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アニメ感想:『ゆゆ式』が空気系でない理由

2013年06月28日 22時27分40秒 | アニメ・コミック・ゲーム
当ブログでは、空気系の定義を次の3つの条件を満たすものとしている。

1. 時間経過があること。

2. 中心の不在。

3. キャラクターの関係性がメインに描かれていること。

1は見たまま。空気系は、時間がループではなくちゃんと進行することが必須条件だと思っている。逆に言えば、「限られた時間」を描くための手法だということだ。

2は空気系の原点がハーレム系ラブコメであり、その中心に当たる男性主人公をその関係性ごと取り除いたものだからだ。つまり、空気系の主要キャラクターの恋愛対象はあらかじめ取り除かれている。従って、男女間の恋愛を描かないのが基本となる。

恋愛という強い物語要素をあえて排除することで、日常の空気感を描くという意味でもある。ただ恋愛への憧れなどを残すかどうかは作品によって異なる。残した場合、百合要素が強くなるのが最近の傾向だろう。

3は2とも関連するが、特定の主人公に依存しないで数人の中心キャラクターの関係性を描くことがメインとなるものが空気系だと言える。主人公の唯が卒業したあとの梓たちの高校生活を描いた『けいおん!High School編』が成り立つのが好例だろう。

『ゆゆ式』の場合、この3の部分が空気系らしくなかった。ゆいが中心になっていて、彼女が絡まない展開が極端に少なかった。ゆずことゆかりの二人だけで展開することが少なかったし、相川さんたちとの絡みもほとんどがゆいがいるケースだった。
結局は配分の問題とも言えるが、もう少しゆい以外の人間関係を描いていたら空気系らしくなっただろう。(空気系だから良いとか悪いとかじゃないけど)

定義に従えば、恋愛要素があったり、主人公度が強い『ARIA』なんて空気系と呼べないのだけれど、あれはあれで空気系と呼びたくなる作品だったりするので、決して定義がすべてというわけではない。

『ゆゆ式』も空気系っぽく楽しめた。だからこそ、もう少し周りのキャラクターを描いて欲しかったと感じる。後輩入れるなどキャラクターを増やして時間経過をより強調する展開でも良かったかも。


2013.06.27 つぶやきし言の葉

2013年06月28日 02時20分04秒 | Twitter



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なぜマンガの主人公は高校生ばかりなのか?

2013年06月28日 00時02分48秒 | アニメ・コミック・ゲーム
記事タイトルは「なぜマンガの主人公は高校生ばかりなのか?」だけれど、マンガの主人公が高校生ばかりという事実はない。

嘘、妄想、誇大広告である。誇張だけれど、マンガ以外のジャンルでは誇張でなかったりもする。例えば、人気ライトノベルは現在ほぼ主人公は高校生だ。
深夜アニメもライトノベル原作が多いこともあり、高校生主人公が多い。コミックの中でもジャンルによっては高校生主人公ばかりのものもある。

児童文学は子供を対象に描かれているため主人公が読者に近い年齢=児童となるように、少年誌や少女向けマンガ雑誌の掲載作が読み手の年齢に近いのは当たり前と言える。ただ少年誌やライトノベルは本当に高校生ばかりが主人公となっている。中学生や大学生が主人公となるケースは稀だ。ある意味、日本において青春時代は高校生活の3年間だけだと思うくらいに。

海外でも学生生活を描いたフィクションは存在するが、全体の中での比率はそう高くないと思う。海外の若者たち、特に思春期の人々はいったい何を読んでいるのだろうと思うくらいに。日本のアニメ・マンガが海外で受け入れられたのはそうした隙間をうまく突いたからとも言えるだろう。

日本でもこうした傾向は決して昔からあるものではない。マンガの神様手塚治虫の作品の中で学校が舞台となった作品は多くない。主人公が中高生であっても、学校をメインに据えるケースは思いつかないほどだ。藤子不二雄作品の多くは(特に藤子・F・不二雄作品は)小学生が主人公で日常の生活を描いているが、学校の外が舞台になっていることが多い。『魔太郎がくる!!』のように学校がメインで描かれる方が珍しく感じる。

コミックにおいて学校が舞台になるのは、ラブコメ、スポーツ、ヤンキー、ギャグあたりのジャンルだ。スポーツも昔はプロがメインで学生スポーツは『ドカベン』のヒット以降だろう。ギャグも『マカロニほうれん荘』を経て、『ハイスクール奇面組』あたりで定着したように思う。
ヤンキー・不良系マンガは本宮ひろ志や『愛と誠』など70年代から連綿と受け継がれているジャンルとなっている。

ラブコメは少女マンガによって開発され、恋愛(恋愛への憧れを含む)を通して主人公の成長を描くことが本筋だった。男女の恋愛をリアルに描くことには抵抗のある時代、コメディ形式を利用することはひとつの抜け道と言えた。
少年誌でのラブコメの元祖と言われる『翔んだカップル』でもコメディ要素は序盤だけで中盤以降は青春ものになっていく。主人公の成長を描く中でそうした傾向は強くなる。ラブコメのひとつの完成系とも言える『タッチ』でもその傾向は強い。

一方、少年マンガ誌では主人公の成長と無関係にラブコメ要素だけが消費される作品が生まれていく。『うる星やつら』や『きまぐれオレンジ☆ロード』などがそうで、それ以降ハーレム系ラブコメへと発展していく。

小説のエンターテイメント化を進めた角川商法、「楽しくなければテレビじゃない」を掲げたフジテレビ、一般の人々にまで広まったポストモダンの流行、「やまなし・おちなし・いみなし」としてのやおいの登場など、70年代末から80年代にかけて既存の権威に対して面白ければいいという価値観の転換が起きた。更にその後のバブル期にそうした考えは広く浸透した。

バブルがはじけた後も古い価値観が戻ることはなく、より虚無的・刹那的な感覚が支配していたように感じる。阪神大震災やオウム事件などはそれを加速させた。フィクションではエヴァの流行や18禁ヴィジュアルノヴェルのヒットなどがあった。

萌えの発見以降は、成長としてのラブコメではなく、楽園としてのラブコメという意味合いが一層強くなる。リアルさはどんどん失われ、キャラクターは楽園を維持するための装置と化す。オタクに向けた商品としての色合いが濃くなり、やおいと同じように完全なファンタジーになった。

RPG的ファンタジー世界を描く作品が多かったライトノベルだったが、『涼宮ハルヒの憂鬱』のヒット以降学園ラブコメ作品が急増する。異世界ファンタジーからラブコメファンタジーへの転換は当然の帰結だったのかもしれない。

ゼロ年代はバブル以降の日本の沈降を若い世代が直撃した時期であり、若者の貧困率は高く、就職難とそれに伴う大学の就活機関化が加速した。若い世代にとって高校生活は最後の楽園になっていた。

こうした高校生活ものが流行る背景のひとつとして、若さへの憧れと大人になることへの忌避感が日本人の間に強く存在することも挙げられるだろう。これも学園ものが量産されることと時代的にシンクロしているように思う。

伝統的価値観への忌避は80年代あたりから急速に広まるが、その大きなもののひとつが若さ重視だった。軽薄短小が時代の合言葉だったが、それ以上に若さが歓迎された時代だった。素人の女子高生を集め人気を博したおニャン子クラブはまさに象徴と言えるだろう。

ただこの若さ信仰がその後も続く理由はよく分からない。成熟して大人となること、大人としてふさわしい行動や態度を取ることは、海外では当たり前のことだし、日本でもそれが当たり前だった。「かわいい」や「萌え」は大人の成熟した文化では否定されるものだろう。

80年代から90年代にかけて、成長のための大きな物語が否定された。それまでの当たり前だった「大人」像が信用できなくなった。その後の多くの若者向けフィクションから成熟した大人が消えてしまった。未成熟な子供たちが幼い考えを振り回す様を描いたドラマがもてはやされている。

大人になることだけが正解だとは思わない。若さへの信仰も仕方ないのだろう。ただ何事も一色に塗りつぶされることには嫌悪感を感じる。コミックはそれなりに多様性を保っていると思うが、ライトノベルはもう少し多様性があってもいいのではないか。

だから、どうしたって話なのだけれど、これまでのラブコメ論の焼き直しということで(ぉぃ