漫画「ダンジョン飯」の最新話で思ったこととそのまとめを書く。
ダンジョン飯71話「シスル4」で、ライオスの話と考え方に違和感があった。
まずこれを書いていこう。
ライオスがシスルと食事をする時に、ライオスは食事の状態と交えて自身のダンジョン内での行動に関する、自身に内在する行動の方針をシスルに解説していく。
簡単に言えば、「暗い気持ちに囚われそうなのを、あえてそれを意図的に忘れ、そして前向きになる」と言うことである。
これのセリフは以下のようなものだ。
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「あんなに苦労して作ったのにまずいな」塩辛い えぐい 臭い
「そういう時もある」
「同じ食材でも状況によって色んな味になる 試行錯誤するのも楽しいんだ
迷宮を彷徨っていると時折暗い気持ちに支配される
だけど食事の時間は忘れられた
というより考える暇がなかった
それって基本的に食事は前向きな行為だからだと思う」
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私の視座から見れば、これは正しくもあり、それと同時に間違ってもいるように見える。
仮に森の中を彷徨っていて、飢えたオオカミが自分を狙っている時、その時にはどうすべきだろうか?
そう、逃げるか戦うかなのであるのだが、勝てない時には逃げるのが正しく、勝てる時には戦うのが正しい。
オオカミの時にはそれが正しいが、それが「人間の心を襲う暗い気持ち」だったら?
上記のライオスの意見観点からすれば、「暗い気持ちには向き合わず、つきあわず、考えず、そこからあえて脱出し、別のことを考える」となる。
一方で私はそうした暗い気持ちと常につきあってきた感じがする。そうすると対策が見つかる。
その対策をここで書けば、他の人も気が楽になるではないかと。
例えば誰でも死と言う不幸から逃れることはできないが、しかし、それを緩和するために宗教は色々なことを人に想定上の仮説として死後の世界はこうであると提唱してきた。
曰く、天国か地獄に行く、曰く、輪廻転生で別の動物に生まれ変わる、曰く裁きの時を経て復活する・・・他にも様々にあるだろう。
私が個人的に考えるに、それは「生まれる前に戻る」と言うものだ。
そう考えれば「ああ、なるほどな」とストンと理解してくれる人もいるだろう。
我々は生まれる前には存在しなかった意識や魂が、原点以前の存在へと回帰するのである。
魚が水面ではねている瞬間だけ魚がいるのだと認識できるように、跳ねる前と跳ねる後では魚は水面下をDNAの形式で泳いでいる。それが跳ねた瞬間に個の生命として現出しているだけなのだ、と。
もし死と言う恐怖の概念と戦わなければ(つまりライオス式に逃げていれば)、それは永遠にやすらぎが来ずに、それを得られぬままに生が終わってしまいかねない。
よってどこかで戦うか、戦った人のノウハウを手に入れる必要が、個々の人間には課題として残る。
一方で死と言う恐怖の概念と戦うのは本当にしんどい作業だ。
ややもすると、その作業の最中で発狂したり、あるいは死んでしまったりしまいかねない。
だからライオス式に暫定的にかつ前向きに逃げると言うのも一つの手ではあるし、それが人間として健全な行動でもあるように思う(これはアランの幸福論かなとも思う)。
ただ、今回のダンジョン飯で引っかかったのは、「暗い気持ちを捨てて料理を作り飯を食うと言うのは、前向きで良いことだ」と一義的に定義されていたことだ。
確かに暗い気持ちを抱えっぱなしで陰鬱になっているのは人間として健全ではない。
一方で、その暗い気持ちを哲理的に整理したり、あるいは知体系としてどうであるのかという解析をして理解をすることもまた間違いではなく、むしろ人間の根源としてはそれをすべきであろうという私からの解説も、このダンジョン飯と言うストーリーに補足しておきたい。
暫定的には暗い気持ちを捨てて前向きに人生を送る(ライオス的な)姿勢は間違いではない。
一方で、根源的には暗い気持ちに向き合って、それをどう捉えるべきかという考えを突き詰める(と言う私の姿勢)のも、人間にとってやるべきことではないかと私自身は考える。