たそかれの散策

都会から田舎に移って4年経ち、周りの農地、寺、古代の雰囲気に興味を持つようになり、ランダムに書いてみようかと思う。

公害訴訟と弁護士 <公害病訴訟半世紀の歴史的意義 温暖化、原発に教訓生かせ・・豊田誠氏>を読んで

2018-03-05 | 司法と弁護士・裁判官・検察官

180305 公害訴訟と弁護士 <公害病訴訟半世紀の歴史的意義 温暖化、原発に教訓生かせ・・豊田誠氏>を読んで

 

いや懐かしい顔が毎日朝刊の紙面一杯に掲載されていました。<そこが聞きたい 公害病訴訟半世紀の歴史的意義 温暖化、原発に教訓生かせ 全国公害弁護団連絡会議初代事務局長・豊田誠氏>にあった豊田誠さんです。彼の存在は、日弁連の活動の中でも異彩を発揮していた、一時代を築いたような印象があります。

 

豊田さんが大勢のいる会議で発言すると、その切れ味鋭い、本質をついた内容は、会場の多くの参加者には心の深いところに訴えるものがあったように思います。小柄な体格でしたが、よく通る声で、この分野のリーダーの一人として、体験に根付いた発言は心に響いていました。私もその一人でした。

 

四大公害訴訟は私が学生時代に新聞を賑わし、最も影響を受け、その後その担い手の人たちと交流の機会をもつことができました。

 

豊田さんは訴訟参加へのきっかけについて<1967年に若手法律家の研究会で誘われたのがきっかけです。翌年1月には、イ病治療の第一人者として知られる医師の故・萩野昇先生から「自分は医者として最善のことはやるが、患者を救済するのは法律家の課題ではないか」と泣いて訴えられたことに心を動かされました。弁護団は地元の故・正力喜之助弁護士が団長を務め、若手を中心に約30人が思想信条を超えて結集しました。イ病の悲惨さが弁護団を団結させました。>

 

これはイタイイタイ病事件だけでなく、熊本水俣病事件、新潟水俣病事件、四日市公害訴訟でも、若手弁護士が手弁当で主導的な役割をしているのです。ベテラン弁護士の多くは過去の裁判例から勝訴の可能性を見通せず二の足を踏んでいたのです。

 

ベテラン弁護士が豊富な体験から裁判事件を勝訴に導く可能性と、それが新しい問題だった場合に「賢明な判断」の基、訴訟提起を躊躇する可能性、リスクを回避する可能性とは、一定の相関関係があるのではと思うことがあります。

 

豊田さんをはじめ当時若き弁護士たちが、理論より、裁判例の蘊蓄より、患者・被害者の山上を眼の辺りにして、情感で訴訟参加を止められなかったのではないかと思います。

 

豊田さんは<強調しておかねばならないのは、イ病訴訟の勝訴によって公害被害者の「敗北の歴史」が「勝利の歴史」に転換したことです。公害の原点としては足尾銅山の鉱毒事件が知られていますが、四大公害病訴訟以前の日本の公害は、企業や官憲の抑圧により、ほぼ泣き寝入りの歴史でした。イ病での勝訴は、苦渋の歴史を歩んできた全国各地の公害被害者と弁護団に「やれば勝てる」という確信と勇気を与えました。>

 

私は後日、神通川のほとりに立って、そのような被害者、弁護団の思いをわずかながら感じたことを覚えています。

 

ところで、豊田さんは、<勝訴の背景には法理論的な発展もあります。>これは豊田さんが指摘している牛山積氏以外にも多数の法学者にとどまらず、垣根を越えた科学者の支援が幅広くあったことを忘れてはならないと思います。それもほとんどがボランティア参加でした。

 

四大公害訴訟は、もしかしたらそういうボランティア参加が垣根を越えた法学者・科学者の中で広がった最初の時期ではなかったかと思います。70年前後の安保闘争とは少し異なる闘いが地に着いた形で広がっていったと思います。

 

豊田さんが理論的な革新性として、<訴訟の中で、カドミウムとイタイイタイ病の因果関係をどうとらえるかが問題となったのですが、そこで出てきたのが早稲田大で教授も務めた牛山積(つもる)さんが当時提唱していた「疫学的因果関係論」です。>を指摘しています。

 

そうです、私も当時、この議論をわからないまでも勉強したように思います。この「疫学的因果関係論」が他の公害訴訟でも、常に基本的な要素となり、これによって勝訴を勝ち取ったいったと思います。

 

従来は、原因物質を割り出し、閾値を明確にし、閾値を超える質・量について、発生源から人体への影響まで、発生機序を科学的に解明して結果に導く証明が求められていたと思います。

豊田さんは<三井金属側は「カドミウムがどのぐらい体内で蓄積されると、どういったメカニズムで病気が発症するのか」について証明を求めたのです>と指摘している部分です。

 

これに対し<弁護団は、そういった「量と質」を証明しなくても、神岡鉱山からカドミウムが神通川に流れたことや、その水で米を育てるなどした地域と発病地域との統計的な相関関係を示すことができれば法的には十分だと主張し、判決でも認められました。>

 

話しは変わりますが、20年近く前でしたか、ある大きな訴訟について、豊田さんに弁護団長を頼んだことがあります。彼はもう私の時代ではないよ、君たち若い世代の時代だよみたいなことをおっしゃって、やんわりと断られました。

 

ところが、いま東京電力福島第1原発事故について、<「原発こそ最大の公害だ」と表情を硬くした。避難者訴訟には「弁護士人生をかけて飛び込んだ」という。80歳を超えても気力は衰えない。>一兵卒として、頑張っている姿が見えてきます。豊田さんらしい「高齢者」弁護士の姿です。

 

少し痩せた印象ですが、意気軒昂な様子を拝見し、今後も活躍されることを祈っています。

 

<私たちは今、公害被害者に寄り添い続けてきた人の怒りに耳を傾ける必要があるのではないだろうか。>と取材した古川宗記者の言葉も大事ですね。

 

ここで終われば豊田さんの紹介に終わるのですが、半世紀前に席巻した「疫学的因果関係論」について、当時の公害訴訟としては重要な役割を果たしたことを適切に評価すべきと思っていますが、現代の複雑多岐に進む科学技術の進歩は、それでは問題の解決にならないおそれを感じています。

 

そもそもこの考え方は、ドイツ法制を移入した「相当因果関係論」といった法概念を前提に、当時、深刻化しつつあった公害に対処するために、うまれた議論であったと思います。

 

そして現在も、常に原因物質は何か、その閾値は何かが問われています。ただ、科学的因果関係論として、そのような理解が適切かは改めて検討されるべき時代に来ていると思うのです。

 

そもそも疫学は、医学の世界で唯一の科学的な因果関係の成否を調査解析判断する分野ではないかと思います。その手法として、原因物質の特定は必須ではないのです。医師はこの薬はこの症状に効果があるとか、この病変の診断名は○○であるといった診断の根拠は、まさに疫学です。わが国では病理学が幅をきかしていますが、それだけで判断できるわけではないのです。

 

他方で、訴訟分野でいうと、北米での民事訴訟の因果関係は疫学的証明という確率論が中心とうかがっています(ま、20年近く前にアメリカ法の専門家からの聞きかじりですが)。

 

でなにを言いたいかというと、現代の大気汚染、水質汚濁による健康被害は、多様な化学物質による複合汚染が累積的に影響することにより発生している可能性があり、それは個別の化学物質の閾値とそれを超えているか否かといった考え方では、因果関係を解明できないというのです。

 

これは当時、うかがった津田敏秀岡山大学医学部教授の話です。私がお会いした頃はまだ講師だったかと思いますが、その情熱、議論は的確でした。上記の議論は津田氏の詳密な論文を十分理解できていない中で、記憶で書いていますので、話半分にしておいてください。

 

いま津田氏の因果関係論は、私の頭の中で支配しているもの、神経回路がのんびりむーどになって追いつかなくなって、彼の活躍を期待するのみです。

 

 


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