とめどもないことをつらつらと

日々の雑感などを書いて行こうと思います。
草稿に近く、人に読まれる事を前提としていません。
引用OKす。

妄想代理人 視聴 追記

2024-09-14 02:22:29 | 映像作品視聴感想
・妄想代理人を視聴したが、妙なすっきりさ加減がある。
・無論、この映像作品における一般的な評価は真逆だ。結論が出ないし、もやっとしているし、あらゆるところが腑に落ちないし、カタルシスがない。

・で、私は「すっきりした」と言うのは間違いなくある状態なのだが、わざと一般的な論と真逆のことを言って、奇をてらいたいのではない。

・恐らくではあるが、「創作はここまでめちゃくちゃでいいんだ」と言う安堵感、どちらかというと、整然と理論立てて完成するヨーロッパ的な感覚より、雑然とした繁華街でどこまでもごちゃごちゃというのを、(映像面ではなく)脚本面で敢えてそうした手法を取ったことに、「なるほど、アサヒビールがコクとキレのバランスの内、キレに振り切ったスーパードライを販売したように、ある一定の尖った分野に振り切って創出すれば、その飛び道具によってその選手はきわどいプレーヤーになりうるのだ」と言うことを見せたからではないか。

・言わばサスペンスの種の純粋な部分はここですよ(伏線回収はしないけどね)と言うことに振り切ったのがこの作品であったと言える。

通常の作品は、サスペンスやミステリ部分に心捕まれ、そしてその経過に納得し、感動し、最後に結論を得て、溜飲を下げたり腑に落としたりする訳だが、その最初の部分だけを切り取って出した感じはする。

・言わば、飲み屋に行って、お通しからサラダ頼んで刺し身頼んで唐揚げ頼んで鍋頼んで、最後は雑炊かうどんというコンボを決めるのを期待していたら違う種類のお通しを敢えて「うちはお通し屋です」と言う感じで、凝ったお通しをとにか並べたのがこれだったと言える。

・それを私自身が踏まえているのかどうなのか、私自身も分からないのだが、しかしすっきりしている自分がまたここにいるのもまた事実だ。

・今監督は、我々に現実と虚構の融合における映像美を見せようとして、そして我々を混乱させようとした。決して納得や感動を与えたい訳ではなく、純粋な映像の振り出しのみを行ったのである。

・尚、意味有りげなオープニングもエンディングもアイキャッチも意味など全然無かった。完全に視聴者を満足させるような向きではなく、今監督が満足したい作品を今監督が作り上げたかっただけであったことが分かる。


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妄想代理人 視聴

2024-09-14 00:26:52 | 映像作品視聴感想
と言うことで。

・第七話でいきなり作画が変わるの巻。
・全部見た。

・と言うか、あれだ。
・「ビートルズ、手塚治虫、ドラゴンボール現象」が私に起きているように思う。
・言わば、偉大なる原点は、その後のフォロワーが改良しまくるがために、顧みられず評価がされないということである。

・今敏監督のこれは恐らく当時は最先端を走っていた表現だっただろうが、しかしその後の作品がこれらをも急襲して分解した上で一部品として取り込んだ作品が多くなったために、見慣れたものになってしまった、と。

・平沢進の音楽は重厚でこれは現代でも評価できる。
 が、マイナスの面を言っておけば、高いテノールの男性声(かつ、アジアの特徴を前面に押し出した型)は、やはり奇異と異彩を放っているが、スタンダードではない。男性の重層な歌声と、女性の繊細な歌声がミックスされた方が私は好みである。

・あと言うべきことは、これは極めて「実験的」であろうとした作品であるということ。
 以前聞いたのは、つげ義春の「ねじ式」が、敢えて意図的にストーリープロットの関連性や完全性を排除したと聞いたが(なので、物語中、唐突に町中の道路のど真ん中に機関車が出たりする。これは、森見登美彦の「夜は短し歩けよ乙女」でも見られた)、これと同様に、敢えて「つじつまあわせ」と言うものがなく、あるいはストーリーの一貫性が排除されている。

・言うべきことは以上です。
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