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福知山線列車脱線事故

2005年05月02日 16時11分38秒 | ニュース
事故発生から一週間。
福知山線は利用することはなかったが、近隣エリアであり、親戚の子があの列車の1本前に乗っていたという話も聞いて、より身近に、より深い衝撃を受けた。悲惨な現場の映像や、肉親を失くした人々の痛ましい姿を見るたびに、なぜこのような悲劇が生じたかという怒りと悲しみが沸き起こる。

各種報道などにより、事故の経緯はかなり明らかになった。それにより、JR西日本の責任の大きさが如実となった。

人はミスを犯す。これは絶対に避けられない事実だ。ヒューマンエラーを無くすことはできないし、事故は起きる。その前提を無視してはならない。大切なことは、その可能性を限りなく小さくしていく努力であり、それが十分に行われていなかったが故の大惨事であった。

どのような職種においてもミスは起きないほうがいいだろうが、とりわけ人命を預かったり(医師、運転士など)、社会的に重要な役割を担ってる(警察官、教師)ような職業に就く場合、資格と適性が問われることとなる。ミスが起きる土壌の最大の要因は技術力の不足であり、その点については国家試験という形で対応している。しかし、当然ながら、試験に合格したから十分な技術があるというわけでなく、更に日々の職務の中での向上がなければ、ミスを減らすことはできない。そうした部分が適性の有無ということになる。
今回の事故の場合、運転士の適性に果たして問題がなかったのか。3度の処分が他の運転士との比較で多いか少ないかは分からないが、かなり疑問が残ると言わざるをえないだろう。

たとえ技術と適性があったとしても、人はミスを犯す。特に肉体的精神的に負担が大きい場合ミスが起きやすい。通常の健康診断だけではそれら全てをチェックできないだろう。更に精神的な面はなかなか外部からでは計り知れない。勤務形態や人間関係、ノルマの存在など負担がかかる要素は多い。もちろん、そうした負担を全て排除はできない。またミスに厳罰を与えることが単純に悪いとは言い切れない。ミスの度合いに応じた適正な処分が行われなければならない。重すぎれば萎縮し、軽すぎればミスを軽視しがちになる。
今回の事故の場合、直前の伊丹駅でオーバーランを起こしている。前夜も夜11時まで運転していたようで、その影響はなかったのか。またオーバーランの距離に関して虚偽の報告を車掌と口裏合わせて行おうとしていたが、それができる環境というのは大いに問題だ。そして、ミスを起こした場合の日勤教育というシステムが、適正な処分として有効に機能していたのかはかなり疑問だ。見せしめ的な意味合いではミスを減らす方向には向かわないだろう。

しかし、どれほど完璧な環境があっても、人はミスを犯す。神様でない人には100%の絶対はありえない。こうしたミスを事故に結び付けないハード面の整備が、日々の技術の進歩によってなされている。ATS列車自動停止装置も旧型ではできなかった速度超過でのブレーキが新型ではできるようになっている。脱線防止ガードは旧国鉄が世界に先駆けて生み出した安全装置だ。通常、ヒューマンエラーの多くは事故に結びつかない。様々なセーフティネットを用意して、それが事故を防いでいるからだ。
だが、今回の事故の場合、新型ATSも脱線防止ガードも設置されていなかった。福知山線は以前はローカル線的なイメージが強かった。それが東西線の開通に伴い、関西の東西を結ぶ重要な路線となり、運行本数も急増した。それなのにハード面はおざなりのままだった。6月に新型ATSを設置する予定だったというが、常識的に考えれば、東西線開通に伴って、そうした安全面の検証が行われるべきだったろう。

そして、どれほど未然に事故を防ごうとしても、事故は起きる。想定外の事は起こりえるし、時には考えられないミスがいくつも重なることもある。もちろん天災など防ぎようもない原因も考えられる。そこで重要となるのは、事故が起きても、それが大事故に繋がらないための安全性の追求となる。自動車であれば、事故を想定し、正面のみならず様々な方向からの衝突にも備えるための実験が行われている。
今回の事故の場合、ひしゃげて折れ曲がった2両目の映像に多くの人が衝撃を受けただろう。正面以外の車両のもろさが広くしらしめられた形だ。経済性を優先し、軽量なボディーになっているが、それが事故を更に大きくしたとも考えられる。路線と建物との距離もあんなに近くて平気なのか。大地震などがあれば、予想外の惨事が起きかねないのではないか。そうした不安も感じてしまう。

人はミスを犯すし、事故を全て無くすことは不可能だ。だが、それを減らすことは可能だし、事故の規模を小さくする努力もできる。
以前にも書いたが、安全にはコストがかかる。それは経済的なものだけではないが、企業の場合特に経済性が重要なファクターとなるだろう。安全にコストをかければ、今回の場合、運賃に跳ね返ってきたかもしれない。そのため安全だけを追求するというのは机上の空論だ。ただ今回は明らかにJR西日本のバランスは利益主導に傾いていた。東西線の開通で運行本数が急増したのに安全面のコストを掛けるのを怠ったのはJR西日本の過失であり、その点は強調されてしかるべきだ。
福知山線は阪急宝塚線との競合路線とはいえ、利用者はそれぞれの事情からどちらに乗るか決まってくる。鉄道は利用者が簡単に選んで利用できるものではない。それだけに安全性に対する鉄道事業者の責任は重い。