たそかれの散策

都会から田舎に移って4年経ち、周りの農地、寺、古代の雰囲気に興味を持つようになり、ランダムに書いてみようかと思う。

希望という生きる道標 <レンギョウの花言葉><イチロー最後の戦い><法廷通訳>

2019-04-07 | 人の生と死、生き方

190407 希望という生きる道標 <レンギョウの花言葉><イチロー最後の戦い><法廷通訳>

 

春爛漫です。わが家の前の桜並木も満開で、野鳥の声も軽やかです。こんな春の様子を花に託して多くの和歌が詠われていますね。レンギョウはどうかと思ったのですが、見当たりませんでした。というか和歌で詠われる花はあまり特定されていませんね。花と言えば桜と言うことでよかったのでしょうか。

 

春はいろんな花が咲いて賑やかです。桜は植樹されたこともあって山だけでなくどこでも見られます。そういえば関東にいたころ桜ヶ丘というところに住んでいて、谷間を挟んだ小高い稜線一杯に咲く桜木がとても目の保養になりました。ところで、レンギョウもわが国の街角で割合目に付きます。庭であったり山麓であったり、その鮮やかな黄色と枝が伸びやかな風情が元気さを与えてくれているみたいです。

 

レンギョウの花言葉>を見たら<『希望』『叶えられた希望』『豊かな希望』『期待』『集中力』『言いなりになる』>と、ありますね。まあ、希望と集中力はいいとして、最後の「言いなりになる」はどういった由来なんでしょうね。中国が原産ということで、たしかにそういわれてみると、そうかと納得しちゃいそうです。

 

レンギョウを見て希望を抱くというのは、その色でしょうか、枝のぐんぐん伸びる様子でしょうか。希望を感じさせるというのは違和感ないですね。でも花を見て希望を抱いたり、維持すると言うことは簡単ではないでしょうね。

 

希望を抱き続けるというのは、だれもが生やさしいことではないことと思っているでしょう。そんな中、懸命に励んでいる、人並み外れた業績を残したりすると、その人の姿に希望を感じるのかもしれません。日々の辛さ、苦労、悩みを抱えて生きている中、希望の星に覚えて、その英姿を追いかける、あやかるのかもしれません。

 

その象徴的な存在としてイチローが長く日本人、いやさまざまな国の人たちにも、注目され、敬愛されてきたのだと思います。

 

そんなイチローについて、NHKでは今日、再放送で、<イチロー 最後の闘い>を放映していました。イチローは、「野球人生としての死」という表現で、引退について語っていました。笑って死にたいと思っていたが、それは無理とも諦念していたようです。でも日本で迎えた最後のバッターボックスまで、多くのファンが期待を込め、またヒットが出ないで終わった後も鳴り止まない拍手・歓声を送ることで、イチローは笑って(喜んで)死を迎えることができたようです。

 

それはイチローがたゆまない日々の努力を重ね、MLBでも例ない技術の高みに達しても、さらなる頂を目指して日々鍛錬を重ねる姿勢に、生きる希望を多くの人に与えたからかもしれません。そして彼も、そういう人たちの思いを受けて「死」後の希望を見いだそうとまた新たな一歩を踏み出しているようです。止まらないその生き方に、希望の光を感じる人は少なくないのだと思います。

 

どのようなボールでもヒットする技量の持ち主が、バットが空を切ることばかりを繰り返しながらも、ひたすら鍛錬を欠かさない、前向きな姿勢に、そしてそれでも大勢の前でバッターボックスに立つ孤高の姿は、やはり感動させられます。

 

希望というのは、そういうイチローのような生き方に、なにか希望の抱き方、希望というものとの接し方、その対処の仕方のヒントがあるのものかもしれません。

 

高齢になった、重篤な病気になった、いじめにあった、障がいでうまくいかない、差別されている、大きな失敗をした、私たちが悩むことは事欠きません。でも希望をもつ、その希望に向かって一歩進もうとしたとき、人の心は変わりうるのではないかと思います。気持ちの持ちようかと思うのです。

 

ところで、もう一つのタイトル、今朝の毎日記事<検証減る法廷通訳 進む外国人材受け入れ、一方で… 過重な負担、報酬見合わず>は、以前このブログかfbで取り上げた記憶があります。まあ、希望とはなんの関係もなさそうです。でも一つの見方があるかなとも思うのです。

 

私も法廷通訳については、英語以外の通訳の事件をなんども取り扱ったことがあり、きつい仕事だということは理解できます。ただ、タイ語などの東南アジア系言語や中国語、あるいはスペイン語、ポルトガル語などのうち、とりわけ前者は当該国の人で日本に滞在している主婦といった人が多かったように思います。当然、日本語もそれほど流ちょうとはいえないですし、ましてや刑事訴訟の用語は現地語でも難解な上日本語で理解できているかというと少し気になるところです。

 

それだけでなく、あるスペイン語の教師の方が通訳した事件では、通常の通訳はスムーズにできるのですが、共犯事件で事実が争われているとき、細かい具体的な所作に質問が及ぶと、そのような質問・回答は日本語でもたいていの通訳は不慣れです。ましてや通訳するのですから容易ではありません。しかも被告人の会話は方言的な部分もあるでしょうし、さらに具体的な動きだと余計そういう要素が含まれるのだと思われます。その事件では、通訳と被告人が長時間、二人だけで話し合ってしまい、裁判官、検察官、弁護人がそれを黙って聞くだけといったことがありました。

 

刑事事件で事実に争いがあまりないときは、現在の法廷通訳でも割合うまく通じているのだと思います。しかし、事実を争う様な場合法廷通訳のあり方について見直す時期に来ているのかもしれません。なお、実際は事実の細かいな点で疑義のあることも少なくないのですが、争うことで審理が延びることを嫌がる被告人もいておおざっぱなところで認めることも結構あるように思います。。

 

それほど大変な法廷通訳なのに、記事で書かれているように、非常に安い通訳費用になっています。民間で依頼される通訳の報酬だと、その何倍、あるいはそれ以上だということも普通ではないかと思います。そうなると、刑事裁判での法廷通訳のなり手が減少するというのは経済事情、刑事事件という特異な場(裁判員制度への参加以上に厳しいかもしれません)ということから、今後もその傾向が続くのはやむを得ないことかと思います。

 

私が以前、外国人の依頼者の民事事件を担当したとき、証拠となる英文については、友人の弁護士と共同して翻訳して裁判所に提出したのですが、証人調べだと通訳が必要ですので、専門の通訳に依頼したら、かなりの高額となりました。結局、その訴訟は勝利したので、その費用をまかなうことができたのですが、敗訴のリスクがあるときは躊躇しますね。

 

長々と冗長な話をしましたが、裁判所の費用負担は、それほど予算がない中、法廷通訳費をさほどあげる方向にはいかないと思うのです。そうだとすると、AI音声翻訳を、裁判所用にプログラミングすることをそろそろ始めるいい機会ではないかと思います。その場合裁判所だけで行うのではなく、刑事で言えば、検察庁、日弁連と共同してチームを構成して対応してもらいたいと思うのです。他方で、民事訴訟や、人事訴訟については、それぞれ建築紛争、医療紛争、家事紛争など、類型毎に専門家グループと合同して行うことが望ましいのではないかと思うのです。

 

問題があれば、そこに希望の種がある、そう思えるのが、「希望」という意味合いかなと軽い感じで思っています。でも「希望」ということばは、生への一縷の望みにつながる、かけがえのない貴重な蜘蛛の糸であるだけでなく、日々の雑多な悩み・苦悩・煩悩の中にも一縷の光明になるのではと思うのです。

 

今日はこれにておしまい。また明日。


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