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読むのが苦痛なのに読んでしまう本

2010年12月16日 21時47分42秒 | 本と雑誌
先日、「読むのが苦痛な本」という記事を書いた。
そこで5つの理由を挙げたが、「辛い本」の例とした『さよならピアノソナタ』についてコメントをいただいた。

過去にもこのブログで何度か「ゼロ年代男性主人公」を取り上げている。
曰く、平穏を望み、誰にでも優しく、周りの人たちのことに気付けないタイプ。その場その場の感情に支配され、安直な自己犠牲に走ったりする。全てを包み込んでくれる母性に頼り切ったオトコノコ。

典型的なのが、「文学少女」シリーズの主人公である井上心葉。自分だけが辛いと思って周囲を振り回し、それでもみんなが許してくれる。いつかちゃんと彼を叱ると信じてシリーズを読み続けたが、本編完結までその構図は変わらなかった。

以前、登場人物が子供たちばかりで大人が描かれない物語を「学芸会」と呼んだが、「ゼロ年代男性主人公」の物語の多くがそれに近いものとなっている。成長しないことが前提であればそれでも構わないが、「学芸会」で成長を描こうとするのは無理があるように感じてしまう。
現実社会で、子供と関わる大人が親と教師くらいしかいない上、その関係も一面的、表層的になっている以上、子供の社会を描く中で大人の存在する意義が減じているのは確かだ。
ただ、そうした問題意識から大人を描かないのではなく、作者に描く力がないと思われる作品も少なからずあるように見受けられる。

実際、年齢的には大人が登場しても、ステレオタイプな大人像であったり、精神的には子供である大人であるケースが多い。もちろん、現実にそんな大人も少なからずいるだろうが、そんな大人ばかりではないのも間違いないだろう。それを描けない作者の力量不足は、作者の年齢なども考えると仕方ない部分もあるのかもしれないが。
そして、読書初心者のラノベ読者に対しては、大人が描かれているかどうかはさして問題とはならない。たとえ薄っぺらく見える感動でも、しっかりと共感できる描き方がされていれば感動してくれる。
『もし高校野球の女子マネージャーがドラッカーの『マネジメント』を読んだら』は企画の勝利でもあったが、一方で感動の方程式を巧みに組み込んだがゆえに、稚拙な文章力や安直なストーリーでもヒットに結び付いた。

「学芸会」で「ゼロ年代男性主人公」の作品を読むのは辛い。他に読んで楽しい本はいくらでもあり、読みたい本は山ほどある中でわざわざそんな辛い本に手を出す気にはなれない。
なれないはずなのに、それでも読んでしまう作家がいる。
それが米澤穂信と西尾維新だ。

米澤穂信は「小市民」シリーズを読んで、かなり苦痛に感じた。その後、長編『インシテミル』に続いて、最近「古典部」シリーズを読み始めている。
両シリーズとも高校生男子が主人公であり、探偵役である。しかし、「小市民」シリーズの主人公は自分が小市民になることを望み、「古典部」シリーズの主人公は「やらなくてもいいことなら、やらない。やらなければいけないことなら手短に」をモットーにしている。
二人とも頭は良いが、必要に迫られなければそれを使おうとはしない。読んでいると、必死に行動している周囲の人間を馬鹿にしているように思えてしまう。
主人公がそんな行動を取るようになった理由があるようだが、今のところ納得できるものではない。どんな理由があっても納得できるとも思えないが。

西尾維新は「戯言」シリーズを皮切りに、『新本格魔法少女りすか』、「化物語」シリーズ、『刀語』、『難民探偵』などを読んだ(全てではないが)。
特に「ゼロ年代男性主人公」的なのが、「戯言」と「化物語」だ。顕著なのが安直な自己犠牲精神だが、それは物事の解決のためではなく、ほとんどが自己満足ゆえに感じられる。「化物語」ではそれをヒロインの戦場ヶ原ひたぎに指摘され否定されるが、言われなければ気付かない点がらしいと思えてしまう。「化物語」は今述べたような指摘からある程度自覚的に描かれているが、「戯言」ではより「ゼロ年代」らしくなっている。結局全てのツケとしてのヒロインの死を回避してしまったことで、世界が主人公を許す構造が揺るずに完結してしまった。

共に子供の導き手としての大人はほとんど登場しない。年齢に対してフラットな感覚を共有しているのかもしれない。年齢による成長を信じず、大人も子供も同じタッチで描いているような感じだ。その良し悪しはともかく、それが主人公の性格を増幅しているのは間違いないだろう。正論を以て上から押さえつける存在がいないがゆえの歪みのようなものを感じてしまうのは気のせいだろうか。

それでも読む理由。

西尾維新の場合は文体の面白さが際立っていることが第一の理由だろう。キャラクターやストーリーはともかく、あの文体だけは西尾維新でなければ味わうことが出来ない。逆に言えば、あの文体がなければ魅力は激減する。それゆえに書くものは限定される。

米澤穂信の場合は簡単に理由を挙げることができない。明確な特徴と言えるものはない。「日常の謎」系が好きだからというのが第一の理由に挙げられるが、もちろんそれだけではない。
文章の心地良さがあるのかもしれない。格別上手いとは思わないのだが。
貶しやすいというのも長所なのかもしれない。可もなく不可もなくで、読んだことすらすぐに忘れてしまいそうになる作品よりも、はっきりとここがイヤと言える作品の方が記憶に残りやすい。イヤだと言うために読める長さや読みやすさを持っているのも読んでしまう理由になるのかもしれない。
納得させてくれるという期待感は、もうあまり持っていないと思うけれど、少しはまだあるのかもしれない。