本当かどうかは知らないが、昔、上智大学鉄学部の小論文問題として、「この世界が夢でないことを証明せよ」というのが出たと言う。
真偽はともかくとして、これをお題に考えて言ってみよう。
今現実にあるこの世界が夢ではなく、現実であると仮定しよう。
そしてこの世界で眠る際に見る体感現象の夢を考えてみる。
夢の中では、それが夢だとは気付かない。夢に飽きたからそろそろ現実に戻りたいとは思わない。
現実では、今朝方見た夢はこうだったな、と思い出すことができる。現実世界も捉えることができる。
現実と夢、というのは、認識の範囲内の物語と、その区分けの境界のことなのだ。
だから、今、この世が夢という存在であるならば、その外部である、更なる本当の現実が待っているのであれば、それを認識して定義することはできない。
臨死体験の言葉として、「ひとひらの雪が海に舞い落ちる時、雪は解けた瞬間に、自ら自身が海だったことを思い出す」というのがあった(ような気がする)。
これは個が全と融合したり、あるいは欧米での臨死体験事象の経験認識と一致する。個が全に融合するイメージだ。
ひょっとすると、生というのは、その数十万年、数百万年続いてきたDNAの入れ物の、その軌跡の瞬間的発露なのかもしれない。
さて、ここで千と千尋である。
主人公の千尋は名前を奪われ、千として働く。真名を奪われた主人公は自分を定義することができない。外部からそれを教えられて、そこで初めて自分を定義できる。
物語の含みはここで終わると思うが、それでは私から更なる補足を行う。
この物語の更に外部にある辺縁から、更なる真名を教えられた時に、主人公はどうなるか?
真偽はともかくとして、これをお題に考えて言ってみよう。
今現実にあるこの世界が夢ではなく、現実であると仮定しよう。
そしてこの世界で眠る際に見る体感現象の夢を考えてみる。
夢の中では、それが夢だとは気付かない。夢に飽きたからそろそろ現実に戻りたいとは思わない。
現実では、今朝方見た夢はこうだったな、と思い出すことができる。現実世界も捉えることができる。
現実と夢、というのは、認識の範囲内の物語と、その区分けの境界のことなのだ。
だから、今、この世が夢という存在であるならば、その外部である、更なる本当の現実が待っているのであれば、それを認識して定義することはできない。
臨死体験の言葉として、「ひとひらの雪が海に舞い落ちる時、雪は解けた瞬間に、自ら自身が海だったことを思い出す」というのがあった(ような気がする)。
これは個が全と融合したり、あるいは欧米での臨死体験事象の経験認識と一致する。個が全に融合するイメージだ。
ひょっとすると、生というのは、その数十万年、数百万年続いてきたDNAの入れ物の、その軌跡の瞬間的発露なのかもしれない。
さて、ここで千と千尋である。
主人公の千尋は名前を奪われ、千として働く。真名を奪われた主人公は自分を定義することができない。外部からそれを教えられて、そこで初めて自分を定義できる。
物語の含みはここで終わると思うが、それでは私から更なる補足を行う。
この物語の更に外部にある辺縁から、更なる真名を教えられた時に、主人公はどうなるか?