とめどもないことをつらつらと

日々の雑感などを書いて行こうと思います。
草稿に近く、人に読まれる事を前提としていません。
引用OKす。

ゴルゴ13、一生遊べるカネがあっても働き続ける理由

2018-12-02 23:06:42 | 労働

ゴルゴ13、一生遊べるカネがあっても働き続ける理由
2018.11.30 16:00
https://www.news-postseven.com/archives/20181130_804514.html

 なぜゴルゴは一生遊ぶカネを蓄えているのに、働き続けるのか。元外務省主任分析官の佐藤優氏と、『ゴルゴ13』作者さいとう・たかを氏が、「ゴルゴ(通称G)のインテリジェンス」を読み解く短期集中連載。最終回は、人間関係を築く上でいちばん大事なことを語り合う。

 * * *
佐藤:先生とゴルゴの共通する部分でいえば、“約束”に対する態度もそうかもしれませんね。ゴルゴはお金を稼ぐために働いているわけでもない。

さいとう:とうに一生遊んで暮らせるカネは蓄えているからね(笑)。

佐藤:セックスも好きなようですが、色欲で行動を変えるわけでもない。殺すことが好きなサイコパスでもない。ではなぜ、ゴルゴがスナイパーを続けるかといえば、そのモチベーション維持には「約束を守る」ということがあるように思うんです。ゴルゴは異常と言ってもいいほど、約束を守ることに固執しますよね?

さいとう:これは、私自身が「はみ出し者」であることも影響していると思う。中学3年の時の担任に「東郷」という先生がいましてね。これまで私は、テストになんか意味がないと思い、ずっと白紙で提出していました。ところが東郷先生が白紙の答案用紙を持ってきて、私の机の上に置くと、こう言ったんです。

「白紙で出すのは君の意思だからかまわない。しかし、答案用紙を出すのは君の義務だから、その証明として名前を書きなさい」

 ショックでしたね。ああ、約束事とはこういうことなんだと。それから私は人間の約束と責任を考えるようになりました。この先生の名前を借りて、ゴルゴは「デューク東郷」という名にしたんです。

佐藤:ゴルゴの名はそこから来ていたんですか! でもこの体験は本当に大きかったのですね。私が作品を通じて感じていたのは、実は「人間の信頼」だったんです。古代ローマの根本概念でもある「ローマ法」の基本概念に、「合意は拘束する」という話があるんです。現在の国際法の大原則にもなっているのですが、「約束したことは絶対に守る」ということです。ゴルゴは約束を違えません。ゆえに依頼者との間で「人間の信頼」が保たれる。ゴルゴは、命中率も100%ですが、約束遂行率も100%です。

◆『ゴルゴ13』とキリスト教の終末遅延

さいとう:約束を違えないというのは、私の信念でもあるんです。原稿を落とさない、というのもそう。締め切りは仕事上の約束だからです。約束を守ることが、人間関係で最も大事だと思っているんです。

佐藤:そう見ていくと、ゴルゴが仕事を断る時は「約束を守れない」ことがわかっている時だけです。あらかじめ、できない仕事は引き受けない。信頼関係のない相手や、嘘をついている依頼も断ります。ゴルゴの「約束」が、人との信頼関係で成り立っているからですね。

さいとう:こうして『ゴルゴ13』の連載を続けているのも、読者に対して私が勝手に「面白い作品を届ける」と約束してしまったからかもしれない。読者の声をそう受け取ってしまった。だから引退はしません! 引退というのは、人生の舞台から降りるということ。本来、人間にとっての引退は死ぬことでしかない。

佐藤:もし描きたくなくなったら、それは引退じゃなくて休職というわけですね。

さいとう:わしは休職もしませんよ(笑)。勝手に引退して、そのあとすることがなくなって不安を増大させるよりは、「やれる間はやる」と覚悟を決めて、進んでいけばいい。これはサラリーマンでもなんでもそうでしょう。やりたいようにやればいい。

佐藤:私は『ゴルゴ13』を読み直して、「聖書」を想起しました。聖書の冒頭は、「創世記」。神の天地創造から始まります。これは皆知っていると思うのですが、聖書のラストがどうなっているのか意外と知られていません。最後の「ヨハネの黙示録」で、イエス・キリストは「わたしはすぐに来る」という言葉を残して天に昇っていきます。

 でも何年待っても戻ってこない。イエス・キリストが死んだのは紀元30年頃ですが、それから2000年も経つのに、一向に戻ってこない。このことを神学の専門用語で「終末遅延」というのですが、ゴルゴにも終末遅延が起きている(笑)。といっても『ゴルゴ13』はまだ50年です。まだまだ続けていただかないと。

※佐藤優、さいとう・たかを・著/『ゴルゴ13×佐藤優 Gのインテリジェンス』より


>わしは休職もしませんよ(笑)。勝手に引退して、そのあとすることがなくなって不安を増大させるよりは、「やれる間はやる」と覚悟を決めて、進んでいけばいい。これはサラリーマンでもなんでもそうでしょう。やりたいようにやればいい。

この辺りはこうした仕事っぷりに本当に憧れる。
と言うか私は無限に突き進んでいけるほどの体力が無く、その意味で才能が無かった。
自分の体を動かせない自分と言う現実を直視せねばならない。

するとどうすべきなのか。
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人の壊れるイラストを見て思うこと

2018-12-02 23:03:05 | 労働

海外「日本人が描く物哀しいイラストが強烈で考えさせられる」 : 海外の万国反応記@海外の反応
http://www.all-nationz.com/archives/1073101740.html


同じ画像を見て自分と異なる意見になるのが面白かったよ


見る人によって感想が異なるイラストのようだ。

私から見ると次のような意見になる。

まず、このイラストは人が人として行きていけない社会病理が存在し、
自分自身の身体的健康・精神的健康を自分自身で防御・修復しなければ行きていけない社会になっている。

ここまで現代社会に殺されたこのイラストの登場人物はどうするだろうか? 
壊れたままか? それとも自己を修復したあとに何かをするのか? 

人間には返報性と言うものがある。
恩義を受けたらその恩を返し、攻撃されたら攻撃し返すと言う心理性だ。

それでは社会に攻撃され、自己が破壊された場合は、人間はどのような行動に出るのだろうか? 

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老齢生活や治療における苦しみを医学面、工業技術面から除去する / 老齢の社会貢献

2018-12-02 20:42:25 | 哲学・学術・教育
老齢生活や治療における苦しみを医学面から除去する提案を行う。

これは末期医療でのモルヒネのことではない。

胃に胃ろうを作るのは解決策の一つではあるが完全ではない。

スパゲッティのようなチューブに対してその不自由性を取り除くことはできないだろうか、あるいは痴呆患者がベッドに縛り付けられて自由な行動を取れないことに対して自由にできないものかと言う思案である。

あるいは老齢になると、次のような症状が発生する。
・思うように体が動かない
・排泄のコントロールが効かない
・集中力が持続しない。
・理解力が追いつかない。
・思考能力の維持がうまくいかない
・指先や関節の痛みなど
・目がよく見えない。
・耳が聞こえなくなる。
・つまづきやすさ、骨折のしやすさ
・周囲へのヘルプのしやすさ

本来であればこういう症状が徐々に出てくるから、若い人からのサポートを得られる社会にせねばならないのだが、今の日本社会はその逆を行き、老齢人口に対して労働の間口を広げようとしている。
確かに老齢になると、給料はそんなに高くなくても良いので、社会貢献をしたいという意識が生まれるが、一方で現実的に社会へ貢献できるというとその力が十分なレベルで発揮できなくなるリアルがあるのだ。
よって、社会の全体的に前線に立つのではなく、補助に回るか、完全に食わせてもらうかした方がトータルで良いこともあるのだ。

上記の最後2つは社会のサポートのことであるので、これは老齢人口との共生を図る社会学、および行政が対応せねばならないが、他のものに対しては医療、または工業技術から除去できないか、と社会課題を形而上的に立案したい。

具体的解決策を挙げてみよう。

マイルハ・ソネジ: パーキンソン病患者の生活を助けるシンプルなワザ | TED Talk
https://www.ted.com/talks/mileha_soneji_simple_hacks_for_life_with_parkinson_s?language=ja


この他、ルーペや補聴器もそうであるが、一方で、それでは眼球や鼓膜、あるいはそれを受け取る脳機能の部位をiPS細胞で部品交換のように交換できないものか、と考えている。

一番簡単なのは肝臓の交換ではないかなと思っている。

また、老齢の方の社会貢献としては、私から提案できるのは、できるだけ昔の社会を語って頂き、それをYoutubeにアップするなり、あるいはブログに書いたり、あるいは掲示板に書いたり、あるいは小数部の書籍の出版でも良いのでそれを書いて頂くことにほかならない。

知体系の蓄積と言うのは、まだ体系化と言う状態にこそされないものの、良いこと、悪いことのお話は必ず日本の社会の力になる。

例えば、戦争の手記からでは旧日本軍はどうしていただとか、現地民に優しくする一方、現地収奪もしていただとか、軍靴がほつれやすく、外国製ミシンで作った軍靴の方が質が良かっただとか、戦争以外のこともあるとなお良い。

昨今のいわゆる”徴用工”問題であるが、私が思い出すのは、当時の日本は戦時中の人手が全く足らなくなった時代の写真である。
その当時の新聞の写真には、炭鉱か何か洞窟に入って力仕事をしている女性(おそらく日本人)が写っており、その女性は暑さのあまりか、上半身裸になって、乳房もあらわにして作業をしていた写真であった。
当時の文脈的には、「女性も鉱山などので肉体労働で報国」と言うようなニュアンスであったように思う。
この新聞を探せば当時の詳細が分かるだろう。

こうした事実は現代のいわゆる”徴用工”問題に対する反論に全くなっていないのだが、こうした小粒の事実を一つ一つ積み上げていって全体像が見えた時に、有効な知体系が見えてくることになるだろう。
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職場を辞めていく人たち

2018-12-02 18:29:46 | 会社での出来事
職場を辞めていく人たちがいる。
私は日本の会社においては「ここに骨を埋めます」的なことを建前でも言わなければいけないような風土があるものだと勝手に思っていたので、バンバン辞めていく人たちのその人数的ペースに心配になる。

雇用が流動的であることはいいことだと思うのだが、彼ら・彼女らは大丈夫だろうか? と私の立場が底辺なのにも関わらず、少しだけ心配する。
NTTや日立では離職・転職が少ないとは聞いてはいるが、今の環境ではとにかく人がバンバンどこかに行ってしまう。
(部下が辞めた場合その上長の査定が下がるらしく、丁度人事異動の端境期辺りで辞めると、「どっちの時期で辞めようと思ったんだ! 」と上長責任での押し付けあいで揉めるらしい。)

私の上長のTさんが「向いてない」と言って辞めていった。
ちょっと前はMさんが辞めた。
上流会社のM部長も辞めた。
Sさんは外資コンサルの上流に引き抜かれて巣立っていった。
仕事で長くお付き合いさせて頂いたKさんもSさんも離任する。
これに加え、私の親会社上長のAさんも離職・転職すると言う(まだ周囲には言わないで、と口止めされているが・・・)。

転職先があるのはいい。
景気が良い証拠だし、日本における儲かる業界の新陳代謝にもなる。平均給与も上がる(・・・のかな? )

企業によっては、上述の転職・離職なんて考えられない! と言うところから、転職・離職が当然で、ライバルとなる競合他社を立ち上げても「ふーん」で終わるところもある(別に不満があって「ふーん」と言っているのではなく、あまりにもそういうことが普遍的にありすぎるので、ぞんざいに扱われているだけ)。
士業(しぎょう:さむらいぎょう)と呼ばれる八士業もその一角だろう。

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日本のアニメの特徴から考えていく、市場の変遷性

2018-12-02 17:33:35 | 映像作品
日本のアニメには、諸外国のものと比較して、いくつかの特徴があるのだという。
と言うより、特徴ではなくある種の「お約束」に近いものだろう。

TVアニメの場合:
1.最初回はオープニングがなく、オープニング曲は1回目放送のエンディングに使われる。
2.放送5~7回目には女性キャラがお風呂に行ったり海に行って水着になったりする。
3.途中でスキルや能力を手に入れ、成長する。
4.敵だったキャラクターが仲間になって共闘する。
5.最終回はオープニングがなく、オープニング曲は盛り上がりに使われる。
6.最終回はちょっと寂しかったり悲しかったりする。

私が見た作品群としては、「グレンラガン」(少年向けロボットアニメ)と「神様はじめました」(少女漫画からのラブコメ)の2つしか思い出せないが、圧倒的にジャンルが全く異なるのにも関わらず、上述の二者は確かにおおよそ上記の通りだった(神はじはラスト悲しくはなかったけれども)。

と言うことで、諸外国人としては、最高潮に盛り上がった上で、全員ハッピーエンドと言うものを期待しているのだし、お色気シーンは本当に全く不要と考えている人も少なからずおり、そういう部分で文句ブーブーのようだが、しかしそれでもなお、それらを踏まえた上で、日本のアニメが好きな人は日本のアニメが好きなのだらしい。

実写ドラマや映画との比較は容易ではない。
まず実写はなぜ見られるかというと、美男美女、非現実のアクションなどが面白くてそこに見に来ている。
あるいはそこに完成された演技や演舞があるから、と言う理由だ。
実際は脚本力はあまり評価されない。
それに加え、台詞回しなども残念ながら評価されない。
映画を映画館に観に行ったり、あるいは家で見たりした時、強い感銘を受け、「この主人公のように生きよう」だとかの感想を持つことは少ない(「ロレンツォのオイル」「今を生きる」のようなものは別)。
精神的テーマを作用させて人に感銘を与えるよりも、映画や実写そのものの社会的役割として、エンターテイメント性が重視されるのだ。

そこへ来てアニメである。アニメは基本美男美女が圧倒的ローコストで揃えられる。
非現実のアクションなど、ヘリを飛ばそうと思えばいくらでもできる。
(ちなみにこれを実写側から圧倒的物量をせしめて打ち破ったのが「トランスフォーマー」だった。)

そこへ来て脚本がNGであれば、アニメはここぞとばかりに叩かれる。
ドラマトゥルギーに完成性がなく、人の心を揺さぶる形にしないと叩かれるのだ。

加えて狂人の域にまでコンスタントに達している作画の数々。
空中の落下シーンでも、人が走るシーンでも、服がはためいたり、髪が強風でばらけたりするシーンは、間違いなく映像作品史におけるプロットを打ち出しており、ここまで高クォリティの作品群を日常的に楽しめる時代は今まで無かった。
間断なく続く素晴らしい映像の一つ一つ、一瞬一瞬に、我々は心地よく連続した精神的絶頂を感じて視聴後に疲弊するしかない。
日本における求道的職人精神が、自動車や家電にではなく、アニメ側に発現するとこのようになるのだろう。

ただ一方で私は危惧をする。
日本人が得意とする「求道的職人精神の発揮」が社会的に役に立たなくなる日が将来的に必ず到来する。

それは自動車産業でも造船でもそうだ。既に家電とスマホは到来して、日本製品は市場から見なくなっている。
なぜかというと、感性に頼る逸品もの、オーダーメイドやワンオフの製品と言うのは、社会的な需要がなくなる。
それは、大量生産品に押されて市場から駆逐されるのもそうなのだが、進化を現在のままで止めてしまうと、社会の発達と共に、それが取り残されてしまうからだ。

日本のお笑い界に目を移すと、どうもユーチューバーとの争いに破れつつある昨今、「俺たちの方がクォリティが高い」と言う形で反論をしている。
誰しもこれに異論はない。ユーチューバーが日がな動画を撮って、よくもわるくも企画力が浅い動画を配信するのようりは、芸人がきちんと面白いネタかどうかを考えて舞台でやるのではクォリティが違う。

しかし、現在の市場は圧倒的にそれを求めていない。
おもちゃの動画を配信しているユーチューブチャンネルが圧倒的な再生数を出し、収益を上げていると言う。
おそらく見ているのは子供も子供、恐らく幼稚園とか保育園とかの児童が繰り返し見ているのだと予想され、即ちそれはCM的には全く効果が無いように見えるのだが、例えばマクドナルドのCMが何回も流されれば、子供がそれを食べたいと思い、それをねだられた大人が「じゃあ行くか」と言う形で行く、と言う構造になっているのだと推測する。

その人間にしかできない職人芸と言うのは淘汰される。
ギョーム・デジャンが銃の標準化・共通化して互換性をもたせた時、それは最初、その効果を見込めなかったが、時代を下るにつれ、それは圧倒的な優位を示すことになる。
オーストラリアの鉄道は、その軌間が統一されていなかったため、各鉄道間に乗り入れができない。よって流通とそれに伴う社会的発展が進展しなかった。
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