外国人が、日本のことをネットでコメントするのを見るに、日本のことをよく観察しているように見える。
日本の言語関係では日本人が気づかない「当たり前」のことを性格に分析しているので面白い。
そのうちの一つに、「導入概念」の年次の新しさの分析がある。
日本で使用される文字体系の内、漢字が使われているものが一番古く、ついでひらがな、そして外来語で新規に導入されたものはカタカナで使う、と言うものだ。
これに私の意見を踏み込んで付け加えれば、漢字で使用されればされるほど正式なものであり、日本人の心に通底する日本人意識を形成しており、ひらがなは軽くて扱いやすく、流されやすく、そしてカタカナは外来のもので古来から定着している風習や風土、文化とは言えないが、まあそこそこ日本っぽい、と言うものである。
簡単に例を出せば、食事で礼節を保つならば「寿司」や「懐石」が良く、「蕎麦」「饂飩」はまあそこそこかという感じで、「カレー」「ラーメン」「スパゲッティ」「ピザ」はまあ日本ぽくアレンジされているけれども、日本人のソウルフードになっているかというと若干違うような感じだ。
こうした面で少し見てみる。
かつて福沢諭吉が洋書の訳をしていて「コンペティション」に当たる日本語が無いので、「競争」と言う言葉を当てたのだが、これが日本風土の気質に合わぬなどで、少し上から嗜めを受けたようだ。
「福翁自伝」(福沢諭吉) 王政維新より
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私(福沢諭吉)がチェーンバーの経済論を一冊持っていて、(中略)今で申せば大蔵省中の重要職にいる人にその経済書の事を語ると、(中略)ぜひ見たいと所望するから、早速翻訳するうちに、コンペチションという言語に出遭い、色々考えた末、競争という訳字を造り出してこれに当てはめ、(中略)これを見せたところが、(中略)「イヤここに争という字がある、ドウもこれが穏やかでない、ドンナ事であるか」「どんな事ッてこれには何も珍しいことはない、日本の商人のしている通り、隣でものを安く売ると言えばこっちの店ではソレよりも安くしよう、(中略)互いに競い争うて、ソレでもってちゃんと物価も決まれば金利もきまる、これを名づけて競争というのでござる」「成程、そうか、西洋の流儀はキツイものだね」「何もキツイ事はない、ソレですべて商売世界の大本が定まるのである」「成程、そういえば分からないことはないが、なにぶんドウモ争いという文字が穏やかならぬ。これはドウモ御老中方へごらんに入れることが出来ない」と、妙な事をいうその様子を見るに、経済書中に人間互いに相譲るとかいうような文字が見たいのであろう。
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と言うことで、元々欧米にある外来の言語中に存在するポジティブな意味、社会的な功利性の意味が日本語に変換されておらず、そしてそれが日本人の意識の中に通底していない。
これがおそらく、「チャレンジ」と言う意味でも変換されていないように思われる。
「チャレンジ」は日本語で「挑戦」と訳される。
それは高い標高への登山の場合でも使われるが、それと同時に「自分は犬が怖いけれども、この大きな犬はおとなしく、訓練されているので、この犬の頭をなでてみよう」と言うような、ちょっとした課題を克服するシーンでも使われるように思われるのだが、いかがか(個人的にはトライの場合は、そこからもっと低いような感覚)。
そうした場合、日本語の語感で「チャレンジ」と言えば、「高い標高への登山の場合」にしか使われず、どうも軽い感じで使われないように思うのである。
そしてやっと本題である。
それと同時に、日本語の「チャレンジ」あるいは「挑戦」は、高い崇高の目標の達成に利益を求めてはならず、私心をもってはならず、欲望を持ってはならず、自己への返報を期待してはならずといった、求道的克己心を伴った、ある種の修行を想像するのだが、しかし欧米での使われ方というのは、その能動的行動を称賛し、自己への正当な見返りを持つことを軽く、それでいてかつきっちりと確保し、見返りを求める行為とその見返りが与えられた結果を称賛していという社会的背景とその思想が全く異なるように思われるのである。
日本の言語関係では日本人が気づかない「当たり前」のことを性格に分析しているので面白い。
そのうちの一つに、「導入概念」の年次の新しさの分析がある。
日本で使用される文字体系の内、漢字が使われているものが一番古く、ついでひらがな、そして外来語で新規に導入されたものはカタカナで使う、と言うものだ。
これに私の意見を踏み込んで付け加えれば、漢字で使用されればされるほど正式なものであり、日本人の心に通底する日本人意識を形成しており、ひらがなは軽くて扱いやすく、流されやすく、そしてカタカナは外来のもので古来から定着している風習や風土、文化とは言えないが、まあそこそこ日本っぽい、と言うものである。
簡単に例を出せば、食事で礼節を保つならば「寿司」や「懐石」が良く、「蕎麦」「饂飩」はまあそこそこかという感じで、「カレー」「ラーメン」「スパゲッティ」「ピザ」はまあ日本ぽくアレンジされているけれども、日本人のソウルフードになっているかというと若干違うような感じだ。
こうした面で少し見てみる。
かつて福沢諭吉が洋書の訳をしていて「コンペティション」に当たる日本語が無いので、「競争」と言う言葉を当てたのだが、これが日本風土の気質に合わぬなどで、少し上から嗜めを受けたようだ。
「福翁自伝」(福沢諭吉) 王政維新より
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私(福沢諭吉)がチェーンバーの経済論を一冊持っていて、(中略)今で申せば大蔵省中の重要職にいる人にその経済書の事を語ると、(中略)ぜひ見たいと所望するから、早速翻訳するうちに、コンペチションという言語に出遭い、色々考えた末、競争という訳字を造り出してこれに当てはめ、(中略)これを見せたところが、(中略)「イヤここに争という字がある、ドウもこれが穏やかでない、ドンナ事であるか」「どんな事ッてこれには何も珍しいことはない、日本の商人のしている通り、隣でものを安く売ると言えばこっちの店ではソレよりも安くしよう、(中略)互いに競い争うて、ソレでもってちゃんと物価も決まれば金利もきまる、これを名づけて競争というのでござる」「成程、そうか、西洋の流儀はキツイものだね」「何もキツイ事はない、ソレですべて商売世界の大本が定まるのである」「成程、そういえば分からないことはないが、なにぶんドウモ争いという文字が穏やかならぬ。これはドウモ御老中方へごらんに入れることが出来ない」と、妙な事をいうその様子を見るに、経済書中に人間互いに相譲るとかいうような文字が見たいのであろう。
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と言うことで、元々欧米にある外来の言語中に存在するポジティブな意味、社会的な功利性の意味が日本語に変換されておらず、そしてそれが日本人の意識の中に通底していない。
これがおそらく、「チャレンジ」と言う意味でも変換されていないように思われる。
「チャレンジ」は日本語で「挑戦」と訳される。
それは高い標高への登山の場合でも使われるが、それと同時に「自分は犬が怖いけれども、この大きな犬はおとなしく、訓練されているので、この犬の頭をなでてみよう」と言うような、ちょっとした課題を克服するシーンでも使われるように思われるのだが、いかがか(個人的にはトライの場合は、そこからもっと低いような感覚)。
そうした場合、日本語の語感で「チャレンジ」と言えば、「高い標高への登山の場合」にしか使われず、どうも軽い感じで使われないように思うのである。
そしてやっと本題である。
それと同時に、日本語の「チャレンジ」あるいは「挑戦」は、高い崇高の目標の達成に利益を求めてはならず、私心をもってはならず、欲望を持ってはならず、自己への返報を期待してはならずといった、求道的克己心を伴った、ある種の修行を想像するのだが、しかし欧米での使われ方というのは、その能動的行動を称賛し、自己への正当な見返りを持つことを軽く、それでいてかつきっちりと確保し、見返りを求める行為とその見返りが与えられた結果を称賛していという社会的背景とその思想が全く異なるように思われるのである。