私は世間でヒットしているものの作品の内、面白さを理解できないものが沢山ある。
要は人それぞれに面白いと思うところがあって、嗜好対象の棲み分けが出来ている、と言うことであるように思う。
おおよそマジョリティの支持を得ている作品は、おおよそ私の心にヒットしない。
アニメや漫画で言えば、ワンピースは読まないし、サザエさんのアニメは見ていない(漫画は本当ページの端がボロボロになるほど何回も読んだが、それが故に変に改変するアニメ版が許せない)、エヴァンゲリオンも昔は面白いと思ったが何回も映画上映をされている最中に途中で飽きた。
こち亀もジャックナイフスペシャルで自転車止めたシーンだけ笑ったけれども本当それだけ。
地面にビール撒く会は正直笑わんかったのです(すまん)。。。
キン肉マンも今振り返れば正直よく分からんかった・・・
どうにも、「皆が面白いと思っているから、その面白さの判定の基準を皆の方に併せて、自分の判定基準もそれに依拠しよう」みたいなことが、かなり奇妙で忌避感を覚えるのです。
自分の好みでさえも自分で判断できないような、ある種軽度の知的障害みたいな人間であることを忌避し、私は誰が何と言おうと「これって本当に面白い作品なのか?」と疑うようにしているのです。
(そこで真に自分が面白いと思ったものだけを面白いと言うようにしている)。
ただ、この意見は、好意的なものであればまだいいのだが、そうでない作品に対する意見に関しては外に出すとトゲやカドが立って大変なことになるので、大抵ファンと接する時には自分の心情に嘘をついて「面白いですね」だとか「流行ってますね」と言う程度で収めておく(まあ大体の人がそうだと思うけれども)。
これが音楽においても同じことが言える。
私は音楽グループの「ゆず」の歌を聞かない。
簡単に言えば私の心にヒットしないからなのだが、もう少しその内訳を書いてみると、歌詞が表層的な説明になっているものが多すぎるのと、メロディーが心を抉らずに単調で終わっているものが多いためだ。
例えば、夏色などは主観的視座による表層的表現の内容が歌詞になっているが、これを俳句のように情景と組み合わせたりする手法がなく、客観性のある全体像やそこの空間に含まれる心情の増幅や想起がなく、あるいは神の目による全体としてのストーリーの視点や展開がない、溢れ出る情熱や深淵からいずる思想がないなど・・・
私は文化面でマムシ酒や泡盛のようなガッツンガッツン来る作品を欲しているのだが、ここにあるのはレモンサワーのような軽く酔えて軽く用意できるものである。
ただ、そうしたゆずのような作品を聞くことは無いにしても、私はゆずを聞いている人のことは「好き」か「嫌い」かの箱のどちらに入れるかで言えば、まあ割りかし好きの方の箱に入れる
ワンピースを読んでいる人もそうであるし、こち亀を読んでいる人もそうだ。
きっとあそこには私が飲めない種類の酒があって、皆がそれで楽しんでいるのだろう。
私は楽しんでいる人を見るのが好きだ。
ただその輪に入れないことについて、少し悲しくなったりもするが、それ以外のところで色々と話はできるので、それらの人たちと気兼ねなく接することができる。