とめどもないことをつらつらと

日々の雑感などを書いて行こうと思います。
草稿に近く、人に読まれる事を前提としていません。
引用OKす。

最初に全体を教えるか、細部を教えるか

2024-01-26 23:06:47 | 哲学・学術・教育



こんなもん発達障害以前に当たり前やんと思うんですがどうでしょうか。
更に言えば、全体と細部のどちらか、と言うことではなく両方必要になる話ですよ。

・例えば船に乗っていて「航海日程は10日で今日は3日目」と言われているのと「とにかく航行の運用をしろよ」と言うのはどっちがいいんじゃい、と言う話でもある。
・例えばお宝を探しに宝の島へ行くにしても、闇雲に探すんではなく、宝の地図を入手して、「ここら辺のジャングルにはこういう猛獣や毒蛇がいそうだから〇〇しよう」と準備するのではどっちがいいんかという話でもある。

稀に物語の背景や動機を会話するのを忌避する人がいるし、言わなくても分かれ、それってわざわざ言う必要があるか? それを求めるお前はどれだけ低能なんだと言う人がいるんだけれども、それがあるのとないのでは段違いでその後の運用フェーズの進み具合・スマートに障害なく運用できるかの違いがあって、こういう人が事業運用の足かせになっているんだと思うんですが、なかなかそういう社会にはならないよね。

自分の分析能力・言語化能力の低さを棚に上げて、「この雰囲気から必要とされることを察知できないお前が悪い」と言う形に整形されてそれが当然みたいな社会になっているのが日本社会の悪いところだと思う。

そもそも「人をどうやったら教育できるか」と言う教育そのものの教育が無いのでこういうことになっている。

例えれば「炒飯作ってたら塩味が足らんくなったけど塩ないからお隣からちょっと借りときといて」と言うシチュエーションがあったとする。
いきなり「塩」の一言を言われても何を求めてんのか分からんし、「それで分かれよ、分からなければお前は頭が悪いんだ」と始末をつけていたのが日本社会だ。
「炒飯作ってたら塩味が足らんくなったけど塩ないからお隣からちょっと借りときといてや」まで言ってくれやと。老夫婦でギリ分かる話をなんでアカの他人がツーカーせにゃならんだという。
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