「一、紛れもない侵略戦争
1931年9月18日の柳条湖事件にはじまる中国東北の占領、さらに1937年7月7日の蘆溝橋事件以後の全面的な中国との戦争は、紛れることのない侵略戦争である。
第一次世界大戦の惨禍を二度とくりかえさない目的で、世界各国は平和を守るための組織として国際連盟を結成した。しかし連盟規約では戦争の禁止が不徹底だとして、ドイツ、アメリカ、ベルギー、フランス、イギリス、イタリー、日本、ポーランド、チェコスロバキアの九カ国が、1928年8月27日にパリで「戦争放棄に関する条約」(不戦条約)に調印した。日本はこれを翌29年6月に批准し、同年7月に公布している。この条約では当事国が国際紛争解決のために戦争に訴えることを非とし、紛争解決の手段としての戦争を禁止したものである。満州事変も、日中戦争も、国際連盟規約と不戦条約の双方に違反することは明らかで、その当時から世界の非難を受けていた。
日本の戦争を無責任な軍国主義者の世界征服戦争と非難しているポツダム宣言を、日本は無条件で受諾して降伏したのだから、その時点で日本は戦争が侵略であったことを認めたことになる。さらに日本の戦争責任を裁いた極東国際軍事裁判(東京裁判)では、満州事変以後の日本の戦争を侵略戦争と断定し、東条英機以下の被告を平和に対する罪として処断した。そして1951年9月8日にサンフランシスコで調印された対日講和条約の第11条は、日本国は東京裁判をはじめとする戦犯裁判を受諾するという条項である。すなわち日本は、国際的にその戦争が侵略であったことを国として承認したことになるのである。
侵略戦争とは何か。1974年の国連総会は「侵略の定義」についての決議を採択した。もちろん日本もこれに加わっている。その決議は、侵略を「一国による他国の主権、領土保全若しくは政治的独立に対する、または国際連合憲章と両立しないその他の方法による武力の行使」と定義した。そして以下のような場合を侵略として例示した。
a、一国の軍隊による他国の領土に対する侵入若しくは攻撃、一時的なものであってもかかる侵入若しくは攻撃の結果として生じた軍事占領、又は武力の行使による他国の領土の全部若しくは一部の併合
b、一国の軍隊による他国の領土に対する砲爆撃、又は一国による他国の領土に対する武器の使用
c、一国の軍隊による他国の港又は沿岸の封鎖
d、一国の軍隊による他国の陸軍、海軍若しくは空軍又は船隊若しくは航空隊に対する攻撃
e、受入国との合意に基づきその国の領土内に駐留する軍隊の合意に定められた条件に反する使用、又は合意終了後の右領土内における当該軍隊の駐留の継続
f、他国の使用に供した国家の領土を、右他国が第三国に対する侵略行為を行うために使用することを許容する当該国家の行為
g、上記の諸行為に相当する重大性を有する武力行為を他国に対して実行する武装部隊、集団、不正規兵又は傭兵の国家による派遣、若しくは国家のための派遣、又はかかる行為に対する国家の実質的関与
日本の満州占領も、さらに37年以降の日中全面戦争も、右のa・b・e項に明らかに該当している。日中戦争はこの定義にてらしても、紛れもない侵略戦争である。
二、侵略戦争の原因
満州事変の前夜、日本国内では「満蒙」(東北三省に東部内蒙古を加えた地域のこと)は日本の「生命線」だとする軍部や植民地主義者によるキャンペーンが、大規模に展開されていた。他国の領土を、勝手に自分の国の生存に必要な地域だというのは、乱暴な言いがかりだが、これは国民を戦争に駆り立てるスローガンとしては効果があった。それは日本がこの地域に持っている利権が、日清、日露の二度の戦争で、父祖の血であがなったものだという宣伝が行きとどいていたからである。つまり日本は、日清日露戦争いらい、中国領土の一部である満蒙を獲得すること、すなわち中国への侵略を、一貫して国家目的としていたのであった。
長い歴史の中で、日本は文化のすべてにわたって、中国に学んできた。文字も、宗教も、さらに生活の用具や習慣までも、中国の文化が多くの場合朝鮮を経由して日本に伝えられてきた。日本人は中国にたいして尊敬の気持ちと親しみをもっていたといってよい。それが明治維新を境に一転して、朝鮮を支配し、中国を侵略する道に突き進むことになった。それは何故だろうか。
明治維新によって日本は、封建社会から抜け出して、西欧列強を手本に近代国家の形成へと一直線に突き進んだ。だが明治国家の指導者たちがめざしたのは、軍事と経済だけの近代化であって、西欧近代社会の理念であった人権と自由を置き去りにしたものであった。それはブルジョア民主主義を実現したのではなく、強権的国家体制を作り上げたのである。
明治維新は封建領土を廃止し、武士の特権を奪って、中央集権国家を作り上げた点でたしかに大きい変革であった。しかし西欧のブルジョア革命が行ったような完全な農民の解放は実現できなかった。地主小作制度という封建的土地所有関係を温存したばかりでなく、軍備拡張のために高額な地租を取り上げることでそれを再生産していった。したがって日本社会は、近代化したといっても基本的には貧しい小作、自小作の農民が国家の多数を占めていた。また資本主義の発進にともなって、工業化も進んでいったが、そこでの労働力は、貧困な農村からはみ出した人々に頼っていたので、労働者の賃金は極端に安かった。貧しい農村の存在が、都市の労働者の低賃金を支えるという構造の社会だったのである。
農村も都市も貧しいということは、国内市場が極端に狭いということに他ならない。国内市場の狭さから、国外市場に依存しなければならないという特徴をもつことになった。しかもその技術的水準の低さから欧米資本主義との自由競争では勝目がないので、独占的な植民地市場が必要であった。はじめから植民地獲得の欲求をもったのである。
欧米列強の世界分割競争の最後の舞台となった東アジアで、日本は他に先がけて軍事と経済の部門での近代化に成功した。そして近い隣国であり、封建社会から抜けきれないでいる朝鮮や中国を植民地化の対象としたのである。日清戦争も日露戦争も、日本の国土を守るための戦争ではなく、朝鮮を支配するための戦争であり、まさに侵略戦争であった。
日露戦争の結果として朝鮮を植民地としたあとは、さらに大きな獲物である中国が目標となった。1914年第一次世界大戦にさいし、日本は連合国側に加わってドイツと戦うが、そのねらいが中国山東省にあるドイツの利権の奪取であることは明らかであった。さらにこのとき、日本が中国に突きつけた「対華二十一ヵ条要求」は、大戦による列強の不在に乗じて、中国の植民地化を進めようとするものであった。これ以後の東アジアの歴史は、日本の対中国侵略政策の進展、これにたいする中国民族運動の抵抗という形で推移する。1919年の五・四運動、1925年の五・三〇事件、1927、28年の山東出兵などは何れもそのあらわれであった。
この間に日本の支配者たちは、自国民にたいし意識的に中国にたいする優越感、中国への蔑視感を植えつけていった。そして中国の民族運動を、日清、日露戦争による日本の果実にたいする不当な反撃だと敵視し、中国の抗日運動を憎悪する国民感情を煽り立てたのである。
こうして日本は、早熟な帝国主義国としての本質的要求である植民地を中国に求め、国民に対中国敵対意識を植えつけ、対中国侵略戦争に突入していくのである。
三、満州事変の意義
1931年9月18日、関東軍の謀略である柳条湖事件をきっかけに、日本の満州武力占領が開始された。この事件は日本側が武力行使の口実をつくるため一方的にひきおこしたのものであることは、歴史的事実として明らかにされている。それにつづく満州の武力占領、傀儡国家「満州国」の樹立は、どう言いつくろっても他国への侵略である。国際連盟の総会も日本を非難し、日本軍の撤退を求める決議を42対1で可決したが、日本は連盟脱退をもってこれに応えた。世界が日本に侵略国の烙印を捺したのに、日本はこれに逆らって国際的孤立の道を歩み、さらに侵略を拡大していくのである。
日本帝国主義にとって満州占領の意義は、大きくいって三つあったといえる。第一は大恐慌によって深刻になっている国内の経済的危機を回避することであった。鉄、石炭などの資源の獲得と、日本資本主義にとって有利な市場を獲得することであった。第二は激化している国内の対立を、対外戦争に転化することで、とりわけ深刻であった小作農民の不満を満蒙の広大な土地への幻想をあたえることで緩和しようとしたのである。第三には、最大の仮想敵国であるソ連にたいして、満州の占領により有利な戦略体制を固めることであった。こうした目的があったからこそ、世界から孤立してまで満州の植民地化に踏み切ったのである。
このとき、日本の満州武力占領を可能にしたのも、三つの国際的条件が日本にとって有利だったからであった。第一は世界が大恐慌のまっただ中にあり、アメリカ、イギリスをはじめ中国に利害をもつ帝国主義列強が、日本にたいし武力制裁に出る余力がなかったことである。第二は満州にとくに関心をもつはずのソ連が、第一次五ヵ年計画による国内経済建設の最中で、武力介入の意図をもたなかったことである。そして第三は当の中国が国共の内戦に明け暮れ、国民政府は国土を日本に奪われているのに、何の抵抗もしなかったことである。
こうして日本の満州占領は一時は成功したかにみえた。しかし満州の占領は、かえって日本帝国主義の矛盾を拡大し、その解決のために、いっそうの侵略の拡大を不可避にするという結果を招くことになった。先ず満州の占領によって、日本資本主義は経済的利益を得るどころか、かえって重い負担を招くことになった。軍が主導権をもって行った満州の経営は、この地域を開発するのではなく、軍事戦略を優先させ、経済性を無視して鉄道を敷設することに示されているように、まったく収支がつぐなわれず持ち出しになるものであった。
また農村対策としての満州移民は、開拓ではなく中国人農民の土地を取り上げ、その反感、抵抗を招くだけに終った。満州における人民の抵抗は、治安確保のために兵力を割かねばならず、日本軍にとって大きな負担となった。満州の治安悪化は、背後からの工作によるものだとして、軍の華北への侵略の拡大への欲求をかきたてた。さらに満州の占領と華北への侵略準備は、中国国民のナショナリズムに火をつけ、抗日民族運動を昂揚させることになったのである。
四、全面戦争への拡大
満州の経営に行きづまった日本、とくに陸軍は、1935年ごろから華北を第二の「満州国」化しようとして華北分離工作を進め冀東防共自治委員会、冀察政務委員会をつぎつぎに成立させた。また関東軍の傀儡である内蒙軍を緩遠省に侵入させて失敗するなど(緩遠事件)、中国の抗日民族運動を一挙に燃えたたせた。このころになると、中国国民の民族意識のたかまり、幣制改革などの経済的統一の進展などによって、中国はようやく近代的統一国家としてのまとまりを見せはじめていた。しかし中国への蔑視感にとらわれている日本の軍部も政府も、この事態を認識できなかった。そのことが日中戦争全面化の背景にあったのである。
1937年7月7日の蘆溝橋事件は、6年前の柳条湖事件のような計画的陰謀ではなかった。しかし日本は前年に支那駐屯軍の兵力を一方的に三倍近くに増強し、中国側の反対を押し切って北京西南部の豊台に兵営を作った。この豊台駐屯の部隊が、抗日意識に燃える中国軍の目の前で夜間演習を行ったのだから、事件がおこるのは当然といえる。問題はこの事件を一挙に全面戦争に拡大したことである。
現地では、日本側の支那駐屯軍も、中国側の第29軍も、局地的な事件として解決する方針で、7月2日には両軍間で停戦協定を成立させていた。ところが同じ7月11日に、東京では近衛文麿内閣が「重大決議」のもとに華北へ増援部隊を送ることを決定し、一挙に戦争拡大に突き進んでいった。そして朝鮮と満州からの増援兵力がほぼ北京(当時は北平といった)、天津地方に集中した7月27日、支那駐屯軍にたいし、「平津地方ノ支那軍ヲ膺懲シテ同地方主要各地ノ安定二任ズベシ」との大命が出され、翌28日総攻撃が開始された。またこの27日、政府は「自衛行動」を開始するとの声明を発表し、陸軍は内地3個師団の動員を開始するなど、中央が主導して戦争を全面化させていったのである。
このとき陸軍には、参謀本部の第一(作戦)部長石原莞爾に代表される不拡大派があって、中国との戦争に深入りすることは対ソ戦備に妨げになると主張していた。だが陸軍の中堅幹部たちや杉山元陸相は、このさい中国に強大な一撃を与えてこれを屈服させようと主張する拡大派で、近衛首相や広田弘毅外相、さらに昭和天皇までが、こうした一撃論に立っていた。それは彼らが、中国にたかまってきた民族意識と、抗日統一戦線の力量を正しく認識することができず、たやすく中国を屈服させることができると軽視していたからであった。
8月に入って事件が上海に波及すると、陸軍の上海への派遣を決定し、8月15日に「暴戻支那」を「膺懲」するという政府声明を発表した。これは宣戦布告に代るもので、全面戦争開始の宣言であった。石原作戦部長は対ソ戦重視の立場から、なおも上海への兵力増強に反対したが、昭和天皇はくりかえし兵力増派を催促した。天皇が、大兵力で一挙に決戦を求めて、中国の戦争意志を放棄させようとする短期決戦論者であったことは、「昭和天皇独白緑」で自ら告白していることである。結局石原作戦部長は辞任し、上海方面へは陸軍兵力の増派がつづき、海軍も航空兵力の主力を投入して、南京など都市への戦略爆撃を行った。他国の領土に大軍を侵入させたことも、都市への無差別爆撃を行ったことも、国際法に違反する侵略行動に他ならないものである。
中国軍の抗戦は、天皇や日本政府や軍首脳の予想とは正反対で、激烈をきわめ、上海の日本軍は大損害を出した。三ヵ月の苦戦の後に、杭州湾に新たな軍を上陸させて、ようやく中国軍を退却させ、その勢いで首都の南京に急進した。そしてこの間に、「南京アトロシティーズ」(南京大虐殺)とも「レイプ・オブ・南京」(南京の強姦)とも名づけられて世界に知られた大残虐事件をおこした。そして戦争は、日本が予想もしなかった長期戦の泥沼に踏み込んでいったのである。
五、残虐行為とその背景
日本軍の残虐行為は南京で行われただけではない。日中戦争の全期間を通じて、日本軍の侵略にさらされた中国の全地域で、大規模に展開されたのである。南京大虐殺否定論者は、大虐殺そのものがデマだ、でっち上げだという全面否定論が完全に破産したので、現在では虐殺の人数に争点を絞り、犠牲者は数千、或は数万に過ぎず、中国側の30万というのは誇大な数だから、大虐殺ではないと主張しはじめている。しかし人数の問題を絞って大虐殺を否定する矮小化論は、さまざまなトリックを使っている。期間や範囲を限定した上で、捕虜の殺害や敗残兵の処刑は戦闘行為の継続だから虐殺ではないなどと、さまざまな言いがかりをつけて人数を少なく計算し、中国側の言うよりは少ないのだから大虐殺はでっち上げだと主張しているのである。
だが問題の本質は、南京の犠牲者の数の大小ではない。日中戦争における日本軍の残虐行為の存在とその内容なのである。中国人の犠牲者の人数を問題にするならば、30万どころか全体では1000万をはるかに上廻り、とても計算が不可能なくらいである。中国国務院の人権白書(1991年10月発表)では、蘆溝橋事件以後の8年間だけで「2100万人余りが死傷し、1000万人余りが虐殺された」(雑誌『世界』1994年2月号「白書・日本の戦争責任」による)という。これは公式報告だが、1987年7月に東京と京都で開かれた蘆溝橋事件50周年日中学術討論会では、劉大年中国社会科学院近代史研究所名誉所長が、「死者2000万人」と報告している(井上・衛藤編『日中戦争と日中関係』原書房、1988年)。さらに1995年5月独ソ戦勝利50周年にあたり、モスクワに招かれた江沢民中国共産党総書記は、記念演説で「中国の被害者数は3500万」としている(姫田光義『「三光作戦」とは何だったのか』岩波ブックレット、1995年による)。この膨大な数を前にしては、南京での犠牲者の数の大小をあげつらって「侵略」かどうかなどと議論することの無意味さは明らかであろう。
日本軍がどうしてこのような大規模な残虐行為を行ったのか。日中戦争を考えるとき、このことを先ず問題にすべきであろう。
第一に日本は、中国との戦争で国際法に違反し、大量の捕虜を不法に殺害したことを挙げなければならない。華北での戦闘が本格化した1937年8月5日、陸軍省は支那駐屯軍にたいして、この事変には国際法の戦争法規は適用しない、「俘虜」(捕虜の公用語)という名称は使うなという通牒を出した。この方針は、その後もずっと続けられた。このことは、現地の軍では、国際法は守らなくてもいい、捕虜は作るな、という方針だと受けとられたのである。
南京大虐殺の主要な部分も、捕虜の大量処刑である。南京だけではない。日中戦争の全期間、全戦場において、日本軍は中国人捕虜を、国際法にも人道にも背いて殺しつづけたのである。かつて日本は、日露戦争にさいしてロシア人捕虜、第一次大戦のドイツ人捕虜を、国際法にもとづいて適正に処遇し、文明国だと賞められたことがあった。しかし欧米にたいする場合と中国にたいしてとは、まったく違った基準で対応したのである。それはアジア諸国、中国や朝鮮にたいする差別意識があったからである。中国との戦争では国際法を無視し、俘虜情報局や正規の俘虜収容所も設けず、捕虜の取扱いは現地の軍に任せ、結果としては捕虜の大量処刑、虐殺を放任したのである。
第二に、非戦闘員である一般民衆にたいする大虐殺が行われたことをあげなければならない。上海の激戦につづく南京攻略戦で、民衆にたいしての掠奪、暴行、放火、殺害をくり返し、とりわけ女性にたいして手当り次第に強姦をつづけた。このことによって、事件が「南京アトロシティーズ」とか、「レイプ・オブ・南京」として、世界に知れわたったのである。しかもこうした一般人民への迫害は、南京にとどまらずこれも戦争の全期間、全地域にわたって展開されたのであった。
一般民衆の生活や生命を犠牲にすることそれ自体を目的にして、日本軍が実行したのが、中国側の名づけた「三光政策」に該当する掃討作戦である。中国共産党の解放区の掃滅と封鎖を目的に北支那方面軍が行った遮断壕の構築、無人地帯の設定などの作戦は、1941年ごろから本格的に強行された。これは民衆の海の中に溶けこんでいる八路軍に手こずった日本軍が、民衆そのものを敵として、これを掃滅し、そのものを燼滅(焼き滅ぼす)することをめざした作戦で、まさに殺しつくし、奪いつくし、焼きつくすという意味の三光作戦と言えるものであった。
このような民衆を敵視する作戦がくりかえされた中での中国人民の犠牲は、はかり知れないものがある。殺人、強姦、放火、掠奪その他あらゆる迫害にさらされた。日本軍がなぜこのような非人道的で不法な残虐行為を行ったのだろうか。それは民族をあげての抵抗に直面した帝国主義軍隊が、勝利の見込みをなくしたときに犯す絶望的な蛮行といえるもので、ベトナム戦争に行きづまったアメリカ軍の残虐行為と、同類のものと言える面もある。しかしそれだけにとどまらず、日中戦争の日本軍には、このような行為に走る背景が存在していたのである。
その一つは、明治維新後の日本が、前に述べたように経済と軍事だけの近代化を追い求め、西欧の近代が理想とした人権と自由という観念を欠落させてきたことである。そうした近代日本の縮図が軍隊であって、兵士の生命が軽視されただけでなく、その人格はまったく認められず、自由は完全に抑圧されていた。自国でも人権と人道を認めない軍隊が、敵地の人民の人権を蹂躙するのは当り前で、非人道的行為にも逡巡することはなかったのである。
二つには、中国人民の抵抗が予想に反して強かったことに驚き、恐怖心と敵意を燃やしたことである。一撃を与えれば簡単に屈服するだろうと予想していた中国の思わぬ抵抗に、軍の上層部も末端の兵士も、驚愕し憎悪して残虐行為に走ったのだといえる。
三つめにあげることができるのは、戦争が拡大することで、日本軍は予想もしなかった大兵力を戦場に送ることになった。このため軍隊の素質は極端に低下し、軍紀風紀が頽廃した。また予期しない戦争の長期化に、士気も低下の一途をたどった。これが強姦や掠奪などの不法行為の多発した原因になったのである。
六、戦争責任と補償問題
戦争が日本の侵略であることは明らかで、戦争責任が日本に存在することは国際的にも認められている事実である。またこの不法な戦争で、中国人民にたいしてはかり知れない大きさの被害をあたえたことも、疑う余地のない歴史なのである。
ところが現在の日本には、戦争が侵略であったことを認めようとはせず、戦争を美化し肯定しようとする勢力が、政界、財界、学界などに根強く存在しており、その言動がしばしばアジア諸国の人々の怒りを呼びおこしていることも残念ながら事実である。この点で、同じ第二次大戦の侵略国であったドイツと比べると、日本の対応はきわめて不徹底で、ドイツのように戦争責任を明白に認め、公式に謝罪することを戦後の日本は怠ってきたのである。
1990年代になって、アジア各国の戦争犠牲者が、日本政府を相手にして、謝罪と補償を求める裁判をつぎつぎに起こしている。これにたいして日本政府は、戦争賠償の問題は解決ずみ、個人補償は時効か除斥期間が過ぎているという態度を一貫して取りつづけている。中国に関していえば、1952年4月日本は台湾の国民政府を中国を代表する正統な政府だとして、日華平和条約を結んだ。このとき国民政府は、賠償請求権を放棄した。これはいわば台湾政府を中国を代表するものと認めて貰ったお返しであった。それから20年後の1972年9月、田中内閣は台湾と断交し、北京の中華人民共和国政府を承認して、日中共同声明を発表した。この声明の中では、「中華人民共和国政府は、日中両国民の友好のために、日本国に対する戦争賠償の請求を放棄することを宣言する」と言明されている。これをもって、日本政府は賠償問題は決着ずみとしているのである。
しかしこれは戦争における国家間の賠償の放棄であって、国家や軍の犯罪によって被害を受けた個人への補償の問題とは別である。まして日本は、米英とは戦争をしても、中国とは41年までは戦争ではなく事変だといっていたのだから、その間の行為は放棄した賠償には入らないはずである。またその後であっても、殺人、強姦、放火、掠奪などの犯罪は、国家の戦争賠償とは別で、個人にたいする補償の問題である。
同じ侵略国のドイツは、一貫してドイツの犯罪による犠牲者には、誠実に補償をつづけている。連邦賠償法その他の法律で、ユダヤ人をはじめとする被害者に、2020年までかかって年金を払いつづけているのである。東西ドイツの統一後は、未決着であった東ヨーロッパ各国の被害者への補償に取り組んでいる。97年12月28日の朝日新聞は、東欧のナチス犯罪被害者への補償問題で、ドイツ政府とユダヤ人の国際組織が基本合意に達し、ドイツ政府は東欧の犠牲者のために基金を創設して年三回補償金を拠出することになったと報道している。これはすべて個人にたいする補償なのである。
日本がこれからアジアの中で、真に親しまれ愛される国として生きつづけていくためには、そして中国との間にも民衆のレベルでの友好関係を築き上げていくためには、謝罪と補償は先ず実行しなければならないことである。日中戦争は日本の侵略戦争であったこと、その中で南京虐殺や、毒ガス、細菌兵器の使用や、三光作戦や、おびただしい強姦殺人などの膨大な数の残虐行為を犯したことを率直に承認し、謝罪しなければならない。そして被害者個人への補償問題にも、誠実に対処していかなければならない。それなしに戦争は終らないのである。」
http://www.ne.jp/asahi/tyuukiren/web-site/backnumber/04/hujiwara_nittyuusensou.htm
1931年9月18日の柳条湖事件にはじまる中国東北の占領、さらに1937年7月7日の蘆溝橋事件以後の全面的な中国との戦争は、紛れることのない侵略戦争である。
第一次世界大戦の惨禍を二度とくりかえさない目的で、世界各国は平和を守るための組織として国際連盟を結成した。しかし連盟規約では戦争の禁止が不徹底だとして、ドイツ、アメリカ、ベルギー、フランス、イギリス、イタリー、日本、ポーランド、チェコスロバキアの九カ国が、1928年8月27日にパリで「戦争放棄に関する条約」(不戦条約)に調印した。日本はこれを翌29年6月に批准し、同年7月に公布している。この条約では当事国が国際紛争解決のために戦争に訴えることを非とし、紛争解決の手段としての戦争を禁止したものである。満州事変も、日中戦争も、国際連盟規約と不戦条約の双方に違反することは明らかで、その当時から世界の非難を受けていた。
日本の戦争を無責任な軍国主義者の世界征服戦争と非難しているポツダム宣言を、日本は無条件で受諾して降伏したのだから、その時点で日本は戦争が侵略であったことを認めたことになる。さらに日本の戦争責任を裁いた極東国際軍事裁判(東京裁判)では、満州事変以後の日本の戦争を侵略戦争と断定し、東条英機以下の被告を平和に対する罪として処断した。そして1951年9月8日にサンフランシスコで調印された対日講和条約の第11条は、日本国は東京裁判をはじめとする戦犯裁判を受諾するという条項である。すなわち日本は、国際的にその戦争が侵略であったことを国として承認したことになるのである。
侵略戦争とは何か。1974年の国連総会は「侵略の定義」についての決議を採択した。もちろん日本もこれに加わっている。その決議は、侵略を「一国による他国の主権、領土保全若しくは政治的独立に対する、または国際連合憲章と両立しないその他の方法による武力の行使」と定義した。そして以下のような場合を侵略として例示した。
a、一国の軍隊による他国の領土に対する侵入若しくは攻撃、一時的なものであってもかかる侵入若しくは攻撃の結果として生じた軍事占領、又は武力の行使による他国の領土の全部若しくは一部の併合
b、一国の軍隊による他国の領土に対する砲爆撃、又は一国による他国の領土に対する武器の使用
c、一国の軍隊による他国の港又は沿岸の封鎖
d、一国の軍隊による他国の陸軍、海軍若しくは空軍又は船隊若しくは航空隊に対する攻撃
e、受入国との合意に基づきその国の領土内に駐留する軍隊の合意に定められた条件に反する使用、又は合意終了後の右領土内における当該軍隊の駐留の継続
f、他国の使用に供した国家の領土を、右他国が第三国に対する侵略行為を行うために使用することを許容する当該国家の行為
g、上記の諸行為に相当する重大性を有する武力行為を他国に対して実行する武装部隊、集団、不正規兵又は傭兵の国家による派遣、若しくは国家のための派遣、又はかかる行為に対する国家の実質的関与
日本の満州占領も、さらに37年以降の日中全面戦争も、右のa・b・e項に明らかに該当している。日中戦争はこの定義にてらしても、紛れもない侵略戦争である。
二、侵略戦争の原因
満州事変の前夜、日本国内では「満蒙」(東北三省に東部内蒙古を加えた地域のこと)は日本の「生命線」だとする軍部や植民地主義者によるキャンペーンが、大規模に展開されていた。他国の領土を、勝手に自分の国の生存に必要な地域だというのは、乱暴な言いがかりだが、これは国民を戦争に駆り立てるスローガンとしては効果があった。それは日本がこの地域に持っている利権が、日清、日露の二度の戦争で、父祖の血であがなったものだという宣伝が行きとどいていたからである。つまり日本は、日清日露戦争いらい、中国領土の一部である満蒙を獲得すること、すなわち中国への侵略を、一貫して国家目的としていたのであった。
長い歴史の中で、日本は文化のすべてにわたって、中国に学んできた。文字も、宗教も、さらに生活の用具や習慣までも、中国の文化が多くの場合朝鮮を経由して日本に伝えられてきた。日本人は中国にたいして尊敬の気持ちと親しみをもっていたといってよい。それが明治維新を境に一転して、朝鮮を支配し、中国を侵略する道に突き進むことになった。それは何故だろうか。
明治維新によって日本は、封建社会から抜け出して、西欧列強を手本に近代国家の形成へと一直線に突き進んだ。だが明治国家の指導者たちがめざしたのは、軍事と経済だけの近代化であって、西欧近代社会の理念であった人権と自由を置き去りにしたものであった。それはブルジョア民主主義を実現したのではなく、強権的国家体制を作り上げたのである。
明治維新は封建領土を廃止し、武士の特権を奪って、中央集権国家を作り上げた点でたしかに大きい変革であった。しかし西欧のブルジョア革命が行ったような完全な農民の解放は実現できなかった。地主小作制度という封建的土地所有関係を温存したばかりでなく、軍備拡張のために高額な地租を取り上げることでそれを再生産していった。したがって日本社会は、近代化したといっても基本的には貧しい小作、自小作の農民が国家の多数を占めていた。また資本主義の発進にともなって、工業化も進んでいったが、そこでの労働力は、貧困な農村からはみ出した人々に頼っていたので、労働者の賃金は極端に安かった。貧しい農村の存在が、都市の労働者の低賃金を支えるという構造の社会だったのである。
農村も都市も貧しいということは、国内市場が極端に狭いということに他ならない。国内市場の狭さから、国外市場に依存しなければならないという特徴をもつことになった。しかもその技術的水準の低さから欧米資本主義との自由競争では勝目がないので、独占的な植民地市場が必要であった。はじめから植民地獲得の欲求をもったのである。
欧米列強の世界分割競争の最後の舞台となった東アジアで、日本は他に先がけて軍事と経済の部門での近代化に成功した。そして近い隣国であり、封建社会から抜けきれないでいる朝鮮や中国を植民地化の対象としたのである。日清戦争も日露戦争も、日本の国土を守るための戦争ではなく、朝鮮を支配するための戦争であり、まさに侵略戦争であった。
日露戦争の結果として朝鮮を植民地としたあとは、さらに大きな獲物である中国が目標となった。1914年第一次世界大戦にさいし、日本は連合国側に加わってドイツと戦うが、そのねらいが中国山東省にあるドイツの利権の奪取であることは明らかであった。さらにこのとき、日本が中国に突きつけた「対華二十一ヵ条要求」は、大戦による列強の不在に乗じて、中国の植民地化を進めようとするものであった。これ以後の東アジアの歴史は、日本の対中国侵略政策の進展、これにたいする中国民族運動の抵抗という形で推移する。1919年の五・四運動、1925年の五・三〇事件、1927、28年の山東出兵などは何れもそのあらわれであった。
この間に日本の支配者たちは、自国民にたいし意識的に中国にたいする優越感、中国への蔑視感を植えつけていった。そして中国の民族運動を、日清、日露戦争による日本の果実にたいする不当な反撃だと敵視し、中国の抗日運動を憎悪する国民感情を煽り立てたのである。
こうして日本は、早熟な帝国主義国としての本質的要求である植民地を中国に求め、国民に対中国敵対意識を植えつけ、対中国侵略戦争に突入していくのである。
三、満州事変の意義
1931年9月18日、関東軍の謀略である柳条湖事件をきっかけに、日本の満州武力占領が開始された。この事件は日本側が武力行使の口実をつくるため一方的にひきおこしたのものであることは、歴史的事実として明らかにされている。それにつづく満州の武力占領、傀儡国家「満州国」の樹立は、どう言いつくろっても他国への侵略である。国際連盟の総会も日本を非難し、日本軍の撤退を求める決議を42対1で可決したが、日本は連盟脱退をもってこれに応えた。世界が日本に侵略国の烙印を捺したのに、日本はこれに逆らって国際的孤立の道を歩み、さらに侵略を拡大していくのである。
日本帝国主義にとって満州占領の意義は、大きくいって三つあったといえる。第一は大恐慌によって深刻になっている国内の経済的危機を回避することであった。鉄、石炭などの資源の獲得と、日本資本主義にとって有利な市場を獲得することであった。第二は激化している国内の対立を、対外戦争に転化することで、とりわけ深刻であった小作農民の不満を満蒙の広大な土地への幻想をあたえることで緩和しようとしたのである。第三には、最大の仮想敵国であるソ連にたいして、満州の占領により有利な戦略体制を固めることであった。こうした目的があったからこそ、世界から孤立してまで満州の植民地化に踏み切ったのである。
このとき、日本の満州武力占領を可能にしたのも、三つの国際的条件が日本にとって有利だったからであった。第一は世界が大恐慌のまっただ中にあり、アメリカ、イギリスをはじめ中国に利害をもつ帝国主義列強が、日本にたいし武力制裁に出る余力がなかったことである。第二は満州にとくに関心をもつはずのソ連が、第一次五ヵ年計画による国内経済建設の最中で、武力介入の意図をもたなかったことである。そして第三は当の中国が国共の内戦に明け暮れ、国民政府は国土を日本に奪われているのに、何の抵抗もしなかったことである。
こうして日本の満州占領は一時は成功したかにみえた。しかし満州の占領は、かえって日本帝国主義の矛盾を拡大し、その解決のために、いっそうの侵略の拡大を不可避にするという結果を招くことになった。先ず満州の占領によって、日本資本主義は経済的利益を得るどころか、かえって重い負担を招くことになった。軍が主導権をもって行った満州の経営は、この地域を開発するのではなく、軍事戦略を優先させ、経済性を無視して鉄道を敷設することに示されているように、まったく収支がつぐなわれず持ち出しになるものであった。
また農村対策としての満州移民は、開拓ではなく中国人農民の土地を取り上げ、その反感、抵抗を招くだけに終った。満州における人民の抵抗は、治安確保のために兵力を割かねばならず、日本軍にとって大きな負担となった。満州の治安悪化は、背後からの工作によるものだとして、軍の華北への侵略の拡大への欲求をかきたてた。さらに満州の占領と華北への侵略準備は、中国国民のナショナリズムに火をつけ、抗日民族運動を昂揚させることになったのである。
四、全面戦争への拡大
満州の経営に行きづまった日本、とくに陸軍は、1935年ごろから華北を第二の「満州国」化しようとして華北分離工作を進め冀東防共自治委員会、冀察政務委員会をつぎつぎに成立させた。また関東軍の傀儡である内蒙軍を緩遠省に侵入させて失敗するなど(緩遠事件)、中国の抗日民族運動を一挙に燃えたたせた。このころになると、中国国民の民族意識のたかまり、幣制改革などの経済的統一の進展などによって、中国はようやく近代的統一国家としてのまとまりを見せはじめていた。しかし中国への蔑視感にとらわれている日本の軍部も政府も、この事態を認識できなかった。そのことが日中戦争全面化の背景にあったのである。
1937年7月7日の蘆溝橋事件は、6年前の柳条湖事件のような計画的陰謀ではなかった。しかし日本は前年に支那駐屯軍の兵力を一方的に三倍近くに増強し、中国側の反対を押し切って北京西南部の豊台に兵営を作った。この豊台駐屯の部隊が、抗日意識に燃える中国軍の目の前で夜間演習を行ったのだから、事件がおこるのは当然といえる。問題はこの事件を一挙に全面戦争に拡大したことである。
現地では、日本側の支那駐屯軍も、中国側の第29軍も、局地的な事件として解決する方針で、7月2日には両軍間で停戦協定を成立させていた。ところが同じ7月11日に、東京では近衛文麿内閣が「重大決議」のもとに華北へ増援部隊を送ることを決定し、一挙に戦争拡大に突き進んでいった。そして朝鮮と満州からの増援兵力がほぼ北京(当時は北平といった)、天津地方に集中した7月27日、支那駐屯軍にたいし、「平津地方ノ支那軍ヲ膺懲シテ同地方主要各地ノ安定二任ズベシ」との大命が出され、翌28日総攻撃が開始された。またこの27日、政府は「自衛行動」を開始するとの声明を発表し、陸軍は内地3個師団の動員を開始するなど、中央が主導して戦争を全面化させていったのである。
このとき陸軍には、参謀本部の第一(作戦)部長石原莞爾に代表される不拡大派があって、中国との戦争に深入りすることは対ソ戦備に妨げになると主張していた。だが陸軍の中堅幹部たちや杉山元陸相は、このさい中国に強大な一撃を与えてこれを屈服させようと主張する拡大派で、近衛首相や広田弘毅外相、さらに昭和天皇までが、こうした一撃論に立っていた。それは彼らが、中国にたかまってきた民族意識と、抗日統一戦線の力量を正しく認識することができず、たやすく中国を屈服させることができると軽視していたからであった。
8月に入って事件が上海に波及すると、陸軍の上海への派遣を決定し、8月15日に「暴戻支那」を「膺懲」するという政府声明を発表した。これは宣戦布告に代るもので、全面戦争開始の宣言であった。石原作戦部長は対ソ戦重視の立場から、なおも上海への兵力増強に反対したが、昭和天皇はくりかえし兵力増派を催促した。天皇が、大兵力で一挙に決戦を求めて、中国の戦争意志を放棄させようとする短期決戦論者であったことは、「昭和天皇独白緑」で自ら告白していることである。結局石原作戦部長は辞任し、上海方面へは陸軍兵力の増派がつづき、海軍も航空兵力の主力を投入して、南京など都市への戦略爆撃を行った。他国の領土に大軍を侵入させたことも、都市への無差別爆撃を行ったことも、国際法に違反する侵略行動に他ならないものである。
中国軍の抗戦は、天皇や日本政府や軍首脳の予想とは正反対で、激烈をきわめ、上海の日本軍は大損害を出した。三ヵ月の苦戦の後に、杭州湾に新たな軍を上陸させて、ようやく中国軍を退却させ、その勢いで首都の南京に急進した。そしてこの間に、「南京アトロシティーズ」(南京大虐殺)とも「レイプ・オブ・南京」(南京の強姦)とも名づけられて世界に知られた大残虐事件をおこした。そして戦争は、日本が予想もしなかった長期戦の泥沼に踏み込んでいったのである。
五、残虐行為とその背景
日本軍の残虐行為は南京で行われただけではない。日中戦争の全期間を通じて、日本軍の侵略にさらされた中国の全地域で、大規模に展開されたのである。南京大虐殺否定論者は、大虐殺そのものがデマだ、でっち上げだという全面否定論が完全に破産したので、現在では虐殺の人数に争点を絞り、犠牲者は数千、或は数万に過ぎず、中国側の30万というのは誇大な数だから、大虐殺ではないと主張しはじめている。しかし人数の問題を絞って大虐殺を否定する矮小化論は、さまざまなトリックを使っている。期間や範囲を限定した上で、捕虜の殺害や敗残兵の処刑は戦闘行為の継続だから虐殺ではないなどと、さまざまな言いがかりをつけて人数を少なく計算し、中国側の言うよりは少ないのだから大虐殺はでっち上げだと主張しているのである。
だが問題の本質は、南京の犠牲者の数の大小ではない。日中戦争における日本軍の残虐行為の存在とその内容なのである。中国人の犠牲者の人数を問題にするならば、30万どころか全体では1000万をはるかに上廻り、とても計算が不可能なくらいである。中国国務院の人権白書(1991年10月発表)では、蘆溝橋事件以後の8年間だけで「2100万人余りが死傷し、1000万人余りが虐殺された」(雑誌『世界』1994年2月号「白書・日本の戦争責任」による)という。これは公式報告だが、1987年7月に東京と京都で開かれた蘆溝橋事件50周年日中学術討論会では、劉大年中国社会科学院近代史研究所名誉所長が、「死者2000万人」と報告している(井上・衛藤編『日中戦争と日中関係』原書房、1988年)。さらに1995年5月独ソ戦勝利50周年にあたり、モスクワに招かれた江沢民中国共産党総書記は、記念演説で「中国の被害者数は3500万」としている(姫田光義『「三光作戦」とは何だったのか』岩波ブックレット、1995年による)。この膨大な数を前にしては、南京での犠牲者の数の大小をあげつらって「侵略」かどうかなどと議論することの無意味さは明らかであろう。
日本軍がどうしてこのような大規模な残虐行為を行ったのか。日中戦争を考えるとき、このことを先ず問題にすべきであろう。
第一に日本は、中国との戦争で国際法に違反し、大量の捕虜を不法に殺害したことを挙げなければならない。華北での戦闘が本格化した1937年8月5日、陸軍省は支那駐屯軍にたいして、この事変には国際法の戦争法規は適用しない、「俘虜」(捕虜の公用語)という名称は使うなという通牒を出した。この方針は、その後もずっと続けられた。このことは、現地の軍では、国際法は守らなくてもいい、捕虜は作るな、という方針だと受けとられたのである。
南京大虐殺の主要な部分も、捕虜の大量処刑である。南京だけではない。日中戦争の全期間、全戦場において、日本軍は中国人捕虜を、国際法にも人道にも背いて殺しつづけたのである。かつて日本は、日露戦争にさいしてロシア人捕虜、第一次大戦のドイツ人捕虜を、国際法にもとづいて適正に処遇し、文明国だと賞められたことがあった。しかし欧米にたいする場合と中国にたいしてとは、まったく違った基準で対応したのである。それはアジア諸国、中国や朝鮮にたいする差別意識があったからである。中国との戦争では国際法を無視し、俘虜情報局や正規の俘虜収容所も設けず、捕虜の取扱いは現地の軍に任せ、結果としては捕虜の大量処刑、虐殺を放任したのである。
第二に、非戦闘員である一般民衆にたいする大虐殺が行われたことをあげなければならない。上海の激戦につづく南京攻略戦で、民衆にたいしての掠奪、暴行、放火、殺害をくり返し、とりわけ女性にたいして手当り次第に強姦をつづけた。このことによって、事件が「南京アトロシティーズ」とか、「レイプ・オブ・南京」として、世界に知れわたったのである。しかもこうした一般人民への迫害は、南京にとどまらずこれも戦争の全期間、全地域にわたって展開されたのであった。
一般民衆の生活や生命を犠牲にすることそれ自体を目的にして、日本軍が実行したのが、中国側の名づけた「三光政策」に該当する掃討作戦である。中国共産党の解放区の掃滅と封鎖を目的に北支那方面軍が行った遮断壕の構築、無人地帯の設定などの作戦は、1941年ごろから本格的に強行された。これは民衆の海の中に溶けこんでいる八路軍に手こずった日本軍が、民衆そのものを敵として、これを掃滅し、そのものを燼滅(焼き滅ぼす)することをめざした作戦で、まさに殺しつくし、奪いつくし、焼きつくすという意味の三光作戦と言えるものであった。
このような民衆を敵視する作戦がくりかえされた中での中国人民の犠牲は、はかり知れないものがある。殺人、強姦、放火、掠奪その他あらゆる迫害にさらされた。日本軍がなぜこのような非人道的で不法な残虐行為を行ったのだろうか。それは民族をあげての抵抗に直面した帝国主義軍隊が、勝利の見込みをなくしたときに犯す絶望的な蛮行といえるもので、ベトナム戦争に行きづまったアメリカ軍の残虐行為と、同類のものと言える面もある。しかしそれだけにとどまらず、日中戦争の日本軍には、このような行為に走る背景が存在していたのである。
その一つは、明治維新後の日本が、前に述べたように経済と軍事だけの近代化を追い求め、西欧の近代が理想とした人権と自由という観念を欠落させてきたことである。そうした近代日本の縮図が軍隊であって、兵士の生命が軽視されただけでなく、その人格はまったく認められず、自由は完全に抑圧されていた。自国でも人権と人道を認めない軍隊が、敵地の人民の人権を蹂躙するのは当り前で、非人道的行為にも逡巡することはなかったのである。
二つには、中国人民の抵抗が予想に反して強かったことに驚き、恐怖心と敵意を燃やしたことである。一撃を与えれば簡単に屈服するだろうと予想していた中国の思わぬ抵抗に、軍の上層部も末端の兵士も、驚愕し憎悪して残虐行為に走ったのだといえる。
三つめにあげることができるのは、戦争が拡大することで、日本軍は予想もしなかった大兵力を戦場に送ることになった。このため軍隊の素質は極端に低下し、軍紀風紀が頽廃した。また予期しない戦争の長期化に、士気も低下の一途をたどった。これが強姦や掠奪などの不法行為の多発した原因になったのである。
六、戦争責任と補償問題
戦争が日本の侵略であることは明らかで、戦争責任が日本に存在することは国際的にも認められている事実である。またこの不法な戦争で、中国人民にたいしてはかり知れない大きさの被害をあたえたことも、疑う余地のない歴史なのである。
ところが現在の日本には、戦争が侵略であったことを認めようとはせず、戦争を美化し肯定しようとする勢力が、政界、財界、学界などに根強く存在しており、その言動がしばしばアジア諸国の人々の怒りを呼びおこしていることも残念ながら事実である。この点で、同じ第二次大戦の侵略国であったドイツと比べると、日本の対応はきわめて不徹底で、ドイツのように戦争責任を明白に認め、公式に謝罪することを戦後の日本は怠ってきたのである。
1990年代になって、アジア各国の戦争犠牲者が、日本政府を相手にして、謝罪と補償を求める裁判をつぎつぎに起こしている。これにたいして日本政府は、戦争賠償の問題は解決ずみ、個人補償は時効か除斥期間が過ぎているという態度を一貫して取りつづけている。中国に関していえば、1952年4月日本は台湾の国民政府を中国を代表する正統な政府だとして、日華平和条約を結んだ。このとき国民政府は、賠償請求権を放棄した。これはいわば台湾政府を中国を代表するものと認めて貰ったお返しであった。それから20年後の1972年9月、田中内閣は台湾と断交し、北京の中華人民共和国政府を承認して、日中共同声明を発表した。この声明の中では、「中華人民共和国政府は、日中両国民の友好のために、日本国に対する戦争賠償の請求を放棄することを宣言する」と言明されている。これをもって、日本政府は賠償問題は決着ずみとしているのである。
しかしこれは戦争における国家間の賠償の放棄であって、国家や軍の犯罪によって被害を受けた個人への補償の問題とは別である。まして日本は、米英とは戦争をしても、中国とは41年までは戦争ではなく事変だといっていたのだから、その間の行為は放棄した賠償には入らないはずである。またその後であっても、殺人、強姦、放火、掠奪などの犯罪は、国家の戦争賠償とは別で、個人にたいする補償の問題である。
同じ侵略国のドイツは、一貫してドイツの犯罪による犠牲者には、誠実に補償をつづけている。連邦賠償法その他の法律で、ユダヤ人をはじめとする被害者に、2020年までかかって年金を払いつづけているのである。東西ドイツの統一後は、未決着であった東ヨーロッパ各国の被害者への補償に取り組んでいる。97年12月28日の朝日新聞は、東欧のナチス犯罪被害者への補償問題で、ドイツ政府とユダヤ人の国際組織が基本合意に達し、ドイツ政府は東欧の犠牲者のために基金を創設して年三回補償金を拠出することになったと報道している。これはすべて個人にたいする補償なのである。
日本がこれからアジアの中で、真に親しまれ愛される国として生きつづけていくためには、そして中国との間にも民衆のレベルでの友好関係を築き上げていくためには、謝罪と補償は先ず実行しなければならないことである。日中戦争は日本の侵略戦争であったこと、その中で南京虐殺や、毒ガス、細菌兵器の使用や、三光作戦や、おびただしい強姦殺人などの膨大な数の残虐行為を犯したことを率直に承認し、謝罪しなければならない。そして被害者個人への補償問題にも、誠実に対処していかなければならない。それなしに戦争は終らないのである。」
http://www.ne.jp/asahi/tyuukiren/web-site/backnumber/04/hujiwara_nittyuusensou.htm