たそかれの散策

都会から田舎に移って4年経ち、周りの農地、寺、古代の雰囲気に興味を持つようになり、ランダムに書いてみようかと思う。

命の終わり方 <NHK人生100年時代 「命の終わりを決めるとき」>を見ながら

2018-11-21 | 人の生と死、生き方

181121 命の終わり方 <NHK人生100年時代 「命の終わりを決めるとき」>を見ながら

 

 

昨夜は侍ジャパンがキリンチャレンジカップ2018でキリギス代表とのゲームを後半から見ました。メンバーを見たら知らない名前が多く、動きがちょっと鈍いというか、わくわくさせてくれるようなボール運びとか動きが見られず、よく2点も入れることができたなと思いながら見ていました。ところがいつもの4人に変わった途端、動きが活き活きし出し、見事な縦パスで一挙に2ゴールと、結果もすごいですが、動きが華麗で楽しむことができます。森安監督もすばらしいけど、海外で活躍している若い選手の鋭い動きに魅了されました。これからも面白くなりそうです。

 

その後録画していた<NHKスペシャル 人生100年時代を生きる 第2回「命の終わりを決めるとき」>を見ました。若い心を揺さぶるような画面から、一転、終末期の患者家族の重苦しい画面となりました。ゲストの阿川佐和子さんも、いつもの元気のよい鋭いコメントがなく、かかわりたくない状況を見たというか、経験したことがない状況に苦慮する表情であったかのように思えました。

 

人の死はそれぞれの受け止め方の問題で、他人が口を挟むことではないかもしれません。しかし、NHKが取り上げた状況は、救急現場の救急隊員や医療スタッフの苦慮、他方で、終末期に直面している認知症高齢者の家族の困惑が、思った以上に、深刻であることを改めて感じさせてくれました。

 

そして救急医療の現場では、その対応をめぐって10年あまりの間に大きく変わりつつあるようです。

 

ところで、NHKが<人生100年時代>と表明したことは、ちょっと実態と違うのではないかと思っていたら、2000年代に入り100歳以上の人が急激に増えていて、このままだと四半世紀もすると普通に見られるようになるというのです(統計数は記憶していませんが)。でもその正体は、人工呼吸器、人工透析や胃ろうといった延命措置によって高度の認知症高齢者となっても生き続けることができる割合が相当占めているようです。

 

そうでなくとも100年時代というと当然のようにそのくらい生きるのが当たり前から、義務のように感じたとすると、かえって生きづらいのではないかと思ってしまいます。むろん長生きがよくないなんて不遜なことを言うつもりはありません。社会や国家が100年生きなさいといった意識づくりをするのには警戒の念をもちたいと思うのです。

 

むろん、自らの不摂生や有害な飲食などにより健康を害して命を縮めてしまうのは避けて欲しいと思いますが、基本的には生き方は自由であり、死を迎えるあり方もできるだけ本人の自由を確保するのが本来ではないかと思うのです。短命に終わっても責められるべきではないと思うのです。

 

100年時代が一人歩きしないことを懸念します。他方で、死のあり方をまじめに若い頃から考えておくのも心の作法ではないかと思うのです。武士道の葉隠れに依拠して死を常日頃から考えておくべしなんて考えは毛頭ありません。ただ、人は生まれた瞬間から死と直面しています。生死の狭間はだれ一人知り得ないことで、ある時期には対峙しておくことが肝要ではないかと思うのです。

 

私は仕事柄、人の死がどうしてこのような形で起こるのか、通常ではありえないような死というものを若いうちから直面してきました。そして自分の死ということについても30年以上前から考え、遺書もなんどか書き換えてきました。

 

杞憂までは考えませんが、予期しない危険をできるだけ回避して死から遠ざかる意識は長く保ってきたつもりですが、それでもいつどのようなことで死は突然起こるか分からないことを意識してきました。

 

そんな私も100歳まで生きようとまでは考えていません。生死は運であり、寿命も天の配剤と思っています。

 

前置きがまた饒舌になり、なかなか本論に入れないので、この辺でこの話はやめときます。

 

さて、番組では、まず自宅で最後をと考えていた高齢者本人と家族だったのに、異変に気づいた家族がつい救急車を呼んだところ、旧教医療の現場では搬入された患者に対しては最大限の救命措置を講じることが必然とされています。患者は心肺停止の状態でしたので、心臓マッサージや強い薬で蘇生させ、自発呼吸がないと人工呼吸器の挿管という延命措置で、多くはそのまま死ぬまでその状態が続くというのです。

 

その家族は、医師から挿管するかどうかを尋ねられ、本人の意思が自宅で最後をといっていたのを尊重する気持ちと、少しでも長生きして欲しい気持ちの相克を、家族間で相談し、結局、挿管することにした例でした。

 

挿管当初は少しでも生きながらえてと思うかもしれませんが、それが一年、いや五年、さらにとなると、患者の姿を見ているのも結構辛いものとなるかもしれません。でも挿管をはずことは基本、難しいでしょう。裁判例が医療現場に理解を示すようになり、医師が総合的判断で抜管した場合、正当な医療行為と認められることになる可能性があるでしょうが、まだまだそれほど基準が明確とはいえないので、難しい選択でしょう。

 

もう一つの家族の場合は、人工呼吸の挿管をしなかったところ、一時間くらいで亡くなられました。まるで家族が死を決めた、命を縮めたと思われるかもしれません。でも私はその人の自然な寿命であり、自然死ではないかと思うのです。そのご本人の意思であり、家族がそれを尊重してしたのであれば、それを批判するのはいかがかと思うのです。

 

高度の認知症になれば判断できないことが多くなりますから、事前にご本人が意思を表明しておく必要があるでしょう。いや脳梗塞とかさまざまな疾患により意識が低下、なくなることがあるわけですから、しっかりしたうちに、自分の死を受け止めて、どのような最後を迎えるか、決めておくのは残された家族たちのためにも、自分のためにも重要なことであり、責務ではないかと思うのです。

 

介護施設などの入所の際、延命措置をするかどうかを尋ねる文書に回答するような手続が用意されており、事前指示書といった様式も多く普及しています。最低限、この程度のことはいつでも可能なので検討しておいていいのではないかと思うのです。

 

中世の世界では死は目の前にあったといわれています。常に浄土の世界をよりどころにしてたわけですから、死を問い、語ることは庶民にとっても当たり前であったのでしょう。仏教もその面ではとても有効だったのかもしれません。

 

しかし、人生100年時代と言われようが、現在、私たちの生き方がさまざまな影響を与えていることも理解していてよいと思うのです。自分の始末はやはり自分がすべきではないか、いかに生きるかを真剣に考えるのであれば、いかに死ぬかも同じく考えるのが世の作法ではないかと思うのです。

 

死から逃げても、私たち人という存在は、その問題から逃げられません。中世と異なり、より楽な状態で考えることができます。考えてみませんかと思う次第です。

 

私のブログはまあいえば、死の作法を学びつつ、生き方を学ぶために、書いているのかもしれません。

 

一時間を少しオーバーしました。このへんでおしまい。また明日。

 

 


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