山本ひろ子氏の「異神」のご紹介を続けます。
リンクは張っておりませんが、アマゾンなどでご購入になれます。
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(引用ここから)
宇賀神。異貌の弁才天女。
「記紀」はもちろん「延喜式神名帳」にも登場しない「人頭蛇身」のこの像は、10世紀半ばにはその名を現すが、恐らく院政時期ごろから成熟し、中世を通して独特の姿と信仰を宗教史上に刻みつけていったのだ。
本稿の主題は、中世という時代の中で「宇賀神」とは何であったのか、どのように信奉されたのかを、中世の比叡山延暦寺における行法と言説を通して明らかにすることにある。
なぜなら比叡山こそ、「宇賀神」信仰最大の拠点であったと考えられるからだ。
比叡山の典籍中、「弁才天」に関する言説が集中して見えるのは、花園天皇の文保2年(1318)に成立した「渓嵐拾葉集(けいらんしゅうようしゅう」」だろう。
同書は密教の行法に関する比叡山の口伝記録を集めた大著で、「弁才天法秘決」と「弁才天縁起」が収められている。
これらの経典はすべて日本で作られた「宇賀弁才天」のための偽の経典である。
これらの偽経典は、同書が成立する14世紀の初頭までにすでに成立し、伝えられていたわけで、「宇賀神」の素性とその世界を考察していくことは、ひとえにこれらの偽経典の解読にかかっている。
(引用ここまで)
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筆者は、このように説明して、偽経典を紹介してゆきます。
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(引用ここから)
ある時、竹林精舎で、釈迦の大光明が十方世界を照らすことがあった。
おそれおののく大衆を前に、金剛手菩薩は「宇賀神将」の因縁譚を語りだす。
するとこの時、「宇賀神王」が忽然と姿を現すのである。
その姿は、“天女が頭に頂く宝冠の中には、眉毛の白い、老人の顔をした白蛇がいる”というものであった。
この奇怪な姿こそ、世に「宇賀弁才天」と称される尊の姿なのだ。
「宇賀神王」は西方浄土にあっては無量寿仏、娑婆世界では如意輪観音であるという。
また、ダキニ天、大聖天、愛染明王などにも変貌する。
こうして「宇賀神王」の変貌を説き終えた釈迦は、「宇賀神王」出現の由来を語る。
「過去、私は貧女であったが、仏により「宇賀神王」法を受けるとたちまちに大福長者となった。
この因縁によって、三世の諸仏出現の際に、「宇賀神王」も現れて、衆生を利益するのだ」と。
そして「宇賀神」の供養の仕方が示される。
1・供養の時期は、白月(月の一日から十五日までの間)とすること。
2・祭壇場は清浄な部屋か霊験のある社、または深山の峰や樹下、あるいは人里離れた場所を選ぶこと。
3・壇には百味の供え物を供えよ。
4・行者は百日間潔斎せよ。そうすれば一切のことは七日を過ぎないうちに成就するだろう。
5・白月に行法を行えない者は、巳と亥(たつみとい)の日を用いるように。
上の供養法で目につくのは、屋内の道場の他に野外祭場があげられていること、
また「宇賀神」の縁日として巳と亥が指定されていることだろう。
これは後に述べるように、荒神信仰との類似を思わせる。
さらに教理は、“蛇の翻るがごとき印を七度振る”というきわめてシンプルな作法に凝集されている。
(引用ここまで・続く)
(真ん中の写真は「異神」より・頭に鳥居と蛇老人を乗せた弁才天。)
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>するとこの時、「宇賀神王」が忽然と姿を現すのである。
>その姿は、“天女が頭に頂く宝冠の中には、眉毛の白い、老人の顔をした白蛇がいる”というものであった。
この不思議な姿が、偽経を作ってまで、天台宗の経文として、保存されているとしたら、非常に奇妙なことだと思えます。
奇妙なのは、弁才天なのか、宇賀神なのか、天台宗なのか、、ちょっと判断がつきかねます。
宇賀神の供養の仕方も、普通ではありません。
妖しすぎます。。
>2・祭壇場は清浄な部屋か霊験のある社、または深山の峰や樹下、あるいは人里離れた場所を選ぶこと。
なぜ仏教に、このように民間宗教的な要素が内包されているのか、たいへん興味深いです。
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