とめどもないことをつらつらと

日々の雑感などを書いて行こうと思います。
草稿に近く、人に読まれる事を前提としていません。
引用OKす。

山崎製パン「また誰か倒れたのかな」→副社長本社で自殺

2024-05-23 23:57:43 | 労働
「また」とは


山崎製パン「創業家」副社長「謎の急死」の真相 「メンタルが治りきっていないのに出社させられていた」
2024年05月23日
https://www.dailyshincho.jp/article/2024/05231102/?all=1

社長候補と目されていた次男

 度重なる工場での死亡事故、消費期限偽装疑惑、過酷な労働環境……。「週刊新潮」はこれまで4号にわたって、総売り上げ1兆円超を誇るパン業界のガリバー「ヤマザキグループ」の内情について詳しく報じてきた。そして今回は、山崎製パンの中枢で起きていた、ある「不慮の死」を取り上げる。グループを率いる飯島延浩社長(82)の次男で、副社長を務めていた佐知彦氏が亡くなったのは今年1月9日のこと。場所は東京の都心、千代田区岩本町にある山崎製パンの本社だった――。

 1948年に飯島藤十郎氏が設立した山崎製パンは、飯島家が代々社長を務め、現在の延浩氏が3代目である。彼の次男である佐知彦氏は、長男の幹雄氏と共に副社長を務めていたのだが、社長候補と目されていたのは佐知彦氏のほうだった。

 山崎製パンの元社員が明かす。

「元々ヤマザキグループではデイリーヤマザキなどの小売部門が赤字で、長男の幹雄さんが担当していたのですが成果が出ないということで佐知彦さんに代わりました。その後はずっと佐知彦さんが担当していたので、社長は佐知彦さんに期待をかけている、と社内では受け止められていました」

「ぶつぶつぶつぶつ独り言を言っていたり……」

 ところが2021年にデイリーヤマザキ事業は社長直轄となり、22年12月には佐知彦氏と幹雄氏の担当の多くを入れ替える辞令が出され、社内には驚きが広がった。佐知彦氏の受け持っていた生産、食品安全衛生管理、中央研究所の担当は幹雄氏に移り、佐知彦氏の担当は幹雄氏から移った総務のみとなったのだ。

「佐知彦さんが社長にメンタルの不調を訴え、それで担当が代わったと聞いています」

 と、山崎製パンの現役社員はそう話す。

「佐知彦さんがメンタルに不調をきたしていることは、社内ではわりに知られていました。私も年に何回かは本社のエレベーターで一緒になる機会があるのですが、ぶつぶつぶつぶつ独り言を言っていたり、心配になる状態でした。医者からも“しばらく休みべきだ”と出社をストップされていたのに、社長から“会社には出てこい”と言われて出てきていたと聞いています」
副社長の死について社長は…

 そして今年の1月9日を迎える。

「昼前ごろ、(本社に)救急車が来ていました。その時は、また誰か倒れたのかな、と思った程度でしたが、しばらくたっても社内がザワザワしていたので何か事件が起こったんだなと分かりました。出かける予定があるはずの副社長の佐知彦さんがどこにもいない、となって、捜したら12階で亡くなっていたそうです。自殺だと聞いています」(同)

 山崎製パンの取引先の関係者が続ける。

「取引先の間では、佐知彦さんがメンタルに不調をきたしたきっかけは、数年前に油脂価格が高騰した際、社長が激怒して佐知彦さんを執拗に叱責したことだ、といわれています。長男の幹雄さんは叱られ慣れていたけど、佐知彦さんは慣れておらず、メンタルをやられてしまった、と。それが治りきっていないのに社長から出社を促され、亡くなってしまったと聞いています」

 副社長だった佐知彦氏の死の背景に社長からの圧力や叱責があったのではないか――。山崎製パンの広報部門の担当者は、「週刊新潮」の取材に対してこう答えた。

「個人のプライバシーに関する内容についてはお答えできません。質問に書いてあるような内容は、事実と大きく異なっています」

 だが、どこが事実と異なるのかを聞いてもそれには応じない。さらに、この件について社長はどう話しているのかと聞くと、

「これは社長に聞くまでもなく明らかに事実ではないという話です」

 どうやら社長との対話がはばかられるようだ。ガリバー企業を率いる創業家の“闇”は深そうである。


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労働はなぜ嫌なのか

2024-05-23 00:50:24 | 哲学・社会
労働はなぜ嫌なのか、と言うテーマにおいて、他の人の意見も交えて今回は記載する。

労働はなぜ嫌なのか。私が考える作業仮説は次の通りだ。

結論から言えば、自己の内発的行動ではなく、他者からの強制行動だからである。
自分で何かやりたいな、と思う時には制限時間無くそこに没頭していたいものだが、他者からの「これやって」と言う命令にはなるべくそこに負荷をかけたくない。自分が信奉する人物や組織からの命令であるならばまだしも、嫌な人間や納得の行かない組織からの命令であれば、尚更その倦厭感が増していく。

他の方が解説するに、これはマルクスも同じようなことを考えていたとのことだった。
ここからはその人のキリスト教神学・中世哲学の観点からの解説である。
人間が自らの手で自らの生産手段をもって、自分自身や自分が好きな誰かのために生産する、と言うような社会を人間の本能として構成したい時、それが人間にとっての理想像であると言うことができる。

こうした理想像を、昔の人間は神のイメージに委ねた。
〇〇ができたらいいなあ・・・〇〇ができるのが理想だ、〇〇と言うことを実現したい・・・
そうした完全無欠の理想像のイメージを神に投影した。

ただ、資本主義社会になってからは、そうした神のイメージの範疇であった自らの生産手段は、資本家によって奪われてしまった。この「本来あるべき理想とした形を何らかの手によって奪われてしまって、現在の我々から乖離してしまっている状態」を疎外と呼ぶ。

この意味で、マルクスは本来の労働者の手にあるべき生産手段が資本家によって資本側に蓄積されていることを疎外としたということだったが、この意味の延長線、あるいは類義するところに私の意見がある。

私は自分に課される仕事をするならば、それは自分の内発によって然るべきものであるべきであって、決して他者からの強制であってはならない、と言うことだ。

ごく乱暴に言えば、本来自分がやりたいことで人生を歩んでいくべきものが、他者からの強制によって、あたかも奴隷然としてその自己の内発性を発露することなく牛馬や畜産がごとくに人間性を踏襲することなく死んでいくものである。人生とはこうであってはならない。
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