たそかれの散策

都会から田舎に移って4年経ち、周りの農地、寺、古代の雰囲気に興味を持つようになり、ランダムに書いてみようかと思う。

生と死を考える <クローズアップ2018 終末期医療の現場>を読みながら

2018-01-09 | 人の生と死、生き方

180109 生と死を考える <クローズアップ2018 終末期医療の現場>を読みながら

 

人はなぜ生まれてくるのでしょうね。不思議ですね。人はなぜ死ぬのでしょうか、これも不思議ですね。とは誰も思わないのでないでしょうか。それを疑ったりする人はいないでしょう。人という存在がいつか生まれ、そしていつか死ぬ、このことは至極当然の出来事として自然の摂理というか、誰しも決まり事と観念しているでしょう。

 

ただ、この意識・感覚は時代により、地域により多少の違いはあるのでしょう。また職業によっても異なるでしょうし、さらにいえば十人十色で微妙に違うでしょう。それを社会通念とか常識とか、時には社会規範とかが介入して、こうなんだといった見方が支配的な考えになるでしょうけど、それも安定したものではないように思います。

 

で最近の医療分野からのアプローチは、むろん患者たる将来の死者・遺族の意識・感情を反映しつつ、また、政府が抱えている財政事情、将来の世代への対応など、いろいろな要素が加わって、次第に変わりつつあるようにも思えます。その一つが今回の毎日記事<クローズアップ2018終末期医療の現場 「望ましい最期」模索 延命と尊厳、議論加速>ではないかと思うのです。

 

私の立場は一人一人が選択し、考えるべき事と思っています。たしかに自分自身の生は自分で選択できませんね。といっても子の生には重要な選択をしているわけですが、この点はおいておくとして・・・死については多様な選択があり得るし、自分で責任を負えるし負うべき事ではないかと、この30年あまり考えてきました。どんな責任かは今日示せることができるかはわかりませんが、基本的な考えです。

 

むろん自分の生命が病気や事故で瀕死の状態になれば、医療機関のサポートを受けるのが普通ですから、医療機関との協議なしには自分の死の選択は困難かもしれません。また家族もときに自分の生死に関係するでしょう。

 

しかしながら、いかなる場合でも自分の生死というか、死への作法とか死に方といったものは自分が選ぶべきだと思っています。それは日々の生活の中でも常に心のどこかにあってよいのではと思うのです。浄土思想をといた源信は平安中期だけでなく末期以降の法然・親鸞にも多大な影響を与えたと思いますが、当時多くの人は常に死が常在であったのではないかと思います。飢餓・災害は頻繁に起こり、死への恐怖を抱えて生きていたのは上から関白・上皇から下はまで、すべての人の心を占拠していたように思うのです。

 

現代は、ガンや心臓疾患などに罹患して初めて死を意識して、普段は死をほとんど意識していないのが普通の感覚かもしれません。当然の死、大勢の死が発生すると、悲しむのは当然ですが、もう少し人間の生死を考えていてもいいのではと私の場合は思うのです。死はいつ訪れるかわかりません。医学はまだ人間の生命力を解明するにはほど遠い状態です。いや医療分野がいかに発展しても、事故や災害はいつかけがいのない命を奪ってしまうかもしれません。

 

私は生と死はそのような偶然や突発性をも意識しておくことが自然の一要素である人間のあり方として不可欠だと思っています。生があるから死もあると同様に、死があるから生もありうると思ってもおかしくないとは思いませんか。私の死は、将来のまだ生まれていない生の誕生への一筋の道と思ってもいいんじゃないかと勝手な考えを抱いています。それは悲しいことでも、辛いことでも、避けたいと思うことでも、ないのです。

 

おそらくは空海も西行も、芭蕉も良寛も、快く死を迎えたのではないかと勝手に解釈しています。

 

そんな考え方の人間が何人いるかは知りませんが、世間が、あるいは医療界やさまざまな立場の人が考えるより、結構いるのではないかと思っています。

 

ちょっと話しが飛びますが、私が墓を必要としない、自然葬という運動を始めたとき、見えない世間、宗教界、政治家・警察、様々なところから圧力がかかり、大変な問題になると思っていました。それは杞憂でした。最初5名で始めた運動、それがあっという間に賛同の声が広がり、入会者もうなぎ登りに増えました。むろん少数派であることに違いはありませんが、結構、さまざまな考え方を抱いている人がいることを体験しました。墓に入るしか方法がないといわれた90年代初頭のことです。

 

では毎日記事で取り上げた、医療機関の新しい動きはどうでしょう。少し堀井恵里子、鈴木直両記者の取材の後をフォローしてみましょう。

 

<人生の最終段階「終末期」の在り方を巡り、医療現場などに「望ましい最期」を模索する動きが広がっている。延命措置は苦痛を伴い、「患者の尊厳」を損なうこともある。厚生労働省の有識者検討会も終末期医療の指針(2007年策定)の初の見直しを検討しており、年度内をめどに指針を改定する方針だ。>

 

終末期のあり方は、すでに90年代から議論されていたと思いますが、ようやく現実的な対策が医療現場の意識にも反映して生まれそうですね。

 

人工透析、人工呼吸器、心臓マッサージは、よほどのことがない限り、これまでであれば当然のように、入院患者に対し当然に施行されるでしょう。

 

15年くらい前から関与していた横須賀のやすらぎの会では、自宅で終末期を迎える医師・看護師・介護士などに加え家族との連携を協力して続ける運動をしていました。この活動は医師・看護師等のなみなみならない努力がなくてはできません。私自身は、現場で関与することはなかったのですが、ご本人・家族と医療・介護関係者との和みをかんじさせてくれました。

 

<日本透析医学会は14年に「透析見合わせ」を選択肢とした提言を公表した。>また<日本呼吸器学会が昨年4月に公表した「成人肺炎診療指針」も終末期には「積極的な治療をしない」を選択肢として明示した。>この点、<延命措置が必ずしも患者の尊厳を守ることになるとは限らないとの考えを示す。>と指摘していますが、それはもし本気で患者の尊厳をこれまで意識していたならば、もっと早い「気づき」があってもおかしくなかったように思います。

 

そこには少しでも命を延ばす、治療の可能性があればあらゆる方法をとることが絶対視された医療教育なり医療機関の意識に、なにか欠けるものがなかったかが問われているように思うのです。

 

救急医療の現場はより切羽詰まった状態にあるのでしょう。<日本臨床救急医学会は昨年3月に救急隊向けの手順を公表し、がんなどの終末期で心肺停止した患者らに対し心臓マッサージなどを中止することもあるとした。>119番通報をしないようにとのアドバイスもありますが、それにはかかりつけ医の支援が必要でしょう。

 

<東京大の会田薫子特任教授(医療倫理)は「終末期の心肺停止は『お迎え』が来た状態。その段階での心肺蘇生法は胸骨が折れるだけで、本人の尊厳を損なうことにもなる。本人の意思だけでなく、あるべき医療もセットで考えていくべきだ」と指摘する。>

 

この「お迎え」という言葉もそろそろどうかと思います。むろん歓迎してのお迎えという趣旨ならいいのですが、趣旨はこの世に少しでもいたいのにあの世に送られてしまうという感覚でしょうか。それは本人の意思が死をきちんと受け止められていないからではないでしょうか。死は誰に対しても公平に訪れるもの。突然であろうが無残であろうが、死は生とのお別れに過ぎないもので、落ち葉がいつの間にか土になるようなものではないでしょうか。満開の花がさっと散ってしまうようなものかもしれません。まだ青々した葉っぱでも紅葉を待たず若葉のまま散ってしまうこともありますね。それが自然の生というものではないでしょうか。

 

会田氏は、本人の意思とあるべき医療とを同じ天秤で評価するような言い方ですが、それも従来的な見方としては、また大学教授としてはごもっともと思いますが、それは生死は個人が選択できるか、社会が選択できるかの中庸を説くものですので、理解されやすい考え方ですね。

 

私は生死は個人がまず責任を持つべきだと思っています。死の作法の選択は個人に第一義的な責任があると思っています。それをサポートするのが社会であり、その重要な機関である医療ではないかと思うのです。医療も社会のさまざまなサポート機関の一つでしかないと思うのです。

 

といっても本人の意思確認が大変だというのが現在の状況ですね。<最近は、人生観や療養場所も含めて事前に患者本人と家族、医師らが継続的に話し合う「アドバンス・ケア・プランニング(ACP)」の考え方が注目されている。厚労省の指針改定でも、この考え方が盛り込まれる見通しだ。>

 

それでもこういったACPの考え方は、これが定着すれば前進だと思います。

しかしながら、終末期に死を考えるような状況では適切なACPによる本人意思の確認は容易でないと思います。

 

私たち一人一人が、いまからでも遅くないと思います。生死を考え、自分の死のあり方を、死の作法を考えてみてはと思うのです。勘違いしないで欲しいのですが、生前葬などといった儀式を考えたり、自分の身のまわりの整理という終活をしたり、墓を建立したりとか、そういった形ではなく、あくまでまずは自分の命の処し方を考えるということです。

 

むろん10年後の死を考え、それまでどのような生き方をするというのも一つです。そして死に向かってどのような生活をして死を心穏やかに受け入れるかを考えると言うことです。むろん、突然死もありえますから、それも覚悟しつつですが。

 

それはちょっと暗すぎる、と思われるかもしれませんが、死を暗いものとみるかどうかです。生も明暗があるわけですから、死にもあるかもしれません。なんにもないかもしれません。でも生もあるようで空ではないかとも思うのです。その中で、死を考えることで、生もほんとに生き生きとするかもしれません。

 

今日は少し勝手な考えがほとばしったようで長くなりました。このへんでおしまい。また明日。

 

 


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