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ホピ・インディアンの思想を中心に、宗教・心理・超心理・民俗・精神世界あれこれ探索しています。ご訪問ありがとうございます。

オシリスになる儀式・・エジプトのミイラ(2)

2014-01-04 | エジプト・イスラム・オリエント


引き続き、吉村作治氏の「貴族の墓のミイラたち」のご紹介を続けます。

リンクは張っておりませんが、アマゾンなどでご購入になれます。


                  *****


                (引用ここから)


一方、「アク」はこの世とは隔絶した存在で、死後の世界に住む霊の状態を表すものであった。

つまり死者の第二の生、永遠の命ともいえる。

古代エジプト人が冥界を「葦草の原(イアルの野)」と呼ばれる至福境に仕上げた時、「アク」はそこで飢えも悲しみもない、幸福な日々を過ごすとされた。

このようにミイラは「バー」や「カー」の帰る所として重要なものであり、古代エジプト人が信じていた死後の世界を支える基本的な要素であった。



しかしさまざまな思想を同時に自らのものとすることに長けていた古代エジプト人は、死後の世界を確実なものとするのも「カー」や「バー」や「アク」の存在だけでは満足しなかった。


彼らはオシリス神話の中にも復活思想をとりいれ、死後の世界と結びつけたのである。

オシリス神話は、古代エジプトの歴史を通じて常に宗教の主流をなすものであった。

物語の概略は「地上の良き王であったオシリス神は弟セトの策略にかかり、箱に詰められて海に流されてしまう。

それを知ったオシリスの妻イシスは、妹でありセトの妻でもあるネフティスとともに地中海を探し回り、ついにビブロスの浜辺に打ち上げられていたオシリスを発見した。

オシリスは既に死んでいたが、イシスは遺体をエジプトに持ち帰り、神々の力を借りてオシリスの復活に成功する。

そして息子ホルスを身ごもった。

しかしそのことを知ったセトは、またもやオシリスを探し出すと今度は身体を14に切り刻んでナイル川に投げ込んでしまった。

悲しんだイシスは再び夫の体を探して、ナイルをさまよい、身体の一部を見つけるごとにそこに墓を建てて行った。


こうしてイシスはオシリスの体を拾い集め、元の形に縫い合わせた。そして再び復活させたのである。

しかしオシリスもはや以前のような活力はなかった。

心配した神々は、オシリスを冥界の王として地下の世界に君臨させることにした」

というものである。


ここに描かれた「オシリスの復活」は、古代エジプト人の、“死した後も再び生きたい”という願いの表れであり、冥界で永遠に生き続けるオシリスは、彼ら自身であった。

ちなみに古代エジプトの壁画の中でオシリス神の顔が緑色をしているのは、すでに死んだ神であることを意味している。


                 (引用ここまで)

                  *****


写真はオシリス(大英博物館 古代エジプト展 カタログより)です。

古代エジプトの人々は、オシリスの復活神話にあやかって、自分たちも、ミイラになることで、オシリス神のように再生・復活を果たそうと願ったのでしょう。

そして来世は不思議なほど、現世にそっくりで、いつまでも、いつまでも、死ぬことなく、この世の生活を続けたいという思いが伝わってきます。

同カタログにある「未来の楽園」という章には、来世の情景が次のように書かれていました。


                  *****


                 (引用ここから)


古代エジプト人が憧れた「イアルの野」は、審判をくぐり抜けた者だけが入ることを許された来世の楽園である。

そこには豊かな収穫があり、神々と祝福された死者が平和と幸福の中で永遠の生を享受した。

「イアルの野」の具体的なイメージは、緑が茂り、実り豊かで、満々と水をたたえるナイル渓谷やデルタ地帯の風景を背景に育まれた。

「イアルの野」での生活は、畑を耕す、牛を追うといった生前と変わらぬ生活であり、現実世界と同様に労働が必要とされたが、「シャプティ」と呼ばれる身代わりの小像を副葬することで、それをのがれる手段を講じた。

                (引用ここまで)

                  *****



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エジプトのミイラ(1)・・バーとカーの戻る場所

2014-01-02 | エジプト・イスラム・オリエント



明けまして おめでとうございます。

今年も どうぞよろしくお願いいたします。

この記事は、以前エジプト展に行って、触発されて調べたりしていたものです。

エジプトという大きな文明のことを思うと、ワクワクします。

もっともっと勉強したいと思っています。


              ・・・・・

     
吉村作治氏の「貴族の墓のミイラたち」という本を読んでみました。

吉村氏率いる調査隊が、200体のミイラを発見した時の記録です。

リンクは張っておりませんが、アマゾンなどでご購入になれます。


              *****


             (引用ここから)


死者のために大量の護符が用意されたり、神殿や墓の中にも描かれた背景には、古代エジプト人の独特な死生観があった。

古代エジプト人は死後の世界を信じており、冥界の入口でオシリス神の裁判を受けて、死後の世界に入ったなら、もやは死ぬこともなく、幸福に暮らせると考えていた。

しかし至福境に至るまでには多くの難関があり、それを乗り越えるために死者にさまざまな力を与える護符がぜひとも必要であったのである。

もちろん護符が死者の体に置かれる時には、神官によって定められた呪文が唱えられる。

この呪文によって、護符はそれが持つ効力を十分に発揮するとされていた。

高位の人物の包帯の中には少なくとも100以上納められたと言われているからである。

そしてそれほど多くの護符が巻きこめるほど、包帯は繰り返し巻かれたのである。

包帯巻きは、初めは大きな布で死体をくるみ、包帯で固定されたら、次に手足の指を別々に包帯で巻き、続いて顔の包帯巻きが行われる。

この時顔の凹凸を補うために、こめかみ、耳、口の上などにそれぞれ神の名を記した詰め物が置かれた。

そして頭全体は、X字型に包帯で巻きつけられた。


包帯巻きの作業は非常に手の込んだもので、この作業だけで少なくとも15日間は必要であった。

包帯巻きが終わったミイラには、死者に似せた埋葬用のマスクがかぶせられた。

日本にもやって来たツタンカーメン王の黄金のマスクからも分かるように、埋葬用のマスクは王や貴族の場合、金や準宝石類を使った豪華なものであった。


死者にマスクをかぶせる風習は、死者をミイラにしたりミイラの体の中に心臓が残されたのと同様に、古代エジプト人の死生観や宗教観から生まれたものである。

古代エジプト人は、死ぬと、ミイラとなった遺体と「魂(バー)」「精霊(カー)」そしてやはり霊の一種である「アク」という4つの存在になると考えていた。

「バー」は人頭の鳥の姿で現され、来世と死者の体を行き来すると考えられていた。



それに対して二本の腕を差し上げた形で現される「カー」は、「バー」より精神的な存在で、本来はファラオ(王)の聖性であった。

王は生きている間「カー」と霊感で交渉を持ち、死後はそれと合体するのである。


信仰が一般庶民のものになってからは、誰もが「カー」を持ち得るようになり、それは生きる活力と聖なる第二の自分との中間的な存在となった。

古代エジプト人が、できるだけ保存のきくミイラを作ろうと努力を重ねたのは、「バー」や「カー」の戻る所として、死者の体を永久に残さなければならなかったからである。

また、墓が岩盤に彫り込まれたり、石で造られたのも、ミイラが保存される場所として決して朽ちない物でなくてはならなかったからである。

さらに、死者の顔にマスクを被せたのは、現世と来世を行き来する「バー」が自分が戻るべきミイラを見間違わないように、という配慮であり、マスクに黄金を使ったのは、黄金が当時の金属の中で唯一腐敗することのない永遠の金属だったからである。


               (引用ここまで)


                *****

写真は「バー」(大英博物館 古代エジプト展カタログより)


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フンコロガシ 天の川が道しるべ・・エジプトの太陽神

2013-09-28 | エジプト・イスラム・オリエント


これはエジプトのことを調べている頃にみつけた記事です。

エジプトでは、フンコロガシはスカラベと呼ばれ、尊ばれているので、興味深く読みました。

             *****

朝日新聞2013年1月28日

「フンコロガシ 天の川が道しるべ スウェーデンなどチームが発表」



フンコロガシは天の川を道しるべにしているーースウェーデンなどの研究チームがそんな調査結果を米科学誌「カレントバイオロジー」に発表した。

餌にするため、動物の糞をボール状にして巣に運ぶフンコロガシは、月のない暗い夜道でも、糞を迷うことなく巣穴まで運べる。

チームは野外やプラネタリウムで、フンコロガシが直系2メートルの囲いから糞を運び出すまでの時間を計測した。

野外では月夜、星だけの夜、帽子をかぶせる、曇り空の4条件。

プラネタリウムでは星空、天の川だけなど5条件で調べた。

野外では月夜や星のある夜は20から40秒だったのだが、帽子をかぶったり曇りでは約2分かかった。
プラネタリウムでも、天の川などの天体がないと手間取った。

フンコロガシは太陽や月も道案内に利用する。

太陽や星座、地磁気を使って移動する習性は、昆虫のほか、カメや渡り鳥、アザラシなど広く知られている。
                  
チームは「天の川をナビに使う生物は初めてだ」としている。


               *****




上の写真はエジプトのスカラベと呼ばれるエジプトのフンコロガシ。
太陽の化身としてあがめられていた。(大英博物館 古代エジプト展カタログより)


wikipedia「スカラベ」より

スカラベ (scarab) は、甲虫類のコガネムシ科にタマオシコガネ属の属名及びその語源となった古代エジプト語。単独の種名ではないため、いくつもの種が存在する。

フランスの生物学者であるジャン・アンリ・ファーブルが自身の著書『昆虫記』の中で研究したスカラベ・サクレには、タマオシコガネやフンコロガシという和名が充てられて紹介され、有名になった。

おもに哺乳動物の糞を転がして球状化させつつ運び、地中に埋めて食料とする。

2012年現在、ファーブルの観察や採集のフィールドであった南仏各地は開発が進み、スカラベが激減している。

古代エジプトでは、その習性が太陽神ケプリと近似したものであることから同一視され、再生や復活の象徴である聖なる甲虫として崇拝され、スカラベをかたどった石や印章などが作られた。

古代エジプトの人々は、スカラベはオスしか存在しない昆虫で、繁殖方法については精液を糞の玉の中へ注いで子供を作ると解釈していた。

スカラベの登場する作品

ハムナプトラ/失われた砂漠の都ハムナプトラ2/黄金のピラミッド1999年と2001年の映画。

どちらにも、自分より大型の生き物へ集団で襲い掛かり捕食する肉食の甲虫「スカラベ」が登場する。

名前こそ「スカラベ」であるが、肉食であったり、オサムシやエンマムシ、クワガタムシのような大きく鋭い大顎が備わっているなど、全く架空の生き物である。


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エジプトのオシリス(3)・・死んでよみがえるのが、王の務め

2013-02-04 | エジプト・イスラム・オリエント



引き続き三笠宮崇仁殿下著「古代エジプトの神々」を紹介させていただきます。

リンクは張っておりませんが、アマゾンなどでご購入になれます。


               *****


              (引用ここから)


神から王が授かった霊力も、永続的なものではなかった。

王の霊力が衰えると、農作物が不作となるし、天災地変が起こると信じられていたから、そのような現象が生じると王の霊力が失われたとみられたのである。

フレーザーの大著「金枝篇」の主題がまさに王の霊力が低下したために殺される、いわば社会制度としての「王殺し」であり、この問題が古代社会においていかに重大なことであったかが納得できる。


日本の天皇とても例外ではなかった。

即位の際に行われた大嘗祭で授かった霊力は、毎年行われる同様の儀礼「にひなめのまつり」(新嘗祭)によって更新された。

今日では、新嘗祭は11月23日の夕から翌朝にかけて、皇居内の「神嘉殿」で天皇自らとりおこなう。

そこは普段は空き家であり、これは農家の収穫儀礼で田の神をお迎えするのと全く軌を一にしている。

大嘗祭または新嘗祭は、五穀豊穣の原動力と考えられた天皇の霊力の継承、または更新であったから、単に皇室だけの祭儀ではなく、むしろ全国農民の悲願実現のための農耕儀礼であったのである。


エジプト王も同様の目的のために「ヘブ・セド」と呼ばれた祭儀をおこなったことが記録されている。

最初は毎年の行事だったかもしれないが、現在の資料では即位30年に行ったとされている。

この「セド祭」における特殊の行事は、「ジェド柱」を建てる儀式で、それはオシリスが死から奇跡的に蘇った神話の再現、すなわち王の霊力の復活を願って行われたのであろう。


このようにオシリスは復活神と信じられたから、顔は緑色で描かれた。

古代エジプトでは緑色は植物の色であり、生命発生の色であり、そして善を産む色とされていた。

それゆえオシリスは「偉大な緑色」という称号さえ与えられた。

ただしオシリスは一度死んだのであるし、冥界の王となったのであるから、その体は白色の死衣をまとったミイラの姿をもって表されるのを常とした。

ホルスとして現世に君臨したエジプト王も、死ねば冥界に赴いて、父のオシリスと合体すると信じられたのである。

古代エジプトでは来世への吸引力が強く、古代日本では現世の吸引力が強いという特色を持っていた。


              (引用ここまで)



(写真は左向きに座っているオシリス神。緑色の顔と、白いミイラ状の衣服をまとっている)


                *****



吉村作治氏の「ファラオと死者の書・・古代エジプト人の死生観」という本にも、「セド祭」のことが書かれていました。

リンクは張っておりませんが、アマゾンなどでご購入になれます。



                *****



              (引用ここから)


「セド祭」の起源は古く、農耕文化がはじまって「王」という身分が現れた頃にまでさかのぼるとされている。

日本でも、農耕儀礼として最も古いものの一つに、「新嘗祭」がある。

稲の刈り入れが終わった頃、刈り取られて死んだ稲の霊を復活させ、次の年の豊穣を祈るというもので、これと同じように、古代エジプトでも、穀霊を象徴化したオシリス神の再生・復活の神話がある。

そのオシリス神はまた、王権の象徴でもあり、死したオシリスはオシリス神となって来世に復活すると信じられていたように、

古くは王の活力そのものが大地の豊穣に影響すると考えられ、健康を害したり、年老いて活力のなくなった王は殺され、若く活力に満ちた王の即位が求められるということがなされてきたのである。

ちなみに、日本の天皇もまた、稲の能力を宿すものとしてあり、皇位が継承されるときには「大嘗祭」をもって稲の霊を新天皇のもとでよみがえらせるという。

ところで、文化程度が向上していくにしたがって、この「王殺し」の風習は儀式の中で処理されるようになり、長期にわたって統治してきた王の活力を、儀式を通して回復させることを目的とするようになる。

王は象徴的、形式的に殺され、若返り、活力を取り戻して、再び即位するという「王位更新」のための儀式に変わっていった。

そしてエジプトに統一王朝が興った頃には、すでに「王位更新」の儀式として確立していたのである。


「セド祭」は、ナポレオンの発見したロゼッタストーンのギリシャ語碑文では「30年祭」と訳されるように、王の在位30年目に、第1回目が行われ、以降は3年ごとに繰り返される。

祭の開催にあたっては、まず儀式のための建築群が用意された。

サッカラのジェセル王のピラミッドコンプレックスの一角に、「セド祭の中庭」と呼ばれる、王が生前行ったと思われる「セド祭」用の建築群の石造模型が作られているが、実際の建物は石で造られることはなかった。

古代エジプトでは現世の生活に関係する建築物は、王宮をはじめとしてすべて、王の死や儀式が滞りなく終了したときには取り崩せる泥レンガなどの素材が用いられたため、現存しない。


祝祭日の前夜には、王の死を象徴する行為として王の像が埋葬される。

当日は、まず王の「疾走の儀式」が行われる。

走ることによって、自らの活力を証明して見せるのである。

そして、祭壇の上に設けられた玉座に座り、上下エジプトの各州の守護神を前にして、上エジプトの神々の前で上エジプトの王としての白冠を戴き、下エジプトの神々の前では下エジプトの王としての赤冠を戴く。

こうして若返った新王が誕生するのである。


しかし、祭の性格も時代が下がるにつれてさまざまな儀式が加えられ、王位の更新というよりは王の長寿を祝い、今後の繁栄を願うというものが中心になっていった。

臣民から王へ、多くの献上品が奉納され、王からもねぎらいの品々が下されるということが行われた。

また、本来は「セド祭」とは関係のない「大地の豊穣を祈願する儀式」や「聖牛アピスの巡礼」、「収穫祭」「ジェド柱の建立」といったものが、付け加えられていったのである。

中でも、「ジェド柱の建立」は、オシリス神を象徴する「ジェド柱」を建立するという行為によって、一度死んだ穀霊の再生・復活、すなわち王の再生・復活を表す儀式、王に新たな生命と繁栄、健康、喜びなどをもたらす儀式として、新王国時代以降重要視されるようになった。


                (引用ここまで)


                 *****


ジェド柱というものは、よほど大切なものと考えられていたようで、「オシリスの脊髄」という表現もされているようです。

走ることの神聖さは、アメリカ・インディアンのロンゲスト・ウォークや、ナスカの果てしなく長いライン、インカの祭りの勇気試しのマラソンなどにも示されていると思われます。

オリンピックも本来は聖なる儀式であったと思われます。





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エジプトのオシリス(2)・・大嘗祭との類似

2013-01-31 | エジプト・イスラム・オリエント



引き続き、三笠宮崇仁殿下の「古代エジプトの神々・・その誕生と発展」を紹介させていただきます。

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                   *****


                 (引用ここから)


日本の皇位継承の諸儀式の中で、最も重要なのが「おほにへのまつり(大嘗祭)」である。

一般的には、天皇が、新穀(米と栗)や、新米で造った白酒と黒酒、その他の神饌を天照大神はじめ神々に供え、天皇もそれらを頂く「神人共食儀礼」と言われている。

確かにそれは事実である。

この祭の起源は、日本に稲作が伝来した時までさかのぼるはずであるが、当時の記録はないから、古事記や日本書紀にある神話を媒介としてそれを求めねばならない。

この祭では、神座が二か所に設けられること自体が珍しいが、ことに第一の神座はきわめて特殊である。

まず「八重畳」が敷かれ、その南端に「坂まくら」が置かれ、「おふすま」(御衾)がかけられる。


「ふすま」とは、夜具である。

この夜具に関連する記録としては、日本書紀に天照大神が「真床追衾を以って・・“あまつひこひこほのににぎのみこと”に覆いて、降りまさしむ」というのがある。

神話では「ひこほのににぎ」の親は「おしほみみ」であるし、子は「ひこほほでみ」である。

つまり、これら三代の神名に共通しているのが「ほ=穂」である。

とすると、古典の記事は、「稲魂の入った稲穂」が「ひこほのににぎ」という人格神となって天から下ったことの象徴であろう。

そうなれば、第一の神座は、「ほのににぎのみこと」つまり「穀霊」が天から下るドラマの舞台だったと考えられるが、そのドラマがどんなふうに演じられたかは今では知るよしもない。


以上の仮説においても、そのドラマの主役が「穀霊」だけとは言えない。

神話で「ほのににぎのみこと」の子孫が日本の天皇となっているから、そこには「祖霊」が加わっていると見なすべきであり、それが従来いわれた「天皇霊」であろう。

そして新帝がそれを身に着けることこそ、即位の諸儀礼の中でもっとも重要だったに違いない。

また「第二の神座」というのは、新帝が十柱分の神饌を供するためのものであった。


エジプトの場合も、「穀霊」オシリスの「種」をイシスが受けて、ホルスが生まれ、ホルスは新王となった。

言い換えれば、ホルスは「穀霊」と「祖霊」とを継承して即位したのであり、エジプトも日本も、古代における王位継承のパターンは類似していたと思われる。


                    (引用ここまで)


                      *****



鳥越憲三郎氏著「大嘗祭・新資料で語る秘儀の全容」を読んでみました。

大嘗祭という日本古来の神事を、世界的な視野で考えておられます。

リンクは張っておりませんが、アマゾンなどでご購入になれます。



                    *****


                   (引用ここから)


再生の場としての「寝座」

大嘗会の中でも、大嘗宮における儀礼については、厳重に秘事として口外することが禁じられてきた。

「寝座」は、なにを意味するものであったのだろうか。

もと大嘗会は新嘗祭にもとづいてつくられ、天武朝に起源するものと思われるが、大宝令で大祭として制定されて以後、天皇権の宣揚に伴って、幾多の変革をもたらした。

「日本書紀・神代の巻」に載せる神話は、7世紀末から8世紀初頭にかけての政治・社会を反映してつくられたものであろうが、その神話をはじめ、初期天皇紀の中に、重大な事件を「新嘗の日であった」とするものが多く見られる。


上代の新嘗会には、儀礼の中で床に臥すことが必要であった。

床に臥すことは、死の擬態を意味し、死して後、神としてよみがえるためであった。

稲穂が刈られることで「穀霊」は死に、冬至において復活すると考えられたのも、同じ思想に基づくものである。

そのため冬至に行われていた新嘗祭、その後の大嘗祭においても、「穀霊」の復活を促す歌が歌われながら、新穀は臼でつかれた。


「死して後蘇る」思想は、世界に普遍的にみられるもので、古代や未開社会に見られる「首狩り」も、本来は農耕儀礼として行われていたもので、

殺された人間は神として復活し、その一年間、農作物の豊穣と人々の安寧を守ってくれると考えられていたものである。


そうした「首狩り」が、中国の解放時まで、雲南省に住むワ族に伝わっていた。

その起源は古く、紀元前の雲南に栄えた国の王墓から出土した多くの青銅製の神殿や貯貝器などに、殺された人間を神として祀る情景が生々しく表現されている。

その後裔であるワ族も、首を聖杯で神として祀る。

そのワ族をはじめ雲南・四川・貴州に住む多くの少数民族を、日本人と祖先を同じくするものとみる説を提唱している者であるが、彼らは農耕神として復活した神を「蛇神」とみており、それは紀元前から続いている。


我が国でも、「田の神」を「蛇神」とする信仰が伝わっている。

愛知県の国府宮神社では、江戸期の中ごろまで仕事始めの1月11日に、旅人を捕えていけにえにしていた。

このほか長野県の諏訪大社や福岡県太宰府の観世音寺でも、同じく氏子や旅人を殺して神として祀った。

これらは古社古寺であったために伝承されたもので、古くは広く行われていたものと見てよい。


すなわち「人間犠牲」は、村ごとに、部族ごとに行われていたであろうが、王者となる者は「死して後神としてよみがえる」思想に基づいて、物みな復活する「冬至」の「新嘗」の日に「床に臥す」所作により、神性をもって再生したことを、一般民衆に示そうとしたものと考えられる。

王や酋長は、宇宙の至高神である「日の神」の子孫であるという思想、すなわち日子思想は世界のあらゆる民族に見られた。

        
              (引用ここまで)

    
                *****

                ・・・・・

wikipedia「首狩り」より

「首狩り」は人間を殺し、首級をあげる事を中心とした古い宗教的な慣行のひとつ。

台湾原住民、インドネシア、オセアニア、インド、アフリカ、南アメリカなどで広く見られた慣習であるが、今日ではほとんど消滅したと言われる。なお、古代のスコットランドでも行なわれていた。

自身の所属する集落以外の(時に敵対関係にある)人間を殺害し、切断した犠牲者の首級を持ち帰る。

頭骨の保存に重点が置かれる場合、頭蓋崇拝と呼ばれることもある。

理念

諸説ある。一説では、基本的な理念として人間の頭部に霊的な力が宿るという信仰が根底にあり、その力を自分のものにし、操作しようとする呪術的、宗教的な行為として生まれた行為である。

他方、豊作や豊漁・豊猟を確保するための首狩、死者に他界で使える者を確保するための殉死的首狩、また戦闘での勲功を証明するために首級を持ち帰る首狩(首取)、勇気を示し一人前の青年として結婚可能である能力を示すための首狩、復讐としての首狩、神意を知るための首狩、など首狩の理念には非常な多様性が見いだされる。

首狩りの風習があった部族

エクアドルアマゾン上流のヒバロ族   首級を乾首 (ツァンツァ) に加工していた

フィリピンルソン島のボントック族、イフガオ族、ティンギアン族  祭りの一環として行われた

ボルネオのダヤク族、イバン族   結婚するための条件として首級を手に入れる事があった

南アメリカエクアドル領のヒバロ族   死者を弔う為の葬式の一部として実施された

台湾のアタヤル族(高山族)   成人式の一部として実施された

インドネシアセレベス島のトラジャ族   多産や豊穣の儀礼として行った

ミャンマー北東部のワ族   春の播種期に豊作祈願の行事として首狩りを行った

               ・・・・・


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エジプトのオシリス(1)・・王権の由来と植物

2013-01-24 | エジプト・イスラム・オリエント



古代アンデス文明が文字を残さない文明だったのと対極的に、エジプト文明は饒舌なほどに文字の文明だったと思われます。

古代の神聖王、古代の宗教国家という性質からは、二つの文明は似ているところがあるように感じます。

エジプト文明の中の死と生を調べてみたいと思いました。

最初に、三笠宮崇仁殿下の研究書「古代エジプトの神々・その誕生と発展」から、オシリス神話の一解釈を紹介します。

リンクは張っておりませんが、アマゾンなどでご購入になれます。


                *****



                (引用ここから)


エジプト人は非常に古い時代から季節感を抱いていたようである。

一年中ほとんど雨が降らないから、季節のヒントは何といってもナイルの増水であった。

農作業と関連して、一年は三季、すなわち「増水季」、「出現季」、「欠乏季」に分けられていた。


「出現季」というのは、洪水が引いて土地が現れる意味であるが、減水後、撒いた種子から芽が出る時期でもある。

「欠乏季」は言うまでもなく、収穫後から次の増水までの乾燥期である。


そもそもオシリス神話は、農耕生活の中から生まれていた。


本来オシリスは穀物・・それは穀霊によって生を得、成長し、実を結ぶ物・・であった。


また、セトは暴風を象徴していたと考えられる。


その裏付けは、ずっと後代にエジプトにやって来たギリシア人がこのセトを「テュポーン」と名付けたことにある。

それはギリシア神話に出てくる怪物の名であるが、ギリシア語で「テュポーン」というと「激烈な風」を意味している。

今日我々が用いている台風の英語の「タイフーン」の語源でもある。


そうするとセトがオシリスを殺すのは、暴風雨が実った穀物をばらばらと地上に吹き散らすありさまを描写していると言えるし、また、オシリスが蘇生するのは撒き散らされた穀粒から発芽することを象徴的に表現していると受け取れよう。

この見解を補足するのはオシリスのシンボルの「ジェド柱」である。

これは大変古い時代から伝わっているので明確な説明は困難だが、本来は植物の茎を束ねた柱だったらしい。

上方に横棒があるのは、その柱に結び付けられた麦穂を表していると見られる。

そうすると、この柱が農耕儀礼に用いられたことは確かであり、「ジェド柱」には穀物のエネルギー、つまり穀霊が宿っていたことになる。

そして「ジェド柱」を表す記号は、安定とか永続とかを願う護符に用いられるようになった。


エジプトでは非常に古く「セペト」という行政単位ができた。

聖刻文字では「灌漑用の水路」を表す文字を用いている。

ギリシア人がこれを「ノモス」と呼んだので、今日もその呼称を用いることが多いが、本書では「県」と訳しておく。

その県が北エジプトに20、南エジプトに22形成されたことが知られており、前者は北エジプト王国の、後者は南エジプトの王国の基盤となった。


オシリスは「アネジェドに住む者」と呼ばれたが、その地名は北エジプト第9県の呼称であり、その中に「ジェドゥ」という都市があった。

おそらくオシリスのシンボルである「ジェド柱」と関係があったのであろう。


同地はまた、「ペル・オシリス」(オシリスの家)とも呼ばれたので、ギリシア人はそれをなまって「ブシリス」と呼ぶようになった。


                 (引用ここまで)


                  *****


オシリス神話が農耕に関わる神話であるという説は、初めて知りました。

オシリス神話を巡っては、さまざまな解釈がなされてきましたから、この説だけが正しいかどうかは分かりません。

でも、非常に古い由来をもつという「ジェド柱」に、オシリス神話の原点を見るという一つの解釈は、とても面白いと思いました。




wikipedia「オシリス」より

オシリスは、古代エジプト神話に登場する神の一柱。

オシリスとはギリシャ語読みで、エジプト語ではAsar(アサル)、Aser(アセル)Ausar(アウサル)、Ausir(アウシル)、Wesir(ウェシル)、Usir(ウシル)、Usire、Ausareとも呼ぶ。

イシス、ネフテュス、セトの4兄弟の長兄とされる。

王冠をかぶり、体をミイラとして包帯で巻かれて王座に座る男性の姿で描かれる。

同神話によれば生産の神として、また、エジプトの王として同国に君臨し、トトの手助けを受けながら民に小麦の栽培法やパン及びワインの作り方を教え、法律を作って広めることにより人々の絶大な支持を得たが、これを妬んだ弟のセトに謀殺された。

尚、この際遺体はばらばらにされてナイル川に投げ込まれたが、妻であり妹でもあるイシスによって、男根を除く体の各部を拾い集められ、ミイラとして復活。

以後は冥界アアルの王としてここに君臨し、死者を裁くこととなった。

その一方で、自身の遺児・ホルスをイシスを通じて後見し、セトに奪われた王位を奪還。

これをホルスに継承させることに成功。

以降、現世はホルスが、冥界はオシリスがそれぞれ統治・君臨することとなった。

ただし、この神話はエジプト人自身の記述ではなく、ギリシアの哲学者プルタルコスによる「イシスとオシリスについて」に基づくものである。

オシリスの偉業は武力によらずエジプトと近隣の国家を平和的に平定し、産業を広めた古代のシリア王をモデルにしているとされる。

神の死と復活のモチーフは、各地の神話において冬の植物の枯死と春の新たな芽生えを象徴しており,オシリスにも植物神(もしくは農耕神)としての面があると見られる。

右図にあるように肌が緑色なのは植物の色を象徴しているからだといわれる。

古代エジプトの墓の遺跡に、彼の肖像が描かれたり、その名前が記録されているのはそのためであり、当時の人々の死生観に彼の存在が大きく影響していたことの現れであろう。



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牡牛の呪力、太陽神の密儀・・ミトラス神殿について(2)

2010-11-25 | エジプト・イスラム・オリエント
引き続き、フェルマースレン著「ミトラス教」の紹介をします。
リンクは張っておりませんが、アマゾンなどでご購入になれます。

        *****


       (引用ここから)



ヘッデルンハイム出土の浮彫りの裏側では、太陽神とミトラス神とが殺された牡牛のレリーフの背後で一緒に横座りしている。

牡牛の皮の上に横座りする例も時々見かけるが、彼らが牡牛から取り出そうと願う呪術的な力が、ここでもまた強調されている。

コナイツ出土の浮彫りでは、“大鵜”と“獅子”(カラスとライオン)の位階の信徒2人が、それぞれの獣面をかぶり、パン、果実、あるいは魚などの酒食を供する。

あるいは太陽神がひと房の“葡萄”を手渡すと、ミトラス神はこの贈り物を畏敬の念をもって見つめる。


しばしばミトラ教の遺跡に接して発見される廃棄用の竪穴(ゴミ捨て場)からは牡牛、野猪、羊、鳥類などの骨が出る。

通常は、牡牛の肉を食べ、その血を飲んだものと推測されるが、牡牛が手に入らなかったりした場合は、他の手近の動物の肉、あるいはパンと魚を、血の代わりには葡萄酒を用いた。

信徒集団の必要経費が壁面に刻みつけられている神殿では、そのリストの冒頭に、肉と葡萄酒の代金がある。

太陽神のレリーフの手に乗せられたひと房の葡萄もその証拠の一つである。


そこで4世紀末の暴力的キリスト教徒によって最も手ひどく破壊されたのは、まさしくこれらミトラス教の「聖さん式」のシーンであった。

キリスト教神父によれば、ミトラス神崇拝者の「聖さん式」は、キリスト教のそれの“悪魔的模倣”である。


ミトラス神の信徒たちは、復活の儀式も執り行っていた。

彼らは確固としてこう信じていた。

すなわち牡牛の肉を食し、その血を飲めば、生命そのものが牡牛の血から再創造され、また蘇ることができる、と。

この食物と飲み物はいつの日にか魂を蘇らせて久遠の光に浴させ、救済をもたらすと考えられた。

この信仰を元として、牡牛は自らを供物として捧げたミトラス神に他ならないからこそ、信徒たちはディオニュシス的な陶酔的密儀の中で聖なる肉を食し、血を飲んだのだ、と著述家たちは結論した。


ユスティヌスによると、会衆は「聖さん式」の際に、キリスト教のそれと似たきまり文句を用いた。


キュモンが刊行した中世の文献では、ゾロアスターは弟子たちに次のように話しかける。

「わが肉体を食し、我が血を飲む者は、我に帰一し、我はその者に帰一するが、そうしないものは救済の極意に至らない。」


これとキリストの弟子への言葉を比較してみよう。

「我がからだを食し、我が血を飲む者は永遠の命を得る。」


このペルシア起源の重要な章句の中に、キリスト教徒と敵手との間の争いの元があるのである。



ミトラス神はこれらの秘蹟をなしとげた後に戦車に乗って昇天した、と言われる。

いくつかの浮彫りでは彼は4頭立ての太陽神の戦車の後ろから走って行く。


時として彫刻家は、戦車の進路を天界へと向ける。

そこでは翼と魔王の杖によってそれと分かるヘルメス神が道案内を務める。


しかしドナウ川地方で発見された浮き彫りでは、ミトラス神は天界ではなく、大洋に向かわんとする戦車の方に静かに足を運んでいる。

この場合、大洋は“横に伏した髭もじゃの神”の姿をとっている。(まるで布袋さまのような、リラックスしたお姿で。。)

彼の足はマントに覆われ、左手は水かめの上に置かれる。


大洋が図式化されて、波打つ線の文様で表わされることもある。

このシーンを示す浮彫りでは、大洋の神オケアヌスを一群の妖精で取り囲む図像もある。

彼の頭上には翻るヴェールが見える。

その、神の頭上に翻るヴェールの図像は、キリスト教会の下からミトラス神殿が発掘されたサンタ・プリスカ教会の、地下のミトラス神殿の礼拝用の壁画に描かれた横臥する人物と、比較されるべき類似的特徴を示している。


ドナウ川地方にある神殿の浮彫りでは、オケアヌス神の体は“蛇”によって取り囲まれている。

水界の神は、自らの中に永遠の時の神と天界の神の能力を併せ持つように見える。

この結合体は、天界と水界の両方が一つのものと考えられていた時代の名残である。

キリスト教の図像製作者達がこのテーマを描くためのインスピレーションは、オケアヌス神の代わりに“擬人化されたヨルダン川”として表現された。

(引用ここまで)


               *****


おそらく人類にとって、動物を殺すことには、同族(人間)を殺すことの暗喩が含まれているのではないか、という気がします。

「人間の死」が、テーマとなっているのではないか、とわたしは思います。

また、カラスやライオンが登場するのも、ここだけの話ではないですから、これは何か人類共通のストーリー、つまり人類の宿命が示されているのではないかと思います。

もうすぐクリスマス。。

チキンのステーキを、我が家も作ることでしょう。




wikipedia「オケアノス」より

オーケアノス(古典ギリシア語)は、ギリシア神話に登場する海神であり、ティーターンの一族に属する。

特に外洋の海流を神格化したものである。

ギリシア神話の世界観では、世界は円盤状になっており、大陸の周りを海が取り囲み、海流=オーケアノスがぐるぐると回っているとされた。

それ故、神話においてオーケアノスの領域という言葉は、しばしば「地の果て」という意味で用いられる。

また、地上の全ての河川や泉の水は、オーケアノスの水が分かれて地下を通り、地上に現れると考えられていた。

古代のアナクシマンドロスの世界観を絵にした地図で見ると、世界は、大洋=オーケアノスが周囲を取り囲み、真ん中に、エウローパ、アシアー、リュビアーの三つの領域・大陸があることになっている。



写真・ミトラス教の聖さん式・カラスとライオンのお面をつけて神々に酒食を供する (同書より)


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ミトラス神殿について(1)・・地底の太陽神

2010-11-20 | エジプト・イスラム・オリエント


古代ペルシアのミトラ神は、ヘレニズム期に西洋に伝わると、ミトラス神という神格になるようです。

ミトラス神の神格は、現在のキリスト像にとても類似しているように思われます。

同じミトラ神が、東に移動すると弥勒という東洋の救世主になる、という説もあります。

これらをできるかぎり追ってみたいと思います。



フェルマースレン著「ミトラス教」を読んでみました。

リンクは張っておりませんが、アマゾンなどでご購入になれます。
以下、抜粋して引用させていただきます。

実に、血沸き肉おどる、とは、このことでは?、、と思いながら読んだのですが、
昔「ローズマリーの赤ちゃん」という映画を見た時の印象を思い出しました。
(内容は覚えていないのですが、、もう一度見てみたいものです。)


キリスト教の源泉を辿るのは、人類の源泉に至る道の一つでしょう。

西洋の源泉は非西洋的であり、東洋の源泉は非東洋的、なのではないか?

そんな思いが募ります。。


*****


(引用ここから)


ミトラス神は元来、決まって水のこんこんと湧き出る泉に近い自然の洞窟で礼拝されなければならなかった。

その洞窟には、岩壁に牛を屠る神としてのミトラス神の図像が彫りつけられていた。

ルーマニアのミトラス神聖域は1958年に発見されたものだが、中央レリーフを作成した彫刻家のニコメデスが奉納した碑文には、「この洞窟はユーフラテス川の岸辺の神聖な森にある」、と書かれている。

すなわち、近くを流れる小川を、ミトラス神の密儀が最初に原型を整えた場所であるメソポタミアの大河ユーフラテス川になぞらえたのである。


適当な敷地が見つかり、主だった信徒が聖域建設のために自宅の一部を提供したりした場合、ミトラス神殿はしばしば地下室に建立された。


地下の洞窟は天の曲面のシンボルであった。

したがってミトラス神殿の天上はアーチ状に作られることが多く、そこには星が描かれた。

カプアの神殿では、星の他に聖牛に引かれる戦車に乗った月の女神ルナの姿もあった。

神殿の内部は、ほとんど例外なく窓がなく、光はさえぎられる。

そのためにキリスト教神父はこれを冷笑し、「至高の神だというのに、それをまっ暗闇の陣営のような所で礼拝することがどうしてできるのか?」と記している。

4世紀の著述家マテルヌスは、その「邪宗論」の中でこう言っている。

「彼らが“ミトラス”と呼んでいるのは実は太陽神であるが、その密儀は秘密の洞窟の中でとり行われる。

その結果彼らはいつでも隠微された牢獄の暗闇の中に沈んで、光の輝きと明るさという美を閉めだしてしまう。」



「聖さん式」は洞窟の中で行われた。

「聖さん式」は太陽神とミトラス神の両神間、また信徒たち自身が神々に侍って飲食するという神人混在の性格を持つものもあった。

「聖さん式」の儀式を理解するためには、まず西暦220年頃作られた壁画を見よう。


放射状の暗いアーチ型天井の岩窟はローソクの光で金色に照らし出される。

そこでは太陽神とミトラス神とが寝椅子に横座りする。

彼らの前には小さな食卓がある。

太陽神は赤い長衣を着て黄色のバンドを締め、左手に地球儀をもつ。

ミトラス神は赤い外衣をまとい、フリュギア帽をかぶり、右手を相手の肩にかける。

両側に各一人の従者が立つ。

その一人が神々に聖酒を注ぎ、もう一人は大鵜(う=カラス)の面をかぶって楕円形の皿に食物を盛る。

碑文によって“獅子”の位の信徒であることが分かる8人の若者が、供物を奉納する。

彼らはパンと鉢、雄鶏、それと一掴みのろうそくを携える。

両神はしばし地上の追従者と同席し、もてなしを受ける。

このようにして信徒たちは神々を手本として、その面前で密儀を祝う。


(引用ここまで・続く)


                  *****


wikipedia「聖さん」より


聖餐(せいさん)とはイエス・キリストの最後の晩餐に由来するキリスト教の儀式。
「エウカリスト」(ユーカリスト)の日本語訳。

「聖餐」はおもに西方の教派で使われる訳語だが、カトリック教会では「聖体拝領」、「聖体の秘跡」と呼ばれる。

日本の聖公会、プロテスタント教会などでは「聖餐式」とも呼ばれる。

正教会における「聖体礼儀」、「聖体機密」「領聖」に相当する。
「主の晩餐」の語はいずれの教派でも使われる。



wikipedia「ヘレニズム」より

ヘレニズムとは、ギリシア人(ヘレネス)に由来する語。

その用法は様々であり、アレクサンドロスの東方遠征によって生じた古代オリエントとギリシアの文化が融合した「ギリシア風」の文化を指すこともあれば、時代区分としてアレクサンドロス大王(在位前336年 - 前323年)の治世からプトレマイオス朝エジプトが滅亡するまでの約300年間を指すこともある。

また、ヨーロッパ文明の源流となる2つの要素として、ヘブライズムと対置してヘレニズムが示される場合もある。

この場合のヘレニズムは古典古代の文化(ギリシア・ローマの文化)におけるギリシア的要素を指す。


古代オリエント文化との融合

アレクサンドロス大王の東方遠征によって東方の地域に伝播したギリシア文化が、オリエント文化と融合して誕生した文化を指してヘレニズム文化と称する場合がある。

しかし、この文脈での「ヘレニズム」という視点が、多くの問題を残したのも事実である。

同時代にギリシア語(コイネー)が各地に広まったのは事実であるが、既にアケメネス朝の時代より商用語としてのアラム語が各地に普及しており、広大な世界における意思疎通は、アレクサンドロス以前より十分に可能であった。

アケメネス朝の時代より各地域の文化は融合・発展しており、ことさらこの時期に流入したギリシア文化の役割だけを過大評価することは、それ以外の文化を軽視しているともいえる。



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柱について(1)・・イスラエルの最古の立柱遺構

2010-06-11 | エジプト・イスラム・オリエント
先に「ごみ屋敷体験記」を記しましたが、このごみ屋敷体験により、わたしは人間の「住み家」について、思いをはせることになりました。


ごみ屋敷から、ごみを取り去ると、何が残るのだろう?

人は、「住み家」で、何をしているのだろう?

人が住む所とは、どういう所なのだろうか?

柱とは?
壁とは?
床とは?

そこで、植田文雄さんという方の「古代の立柱祭祀」という本を読んでみました。

いろいろな所の「柱」について研究している方のようです。

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          *****

(引用ここから)

立柱祭祀の遺構をさがす手掛かりを求めて、「世界考古学地図」という本を見ると、最古の神殿として、イスラエルのエリコのテル最下層からみつかった遺構が紹介されていた。

そこには穴の掘られた二つの大きな石があり、トーテムポ-ルを立てるためのものと考えられる、とある。

紀元前11000年ころの狩猟採集民が、泉の側に立てたほこらと思われる、と書いてある。

日本列島ならば、縄文時代草創期で、小さな村さえない。
まだ家族単位で食糧を求め、野山を駆け回っていた段階だ。

最古の縄文集落として知られる「鹿児島県上野原遺構」でさえ、紀元前7500年頃である。

イスラエルのエリコは、仰向けに身体が浮くことで有名な死海の北西、ヨルダン国境に近い町である。

海抜よりマイナス350メートルと極端に低いが、紀元前8000年頃、世界で最初に小麦の栽培と羊の牧畜が行われていた、いわば農耕発祥の地である。

テルとは丘という意味で、長年にわたって人類の生活した遺跡が積み重なり、小高い丘になったもので、中東紛争でたびたび報道される、イスラエル最大の都市テル・アビブの語源も、このような古代遺跡にちなむという。

文明以前に農耕文化をもった西アジアの、しかもイスラエルならば、最古の神殿もあり得るかもしれない、とわたしは考えた。


エリコは旧約聖書にもたびたび登場するオアシスである。

エリコのテルは19世紀後半から100年以上、イギリスによって発掘調査されてきた。

中でも1952年の調査では、紀元前8000年紀の城壁に囲まれた集落が見つかり、世界中の注目を浴びた。


エリコの神殿は、この城壁よりもさらに古い地層からみつかっている。

報告書を読むと、神殿は長方形で、厚さ50センチの壁で囲まれている。

粘土壁が屋根を支える構造壁となり、木の梁を渡した建物だったとみられる。

内部には、日常的な要素が全くない。

石は、祭祀を行う時に木製のトーテムポールを立てた穴、あるいは柱を指し込むための基礎石だとされる。

報告書では基礎石について、「現在も国家儀式で国旗を立てるのと同じように、同族のあかしを示す旗を付けたトーテムポールが立っていた」と記される。

これが最古の神殿の実態である。


「世界考古学地図」の報告書では、神殿について、「旧石器時代の終わり、東方からやってきた狩猟民がエリコの泉に集まり、水源の神に祈りをささげた神殿である」とまとめられている。

紀元前9000年紀には西アジアのオアシスに狩猟民の神殿が作られ、儀式のシンボルとして木柱が建てられていた、ということである。

このような神殿を作るためには相当な労力を要したと想像できる。

これは縄文時代の立柱にも共通することで、初期の集落が、同族意識を強化していく中で、村人の求心力を保つための祭りの場を持ち、神聖な場所を演出する木柱が建てられたのであろう。

多少形は変われども、このような祭りの装備を、人類は早くから持っていたようだ。

(引用ここまで)


*****



また、2008年11月付けの「ナショナルジオグラフィック」には、「イスラエルで世界最古〈12000年前〉のシャーマンの遺体が発見された。」という記事がありました。


世界で最も古い“宗教の痕跡”の発見ということであり、大変大きな発見だと思います。



*****


http://www.nationalgeographic.co.jp/news/news_article.php?file_id=20632348

(引用ここから)


最新の研究によると、現在確認されている中では世界最古となるシャーマンの墓がイスラエル北部で発見されたという。

発掘された墓は1万2000年前のもので、謎の多い中石器時代のナトゥフ文化に属する高齢の女性が、動物の部位や人間の足とともに埋葬されていた。

隣接地区でも複数の墓所が発見されているが、今回発掘されたシャーマンの墓は構造や埋葬物、そしてその並べ方が非常に独特なものだという。

研究チームのリーダーで、イスラエルのエルサレムにあるヘブライ大学のリーオア・グロスマン氏は、

「墓の状態や埋葬物から考えると、このようなナトゥフ文化の墓はこれまで発見されたことがない。
この女性が特別な社会的位置にいたことを示すものだ」と話す。

 発掘現場はイスラエルの地中海沿岸から14キロほど内陸に位置するヒラゾン・タクティット(Hilazon Tachtit)洞窟で、
この遺跡は1万1500~1万5000年前に地中海東岸で栄えたナトゥフ文化のものと考えられている。

これまで、イスラエル、ヨルダン、シリア、レバノンの各地で数百のナトゥフ文化の墓が発掘されている。

しかし、シャーマンと思われる女性が埋葬されていたのは今回グロスマン氏らが発掘した墓が初めてのことだ。

「シャーマン」という言葉はシベリア地方のツングース語に起源を持つが、神秘的な力によって霊を呼び出し宗教と医術を統べる者の存在は地球上のさまざまな文化で広く共通している。

 埋葬されていた女性は身長150センチで45歳と推定され、当時ではかなりの高齢だったはずである。

この女性は死亡した後、岩を敷き詰め泥で塗り固めた洞窟内部の墓穴の中に安置され、その上には穴を覆う大きな石板が設置された。

猟師や戦士、政治指導者の墓の場合には、埋葬品は日常的な小物や道具がほとんどである。

しかし、この女性の墓にはさまざまな人工遺物のほかに、きれいに並べられた50個のカメの甲羅、イノシシやワシ、ウシ、ヒョウ、テンといった動物の部位、そして人間の足が一緒に埋葬されていた。

「当時、ナトゥフ社会は遊牧民的な狩猟採集文化から農業主体の定住生活に切り替わっていた」とグロスマン氏は話す。

この移行は、ナトゥフ文化の社会構造が発達し、新しいルール・祭式・信条体系が生まれたことによって生じたものと思われる。


「この女性の墓から出土した埋葬物により、当時ナトゥフ文化でどのような祭式が行われていたのか、その特質がある程度明らかにされた」とグロスマン氏は話す。

例えば、カメは埋葬儀式の一部として食されたようだ。

そして、カメの甲羅は死亡した女性の周りに配置された。

イノシシの骨は割られており、骨髄を取り除いた後で女性の手の下に配置されていた。

墓を石板で閉じたのは、おそらく動物によって荒らされるのを防ぐための措置と思われる。


 アメリカにあるハーバード大学の人類学者オフェル・バル・ヨセフ氏は今回の研究を受けて、

「シャーマンの墓は貴重な掘り出し物だ。

ナトゥフ文化の墓を発掘しても、ほとんどが狩猟採集民のもので、シャーマンの墓は50個に1個あるかないかだ。

私もナトゥフ文化の遺跡の発掘を長年続けており、山ほどの墓を発見してきたが、今回のようなものは見たことがなかった。

今回発掘されたシャーマンの墓と埋葬物の調査を進めれば、文書記録としては残らなかったナトゥフ社会の新しい側面が明らかになるだろう。

文字の記録とほぼ同等の価値を持つものだ」と語る。

 また、バル・ヨセフ氏は次の点も指摘している。

「今回の発掘結果は、世界のほかの場所でシャーマニズム社会を研究している者にとっても大いに役立つだろう。

埋葬儀式は文化ごとに異なるが、シャーマンや宗教指導者の墓はどこであっても一般人の墓とは違い独特な特徴を備えているものだ」。

(引用ここまで)


*****




WIKIPEDIA「エリコ」より

死海の北西部にある町。

古代オリエントの中でも古い町で、紀元前8000年紀には周囲を壁で囲った集落が出現した。

最古の町と評されることもある。
世界で最も標高の低い町でもある。

エリコは、死海に注ぐヨルダン川河口から北西約15kmにあり、現在はヨルダン川西岸地区に含まれる。
海抜マイナス250mの低地にある。

「スルタンの泉」と呼ばれるオアシスがあり、人々が住み着いた。

エリコの名前は『旧約聖書』にも繰り返し現れ、「棕櫚(しゅろ)の町」として知られていた。

エリコには、異なる時代に形成されたいくつかの町があり、古代~『旧約聖書』時代のテル・エッ・スルタン、紀元前後のトゥルール・アブー・エル・アラーイク、現在の町があるテル・ハリ(に分かれる。


沿革

初期の町は小規模な定住集落で、時代区分上は新石器時代にあたる。

最古の町と評されることもあるが、後に現れるメソポタミア文明などの文明とは区別される。

1868年からヨーロッパの考古学者によって何度か調査が行われ、1952年にイギリスのキャスリーン・ケニヨンらが行った調査では前8000年紀のものと思われる周囲を濠と石積みの防壁で囲った集落跡が発掘された。

日本の弥生時代の環濠集落に似ているが、そうではなく、洪水を防ぐための防壁と解釈されている。

初期の痕跡はテル・エッ・スルタンにあり、紀元前約1万年前~前9000年前まで遡る。

テルは丘を意味するアラビア語で、人間の長期にわたる営みの積み重ねによって形成されたものと考えられている。

丘の規模は南北350m・東西150m・高さ2.5mである。

紀元前9000年頃の痕跡ではまだ住居跡はまだ現れないが、ナトゥフ期(Natufian)の石器・骨器や、祭壇と思われる基壇が現れた。

ナトゥフ期の次にケニヨンが「原新石器」と呼んだ時代を経て、「先土器新石器A」と呼ばれる層(前8350年頃~前7370年頃)からは、広さ約4ヘクタール・高さ約4m・厚さ約2mの石の壁で囲まれた集落が形成された。

この壁の1面には高さ8.5mの石の塔も建てられた。

この町は前7370年頃に放棄され、それまでとは異なる文化をもつ人々がエリコに定住した。

先土器新石器Bと呼ばれる層は、前7220年頃から前5850年頃まで続く。

これは前5850年頃に放棄され、しばらく無人の町となった。

前3300年頃には周壁を備えた都市が形成される。

前2300年頃に異民族の来襲によるものと思われる火災にあい、しばらく空白期間となる。

前1900年頃に再び町が建設され、町の領域は初期の壁の外にも拡大し、さらに外側により高い周壁が建設された。

前1560年頃にヒクソスの侵入にあい、大火災に見舞われて廃墟となった。

『旧約聖書』に記されたヨシュアによる破壊が史実に基づくものならば、この頃の話ではないかという推測もある。

前1550年頃~前1150年頃には、古代エジプトの圧迫を受けた。

『旧約聖書』では、預言者ヨシュアが人々に命じて一斉に吹かせたラッパの音により、エリコの城壁が崩れ落ちたと伝えられている。

ヘレニズム時代から『新約聖書』の時代になると、トゥルール・アブー・エル・アラーイクに町が形成された。
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