私は疲れている。しかし一旦潰れてからもう10年になるが、しかしその間徐々に回復をしてきた。
今もその回復のペースは落としたくない。なので、仕事はなるべく苛烈にならないように気をつけている。
(なので休日の仕事はお断りした。)
その一方で、飲み会には極力行くようにしている。
仕事を断っているのに飲み会には行っていいものなのか? それはモラル的に許されるものなのか?
答えはイエス。むしろそうした方がいい。
なぜかというと、自分が死ぬ間際のことを想像して欲しい。
自分が死ぬ間際、ベッドに縛り付けられ身動きできず、意識も朦朧に記憶も思考もままならない中、あれをやっておけばよかった、これをやってはいけなかったと、今までの人生の反省と解雇がせわしなく駆け巡る。
そうした幸せの噛み締めとやらなかったことの後悔、逆にやってしまったことへの後悔の棚卸しの時に、その瞬間瞬間のことをどう思うだろうか。
時間を巻き戻し、死の間際ではなく、ある程度自由になる今の時間を思えば、人生にとって、人間にとって、本当は何をすべきなのか、本当は何をすべきではないのかということをよくよく考えるべきなのではないのか。
そうした時、仕事は断り、そして飲み会にはなるべく行く、と言う選択肢もアリかナシかで言うと全くもってアリの範疇なのだ。
・ー・ー・ー・ー・ー・ー・ー・ー・ー・
さて、その飲み会であるが、その飲み会そのものは私は嫌いだ。
何故かと言うと酒が飲めない、タバコも吸えない、と来て、帰りは副流煙で肺が痛くなるし、帰りが遅くなったら寝床につくのも遅くなって体力が回復できなくなる。
そういう状況なのになぜ飲み会に出席するのか。
功利的な意味合いとしては、他の世界のことをよりよく知ることができるし、互いの状況をよりよく知ることができる。
しかしそれが本当の飲み会の意味ではない。
飲み会の本当の意味は、人が人に会うことが幸せであるからだ。人にとって人とは幸せなのである。
その第一義を人生において大切にするため、そこで例え会話がなくとも、会話がつまらなくとも、全く喋れなくとも、そこにいる意義はある。それが幸せだからである。死の間際のみにおそらくそれを感じることができる。
それを本義として、その副作用のような功利的意味合いがおまけでついてくる。
例えば他の人の状況を知ったり、あるいは自分に有用な情報を得たりと様々だ。
以下は余談である。
私の場合は、先日12/13にわずか三人だったが飲みに行った。
風俗が立ち並ぶビルを通り、パチンコ屋の5Fにその飲み屋があった。
名前からすると、イベント系の飲み屋っぽいイメージがあったが、行ったら普通の居酒屋で、行った三人は文句ブーブーであった。
一人は人に気を使えるすごく性格のいい奴だ。
もう一人もものすごく性格のいい仲間だ。
そんな中、周りは誰々が結婚したり、子供がどうでと言うような話になって、全く私のいる領域と異なる話が出てくる。
まず彼らはテレビを見ている。そして芸能界もそこそこ詳しい。
私にしてみれば、書籍の内容でどうだこうだと話していた方が面白いが、しかしこういう話題は新鮮だ。
また、ネットでブーブー言われている東京オリンピックのボランティアであるが、この内の一人はボランティアをしてみようかと言う話をしていた。
本当のこの人は、ものすごく「ド」がつくど真面目な人で、今回のオリンピックボランティアも、無給でいいから、自分で交通費を出していいから、人のためになることをやりたいという話でそれを希望していた。
(そうした善良な人を利用している上層も全くどうかと思うが、改善はされないだろう。)
本人的には全く安定した職種で、給料もいいし、地位もあるから、もう下心なんていうものはなく、本当に純粋に希望しているのである。
搾取する運営と純粋な現場と言う構造を通してみると、本当に運営側はひどいとしか言いようがないが、私はボランティアをされる方の気持ちは応援したい。
話も終わってじゃあ帰るか、と言う時に割り勘になったが、私が気持ち少なくなってしまった。
私自身が世間的に見て薄給と言うのもあって、それを察したのか、二人とも「いい、いい」と言って私に払わせなかった。余計な気を使わせてしまった。申し訳なく思う。
「俺らは酒を飲んだけど、〇〇は飲まなかったから」と言うのが理由だったのだが、いや、自分は結構料理食べたのだから、世間の通義的には私も相応に払うべきだったのだ。
今もその回復のペースは落としたくない。なので、仕事はなるべく苛烈にならないように気をつけている。
(なので休日の仕事はお断りした。)
その一方で、飲み会には極力行くようにしている。
仕事を断っているのに飲み会には行っていいものなのか? それはモラル的に許されるものなのか?
答えはイエス。むしろそうした方がいい。
なぜかというと、自分が死ぬ間際のことを想像して欲しい。
自分が死ぬ間際、ベッドに縛り付けられ身動きできず、意識も朦朧に記憶も思考もままならない中、あれをやっておけばよかった、これをやってはいけなかったと、今までの人生の反省と解雇がせわしなく駆け巡る。
そうした幸せの噛み締めとやらなかったことの後悔、逆にやってしまったことへの後悔の棚卸しの時に、その瞬間瞬間のことをどう思うだろうか。
時間を巻き戻し、死の間際ではなく、ある程度自由になる今の時間を思えば、人生にとって、人間にとって、本当は何をすべきなのか、本当は何をすべきではないのかということをよくよく考えるべきなのではないのか。
そうした時、仕事は断り、そして飲み会にはなるべく行く、と言う選択肢もアリかナシかで言うと全くもってアリの範疇なのだ。
・ー・ー・ー・ー・ー・ー・ー・ー・ー・
さて、その飲み会であるが、その飲み会そのものは私は嫌いだ。
何故かと言うと酒が飲めない、タバコも吸えない、と来て、帰りは副流煙で肺が痛くなるし、帰りが遅くなったら寝床につくのも遅くなって体力が回復できなくなる。
そういう状況なのになぜ飲み会に出席するのか。
功利的な意味合いとしては、他の世界のことをよりよく知ることができるし、互いの状況をよりよく知ることができる。
しかしそれが本当の飲み会の意味ではない。
飲み会の本当の意味は、人が人に会うことが幸せであるからだ。人にとって人とは幸せなのである。
その第一義を人生において大切にするため、そこで例え会話がなくとも、会話がつまらなくとも、全く喋れなくとも、そこにいる意義はある。それが幸せだからである。死の間際のみにおそらくそれを感じることができる。
それを本義として、その副作用のような功利的意味合いがおまけでついてくる。
例えば他の人の状況を知ったり、あるいは自分に有用な情報を得たりと様々だ。
以下は余談である。
私の場合は、先日12/13にわずか三人だったが飲みに行った。
風俗が立ち並ぶビルを通り、パチンコ屋の5Fにその飲み屋があった。
名前からすると、イベント系の飲み屋っぽいイメージがあったが、行ったら普通の居酒屋で、行った三人は文句ブーブーであった。
一人は人に気を使えるすごく性格のいい奴だ。
もう一人もものすごく性格のいい仲間だ。
そんな中、周りは誰々が結婚したり、子供がどうでと言うような話になって、全く私のいる領域と異なる話が出てくる。
まず彼らはテレビを見ている。そして芸能界もそこそこ詳しい。
私にしてみれば、書籍の内容でどうだこうだと話していた方が面白いが、しかしこういう話題は新鮮だ。
また、ネットでブーブー言われている東京オリンピックのボランティアであるが、この内の一人はボランティアをしてみようかと言う話をしていた。
本当のこの人は、ものすごく「ド」がつくど真面目な人で、今回のオリンピックボランティアも、無給でいいから、自分で交通費を出していいから、人のためになることをやりたいという話でそれを希望していた。
(そうした善良な人を利用している上層も全くどうかと思うが、改善はされないだろう。)
本人的には全く安定した職種で、給料もいいし、地位もあるから、もう下心なんていうものはなく、本当に純粋に希望しているのである。
搾取する運営と純粋な現場と言う構造を通してみると、本当に運営側はひどいとしか言いようがないが、私はボランティアをされる方の気持ちは応援したい。
話も終わってじゃあ帰るか、と言う時に割り勘になったが、私が気持ち少なくなってしまった。
私自身が世間的に見て薄給と言うのもあって、それを察したのか、二人とも「いい、いい」と言って私に払わせなかった。余計な気を使わせてしまった。申し訳なく思う。
「俺らは酒を飲んだけど、〇〇は飲まなかったから」と言うのが理由だったのだが、いや、自分は結構料理食べたのだから、世間の通義的には私も相応に払うべきだったのだ。