とめどもないことをつらつらと

日々の雑感などを書いて行こうと思います。
草稿に近く、人に読まれる事を前提としていません。
引用OKす。

文章を読了できる時と読了できない時の差異

2024-05-22 01:24:28 | 哲学・学術・教育
と言うことで、昨今はあれほど難しかった文章がさらさらさら〜と読める時もあれば、こんな簡単な文章なのかと思っていた文章でさえも、読み返してみれば何が書いてあるのかさっぱり分からないほどに難解を極めることもある。
この2つの差はどこから来るのだろう? と考えた際の私の個人的メモ。

恐らく原因は下記のものである。

通常の文章は個人が知らないものも知れるようにするように構成されている。
私が表現をするに、書籍の文章が手助けをして、空白の知体系にジャンプさせることがその文章によっての知の飛躍である。

しかし明らかに基礎のジャンプ力を要するものや多段ジャンプを必要とするものがある。
小学校6年生に微分積分を習わせるようなものだ。それであれば、その対象となる人が、ジャンプできる範囲での確実な飛翔と着地をさせることが先に必要になる。

このジャンプと着地には仕組みがある。
文章を読んだ時に、「この文章はこういうことが言いたいのかな」と言う頭の中の作業仮説が無意識中に内在しており、それが後段の説明や多角的検証によって合致していると自己の中で確証を得た時、その時初めて「なるほど、やっぱり自分が立てた作業仮説は正しかったのだ」として理解を行う。

この作業仮説が間違っていることもある。その場合は、その該当箇所を読み返したり、あるいは多角的検証を行って、自己の確実な理解に組み込んでいく。

問題はこの所作があまりにも無意識に行われるので、人は自己の理解のプロセスをそれと認識しない(と私は作業仮説を立てて考える)。

その上で記載をするのだが、冒頭に書いた、普通は難しい文章は理解するのが困難で、平易な文章は簡単に理解することができる、と言う現象と相反し、この逆の現象、つまり難しい文章がさらさら読めてしまうことや、平易な文章が難読になることについては、この前段における、文章を読む前の「作業仮説」あるいは「作者が言いたいことの推測能力」が極度にあってしまったり、あるいは極度に失われてしまっていることに起因してそれらが起きるのではないか、と言うことである。
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