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教会で26人死亡の悲劇「祈りは無駄なのか」 銃乱射受けネットで議論

2020-09-21 18:40:39 | 哲学・学術・教育

教会で26人死亡の悲劇「祈りは無駄なのか」 銃乱射受けネットで議論
2017年11月14日16時44分
https://www.christiantoday.co.jp/articles/24773/20171114/is-prayer-useless.htm

たとえ祈っても、クリスチャン、しかも日曜日に教会で礼拝をささげているクリスチャンの命を守ることができないのであれば、神に祈ることは無駄なのか――。米テキサス州サザーランドスプリングスの教会で26人が死亡する銃乱射事件が発生した後、ソーシャルメディア上でそんな議論が起こり、著名な牧師たちも応答した。

事の発端は、名作映画「スタンド・バイ・ミー」(1986年)や米テレビドラマ「新スタートレック」などに出演したことで知られる米国人俳優ウィル・ウィトン氏(45)のコメントだった。事件を受け、カトリック信徒であるポール・ライアン米下院議長(共和党)は犠牲者や遺族のために祈りをささげたが、ウィトン氏はツイッターに次のような批判的なコメントを投稿した。

「殺害された犠牲者たちは教会にいた。もし祈りで何かが起こったのであれば、彼らはまだ生きていたはず。役に立たない野郎だ」

この投稿の後、批判があったこともあり、ウィトン氏は謝罪し、信仰を持つ人々の気分を害そうとしたのではなく、銃規制に対する法的措置の欠如を非難したものだったと、自身の投稿の意図を説明した。

「宗教や信仰について話しているのではないんです。銃による暴力に何も取り組まないその下院議長について話しているんです」

「本当の信仰者の皆さん、僕は皆さんに耳を傾けています。僕はポール・ライアンが銃による暴力に対処することを拒否したことで怒っているのですが、皆さんを侮辱してしまったことは謝罪します」

しかし、ウィトン氏の当初の意図とは別に、この投稿がきっかけとなり、祈りの有効性に関する議論が広がることになった。

米最大のプロテスタント教団である南部バプテスト連盟のロニー・フロイド前議長(クロス・チャーチ主任牧師、アーカーソン州)は、この疑問に応え、クリスチャンポストに次のように語った。

「この堕落した世界では、悪霊が猛威をふるうとき、良いことだけが起こるのではありません。しかし、私たちの信仰と希望は神のみにかかっています。私たちが祈るとき、私たちは神に力を求め、神に頼っています。私たちが祈らないとき、私たちは自分自身に頼ることを選び、それは常に不信仰に導きます」

フロイド氏は、事件後に発表した声明では次のように述べていた。

「憎悪と恐怖に満ちた襲撃事件が、私たちが礼拝する場所で起こるとき、私たちは心底震えさせられます。私たちは、神が力強い御手をもって米国民と世界をお守りくださるように懇願しなければなりません。神がこの銃撃事件の犠牲者たちと共にいてくださいますように。ただ神のみが、この困難に満ちた時における私たちの隠れ家です」

大衆伝道者のグレッグ・ローリー氏(ハーベスト・クリスチャン・フェローシップ主任牧師、カリフォルニア州)は、クリスチャンポストに声明を寄せ、次のように語った。

「確かに、このような悲劇が特に教会で起こることを、なぜ神が許されたのかを理解するのは難しいことです。この邪悪で冷血な襲撃により殺害された人々の家族や友人のことを思うと、胸が張り裂けんばかりです。

しかし聖書は苦痛のない人生を誰にも約束していません。実際、イエスご自身は『あなたがたには世で苦難がある』(ヨハネ16:33)とおっしゃいました。私に分かっていることは、テキサス州サザーランドスプリングスの第一バプテスト教会の礼拝に集められたこれらの人々が、イエス・キリストを信じ、愛していたということです。

そこには『満ち足りる喜び』と『永遠の喜び』があります(詩編16:11)。彼らが抱いていたすべての疑問は(天国で)答えられたはずですが、私たちの疑問は、神がそれに答えてくださるのを待つ必要があります」

ローリー氏はまた、死後の生に対する認識についても考える必要があると語った。

「私たちは、死後の生(afterlife)のことについて話しますが、おそらく私たちは今生きている人生を、死前の生(beforelife)と呼ぶべきです。この人生は、死後の生と比べると非常に短いのです。私たちのイエス様との関わりが、死後をどこで過ごすかを決定するのです。(事件のあった)先週日曜日に教会で礼拝していたこれらの人々は今、安らかにイエス・キリストの愛に満ちた御腕の中にいるのです」

大衆伝道者ビリー・グラハム氏の娘で、自身も伝道者であるアン・グラハム・ロッツ氏は、ヨハネによる福音書11章で、イエスがラザロの死後に語った言葉について述べた。

この章には、ラザロが亡くなってから、イエスがラザロの家族の元を訪れたことが記されている。姉のマルタは、ラザロが亡くなる前にイエスが来れば、ラザロは死ななかっただろうと言い、ラザロが復活することをイエスが告げても、終わりの日の復活について話していると受け止めた。

ロッツ氏は、イエスもこの場面でまさに「死を防ぐことができなければ祈りは無駄なのか」という問い掛けに直面したと言う。しかし、イエスは「わたしは復活であり、命である。わたしを信じる者は、死んでも生きる。生きていてわたしを信じる者はだれも、決して死ぬことはない」(ヨハネ11:25、26)と話されたとし、ロッツ氏は次のように語った。

「人生は一時的な安全や健康、幸福、繁栄といった以上のものです。人生で大切なのは、それらのものを超えている主との関係なのです。主は決して私たちを単に苦難や痛み、死から守ると約束なさいませんでした。しかし主は、私たちが主を信じるとき、私たちと共にいて、それらを乗り越えさせてくださると約束してくださったのです」


私はクリスチャンではない。実家の檀家としての所属は仏教の真言宗である。
私は私なりにこれに対する見解を書いておきたい。

神と言うものを規定するのであれば、それは我々の社会運用に対して奇跡を起こさない。
もし熱心な祈りによって奇跡が日常的にかつ再帰的に起こるのであれば、例えば水道の蛇口をひねったら水が出るように、日常に溶け込んでいたならば、それは最早奇跡とは呼ばない代物だろう。滅多に起こらないから奇跡なのであり、再帰的に発生しない非ロジカルのものであるから奇跡と呼称されるのであって、「祈る」から「助かる」と言うものではない。
あくまでその社会を安定して運用せしめるのは人間なのであって、その人間の意志があってこそ、そしてそれが行使されるからこそ社会を安定運用せしめるのであって、その役割は神ではないのである。
飽くまで我々が社会の運用をし、銃の乱射をせしめないように物理的・人種混淆社会運用的・法的な社会を構築していくべきなのである。

そして、それだから神学やキリスト教は不要だという答えになるのだろうか? 答えはノー。
常にいつの時代でも、我々人間と言うものは後悔や焦燥、精神的葛藤に苛まれ、憔悴し、悩まされている。
元々神学やキリスト教に求められるのは、我々の心の迷いや悩みへの精神的葛藤の克服であり、物理的作用やその期待を神に求めてはならない。

飽くまで人間社会をよくするのは我々人間なのであり、その過程における課題や困難、心理的な迷いや悩みを解決する場として神学やキリスト教に頼り、そしてそれをした上で、更に我々が我々自身の手によって作らねばならないのだ。

迷いながら、悩みながら、悔やみながら決定していけば良い。
そこにはその人の身近にある宗教、例えばキリスト教神学やキリスト教そのものが強力に精神的な支えをなしてくれるはずだ。

それは仏教でもイスラムでも良く、そして社会をより良く運用していくと同時に、他者を侵害なさしめてはいけないという訓戒も、強く自身に戒めていくべきものである。
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