とめどもないことをつらつらと

日々の雑感などを書いて行こうと思います。
草稿に近く、人に読まれる事を前提としていません。
引用OKす。

内部から外部は規定できない(想像することはできる) --千と千尋の神隠しから

2017-01-22 21:41:49 | 哲学・社会
本当かどうかは知らないが、昔、上智大学鉄学部の小論文問題として、「この世界が夢でないことを証明せよ」というのが出たと言う。

真偽はともかくとして、これをお題に考えて言ってみよう。

今現実にあるこの世界が夢ではなく、現実であると仮定しよう。
そしてこの世界で眠る際に見る体感現象の夢を考えてみる。

夢の中では、それが夢だとは気付かない。夢に飽きたからそろそろ現実に戻りたいとは思わない。
現実では、今朝方見た夢はこうだったな、と思い出すことができる。現実世界も捉えることができる。

現実と夢、というのは、認識の範囲内の物語と、その区分けの境界のことなのだ。

だから、今、この世が夢という存在であるならば、その外部である、更なる本当の現実が待っているのであれば、それを認識して定義することはできない。

臨死体験の言葉として、「ひとひらの雪が海に舞い落ちる時、雪は解けた瞬間に、自ら自身が海だったことを思い出す」というのがあった(ような気がする)。
これは個が全と融合したり、あるいは欧米での臨死体験事象の経験認識と一致する。個が全に融合するイメージだ。
ひょっとすると、生というのは、その数十万年、数百万年続いてきたDNAの入れ物の、その軌跡の瞬間的発露なのかもしれない。

さて、ここで千と千尋である。
主人公の千尋は名前を奪われ、千として働く。真名を奪われた主人公は自分を定義することができない。外部からそれを教えられて、そこで初めて自分を定義できる。

物語の含みはここで終わると思うが、それでは私から更なる補足を行う。

この物語の更に外部にある辺縁から、更なる真名を教えられた時に、主人公はどうなるか? 
コメント    この記事についてブログを書く
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする
« ヨコハマ買い出し紀行、外国... | トップ | 風邪と虫歯と肥満とADHD... »
最新の画像もっと見る

コメントを投稿

哲学・社会」カテゴリの最新記事