映像作品は良かれ悪しかれ、鑑賞する人を楽しませるためにやっているのであって、理的知的に啓蒙する映像作品はほんのひと握りだ。
エンターテイメントとして楽しませるための、そして楽しむために映像作品は存在する。
そして対価として金銭を支払うのは鑑賞側である我々の理性による判断であって、それは消費主義による資本が行う大衆への準強制的な扇動であるべきではないし、
大衆をある程度楽しませる映像作品であるならばまだしも、大衆に消費させるべくそれが目的で作り出した映像作品には、作りて側の金儲け以上の意味がない。だから、それにお付き合いさせて頂く必要など全く無いと言うのが映像作品に対して接する際の健全な態度だろう。
資本主義の歴史 起源・拡大・現在 ユルゲン・コッカ P131
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一九五〇年代以降における消費資本主義の急速な発展。(中略)人を惹きつける販売戦略や絶え間ない需要の喚起、信用供与の誘惑により、人々が自身の収入以上の生活をする傾向が煽られた。
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これは映画産業・映像産業にも言える。
とにかく作り手側は資本産業側なので、あの手この手で購入・消費をさせようとさせて来る。それが資本主義社会での正義だ。
一方、収入以上の生活をすれば当然ながら身を持ち崩す。収入以上の生活をすることは義務ではなく、むしろいの一番に避けるべき状態だろう。ここでよくある反論が「収入以上に支出を重ねて、借金をして大成した人もいる」と言うものだろう。
私が思うに疑問が4つある。一つは、映像関連の鑑賞をそうすることによってそうなった人はいるのか、一つはその比率は一般論で言えるほどマジョリティの人口比率なのか、そして一つは当該作品を鑑賞することによって大成する可能性はどれくらいであり、最後の一つは反論を言う人間がそれを保証できるのかということである。
はっきり言えば、収入以上の予算での映像関連を視聴することは可能であって、むしろ容易な部類に入る。
しかし、それであるからこそ、容易であるからこそ「価値がない」。
むしろ自身の価値向上を目指すならば、「安いものを大量に浴びるか」もしくは「高価なものを大事にして繰り返し使用するか」のどちらかだろう。
エンターテイメントとして楽しませるための、そして楽しむために映像作品は存在する。
そして対価として金銭を支払うのは鑑賞側である我々の理性による判断であって、それは消費主義による資本が行う大衆への準強制的な扇動であるべきではないし、
大衆をある程度楽しませる映像作品であるならばまだしも、大衆に消費させるべくそれが目的で作り出した映像作品には、作りて側の金儲け以上の意味がない。だから、それにお付き合いさせて頂く必要など全く無いと言うのが映像作品に対して接する際の健全な態度だろう。
資本主義の歴史 起源・拡大・現在 ユルゲン・コッカ P131
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一九五〇年代以降における消費資本主義の急速な発展。(中略)人を惹きつける販売戦略や絶え間ない需要の喚起、信用供与の誘惑により、人々が自身の収入以上の生活をする傾向が煽られた。
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これは映画産業・映像産業にも言える。
とにかく作り手側は資本産業側なので、あの手この手で購入・消費をさせようとさせて来る。それが資本主義社会での正義だ。
一方、収入以上の生活をすれば当然ながら身を持ち崩す。収入以上の生活をすることは義務ではなく、むしろいの一番に避けるべき状態だろう。ここでよくある反論が「収入以上に支出を重ねて、借金をして大成した人もいる」と言うものだろう。
私が思うに疑問が4つある。一つは、映像関連の鑑賞をそうすることによってそうなった人はいるのか、一つはその比率は一般論で言えるほどマジョリティの人口比率なのか、そして一つは当該作品を鑑賞することによって大成する可能性はどれくらいであり、最後の一つは反論を言う人間がそれを保証できるのかということである。
はっきり言えば、収入以上の予算での映像関連を視聴することは可能であって、むしろ容易な部類に入る。
しかし、それであるからこそ、容易であるからこそ「価値がない」。
むしろ自身の価値向上を目指すならば、「安いものを大量に浴びるか」もしくは「高価なものを大事にして繰り返し使用するか」のどちらかだろう。