思わず席を立ち上がっていた。初めて間近に見るケンのプレーは、迫力満点だった。特に、敵のゴール上のフリースペースを使ったフォールスピニングダンクは、ケンならではの決め技だった。 
 ケンは、観衆の声援に手を上げながら自陣に戻っていく。
 第1クォーターも中盤にさしかかった。
「ゴー、ゴー、セブンス!」
 大歓声とともに、トウキョウシクスティセブンスがまた相手ゴールにせまった。
 ケンがサイドの壁にかけあがる。
(フォールスピニングダンクだ)
 観客の誰もが期待した。ケンめがけてロングパス。
 ところが、相手選手がそれをインターセプトしようと、空中に飛び上がった。
(あーっ!)
 ボールをキャッチしようとしたケンと、相手選手が空中で衝突してしまった。
 ピッーッ。
ホイッスルがなった。相手選手のファールだ。二人は、そのままもつれあうように床に落下した。
 相手選手はすぐに立ち上がったのに、ケンはひざをかかえたままうずくまっている。ケンはタンカにのせられて、そのまま退場してしまった。
 長いシーズンも最後のところまできて、どの選手もなんらかのけがはしていた。特に、小柄なケンは接触プレーで飛ばされて壁や天井、床などに激突させられている。ほとんど満身創痍といってもいい。この日も、激しいボディーチェックをうけて、古傷を痛めてしまったのだ。
 ケンを失ったトウキョウシクスティセブンスは、しだいにピンチに追い込まれていった。第2クォーターを終わって、47対38と9点もリードされてしまった。

 ハーフタイムになった。
チューブの中では、セクシーなユニフォームをきたチアリーダーたちが、派手なパフォーマンスで観客席に愛嬌をふりまいている。
リュウはいたたまれなくなって、選手のロッカールームにむかった。
 ロッカールーム周辺は、関係者でごったがえしていた。リュウは人波をかきわけるようにして、ロッカールームのドアを開けた。
「よう」
 ケンがこちらにむかって、すぐに手をあげた。マッサージ台の上に腰をおろしている。
「だいじょうぶなのか?」
 リュウがたずねると、
「まあな」
 ケンはそういって、右足首をあげてみせた。 けがをした個所には、グルグル巻きにテーピングされている。
「後半は出られるのか?」
「もちろん、このくらいで休んでられねえよ」
 ケンはそう答えたけれど、無理をしているのはみえみえだ。けがをおしての、スクランブル出場らしい。いかにこの第五戦が大事なのかがわかる。

 後半戦が始まった。
ケンが復帰してきたおかげで、シクスティセブンスは元気を取り戻している。得意の空中戦に持ち込んで相手コートに迫っていく。
 でも、こんな状況では、さすがのケンもけがの影響か調子が出ない。観客席からも、ケンは少し足を引きずっているように見える。
これでは、得意のフォールスピニングダンクはもちろん、普通のシュートもきまらない。スペースウォリアーズとの点差は、なかなかつまらなかった。
「ああっ」
 また、パスをインターセプトされてしまった。
「ディーフェンス! ディーフェンス!」
 観客が必死に叫ぶ。ケンをはじめとして、シクスティセブンスのメンバーが防御のために戻っていく。
 ザンッ。
また、スペースウォリアーズに得点を決められてしまった。
 ピーッ。
ホイッスルがなって、第3クォーターが終わった。得点は71対63と、まだ8点差もあった。このままでは、シクスティセブンスの勝利は絶望的だった。
最終の第4クォーターに入って、トウキョウシクスティセブンスが猛反撃に移る。ケンが、ようやくスーパープレーを連発するようになったからだ。得意のフォールスピニングダンクも、次々にきまるようになってきた。チームの士気も、それにつれてあがっていく。
「ゴー、セブンス、ゴー」
 観客も、どんどん盛り上がっている。場内は、異常な熱気につつまれ始めた。
 相手のシュートがはずれて、セブンスボールになった。
残り時間は12秒。得点は91対92と、とうとう1点差にまでせまっている。
味方同士ですばやくパスをまわしながら、シクスティセブンスは速攻に移る。敵陣に入ってすぐに、ボールがケンにわたった。
ウォーッ。
場内に歓声が巻き起こる。相手選手がおそいかかる。
 しかし、ケンは敵のディフェンスをかいくぐって、サイドの壁をかけのぼっていった。
 バーーン。
ケンが力強く天井をキックした。キリモミしながら、ゴールめがけておちていく。そこは、ケンだけのフリースペースだ。
 フォールスピニングダンク。
 ザンッ。
ゴールが決まった。
 ファーン。
それと同時に試合終了のブザーがなった。
 93対92。劇的な逆転勝利だ。
 ウワーッ。
観客も総立ちで熱狂している。

 その夜遅くに、リュウとケンは、マリオットホテルトウキョウのラグジュアリタワー4301号室に戻ってきていた。傷男のムラタやゴリラと金髪は、部屋の外で待機している。ようやく傷男も、リュウのことを信用するようになってきていた。もしかすると、交代で食事にでも行っているのかもしれない。
「なんでも好きなの、いっぱい取っていいよ。おれは、もうたいてい食ってるから、何でもいいや」
 ケンがそういって、ルームサービスのメニューをリュウに差し出した。
「いつも、部屋で飯を食ってるのか?」
「ああ」
 今ごろ、日本中のレストランやバーでは、今日のシクスティセブンスの劇的な逆転勝ち、特に最後のケンのスーパープレーの話題で盛り上がっていることだろう。スポーツバーでは、あのプレーを繰り返し大型テレビで流しているに違いない。
 ところが、その本人は一人わびしく、(まあ今日はリュウも一緒だが)、ホテルの一室で食事をしているのだ。もっとも、ケンがどこかに食事に行ったら、それこそツイッターなどで情報が飛び交って、街中が大騒ぎになって収拾がつかなくなってしまうだろうけれど。
(これが、スーパースターの孤独ってやつなのか)
 リュウはあらためてケンの顔を見つめた。
「おいおい、早くしようぜ。おれはハラペコなんだ」
 ケンに催促されるまでもなく、リュウもおなかがすいていた。
「どれにしようかなあ」
 リュウがあらためてメニューをながめると、
「なんでもいいけど、ピザだけはやめておこうぜ」
 ケンはそういって、ニヤリと笑った。
 けっきょく、リュウは、そのままホテルに泊まっていくことになった。
リュウは、びくびくしながら家に電話を入れた。
ルルルー、ルルルー、……。
「もしもし」
ラッキーなことにアニキのケイが出た。家族の中で、ケイだけがリュウの理解者だ。
「ケイ、今日、おれはどこへいったと思う?」
「えっ、例のピザ屋のバイトじゃないのか」
「うん、じつは、……」
 リュウが事情を説明すると、
「ヒャー、ラッキーだなあ。そんなことなら、おれがピザ屋でバイトをすりゃよかった」
 ケイは、心からうらやましがっていた。
「それで、今日はこのままケンのスイートに泊まっていきたいんだけど」
「わかった。とうさんとかあさんには、おれからうまくいっておいてやる」
と、ケイは約束してくれた。
 ケンのスイートルームには、寝室が二つついていた。
「こっちを使ってくれよ」
 ケンがその一つを指し示しながら言った。
 寝室には、ひとつずつトイレとお風呂のあるバスルームがついている。寝室がそれぞれ普通のホテルの部屋になっているようなものなのだ。
 リュウは、手荷物を部屋に置くと、まずシャワーをあびることにした。
 シャー、……。
 熱いシャワーをあびると、一日の疲れが取れていくようだ。今日は、ほんとうに初めて体験するいろいろなことがあった。
 リュウはバスルームを出ると、備え付けのバスローブをはおった。
 リビングルームに行くと、ケンが待っていた。ケンは試合の後でシャワーをあびていたので、今は着替えただけのようだった。
その晩は、真夜中すぎまで、二人でゲームをやった。この孤独なスーパースターは、テレビゲームだけでなく、ボードゲームもたくさん持っていた。
 モノポリー、カタン、マンハッタン、ミッドナイト・パーティー、……。リュウが知らないようなゲームもたくさんあった。世界のスーパースターが、ひっそりと傷男やゴリラたちとゲームをしながら夜をすごしていると思うと、リュウはなんだかおかしかった。

 翌朝、リュウはゆっくりと目をさました。
 目覚めた時、初め自分がどこにいるのか、わからなかった。ふかふかした豪華なベッドで、いつもの自分のとは違う。
(そうか)
 ようやく、ケンのスイートルームに泊ったことを思い出した。
ベッドわきの時計は、もう九時をまわっている。窓の外はすっきりと晴れ上がっていた。今日もいい天気なようだ。
 シャー、……。
 起きぬけに、もう一度部屋のシャワーをあびた。こんな時は、部屋にバスルームがついていると、すごく便利だ。
 さっぱりした顔でリビングルームへ行くと、ケンがもう起きていた。どうやらこのスーパースターは早起きなようだ。
「おはよう」
と、リュウが声をかけると、
「よう。腹がへったよ。早く朝ごはんにしようぜ」
と、ケンが待ちくたびれた様子で答えた。
 その朝も、ルームサービスで、二人で朝食を食べることになった。
 電話で注文すると、意外に早く部屋に届けられた。こんな所も、スイートルームだけは特別扱いなのかもしれない
ボーイさんは、二人分の朝食を部屋へ持ってくると、手早く食卓を整えてくれた。
リュウとケンは、大きなダイニングテーブルに向かい合わせに腰を下ろした。
「リュウ、昨日はサンキュー。どうやら、きみはラッキーボーイのようだな」
 ケンが、スクランブルエッグをほおばりながらいった。
「そんなことはないよ。たまたま勝ち試合にでくわしただけさ」
 リュウは、パンケーキをナイフで切りながら答えた。
「それで、頼みがあるんだ」
 ケンは、まじめな顔をしていった。
「なんだい?」
 リュウが聞き返すと、
「ロサンゼルスの第六戦にも来て欲しいんだ」
 ケンは力をこめていった。
「えっ、ロサンゼルス? すげえなあ。だけど、おれは、バイトがあるからなあ」
 第六戦には、リュウも行ってみたい気がする。
 でも、これ以上休んだら本当に首になってしまう。
「ムラタ!」
 ケンは、そばに立って控えている傷男に、また電話をかけるまねをした。また、店長に交渉しようというのだろう。今度はどんな条件を出すのだろうか。

その日の午後、例のリムジンで成田空港に向かった。
 ホテルの前には、今日も大勢の報道陣やファンがあふれていた。
 ケンが姿を現すと、
「キャーッ!」
「ロスでも、がんばってーっ!」
と、歓声や声援が飛びかった。カメラのフラッシュが切れ目なくたかれて、まぶしいくらいだった。
 リュウは、ケンに続いてリムジンに乗り込んだ。
「やれやれ、これでひといきだな」
 リムジンが動き出すと、ケンが苦笑いをうかべていった。
「でも、ロサンゼルスだって、ファンで大変なんだろ」
 リュウがそういうと、
「そりゃそうさ。でも、ちょっと感じは違うね」
「違うって?」
「ああ、なにしろ敵地だからな。応援よりは、ブーイングの嵐だよ」
「へーっ!」
「でも、もう慣れっこだけどね」
 たしかに、ケンはレギュラーシーズンとプレイオフを合わせて、もう九十試合以上も戦っているのだ。その半数が、敵地での試合だった。アメリカ中、そして、ヨーロッパの各地での試合。まさに、ワールドツアーの一年なのだ。
 やがてリムジンは、成田空港に到着した。今日は豪華なリムジンにたっぷり乗れたので、リュウは満足だった。
 ケンたちが案内されたのは特別な入り口だった。一般の乗客にまぎれて、混乱が生じないようにとの配慮だったらしい。
 リュウは、ケンや他の関係者たちと一緒に、搭乗や出国の手続きをすませた。飛行機も、トウキョウセブンティシクサーズ専用のチャーター機が用意されていた。
 リュウは、今までに二回しか飛行機に乗ったことがなかった。四年前に、家族とハワイへのパック旅行に行ったときの往復だけだ。
でも、そのおかげでパスポートを持っていたので、今回は助かった。パスポートには、小学生時代のまだ幼さの残ったリュウの写真がはってある。兄貴のケイに連絡を取って、ホテルまでパスポートや着替えを持ってきてもらっていた。
「すげえなあ」
 ケンのスイートルームに来たケイはすっかり驚いていた。
「よろしく」
 ケンは、ケイの求めに応じて、彼が持ってきた色紙にサインしてやった。
「ロサンゼルスか。いいなあ」
 ケイは、何度もそういってうらやしがっていた。
 搭乗時間になった。
 小学生のときのパック旅行のときは、長い時間狭いエコノミーの座席にすわりっぱなしだった。すごく疲れたことを、今でも覚えている。
 ところが、搭乗してみると、案内されたのは機内前方のファーストクラスの席だった。
「ここだ」
 ケンが指差したリュウの座席は1Bで、ケンとは隣り合わせの席だった。まわりには、他のプレーヤーたちがすわっている。チームのスタッフは、後方のビジネスクラスの席のようだった。
 でも、そちらもエコノミークラスとは違ってかなりゆったりしているので、そんなに窮屈ではないだろう。
 ファーストクラスの座席は、大きく豪華だった。エコノミークラスとは、比べ物にならないくらいだ。座席と座席の間もたっぷりスペースがとってある。エコノミーだったら、その間にもう一列並べられそうだ。
 ためしに、横のボタンを押してみた。
(うわっ)
 座席が倒れて、理髪店のいすのように完全に平らになった。これなら、ロサンゼルスまでゆっくりと寝ていかれるだろう。そばには、専用の小型スクリーンがついていた。タッチパネル式になっていて、好きな映画やゲームを楽しむことができる。
(すげえなあ)
 リュウはなんだか遠足にでもきたように、ワクワクしてしまった。
「何してんだよ?」
 となりからケンが声をかけてきた。
「いやあ、いろいろついてて面白いんだ」
 リュウがそういうと、
「ふーん?」
 ケンは不思議そうな顔をしていた。もうファーストクラスの座席なんか、慣れっこになっているみたいだった。
 十時間後、リュウたちを乗せたチャーター機は、ロサンゼルス空港に着いた。
 入国手続きは英語で行われたが、リュウにはチンプンカンプンだった。
 でも、ニコニコ笑っていると、係官は肩をすくめてパスポートにスタンプを押してくれた。
 ゲートを出て行くと、ここにも大勢のファンたちが待ち受けていた。日本人が多い。観戦ツアーや現地在住の人たちなのだろう。
「キャーッ!」
「ケーン、がんばってーっ!」
 ケンとならんで外へ出て行くと、ひときわ大きな歓声が巻き起こった。まわりにはアメリカ人もいたが、心配していたブーイングは、ほとんどなかった。
 空港からは、他のプレーヤーたちと一緒に、専用バスで会場近くのホテルにむかった。
リュウは、初めて見るロサンゼルスの街並みを窓からながめていた。街はギグスのファイナルを迎えて、あちこちに大きなたれ幕やポスターがはられている。たいがいは、地元のロサンゼルススペースウォリアーズの選手たちだが、ケンの写真が使われているものもけっこうある。それだけではない。街中に、彼のコマーシャルがあふれていたのだ。
ファストフード、シリアル、ゲームソフト、……。
いろいろな商品に、彼の写真が使われていた。ケンは、日本だけでなく、ここでもスーパースターなようだ。
 バスがホテルに到着した。やっぱりここもマリオット系のホテルだった。このホテルチェーンが、ギグスの公式スポンサーをしている関係だろう。
「キャー!」
「ケーン!」
 ロビーの前には、やっぱりたくさんのファンがつめかけていた。中には、観戦ツアーで、同じホテルに泊まっている人たちもいるらしい。
 選手たちは、ガードマンたちが人垣を押し分けて作った狭い通り道を、足早に通り過ぎた。
 ケンは、ここでも特大のスイートルームに案内された。もちろん、リュウも一緒の部屋だ。この部屋も、大きなリビング以外に寝室やバスルームが二つずつついている。二人でもたっぷり余裕があった。
「ロスは初めてなんだろ。ちょっと観光でもしてきたら」
 荷物をそれぞれの部屋においてから、ケンがリュウにいった。
「ケンは?」
 リュウがそうたずねると、
「……」
 ケンは、さびしそうな笑顔を浮かべるだけだった。このスーパースターは、せっかくロサンゼルスにやって来ても、ホテルから一歩も出られないのだ。もし、外に出たら、どんな騒ぎになるかわからない。このスイートルームも、いつもの傷男や金髪、ゴリラに加えて、現地のボディーガードたちでまわりをかためられていた。

 ピーッ!
ホイッスルとともに第六戦が始まった。パスを受け取ったケンは、サイドの壁を巧みに使ったドリブルで、敵陣に攻め込んでいる。
「ディーフェンス! ディーフェンス!」
 観衆から、いっせいに地元チーム、ロサンゼルススペースウォリアーズの防御をうながす大声援が巻き起こる。
 ケンはすばやく味方の選手にパス。
 しかし、相手チームの選手に、それをカットされてしまった。スペースウォリアーズが、すばやく速攻に移る。
 ウォーッ!
 観衆から歓声がわきあがる。
「ディフェンス!」
 ベンチ横に座っていたリュウは、思わず大声を出していた。
 ケンが、けんめいに相手選手に追いすがっている。
 しかし、あざやかなパスが、ゴールめがけてジャンプした選手に通ってしまった。そのままゴールイン。アリ・ウープ・プレイだ。スペースウォリアーズが先取点をあげた。
ウォーッ!
 観客は総立ちで大喜びだ。すごい歓声のうずが場内をつつんでいる。ほとんどの観客が、スペースウォリアーズのチームカラーの服を着てきているので、場内はイエロー一色だ。リュウも身に付けているシクスティセブンスのチームカラーのブルーは、チラホラしか見えない。
(これが、アウェーでの試合なんだな)
と、リュウは思った。
 試合は、第2クォーターになった。
その後も、スペースウォリアーズのペースで試合は進んでいる。
 観客の応援を受けて、攻撃も防御も激しさを加えている。
 ガチーン。
あちこちで、選手同士の激突が繰り返されていた。
 ピーッ。
 審判のホイッスルが鳴っている。
 また、シクスティセブンスの反則が取られてしまった。
 一方、スペースウォリアーズの選手たちは、反則すれすれの、いや反則気味のプレーを続けているのに、あまり反則が取られていない。
(これがホームチームアドバンテージか)
 観客の一方的な声援が、審判の笛にも影響を与えているようだ。
激しいプレーで、両チームにはけが人も続出している。
ピーッ。
また一人、シクスティセブンスの選手が、担架でチューブから運び出された。
こういった肉弾戦になると、体力で勝るススペースウォリアーズが、シクスティセブンスを圧倒している。
ハーフタイムになって、48対54とシクスティセブンスは六点も負けていた。
 リュウは、選手たちの先回りをして、シクスティセブンスのロッカールームへ行った。
 選手たちが続々と引き上げてくる。
「ケン、足の具合はだいじょうぶか?」
 リュウは、最後にロッカールームに戻ってきたケンに声をかけた。
「だいじょうぶ、だいじょうぶ」
 そういいながらも、ケンは少し足をひきずっている。
(かなり痛いんだろうなあ)
と、リュウは思った。
 でも、ケンの目にはギラギラと闘志が燃えていた。どうしても、この試合を勝とうという強い意志が感じられる。
 ハーフタイムの休憩時間が終了した。
「がんばれよ」
 リュウが声をかけると、
「おお、まかせとけ」
と、ケンは笑顔を見せた。
「さあいこうぜ!」
「絶対、逆転できる!」
 シクスティセブンスのメンバーは口々に叫びながら、またまばゆい光のあたった低重力チューブの中へ入っていった。
 ピーッ!
 後半戦が始まった。
 ブーー、ブーー、……。
ボールがケンに渡ると、あいかわらず激しいブーイングがおこる。
 でも、ケンは少しもそれに気おされずに、すごいスピードでサイドの壁をドリブルしていった。
 この第3クォーターは、どちらのチームも、壁や天井を使ってジャンプする空中戦が展開された。
観客席から見ていると、まるでビンの中にたくさんのミツバチを閉じ込められて、ブンブン飛びまわっているかのように見えた。こういう戦いは、シクスティセブンスの得意とするところだ。だんだん得点差を詰めていっている。
第3クォーターが終わった。シクスティセブンスは、63対65と二点差に迫っていた。
「最後までねばっていこう。ケン、足の具合はだいじょうぶか?」
 ヘッドコーチが、円陣を組んでいるみんなに指示を出している。
「OK。ひざがパンクしたって、この試合で決めてやる」
 ケンが、目をギラギラと輝かせながら答えた。
「よーし、行くぞ」
 五人の選手たちは、最後に控えの選手たちとパーンとハイタッチをしてから、また低重力チューブの中へ入っていった。
 ピーッ。
いよいよ最後の第4クォーターが始まった。
すばやいパス交換から、ケンが相手ディフェンスをかいくぐって敵陣に入った。
 次の瞬間、ゴール前の味方に矢のようなロングパス。あっという間に、豪快なダンクシュートが決まった。これで、とうとう同点に追いついた。
 ゲームは、その後も一進一退が続いた。
 残り時間は、わずかに17秒。スコアは86対86の同点。
 しかし、相手ボールだった。この攻撃が決まったら、スペースウォーリアーズの勝利が決まる。そして、ギグスのファイナルは、三勝三敗で最終戦にもつれこむことになる。そうなったら、ホームチームのスペースウォーリアーズが有利だろう。
 相手の攻撃が始まった。ゆっくりとパスをまわしながら、ゴールに近づいてくる。
 次の瞬間、ゴール前の選手へすばやいパスが。
 でも、一瞬早くケンが前へ飛び出すと、相手ボールをインターセプトしていた。
 残り時間は、四秒。もうフォールスピニングダンクをやる時間はない。ケンはすばやくドリブルすると、思い切ってロングシュートをはなった。ボールは、きれいな放物線を描いて飛んでいく。
 ウワーッ。
観客席からは、歓声とも悲鳴ともつかぬ叫び声が響いた。
 ザンッ。
ボールがゴールに吸い込まれた。
 ゴールイン。
いちかばちかのシュートが決まって、シックスティセブンスの優勝が決まったのだ。

 表彰式が始まった。
低重力機能が解除されたチューブの中は、関係者や報道陣でごったがえしていた。
 シクスティセブンスの監督が、テレビ局のインタビューを受けている。今日のファイナルは、世界中の百以上の国や地域で生中継されていた。
 いよいよMVPが発表される。
「エム!」、「ヴイ!」、「ピー!」
 観客が口々に叫んでいる。
「ケーン!」
 場内アナウンサーが、大声で叫んだ。予想通りに、ケンが最優秀選手に選ばれた。
 ケンがコートの中央に進んでいく。コミッショナーから、クリスタル製の大きなトロフィーが手渡された。ケンは笑顔でインタビューを受け、応援してくれたファンに感謝している。
 続いて、黄金のワールドカップが、チームのキャプテンに渡された。カップはチームメンバーの間を手渡しされていく。中にはカップにキスをする者もいる。
 カップが、ケンの手に渡った。ケンは、ワールドカップをだきしめて泣いている。
 リュウは、そんな姿をチューブの外からながめていた。
 優勝の記念撮影が始まった。ワールドカップをまんなかに、チームメンバーや関係者が集まっている。
「おーい」
 ケンが手まねきして、リュウをそばに呼びよせた。リュウも、みんなと一緒に記念撮影をすることになった。大勢のカメラマンのたくフラッシュの洪水の中で、ケンもリュウも他のチームメンバーも、最高の笑顔を浮かべていた。

                                        

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大あたりーっ!

2020-09-22 09:51:26 | 作品

「上ヘマイリマス」

 どこからか女の人の声がして、エレベーターのドアが閉まった。
「あっ!」
 あわてて「1」のボタンを押した。
 でも、間に合わなかった。地域住民センターの四階の図書館で借りたばかりのクイズの本を、歩きながら夢中になって読んでいたせいだ。
 エレベーターは、すぐに上へ向かって動き出してしまった。
(上には何があるんだろう?)
 ぼくは、この建物の四階より上には、行ったことがなかった。
 ピンポーン。
 あっという間に、五階に着いてしまった。音もなく、エレベーターのドアが開いた。目の前には、青い上っ張りを着て、両手にモップとバケツを持ったおばさんが立っている。掃除係の人だろうか。
「……」
 なんだか、ぼくが降りるのを待っているようだ。ぼくはペコリとあたまを下げると、用もないのについエレベーターを降りてしまった。
 ズンチャカカ、ズンチャカカ、……。
 すごいボリュームで、音楽がひびいている。
 すぐ前は広いホールになっていて、十数人のおじさんやおばさんたちが、社交ダンスを踊っている真っ最中だった。
「1、2、3。1、2、3。はい、そこでターンして」
 まん中に立っているまっかなドレスのおばさんが、手拍子をしながら叫んだ。他のみんなは、ドタバタとお互いの位置を変えようとしている。
「いてて」
「あっ、ごめんなさい」
 あわてて相手の足をふんづけたり、ころびそうになったりしている人たちもいた。場内は、みんなが体勢を立て直そうと大騒ぎになっている。
「ふふふっ」
 おもしろそうなので、ついエレベーターの下りのボタンを押すのを忘れてしまった。
ズンチャカカ、ズンチャカカ、…。
「はい、1、2、3」
 ようやく立ち直ったみんなは、まじめくさった顔をして、ホールをグルグルまわっている。

「ボク、どこに行くんだい?」
 ダンスがもっと見やすいようにと、壁にそって歩き出した時、いきなりうしろから声をかけられた。
 振り返ると、白いランニングシャツ姿をしたはげ頭のおじいさんが、こちらに向かってニコニコしている。手には、小さな包丁と豆腐のパックを持っていた。
「いえ、ちょっと、…」
 ぼくは、思わず口ごもった。特に、この階のどこかに行こうとしているわけではない。ダンスを見ようとしているだけなのだ。
 ズンチャカカ、ズンチャカカ、……。
 向こうのホールでは、あいかわらず、ヒラヒラのレースがたくさんついたドレスや蝶ネクタイの人たちが、グルグルまわりながら踊っている。
 反対のこちら側には、ランニングシャツに古ぼけたズボンのおじいさんが、包丁と豆腐のパックを持って立っている。
 なんだか、すごく変な組み合わせだ。
「見物すんなら、こっちにきな。ホールの中はじゃまになっから」
 おじいさんは、こっちにむかって手まねきをしている。ぼくは、ゆっくりとそちらに近づいていった。
 おじいさんがいる所は、そこだけ独立した小さな部屋になっている。入り口には、「湯沸かし室」って書いてあった。
 中をのぞくと、正面に大きな湯沸かし器が取り付けられている。さらに、ステンレスの流しと小さな炊飯器、それに一口だけのガスコンロもあった。コンロには古ぼけたなべがかかっていて、野菜がグツグツ煮えている。
「よし、いいあんばいだ」
 おじいさんは手のひらの上で器用に豆腐を切ると、ドサドサッとなべの中に入れた。
 なんだか、こっちもおもしろそうだ。ダンスはひとまずおいといて、おじいさんが料理を作るのを見ていることにした。
 今、ぼくが来ている所は、JR駅前の五階建てのビル。一階と二階はにぎやかなショッピングセンターで、三階以上は地域の住民センターになっている。
 三階が区役所の出張所で、四階は図書室。ここ五階には、案内板によると、カルチャーセンターや会議室があるらしい。
「できた、できた」
 おじいさんは、コンロの火を消してなべをおろした。
「ボク、そいつを持ってきてくれんか」
 ぼくは炊飯器をかかえて、おじいさんの後に続いた。

 フロアの奥は、会議室や実習室になっている。
 おじいさんは、なべを持ってどんどん先へと歩いていく。ぼくも炊飯器を持って、その後について歩いていった。
おじいさんは、第三会議室という看板が出ている部屋の前で、立ち止まった。
ドアには、「避難所」って書いた紙がはってある。四隅のセロテープのひとつがはがれて少し丸まり、黒のマジックの文字は消えかかっていた。
 ドアを開くと、大きな箱や折りたたみ椅子などがゴチャゴチャに置かれて、まるで物置のようになっている。
「こっち、こっち」
 おじいさんが手まねきしている窓のそばに、ぼくの背の高さぐらいのダンボールで、四角く区切った所がある。
 近づいてみると、それが「部屋の中の部屋」だということがわかった。こちら側のダンボールの壁に、四角くくりぬいた小さな「ドア」が作ってあったのだ。
「できだぞお」
 おじいさんが外から声をかけると、
「まあまあ、ごくろうさん」
 女の人の声がして、いきなり「ドア」が内側から開いた。
「お客さんだ」
 おじいさんは、腰をかがめて「部屋」に入っていく。
 ぼくが続くと、びっくりするほど小さなおばあさんが、中にチョコンとすわっていた。三年生のぼくよりも、まだ小さいくらいだ。 
「おやおや、ボク、いらっしゃい」
 白髪頭のおばあさんは、ニコニコしながらていねいにおじぎをした。
「こんにちわ」
 ぼくも、あわててピョコリと頭を下げた。
 おじいさんは、小さな折りたたみのテーブルの上になべを置いた。ぼくもそのテーブルの横に炊飯器をおろした。
おばあさんは、古い茶ダンスの引き戸をあけて、おちゃわんやおはしを出している。プーンと、かびくさいようななつかしいようなにおいがした。前に一緒に暮らしていた、ぼくのおばあちゃんの部屋の茶ダンスと同じにおいだった。 

 そのときだった。
ガチャ。
 いきなり、うしろで大きな音がした。
ぼくがびっくりして立ちあがると、ダンボールの壁越しに、会議室のドアから男の人が一人入ってくるのが見えた。
 ズンチャカカ、ズンチャカカ、……。
 男の人が、そのままドアを開けっ放しにしているので、ホールからのダンスの音楽がいっそう大きく響いてくる。
 男の人はぼくをジロリとにらむと、奥へ行ってゴソゴソと何かを捜しはじめた。
 そのへんは、何か物置場にでもなっているみたいだ。
 しばらくして、ようやく探している物が見つかったのか、男の人は、今度はぼくの方は見向きもしないで、ドアをバタンと閉めて出ていった。
 それにつれて、ホールからのダンスの音楽は小さくなった。
 でも、おじいさんとおばあさんは、平気な顔をしてごはんのしたくを続けている。まるで、今起こったことは違う世界のことか何かのようだった。
 ぼくもようやく安心して、「部屋の中の部屋」に腰を下ろした。
「ボク、いっしょに食べてかない?」
 おばあさんが、さそってくれた。いつのまにか、テーブルの上には、お茶碗とおはしが、三人分並べられている。
「ううん、いりません。もうお昼は食べたから」
 本当はまだ食べてなかったけれど、そう答えておいた。先生やおかあさんからは、知らない人にもらった物を食べたりしないようにいわれている。それに、だいいちぼくの分はあるのだろうか。おじいさんは、おばあさんとの二人分しか用意していなかったはずだ。
「まあまあ、遠慮しないで。と、いっても、なんにもないけどね」
 おばあさんは、さっさとぼくの分もごはんをよそっている。フアーッと、おいしそうなごはんのゆげが立ちのぼった。なべの中身は、野菜と豆腐だけだった。肉も魚も入っていない。あとは、テーブルの上に、つくだにとつけものが少しずつ並んでいるだけだ。
 それでも、おじいさんとおばあさんは、おいしそうにごはんを食べはじめた。
「いただきます」
 ぼくも小さな声でいって、お茶碗を手に取った

 それから、しばらくしてからのことだった。
「おかあさん、避難所って、何?」
 ぼくは、台所でおかあさんにたずねた。
「えっ、なあに?」
 朝ごはんを作っていたおかあさんが、こちらを振り返った。
「今朝のマンガに出てた」
 ぼくは玄関へ出て行って、下駄箱の上から朝刊をとってきた。
「ほら、これ」
 うしろのページの四コママンガを、おかあさんに見せた。ぼくは、毎日このマンガだけは読んでいる。
「ああ、地震のね。ほら、家が壊れちゃったりして、臨時に避難している場所のことよ」
「ふーん、図書館の上にもあるんだよ」
「図書館って。駅前の地域センターの?」
「うん」
「うーん。そういえば、ずっと前の台風で被害が出た時に、あそこが避難所になったような気もするけど。でも、もうとっくになくなっているはずよ」
 おかあさんは、ふしぎそうに首をひねっていた。

 その日の学校の帰りに、ぼくはまたあの「避難所」をたずねていった。
 エレベーターで五階に着くと、今日はダンスはやっていなかった。ホールは、将棋をさしている男の人たちが少しいるだけで、ガランとしている。
「湯沸かし室」をのぞくと、おじいさんは今日はトーストを作っていた。
 どうやら、
(足の具合が悪いんよ)
って、いっていたおばあさんにかわって、いつも食事のしたくをしているらしい。
「こんにちわ」
 ぼくは、ペコリと頭を下げた。
「おや、ぼく。今日も来てくれたのかい」
 おじいさんがこちらに振り返ってニッコリした。なんだか、口のあたりがフガフガしている。もしかすると、入れ歯をはめていないのかもしれない。
 おじいさんは、魚を焼く網の上にパンを置いて焼いているところだった。ガスコンロを弱火にして、じっくりと焼いている。ぼくのうちでは、パンはオーブントースターで焼いていた。でも、「湯沸し室」には、オーブントースターは見あたらなかったから、いつもこうして焼いているらしい。
 おじいさんは、パンが焼きあがると、マーガリンを薄くていねいにぬって、上から砂糖をまぶした。
 ぼくは、そのふうがわりなトーストができあがるのを、ジーッとながめていた。

「ボク、今日もいっしょに食べないか?」
 おじいさんが、テーブルの上にトーストと牛乳の入ったコップを並べながらいった。
「ううん、もう給食、食べてきたから」
 今日は、本当におなかがいっぱいだった。
「ボク、これなら食べるかい?」
 おばあさんが、茶筒からキャラメルを取り出して、ぼくにすすめてくれた。
「ありがとう」
 包み紙をむこうとすると、しけっているのか、しっかりとはりついちゃっている。つめではがそうとしたけれど、少しだけ白く残ってしまった。
 そばで二人がじっと見ているので、気にしないふりをして口にほうりこんだ。
 おばあさんは、安心したようにニッコリとした。
 キャラメルは口の中で少しガサガサしたけれど、甘くておいしかった。
「ボク、荷物はそっちに置いときな」
 おじいさんにいわれて、背負ったままだったランドセルを、窓際におろした。そこだけ、窓の高さに合わせて、ダンボールが少し低く切り取られている。
 窓の両側には、古いカーテンがぶら下がっていた。
 でも、よく見ると、右と左とでは、カーテンの柄が少し違っている。
 窓際に積まれた新聞の山の上に腰掛けて、あらためて「部屋」をながめてみた。
 ぼくの勉強部屋よりも、ずっと小さい。たたみ四枚ぐらいのスペースしかないだろう。反対側の隅には、二人のふとんがたたんで積み上げてある。それ以外の家具は、折りたたみテーブルと茶ダンスがあるだけだ。テレビもない。ただ、古ぼけた小さなラジオが、窓枠の所にのせてあった。

 その日以来、学校の帰りにおじいさんとおばあさんをたずねるのが、ぼくの日課になった。五時の「家に帰りましょう」のチャイムがなるまでの一時間か二時間を、二人とおしゃべりしたり、窓辺でラジオを聞きながらのんびりひなたぼっこしたりしている。
 団地の横のスーパーでレジのパートをしているおかあさんは、六時過ぎにならないと家に戻らない。今までは、それまでの間を、図書館や児童館ですごしていた。もっと前、ぼくのおばあちゃんが一緒に暮らしていたときには、「おばあちゃんの部屋」で遊んでいたけれど。
 おかあさんが前にいっていたように、ここのおじいさんとおばあさんは、去年の台風の時のがけくずれで家がこわされてしまって、この「避難所」にやってきていた。その時は、会議室や実習室だけでは足りなくて、ダンスをやっていたホールにも、たくさんの人たちが避難していたのだそうだ。
 でも、他の人たちはどんどんいなくなって、今では二人だけがポツンと取り残されている。
「若い人たちは、いくらでもやり直せるからなあ」
 おじいさんが、少しさびしそうにいった。
「いまさら、どこかに行けって、いわれてもねえ」
 おばあさんも、ためいきをついた。前に住んでいた所は、もともと地主に立ち退きをいわれていたし、家を立て直すお金もなかった。
 区役所からは、
(遠く離れた場所の区営住宅へ行け)
って、いわれているらしい。
「あそこは、絶対に離れん」
 おじいさんは、その時だけは、別人のような恐い顔をして、地主や区の悪口を言い出した。
 おばあさんの説明によると、いまだに区や地主ともめていて、なかなか行く場所が決まらないのだそうだ。それに、区役所のすすめる区営住宅の場所の近くには、知っている人が誰もいなかった。
「この年になって、知らないご近所の人たちと暮らすってのもねえ」
 おばあさんはそう言うと、もうさめてしまった湯飲みのお茶をひとくち飲んだ。
 二人には、子どもも他の身寄りもいないようだった。

「宝くじって、一度に何枚買うのが一番得だか、知ってるかい?」
 ある日のこと、おじいさんがぼくにたずねた。
 その日も、学校の帰りに二人の所によって、テーブルに宿題をひろげてやっていた。
「うーん、……」
 たくさん買う方が得するような気がするけれど、自信がない。
「あんな、正解は何枚買っても一緒。宝くじの売り上げの中から賞金にまわされるんのは、だいたい四割ぐらいなんだ。だから、一枚買っても、百枚買っても、たとえ一万枚買ってもな、そこからいくらもどってくるかの確率は、やっぱし四割。こういうのを期待値って、いうんだけどな」
「ふーん?」
「また、そんなこといって。ボクには、むずかしすぎるよねえ」
 おばあさんが口をはさんだ。
「だから、買うのは一枚でもいいんだけんど。前後賞ってのもあんだろ。それで、連番で三枚買いてえんだ」
「連番って?」
「おお、続き番号のことさ。だけんど、なかなか三枚だけじゃ、売ってくんねえんだよな。『連番は十枚から』って、売り場の奴に馬鹿にされちまう。売ってくれても、しぶしぶのことが多くってな」
 おじいさんは、不満そうに顔をしかめてみせた。 
「それで、この人な。わざわざ渋谷まで、宝くじ買いにいくんよ」
 ぼくにお茶を入れながら、おばあさんはニッコリした。茶色い前歯の間がすいている。
 おじいさんによると、渋谷のハチ公前の売り場のおばさんは、三枚だけでも、十枚セットをばらして、気持ちよく連番を売ってくれるのだそうだ。それで発売日には、いつも必ずはるばる渋谷の売り場まで、買いに行っているらしい。
「えっ、それなら、電車賃の方が、高くついちゃうんじゃない?」
 ぼくがそういうと、おじいさんはニッコリして定期のような物を見せてくれた。
「これがあれば、七十歳以上の年寄りは、バスと都電と都営地下鉄はロハなんだ」
「ロハって?」
「おっ、そうかそうか、ボクにはわからんか。ロハってのは、タダってこった」
 おじいさんは、紙に、只(ただ)という字を書いてみせた。
「カタカナで縦にロハって書いて、漢字の只って字になるんだ」
「ふーん」
 おじいさんは、古いノートを取り出してきて見せてくれた。
 いつもながめているのだろう。表紙が薄汚れている。
 ……
 六月十四日 第354回全国自治宝くじ
 六月十七日 第249回東京都宝くじ
 六月二十一日 ……
 どうやら、これからの宝くじの発売日が書いてあるらしい。
「へえーっ! 宝くじって、こんなにしょっちゅう売ってるんだ」
「そうなんよ。だから、せわしくって、いけねえ」
 そういいながら、おじいさんはなんだかうれしそうだった。
 週に二、三回、バスや都営地下鉄を乗り継いで、わざわざ遠回りしながら渋谷まで宝くじを買いに行くのが、おじいさんの「仕事」のようになっているらしい。
 それにひきかえ、おばあさんの方は、リューマチで足もとがあぶないので、遠出はできなかった。おじいさんに手を引かれながら、ショッピングセンターの中を散歩するだけにしている。おじいさんがいないときに、ぼくも何度か手を貸してあげたことがあった。おばあさんは、すいている時間を選んで、ショッピングセンターの中をゆっくりと一周する。食料品売り場、日用品売り場、電気製品売り場、……。
 一階も二階もすみずみまで歩きまわるけれど、いつも何も買わなかった。

「ボク、こっちも見てごらん」
 おじいさんは、ノートの別のページを開いた。
 第347回全国自治宝くじ
 一等 60組873024
 二等 ……。
 そこに書かれていたのは、宝くじの抽選結果のようだった。
 そのページだけではない。
 前のページにも、その前のページにも、今までの抽選結果が、細かい字でびっしりと書き込まれている。
「ふふ。この人な、宝くじの予想が趣味なんよ」
 おばあさんにわらわれても、おじいさんは平気な顔をしている。
 ここには新聞を配達してくれないので、発表結果を見るために、いつも駅まで新聞を拾いに行っているのだという。
「山ほど新品が捨ててあって、もってえねえんだ」
 おじいさんは、少しはずかしそうにわらった。
 おじいさんは、予想のやり方を、ぼくに説明してくれた。
「宝くじの抽選ってのは、0から9までの数字が書いてあるグルグルまわってる輪に、きれいな若い子が機械じかけの弓で矢を放ってやるんだ。それがあたったとこが、そのケタの番号ってわけだ。どの番号も、あたる確率は一緒ってことになってる。でも、機械の具合かなんかで、あたる確率が微妙に違ってるんだなあ。だから、おれは抽選結果をためておいて、各ケタごとに、どの数字が一番出てるかを調べてんだ。そいで、その数字を組み合わせて、くじを買うってわけだ」
「ふーん」
 ぼくが感心していると、
「ほら、ボク。こいつは、他の人にはないしょだぜ」
 おじいさんがそっと見せてくれたページには、ケタごとに、今までにあたりがたくさん出た順番に数字がならべてある。
 一番あたりが出ているのは、十万のケタは3。
 一万のケタは7。
 千のケタは…。
 熱心にしゃべっているおじいさんと、それをニコニコしながら聞いているおばあさん。
 そんな二人を見ていると、なんだか不思議なうれしさで、頭のすみがジーンとしびれてきた。
「このやり方で、四等の一万円が当たったことがあるんだぜ」
 おじいさんが、胸をはっていった。
「すごーい!」
「もう十年も前のことだけどね」
 からかうように口をはさんだおばあさんを、おじいさんはにらみつけている。

「ボクんちじゃ、宝くじなんか、興味ないんだろ」
「ううん。うちでも、おとうさんが、『五億円くらい、あたらないかなあ。そしたら、すぐに会社をやめちゃうのに』って、よくいってるよ」
「へーっ。ジャンボってわけだ」
「そう。それで、おかあさんに『じゃあ、宝くじを買ったら』って、いわれるんだけど、一度も買ったためしがないんだ」
「おれは、五億円なんていらねえ。一千万円か二千万でいいんだ」
「あたったら、どうするの?」
「もちろん、こんな所とはおさらばさ。あの家を建て直して、ばあさんとやり直すんだ。でも、その前にな、思いっきりどなってやるんだ」
 そこでおじいさんは、ひといきいれると大声で叫んだ。
「大あたりーっ!」
 ぼくがびっくりしていると、
「鐘があるといいんだけどね」
 おばあさんがニコニコしていった。
「鐘って?」
「ほら、福引きの特等のときに鳴らすやつさ。ジャラン、ジャランって」
と、おじいさんが説明した。
「こいつは、前に年末の大売り出しの時に、特等をあてたことがあるのさ」
「いい音だったねえ」
 おばあさんは、うっとりと目を細めている。
「賞品は?」
「そう、たしか、ミシンだったかねえ」
「えーっ、変なの」
「うーん。昔のことだから」
「ぼくが生まれるより前?」
「もちろん。もしかすると、ボクのおとうちゃんが生まれる前かもしれないねえ」
 おばあさんはそういうと、少しさびしそうにわらった。
「これが次の奴だ」
 おじいさんが、はじがやぶれかかった黒いさいふから、大事そうに宝くじを取り出した。
 第348回全国宝くじ。一等の賞金は二千万円。前後賞がないせいか、一枚きりしか買ってなかった。
「34組の378970。ほらな、おあつらえむけの番号が買えたってわけだ」
 おじいさんが、満足そうにうなずいている。
「34組の3、7、8、9、7、0。うん、ぜんぶ一番あたる番号だね」
 ぼくも、ノートの予想番号を見ながらくりかえした。

 次の日、先生の研修日なのでいつもよりも早く地域住民センターへ行くと、二人の「部屋」には誰もいなかった。
(ショッピングセンターに、散歩にでもいってるのかな?)
 ぼくはランドセルを背負ったまま、エレベーターで一階までおりた。
 夕ごはんの買物にはまだ少し早いのか、食料品売り場はすいていた。
 おいしそうな物があふれるように積まれた棚の間をぬいながら、ぼくは二人をさがし始めた。
(いた!)
 肉売り場の方に、おばあさんがいるのが見えた。
 でも、おじいさんの姿が見えない。いつもなら、二人でしっかりと手をつないでいるのに、今日はおばあさんだけが、つえをついて立っている。
(あっ、そうか)
 その時、急に思い出した。今日は、宝くじの発売日だったのだ。今ごろは渋谷からの帰りで、東京のどこかでバスにゆられているのだろう。
 おばあさんに近づいていくと、試食品のソーセージを食べているところだった。
(おばあさん)
 声をかけようとして、ハッとして立ち止まってしまった。おばあさんが、あまりにもおいしそうな顔をして、ソーセージを食べていたからだ。食べてしまうのをおしむかのように、ゆっくりゆっくりと口を動かしている。
 おばあさんは食べおわると、ようじをていねいにゴミ箱にすてて向こうへ歩き出した。
「やあねえ。あのおばあさん、毎日来るんだから」
 試食コーナーのそばをとおったとき、店員のおばさんが、顔をしかめてそばの人にいうのが聞こえた。
 その時、なぜか胸がキューンとしめつけられるような感じがした。まるで、自分のおばあちゃんが、そういわれたような気がしていた。
 そして、ぼくの家の二階の部屋のことを思い出した。そこは、今でも「おばあちゃんの部屋」ってよばれているけれど、去年、おばあちゃんがもと住んでいた町に戻ってしまってからは一度も使われていない。 ぼくはおとうさんと一緒に、お正月におばあちゃんの家に遊びに行ったけれど、どういうわけかおばあちゃんは一度もこちらに来たことはなかった。
(その部屋に、二人で引っ越しって来てもらうわけにはいかないのだろうか?)
 つえをつきながらゆっくりと歩いていくおばあさんの背中を見ながら、ぼくはそんなことを考えていた。

「あはははっ」
 いつものように、ドジな4コママンガの主人公をわらっていた。
(あっ、そうだ!)
 ふと思いついて、前に避難所のおじいさんが教えてくれた、宝くじの当選発表が載っているページをめくった。
 第348回全国宝くじ。
 この前、おじいさんが見せてくれた宝くじの発表だ。
(一等の番号は、……)
 ぼくは、じっと新聞をのぞきこんだ。
 34組378970
( えっ! まさか?)
 おじいさんが見せてくれた、あの宝くじの番号だ。
 一等賞金二千万円。おじいさんの夢が、とうとうかなったのだ。これで、二人は「避難所」をぬけだして、自分の家に戻ることができる。
 ぼくは新聞をにぎりしめたまま、すぐに部屋から玄関へとび出していった。
 きっと、二人はまだこのことを知らない。少しでも早く教えてあげたかった。
「どこへ行くの! もうすぐ朝ごはんよ」
 うしろから、おかあさんがどなっているのが聞こえてきた。
「あとで食べるから」
 ぼくはうしろにむかっていうと、外へかけだしていった。

 いつもなら歩いて十分はかかるのに、ずっと走ってきたから、今朝はあっという間に着いた。
 でも、一階のショッピングセンターの入り口には、まだシャッターが降りている。
 正面のエレベーターのボタンを押した。
 これもだめだ。ランプがつかない。まだ、動いていないようだ。
 あたりをキョロキョロしていると、非常階段の緑のサインが目に入った。
 かけよってノブに手をかけると、かぎはかかっていない。ぼくは重いドアを開けて、一気に非常階段をかけのぼり始めた。
 ビルの横に取り付けられたらせん階段を、グルグルまわりながらのぼっていく。息が切れて何度も立ち止まりそうになったけれど、なんとか五階までたどりついた。
 金属製のドアを開けて中へ入り、うす暗い廊下をつっぱしって、第三会議室へ。
(あれ?)
 ドアにはってあった「避難所」の紙がなくなっている。四すみのセロテープの跡だけがかすかに残っていた。
(とうとうはがれちゃったのかな)
 そう思って、ドアのノブに手をかけた。
(えっ?)
 かぎがかかっている。今までは、一度もそういうことはなかった。
 ドンドンドン、ドンドンドン。
 ドアを、何度もおもいっきりノックした。
 でも、とうとう中からは返事がなかった。

 三階の市役所の出張所まで下りていったが、そこもまだ閉まっていた。
 正面の時計は、まだ八時二十分をすぎたところだ。
(何時に開くのだろう?)
 ぼくは、足踏みするような思いで、時間が早く過ぎるのを願った。
 八時四十五分になって、ようやく三階の区役所の出張所が開いた。
 ぼくは、すぐに窓口に駆け寄った。
「あのー、五階の……、会議室にいた……」
 なんとか、二人のことを聞き出そうとした。
 でも、窓口のおじさんは、めんどうくさそうな顔をするだけで、何も教えてくれなかった。
「それより、学校はどうしたんだい?」
 壁の時計を見ると、とっくに学校が始まる時刻をすぎている。
 いじわるそうな顔をしたおじさんににらまれて、とうとうそれ以上は聞けなくなってしまった。
 出張所を出ると、もう一度今度はエレベーターで五階に上がってみた。
 いつのまにか、第三会議室のかぎはかかっていない。
 ドアを開けて中に入ってみた。
 でも、二人の「部屋の中の部屋」は、すっかりなくなっていた。テーブルやいすが何列もならべられて、きちんと会議室の形になっている。まるで、ずっと前からそうだったかのようだ。二人が住んでいたようすは、あとかたもなくなっていた。

(いったい、どこへ行ってしまったんだろう?)
 窓から外をながめながら、ぼくはぼんやり考えていた。外からは、びっくりするぐらい強い初夏の日差しがさしこんでいる。 
(急に行き先が決まって、出ていったのだろうか?)
(前に住んでいた所へ戻れたのだろうか?)
(それともあの区営住宅だろうか?)
 考えれば考えるほど、頭の中が混乱してくる。
 どこかに、ぼくにあてた手紙か何かがないだろうかと思って、「部屋」があった窓のあたりをさがしてみた。
 でも、何も手がかりはなかった。
 もしかすると、区役所の人たちに片づけられてしまったのかもしれない。
 その時、まだ右手に、新聞をにぎりしめたままだったことに気がついた。
 宝くじの当選発表のページを、またひろげてみた。
 一等 34組378970
 何度見直しても、おじいさんが見せてくれた宝くじの番号だ。
(そうだ!)
 この宝くじがあるかぎり、どこへ行っても、
(やり直したい)
って、いっていた二人の夢がかなうかもしれない。
 そう思うと、少しだけ気持ちが軽くなるような気がした。
「大あたりーっ!」
 そっと、口の中でつぶやいてみた。
 いつものランニングシャツ姿で、その何十倍もの大声でどなっていたおじいさんの姿が目にうかんでくる。そして、その隣でおばあさんがニコニコしながら、大きな鐘をジャランジャランと力いっぱいならしているような気がするのだった。

     

 

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ふうちゃん

2020-09-17 14:21:34 | 作品

 自由遠足の班のメンバーが決まり、全員一致で班長に選ばれた時、

「ひでえことになったな」
と、秀樹は思った。
 秀樹の班はぜんぶで六人。男子と女子が三人ずつだった。それがよりによって、クラスの中でも問題のあるやつらばかりなのだ。
 まずシミケンこと、清水健太。 
 乗り物マニア。飛行機、船、自動車と、乗り物ならなんでも好きだが、中でも鉄道は大大大好きの鉄男だ。
 なにしろ愛読書は、時刻表。たとえば、午前十時二十三分には、XX線では、特急YYがZZ駅を発車するところだとか、AA線では、急行BBがCC駅に到着したところだとか、瞬時にわかるんだ。そういったことが、頭の中にいっぱいつまっているらしい。
 スマホで最適な乗り継ぎが検索できる現代に、そんな知識は時代遅れだろうが、そんなことはおかまえなしだ。
今度の遠足でも、とんでもないことを提案してきた。
 もう一人の男子は、カオルちゃんこと、山内薫。
 男だか女だかわからないような、名前のとおりナヨナヨしたやつだ。母親が本当は女の子が欲しかったらしく、小さいころは女の子のように育てられたらしい。時々、いまどき女の子でも使わないような「女ことば」を使ってしまい、みんなにからかわれている。
 カオルちゃんは、シミケンとは対象的に乗り物に弱い。去年の遠足でも途中で酔ってしまって、ゲーゲーもどしていた。今年は大丈夫だろうか。

 女の子のリーダー格は、「ゲイノリ」こと、飯野紀香だ。
 ゲイノリのゲイは、芸能人の芸だ。歌マネ、モノマネ、フリマネ、なんでもこいの、クラスで一番のタレントだ。学芸会や謝恩会など、アピールするチャンスがあれば、なんでもしゃしゃりでてくる。AKB系や坂系やハロプロ系のグループのモノマネは、オハコ中のオハコだ。実際にいろいろなグループのオーディションを受けているといううわさまである。将来は、「歌って踊れる」アイドルを目指しているんだそうだ。遠足の時は、女の子もみんなパンツスタイルだけど、ゲイノリだけはいつものフリフリのワンピースを着てくるだろう。
 二番目の女の子は、岡田直美。
 あだ名は、……。
 特にない。
 他のクラスのみんなは、全員なんらかのあだ名や呼び名を持っている。
 でも、この子だけは、
「岡田さん」
とだけ呼ばれている。
 なんというか、とにかく地味なのだ。外見も性格も、特に目立つところがまったくない。それにおとなしくて無口なので、ふだんはいるのかいないのかわからないのだ。たぶん、仲の良い友だちなんか一人もいないんじゃないかな。
 そして、三人目の女の子が、最大の問題のふうちゃんだった。
 ふうちゃんの名前は、山口ふうこ。風の子とかいてふうこと読む。
(まったくうまい名前をつけたものだなあ)
と、つくづく感心してしまう。
 ふうちゃんは、文字どおりの「風の子」だったのだ。授業中でもなんでも、気がむかないと教室からプイッといなくなってしまう。そのたびに、先生はクラスの授業を中断して、学校中をさがしまわることになる。
 ふうちゃんは動物や植物が大好きなので、たいていは学校の裏山の自然観察林や、動物飼育小屋で見つかることが多かった。ふうちゃんは、子うさぎをだっこしていたり、菌をうえた原木からはえているシイタケを数えたりしていた。
 しかし、時々は、他のクラスにまぎれこんだりして、騒ぎが大きくなったりもした。
 先生に見つかると、ふうちゃんはおとなしく教室に戻ってくる。
 でも、またしばらくすると、ふいとどこかに消えてしまったりするんだ。
 まったく文字通りに風の子だった。
 ふうちゃんもみんなとあまりおしゃべりをしないけれど、いつもニコニコしているから、みんなに「ふうちゃん」、「ふうちゃん」とよばれて、かわいがられている。教室をぬけだすくせだって、おかげで授業がつぶれるので、「ふうちゃんタイム」って呼んで、喜んでいるやつがいるくらいだった。
 でも、そんなふうちゃんと一緒に校外へ行くなんて、考えただけでも頭が痛くなってくる。
 
 そもそも自由遠足というのが、とんでもない遠足なのだ。なにしろ四時までに学校に戻れるならば、班ごとにどこへいってもいいというのだ。
 こんな遠足、聞いたこともない。他の学校ならば、たとえ子どもたちが望んだとしても、責任問題を恐れる学校側が許さなかっただろう。
 そんな無責任な遠足が許されているのは、秀樹たちの学校が「自主性を育てる教育」とやらの実験校だからだ。
 どこへいってもいい代わりに、各班は事前に遠足の細かな計画を立てなければならない。そして、班の行動は、学校やあちこちに待機している先生たちにモニタされている。
(どうやって、モニタするかって?)
 それが、実験校ならではハイテクを使った物だった。各班長に、専用のスマホを一台ずつ持たせるのだ。
 スマホには、GPSという位置情報を確認する機能が付いている。そして、スマホは使わなくても常に電波を出しつづけているのだ。それをキャッチしてスマホのある位置を知ることができるんだそうだ。それならば、各班がどこにいるかを、先生たちはパソコンでモニタできるわけだ。
 もちろん、スマホの電波が届かない山奥などは無理だろうけれど、今ではけっこう辺鄙な所でも電波が届くんだそうだ。そして、もしその班が計画どおりに行動していないと、たちまち先生から班長に電話がかかってくる。
 そして、なぜ計画通りに行動していないかを電話で話し合う。それでも問題が解決できなければ、周辺で待機している先生たちの中で一番近い人が現場に急行するってわけだ。

 他の班はそれで問題なかった。行き先が、学校から徒歩でいけるか、せいぜいバスでいける公園や博物館だったからだ。
 あいにく秀樹たちの町には、そういった遠足に向いた施設はなかった。
 でも、隣りのS市には、遠足にもってこいの場所がたくさんあった。
 郷土の歴史に関する市立博物館。まわりで水遊びのできる淡水魚専門の水族館。無料で遊べる大型遊具がたくさんある大きな県立公園。フィールドアスレチックや無料のふれあい動物園のある市立公園。
けっきょく、ほとんどの班が、それらのどこかへ行くことになった。
 秀樹たちの班だけが大問題だったのだ。
 そもそものきっかけは、乗り物マニアのシミケンの提案だった。バス、電車、地下鉄、ゆりかもめなどを乗り継いで、お台場まで行こうというのだった。
「いいねえ。フジテレビに行こうよ。芸能人や女子アナに会えるかもしれない」
 その提案に、芸能界好きのゲイノリが、すぐに賛成してしまった。それに引きずられるように、岡田さんも賛成した。
 乗り物に弱いカオルちゃんと面倒に巻き込まれたくない秀樹は反対。
 これで3対2だ。
 ところが、なんとふうちゃんまでが賛成してしまったのだ。これで、4対2で遠足の行き先が決まってしまった。
 それでも、先生たちがそんなプランにはまさかOKはしないだろうと、秀樹はたかをくくっていた。
 たしかに、先生たちの最初の反応も、「考えさせてくれ」とのことだった。
 ところが、意外にも最終的にはOKが出てしまった。
 秀樹たちの班だけ、先生たちが最大限のサポートをすることにしたのだ。これも「自主性を育てる教育」の実験校ならではだ。
 秀樹たちが予定している各乗り換え地点には、一人ずつ先生が配置されることになった。
 もしかすると、秀樹たちの遠足は、今回の結果を県の教育委員会へ報告するときの目玉にされてしまうのかもしれない。
 班の行き先が承認された時、シミケンやゲイノリを筆頭に班のメンバーは大喜びだった。
 班長の秀樹だけは、そんな自由遠足が憂鬱でたまらなかった。

 

 

         

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夏、雨上がりの野球

2020-09-08 09:55:43 | 作品

 最初に川に入って泳ぎ始めたのは、キャプテンの明だった。力強いクロールで途中の速い流れもつっきって、楽々と向う岸にたどりついた。

 明は、大きな岩の中ほど、三メートルぐらいの所まですばやくよじ登った。真っ黒に日焼けした体は、腕や胸に筋肉が盛り上がっていてたくましい。
 対岸のみんなが注目する中、明は勢いよく頭から川に飛び込んだ。大きく水しぶきがはね上がる。
 明はすぐに浮き上がると、水の流れに身体をまかせながらこちらにむかって笑顔で手を振ってみせた。
 それを見て、他の六年生たちがいっせいに続いた。きれいなクロールでいく者、力まかせにバチャバチャと犬かきで泳ぐ子。泳ぎ方はさまざまだったが、みんな、なんとか向う岸にたどりついた。
 対岸についた六年生たちは、我先にと岩からの飛び込みを始めた。明と同じ場所から飛び込む者もいたが、大半はそれより少しでも高い所から飛ぼうとしている。
 でも、中には水面すれすれから、こわごわと飛び込んでいる者もいた。
 その時、明が岩のてっぺんまでよじ登ると、一回ひねりをして飛び込んで見せた。
 それからは、みんながいろいろな技をきそって、飛び込むようになった。
 両手を鳥のように大きく広げて飛び込む、左右に足を開いての飛び込み、……。
 だんだん技がエスカレートしていく。
「おーい、あぶないから、曲芸はやめろ」
 とうとう下から監督がストップをかけた。
六年生たちは普通に飛び込むのではつまらないのか、岩を離れて下流のほうへ泳いでいった。
「おーい、次はお前たちだぞ」
 監督にうながされて、五年生たちが泳ぎ始めた。
 こちらも、ほとんどがなんとか対岸へはたどりついた。
 でも、飛び込まないで岩にしがみついている者が多い。中には、向こう岸まで泳ぐのさえあきらめて、途中で引き返す子さえいた。
 そんな中で、芳樹の兄の正樹も泳ぎ出した。いつも慎重な正樹らしいていねいな平泳ぎで、ゆっくりだが確実に向こう側へ渡り切った。
 でも、やっぱり岩につかまっているだけで、飛び込みをやろうとはしない。
「なんだあ、だらしねえなあ」
「男なら、思いきって飛び込んでみろよ」
 監督やコーチたちが、川の中から大声で挑発した。大人たちも水に入って、みんながおぼれたり流されたりしないように油断なく見張っている。
 その声に発奮したのか、向こう岸にいた五年生たちが、岩によじ登りだした。正樹も、へっぴり腰ながら、一番後から続いていく。
「よーし、いけーっ」
 監督のかけ声に合わせて、五年生たちも岩の上から飛び込み始めた。

 今日は、芳樹たちの少年野球チーム、ヤングリーブスのバーベキュー大会。夏の厳しい練習のごほうびにと、道志川の河原へ連れてきてもらっていた。
 いよいよ、芳樹たち三年生の番になった。五、六年生以外に来ていたのは、上に兄弟がいる子だけだったので、四年は誰もいなく三年も他には良平ひとりだった。そう、それとニ年の隼人も来ていた。
「ほら、次は三年の番だろ」
 監督はそういって、二人をけしかけた。
 でも、良平は初めからあきらめているのか、ニヤニヤしているだけで泳ごうとしない。
 芳樹は、行く手をはばむ中ほどの速い流れを、じっとながめていた。そこだけが、幾筋にも白く波立ちながら流れている。
 向こう岸までは、たった15メートルほどしかなかった。 スイミングスクールに通っていたころは、25メートルプールを楽に往復できた芳樹には、問題になる距離ではない。
(でも、波が、……)
 いつまでたっても、ふんぎりがつかなかった。
「ギブアップかあ?」
 ようやく監督もあきらめたらしく、対岸の五年生たちの方に向きなおった。
芳樹は、何気ないそぶりでその場を離れていった。
 いつのまにか良平は、下流の流れがよどんでいる場所で、隼人と何かを探していた。
「良ちゃーん、何か取れる?」
 わざと大声を出しながら、芳樹はそちらへ走っていった。
 よどみには、草色をした小さな魚が、群れをなして泳いでいた。芳樹はつとめてさっきのことは忘れるようにして、良平たちと魚を追い始めた。
「よっちゃーん」
 突然、うしろから声をかけられた。
 振り向くと、裕香が河原に立っていた。黄色のタンクトップに赤いショートパンツで、ニコニコ笑いながら手を振っている。
「やっぱり、ついて来ちゃった」
 裕香の兄は、さっき最初に岩から飛び込んだキャプテンの明だった。
「今、来たの?」
 芳樹がおそるおそるたずねると、
「うん、おかあさんと」
 たしかに、河原では裕香のおかあさんがエプロンをつけて、他の人たちと一緒にバーベキューの準備を始めていた。
(泳がなかったところは、裕香ちゃんには見られなかったみたいだな)
 芳樹はそう思って、ホッとしていた。

「あっ、大きな犬がいる!」
 突然、裕香が大声で叫んだ。裕香が指差す上流の方を見ると、こげ茶色の長い毛をした大きな犬が泳いでいた。グングンとスピードをあげて、対岸を目指していく。
 芳樹は急いで河原に上がると、裕香と一緒にそばまで行ってみた。
 向こう岸の近くに、ピンク色のゴムボールが浮かんでいる。犬はあっという間に川を泳ぎ渡ると、ボールをくわえてすぐに戻ってきた。
 こちら岸に上がってブルブルッと体をふるわせたので、まわりに水しぶきが大きく飛び散った。
「うわーっ!」
 裕香は、水がかからないようにすばやく逃げた。逃げ遅れた芳樹には、もろに水がかかってしまった。
 飼い主らしい茶髪のおにいさんは、犬の口からボールを取ると、今度はもっと上流に向かって思いっきり投げた。犬は、すぐにまた川の中に飛び込んでいった。
 ボールは、あの飛び込み岩の近くまで飛んでいって、そこにひっかかってしまった。
 犬は川の中ほどにつくと、そこから上流に向かって泳ごうとし始めた。
 でも、流れが一番速いところなので、なかなか前に進めない。けんめいに前足を動かして、文字どおり犬かきで進もうとしている。
 でも、ちょうど流れの力とつりあったのか、まるで止まってしまったように見えていた。
「ジュリー、もっと向こうへ渡ってから泳げったら」
 おにいさんは、少しいらいらした声で怒鳴っていた。
(やっぱり、あそこは流れがきついんだ)
 芳樹は、あらためて白く波立っているあたりを見つめた。
「芳樹、来い。だいじょうぶだから」
 突然、対岸から声がかかった。五年生たちの飛び込みを見ていた監督だ。ほかのコーチたちは、少し下流の流れのゆるやかな所で、飛び込みにあきてビーチボールで遊んでいる六年生たちのそばにいる。
(しまった、見つかっちゃった)
 芳樹は聞こえないふりをして、また良平のいるよどみに戻ろうとした。
 と、そのとき、
「よっちゃん、行ってみたら。スイミングにいってたでしょ。よっちゃんなら、絶対渡れるよ」
 裕香にまでいわれてしまった。
 向こう岸の監督、こちら側の裕香。二人にはさまれて、芳樹は身動きが取れなくなった。
「監督、行きまーす」
 そういったのは、芳樹ではなかった。一緒についてきていたニ年生の隼人だった。
「おっ、隼人か。いいぞお」
 隼人はすぐにザバザバと川へ入ると、きれいなクロールで泳ぎ出した。そういえば、隼人は、チームに入るときにやめた芳樹と違って、まだスイミングを続けている。
 隼人は中ほどで少し下流に流されたものの、無事に対岸にたどりついた。
「いいぞ、隼人。よくやった」
 監督も満足そうだ。
「隼人くん、すごーい!」
 裕香もそう叫ぶと、隼人にむかって手を振っている。隼人もそれにこたえるように、得意そうな顔をしてVサインをしてみせていた。
「行きますっ!」
 思わず、芳樹はそういってしまった。すぐに後悔したけれど、もう後には引けない。隣では、裕香が(尊敬のまなざし)でこちらを見ている。
 内心のドキドキを隠して、芳樹は少し上流へ移動してから川の中へ入っていった。さっきの隼人の泳ぎを見て、少し下流に流されることを計算に入れたのだ。
 腰ぐらいの深さになったとき、芳樹はやっと泳ぎ出した。流れの中は、さっきのよどみよりも水が冷たかった。
 スイミングをやめる直前に習いはじめたクロールをしているつもりだったけれど、プールの時のようにはうまくいかない。やたら腕を振り回したので、水がバチャバチャとはねかえっている。
 それでも、ようやく中ほどまでさしかかった。問題の速い流れだ。
(あっ!)
と、思った瞬間に波立った水が顔にかかり、それをゴボッと飲んで何がなんだかわからなくなってしまった。
「芳樹、そっちじゃないぞお!」
 急に上流に向かって泳ぎ出した芳樹を見て、監督があわてたように叫んでいる。
 でも、夢中で腕をふりまわしていた芳樹には、どこか遠いところからのように聞こえた。
 芳樹はけんめいに泳いでいた。だけど、ちっとも前に進まない。いや、むしろ少しずつ下流へ流されているくらいだ。そして、しだいに浮力をなくした身体が、だんだん水の中に沈んでいった。
「ああっ!」
 誰かが叫んだ。力つきた芳樹が、完全に流され始めたからだ。
「おーい、芳樹をひろってくれえー!」
 監督は、下流の方で、ビーチボールで遊んでいた六年生たちに大声で頼んだ。芳樹は、ちょうどそちらにめがけて流されていくところのようだった。
「OK!」
 流されてきた芳樹をがっちりとつかまえてくれたのは、キャプテンの明だった。そのまま芳樹をひきずるようにして河原にあがっていった。
「だいじょうぶかあ」
 監督も、すぐにこちらに渡ってきた。
「だ、だいじょうぶです」
 河原にうずくまった芳樹は、歯をガチガチさせながら答えた。水を飲んでしまったせいか、気分が悪かった。
「だいじょうぶ?」
 気がつくと、裕香のピンクのビーチサンダルが目の前にあった。

 その晩、芳樹は寝る前におかあさんにいった。
「また、スイミングに入ってもいい?」
「えっ、どうして?」
 おかあさんは、少しびっくりしているようだった。チームに入ってからも、せめて四種目すべての泳ぎ方ができるようになるまで、もう少し続けるようにいわれていたのに、やめるっていい出したのは、芳樹の方だったからだ。そのときは、少年野球にスイミング、両方やったら遊ぶ時間がなくなってしまうと、芳樹は思ったのだ。
 でも、今はそんなことはいってられない。
「どうしてもっ!」
 そういって、芳樹はタオルケットを頭からかぶった。
 あれから、バーベキュー大会はさんざんだった。楽しみにしていたスイカ割りも、気分が悪くて寝ていたので参加できなかった。裕香や隼人たちの楽しそうなわらい声が、横になっていた芳樹にも聞こえていた。
 おなかいっぱい食べようと思っていた焼肉や焼きそばも、ほとんど食べられなかった。いつもはおいしそうなにおいが、その時はムカムカしたのだ。
「じゃあ、明日、スイミングにいってみる?」
 おかあさんは少しあきれていたようだったが、最後にそういってくれた。
「うん」
「じゃあ、ゆっくり寝るのよ」
 おかあさんはそういって、部屋の電気を消して出ていった。
 芳樹がタオルケットから顔を出すと、うす暗い闇の中に隼人の得意そうなVサインが浮かんできた。

 次の土曜日、明け方近くになって、芳樹は急に目が覚めた。
 ザザザザーッ。
雨戸に、激しく雨が降りかかる音がする。
 ガンガンガン。
雨がひさしをたたく大きな音もする。
 昨日の夕方からふり出した雨は、台風の接近とともにひどくなっているようだ。しばらく静かになったと思ったら、次の瞬間、よりいっそう激しくなる。
 あたりはまだ暗く、天井にはオレンジ色の常夜灯がぼんやりとついている。
 ピカーッ。
一瞬、あたりが明るくなった。
 次の瞬間、ガラガラガラーンと、激しくカミナリが鳴った。 
(うわーっ!)
 あわててタオルケットを頭からかぶった。
 芳樹は、小さなころからカミナリが大の苦手だ。ゴロゴロって、遠くでなっているのを聞いただけでもいやなのに、今のはかなり近かった。しかも、今日はカミナリだけでなく、台風の強い風と雨もいっしょなのだ。とても、たまったもんじゃない。
 ピカーッ。
 ……。
 ガラガラガラーン。
芳樹は、タオルケットの中で震えていた。

 その朝、芳樹は六時に目を覚ました。
「正樹、芳樹、起きる時間よ」
 部屋のドアをあけて、おかあさんがどなっている。今日は試合の予定だったから、早く起きなければならなかった。
 外では、雨はまだ激しく降り続いている。いや、むしろひどくなっているようだ。これでは、せっかく早起きしたのに、野球なんかとてもできそうにない。
「うわーっ!」
 雨戸を開けようとしたら、すごい勢いで雨がふきこんでしまった。芳樹は、あわててサッシの窓を閉めた。
「うーん」
 二段ベッドの上では、にいちゃんがまだねぼけている。芳樹と違って神経が図太いから、台風なんて関係なくぐっすり眠れたみたいだ。
「まだ雨が降ってるよ」
 芳樹が声をかけると、
「うーん、じゃあ、まだ寝てよっと」
 といったかと思ったら、またすぐに寝込んでしまった。本当にすごいやつだ。
 芳樹は、もうとても寝ていられない。しかたないので、パジャマを脱ぎ始めた。 

「うん、わかった」
 電話は良平からだった。今日の試合は、やっぱり中止だった。厚木市の大会に参加することになっていたけれど、この天気じゃもちろん無理だ。
 芳樹は、冷蔵庫の横に磁石でとめてあるチームの連絡網をとってきた。そして、それを見ながら、次の順番の隼人に電話をかけようとした。
 ルルルー。
そのとき、先に電話がなってしまった。
「もしもし」
 出てみると、五年生の拓ちゃんからだ。今度は、にいちゃんへの連絡の電話だった。
「にいちゃん、電話」
 まだベッドの中でぐずぐずしていたにいちゃんに、子機を持っていってやった。
 チームの連絡網は、上級生と下級生で別れている。試合の時などに、別々の予定になる事があるからだ。
練習試合の時は、時間を変えて下級生のBチーム同士の試合を組んでくれることが多い。
でも、今日は大会なので、試合には六年生と五年生だけが出る。芳樹たち下級生には、まるで出番がなかった。大会の時は、下級生は参加しないで居残りで練習することが多い。
ただ、芳樹と隼人だけは、いつも試合について来るように監督から頼まれていた。試合の時の芳樹と隼人の役割は、ボールボーイと一塁や三塁のベースコーチをやることだ。
ボールボーイというのは、主審の人にいつもきれいなボールを補充するのが役目だ。ファールチップなどで、ボールがバックネットへとんでいった時は、二人で争うように取りにいっている。ひろったボールは、きれいにタオルでよくふいておいた。そして、じっと試合の様子を見ている。バッターの交代とか、ファールなど、プレーが止まった時にすばやくダッシュして、審判にボールを渡しに行くのだ。主審のそばまでいって、帽子を脱いでペコリとあいさつしてからボールを渡す。
 べ-スコーチというのは、攻撃のときにコーチスボックスに立って指示を出す役目だ。
 芳樹たちがベースコーチにたった時には、一球ごとに、
「ピッチ(ピッチャーのこと)、ボールが入らないよ」
「バッチ(バッターのこと)、しっかり打っていこう」
と、大声でヤジったり、声援したりしている。
 ヒットや四球でランナーが出れば、
「リー、リー、リー」
「まわれ、まわれ」
と、上級生たちよりも大きな声で、ハキハキと指示を出していた。
「芳樹と隼人のおかげで、うちのチームは、ボールボーイとベースコーチだけは、どこのチームにも負けない」
 監督はそういって、いつも二人のことをほめてくれていた。

 がけ崩れでつぶされてしまった家が、テレビに映っていた。すごい土砂で、あたり一面グチャグチャになっている。今朝のテレビは、どこのチャンネルでも台風の被害のニュースで持ちきりだった。
「がけ崩れがあった山梨県のF村からの中継でした」
アナウンサーがレポートしている。
「山本くん、だいじょうぶかなあ」
 芳樹は、台所で朝ごはんを作っているおかあさんにたずねた。前に同じクラスだった山本くんは、F村の学校に転校していたからだ。
 山本くんは、一年生の時だけ、芳樹と同じクラスだった。学年でも飛びぬけて小柄な子で、なかなか学校になじめなくて最初から休みがちだった。そして、二年生になる時に、とうとう転校していってしまったのだ。
 それが、今年になって、ひょっこりクラスあてに写真入りの手紙が届いた。
(今はF村に山村留学しています)
って、書いてあった。そういえば、山本くんの家は、今でも近所にある。一人で山村留学するなんて、さびしくはないのだろうか。
 でも、写真の山本くんは、前と同じように小柄だったけれど、大きな木をバックに楽しそうにわらっていた。
「だいじょうぶよ。山本くんの学校も夏休みでしょ。だったら、きっとおうちに帰っているはずだから」
 おかあさんが、そういってくれた。
 テレビの画面がきりかわった。
「あっ!」
 思わず芳樹はさけんでしまった。
なんと、川の中州に取り残された人たちが映っていたのだ。キャンプをしにきていて取り残されてしまったんだという。二、三十人もいる。
 警察や消防の人たちが、けんめいに救助しようとしていた。
 ドドドドドーッ。
すごい勢いで濁った水が流れてくる。水かさがどんどんまして、立っている人たちの足元が完全に水に隠れた。
 中には子どもたちもいた。大人たちは、小さな子をかかえて水にぬれないようにしている。傘やシートをかぶって、じっとたちすくんでいた。
 救助の人たちが、ロケットのように対岸にロープを打ち込んで、助けようとしている。
 でも、中々反対側の木に引っかからないで、ロープが流されてしまっていた。
(がんばれーっ)
 芳樹は、テレビの画面に向かって声援を送った。
 ザザザザーッ。
気のせいか、家にふりつける雨も強くなったような気がした。 

 ひどい雨だった。
 ザザザザッ。
水たまりに白い波をたてて、雨はようしゃなく芳樹たちをおそってくる。上からだけでなく、前からもうしろからも横からも、雨はふりかかってきていた。強い風が吹いた瞬間などは、下からさえも雨が押し寄せてくるようだ。
 車からスーパーの入り口までは、たったの20メートルぐらいしかない。
 おかあさんとにいちゃんと一緒に、芳樹はけんめいに建物の中にかけこんだ。それでも、そのわずかの間に、三人ともすっかりビショビショになってしまった。
「すごかったわねえ」
 おかあさんはバッグの中からタオルを取り出しながら、なぜか感心したようにいっていった。
「ビショビショだあ」
 にいちゃんもすっかりぬれてしまったひざのあたりをタオルでふきながら、なんだかうれしそうにしている。
(へんな親子だなあ)
と、芳樹は横目で二人を見ながら思った。
 少し小降りになったのを見はからって、三人でスーパーに買い物にやってきた。
 でも、途中でまた雨がひどくなってしまっていた。
 スーパーの中は、台風の影響とお盆休みのせいか、すごくすいていた。係りの人たちも、いつもよりずっと少ない。おかげで、試食が食べやすかった。
 芳樹は、にいちゃんと競うようにしてスーパー中をかけまわった。マグロ、ソーセージ、焼肉など、なんでも食べ放題だった。
「はずかしいから、いいかげんにして」
 とうとう、おかあさんに叱られてしまった。
 冷蔵庫がからっぽになりかけていたので、おかあさんは山ほど買い物した。
 牛乳、卵、ひき肉、野菜、おさしみ、焼き鳥、納豆、豆腐、……。
「ねえ、アイスクリームも買ってよ」
 芳樹がそういうと、
「いいわよ。五個買うと割引だから、二人で選んできてよ」
 芳樹は、にいちゃんとアイスクリーム売り場に急いだ。
 アイスはどれも百円だったけれど、五個買うと、一個分がただになる。さんざんまよったあげく、チョココーンとあずきもなかを二つずつ、それに雪見大福を一つ買った。
 スーパーからの帰りの道では、下水溝からゴボゴボと雨水があふれ始めている。低いところには大きな水たまりができていて、通りかかった車がザーッと大きくはねかえしていた。いつもはけっこう乱暴な運転をするおかあさんも、今日だけはゆっくりと車をはしらせていた。

 翌朝は、昨日とはうってかわってすごくいい天気だった。外を見ると、まだ七時になったばかりだというのに、もうかんかん照りだ。こういうのを「台風一過」っていうんだって、テレビでアナウンサーが話している。この言葉を初めて聞いたとき、「台風一家」というやくざの組があるのかと思ったなんてくだらない冗談をいって笑っていた。
「にいちゃん、監督さんからよ」
 二人ともパジャマのままでテレビを見ていたら、おかあさんが子機をもってやってきた。
「……。はい、わかりました」
 にいちゃんは電話を切ると、おかあさんにいった。
「今日、急に試合だって。お昼のおにぎりもいるって」
「えっ、どうしたの? 今日はお休みじゃなかったの? おにぎりのごはん、あったかしら?」
 おかあさんは、少しあわてているようだった。
「うん、大会が台風で伸び伸びになっちゃってるから、どうしても今日やらないと、だめなんだって」
 にいちゃんは、そこで芳樹の方にむきなおっていった。
「そうだ、よっちゃん。お前も、絶対に連れて来いってさ」
「えーっ、なんでえ?」
 今度は、芳樹があわてる番だ。今日は、おとうさんとプールへ行く約束だった。「打倒隼人」の猛特訓をしなくっちゃ。
「なんか、人数が足りなくなるかもしれないんだって。もしかすると、お前も試合に出られるかもな」
「そんなあ」
 この間の川を横断したときの前のように、心臓がドキドキしてきた。

「ひい、ふう、みー、……」
 へんな数えかたで、監督が人数を確認している。
「……、なな、やー。あれ、へんだな。足りないなあ」
  六年と五年だけでなく、四年生や三年の芳樹や良平までが借り出されていた。
 それでも、まだ足りないみたいだ。お盆休みで、帰省したり家族旅行にいっちゃったりした人たちが、たくさんいるらしい。
 今日の試合は、厚木市主催のトーナメント。もし、人数が足りないと不戦敗になって、先に進めなくなってしまう。六年生たちは、せっかく優勝を目指してがんばっていたのに。
「いち、にー、さん、……」
 監督は、今度は普通のやり方でもう一度数え直そうとしている。
 ブブブーン。
 と、その時だ。校門から、すごいいきおいでRV車が入ってきた。
 ギギギーッ!
はげしいブレーキの音を立てて車が止まると、中からサングラスをかけた女の人がさっと飛び出してきた。隼人のママだ。そのうしろから、ダブダブのユニフォームを着た隼人も降りてきた。
「おー、来た、来た」
 監督がだきかかえるようにして、隼人をむかえている。どうやら、ニ年生の隼人までが試合に出なければならないようだ。

 芳樹は河川敷のグランドのすみに、一人でうずくまっていた。来るまでの間に、すっかり車に酔ってしまったのだ。
 すぐ目の前の堤防の向こうを、茶色くにごった水がすごい勢いで流れている。
「山の方でももう雨はやんだから、だんだん減ってくるだろう」
って、監督はいっていた。
 でも、こうして目の前で見ると、河原まであふれてきそうでこわくなってしまう。
「いくぞお」
「おうっ」
 すぐうしろでは、ほかのメンバーが声をかけあいながら、試合前のキャッチボールを始めている。
 むこうから、小さなピンクのスニーカーがかけてきた。つま先が泥で少し汚れている。
「よっちゃん、だいじょうぶ?」
 裕香だった。また、かっこ悪いところを見せてしまった。
「もう、だいじょうぶ」
 芳樹は無理して立ちあがったが、まだ少しフラフラする。
「車に酔わないおまじない、教えてあげよっか?」
 裕香は芳樹に手をかしながら、なんだかうれしそうな声を出している。
「えーとね。手のひらにまん中に、人差し指でひらがなの「の」って字を書くでしょ。そうして、そこを指で強くおすの」
 そういいながら、裕香は自分でやってみせている。
「それを、「り」と「も」と「の」でもやるの。最後に、手のひらにフーッと息を吹きかけておしまい。すごおくきくんだよ。やってあげようか?」
 裕香に、左の手のひらに「の」の字を書かれながら、
(今さらそんなのやっても、ぜんぜん遅いよ)
と、芳樹は心の中でつぶやいていた。

 芳樹は裕香からはなれると、フラフラしながらみんなのそばまで近づいていった。
「ぼくも、入れてよ」
 隼人とキャッチボールをしていた良平に声をかけた。
「うん、でも、もうだいじょうぶなのかあ?」
 良平が心配そうに聞いてくれた。
「うん、だいじょうぶ」
 芳樹はそういって、グローブをかまえた。
「いくぞ」
 隼人が、声をかける
「お、お」
 へなへなした声しか出なかった。
 隼人は、手加減なしに思いっきりボールを投げてきた。
 バチーン。
なんとか落とさずにキャッチできた。
「いくぞおっ」
 まだムカムカしている気分をふりはらうように、気合いをかけた。
「おおっ」
 隼人が元気に答える。 
 芳樹が力いっぱい投げたボールは、隼人をそれてとんでもない方向へいってしまった。

「良平、レガースを直せー!」
 ベンチで、監督がどなっている。
 見ると、良平のレガース(すねあて)がゆるんでしまっている。右と左が、それぞれそっぽを向いていた。
「タイムッ」
 審判が、良平の方にかがみこんだ。手を貸して、レガースを付け直してくれた。
「レガースをどうやってつけるのかも、知らないんだからなあ」
 監督が苦笑いしながら、隣にすわっているスコアラーに大きな声で話している。この人は、明と裕香のおとうさんだ。
 今日は、キャッチャーは、レギュラーも控えの選手もいなかった。それで、三年生ながらキャッチングがよくて肩も強い良平が抜擢されていた。もちろん、良平もAチームには初めての出場だった。
 練習投球が終わった。良平がセカンドに送球した。少し山なりだったけれど、きちんとノーバウンドで届いた。監督が見込んだことだけのことはある。
「がっちりいこーう」
 良平がみんなに声をかけた。なかなか堂にいっている。まったく初めてなのに、見よう見まねでおぼえていたのだろう。
「うーん、良平は、きたえればいいキャッチャーになりそうだな」
 ベンチで、監督が満足そうにうなずいていた。
「バッチ、こーい」
 芳樹は、やけくそ気味の大声でセンターからどなった。こっちも、もちろんAチームは初出場だ。
 内野だけは、砂を入れてなんとか整備されていた。
 でも、芳樹たち外野手の足元は、グッチャグチャだった。昨日までの雨で、すっかりぬかるんでいる。走るとすべりそうでこわかった。
 チラッとライトの方を見ると、隼人がいつになく心細そうに守っている。隼人は、五年生以下だけで組むBチームでさえ、ほとんど試合に出たことがなかった。
「ライト、もっと声を出せ」
 ファーストのキャプテンの明が、隼人に声をかける。
 それでも、隼人は固まったように声が出せなかった。
「隼人、ファイト」
 芳樹も、横から声をかけてやった。
「うん。バッチ、こーい」
 小さかったけれど、ようやく隼人からも声が出た。
「よーし」
 明が振り返って、隼人に合図した。

 大きなフライが、隼人の頭上をおそってきた。
「オーライ」
隼人は、はじかれたようにけんめいに下がっていく。
 でも、ボールは軽々とその上を超えていった。
隼人は、けんめいにボールを追いかけていく。
 と、思ったら、たちまちぬかるみに足を取られてころんでしまった。あわてて立ち上がったけれど、ユニフォームにはべっとりと泥がついていた。
 芳樹も、練習どおりに中継プレーの位置へ急いだ。
 なんとか追いついた隼人は、ボールを拾おうとしたけれど、焦っているのか何度も取りそこねている。
「隼人、こっち」
 やっとボールを取った隼人に、芳樹はグローブを差し出しながら叫んだ。
 しかし、隼人の送球は大きく右にそれてしまった。
 今度は、芳樹がけんめいにボールを追いかける。
 と、思ったら、今度は芳樹がすべってころんでしまった。芳樹のユニフォームも、泥だらけになった。
 ようやくボールに追いついた時、バッターはとっくにホームインしてしまっていた。
 相手チームのベンチは大騒ぎだ。
「ハーイ!」
ホームランを打った選手のヘルメットをたたいたりハイタッチをしたりと、まるでお祭りのようにはしゃいでいる。
「ちぇっ」
 芳樹は、やまなりのボールを内野に返した。
「ホームランになっちゃったねえ」
 ようやくそばまで戻ってきた隼人が、声をかけてきた。顔に泥がはねていて、まだらになっている。
「隼人、顔が汚れてるぞ」
 芳樹が注意してやると、隼人はユニフォームの袖口で顔をふいた。
「ドンマイ、隼人、芳樹、気にするなあ」
 向こうから、監督が大声で叫んでいる。
「ドンマイ、ドンマイ」
 ファーストの明も、振り返って声をかけてくれた。
「しまっていこーっ」
 キャッチャーの良平は、マスクをはずして大声で叫んだ。
 芳樹と隼人が守備位置について、試合が再開された。

 三回の表、八番バッターの芳樹に打順がまわってきた。
 「よっちゃーん、ホームラン」
 裕香の声が聞こえくる。
(よーしっ、絶対にうってやるぞ)
と、芳樹はかたく心にちかった。
 一球目。芳樹は思いっきりバットをふった。
 でも、とんでもない高いボールだった。みごとなからぶりで、一回転。芳樹は、いきおいあまってしりもちをついてしまった。
 観客席から、大きなわらい声が起こる。
「芳樹、いい球だけだぞ」
 監督も、苦わらいをしている。
 芳樹は、しりもちのはずみで脱げてしまったヘルメットを、拾い上げてかぶった。そして、バッターボックスに入り直した。
「よし、来い」
 芳樹は、またピッチャーをにらみつけた。
(あっ!)
 二球目は大きく内角にそれて、芳樹の左腕へ。デッドボールだ。腕にガーンと衝撃がきて、鼻の奥がツーンとした。ボールが当ったところが、すごく痛かった。涙が、猛烈な勢いでこみあげてくる。
 と、その時、
「よっちゃーん、がんばって」
 また、裕香の声が聞こえた。
「よっちゃん、ファイト」
 隼人の声もする。
 芳樹は、なんとか泣くのをがまんして、一塁へむかった。
「芳樹、だいじょうぶか」
 一塁ベースコーチをやっていた明が、芳樹の左腕に、痛み止めのスプレーをシューシューとかけながら声をかけた。チラッと観客の方を見ると、裕香が心配そうにこちらを見ていた。
「だいじょうぶです」
 芳樹はけんめいにうなずいた。
 ラストバッターの隼人が打席に入った。試合再開だ。
「リーリーリー」 
 芳樹はベースを離れて、少しリードを取った。
(いけない、サインを見るの忘れた)
 いつもランナーに出たら、監督のサインを見るようにいわれている。
 芳樹が、ベンチの監督の方を見た瞬間だった。
「芳樹、バック!」
 明の大声が聞こえた。あわててベースに戻ろうとした。
 でも、一瞬早く、一塁手にタッチされてしまった。
「アウトッ」
 審判が右手を上げて叫んだ。芳樹は、牽制球でタッチアウトにされてしまったのだ。
「あーあ」
 コーチスボックスで、明ががっかりしてためいきをついている。
 相手の一塁手は、芳樹を見ながら笑っている。
「ナイス、ケン(牽制球)」
 一塁手は、ピッチャーに声をかけながらボールを返した。 
 芳樹は、しょんぼりとベンチに引き上げていった。
「ドンマイ、ドンマイ」
 うしろから、明がはげましてくれた。
 ヘルメットをぬいで、バットをバット立てにさした。
「芳樹、サインはベースについて見るんだよ」
 ベンチにもどると、監督がやさしく声をかけてくれた。
「はい、すみませんでした」
 芳樹は監督にペコリと頭を下げて、ベンチのすみにいった。コップを持って、ジャーの蛇口をひねった。良く冷えた麦茶が、勢い良く出てきた。芳樹は一口飲んでから、グランドをながめた。
(あーあ、せっかく塁に出られたのに、また裕香ちゃんの前でかっこ悪いところを見せちゃった)
「芳樹、ちょっと、こっちにおいで」
 監督が呼んでいる。
 そばにいくと、
「ここにすわれ」
 といって、スコアラーとの間に、すわらせてくれた。
「どうだ。コーチスボックスで見ているのと、実際にやるのとは、大違いだろう?」
 芳樹がコクンとうなずくと、
「まあ、だんだんに覚えていけばいいからな。芳樹はきっといい選手になれるから」
 監督がそういって、はげましてくれた。 

 四回の守りの時だった。センターの守備位置からホームの方をながめると、遠くの方に黒雲が出ている。
(あれっ、また天気が悪くなるのかな)
と、思っていたら、その黒雲がみるみるひろがってきた。なんだか、見ているだけで、胸がドキドキなって、気分が悪くなってくる感じだ。
 この回も、どんどんランナーが出て、相手の攻撃が長くなっている。その間にも、黒雲がぐんぐん近づいてきた。
 ザザッ、ザザザザザーッ。
ようやくツーアウトを取った時、とうとう強い雨が降ってきた。あっという間に、黒雲が真上までひろがってきたのだ。
「タイムッ!」
 とうとう主審が宣言した。
「引き上げろーっ」
 監督が、大きくこちらに手招きしている。
 みんなは、一目散にベンチを目指してかけていった。芳樹も隼人とならぶようにして、全速力でベンチに向かった。
 でも、守備位置が遠くだったから、ベンチに着いたのは一番最後になってしまった。もう帽子もユニフォームも、びしょびしょだ。
 ザザザッ、ザザザッ。
すごい勢いの雨だった。グランド中を、あっという間に水浸しにしてしまった。あちこちに、大きな水たまりができている。そこに、バシャバシャと雨がはねかえっていた。
 でも、昨日の台風のときとはちがって風は強くなかったので、地面に向かってまっすぐ雨が降っている感じだ。だから、ベンチの中にいればぬれる心配はなかった。
それでも、あたりは、真っ昼間なのにすっかり薄暗くなっている。まるでもう夕方になったみたいだ。頭の上には分厚い真っ黒な雲がたちこめている。
 でも、どうやら通り雨のようだった。南の方には、もう青空が見えている。そのあたりは、お日様さえさしているようだ。すでに、かなり明るくなっていた。
 観客たちは、車ににげこんだり、本部のテントまで避難したりしていた。ベンチのそばに広げられた、ビーチパラソルの下で雨宿りしている人たちもいる。
 ふと気がつくと、大人たちにギュウギュウ詰めにされながら、裕香もビーチパラソルの下にいた。芳樹はじっとそちらを見つめていた。
(あっ!)
 芳樹が見ているのに、裕香も気づいたようだ。こちらを向いてニッコリしながら、小さくVサインを送ってきた。芳樹も、隣の隼人に気づかれないようにして、そっとVサインを送り返した。

 思ったとおりに、雨は十分もしないうちにあがった。
すぐに、強い日差しが戻ってきた。気のせいか、前よりも陽の光が強いように感じられた。あたりが、キラキラと光っている。空気が雨に洗われて、きれいになったせいかもしれない。そういえば、遠くの山々もはっきりと見えるようになった。
「じゃあ、整備してから始めますから」
 審判が、ベンチまでやってきて監督にいった。
「すみませーん、みなさん、手伝ってくださーい」
 監督が、また集まってきていた観客に頼んでいた。
 何人かのおとうさんたちが、トンボ(土をならす道具)を手にグラウンドへ走っていく。相手チームの方からも、大人の人たちが出てきた。
 審判の人たちは、ピッチャーマウンドとホームベースあたりに砂を入れている。それを、トンボでよくならしていく。
 その間、芳樹たちはファールグラウンドで軽くキャッチボールして、ウォーミングアップをしていた。
「それじゃあ、試合を再開します」
 大きな水たまりなどが整備されてから、審判が両ベンチに声をかけた。
 芳樹は隼人ならんで走りながら、センターの守備位置に戻った。

 その後も、試合は一方的に相手チームのペースで進んでいた。すでに大差をつけられていて、何点取られたのかわからないくらいだ。もしかすると、次の回あたりでコールド負けになってしまうかもしれない。
 また、四球でランナーが一塁に出てしまった。
「ピッチ、ファイトー」
 芳樹は、けんめいにピッチャーに声援を送った。芳樹のユニフォームは、さっきころんだせいで前も後ろも泥だらけだ。
「ピッチ、ファイトー」
 隼人も、ライトからまねして声をかけている。こちらのユニフォームも、負けないくらい汚れている。
 でも、隼人は、さっきまでよりも大きな声が出ていた。
「うわーっ!」
「すごーい!」
 ふと気がつくと、両チームのベンチや応援のみんなが、何か大騒ぎしている。
「よっちゃーん!」
裕香がこちらにむかって大きく手を振って、芳樹のうしろの方を指し示していた。
(なんだろう?)
 顔だけ動かして振りむくと、空いっぱいに大きな虹がかかっていた。

      

 

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オープンテスト

2020-09-07 09:25:33 | 作品

「おかあさん、ごはん、まだあ」

 今日もくたくたになるまで野球の練習があったので、正樹はおなかがペコペコだった。
 もうすぐ六年生になる春休み。本格的なシーズン開幕をひかえて、チームの練習はますます厳しさをくわえていた。
 真っ黒になったユニフォームを、洗濯機にドサッと放り込んで、風呂場に駆けこんだ。
 頭から熱いシャワーをあびると、ようやくすっきりしてきた。

 風呂場から出ると、テレビの横の電話がなりだした。
「はい」
「あっ、正樹くん」
 電話に出ると、いきなりなれなれしい感じで名前を呼ばれた。
 でも、聞き覚えのない声だ。
「はい、そうですが」
 正樹が答えると、相手の声の調子はうれしそうに甲高くなった。電話の相手は、E進学塾の人だった。隣のS市にある教室の塾長だという。
「すごーい成績でしたねえ。ノーマークだったので、びっくりしましたよ」
「えーっと、なんのことですか?」
 正樹が訳がわからずに聞き返すと、
「えっ、何って? もちろん、このあいだのオープンテストの結果ですよ」
 塾長によると、正樹の成績は信じられないくらいいいんだそうだ。全国6万7364人の中で87位。S市の教室では、二番目の好成績だそうだ。400点満点で383点。もっとも満点を取った子が、全国で7人もいたといっていたけれど。
「そうですか」
 ほめられているのだから、まんざら悪い気分はしない。
「それで、特待生の資格が得られましたから、無料で入塾できます」
 塾長は、少しあらたまった調子でいった。
「はあ?」
 全国で百位以内の子は、授業料免除だという。そういえば、テストのパンフレットにそんなことが書いてあったような気もする。
「ですから、ただで授業が受けられるのです」
 塾長は、念を押すように付け加えた。
「でも、まだ入るときめたわけじゃないし」
 正樹がそういうと、
「えー、そんなあ。せっかくの特待生の資格がもったいないですよ。今、行ってる塾の費用がいらなくなるでしょ」
 思いがけない反応に、塾長は少しあせったような声を出していた。
「べつに、どこも塾なんか行っていないし」
 正樹がそういうと、
「まさか、本当に? それで、この成績、……」
 塾長は、ますますびっくりしたようでしばらく黙っていた。
「おうちの方と、代わってもらえないかな?」
やがて、一段とていねいな口調でいった。
「はい」
 正樹は、台所のおかあさんに子機を持っていった。
「おかあさん、E進学塾の人から電話」
先ほどからけげんそうな顔でやりとりを聞いていたおかあさんは、エプロンで手をふいてから子機を受け取った。

「どうしたの、おにいちゃん?」
 玄関にいた弟の芳樹が、食堂に入ってきた。
「うん、塾から電話なんだ」
「ふーん」
「先に二人で食べてて。芳樹は手を良く洗うのよ」
 おかあさんが、受話器を手でふさぎながら小声でいった。
「はーい」
 芳樹は大声で返事して、すぐに洗面所へいった。
芳樹は、いつものように玄関でグローブをみがいていたのだ。自分の部屋は散らかし放題のくせに、野球の道具だけはすごく大事に手入れしている。すっかり色がはげてしまった正樹のとは違って、芳樹のグローブはいつでもピカピカだった。

夕ごはんを食べながら、正樹はおかあさんの様子をうがっていた。思いがけず長い電話になっている。
 でも、初めはかたかったおかあさんの表情が、だんだん笑顔に変わっていた。
 そんな正樹に引き換え、芳樹の方はまわりのことはぜんぜん気にせずに、ご飯を食べながらBS放送のプロ野球を熱心に見ている。本当に野球が好きな奴で、チームに入れるのは二年生からなのに、特別に三年前の一年生のときからチームに入れてもらっている。
 今日もボールが見えなくなるまで、家の塀にぶつけてゴロを取る練習をしていた。
 それにひきかえ、正樹がチームに入ったのは、少々不純な動機からだった。
実は、その前までかよっていたスイミングを、どうしてもやめたかったのだ。
スイミングには、一年のころからかよっているけれど、ちっとも上達しなかった。一緒に入った友達たちは、四級や五級にあがって、クロール、平泳ぎ、背泳ぎ、バタフライを続けて泳ぐ個人メドレーなんかをやっている。
ところが、正樹は、まだ八級で小さな子たちとポチャポチャやっていた。おまけに、そのころ教えてもらっていたコーチと相性が悪くて、怒られてばかりだった。おかげで、スイミングの日のたびに、朝から気分が悪かった。
 そこで、両親と取り引きをすることにした。スイミングをやめるかわりに、野球チームに入るってわけだ。
 そのため、チームに入ったのは、五年生になったときからだった。同学年のチームメートの中では、一番遅かった。
「正樹は、もう一年早く入っていたらなあ」
って、監督によくいわれる。そうすれば、チームの中心選手になれたというのだ。
 うちのチームでは、なるべく六年生を試合に使うようにしている。だから、正樹をなんとかレギュラーにしてやろうと、つきっきりで教えてくれるコーチもいるほどだ。
正樹は、本当は野球や水泳なんかするよりは、家で本を読んでいる方がずっと好きだ。ねっからの本の虫だった。本を読んでいると、すっかりその世界に入ってしまう。何もかもわからなくなって、時間がたつのを忘れてしまうのだった。学校の往き帰りにも本を読みながら歩いていて、近所のおじいさんに「若葉町の二宮金次郎」なんて呼ばれたこともある。

「はあ、本人とよく相談して、こちらからご連絡します」
 最後に、おかあさんは電話にお辞儀をするようにして、ようやく受話器を置いた。
「どうだったの?」
 正樹は、食卓に戻ってきたおかあさんにたずねた。
「十万人に一人の金のたまごなんだって」
 おかあさんは、電話に出る前とはうってかわって興奮気味だった。
「おそらくどこの塾にもいっていない子では、全国で一番っていってたわよ」
 そんなことをいわれても、ぜんぜんピンとこなかった。たしかに学校の成績は、算数、国語、理科、社会のすべての項目が、ぜんぶ「よくできる」だった。
 でも、他の子と成績を比較したことなんてない。だから、正樹は自分がそんなに勉強ができるとは思っていなかった。
「このまま順調にいけば、日本中のどこの私立や国立の中学を受験しても、合格まちがいなしなんですって」
 おかあさんの声は、すっかり上ずってしまっている。
 今までに、一度も受験なんてことは、家で話したことがない。それなのに、急にそんなことをいわれてもこまってしまう。
 たしかにクラスでも女の子の中には、私立を受けようとしている子がけっこういるようだ。そんな子たちは、四年生ぐらいから塾へ行っている。
 一方、正樹の学校では、受験する男の子はごく少数しかいない。
もちろん、男の子たちでも、近所の塾に通っている子はいる。でも、それは、学校の予習復習を中心としたもので、受験を目的にしているわけではない。
「特待生で費用も無料だっていうし、ためしにちょっと行ってみない?」
 おかあさんは、すっかりその気になってしまっている。
「何曜日なの?」
 うんざりした気分でたずねた。
「毎週、月、水、金の週三日ですって。もちろん、受験が近づいたらもっと増えるっていっていたけれど」
 電話しながら、いつのまにかメモを取っていたようだ。おかあさんは、それを見ながらいった。
「じゃあ、だめだ。ヤングリーブスの自主トレがあるもの」
 少しホッとした気分でそう答えた。
「でも、自主トレは別にいかなくてもいいんでしょ。週末の正式な練習や試合には、今までどおり出られるんだし」
 おかあさんはそういって、ねばってくる。
「だめだよ。自主トレっていったって、監督やコーチも来てくれるんだよ。そこで、きちんと練習しなかったら、うまくなれないんだよ」
 正樹は少し声をはりあげて、おかあさんの要求をつっぱねた。
「うーん、そうなのお」
 おかあさんは、なかなかあきらめきれないみたいだった。

 正樹がE進学塾のオープンテストを受けにいったのは、先々週の日曜日だ。たまたまその日は、監督たちの都合が悪くて、少年野球の練習が休みだった。
 同じクラスの宮ちゃんに頼まれて、正樹は一緒にテストを受けにいくことになっていた。
「マサちゃん、頼むよ。一人だけだと心細くって」
 前の日に、そう泣きつかれたのだ。宮ちゃんは、おかあさんに無理やりいかされることになってしまっていた。
「しょうがないなあ」
 無料だというので、正樹は付き添いのようにして一緒に受けに行くことになった。
 E進学塾は、駅前にある大きなビルだった。入り口のガラスのドアにも、まわりの壁にも、今年の合格者の名前がズラリと貼ってある。
 筑波大付属31名、開成54名、麻布37名、 ……。
 威勢のいい大きな数字がおどっている。
 ビルの中にもまわりにも、試験を受けに来た子どもたちと、付き添いの親たちであふれていた。
「うわーっ、すごいなあ」
 そんなみんなの熱気に、正樹たちはびっくりしてしまった。
おかげで、宮ちゃんはすっかり緊張している。
 でも、「付き添い」の正樹の方は、気楽なものだった。
 テストは、学年別にいくつもの教室に別れて行われた。
 E進学塾に通っている子たちも、参加しているようだ。教室に入ってからも、グループになって楽しそうにおしゃべりしている。
 それにひきかえ、緊張した面持ちでポツンとすわっている子たちもいる。テストだけを受けに来た子たちなのだろう。これじゃあ、宮ちゃんがビビッているのも無理はない。
 テストが始まった。問題は学校のとは違って、クイズのようなものばかりで、初めは少し面食らった。
 でも、こつがわかれば何ということはなかった。
 正樹は、問題をどんどんといていった。やっているうちに、正樹はだんだん夢中になっているのがわかった。もしかすると、正樹はこうした試験勉強にむいているのかもしれない。
けっきょく、どの科目も、制限時間前に楽々と終えることができた。
 しかし、まさかこんなにいい成績だとは思わなかった。
(宮ちゃんには秘密にしなくちゃなあ)
特待生のことを話したら、きっとすごくうらやましがるにちがいない。あまりできなかったので、おかあさんにしかられたっていっていたから。
(こんなことなら、オープンテストなんか受けなければよかったなあ)
と、正樹は思っていた。

 ヤングリーブスのメンバーが、試合前のウォーミングアップをやっている。ヤングリーブスは、正樹たちが入っている野球チームだ。
「こんちわーっ」
「よろしくお願いしまーす」
 練習試合の対戦相手、リトルダンディーズがグラウンドに現れた。
 今日の試合で、正樹は先発出場する。
 でも、守備位置はライトで打順は8番だ。俗にライパチと呼ばれる9番目のレギュラーポジションだった。昨年暮れの新チーム結成以来、かろうじてそのポジションを保っていた。
 しかし、最近は五年生の西田くんに、レギュラーの位置を激しく追い上げられている。
 Aチームの練習試合に先だって、五年生以下のBチーム同士の試合が始まった。
 ヤングリーブスのマウンド上にいるのは、弟の芳樹。まだ新四年生なのに、五年生たちを押しのけて、Bチームのエースピッチャーをまかされている。
 一球目。
四年生とは思えないような伸びのある速球が、ピシリと外角低めに決まった。
「いいぞ、芳樹。それならAでも投げられそうだぞ」
 監督の機嫌の良さそうな声が、グラウンドにひびきわたった。

 レギュラー同士によるAチームの試合が始まった。
 二回の表、正樹に最初の打席がまわってきていた。
 リトルダンディーズのピッチャーが、三球目を投げ込んできた。
 どまん中の直球。
 でも、思わず見送ってしまった。
「ストライーック」
 カウントは2ストライク、1ボール。早くも追い込まれてしまった。
「なんで、打っていかないんだ」
 ベンチでは、監督がこわい顔をしてどなっている。
そして、
(積極的に打っていけ)
のサインが出た。
 正樹は、
(わかった)
の合図に、ヘルメットをコツンとたたいた。
 ピッチャーはすばやく次の球を投げ込んできた。
 力いっぱいスウィング。
 でも、ボールはとんでもなく高い球だった。
 からぶりの三振。そのはずみに、バランスをくずしてしりもちをついてしまった。ヘルメットまで大きくふっとんで、コロコロころがっていく。
 両チームのベンチや観客の間から、小さな笑い声が起きた。
「マサ、おまえなあ。見送るのと打つ球が逆なんだよ。これじゃあ、レギュラーあぶないぞ」
 すごすごとベンチに引き上げていくと、監督はあきれたような声をだしていた。

「公立中学に進むと、その後がけっこう大変なんですってよ」
 塾の説明会から帰ったおかあさんは、興奮気味に話し出した。聞くだけでもと思って、正樹に内緒で行ってきたようだ。今日は、よそゆきの服を着て、きれいにお化粧している。
 おかあさんは、山ほどもらってきた資料を前に、熱心に特待生になることをすすめはじめた。および腰だったこの前とは、ぜんぜんいきおいが違う。どうやら、塾ですっかり洗脳されてしまったようだ。
「野球があるから、最後のキャロル杯が終わる11月までは無理だよ」
「でも、最初は平日だけでいいんですってよ。マサちゃんなら、シーズンが終わってからラストスパートしてもだいじょうぶだって。麻布でも、開成でも、日本中の好きな中学に入れるのよ」
「だって、そうしたら自主トレには出られなくなるじゃない」
「でも、自主トレは別にいかなくてもいいんでしょ。正式な練習や試合にはでられるんだし」
(ぜんぜんわかってないなあ)
と、正樹は思った。 
 ヤングリーブスでは、平日は子どもたちだけで「自主トレ」をやっている。
 でも、ランニングやキャッチボールが終わる五時すぎからは、監督やコーチたちも交替に仕事を早く済ませて顔を出してくれていた。そして、ノックやフリーバッティングを、みっちりとやってくれるのだ。
 練習場所にしている校庭にはナイター設備はないので、暗くなってからは校舎よりにみんなが集まった。職員室からもれてくる光をたよりに、ベースランニングやすぶりをじっくりと見てもらえるのだ。
 週末には大会や練習試合が多いので、基本練習をみっちりとやる場はここしかない。塾へ通うようになると、その自主トレに参加できなくなる。今でもあぶないレギュラーの座は、完全にあきらめなければならなくなるだろう。
 いくらおかあさんに塾をすすめられても、正樹はとうとう最後まで、
「うん」
と、いわなかった。

 その日の夕食の時だった。
「バッティングセンターに行きたいんだけど」
 正樹は、ためらいがちにおとうさんにいった。
「えっ、今から?」
 おとうさんはしばらく迷っているようだったが、
「よし、わかった」
というと、すでにテーブルに出してあった缶ビールを冷蔵庫に戻した。車を運転するためだ。
 今日は、おとうさんも昼間の試合を見に来ていた。だから、三振の次の打席で、チャンスに代打を出されてしまったのを覚えていてくれたらしい。代わって打席に立った西田くんは、三塁線を痛烈に破るタイムリーツーベースをはなっていた。
「ぼくも行く」
 アニメを見ていた芳樹が、すぐに割り込んできた。
「よっちゃんは今日はいいよ」
 おとうさんがあわててそういうと、
「おにいちゃんばっかなんて、そんなのずるいよ」
と、ふくれっつらをした。 
「ちぇっ、しょうがないなあ。また、おとうさんのこづかいがぜんぶふっとんじゃう」
 おとうさんは、あきらめ顔だった。
 夕食を食べ終わってから、すぐにおとうさんの運転でバッティングセンターに向かった。自転車だとすごく時間がかかるけれど、車で行けば十分もかからない。
 ここのバッティングセンターには、高尾バッティングスタジアムなんて、大げさな名前がついている。
 でも、本当は、六打席しかないおんぼろのバッティングセンターだ。左利きの正樹が使える左右両打席があるマシンは、たったひとつしかない。
 ここのバッティングセンターは、コイン式で一個三百円だ。一回に打てるのは約二十五球。どんどんボールがくるから、五分もしないで終わってしまう。二人でやったら、すぐに五千円ぐらいは飛んでしまうことになる。
「いらっしゃいませ」
 正樹たちが中に入っていくと、スピーカーから声がした。一番奥の小さな小屋に、整髪料でテカテカした髪の毛をオールバックにしているおじさんがいて、いつも小さなテレビを見ていた。
 おとうさんは、そのそばにある両替機にいってコインを買っている。
 先に来ていたお客さんは、三人しかいなかった。
 カキーン。
 カキーン。
 みんな気持ちよさそうにボールを打っている。
(ラッキー!)
 左打席のあるマシンは、ちょうどあいていた。正樹は、かさ立てに無造作につっこんであるたくさんの金属バットの中から自分にあった長さのバットを選んで、ネットをくぐって打席に入った。
「入れるよ」
 外のコイン挿入口のところで、おとうさんが声をかけた。
「いいよ」
 正樹は、バットをかまえてマシンにむかった。
 その日、芳樹は四、五回で飽きてしまってやめていたけれど、正樹は十回も打たしてもらった。
 しかし、それでもバッティングの調子は、とうとうあがってこなかった。

 特待生への説明会は、成績優秀者の表彰という名目で行われた。
 当日、E進学塾の塾長室に来ていたのは、正樹ともう一人。浅黒い顔をした背の高い男の子だった。特待生になるような秀才というよりは、サッカーアニメのキャプテンのようなスポーツマンタイプの子だ。
 でも、その成績はなんと400点満点。つまり全国トップの七人のうちの一人だったのだ。
 やせて背の高いめがねをかけた塾長から、二人は表彰状と小さな盾をもらった。
 正樹の盾には、
(石川正樹、全国87位)
と、金文字で彫り込まれている。
「それでは、入っていただけるかどうかは後でお聞きするとして、まず教室にご案内します」
 塾長について、二人は教室に向かった。
 この塾では、6年生はSS、S、A、B、C、D、E、Fと、8クラスもあった。もちろん成績別だ。教室の入り口には、そこの生徒が合格可能な私立中学の名前がはってある。
 でも、F組だけには何もはってなかった。
「F組、英語でFalse、つまり落第組です。3ヶ月続けてこのクラスになると、自動的に退会してもらいます」
 塾長は、ニコリともしないでそう説明した。
「でも、お二人にはまったく関係ありませんけどね」
 正樹が表情をかたくしたのに気づくと、塾長はあわてたように付け加えた。トップの子は、そんな二人を面白そうにニヤニヤして見ている。
(筑波大付属、学芸大付属、麻布、開成、……)
 SS組の入り口には、正樹でも聞いたことがあるような有名中学の名前がはってあった。
 塾長がドアを開くと、十数人いた生徒のうち数人がこちらを振り向いた。
 でも、すぐにまた熱心にノートに何かを書き込みはじめた。どうやら、算数の演習問題かなにかをやっているようだ。
「席は成績順に前の真ん中から並べてあります」
 塾長が声をひそめて説明した。
 最前列の真ん中に、ひとつだけ誰もすわっていない立派な席が設けてある。ひじかけのついた皮ばりの、まるで王様がすわるような椅子だ。
「あれが、特待生の席です。リクライニングにもできるんですよ。背もたれの上の部分には、名札を入れるようになっています。だから、あの席にはその名前の人だけしかすわれません。あそこにすわることを目標に、みんなががんばっているのです」
 特待生席にすわったら、
(まるでパンダか何かの見世物になったようで落ち着かないだろうな)
と、正樹は思った。
「今までは、この教室ではいつも一人いるかいないかだったのです。まさか同時に二人も出るなんて、とても名誉なことです。もうひとつの椅子は、すぐに用意させていますから」
 塾長はうれしそうにそう付け加えた。
 事務室まで戻ると、塾長はロッカーから黄色いジャケットを取り出してきた。胸には獅子をかたどった塾のエンブレムがついている。
「塾に来ている間は、このイエロージャケットを着てもらいます」
 塾長は、自慢そうにこちらにジャケットをさしだした。
「えーっ!」
 正樹はびっくりして、思わず声を出してしまった。
(ますます、客寄せパンダだ)
 でも、トップの子は、すでに知っていたのか、まったく平気な顔をしている。塾長からジャケットを受け取ると、あっさりとそでをとおした。まるであつらえたように、ジャケットはトップの子にぴったりだった。きっと正樹だと、かなりブカブカに違いない。
「似合いますねえ」
 塾長が、うれしそうな声を出した。
「これも、すぐにもう一着取り寄せますから」
「夏でも、これを着なくてはいけないんですか?」
(暑苦しそうだな)
と、思ったのだ。
塾長はまさかという顔をして、
「夏用には、ちゃんとエンブレムの着いた黄色いポロシャツも用意してありますよ」
と、正樹が入塾に傾いてきたとでも思ったのか、うれしそうに答えた。
「ただし、みなさんは、毎回、特に出席なさらなくてもいいんです」
 塾長が、奇妙なことをいいだした。
 正樹がけげんそうな顔をしていると、塾長は特待生の条件について説明した。
 要は、条件はたった一つ。それは、毎月の終わりにテストを受けること。そして、E進学塾全体で、今回のように百番以内にとどまっていることだけだ。
 でも、 これは、けっこうきつい条件だった。
 E進学塾は、全国に100教室以上あって、生徒は何万人もいる。それに、どうしても、都会の教室の方が生徒も多く、レベルも高いからだ。
 しかも、いつもオープンテストになっている。だから、今回の正樹のように、外部から受ける子もいた。そういえば、このトップの子も、塾生ではないようだ。
「もし、百位以下に落ちたら?」
 その子が初めて口を開いた。
「それは、あらためて普通の生徒になってもらいます」
 塾長は、当然という感じで答えていた。
 でも、トップの子は平然としてまたニヤニヤしていた。
(さすがに一番の子は余裕があるなあ)
と、正樹は思った。
 すべての説明が終わって、塾長は玄関まで二人を送ってきた。
「こんちわあ」
「ちわー」
 通ってくる塾生たちが塾長にあいさつしながら、チラチラとこちらに視線を送ってくる。どうやら二人が特待生だと、気づいているみたいだ。
「ところで、日当はいくらですか?」
 突然、トップの子がいった。
(日当?)
 びっくりしてトップの子の顔をみつめた。
 でも、塾長は、特に驚いたようでもないようだ。ただまわりの人たちに聞こえないように、声をひそめて答えた。
「本当はご両親にお話するのですが、原則としてひとつの講義あたり千円でお願いしています」
 どうやら、出席するだけで特待生にお金をくれるらしいのだ。
(一講義あたり千円だって?)
 一日に二講義あるから、両方出れば二千円。週三回行ったとしたら、
(フエー、六千円にもなってしまう。)
 そんなお金があれば好きなだけバッティングセンターへ行けるなと、頭の中でチラッと思った。
「S進学教室は、お祝い金が五万円で、日当は三千円でしたよ」
 トップの子は、ニコリともしないでいった。
「えっ、……、まあ、……。じゃあ、その件は、後ほど個別にお話しましょう。私もそれまでに本部と相談しておきますから」
 塾長は急にあせった表情を浮かべて、正樹の様子をうかがいながら答えた。
(ははあ)
 もしかすると、トップの子だけ日当を上増しにしようというのかもしれない。
 でも、正樹はそのままだまっていた。まだ塾に入るかどうかは決めていなかったので、トップの子が日当をいくらもらおうが、正樹には関係なかったからだ。
「それじゃあ、今日はご苦労様でした」
 塾長は、二人に向かって頭を下げた。
「どうもありがとうございました」
 正樹も、ペコリとおじぎをした。
 でも、トップの子はさっさと先に歩き出していた。正樹は、トップの子と少し距離をとって、駅に向かって歩き出した。

 トゥルルルー。
 発車をつげる電子音が鳴っている。正樹はけんめいに階段を駆け上がった。
 プシューッ。
 惜しくも目の前でドアがしまってしまった。ライトイエローの車体が、正樹を取り残して走り出していく。
「やあ、残念だったね」
 振り向くと、あのトップの子がいた。反対方向の電車を待っているようだ。
「うーん、次は十分後かあ」
 電光掲示板を見ながらいった。
「ところで、どうするの? Eに入るの?」
 トップの子がたずねてきた。
「どうしようかなあと、迷っているんだ。少年野球の練習とも重なっちゃうし」
 正樹は、正直に自分の気持ちを話した。
「なーんだ、そんなの。籍だけ置いておけばいいんだよ。行かれる時に顔を出すだけで、けっこういいこづかいになるし」
 トップの子は、ケロリとした顔でそんなことをいってのけた。
「そんなあ」
 正樹は、すっかりびっくりしてしまった。
「俺なんか、Sだろ、Zだろ。それにTでも特待やってるし。Eで四つ目だぜ。ぜんぶあわせれば、月に10万円はかたいな」
「すげえ。それじゃあ、まるでプロみたいじゃない」
 正樹が驚いていうと、 
「そう、おれはプロの受験生なんだよ。野球だって、サッカーだって同じじゃないか。特技を生かすのがなんで悪いんだよ。それに塾の方じゃ、合格実績を伸ばして、それを目玉に普通の生徒をたくさん集めたいだけなんだから」
 確かにあのクイズのような問題で競うのなら、勉強というよりはゲームに近い。だったら、いってみれば特殊技能を競い合わせているだけなのかもしれない。
「塾の入り口に有名中の合格者数がはってあったろ。あれ、全部の塾で発表している数を足してみな。実際の合格者数よりずっと多くなるから。みんな、おれみたいなかけ持ちの特待生がいるからさ」
「えーっ?!」
 それじゃ、まるで詐欺みたいだ。
 ちょうどその時、反対側のホームに電車が滑り込んできた。
「じゃあな。君ももっと気楽に考えて、まずはお金をもらっておいて、嫌になったらその時やめればいいじゃない」
 トップの子はそういうと、さっさと電車に乗り込んでしまった。

 いよいよ市の春季大会が、明日にせまった。ヤングリーブスのメンバーは、試合の備えて最後の調整に余念がない。
 外野と内野に別れて、守備練習をしていた。正樹は他の外野手にまじって、校舎側で監督がノックするフライを受けていた。
「オーライ」
 センターの良平ががっちりと打球をキャッチした。
 次は、正樹の番だ。
 カーン。
 フラフラっと、当たりそこねのフライが前方にあがった。正樹は、帽子を飛ばしてけんめいに前進した。
 追いついたと思った瞬間、ポロリとボールを落としてしまった。これで、今日は三度目の落球だ。
「何やってんだ、マサは。いつも一歩目が遅いんだよ。だから取る時に余裕がないんだ。注意されてることを、どこで聞いてるんだあ」
 カーン。
 次の打球は、左側へ切れていくむずかしいフライだった。
 でも、西田くんはすばやくまわり込んでナイスキャッチ。
「いいぞ、ニシ」
 監督が機嫌良さそうな声でいった。
 シートバッティングが始まった。レギュラーから、打順どおりに打っていく練習だ。
 1番、良平、2番、……。
 さすがに3番の康太や4番の祐介は、いいあたりのライナーを連発している。祐介の打球が、ライトを守っている正樹の頭上を軽々と超えていった。
「あぶないから追うなあ!」
 監督が大声で叫んだ。正樹は追いかけるのを途中であきらめた。ボールは校庭の端のフェンスを超えて、学校の自然観察林へ入ってしまった。
 正樹は、打順どおりの八番目にバッターボックスに入った。
「おねがいしまーす」
 ヘルメットをぬいで、バッティング投手をやっている監督にペコリと頭を下げた。
 1球目、2球目、……。
 なかなかいいあたりが出ない。空振りやファールチップばかりだ。たまに前に飛んでも、ボテボテのピッチャーゴロや内野へのポップフライ。
「ラストスリー!」
 しびれを切らした監督が、早めに切り上げようとした。
 でも、最後の3球が終わっても、いいあたりはでなかった。
「ありがとうございました」
 ラストボールを空振りして、バッターボックスをはずそうとした。
「マサ、いいのか?」
「えっ?」
「お前は、ほんとにねばりがないんだなあ。素直に人のいうことばかり聞いてちゃ、だめなんだよ」
 監督が、苦笑いしながらこちらを見ている。
「もう一球、お願いします!」
 正樹は、大声で叫んだ。
「よーし」
 でも、次の球もボテボテのゴロ。
「もう一球!」
 カーン。
 ようやくライナー性の当たりが、内野の頭を超していった。
「ありがとうございました」
 またヘルメットをぬいで監督にあいさつすると、ライトの守備位置に戻っていった。
 次は9番の健太。
 健太のバッティングは、正樹よりはだいぶましだ。
 それに続いて、補欠の一番手、西田くんがバッターボックスに入った。
 カーーン。
 西田くんは、今日も鋭い打球を連発していた。

「今から、今日のオーダーを発表する。1番ショート、良平、……」
 監督が、メンバー表をゆっくりとよみあげはじめた。ヤングリーブスのメンバーは、そのまわりに円陣をつくってこしをおろしている。
 日曜日の早朝練習でのミーティング。いよいよ今日から、市の少年野球大会、春季トーナメントが始まる。
「……、8番、ライト、ニシ」
 みんなが、一瞬、
(オヤッ?)
という感じの表情になった。
「9番、セカンド、ケンタ。以上のメンバーでいく」
 メンバー表をよみおわると、監督はグルリとみんなの顔をみまわした。レギュラーにえらばれた選手たちは、無言で小さくうなずいている。他のみんなも、公式試合にむけての緊張感が高まってきていた。 
 その中で、正樹だけは、自分のまわりがポッカリとその雰囲気からとりのこされてしまったように感じていた。
発表された先発メンバーの中に、正樹の名前はなかった。とうとうレギュラーポジションのライトを、西田くんに取られてしまったのだ。
 一度負けてしまえばそれっきりのトーナメント戦。練習試合とは違って、ベストメンバーでのぞまなければならない。実力があれば、六年生だろうが、五年生だろうが、区別はできなかった。たとえその結果、六年生で正樹だけがレギュラー落ちしたとしても。
「他のみんなも、どんどん途中から出すからな」
 監督は、正樹の方を見るようにしてそう付け加えた。

「ベンチ前!」
 キャプテンの祐介の声とともに、みんなが一列になった。正樹はいつものレギュラーの位置からはずれて、はじの方に並んだ。正樹の位置には、西田くんがはりきってならんでいる。
「集合!」
 両チームのメンバーが、ダッシュでホームプレートをはさんで整列していく。
「おねがいしまーす」
 審判の号令に合わせたあいさつで、一回戦の試合が始まった。
 後攻のヤングリーブスが、守備位置にちっていく。いつもの正樹のポジションであるライトへは、西田くんがかけていった。
「しまっていこうぜ」
 マウンドでは、キャプテンの祐介がうしろを振り返って、みんなに大声を出している。
「がっちりいこー!」
 正樹は他の下級生たちと一緒に、ベンチから声援をおくった。
 芳樹もすぐそばにいる。メンバー発表の時に、チラッとだけこちらを見たけれど、それきりで何もいってこなかった。
 でも、ふがいない兄貴のことを、恥ずかしく思っているかもしれない。
(やっぱり野球なんかもうやめてしまって、どこかの塾の特待生にでもなろうかなあ?)
 そうすれば、あの塾長がいっていたように、開成でも、麻布でも、どこでも好きな中学に入れるかもしれない。
(ぼくは、野球よりも勉強の方が向いているのかなあ?)
 チームに声援を送りながら、正樹はそんなことをぼんやり考えていた。

ライナー性のあたりが、右前方に飛んできた。正樹は、けんめいにボールに飛びついた。
 でも、グラブを出すのが遅れて大きくはじいてしまった。
「正樹、上体をあんまり突っ込むな。あわてなくても間に合うから」
 ノックしてくれたおとうさんがいった。
「もう一回」
 ボールを返しながら、大声で叫んだ。
 今度は、正面に高いフライが来た。これは、がっちりとキャッチできた。すばやく中継の芳樹に送球。
 ところが、送球が左に大きくそれてしまった。芳樹のグラブをかすめるようにして、ボールは公園の外まで飛び出していった。
「力が入り過ぎなんだよ。こんな近くでそんな投げ方するなよ」
 芳樹はブツブツ文句をいいながら、ボールをひろいにいっている。
「ごめん、ごめん」
 正樹は、もう一度スローイングのフォームを確認しながら、芳樹にあやまった。
 今日から学校へ行く前に、近所の公園で、おとうさんに頼んで守備の特訓をしてもらうことになった。
 昨日の試合では接戦での勝利だったせいか、とうとう正樹には出番が来なかった。せめて守備だけでも監督の信頼を勝ち得て、なんとか試合に出たかった。
 特訓は、毎朝7時30分から、登校班が集合する7時50分までやることになっている。そのために、おかあさんにも7時15分までには朝食を準備してくれるように頼んであった。
 キャッチボールからはじめて、途中からはゴロやフライのノックもしてもらった。 
 例によって、練習には芳樹もいっしょについてきていた。キャッチボールの相手やノックの中継役をやってくれている。
「おーい、みんなあ、時間よお」
 公園の外から、おかあさんが声をかけてきた。
「よし、今日はここまでにしよう」
 おとうさんは、バットをクルクルまわしながら歩き出した。
「ほい」
 おいついてきた芳樹が、ボールをこちらにトスしてきた。
「ほい」
 正樹が投げ返す。
「ほい」
 芳樹が、またボールを戻す。
 二人で軽くボールを投げ合いながら、家に戻り始めた。

「いーち」
 ブン。
「にーい」
 ブン
 夕方、家の前で、正樹は、芳樹と二人で、バットの素振りをやっていた。これも、毎日100回以上はやろうと決めていた。
 こんな時、いっしょにやれる弟がいると何かと便利だ。一人だとなまけそうになるけれど、二人だとはげましあってできる。おまけに、芳樹はもともと正樹よりも熱心なのだ。こんなかっこうの練習相手はいない。
「じゅーう」
 ブン。
「じゅーいち」
 ブン。
 良く見てみると、芳樹のスウィングは正樹よりも鋭い。コンパクトなフォームから、なめらかにバットが出ている。
 それにくらべて、正樹のスウィングはぶれが大きい。テークバックが大きすぎるのかもしれない。正樹は意識して、フォームをコンパクトにするようにこころがけた。
「じゅーご」
 ブン。
「じゅーろく」
 ブン。
 だんだんスウィングが、なめらかになっていく。これも、芳樹と一緒に素振りをしているおかげだ。
「マサちゃん」
 うしろから声をかけてきたのは、宮ちゃんだった。ショルダーバックをななめにしょって、自転車にまたがっている。
「やあ、どこに行くの?」
 素振りの手をとめて振り返った。
 でも、芳樹はそのまま同じペースで続けている。
「E進学塾。やっぱり、おかあさんが入りなさいって」
「ふーん」
「でも、下から二番目のE組だから、よっぽどがんばんないと志望校の合格はむずかしいけどね。マサちゃんは、オープンテストの成績がよかったんだろ?」
「うん、まあ、……」
 特待生のことは、宮ちゃんには内緒にしてあった。
「じゃあ、遅れちゃうから」
 宮ちゃんはそういって、自転車で走り出した。
「にじゅーご」
 ブン。
「にじゅーろく」
 ブン。
 正樹は遠ざかっていく宮ちゃんを見送りながら、また芳樹との素振りを始めた。

 ルルルー、……、ルルルー、……。
「はい、E進学塾S教室ですが」
「あのー、石川正樹っていいますが、塾長先生をお願いします」
 タララララー、ララララー、……。
 電話の切り替えの間、ディズニーランドのイッツ・ア・スモール・ワールドのメロディーが流れてきた。
「あっ、正樹くん、決めてくれたの?」
 いきなりうれしそうな塾長の声がした。
「あのー、実は、……」
 さんざん迷った末に、特待生を断ることに決めたのだった。
 昨日の夜、正樹はそのことを、両親に話した。
「やっぱり塾へ行くのはやめるよ。今は、ヤングリーブスに集中したいんだ」
 正樹がそういったら、
「そうか。そうだよな。中途半端になっちゃうからな」
 正樹にレギュラーを取り戻させたいと思っているおとうさんは、すぐに賛成してくれた。
「うーん、もったいないような気もするけれど、……」
 おかあさんの方は、最後まで未練たっぷりだった。
「まさか、S進学教室に行くんじゃないですよね。日当が不満なら、一日三千円までならなんとかしますから。それにお祝い金も、……」
 E進学塾に入らないことを聞いて、塾長はあわてて話だした。
「いえ、そういうことではなくて、今やっている少年野球の練習に専念したいからなんです。そのためには、……」
 塾長の説明をさえぎるように、理由を話し出した。
「少年野球って、シーズンはいつまでなの?」
 他の塾へはいかないとわかって、塾長は少し落ち着いたようだ。
「11月いっぱいです。それからは、新チームに引き継がれますから」
「そうか、それならそれからでもいいですから、うちへ来てくださいよ。君ならそれから始めても、国立や開成は無理だとしても、桐朋や早実なら十分いけますから」
「でも、私立を受けるつもりもありませんし」
 小学校を卒業したら、地元の公立中学で野球を続けるつもりだった。
「そうですかあ。いやあ、もったいないなあ。でも、いつでもいいですから、もし気が変わったら電話くださいね」
 塾長は、最後まであきらめきれない様子だった。

 次の日曜日。トーナメントの二回戦が行われた。
 ヤングリーブスは、先週の一回戦を6対5で勝って、ここにこまを進めていた。接戦だったせいもあって、先週はとうとう正樹の出番はなかった。
 今日も、とうぜんのように西田くんが先発だった。西田くんは、先週の試合でも二安打をはなち、好調を保っている。
正樹は、今日もベンチで控えにまわっていた。
 でも、今日は、正樹は積極的に応援していた。
「バッチ、しっかり打っていこう」
「ピッチ、おちついていこう」
 ベンチにすわっていても、一番声を出していた。攻撃の時には、自ら進んで一塁や三塁のランナーコーチもかってでた。
「まわれ、まわれ」
 右手をグルグルまわして、ランナーに合図を送る。
「バック!」
 ピッチャーのフォームを見ていて、牽制球の時にランナーへ大声で指示を出す。塾を正式にことわって、すっかりふっきれた気分だった。
「マサ、行くぞ」
 6回の守備の時に監督がいった。
「ニシ、交替だ」
 守備位置にむかいかけていた西田くんが、くやしそうな表情をうかべてもどってきた。
 あわててベンチからグラブを拾い上げると、ライトにむかって走り出した。ようやく、毎朝の特訓の成果を示すチャンスがやってきた。
 あれからは、一日もかかさずに守備練習を続けている。芳樹との素振りもだんだん数が増えて、てのひらにはマメができて固くなっていた。
 今日の二回戦は、先週と違って6対1と大量リードしている。打順も、西田くんが打ち終わったばかりだった。最終回に、正樹まで打席がまわってくることはないだろう。もしかすると、これは監督の温情での出場なのかもしれない。
 でも、そんなことはどうでもいい。
 お情けだろうがなんだろうが、なんとかこの機会を生かしたい。
(ライトに打球が飛んでこないかなあ)
 正樹は、守備位置で心からそう願っていた。こんな気持ちになったのは、試合に出るようになってから初めてのことだ。今までは、逆に自分のところに打球が飛んでこないことを祈っていたのだ。
「バッチ、こーい」
 大きくかけ声をかけながら、いつのまにか、前よりも野球が好きになっている自分に気づいていた。

 

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ネットカフェにも朝は来る

2020-09-06 17:13:50 | 作品

 駅前のネットカフェは、朝早くからかなり騒々しい。終電を逃してネットカフェに泊まったお客たちが、始発が走り出す時間になると帰り支度を始めるからだ。

「うーん、…」
 明日美は、狭いブースの中で寝返りをうった。今日も、朝の騒音で彼女の浅い眠りは覚まされてしまった。言ってみれば、彼女にとってのこの騒音は、最低のモーニングコールといったところだ。
 彼女が寝ていたのは、もちろんベッドではない。個室ブース備え付けのリクライニングチェアで、寝ていたのだ。毎晩、特に週末は、泊りの客がたくさんいるので、この店のリクライニングチェアは、飛行機のファーストクラスの席みたいなフルフラットとまではいかないが、かなり後ろに倒せた。だから、明日美は身体を丸めて横になることができるのだ。
でも、彼女は十四歳にしては体が大きい方なので、ここのチェアは少し狭かった。
 こうして、いつもの浅い眠りは次第に終わりを告げて、今日も明日美の長い一日が始まる。夢ばかり見ていたせいか、長時間寝たのに明日美の頭はぼんやりとしたままだった。
 ブースの広さは、たたみ一畳ぐらいしかない。
備品は、テレビチューナー付きパソコンを載せたテーブルとリクライニングチェアがあるだけだ。ただ、明日美は長期滞在者なので、身の回りの品もブースのしきりのまわりに置いている。といっても、ボストンバックとデイバックがひとつずつあるだけだったけれど。彼女の持ち物は他の長期滞在者の人たちと比べて少ない方だから、そんなにギチギチではなかった。

 ブースのドアが軽くノックされた。
 明日美がドアの鍵を開けると、両そでが擦り切れたダウンベストを着た姉の今日香が顔をのぞかせた。マスクをしてサングラスもかけているので表情はよくわからないが、今日香もよく眠れなかったに違いない。彼女も、少し離れた奥の方のブースで夜を過ごしたのだ。
 今日香は、四つ年上の十八歳だ。でも、明日美より小柄だし、まったく化粧っ気がないので、ずっと幼く見える。安っぽいサングラスは、年相応に見せるための精一杯の扮装だった。
「おはよう」
 明日美が声をかけると、
「眠いね」
 今日香はボソッと答えた。
「うん、いくら寝ても寝足りないみたい」
 明日香が答えると、
「まあ、ここじゃあ、しかたないけど」
「うん」
「じゃあ、行ってくるね」
 今日香は片手を軽く上げて、すぐに姿を消した。こんな早朝から、近くのコンビニでバイトなのだ。中卒の今日香が、やっと見つけた仕事だった。これから夕方まで、十時間以上も働かねばならない。

明日美ももう起きることにしたが、今日香と違って外出するわけではないので、着替える必要はない。一日中、いや一年中、上下のスウェットのままだった。
 明日美は、色違いの同じようなスウェットの上下を二着持っていて、一週間交代で着替えている。一週間着たスウェットは、下着などと一緒に近所のコインランドリーで洗濯していた。どちらのスウェットも、もう長い間着ているのですっかり色落ちしている。
 でも、今日香以外の誰に見せるわけではないので、全然気にならなかった。さすがに穴があいたら新しいスウェットを買おうとは思っていたが、よっぽど丈夫な素材でできているのか、まだまだ大丈夫そうだった。
ネットカフェの中は、一年中エアコンで快適な温度にコントロールされていた。だから、明日美が持ち込んでいる衣服は、今日香と比べても驚くほど少なかった。
 明日実のブースの前を、人が歩いていく音が聞こえてきた。
でも、誰もブースの中には入ってこられないから安心だった。このネットカフェでは、明日美たちのような長期滞在者のブースは鍵がかけられる。フロントにキーを預ければ、いつでも外出できた。
もっとも、明日実が外出するのは、ネットカフェの入っているビルから50メートル先にあるコインランドリーだけだった。明日美の方がはるかに時間の余裕があるので、いつも今日香の分も一緒に洗濯をしてあげている。
そんな、一週間に一度の外出の時も、コインランドリーの洗濯機をセットすると、明日実は急いでネットカフェの自分のブースを戻っていた。誰か知っている人に会うのも怖かったし、古ぼけたスウェット姿を人に見られるのも嫌だった。とても、コインランドリーの中で出来上がりを待っていられなかった。

「あーあ」
 明日美は、大きく伸びをしながらチェアから立ち上がった。同じ姿勢を長時間保っていたので、体の節々が痛い。明日美は、昼夜逆転しないように、日中はなるべく起きていて、夜は11時には寝るようにしている。
すぐにブースを出て、眠気覚ましのコーヒーを飲みに、店内のドリンクバーへ向かった。迷路のように何度も曲がりくねった細い通路を歩いていくと、両側には細かく仕切られたブースが続いている。こんなに狭いところにたくさんの人がいて、もし火事でも起こったら逃げられるのだろうかと、初めのころはビクビクしていた。
でも、長く暮らしていると、いまさらそんな心配をしても仕方がないので、それ以上は考えないことにしている。
 ドリンクバーには、明日美たちと同様にこのネットカフェで寝起きしている住人たちが、すでに集まってきていた。長く居るメンバーたちは、すっかり顔を覚えてしまっていた。
 でも、お互いにあいさつを交わしたりはしない。まったくの没交渉だった。へたに仲良くなってプライベートな事を聞かれるのは嫌だった。
 ここのドリンクバーには、エスプレッソマシンの他に、コーラやジュースなどのソフトドリンクの機械や、ソフトクリームマシンまでがあった。前にはコーンスープや味噌汁もあったのだが、残念ながら機械が変わってからはなくなってしまっていた。
 明日美は、いつものようにホットカプチーノのボタンを押した。
 プシューと勢いよく水蒸気を吐き出しながら、褐色のコーヒーと乳白色のミルクがカップに注がれていく。
 明日美は、さらに備え付けのミルクと砂糖をたっぷり入れて、甘い甘いカプチーノを作る。
 これだけが、毎日の明日美の朝食だった。

実は、明日美たちの母親も、この同じネットカフェにいた。
 二人が幼いころに離婚した母親は、病院の看護助手の仕事をして、一人で二人の娘たちを育てていた。三年前までは、狭いながらも普通のアパートで、母娘三人で暮らしていたのだ。
 そのころ、明日実はまだ小学生で、普通に学校へ通う日々だった。
 もともと引っ込み思案なところがある彼女は、クラスではまったく目立たない存在だった。
 それでも、学校の往き帰りにおしゃべりしたり、時には放課後や休日に一緒に遊んだりできる友達も何人かはいた。
 姉の今日香は中学生で、成績はそれほど良くなかったし、経済的な理由で塾へも通えなかったが、地元の公立高校を目指して勉強をしていた。
 明日実も、漠然とだったが、将来は姉と同じような道を進むのだと思っていた。
 そう、彼女たち三人の家庭は、どこにでもありそうな普通の家族だったのだ。
 母親の仕事は夜勤も含む不規則なものだったので、姉妹は幼いころから家事を交代でこなしていた。
 炊事、洗濯、掃除、……。
 母親は、家にいる時は、夜勤の睡眠不足を補うように寝ていることが多かったので、二人でできるだけ家事はこなして、なるべく母親に負担がかからないようにしていた。
 明日実が幼いころは今日香が、今日香の勉強が忙しくなってからは明日実が、中心になって家事を負担していた。

 そんな貧しいながらも平穏な生活を送っていた三人の生活に変化が起きたのは、四年ぐらい前からだった。
夜勤の多い重労働の仕事と二人の子育てに疲れはてた母親が、しだいに精神のバランスを失ってしまったのだ。時に激しく感情を爆発させたかと思うと、うつろな目をして何日も黙り込んでしまう。常習化していたアルコールの大量摂取も、そういった気分障害を発症した原因のひとつだったかもしれない。
「おかあさん、もうお酒を飲まないで」
 明日実と今日香は、何度も母親に頼んだ。
しかし、いったん依存症に陥ると、なかなか酒を飲むのを止められなかった。夜勤明けの休みの日などは、目を覚ますとすぐに酒に手を出すようになってしまった。
それでも、病院へ出勤する前は、何とか飲酒はしないようにしていた。
しかし、しだいに誘惑に負けてつい深酒をしてしまい、だんだん仕事も休みがちになり、ついには勤めていた病院をくびになった。
その後もいろいろな病院を転々としていたのだが、どこでも無断欠勤などで問題を起こすようになり、だんだんまともに働かなくなり、一家の収入は激減してしまった。
 まだそのころは、今日香もバイトができる年齢には達していなかったので、家計を助けることはできなかった。
 とうとう家賃や公共料金まで滞納するようになり、そのために電気やガスといったライフラインも止められてしまった。
 その時、家にはまだお米などの食材が少しだけはあったのだが、明日美たち一家はもう食事ができなかった。なにしろ電気もガスもきていないので、ご飯すら炊けなかったからだ。
 そして、今日香は、高校進学も断念しなければならなくなった。
 社会の片隅でつつましく生きてきた明日美たちの家庭は、こうして完全に崩壊してしまった。

 ビジネスホテルやドヤ街を転々とした後で、最終的に三人が流れ着いた先が、この駅前のネットカフェだ。この店の一日の料金は二千四百円だったけれど、明日美たちのような長期滞在だと千九百円に割引される。一ヶ月分を計算すると割高なようにも感じられるが、ここだったら公共料金は払わなくていいし、テレビ付きパソコンもエアコンもトイレもシャワーもドリンクバーも完備している。家具を買う必要もないし、インターネットも、ゲームも、漫画も、雑誌も、やり放題見放題だった。
 といっても、
「こんな変なところには長居してはいけない」
と、今日香は明日美にいつも言っている。
 しかし、敷金などの最初に払うまとまったお金や保証人などがネックになって、二人だけではアパートが借りられなかった。頼んで日払いにしてもらっている今日香のバイト代だけでは、毎日カツカツにしか生活できなかった。明日美は、中学を卒業していなかったからまだ働けなかった。
 母親は、時々派遣で看護助手の仕事をしているようだったが、アルコール依存症がまだ治っていなくて、酔うと暴力をふるうことがあるため、もう一緒には暮らせなかった。
 住民票をネットカフェのあるビルの住所に移しているので、明日美たちは郵便も受け取ることができた。めったにかかってはこないが、電話も取り次いでもらえる。通信料金が高いので、二人ともスマホもガラケーも持っていなかった。
ここにいればとりあえず普段の生活には不便はないので、母娘三人が別々のブースでもう二年半も暮らしている。

今でこそ明日美は一日中ネットカフェの中にいるが、去年の夏まではとぎれとぎれだったけれど学校へ通っていた。初めのころは、ビジネスホテルなどから元の学校へ通っていた。ここに来てからは、現住所をネットカフェの所在地に移したので、近くの小学校に転入できたのだ。
その後、出席日数が怪しかったが、中学校へも進学できた。ブースの中で、学校側の好意で用意してもらったお古のセーラー服に着替えて、通学していた。
 しかし、もう半年ぐらい、明日美は学校に通っていなかった。あのまま学校にいたら、明日美は来月からはもう中学三年生になる。
 学校に通っていたころ、明日美は、ネットカフェで暮らしていることを、小学校や中学校のクラスメートには秘密にしていた。もちろん、先生たちはどこから通っているか知っていたが、内密にしてもらえていた。
でも、中学生になったころから、そういった二重生活に疲れて、明日実はしだいに学校をさぼるようになってしまった。クラスメートにどこで暮らしているのが知られるのが怖くて、誰とも突っ込んだ話はできなかった。そのせいもあって、親しい友だちはできなかった。
それに、姉と同様に自分も高校へは進めないだろうと思っていたから、授業にも集中することができなかった。授業中も、休み時間もポツンと一人で過ごすことが多かった。
ネットカフェで暮らすようになってから、明日実がだんだん何事にもあきらめの気持ちを持つようになっていたのも、学校へ行かなくなったことに影響したかもしれない。

 明日美のきちんとした食事は、原則一日一回だった。それを姉が帰ってくる夕方に一緒に食べていた。基本的には、朝食と昼食は抜きだった。
 そんな明日美だったが、たまに夕食の食べ物が残ると、朝にもう一食を食べることもできた。今日はラッキーにも食パンが少し残っていたので、明日美はカプチーノとともにそれを口にすることができた。普段は、どうしても空腹が耐えられない時には、明日美は無料のドリンクバーに通って飢えをしのいでいた。おなかをごまかすのには、お茶類よりも甘いジュースや炭酸飲料の方が有効だった。
紅茶やコーヒーにもたっぷり砂糖を入れていた。
ソフトクリームも甘くていいのだが、食べすぎるとおなかが冷えてしまうので、一日一回に決めていた。
 毎日一食にもかかわらず、明日美はほとんど痩せていなかった。いやむしろ太ったぐらいだ。運動不足と糖類の取りすぎが原因だろう。明日美自身もなんだかむくんだ感じがしていて、彼女の栄養状態は最悪だった。
 インターネット、テレビ、ゲーム、雑誌、漫画、…。ネットカフェには、暇つぶしに適したエンターテインメントがあふれている。
 しかし、明日美はそのどれにも飽きてしまっていた。そのため、一日が死ぬほど長く感じられた。
 現在の明日美の唯一の楽しみは、小学校一年生から五年生まで通っていた、かつての地元の小学校のホームページを見ることだった。個人情報の流出に配慮してか、子どもたちの写真などはなかったが、明日美にとっては懐かしい校舎の写真やみんなで唄った校歌の歌詞などが載っていた。
 それらをぼんやりとながめていると、まだ幸せだったころが思い出されて、ほんのちょっぴり心が和まされた。アパートを出てからの学校には、それぞれ短期間しか通えなかったので、あまり想い出はなかった。

気が遠くなるほど時間がたったように明日美には思えたころ、ようやく今日香がバイトから帰ってくる。
「ただいま」
「おかえり」
長時間のバイトのせいか、今日香は疲れきった顔をしていた。
「じゃあ、着替えてくるね」
 すぐに姿を消した今日香は、しばらくして明日美と同じようなスウェット姿で戻ってきた。
 これから、明日美待望の夕食が始まるのだ。
 明日美のブースで、二人は肩を寄せ合うようにして夕食を食べ始めた。今日香のブースの方は、四方を雑多な彼女の持ち物で取り囲まれているので、二人で入る余裕はなかった。
 食事のメインは、今日香の勤め先のコンビニで消費期限を過ぎたサンドイッチやおにぎりや惣菜などだった。それらは、コンビニの本部の規則では廃棄しなければいけないのだが、店長の好意によって捨てたことにして内緒でもらうことができた。時々は、明日美の栄養を心配して、魚の缶詰や魚肉ソーセージ、牛乳などのタンパク質源も、今日香が近くのディスカウントストアで買ってくることもあった。
 今日香の方は、一日中体を動かさなければならないので、やはりコンビニの廃棄品などを休憩時間に食べているのだが、明日美にとっては本当に唯一のまともな食事だった。
 二人はゆっくりゆっくりとつつましい晩餐を、小声でささやきあいながら食べている。
「今日はどうだった?」
「うん、いつもと変わらないけど、天気がいいから食べ物の売れ行きがよくて、あんまり廃棄が出なかった」
 今日香が持ってきてくれた夕食は、サンドウィッチが一つとおにぎりが二つ、それにほうれん草のゴマ和えだけだった。二人はそれを分けあって、少しずつ食べていた。
 二人の毎月の収入は、今日香のバイト代の十万円程度と、母親が時々気まぐれにくれる数万円だけだった。
 母親からお金をもらうのは明日美の役目だったが、本当はそれが嫌で嫌でたまらなかった。母親のブースからは、いつもプーンとアルコールのにおいがしていた。ネットカフェでは飲酒は禁止されているのだが、母親は密かに飲んでいるのかもしれない。このままでは、母親のアルコール依存症はいつまでも治らないだろう。
 どんなに嫌でも、母親からお金をもらわなくてはならなかった。その数万円がないと、このネットカフェからも出ていかなければならないのだ。そのお金を足しても、毎日精算が要求されている二人分のネットカフェ代を払うと、あとはいくらも残らなかった。
 二人の願いは、明日の住む所と食事を心配しなくてもいい暮らしをしたいことだけだった。

 ある朝、明日美が自分のブースから出ると、隣のブースの前に荷物が積まれていた。
 隣にいるのも若い女性で、妊娠しているのでおなかが大きかった。同棲していた男がおなかの子どもを認知してくれなくて別れたので、行き場がなくてここにたどり着いたのだ。いよいよ出産が間近になり、そういった女性たちをサポートしてくれるNPOの世話で、やっとネットカフェから施設に移ることができた。
 しかし、彼女は、経済的な余裕がまったくないので、生まれてくる子どもを一人で育てる自信はなくて、出産してすぐに養子に出すことを希望していた
 かといって、そんなに簡単に養子先が見つかるわけではない。
 生まれてくる子どもは、乳児院で新しい親が決まるのを待つことになる。
 明日美がその場に立ち止まって見ていると、ブースからいよいよおなかが大きくなった女性が出てきた。
「さよなら」
 その女性は、小さな声で明日美に言った。
「さよなら」
 明日美も小声で答えた。彼女は半年近くも明日美のブースの隣に「住んでいた」のだが、二人が言葉を交わすのはそれが最初で最後だった。
 彼女の姿が見えなくなると、すぐにネットカフェのスタッフがやってきてブースの清掃を始めた。ビジネスの効率のために、長期滞在エリアのブースは、ひとつでも空けておくことはできない。
 明日美が自分のブースに戻っていると、昼前には早くも新しい人が隣のブースに入ったようだった。

 明日美のブースのドアが軽くノックされた。
(誰だろう)
 今日香やネットカフェの従業員なら、外から声をかけてくる。 
明日美が、恐る恐る鍵を外してドアに細い隙間を開けると、知らない若い女の人が立っていた。
「初めまして、あたし、愛媛から来た山本優樹菜です」
 女の人は、満面に笑みをたたえている。すっかり無気力になっている明日美たちとは違って、すごく元気そうな人だった。でも、悪い人じゃなさそうだ。
 明日実はちょっと安心して、もう少しだけドアを開いた。
「坂東明日美です」
 明日美もボソッと答えた。他のブースの人に声をかけられたことがなかったので、まだ少々面食らっていた。
「あら、明日美ちゃん、若いのねえ。中学生?」
「いえ、もう卒業しました」
 明日美はあわててそう答えた。フロントでは見て見ぬふりをしてくれているが、中学生だということがばれると、ここからも追い出されてしまうかもしれない。
「ふーん」
 優樹菜は、少し疑わしそうな顔をしたが、すぐに笑顔に戻って、大きなミカンを二つ差し出した。
「あたし、愛媛から今朝来たばかりなの。これ地元の名産だから、引越しのあいさつ代わりというところね」
 明日美は、コクンとうなずいてミカンを受け取った。夕食の時に、今日香と一つずつ食べようと思っていた。
「ちょっと、あたしんのところに来ない?」
 優樹菜がそう言ったので、明日美はコクントうなずいてブースを出た。今日香以外のブースに行くのは初めての事だった。

 ドリンクバーでそれぞれの飲み物を取った後で、明日美は優樹菜のブースへ行った。明日美たちのところとは違って、隅にキャリングケースがひとつあるだけなので、二人で入っても十分余裕があった。
優樹菜は、明日美にリクライニングシートをすすめると、自分はキャリングケースの上に腰を下ろした。
 優樹菜は現在十九歳で、地元の愛媛にある福祉系の大学に通っている。
 彼女の家も離婚による母子家庭で、小さいころから貧しかった。
大学にやる余裕はとてもないと母親に言われていたけれど、優樹菜はどうしても大学で勉強して、祖父母の代から続くこの貧困の連鎖から抜け出したかった。
母親からの仕送りはぜんぜん期待できなかったので、学費や生活費をすべて自分で稼がなければならない。
 でも、地元では賃金がすごく安いので、奨学金とふだんのバイトでは、生活費だけでいっぱいいっぱいだった。そのため、長い休みになると、賃金の高いバイトのある東京へ学資を稼ぎにやってきている。東京ではいつもこのネットカフェを使っていたので、ここではもう常連になっていた。
 でも、優樹菜はほとんど仕事へ行っているし、帰ってからは自分のブースで寝るだけだったから、今まで明日美とは出会ったことがなかった。
「夜行バスで13時間もかかったの。もうくたくたよ」
 そう言いながらも、優樹菜はエネルギーにあふれていた。明日からは、三つの仕事を掛け持ちしてガンガン働く予定だった。それも、賃金の高い工事現場や深夜の仕事ばかりを選んでいる。

 明日美と話しているうちにだんだん自分で興奮してきたのか、優樹菜は見ず知らずの明日美に将来の夢を語り出した。
「卒業したら、年収三百万以上は稼げる仕事に就きたいの」
「大学を卒業したら、そんなすごい仕事があるの?」
 中学にも通えないでいる明日美には、大学など遠い夢だった。ましてや三百万円などという大金は、いつも百円足りるか足りないかで今日香と二人で苦労しているので、想像もできなかった。
「ううん。福祉系の仕事がいいんだけど、そんなに稼げる仕事に地元でつけるかどうかはわからないんだ。愛媛では高齢者が減ってきていて、今まで地元の主力産業だった介護施設の就職も厳しくなっているって、先輩が言ってたのよ。入居者が亡くなって空きができても、最近は新しい応募者がいないんだって」
「…?」
 まわりにお年寄りがいない明日美には、よくわからなかった。
「うちの近くでも、どの商店もお年寄りの年金だけが頼りだったんだけど、そういうお客さえめっきり減って、店を閉めるところも増えてきているの。町の中心の商店街でも、建物を壊して更地になるところが増えているし」
「そうなんだ」
 東京生まれの明日美には、優樹菜のする地方の町の話がピンとこなかった。
「地方はどこも大変なのよ。だから、地元の介護の企業も、愛媛に見切りをつけて東京進出を図っているんだって。先輩たちも働く場所がなくなったから、その会社のつてでどんどん東京へ出て行っているのよ。将来、その会社が東京で施設をオープンしたら移籍するって裏約束で」
「優樹菜さんはどうするの?」
「私も地元で就職がダメだったら、東京に出てくるしかないかもね。本当はおかあさんが心配だから地元に残りたいんだけど。もし残っても、地元では若い女の子たちがいなくなったせいで、生まれてくる子どもたちももうほとんどいないから、将来は町自体が消滅してしまうかもしれないし」
「ふーん、それでみんな東京に来るのかなあ」
「まあ、おかあさんには、自分に余裕があったら仕送りすればいいんだけど。でも、東京では家賃が高いでしょ。暮らしていけるかなあ? それに、地元と違って知っている人がいないから、男の人との出会いもあるのかわかんないし。将来、結婚できるんだろうかと思うと、不安だらけなんだけどね」
 優樹菜はそう言って、さびしそうな笑顔を浮かべた。
「……」
 明日美が黙っていると、優樹菜が自分を奮い立たせるようにして、
「でも、今は頑張るしかないのよ」
と言った。
「私も学校へ戻りたい」
 つられたように明日美もポツリとつぶやいた。
「やっぱり、中学生なのね」
 優樹菜に言われて、明日美はコクンとうなずいた。

 その日の夕食の時に、明日美は、優樹菜の話や自分もここを出て学校に戻りたいことなどを、姉に話した。
 今日香は、何も言わずに箸を止めて、そんな明日美の顔をじっと見つめていた。
 二人は、それ以上明日美の希望については話し合わずに、食事を続けた。
「おやすみ」
 今日香がブースから出て行ってからも、明日美は昼間の優樹菜の話を考え続けていた。

 翌朝、今日香はいつものように明日美のブースに顔を見せた。いつもの古いダウンベストではなく、今日香が持っている中では一番ましな服を着ている。
「おはよう」
 明日美が声をかけると、
「今日、バイトを休むから」
と、今日香は言った。
「どうしたの? 身体の具合でも悪いの?」
「ちょっと出かけてくる」
「どこへ?」
「うん、…」
 今日香は答えずに、そのままブースのドアを閉めて、どこかへいってしまった。明日美は、思い詰めたような顔をしていた姉が心配だったが、何もすることができなかった。

 午後になって、思ったよりも早く今日香は戻ってきた。
 ブースに入ると、今日香は黙ったまま、明日美にパンフレットを渡した。通信制高校のパンフだった。
「ここに通って、卒業したら福祉関係の専門学校にいきたい。それから、あなたも学校に戻してあげたい」
「…」
 明日美は、今まで姉がそんなことを言ったことがなかったから、びっくりして何も言えなかった。
 実は、今日香は、バイトを休んでもっとお金を稼げる仕事を見つけに行ったのだ。
 それは、ネットで見つけたデリバリーヘルスという風俗の仕事だった。ブースのパソコンで調べたネット情報によると、日給は三万円以上で今のバイトの5倍近くももらえる。ワンルームマンションの寮も完備しているので、ここを出て明日美と一緒に住めるかもしれなかった。
 しかし、今日香は、さんざん迷ったあげく、そのデリバリーヘルスの事務所へは行かなかった。やっぱり男の人の相手をする風俗の仕事は怖かった。しかも、どうやらその事務所はたんなる待機所で、女の人たちは一人でお客の待つホテルの部屋に行かなければいけないようなのだ。密室で男の人と二人きりになるなんて、恐ろしくて想像もしたくなかった。
 代わりに今日香が行ったのは、やはりネットで見つけた「JKリフレ」というお店だった。そこは、男の人とは店内のカウンター越しに話しをするだけでいいようだった。それならずっと安全そうに思えた。
 でも、そのお店の給料の情報は、ネットではよくわからなかった。

 今日香は、思い切って開店前のお店のドアを開けた。
 中には、背の高い若い男が一人いるだけだった。それほど怖そうな人じゃないので、今日香はホッとしていた。
「入店希望?」
 男は愛想よく言った。
「あのー、…」
 今日香は、恐る恐る仕事の内容について尋ねた。
 仕事自体は、ネット情報通りに男の人とおしゃべりするだけだった。
「給料は?」
「時給千円。後は指名がつけば三十分単位で一本千円」
 それじゃ、今のバイトとそんなに変わらない。今日香は、自分が客から指名されることなど想像もできなかった。
 今日香が黙っていると、
「ここは接触サービスがないからね。給料が不満なら、風俗へ行ったら。おねえさん、十八になってるんでしょ」
 男は急に今日香に興味を失ったようで、ぞんざいにそう言った。
「ここは風俗じゃないんですか?」
「なんだ、そんなことも知らないの。ところで、あんた高校生? ここは、女の子が全員現役女子高生なのが売りなんだから。ねえ、生徒証を見せてよ」
 男にそう言われて、今日香はあわてて店を飛び出した。

「でも、なんとかあなただけでも学校へ行かれるようにするから」
 今日香は、風俗のことなどを話した後で、明日美に言った。
「本当に、ここを出られるの?」 
 明日美がたずねた。学校へ戻るにしても、前のようにネットカフェから登校するのは嫌だった。それでは、なんにも変わらない。
「うーん、…」
 今日香も、困ったように黙り込んだ。
学校へ通うのにも、ここを出るのにも、かなりまとまったお金が必要だ。今日バイトを休んだために、今日香の所持金は五千円をきっている。明日美の方ときたら、非常用に持っている千円札が一枚と小銭だけだった。これでは、今日の二人分のネットカフェ代、三千八百円を払うのがやっとだった。
「やっぱり風俗しかないよね。これから、デリバリーヘルスの事務所へ行ってみる」
「だめ、そんなところ」
 明日美は、つい大声を出してしまった。
「でも、それしか方法がないよ」
「だめだったら、…」
 二人は、我を忘れて大声で言い争っていた。

 いきなりブースのドアが強くノックされた。
 二人が騒いでいたのでお店の人が注意しにきたのかと、おそるおそるドアを開けると、外には優樹菜が立っていた。隣が騒々しかったので、優樹菜は仮眠から起こされてしまったのだ。彼女は、夕方からの仕事に備えて休んでいるところだった。
「風俗はだめ」
 優樹菜は、狭いブースの中に無理矢理入ってくると、ズバッと言った。
 三人が同時に入ると、ブースの中はギチギチだったので、三人は立ったままだった。
「でも、…」
 今日香が反論しようとすると、
「風俗は、本当に最後の最後の最終手段よ。まだ他にも方法があるから」
「…」
 優樹菜に強く言われて、今日香は黙ってしまった。
「明日の朝、区役所へ行こう」
「区役所?」
 今日香が繰り返すと、
「そう、区役所。何とか窓口で交渉して、あなたたちの住むところを見つけてあげる」
「えっ、ここを出られるの?」
 明日実はネットカフェを出られると聞いて、思わず口を挟んだ。毎日毎日ここで暮らすのは、もううんざりしていた。
「無駄よ。役所に相談したら、きっと二人バラバラの施設に入れられてしまうから」
 今日香は、前に役所の窓口へ行ったことがあったのだ。その時は、さんざんあちこちの部署をたらい回しにされたあげくに、二人がそれぞれ別の未成年者を収容する施設に入れられそうになった。これ以上家族がバラバラにされることには耐えられない。

「ねえ、あなたいくつ?」
 優樹菜が、今日香にたずねた。
「十八」
 今日香が、小声で答えると、
「なら、大丈夫よ。仕事もしてるんでしょ。あなたが所帯主になって、区営住宅に入れるんじゃないかな」
「でも、お金が、…」
「大丈夫よ。区営住宅は敷金も礼金もいらないし、収入が少なければ家賃も減免されるから。保証人が心配なら、そうしたことをしてくれるNPOもあるみたいだし」
 優樹菜は、母親と暮らしていた時に、地元の町営住宅に住んでいたので、そうした事情に詳しかった。
「えっ、本当?」
 今日香が聞き返すと、
「とにかくダメ元よ。やってみなければわからないって。ネットカフェなんかにいたら、けっきょく割高なんだから。長期割引っていっても、私みたいに数週間だけならいいけれど」
 優樹菜が、励ますように二人の顔を見ながら言った。
「でも、優樹菜さん、明日も仕事があるんじゃないの?」
 明日美がたずねると、
「大丈夫。朝の八時には戻ってくるから」
 優樹菜は、夕方の五時から十二時までが居酒屋のホールのバイトで、続けて夜中の一時から七時まではコンビニの深夜バイトをしている。それに、割のいい夜間の工事現場の仕事も、他のバイトが休みの日に不定期にやっていた。
「今日みたいに、帰ってから寝なくても平気なの?」
 明日美が言うと、
「一日ぐらい寝なくたって大丈夫、若いんだから」
 優樹菜は、そう言って笑って見せた。

 優樹菜は二人を安心させるために楽観的に言っていたが、組織が縦割りになっている役所との交渉は、一日じゃすまないかもしれない。そうしたら、何日も粘り強く交渉しなければならないだろう。かといって、後を二人だけにまかせるのは心許ない気が、優樹菜はしていた。
「そうねえ。長期戦に備えて、もっと援軍がいるかもね。ちょっと待ってて」
 優樹菜はそう言いながら、ブースを出ていった。
 しばらくして、優樹菜が戻ってきた。若い男の人が一緒だったので、明日美と今日香は緊張した。
「深川くん。二人とも知ってるでしょ」
 たしかに顔に見覚えがあった。ネットカフェのバイトの一人だった。
「彼も私と同じ十九歳で大学生なの」
「よろしく」
 深川さんはペコッと頭を下げた。笑うと親しみやすそうな顔になったので、二人は少し安心した。
「あたしが行かれない日には、彼が一緒に役所へ行ってくれることになったから」
「えっ!」
 二人が驚いていると、
「優樹菜さんって、強引なんだから」
と、深川さんはぼやいていた。
「なんたって、二人はお店のお得意様なんだから、このくらい、サービス、サービス」
 優樹菜にそう言われて、深川さんは苦笑いしていた。

「長期戦といえば、あなた明日もバイト休んで大丈夫?」
 優樹菜は、今度は今日香にむかってたずねた。
「…」
 今日香が不安そうな顔をしていると、
「電話、電話。まずはバイト先と交渉よ」
 二人がケータイを持ってないことを知ると、優樹菜は自分のスマホを出して、今日香に聞いた番号にかけた。
「もしもし、…」
 コンビニの店長に、電話に出てもらうように頼んでいる。
 交渉結果は上々だった。店長は、今日香のシフトを、役所へ行く時間が取れるように調整してくれた。どうやら、これでクビになることは免れたようだ。もともと店長が、今日香の身の上に同情的だったせいもあったかもしれない。
「でも、バイトに行かないと、明日からのネットカフェ代が足りないんだけど、…」
 今日香が恐る恐る言うと、
「ねえ、深川くん、役所との交渉がまとまるまで、代金を待ってくれるように、店長にOKを取ってくれない」
「…」
 優樹菜に強い口調で言われて、深川さんは目を白黒とさせていたが、やがてしぶしぶうなずいた。
 コンビニの店長や深川さんに対する優樹菜のきびきびした交渉経過と、その幸先の良い結果に、明日美と今日香は、これからの区役所との交渉にも、少しは希望が持てるかもしれないなという気がしてきていた。

 

 

 

 

 

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