参道も中程をすぎ、結構のぼったと感じるあたりで(個人差あり)
仁王門にたどり着きます。
ここからさきに山院が点在するのです。
ちなみに、来た道を振り返るとこう。
さて、やはり岸壁は穴だらけではありますが、
このへんから少し事情が変わってきます。
まずは見てください。
中央の岩の裂け目に何かあるのがおわかりですか?
そう、石製の五輪塔が納められています。
こちらは五輪塔というよりは角柱状の供養塔でしょうかね。
よく見てください、ここにもあります。
これが山寺の本来の姿なのです。
先人たちは、この風穴を供養の場所として利用してきました。
たとえば、亡くなった人の遺骨や遺髪の一部、歯などを
回忌供養の際にこの風穴に納め、追善を行ったのです。
その際、柿経や小型の石製卒塔婆や五輪塔なども
一緒に納めています。その五輪塔が山寺の風穴の
至る所で見られるのです。
これはいわゆるお墓ではなくて、あくまで供養所です。
埋葬施設ではなく、亡き近親者の冥福を祈る場所です。
同じような行為は会津河東町の八葉寺や雄島の岩窟も同様です。
泉崎にある観音山磨崖供養塔婆群なんかも同様の形態です。
山寺の場合は風穴を使った供養から、磨崖碑に変化していくというのが
特殊と言えば特殊かもしれません。
さて、このあたりになるとけっこう下界からは隔絶されており、
修行の場と行った雰囲気も出てきます。
岸壁の中腹には修行の場がしつらえてあります。そこに行くまでには
鎖をたよりに岸壁を上ったり、丸太橋をわたったり、それこそ修行です。
さらに山を分け入った奥の方なんかにも修行場があるそうですが、
一般の人は立ち入りを許されていません。
仁王門にたどり着きます。
ここからさきに山院が点在するのです。
ちなみに、来た道を振り返るとこう。
さて、やはり岸壁は穴だらけではありますが、
このへんから少し事情が変わってきます。
まずは見てください。
中央の岩の裂け目に何かあるのがおわかりですか?
そう、石製の五輪塔が納められています。
こちらは五輪塔というよりは角柱状の供養塔でしょうかね。
よく見てください、ここにもあります。
これが山寺の本来の姿なのです。
先人たちは、この風穴を供養の場所として利用してきました。
たとえば、亡くなった人の遺骨や遺髪の一部、歯などを
回忌供養の際にこの風穴に納め、追善を行ったのです。
その際、柿経や小型の石製卒塔婆や五輪塔なども
一緒に納めています。その五輪塔が山寺の風穴の
至る所で見られるのです。
これはいわゆるお墓ではなくて、あくまで供養所です。
埋葬施設ではなく、亡き近親者の冥福を祈る場所です。
同じような行為は会津河東町の八葉寺や雄島の岩窟も同様です。
泉崎にある観音山磨崖供養塔婆群なんかも同様の形態です。
山寺の場合は風穴を使った供養から、磨崖碑に変化していくというのが
特殊と言えば特殊かもしれません。
さて、このあたりになるとけっこう下界からは隔絶されており、
修行の場と行った雰囲気も出てきます。
岸壁の中腹には修行の場がしつらえてあります。そこに行くまでには
鎖をたよりに岸壁を上ったり、丸太橋をわたったり、それこそ修行です。
さらに山を分け入った奥の方なんかにも修行場があるそうですが、
一般の人は立ち入りを許されていません。
私は、こういう場所では怖くてシャッタ-押せません
う~ん、
やっぱ押せないな~。
霊感なんてまったくないのに・・
当然ながらすべての霊は成仏しているはず、です。
いたずら半分でなく、無心にシャッターを切れば
余計なものはうつりません。
というか、考えたことも無かったです(笑)
恐山でもシャッター切る人ですから、私・・・
ちなみに、私も全く霊感なんてありません。
しかし、険しいという点については
修行の上では必要条件でしょうが、
供養の上ではそれほど必要とされては
いないようです。
むしろ、現世といかに切り離されているか、
という点が重要視されますので、
たとえば、少し海を渡った島であるとか、
川の対岸であるとか、
あるいは村と村の境界であるとか、
なにかしら日常の空間と離れていさえすれば
それで十分だったようです。
ですから、人里離れた場所で突然、
予想もできないような風景が目前に現れれば、
それはもうそれだけで異界であって、
それだけで彼岸を思い浮かべてしまうのでしょう。
物理的なものではなく、精神的にいかに
日常を離れた場所であるかが
供養所のポイントの一つだと思います。