とめどもないことをつらつらと

日々の雑感などを書いて行こうと思います。
草稿に近く、人に読まれる事を前提としていません。
引用OKす。

クジラ生やイルカ生から考える海洋移動距離とその人生と生態

2022-02-18 23:39:21 | 哲学・学術・教育
まず最初に断らなければならないのが、私はクジラ漁、イルカ漁にさして反対することはない。
民族的伝統の一環として、それらの漁猟は人間に認められるべきである。
一方で、人間の果てのない屠殺欲求によるその方法論的な大量屠殺は認めない。
中途半端な意見じゃないか、と言う見解もあろうが、私はこの中庸を守りたい。
例えば、魚が魚を食うのは自然の食物連鎖の観点において生態系によって為される形成形態であるが、人が智慧を持ってして、食う以上に捕獲するのは、自然の食物連鎖に沿わないものであって、自然の一部である人間は、その則(のり)を超えるべきではない、と考える。

これから書く論と言うのは、この「人間の果てのない屠殺欲求によるその方法論的な大量屠殺」に寄与してしまう可能性が高い。
一方において、その論を記載することによる生命保護の進展速度が上記のものを上回り、結果、上記の可能性を封殺する道が開かれることを望む(そしてそれを誘導するような恣意的な文章も紛れ込ませて書くだろう)。

下記はその論である。これを始めたい。

人間には人生があり、その生命における一生は人生と呼ばれ、数十年の月日があり、そこにはその長期スパンに従った大計画がなされることがある。
例えば、◯歳にはディズニーランドに行って、○歳にはどこで仕事をし、◯歳では家庭を作って、◯歳で子供を作り、◯歳では引退をして、どこそこへ行って・・・

このようにして、日常生活の反復では頻繁に成せないことを、長期計画を持ってそれを行う。

一方他の動物ではどうか。
ミジンコやウサギなどの生物に於いては、その生活環における長期スパンの計画は無く、本能に従った化学反応に似た行動を取るだろう。

しかし一方で、私が個人的に想像しうるに、クジラやイルカはその長期的な計画が、その人生ならぬ、クジラ生、イルカ生にあるのではないか、と考える。

人は飛行機によって一日で日本からオーストラリア、あるいは日本からアメリカや欧州に行けるかもしれないが、仮に泳ぐとなったら数ヶ月スパンでは済まされないものがある。

これはクジラやイルカも同じだ。
泳ぐには体力がいる。敵から身を守る必要がある。エサが豊富な海流を選択する経験や伝達蓄積的な智慧が必要である。
そうした労苦をして、自分の「人生」のために海洋を泳いでいく。
しかしこれは日常生活の中での反復でできるだろうか? 答えは否。
彼らは季節ごとに移動をし、自分の「人生」の長期的なメルクマールポイントに対して、それを行わなければならない。
仮に日本から地中海に行くにしてもそれは一苦労どころではない距離だ。
人間が、日本からイタリアに徒歩で行くことを思い浮かべれば良い。それは下手をすると一生の旅路になるだろう。


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