奇想庵@goo

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ゲームの批判・批評

2006年03月30日 01時18分47秒 | アニメ・コミック・ゲーム
ゲームに限った話ではないけれど、批判や批評がネット上に溢れている。それ自体は健全な姿だと思う。
で、いま「naoyaの日記」さんで、FFXIIのアマゾンでのカスタマーレビューへの意見を巡って少しばかり熱い議論が続いている模様。

正直、あのカスタマーレビューは全く参考にならないと思っている。もちろんある程度の影響力はあるだろうが、どんな意見があってもいいという立場だ。批評を参考にするときは、それを書いた人の考え方が理解できる場合であり、あそこに書かれるような記事一つではとてもそこまで分からない。

ゲームのようなエンターテイメントでは、好みの問題が最も大きく作用するため、批評は成り立たないという考えもできる。ネット上に撒き散らされている言説の多くは、確かに批評というよりも感想に過ぎないし、単なる批判を並べていることも多い。
誉めるより貶すことの方が容易いし、勢いもある。ネットの特性として批判が目立つのは当然とも言える。それらのほとんどは読む価値がない。批判のための批判は何ものも生み出さない。それを書くのは自由だが。

批評の場合、面白いかどうか以外に何らかのコンセプトが必要となる。何を基準に評価するのか。その基準が一般的であれば、多くの人に共感してもらえる批評が書けるだろうし、独創的であっても、ユニークな切り口の批評として受け入れられるかもしれない。基準がどこにあるかが分かれば、その人の書いたものを信用できるし、読む価値も生まれる。

私も批評を書く者の一人として、そうした基準を持っている。ただそれがキチンと伝えられているかは心許ない。もっと向上したいとは思うのだが、遠い道のりだ。

もう一点。クリエイターと批評・批判の関係で言えば、批判は作品改良の糧にはならない。少なくともプロレベルのクリエイターであれば、その作品のどこが批判されるか予想ができるだろう。完璧な作品などありえないし、万人に認められるものなど存在しない。その自覚の上でなお、よりよい作品を作ろうとするのがクリエイターならば、その欠点も理解している。少なくともクリエイターの想定内の批判は、折り込み済みということだ。
特にゲームの場合は集団作業で、予算や時間の制約などに追われて当初の目標とするレベルから妥協を重ねていき、出来上がったものは理想とかけ離れてしまうこともあって、批判されて当然という事態も起きがちだったりもする。そして、批判する価値さえないゲームがクソゲーと呼ばれ、嗤うしかないということになってしまったわけだが。

もし本当に作品改良の糧になる批判や批評をしようと思えば、クリエイターの想定を超えるものがなければならない。日本の批評の現実は、どの業界でもそこまで至るものは少ない。スタージョンの法則(SFの90%はクズである──ただし、あらゆるものの90%はクズである)に従うならば、どんな分野でもクズでないものは10%に過ぎないが、優れた批評の存在はそれを1%くらい増やす力を持つと思っている。

ネット上の言説にここまで求めるのは酷だし、私自身とうてい及ばない事だ。批判や批評が作品の売り上げを左右する可能性は認めるし、商品としての性質上、マーケティングとして批判を要望として取り入れていく面もあるが、クリエイティヴな側面にまで影響を与えると考えるのは思い上がりだと思う。
それでも書いてしまうのはエゴなんだろうが、それはそれでいいだろう。価値があろうがなかろうが、書きたい気持ち、書かずにいられない感情に従って書く、そんな場がネットの本質の一端だから。