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止めよう印日原子力協力協定締結世界に大惨事をもたらす前に/原子力資料情報室より

2015-12-23 15:05:25 | 原発
「止めよう印日原子力協力協定締結世界に大惨事をもたらす前に
2015/12/04 『通信』より国際関係
『原子力資料情報室通信』第498号(2015/12/1)より

クマール・スンダラム
(CNDP(核廃絶と平和のための連合)国際キャンペーン担当)

 安倍晋三首相はこの12月、インドを訪問し首脳会談に望む予定だ。その際、日印原子力協力協定を締結する可能性があると報じられている。しかし。この協定は多くの問題を抱えている。そこで、インドでこの問題に取り組んでいるCNDPのクマール・スンダラムさんにインドとの原子力協力協定締結の持つ問題点を解説してもらった。なお、当室もこの協定の持つ問題点について調査レポートを発表したので合わせてお読み頂きたい。また、安倍首相の訪印に合わせて12月9日までだが、日印原子力協力協定締結反対のための国際署名キャンペーンを実施中だ。ぜひご協力頂きたい。(松久保肇)



 印日原子力協力協定は単なる二カ国だけの問題ではなく、国際的な惨事を引き起こしかねないものだ。東京電力福島第一原発事故から5年目を迎えようとしている私たちは、その重要性を認識し、協定締結に反対しなければならない。
 この協定は主に3つの問題を引き起こす。

1.福島原発事故後、壊滅の危機に直面していた世界の原子力業界は、インドをつかってその危機的状況から財政的に回復し、再び世界市場に返り咲くだろう。
 原発はいま、高騰する建設コストや工期の長期化、市民の脱原発意識や規制強化にともなうコスト増、高効率で競争力の高い再生可能エネルギーの出現などの課題に直面している1)。そのため、原子力業界が主張していた「原子力ルネサンス」はインド、中国、その他いくつかのアジアの国の限られた原発建設計画を除いては実現化していない。インドには福島原発事故後の世界で最大の原発建設計画がある。世界の原子力産業は、緩い規制基準や貧困者に対する政治的な無関心さから、この国を魅力的な市場だとみなしているのだ。
 日本企業のみが製造できる原発機材があるため、印日協定は米国やフランスがおこなうインドの原発建設計画にも欠かせない。なお、米国の原発大手GEとウェスティングハウスは日本の関連企業でもある。短期的には、この計画はフランスのアレバが建設する6基のEPR型原子炉、GEとウェスティングハウスが建設するそれぞれ4基の原子炉建設を意味している。日本企業にとっては一部の機器のみの供給にとどまり、ターンキーでの原発購入契約も今のところ無いことから利益はそれほど大きくない。報道によれば、米国とフランスは日本に対し、インドと可及的速やかに協定を締結するよう圧力をかけている。

2.この協定はインドの民衆、特に地方の最も弱い立場の人々の生存にとって深刻な脅威となる。インド政府はこれらの原発計画を、地元の反対や、人口過密地であることや、壊れやすく繊細な自然環境を無視し、人々に銃口を突きつけて強要している。こうした地域で、自然の恩恵を受けながら生活を営む何万人もの農民や漁民、女性や子どもたちにとって、原発計画はほんの少しの賠償金と引き換えの強制移住や、伝統的な職業生活の喪失も意味している。
 原子力エネルギーは本来的に乗り越えられない問題を抱えている。世界は福島原発事故をうけて、「原子力安全」が矛盾した言葉であることに気がついた。産業界は「原子力安全」を追い求めて来たが得られず、遂に取り返しのつかない原子力事故を引き起こしたのだ。また、インドの原子力産業は透明性の欠如や、規制の独立の不十分さなどから、さらに危険な代物となっている。恐らく福島原発事故後、原子力規制をより弱めようとしているのはインドぐらいのものだろう。
 原発メーカーに課せられた原発事故時の補償にかんする法的義務は今でさえ不十分であるのに、インド政府はそれを全力で取り除こうとしているのだ。
 潜在的な事故リスクを抱える原発が無責任で欠陥のある運営に委ねられている。こうした状況はインドの巨大な官僚主義的無関心や汚職とあいまって、原発地元の貧困層に悲惨な結末をもたらしかねない。

3.現在、国際社会は核拡散リスクの増加に対応して、世界原子力産業レジームをより厳しくしていこうとしている。そのような状況で日本がインドと原子力協力協定を締結することは、核実験を実施した国への実質的なご褒美となり、国内外に対する悪しき前例となる。
 インドは1998年に核実験をおこなった。差し迫った危機や挑発もない状況で、右派のインド人民党(BJP)政権が自らのイメージを強化するために実施したのだ。強いナショナリズムを求める姿勢は、インドのヒンドゥー化の促進とも絡み合い、少数民族やヒンドゥー教徒以外を抑圧する方向へ向かっている。今日、BJPはさらに強硬な指導者と暴力的な多数派のもとで再び政権を獲得した。インドの軍事化は南アジアに波及することだろう。南アジアにはインドとパキスタンという2つの核兵器国がある。両国間には幾つかの小さな衝突があり、たびたび国内政治を操作するために使われている。この状況は核攻撃の応酬にもつながりかねない。
 また、印日関係が軍事的に転換したことも見逃してはならない。安倍晋三首相は兵器輸出を解禁したが、その最初の輸出先はインドとなる。インドは新明和工業製の水陸両用“救難”飛行艇US-2を購入する予定なのだ。インド洋で日米印の海軍共同訓練が実施された。米国、日本、インドが共同してこの地域における中国の進出に対抗するという、米国の戦略の一部と見られる。こうした動きはパキスタンと中国の懸念を高めている。

岐路にさしかかったインドの原子力の将来

 日本との原子力協力協定は、インドの原子力開発計画の重要な岐路と同時に訪れた。インドの新首相ナレンドラ・モディはBJPに所属しており、核兵器と原発を国家の誇りとしている。首相に就任してからこれまでの1年半で、モディは米国、フランス、オーストラリア、モンゴル、日本を訪問し、原子力協力を強く求めた。彼は、BJPが野党だった10年前に提起した限定的な留保*1ですらかなぐり捨てた。インドの原子力委員会(AEC)委員長に新しく指名されたシェカー・バスはモディの原発計画を後押ししている。彼は記者会見で外国の原発メーカーは国内のいかなる事故においても責任を負うべきでないと主張した。
 インドの2010年原子力損害賠償法17条(b)では、原発事故が発生した際、インド原子力発電公社(NPCIL)が原発メーカーに損害を求償する権利を規定している。この条項は議会と市民社会の圧力のもと、当時のマンモハン・シン政権がしぶしぶ導入したものだ。当時、ボパール化学工場事故*2の裁判で企業側の罪をほとんど問わない判決が出されたことから、一般市民の激しい抗議がおきていた。この法律には、損害賠償額を極めて低く設定していることや、複雑な手続き規定などの多くの問題がある。しかし、この条項は海外と国内の原発メーカーにたいして限定的ながら歯止めとなった。
 原発メーカーの責任を軽く、または、回避しようとする試みはすぐに始まった。発電公社と原発メーカーの間の契約内容においてそれは含まれている。さらに、2011年に策定した原子力損害賠償規則―2010年原賠法のガイドライン―において、インド政府は製造者責任の期間をわずか5年間に限定した。著名な法律家ソリ・ソラブジーはこの規定を、法の理念を歪める「越権行為」であると指摘している。
 マンモハン・シンは首相としての最後の外遊で米国を訪問し、原賠法の再解釈―発電公社は原発メーカーに求償権を行使しない選択肢がある―を「おみやげ」として提案した。そして、彼はオバマ大統領に対して、インドの発電公社は国有企業であり、原発メーカーに対して求償権を行使することはないと保証した。しかし、この約束はGEやウェスティングハウスの懸念を払拭するには至らなかったようだ。彼らは大規模な原発事故の発生に伴って市民の圧力が高まるような状況になった場合、将来のインド政府がこの約束を守るかどうか、確信が持てなかったのだ。
 外国企業はインド原賠法を、原子力損害の補完的補償に関する条約(CSC)から逸脱しているという点においても反対している。外国企業はCSCを国際標準として世界の国々が受け入れることを望んでいるからだ。皮肉なことにインドは、インド原賠法が制定される直前の2010年10月にCSCに調印した。そして議会に対してCSCを口実に国内法を改正するように促している。当時、CSC加盟国は少なく、今年4月にCSCは発効したばかりだ。インドは自らの原子力分野において魅力的な市場であるという立場を捉えて、発展途上国の人々にたいして十分な損害賠償額を保障するようCSCの修正を主張した。現在、日本の署名により要件を満たしたCSCは発効し、これから原発を受け入れる国々に対して原発メーカーを損害賠償責任から除外するように圧力をかける武器となっている。

動かないクダンクラム原発

 原子力委員会の新委員長は声明で「まもなく」クダンクラム原発は稼働を再開すると発表した。このインド南端に位置するこの原発は、地元住民の反対を暴力的に抑圧して2年前に鳴り物入りで稼働した。
 ロシアから輸入されたクダンクラム原発計画は始めから議論の種だった。インドのほぼ最南端のこの地域をめぐって2001年中頃から、政府や原子力ロビーと、反原発、自然保護派、そして地元住民とのあいだで激しい議論がおこなわれた。3年半前、原発推進派たちは計画を進めるために、タミル・ナドゥ州や他の南部諸州の電力危機の解決には原発建設計画こそが必要なのだという口実をかき集めた。抗議活動は最終的には離散させられ、1号機は2013年10月22日に稼働した。
 クダンクラム原発は稼働開始してから定格出力運転に移行するまでに長期間を要し、ようやく2014年12月31日になって商業運転開始を宣言した。この14ヶ月間で、原子炉は緊急停止や3度の保守停止などによって19回も停止した。緊急停止は、原子炉試験においてはよくあることだ。しかしクダンクラム原発での緊急停止の頻度は非常に高い。4,701時間の運転時間で14回もの緊急停止がおきているのだ。年あたり20.8回の緊急停止が発生する計算となる。
 世界原子力協会(WNA)の報告2)によれば世界の緊急停止平均回数は1炉年あたり0.37回であり、クダンクラム原発はこれを大幅に超過している。報告によれば、もっとも成績の良い10の原子炉では緊急停止は年にわずか0.25回しか生じない。同レポートは1回の緊急停止に伴う運転停止期間は平均1.5日だと指摘している。これに対してクダンクラムでは6.5日、おおよそ1週間にもなる。また、2年間の運転経験のなかで、クダンクラム原発は100日間連続で定格出力運転を継続するという最低基準すら達成できていない。2014年12月10日から2015年8月24日までの134日間は出力以下運転しており、定格出力で運転したのは合計で124日間だけだ。

印日原子力協力協定交渉は中断するべきだ

 インドでは地元住民や活動家が原発に反対している。彼らは、生活や環境への悪影響や、原発がもつ本質的な危険性、インドのエネルギーの未来にとって望ましくない不経済性、ごまかしの原子力規制、無責任な原子力産業など、多岐にわたる問題を提起している。さらに福島原発事故後、世界の潮流は原子力から離れている。そのことをインド政府は原子力への執着から捉えそこねているのだ。
 世界と南アジアの市民は、今日、より実効的な核兵器廃絶への動きと非核地帯を求めている。しかし印日原子力協力協定はむしろインドの核兵器を正当化することになる。そして米国の戦略に従い中国と対立するために、インドと日本の軍事関係を強化することにも繋がる。
 平和と民主主義を愛する世界のすべての人々は、インドと日本の原子力協力協定を廃棄するよう要求しなければならない。わたしたちはその代わりに代替可能エネルギーに集中し、福島原発事故から学び、広島・長崎の被爆70周年の今年、核兵器の削減と廃絶に注力するべきなのだ。 
 (翻訳/松久保肇)

脚注
1)世界原子力産業年鑑 2015
2)Optimized Capacity: Global Trends and Issues 2012 edition,

訳注

*1:2008年に米国との原子力協力協定が議論された際、BJPは同協定を核の自律性を侵害するとして反対した。
*2:1984年、米のユニオン・カーバイド社子会社がインドのマッディヤ・プラデーシュ州ボパールで起こした有  毒ガス漏洩事故。長期的には25,000人が死亡したとされる。」

http://www.cnic.jp/6785

Nuclear workers kept in dark on Fukushima hazard pay/ロイター

2014-10-08 15:25:24 | 原発
`(Reuters) - Almost a year after Japan pledged to double hazard pay at the stricken Fukushima nuclear plant, workers are still in the dark about how much extra they are getting paid, if anything, for cleaning up the worst nuclear disaster since Chernobyl.

Under pressure to improve working conditions at Fukushima after a series of radioactive water leaks last year, Tokyo Electric Power Co President Naomi Hirose promised in November to double the hazard pay the utility allocates to its subcontractors for plant workers. That would have increased the amount each worker at the nuclear facility is supposed to earn to about $180 a day in hazard pay.

Only one of the more than three dozen workers interviewed by Reuters from July through September said he received the full hazard pay increase promised by Tepco. Some workers said they got nothing. In cases where payslips detailed a hazard allowance, the amounts ranged from $36 to about $90 a day – at best half of what Hirose promised.

In some instances, workers said they were told they would be paid a hazard bonus based on how much radiation they absorb – an incentive to take additional risks at a dangerous work site.

One worker interviewed by Reuters said he was told he would get an additional $45 per day every time he was in so-called “hot zones” near Reactors No. 1 and No. 2. Another worker was told he would receive an hourly rate that worked out to $4,500 extra in hazard pay for being exposed to the radiation limit for Japan's nuclear workers over a five-year period. And a third worker said he was told the payout for that same exposure would be $36,000.

Assessing how much Fukushima workers are being paid is complicated by Tepco's insistence that pay is a private matter for its contractors. The power utility, which runs Fukushima and has been nationalized, sits at the top of a contracting pyramid that includes construction giants such as Taisei Corp. Tepco has declined to disclose details of any of its legal agreements with its subcontractors.

The top Tepco official at the plant conceded during a July press tour of the complex that he did not know how much of the increase in hazard pay was being disbursed. "When it comes to the pay rise, I don't have an exact understanding of how much money is getting directly to the workers," said Akira Ono, the Fukushima plant manager.

Tepco said in a statement to Reuters that it instructs subcontractors to ensure workers' pay is included in all contracts and it also asks companies working at the plant to submit documentation for all the subcontractors they use. The power utility said it had recently begun random checks of some of the smaller contractors to determine how much of the hazard pay is reaching workers. A worker who filled in a Tepco survey told Reuters in September that one of the questions was directly related to hazard pay.

Tepco still relies on some 800 mostly small contractors to provide workers for the cleanup after the tsunami that swamped the plant on March 11, 2011 sparked meltdowns at three reactors. Subcontractors provide almost all of the 6,000 workers now employed at the plant. Tokyo Electric employs only about 250 on its own payroll at the facility.

The workforce at Fukushima has almost doubled over the past year, mostly as part of an effort to protect groundwater from being contaminated and to store water that comes in contact with melted fuel in the reactor buildings.

Some of the workers who arrived recently at the plant have been building bunkers to store highly radioactive sludge, which is a by-product of the process whereby contaminated water is treated. Others are installing equipment to freeze a ring of earth around four reactors at Fukushima to keep water from reaching the melted cores, an unprecedented effort directed by Kajima Corp and expected to cost nearly $300 million.

Kazumitsu Nawata, a professor in the University of Tokyo's department of technology who has researched conditions inside Fukushima, said that if workers do not receive pay that is commensurate with the risks they are taking, they will ultimately look elsewhere for employment. If more experienced workers leave for safer jobs in Tokyo where construction projects are accelerating ahead of the 2020 Olympic Games, it will also increase the likelihood of accidents at the plant, Nawata said in an interview.

"Until now, we have relied heavily on the goodwill of workers. But it's already been three years since the accident. This is no longer sustainable," he said.



IGNORED PLEDGE

Like other workers, Koji Sakurada learned about the hazard pay pledge soon after Tepco president Hirose made his announcement last November. News of the promised increase spread by word of mouth and text messages at a crowded break room at the plant.

"I expected one of my (subcontractor) employers to call a meeting to talk about a raise, but there was nothing," Sakurada said. "They completely ignored Tepco's announcement."

By then, Sakurada, 52, had already spent a year and a half scanning buses and work vans for radiation as they left the plant. Wearing a protective suit and mask, he worked a nine-hour shift running a Geiger counter over the vehicles in a makeshift tent set up as a decontamination station. He was paid about $9 an hour.

Sakurada was one of four Fukushima workers who last month filed a lawsuit seeking to hold Tepco responsible for conditions at the plant, even for workers it does not employ directly. It marks the first time Tepco has been sued for a failure to police the employment practices of its subcontractors.

The lawsuit, which was filed in a court in the city of Iwaki, about 60 kms (37 miles) south of the nuclear plant, seeks $600,000 in unpaid wages. It also seeks to have Fukushima workers put on Tepco's payroll or have the utility otherwise take responsibility for their pay. [ID:nL3N0R407F]

Tepco said it had not yet received Sakurada's lawsuit. "If a suit has indeed been filed, we will check the demands and claims and make a sincere effort to deal with it," the company said.

Interviews with 37 current and former workers, almost all of whom spoke on condition of anonymity, revealed a wide variance in how they were being compensated, particularly for hazard pay. Six workers employed by different subcontractors for Taisei and who were working side by side in July building concrete bunkers were receiving a hazard allowance that ranged from zero to $90 a day.

Taisei said it could not comment on the claims without more details about the identity of the workers. The company said it oversees and monitors all the subcontractors it employs.

Only one worker interviewed by Reuters, a crane operator who reports to Raito Kogyo, a large Tokyo-based construction company, said he was receiving the promised hazard allowance of $180 per day.

OLYMPIC ANGST

Tepco's pledge last November to increase hazard pay came after a nudge from Japan's government, which was seeking to burnish its image in the weeks leading up to Prime Minister Shinzo Abe's pitch last year for Tokyo to host the Olympics. Abe assembled a previously undisclosed public relations team for this purpose, including officials from the trade and foreign ministries, according to two members of the team.

With Fukushima spinning back into crisis as new revelations emerged of radioactive water leaks, the Japanese were concerned that their chances of pulling off a successful Olympic bid might be damaged. Abe's then-trade minister compared Tepco's attempts to control the leaks to a game of "whack-a-mole."

In Buenos Aires in early September, Abe told the International Olympic Committee that the water leaks from Fukushima were "under control," a remark that attracted widespread criticism from opposition lawmakers and environmental activists back home.

By late October, after Tokyo was awarded the Games, Abe's PR team was battling negative publicity over working conditions at Fukushima, the two team members said. Abuses at the plant were outlined in a report by Reuters that exposed illegal labor practices as well as the involvement of organized crime in providing workers for the clean-up. [ID:nL4N0HS0UJ]

The government encouraged Tepco to take action, partly in response to the reports. That led to Hirose's announcement in November to double hazard pay, according to one of the people on the PR team.

Within weeks of the pledge, Tepco was quietly back-pedalling. In a letter issued to contractors in late November, first reported in the Mainichi newspaper, the company said the promise to double the hazard allotment was "aimed at improving pay for workers," but that did not mean each worker would necessarily see a pay increase of that amount.

In testimony before parliament in March where he was questioned about hazard pay, Hirose said he wanted to encourage Tepco's contractors to pay "an appropriate wage to each and every worker."

'LIKE HITTING A RESET BUTTON'

Sakurada moved to Fukushima in May 2012 to be closer to his fiancée in Iwaki. He took a job with a local company because he was promised a place to stay.

TOP, a local firm that supplies workers for construction, only told Sakurada he would be working in the nuclear plant two days before he started. When Sakurada asked for a pay rise to compensate for the increased danger, he said a TOP manager told him it would be unfair to others to pay him more.

By early 2014, Sakurada said he'd seen a 56-year-old worker fired for reaching his radiation limit. He had also watched another middle-aged worker – a man he did not know – die in front of him of an apparent heart attack. None of the other workers knew how to revive him with a defibrillator kept in the break room, he said.

Sakurada quit in May. Unlike the other plaintiffs in the lawsuit, he agreed to be interviewed and identified by name for this report.

TOP’s manager did not respond to repeated calls to the company headquarters or faxed questions about Sakurada's claims.

"The whole structure at Fukushima, everything from working hours to radiation levels, needs to be made clear. Like hitting a reset button," said Sakurada.

(1 US dollar = 108.64 Japanese yen)

(Additional reporting by Kevin Krolicki. Editing by Bill Tarrant and Peter Hirschberg.)`

http://www.reuters.com/article/2014/10/08/us-fukushima-workers-insight-idUSKCN0HW24120141008

関電、田中角栄ら歴代首相7人に献金 元副社長「原資はすべて電気料金だった」/ハフポト

2014-07-28 10:12:05 | 原発
「関電、歴代首相7人に年2千万円献金 元副社長が証言

関西電力で政界工作を長年担った内藤千百里(ちもり)・元副社長(91)が朝日新聞の取材に応じ、少なくとも1972年から18年間、在任中の歴代首相7人に「盆暮れに1千万円ずつ献金してきた」と証言した。政界全体に配った資金は年間数億円に上ったという。原発政策の推進や電力会社の発展が目的で、「原資はすべて電気料金だった」と語った。多額の電力マネーを政権中枢に流し込んできた歴史を当事者が実名で明らかにした。

内藤氏が献金したと証言した7人は、田中角栄、三木武夫、福田赳夫、大平正芳、鈴木善幸、中曽根康弘、竹下登の各元首相(中曽根氏以外は故人)。

内藤氏は47年に京大経済学部を卒業し、関電前身の関西配電に入社。62年に芦原(あしはら)義重社長(故人)の秘書になり、政財界とのパイプ役を約30年間務めた。関電の原発依存度は震災前は5割を超え業界でも高く、原発導入を円滑に進めるには政界工作が重要だったという。

内藤氏は2013年12月から今年7月にかけて69時間取材に応じ、11年3月の東京電力福島第一原発の事故について「政府の対応はけしからん」「長年築いてきた政・官・電力の関係に問題があった」と指摘した上、多額の政治献金を電気料金で賄ってきた関電の歴史を詳細に語った。

関電の内藤元副社長の証言に対し、中曽根康弘元首相の事務所は取材に「秘書官は故人で当時をわかる者が事務所にいない。そういうことはなかったと思う。元首相本人は高齢のため確認していない」。本人への確認を再度求めたが、27日までに回答はなかった。

田中角栄元首相の長女真紀子氏の事務所は「関係者に確認したが初耳との答えだった」。三木武夫元首相の長男啓史氏は「そのような事実はなかったと思う。当時の秘書官は故人となり確認は難しい」。福田赳夫元首相の長男康夫元首相は「わかりかねる」とした。

大平正芳元首相の秘書官だった森田一氏は「盆暮れに私邸に来たことはある。1千万円の授受は初めて聞いた」。会計担当だった小国宏氏は「私邸で受け渡しはなかったと思う。関電東京支社で内藤さんから金を受けた記憶はある。関電宛ての数団体の領収書を送った。政治資金ルールを守っていた」。鈴木善幸元首相の秘書官だった材津昭吾氏は「面談を依頼された記憶もない」。竹下登元首相の弟亘氏は「そういう話は聞いたことがない」とした。」

http://www.huffingtonpost.jp/2014/07/27/kanden-kenkin_n_5625429.html?utm_hp_ref=japan

川内原発・再稼働の地獄絵巻/田中龍作

2014-07-10 13:10:15 | 原発
「 原発推進勢力がなりふり構わず再稼働させたがっている九電・川内原発。原子力市民委員会はきょう、都内で「川内原発・再稼働の無期凍結」を求める記者会見を開いた。
 
 原子力規制委員会が川内原発について再稼働の「合格証書」にあたる「審査書案」をきょう、出すはずだったからだ。
 だが自公候補の苦戦が伝えられる滋賀県知事選挙の投開票が10日に行われることから、影響を考慮して一週間ずらした。

 原発の設計技師や環境問題の専門家などからなる「原子力規制委員会」は、科学的知見にもとづき川内原発の再稼働がデタラメで危険極まりないことを証明した。

 新規制基準の適合審査では「冷却水を失う配管破断と全交流電源喪失が同時に起こった場合の対策」が要求されている。

 だが九電の回答は「炉心溶融と原子炉容器の破損は防げない」というものだった。明らかな開き直りである。

 九州電力は原発の耐震強度にかかわる基準地震動についても過小申告していたことが明らかになっている。

 そのうえ地震と密接に関わる配管破断が起きた場合の対策も満足に講じていないのだ。もともと安全に対するモラルの低い組織が、世界有数の危険物を扱っていることになる。

原子力市民委員会の記者会見。専門家たちは「川内原発再稼働の危険性」を実証的に述べた。=9日、日比谷 写真:筆者=
原子力市民委員会の記者会見。専門家たちは「川内原発再稼働の危険性」を実証的に述べた。=9日、日比谷 写真:筆者=

 避難対策も背筋が寒くなるほどいい加減だ。川内原発が立地する薩摩川内市の住民の避難先は鹿児島市、指宿市などになっているが、風下なのだ。放射性物質の拡散シミュレーションを踏まえていれば、風下に避難させるなどということはありえない。

 放射能を逃れて来たはずの人々が放射能を浴びるのだ。飯館村の悲劇が繰り返されるのである。 
 
 極め付けは火山噴火を考慮に入れていないに等しいことだ。桜島を含む姶良カルデラが噴火すれば、溶岩が川内原発にまで達することが研究で明らかになっている。

 そうなれば全電源喪失は免れない。火災による原子炉建屋の倒壊もある。

 使用済みの物も含めた核燃料が“被災”するのだ。福島第一原発4号機が示すように取出しは1年以上もかかる。噴火予知はせいぜい数か月前だ。

 姶良カルデラが噴火すれば、膨大な量の核燃料が被災することになる。日本国内どころか、近隣諸国が高濃度放射線汚染されることを想定に入れなければならない。

 想像を絶する地獄絵巻が広がることになるだろう。

 川内原発の再稼働に向けた手続きから浮かび上がったことは、原子炉の安全規制は事実上、強化されておらず、避難計画もズサンこのうえないということだ。

「福島の教訓云々」は空念仏なのである。」

http://tanakaryusaku.jp/

「福山調書」朝日新聞 第1回 3,10,20の裏側

2014-06-17 18:17:55 | 原発
「「福山調書」 プロローグ  第1回         10391251

3、10、20の裏側スクロール

 福島原発事故の発生時、危機管理担当の官房副長官だった福山哲郎氏が、政府事故調査・検証委員会の聴き取りに答えた「福山調書」を朝日新聞は入手した。

福山氏は、刻一刻と悪化する原発の状況に追われるように、住民の避難区域を決めていった当時の首相官邸の様子、緊急時迅速放射能影響予測ネットワークシステム(SPEEDI)をどうして事故当初から使わなかったのか、計画的避難区域の決め方について詳しく話をしていた。

 政府事故調の最終報告書は、福山調書の内容を一部勘案した痕跡がある。しかし、住民避難について国は、地方自治体任せで一歩引いた状態で、事故調の報告書の避難に関わる部分が国の新たな原子力行政に生かされるかは疑わしい。関係自治体はそれぞれ独力で、今回明らかになった福山調書の内容を吟味して、本当にこんなことで住民を原発事故からうまく避難させることができるのか、根本のところから考える必要がある。(以下敬称略)

 東日本大震災発生当日の2011年3月11日午後9時23分、政府は菅直人首相名で福島第一原発から半径3キロメートル圏内に避難を指示した。このころ福島第一原発所長の吉田昌郎は、1号機については非常用の冷却装置が働き冷却が続いていると判断していた。心配していたのは2号機の方で、午後9時2分、監督官庁である原子力安全・保安院に原子炉の水位が不明で注水状況も確認できないと報告していた。


なぜ3km

――― 3km、なぜ3にしたかという部分は覚えてらっしゃいますか。

福山「今申し上げたとおりです。まずもともとが2kmになっていませんか」

――― 2kmは福島が出しているのですね。

福山「それを私たちは知らないのですけれども、防災マニュアルはなんて言われていましたか。3kmでしたか」

――― マニュアル上、何kmで先に出せということは書いていないのです。

福山「3kmぐらいまでは準備ができています、みたいなのが保安院からあって、それで結果としていっぺんに出したら近くの人が簡単に言うと渋滞とかになると出遅れると。まず近くの人を出そうと。そんなに広くなくていいという話は班目さんからもあったので、そこで避難の指示は3kmにしたと思います」

――― 近い人を最初に逃がさなければいけないのでというような議論を誰がされたかというところまでは記憶はないですか。

福山「実は当時の会合の様子というのは、相当あまり役職とか関係ありません。みんなが簡単に言うとこれはどうなんだ、あれはどうなんだという中で収れんしていった実態のところなので、具体的に誰が言ったかというのはわかりませんが、現実問題としては近い人からやらないと、遠い人は逆に言うと逃げられる可能性は高いので、近い人からというのを優先したような気がします」

――― この3kmの避難を決めた段階で、班目さん辺りなのですけれども、ベントをするにしても管理された下でベントをするのであれば3kmで十分なんだというような発言をした。それはお聞きになったことはありますか。

福山「言っています」

――― それは班目さんですか。

福山「班目さんです」

――― というのは、班目さんはこの3kmを決めたときには私はいなかったのではないかという話。

福山「いなかったのか、いたけれども、どこかに行っていたのか、それはわかりません。だけれども、少なくとも寺坂さんや班目さんには確認しているはずです」

※班目さん…班目春樹原子力安全委員会委員長、寺坂さん…寺坂信昭原子力安全・保安院長


 福島第一原発の周辺住民に最初に避難を指示したのは、福島県知事の佐藤雄平だった。3月11日午後8時50分、半径2キロメートル圏内の住民に避難を指示していた。国の指示は県より33分後だった。国からの指示について福山は、保安院から避難指示を出すよう求めがあり、原子力安全委員会委員長の班目春樹の「そんなに広くなくていい」との助言を踏まえ3キロとしたことと、「これはどうなんだ、あれはどうなんだ」という中で決まっていった会合の様子を淡々と話した。


10kmに拡大

――― 次のものをいいですか。10kmに拡大していますね。10kmに拡大するときというのが先ほどの福山先生のお話ですと、もう5時半ごろに総理がセンターに下りられてまたベントしていないのだという報告を受けて、そこで。

福山「5時過ぎ、5時44分に言っているはずです」

――― そこで拡大した方がいいのではないかという話が出て、かなり短時間でも決まったというような印象であったと。

福山「決まりました。それは外見上は短時間ですが、私たちから言うと5時間経っているのです。ベントを決めたのは短時間なのですけれども、私たちの一緒の中で言うと、5時間経っていて、爆発はいつするかわからないというどきどき状況なのです。だから、そこは短時間で決めたというのではなくて、逆に言うと長時間かかりすぎているという感じで早く避難の指示を出したいという意味合いです」

――― では、拡大すべきなのではないかという議論はもっと早い段階から。

福山「いや、していないですよ。だって、べントが終わると思っていましたから」

――― 終わると思っていたのでということですね。すると、このときも総理が中2階に来られて、その場でもう決まったという。

福山「決めました」

――― 官房長官も下りてこられていましたか。

福山「官房長官もいらっしゃったと思います。ただ、そこは入れ代わり立ち代わりだからどの瞬間にどういう形でちゃんとみんなが着座していたかはわからないのですけれども、ただ、官房長官はそのときはいたと思います」

――― 中2階の話ですね。

福山「中2階です」

――― 済みません、10kmの、3の次が10になったというのも、保安院あるいは班目委員長あたりから、次拡大するのであれば10というような数字が示されたのか、その辺のご記憶というのはございますか。

福山「これは20、30は全く準備がないのです」

――― なので10と。

福山「現実問題として、班目さんあたりからは10もあれば十分だみたいな話がたぶん出ているのです。もう一点申し上げれば、我々が避難指示を出すときに重要なのは、そのときにそこまで意識があったかどうか正直言って自信がありませんが、避難場所を確保しなければいけないのです。20から30となると、同心円状で言うと人口が一気に増えるのです。これは伊藤さんがよくこの議論をされました。伊藤さんはそれは無理ですと」

※官房長官…枝野幸男官房長官、伊藤さん…伊藤哲朗内閣危機管理監

福島第一原発からの距離

 2011年3月12日午前5時44分、国は避難指示の区域を福島第一原発の半径3キロから10キロに広げた。その理由を福山は、東電が原子炉の冷却と破損防止のためにやらなくてはいけないと言っていたベントが、東電がやりたいと言い出しておきながら、5時間も経っても、なおできなかったためだ、と説明した。20キロや30キロでなく10キロにした理由は、原子力安全委員長が10キロで十分と言ったことと、20キロや30キロでは避難の準備が整わなかったことを挙げた。

写真|JR双葉駅近くにかかげられた「原子力明るい未来のエネルギー」と書かれた看板=2013年3月1日、福島県双葉町、金子淳撮影

そして20km

――― 問題は、今ちょっと話が出ました1Fの避難の範囲を10kmから20kmに拡大する時間帯は18時25分、ちょうどこの議論がなされていると時間的に重なっていて、いろいろヒアリングで聞いているところによりますと、ちょうどこのブレイクの前辺りに出ているという話のようなのです。その話がまさに10kmから20kmに拡大するという避難の話が出たときに、福山先生はその場、応接室にいらっしゃいましたか。それともそのときにまた外に出られましたか。

福山「たぶんいるでしょう」

――― 拡大について、3時半の爆発が原因でしょうと言われましたけれども、どんな議論があったのか、具体的にそのときも先ほどお話が出たように伊藤危機管理監から避難のフィージビリティーといいますか、避難場所の確保的な話が出たのかもしれないなと我々は思っているのですけれども、どんな議論がなされたのかご記憶……。

福山「そのときは私はよくわからないのですけれども、水素爆発があってそれがわからない状況の中で、枝野さんの会見が終わってもまだ水素爆発の状況が見えないわけですね。ですから、そのことも含めてとにかく広げた方がいいのではないかという議論の中でやりましょうという話になったのではないかなと思います。そこは記憶が結構あいまいです」

――― 今、ちょっと再臨界と避難の関係について質問をさせていただいたのは、いろいろヒアリングでお聞きした中で、再臨界の可能性が否定できない、班目先生がそういうことをおっしゃっていたと。そうすると、そういう可能性があるのだったら、やはり避難範囲を拡大しなければいけないかという議論もあったのだという話がある方からありまして、なるほどねと、だからこの時間なのかと我々も若干合点がいった。なぜこの時間帯なのか。

福山「私の印象は再臨界よりも水素爆発ですね。その議論があったかもしれませんが、水素爆発です」

――― もちろん、さらに今後何があるかわからないというほかの号機もございますし、そういう話もあるんですか。

福山「ただ、総理の剣幕は相当だったのです。再臨界はないのか、再臨界はないのかと、その剣幕で若干危ないのだったら逃がしておかなければいけない、避難してもらわなければいけないと思った印象がある人がいても、それはあり得るかもしれません。私の印象はあまりないのです」
※フィージビリティー…実行可能性


 2011年3月12日午後6時25分、国は福島第一原発から半径10キロ圏内としていた避難指示の区域を、半径20キロ圏内に広げた。福山は1号機で水素爆発が起きてしまったことがその理由だと強調した。ただ、聴取のやりとりからは、政府関係者の中に、原子力安全委員長の班目春樹が再臨界の可能性がゼロでない、すなわち原子炉内の核燃料が再び核分裂反応を起こす可能性に言及したことが理由だと考えていた者がいることがわかる。
屋内退避の指示

――― この統合本部に行かれてまた官邸に戻ってきた辺りだと思うのですけれども、この日の11時に20から30の屋内退避の指示というのが出ているのですが、この検討過程というのはどういうふうになっていますか。

福山「完全にサプレッションチェンバーが爆発したことと、4号プールで煙が上がっていませんか」

――― はい。火災のような煙が上がったというものですね。

福山「4号プールの煙は私たちは東電で見ているのです。それで、先ほどから何度も申し上げているように、この時点ではまだ爆発のリスクはなくなっているとは思っていないのです。メルトダウンしているとは思っていないのです。ですから、逆にどんどんリスクが高まっている状況はわかりますね。だって、撤退するの、いつどこで東電が手を引くかわからない状態で、片方でサプレッションチェンバーが当時で言えば爆発したと思っているし、4号プールは煙が上がっていると。とにかく早く逃がさなければいけないけれども、今度はより爆発のリスクが高いと思うから、外へ出ると次は20~30ですね。ここにその当時のものがあるのですけれども、20~30ですと移動人数、人口がやたら増えると書いてあります。これは30km圏内だと14万になるのです。14万になるということは、これはたぶん伊藤さんがご示唆をいただいたのでしょうけれども、20~30kmを、より同心円が広くなって人数が多くなると、当時で言うと20kmまでは行っていますね。20まで行っていてここの同心が広がるとより人口が広くなるのです」

 「結果とすると、ここの人口を逃がすのに何日ぐらいかかるかという議論をしたら、たぶん伊藤さんはそのとき4~5日かかると言ったのです。このときははっきり覚えていますけれども、子ども、妊婦、お年寄り、それも入院しているお年寄り、ここから逃がさなければいけない。それのまずバスとか車の手配が要る。これはもう逆に言うとリスクを背負っているから自衛隊とか警察にお願いしなければいけない。そこから出して自分たちで逃げる人は逃げてもらうと。だけれども、結果として全員避難させるのにどのぐらいかかりますかと言ったら、たぶん早くて4~5日と言われたと思うのです。避難をしているオペレーションの最中に何らかの爆発や何らかの放射性物質がたくさん飛散するような状況になるけれども、そのときに避難をしてもらう方がいいのか、屋内退避で家の中にいてもらった方がいいのかという議論を散々しました」

 「結果として、外へ出てもらうと意に反してそのときに爆発とか何かが起こったら被曝する。屋内退避の方が被曝しないと。ましてや20~30は距離が長いからそこまでは飛ばないみたいな話を班目さんとか相変わらずするのです。私の記憶で言うと、班目さんからチェルノブイリは今でも25kmが立ち入り禁止内ですからみたいなことを言うのです」  「それで結果として言うと、この炉の不安定な状況の中でいつ爆発するかわからないのだったら屋内退避にしようという判断をしたのだと記憶しています。ただ、当然これは自主避難できる人は自主避難してくださいというあれだったと思います。枝野さんの会見でも恐らく自分で逃げられる人は逃げてくださいと言っているはずです」

――― もしご存じだったらなのですが、屋内退避になったのですけれども、屋内退避は基本的には長期間行うことは想定されないオペレーションであると防災指針の方にも書いであるということで、当初、屋内退避、この3月15日にセットしたときには、これを長期間また4月になるまで続けるというような想定はしていないということですか。

福山「想定はしていません。しかし、短くなるかどうかもわかりません。つまり、このときの判断は短いとか長いとか、申し訳ないですけれども、防災マニュアルとかほとんど関係ありません。極端な話で言うと、15日ですから、本当にサプレッションチェンバーが爆発したり東電が撤退したり4号プールから煙が上がったりしている状況ですから、そのことに対する被曝を回避するために屋内退避なので、そのときに短いのが想定されているというのは、1個気になるのは、原子力防災マニュアルに書いてある防災の指針の話は、チェルノブイリ型のボンと爆発した一過性の爆発を前提にしているのです。つまり、その1カ所ボンと飛んでプルームが飛んであるところに行きますからというのが全体なのです。この状況は1、2、3、4がいつどこで何が起こるかわからない状況ですから、私たちは常に二つのリスクを抱えていました。一つは爆発のリスク。もう一つは、飛んでいる放射性物質による被曝のリスクなのです」

 「実はこの話は私も正直申し上げると後付けです。当時はまさに外へ出したら何かあったら被曝するのではないかというのが主たるあれだったので、現実の問題として言うと、屋内退避の判断をしました。屋内退避が結果として計画的避難も含めて長くなったことは、避難をされた方にとって本当にご迷惑をおかけしたと思っていますが、一方で、それぐらい私たちは爆発とかメルトダウンのリスクを引っ張るぐらい引っ張った状態です。だって、東電がメルトダウンを認めたのは5月でしたか。日米協議が始まったのは3月20日以降ですけれども、3月20日以降でアメリカがメルトダウンしているはずだとさんざん意見の違いを言ったにもかかわらず、東電はまだメルトダウンしていないということをずっと言い続けています。つまり、その間じゅうは私たちは何かあったときに外での被曝を恐れるということをずっと思っていたのです。だから、いたずらに長く屋内退避を引っ張っていたのではないのです。炉の状況が安定をしてもう爆発やメルトダウンのリスクが無くなるまでは外へ出せないという中で、実は屋内退避が結果として長引いたというのが実態です。これは後々で出てくるSPEEDIの議論に全部つながります」

※サプレッションチェンバー…圧力抑制室(格納容器下部)、SPEEDI…緊急時迅速放射能影響予測ネットワークシステム

 2011年3月15日午前11時、国は福島第一原発から半径20~30キロ圏内の住民に屋内退避を指示した。屋内退避指示は緊急時対応で出されるものだが、政府は3月25日に20~30キロ圏の住民に自主的に避難するよう要請した。屋内退避が長引いたことを福山は率直にわびた。

次回に続く

ラインアップ
 
第1回

3、10、20の裏側
「防災マニュアルとかほとんど関係ありません」
 
第2回
近日公開
 
第3回
近日公開
取材:宮崎知己、堀内京子、明楽麻子、池尻和生、関根慎一、木村英昭
制作:佐藤義晴、上村伸也、木村円
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吉田調書 第3章 2 智慧の慢心

2014-06-05 14:08:40 | 原発
「 2011年3月11日午後2時46分、日本のはるか東方の太平洋の海底で超巨大地震が発生した。東電福島第一原発所長、吉田昌郎は、発電所の敷地のほぼ中央に位置する事務本館2階の自室で書類に目を通していた。揺れはだんだん大きくなり、棚の上のものが落ち、テレビがひっくり返った。

 机にしがみつき、下に潜ろうとしたが潜れなかった。所長室を出て事務室に入ると天井の化粧板が落ちていた。本棚の書類が散乱し、ほこりが白く舞っていた。

 原子炉を冷やすのになくてはならない電源がどこからも得られないという、「AM」すなわち過酷事故時の対応を定めたアクシデント・マネジメント策が想定していない事故の始まりだった。

――― 電源喪失ですと、電源融通を受ける先である隣も一緒にべしゃっとつぶれるということは考えていないという状況がどうもあったようなんです。その点に関しては、所長におかれては、AM策を整備する上で、複数のプラントが同時に故障するという事態を想定していたかとか、していなかったとか、もしくは全然考えが及んでいなかったか、その辺りはいかがでしょうか。

吉田「一言で言うと、設計ベースの議論がされていたのはわかっていますけれども、設計の中でも、今、言ったみたいに、定説としてという言い方はおかしいんですけれども、我々の基本的な考え方は内部事象優先で考えていたということです。私は入社してから今まで、あまりタッチしていないんですけれども、ようするに、原子力の設計の考え方はそういう考え方だということは承知していた。今度、運用側に回った際に、運用側で同時に今回のような事象が起こるかということをあなたは考えていましたかという質問に対して言うと、残念ながら、3月11日までは私も考えていなかった」
――― 今後に生かすという観点からなんですけれども、どうしてそういう考え方になってしまったのだろうか。

吉田「一つは、同時にいったという意味で言うと、柏崎の中越沖地震は同時にいったんです。同時にいったんですけれども、我々としては、プラントが止まって、えらい被害だったんですけれども、ようするに、無事に安全に止まってくれたわけですよ。安全屋から言うと、次のステップはどうあれ、安全に止まってくれればいいという観点からすると、あれだけの地震が来ても、ちゃんと止まったではないの、なおかつ、後で点検したら、設計の地震を大きく超えていたんですけれども、それでも安全機器はほとんど無傷でいたわけです。逆に言うと、地震は一気に来て、全プラントを止める力を持っているけれども、それは止まるまでの話であって、それ以上に、今回のように冷却源が全部なくなるだとか、そういうことには地震でもならなかった。設計用地震動を大きく何倍も超えている地震でそれがある意味で実証されたんで、やはり日本の設計は正しかったと、逆にそういう発想になってしまったところがありますね」

 吉田は地震直後、「GM」すなわちグループマネージャーに安否確認をするよう指示を出し、午後3時ごろには、ユニット所長、発電部長、保全部長らとともに、免震重要棟2階の緊急時対策室に入った。

 すると、まず、運転中の1号機、2号機、3号機が無事スクラムしたとの報告が上がってきた。スクラムとは、核分裂反応を抑える働きがある制御棒が一斉に核燃料の間に挿入される動作のことだ。大きな揺れを感じると自動的に挿入される仕組みで、これがうまくいったとの知らせだ。核分裂反応はとりあえず収まり、原子炉は核分裂反応が連続して起きる臨界状態から脱する。原子炉は最初の手続きを正常に終えた。
――「3月11日までは私も考えていなかった」

 一方、発電所への外部からの電源供給が途絶えたらしく、バックアップの非常用ディーゼル発電機が起動したとの報告が入った。後に送電線の鉄塔が地震で倒壊したのが原因とわかるが、その瞬間は、非常用の発電機が動いたのだから外部電源はどこかでいかれたのだろう、というぐらいのことしかわからなかった。

 続いて、福島第一原発を大津波が襲った。免震重要棟は海岸線から少し離れた丘の上にあるため、吉田はこれも何が起きたのかすぐには状況をつかめなかった。

 「1号機の非常用ディーゼル発電機が止まり、すべての交流電源が失われた」。「続いて3号機でも」。「今度は2号機です」。情報はぽつりぽつりと舞い込んだ。それらがつなぎ合わされ「ということは発電所全体が津波に襲われたのではないか」と推察された。

 発電所内のすべての電源が失われることもありうる。吉田は、ここでようやく大変なことになったと気付いた。

 東電の「安全屋」すなわちアクシデント・マネジメントの策定者は、すべての事象や条件を網羅していると錯覚させるぐらい細かい想定をし、対応策を作り上げている。しかし、対策として打つ手のほとんどは電源があって初めて有効に働くものだ。すべての電源が失われることはない、という前提がそこにはある。

 「はっきり言って、まいってしまっていた」という吉田は、アクシデント・マネジメント策にない方法をこれから編み出すことにした。


――― 最終的には電源融通が受けられるという前提であったようですけれども、そのもう一つ先、電源融通元もだめになる場合ということは想定していらっしゃいましたか。

吉田「だから、確率の問題だと思うんです。極論しますと、これは経験の範囲の議論になってしまうんです。ようするに、インターナショナルで、全世界で原子力発電所は400とか500とかありますね。実験炉は別にして、商業炉でも昭和四十数年ぐらいから動き始めまして、炉年で言えば、ものすごい、400基で平均で20年運転していれば、世界じゅうで8,000炉年ぐらいの運転経験があるわけです。そこでいろんなトラブルを経験しているわけですけれども、今、おっしゃったように、今回のような、電源が全部、あて先も涸れてしまうということが起こっていないわけです。そこが我々の一つの思い込みだったのかもわからないですけれども、逆に自信を持っていたというか」 (中略)

――― 今回、振り返ってみたときなんですけれども、まず、消防車を水源とする代替注水というのは、ちゃんと文字で、AMとして整備しておけばよかったなとは思われますか。

吉田「今からだったら思いますよ。だけれども、私自身も、賭けだと思ったのは、本当にFPラインで入るんだろうかというのは、最後の最後までわからなかった。減圧してFPが入るような炉圧にまで下げないといけないではないですか。ということは、水位が下がるではないですか。そこでFPで水を入れるわけでしょう。だけれども、FPのラインがどこかで地震でたたき切れていたら、いくら入れても入らないですね」

――― 建屋の中のFPは大丈夫だろうという見込みの下に期待はされていた。

吉田「もちろんありましたよ。私も柏崎の地震のときに、あの地震でも、タービン建屋、リアクタービルのFPのライン、私は全部見て回りましたけれども、一部変形していますけれども、たたき切れているところはなかったですから、ある意味、現実的には、たぶん、もってくれるだろうなと思っていましたけれども、わからないですからね。実際、あの地震が来て、建屋の中は。最後は賭けですよ。FPのラインが健全かどうかというのは。でも、それしかないですから、そこを使って入れたということです」


 吉田が賭けたのは、原子炉に張り巡らされた消火ラインだった。アクシデント・マネジメント策には、D/DFPすなわちディーゼルエンジン駆動消火ポンプを使って、この消火ライン経由で原子炉に水を注ぎ込む策までは記されていた。
 しかし、吉田はこのディーゼルエンジン駆動のポンプでは圧力が弱過ぎて原子炉の圧力が高くなってくると水が入らなくなるので、より圧力の強い水を吐き出せる消防車をこの消火ラインにつなぎ込む策を思いついた。併せて、水は淡水に限らず、海水も使って原子炉を冷やそうと決めた。

 消火ラインは原子炉周辺の重要機器に比べると耐震性が低く、地震で壊れている可能性があった。しかし、東電本店の原子力設備管理部長として2007年7月の新潟県中越沖地震での柏崎刈羽原発の傷み具合をつぶさに観察していた吉田は、これは使えると踏んだ。

 水の方も、中越沖地震の際、変圧器が燃えてなかなか消し止められなかったことが批判され、各原発で防火水槽を増設してあったが、それだけではとても足りないと思い、早いうちから海水の利用を決心していた。


――― 夏のヒアリングでも、南明興産とか、協力の方々との関係で、当然、業務内容は火を消すという内容だったんで、代替注水として協力するという話になっていなかったということもあって、協力を得るのがなかなか大変だったとか、あと、消防車を水源とする代替注水の話、動き出しが遅れるような状況も、あらかじめ文字で書いておけば、もう少し、その状況は。

吉田「今から思えばそうでしょうと思いますけれども、前の段階に返ったときに、AMのいろいろな仕組みを考えた人たちがそこまで考えていたかというと、まったく考えていなかっただろうと言いたいだけの話です。AMの連中は、後からがやがや言うんですよ。私はこの会社の安全屋は全然信用していない」 (中略)

――― 頭では海水を入れるという可能性も認識していることはしていたけれども、実際に、本当に海の水を最後に入れることになるというふうに考えていない?

吉田「ないですよ。もしも考えていれば、それこそ海の水を吸い上げるようなラインを別に設計しておくべきです。3号機のバルブピットのところにたまった津波の海水をまず水源として使うだとか、現場の工夫だけでやってきたわけですから、事前のアクシデント・マネジメントをデザインして決めた人は誰も考えていないですよ。私から言わせれば、形だけ検討しているんですよ。私だって、大元を決めていないけれども、それに従って発電所の運営して、所長もやっているわけですから、そこに思い至らなかった自分は非常に恥ずかしいと思いますけれども、最初にそれを想定していろんな仕組みを考えた連中の中に、本当にそこまで覚悟を決めて検討した人がいるかどうかというと、いないと思います」


 消防車を使うこと、および海水を使うこと。吉田のこの二つの創意について、政府事故調はあまり評価していないことが、聴取の流れから読み取れる。

 事故調としてはやはりアクシデント・マネジメント策に従うことが最善で、それができないのはアクシデント・マネジメント策が不備だったからだという整理をしているように見える。

 しかし、実際、過酷事故と向き合った吉田にとっては、そんなことはどうでもよかったようだ。
 吉田は、アクシデント・マネジメント・ガイドを開いて見たとか参考にしたことはあるか、との質問に「まったくないです」「私は開いていません」と答え、逆に人による事前の想定などいかに役に立たないものであるかを説いた。
 吉田はまた、日本の原発は、故障に関しては内部事象優先で設計されており、津波や竜巻、飛行機の墜落、テロといった外部事象によって複数の原発が同時に故障するとは考えていなかったと説明した。

 こうした考え方は、2007年の新潟県中越沖地震で柏崎刈羽原発において複数の原発が同時にやられるという事象が起きた際に改められる機会を得たが、原子炉がすべてうまく冷却できたことで、逆に「正しかった」とされてしまったと主張した。

 人がおこなう想定は「経験の範囲」でしかできないとし、きちんと想定してあらかじめ文字にしておけばうまくいったのではないか、などというのは後からだから言える話だ、とも主張した。

 吉田が述べたこれらの観点は、将来に向けた議論に資すると思えるが、政府事故調査・検証委員会の報告書からは読み取ることはできない。(文中敬称略)」

http://digital.asahi.com/special/yoshida_report/3-2m.html

吉田調書第3章 1 決死隊は行った 

2014-06-04 16:44:34 | 原発
「 東日本大震災発生翌日の2011年3月12日午前4時45分ごろ、福島第一原発の1・2号機の運転員が詰める中央制御室に、ある装備品が届けられた。

顔をすっぽり覆うマスクと、限度いっぱいの100ミリシーベルトの放射線量を浴びるまで作業が続けられるよう、80ミリシーベルトになるまで警報音がならないよう調整された「APD」すなわち警報付きポケット線量計だった。

――― この白いもやもやというのは、聞いたときに何だと。

吉田「蒸気だと思いました」

――― やはり、何かどこか漏れているんじゃないかというような認識だったんですかね。

吉田「はい」

――― その後、4時30分ごろなんですが、余震による津波の可能性から中央制御室の方に、現場操作の禁止が指示されると書いてあるんですが、これは、ようするに余震の影響というのもあったんですかね。

吉田「あります。この辺、ちょっとデータを覚えていませんけれども、震度5強とか6近い余震がこの晩、結構起こりましたので、その都度現場退避をかけていましたから、そういう状況での作業になります」

――― それで、これを見ますと、4時45分ころ、発電所対策本部より、100ミリシーベルトにセットしたAPDと全面マスクが中央制御室に届けられると。どうも決死隊じゃないですけれども、そういう方向に、このころ流れていっているということなんですね。この後なんですけれども、班編成を組んだり、2名1組の3班態勢ということで、これも誰が行くのかというところで、これを見ると、結局、上の当直長、副長という、その班のトップ、かなり年をとっているというと語弊がありますけれども、ようするに若い人よりも年をとっている人が優先的に班編成を組んで行かれているという状況なんですかね。

吉田「はい」

――― この辺の班編成をどうするとか、そこはもう当直の方に任せているわけですか。

吉田「任せています」

 非常用復水器が停止していることが見逃され、長時間にわたり原子炉が冷却されていなかった1号機は、12日に入ったころにはすでに危機的な状況になっていた。

 午前2時30分、原子炉格納容器の圧力は最高使用圧力のほぼ2倍にあたる840キロパスカルに達した。これ以上になると壊れて、中の放射性物質を外界にばらまく恐れのある水準だ。

 格納容器からすでに分子の小さい水素や水蒸気が漏れ出しているのか、原子炉建屋の中は白いもやに覆われていた。圧力が限界近くまで上がっていることを示す現象だ。

 格納容器破壊を免れるには、中の気体を抜くベントを実行するしかない。ベントは通常なら、中央制御室に居ながらにして、ごく簡単な操作で実行できる。しかし、強い地震の揺れと津波に見舞われ、電源をすべて失ってしまった1号機においては、それは至難の業だった。

 ベントは、開け方の違う二つの弁を開けなければならない。二つの弁が開いた状態で、格納容器の圧力があらかじめ設定した水準に達したら「ラプチャーディスク」と呼ばれる円盤が破れ、実行される。

 二つの弁のうち「AO弁」と呼ばれる弁は、中央制御室からのスイッチ操作で電磁弁を開け、「アキュムレーター」すなわち蓄圧装置にためられた圧縮空気を弁に送り込み、弁を開ける。したがって、電磁弁を開ける電源が枯渇している現状では開かない。

 もう一方の「MO弁」と呼ばれる弁は、単純に電気モーターの力で開ける弁だから、これも電源が枯渇しているため、開かない。

 なんとかならないかと、壊れた事務本館から持ってきた図面などをもとに弁の構造を調べたところ、MO弁は1~3号機すべてに手で回せば弁を開けられるハンドルがついていることがわかった。そして、AO弁も、1号機に限り「小弁」と呼ばれる予備弁の方には同様のハンドルが付いていることがわかった。これなら弁のところまで人が行けば開けられる。
 しかし、言うはやすし、行うは難しだった。

――― できないというのは、何ができないんですか。

吉田「だから、さっき言いましたように、電源がないですね、それからアキュムレーターがないので、いろいろ工夫しているわけですね。その間に圧力を込めに行ったりとか、電源の復旧だとかやっているんだけれども、どれをやってもうまくいかないという情報しか入ってこない。最後の最後、手動でやるしかないという話で手動でいくんですが、手動でいって、ドライウェル側のMO弁というバルブは、結構重たいので被曝するんですけれども、これは何とか開けた、だけれども、ドライウェルのサプレッションチェンバーから出てくるライン、ここのバルブにアクセスしようとするんですが、線量があまりにも高過ぎてアプローチできないという状態で帰ってくるわけですね。そんな状態が続いているので、また、それをもう一度アキュムレーターから動かすのをチャレンジしろとか、やっとそのころにコンプレッサーの車が来たりとか、役に立ったりとか、そんな段階で道具もそろっていない中、いろいろやるんですけれども、なかなかうまくいかないということなんです」

 「ここが、今の議論の中で、みんなベントと言えば、すぐできると思っている人たちは、この我々の苦労が全然わかっておられない。ここはいら立たしいところはあるんですが、実態的には、もっと私よりも現場でやっていた人間の苦労の方がものすごく大変なんですけれども、本当にここで100に近い被曝をした人間もいますし」


 人が現場に行きさえすれば、ベントを実行するための弁が二つとも開けられるかも知れないことがわかった。

 しかし、余震は続いており、現場に近づくことは危険を伴った。本震がマグニチュード9.0と巨大地震だった東日本大震災は、3月11日と12日の2日間にマグニチュード7.0以上の余震が3回、6.0以上が48回、5.0以上は281回あり、実際、福島第一原発所長の吉田昌郎は、何度か退避命令を出した。それより何より、現場では毎時300ミリシーベルトもの高い放射線量が観測されていた。

―― 線量があまりにも高過ぎて

 中央制御室の運転員たちはそこで2人組の班を3班つくることにした。構成員6人は、若者でなく、運転員を束ねる年かさの当直長と副長から選ばれた。理由は熟練度だけでないことは明白だ。

 3班態勢としたのは、作業に小一時間かかるとみられたからだ。80ミリシーベルトを浴びたら作業を終えるようにしないと限度の100ミリを突破してしまう。そう考えると作業時間は16~17分が限界で、1班態勢では作業を完遂できない。

 午前9時4分、第1班の2人がMO弁のある場所に向かった。重いハンドルを回しバルブを25パーセント開けた。
 続いて第2班の2人がAO弁の小弁を開けに出発した。が、そこへ行く途中で携行型放射線量計が鳴り出しやむなく引き返した。AO弁は原子炉格納容器下部の圧力抑制室の近くにあり、MO弁より場所的に厳しかった。

 第3班はそもそも行くのを断念した。ベント作業は振り出しに戻り、強力な空気圧縮機を放射線量の低いところでつなぎ込み、遠くから空気圧をかけて開ける方針に変更した。

 このやり方も、アキュムレーター自体か、圧縮空気を送り込む管が地震にやられていたのか難航し、東電がベントができたと判断できたのは、決死隊突入から5時間半後の、午後2時30分だった。
 高い値の放射線量や爆発の危機は、ありとあらゆる作業を阻み、事故収束作業を遅らせた。

――― 11時1分に爆発を起こしてからの対応なんですけれども、いったんは作業は。

吉田「全部中止」

――― 現場から引き揚げるということになるわけですね。それから、次に再開をすることがどこかの時点でありますね。それはどういう情報が入ってきて、どういう判断で行こうと思ったんですか。

吉田「どういう情報が入ってきたというよりも、1号機のときと同じく、結局、爆発しているわけですから、注水ラインだとか、いろんなラインが死んでしまっている可能性が高いわけですね。1号機の注水、3号機の注水を実施していますし、それが止まっていると。それ以外のいろんな機器も壊れている可能性が高いわけですから、一通り確認して死亡者がいなかったことと、傷病者についてはJヴィレッジに送って手当てしてもらうということをした上で、そのときにみんなぼうぜんとしているのと、思考停止状態みたいになっているわけです」
 「そこで、全員集めて、こんな状態で作業を再開してこんな状態になって、私の判断が悪かった、申し訳ないという話をして、ただ、現時点で注水が今、止まっているだろうし、2号機の注水の準備をしないといけない、放っておくともっとひどい状態になる。もう一度現場に行って、ただ、現場はたぶん、がれきの山になっているはずだから、がれきの撤去と、がれきで線量が非常に高い。そこら辺も含めて、放射線をしっかり測って、がれきの撤去、必要最小限の注水のためのホースの取り換えだとか、注水の準備に即応してくれと頭を下げて頼んだんです」

 「そうしたら、本当に感動したのは、みんな現場に行こうとするわけです。勝手に行っても良くないと逆に抑えて、この班とこの班は何をやってくれ、土建屋はバックホーでがれきを片付けることをやってくれというのを決めて、段取りして出ていって、そのときですよ、ほとんどの人間は過剰被曝に近い被曝をして、ホースを取り替えたりとかですね」

 「やっとそれで間に合って、海水注入が16時30分に再開できたんですけれども、この陰には、線量の高いがれきを片付けたり、かなりの人間が現場に出ています。11時1分~12時30分は何も書いていないのが腹立たしいし、この前に私がちゃんと退避をかけたのも書いていない。どういう時系列なのか、よくわからない」

 交流電源を失った福島第一原発1~3号機では、用意していた緊急炉心冷却システムがどれも動かず、消防車とホースを使って原子炉に水を入れ、核燃料を冷やしていた。

 3月14日午前の段階では、水源は3号機のすぐ海側の逆洗弁ピットと呼ばれるくぼみの水だった。消防車がその水を吸い上げ、ホースを使って1号機と3号機の送水口から原子炉に注入していた。

 午前11時30分からは、3号機への注水量を絞り、1号機への注水量を増やすという現場作業を予定していた。それが、午前11時1分に起きた3号機の爆発で、できなくなってしまった。現場から逃げるときにホースが破れているのを見たという作業員がいる、との報告も入った。


 福島第一原発所長の吉田昌郎は午後0時37分、2度の爆発で落ち込む所員に対し、「悪いけどよ、こんな時に悪いけどよ」と言い、所員に注水量変更、ホースの点検、水源としている逆洗弁ピットに降り積もったがれきの撤去作業に行くよう命じた。がれきはただのがれきではない。高い放射線を放つものも含まれていた。

 吉田はさらに午後2時13分、「特別にチームを編成して」という言い方で、高放射線がれきの片付けにあたる人員の増強を命じた。通信状態が悪いためか、先発隊からなかなか連絡が来ずあせっていた。ただ、片付けておかないと後の原子炉への注水に重大な支障を来すと考えた。

 「決死隊」という言葉は東電のテレビ会議録に、2011年3月14日夜までに限っても、2度記録されている。
 1度目は2011年3月13日午後3時49分のことだ。吉田は、2号機の海水注入ラインを再構築するため、所員に現場に戻るよう命令した。その検討にあたって、「じじいの決死隊で」と述べた。そのころ福島第一原発は、3号機の原子炉建屋の中で、1号機の水素爆発の直前にも見られた「もやもや」が発生しているのが確認され、屋外の作業員は免震重要棟に引き揚げていた。だが、どうしてもやらなければならない作業だとして、やむなく再び現場に向かわせた。

 もう1回は3月14日午後6時10分のことだ。2号機の原子炉圧力容器の圧力を下げようと、中の蒸気を逃がすSR弁という弁を開けようとしたが、なかなか開かないときだった。弁を開けるのに必要な窒素ガスの圧力が弱っていることを疑い、所員が、高い放射線量の中、窒素ガスのボンベの交換に赴くとき、東電本店の担当者がこの言葉を使った。
 福島原発事故発生時、作業員の緊急時の被曝限度は100ミリシーベルトまでと定められていた。それが発生3日後の3月14日午後2時3分、原子力安全・保安院との調整で一気に250ミリシーベルトに引き上げられた。
 これを聞いた原子力担当副社長の武藤栄はおもわず「250ってのは相当に限界的な数字なので、しっかり守ることが大事だと思います」と応答した。

 政府による限度引き上げで、限度が近くなっていた作業員はもうしばらく現場作業を続けることが制度上は可能となった。生身の人間の放射線への耐性が上がったわけではない。作業員の健康リスクの増大と引き換えに事故の収束作業は続けられた。(文中敬称略)

第3章2節「叡智の慢心」に続く
ラインアップ」

http://digital.asahi.com/special/yoshida_report/3-1m.html

【緊急署名】 原子力規制委の原子力ムラ人事案に反対を!

2014-06-04 13:24:56 | 原発
【緊急署名】 原子力規制委の原子力ムラ人事案に反対を!
ありがとうございました。ぜひ、この署名を広めてください。
下記のリンクから拡散をお願いします。

http://goo.gl/fvAf6O


★この署名は、6月5日(木)午後に、主要な国会議員の事務所に提出予定です。
ぜひ、提出行動にもご参加ください。
集合 14:30に、参議院議員会館ロビー

★下記の抗議アピールにもご参加ください。

・日時6月3日(火)18時30分~20時、
・場所:首相官邸前(国会議事堂前駅)、
・呼びかけ:原子力規制を監視する市民の会 http://goo.gl/SzHRiL

・日時:6月5日(木)15:30~16:30
・場所:衆議院第二議員会館前
・呼びかけ:原子力規制を監視する市民の会

吉田調書 第2章 2 広報等は知りません

2014-05-27 17:33:25 | 原発
「東日本大震災発生3日後の2011年3月14日未明、福島第一原発3号機は、13日朝に続き、危機に見舞われていた。原子炉に入れる水の水源が枯れそうになっていることに気付くのが遅れ、1号機ともども、炉の冷却ができない事態となった。

――― このころ、ベントではウエットウェルベントということが一つあると思うんですけれども、ドライウェル側のところからベントするような検討みたいのは。

吉田「それはもちろん、しています」

――― それもされているんですか。実際にはそれは、3号機に関してはされていないんですね。

吉田「ウエットウェルを先行してしまったんですね。それをやっている間に爆発してしまって、何か、圧が下がってしまったんですね。ずっと下がってきたんで、ドライウェルベントをやるタイミングが、逆に言うと、検討はしたんだけれどもという状況だったと思うんですね」

――― 1号機はウエットウェルだけをやっていて、2号機はウエットウェルに加えてドライウェルもということの検討も、検討の俎上には上がっていたと。

吉田「3号機」

――― ああ、3号機ですね。ただ、実際に弁を開けてとかいうそういう操作までには至っていないということですね。

吉田「そういうことです。ここで基本的に、たぶん、本店が検討している放射線評価ですけれども、これはドライウェルベントを想定していると思います」

――― のような感じですね。文脈からすると。

吉田「そうです。ですから、この時点でドライウェルベントをイメージした評価を、本店の菅井君のほうでやっていたという状況だったと思います」

――― なるほど。では、検討にはもう入っていたという最中での3号機の爆発ということになったんですね。

吉田「そうです」

 福島第一原発では、1号機と3号機の原子炉に海水を注入していたが、この時点では目の前に無尽蔵にある太平洋の水を入れているわけではなかった。3号機の海側にある逆洗弁ピットと呼ばれるくぼみが津波をかぶり、たまたま海水がたまったので、消防車のポンプでくみ上げて使っていた。そのピットの海水がほとんどなくなり、原子炉に注ぎ込めなくなってしまったのだ。

 注水が止まった3号機では、原子炉の水位が見る見るうちに低下した。核燃料は完全に水からむき出しの状態になり、自ら発する高熱で、前日に続き、損傷し始めた。出てくるガンマ線の量から、午前4時20分には核燃料の25%がすでに損傷していると評価された。

 原子炉格納容器の圧力も急激に上昇し始めた。放っておくと壊れた核燃料から発生した水素が格納容器から漏れ出て1号機のように爆発し、原子炉建屋を吹き飛ばしてしまう。格納容器自体が圧力の高まりで壊れる可能性もある。そのため福島第一原発ではまず、格納容器の気体を圧力抑制室経由で抜く、ウエットベントを試みた。

 格納容器の中の気体を抜くベントには2種類のやり方がある。下部の圧力抑制室から抜くウエットベントと、上部のドライウェルから抜くドライベントだ。ウエットベントは、気体を圧力抑制室のプールの水にブクブクとくぐらせたうえで外に放つので、水に溶けやすい放射性ヨウ素は99%取り除くことができるとされている。

 しかし、ウエットベントは効かず、格納容器の圧力は逆に上がってしまった。仕方なく、放射性ヨウ素を大量に出してしまうドライベントの準備を始めた。午前6時23分ごろの話だ。

 東電本店保安班はこれを受け、「カムズ」と呼ばれる装置で、ドライベントをやると放射性ヨウ素がどれくらい拡散するか予測を始めた。文部科学省が結果を公表せず問題になった放射能拡散予測装置スピーディに似た装置だ。
 結果は、原発の北方20kmの地点、福島県相馬郡あたりが、3時間で250ミリシーベルトになるというものだった。
 このように人為的に放射性物質をまき散らすこともあり得る状況になってきたときに、東電本店も耳を疑うことを言ってきた組織がある。原子力安全・保安院だった。
グラフィック|原子力規制庁の資料から作製

――― 確認なんですけれども、3号機が、作業していたら、退避命令をかけて、それだけ危険な状況にあると。それは当然、保安院も官邸も、本店から電話を通じて、オンラインでも通じて、状況は刻々と耳に入っていてという状況の中で、これからご覧いただくところというのは、保安院とか官邸が、要するに、プレス発表の関係ですね。この時点でプレス発表を止めている、止めていないというところですね。

吉田「プレス発表?」

――― ようするに、これをご覧になって、何の場面かというところを思い出していただきたいんですが、3号機の状況に関する情報について、今、プレスを止めているんだというような。

吉田「そんな話は初耳でございまして、33のところですか」

――― はい。9ページ。そこからの流れ、若干まとまったところであるんで、ちょっとご覧いただいて、どういうあれだったのかというのを思い出せば、お聞きしたいんで、お願いします。


 原子力安全・保安院が言い出したのはプレスを止める、すなわち情報統制を敷くということだった。

 水源の水の枯渇から3号機が冷却不能となり、格納容器の圧力が異常に上昇、福島第一原発では所員が一時退避する事態になっている。こうした3号機の危機をテレビ局や新聞社に一切伝えないで隠そうというのだ。

 東電は、監督官庁による情報統制を、少しとまどいながらも受け入れた。それを、東電本店の官庁連絡班長が午前7時49分、福島第一原発と福島オフサイトセンターに伝えた。

 しかし、経緯を詳しく説明せず「保安院からも官邸に向かって、共同で処理していますが、いまプレスをとめてるそうです。それでいまプレスにはとめてるんです」と言うものだから、吉田は「はい、了解」と言うだけで中身はきちんと聞いてなかった。

――「そんな話は初耳でございまして」

 吉田はそのころ、水源の逆洗弁ピットに水を補給する手立てを四つ同時に走らせていて、それぞれの担当者とのやりとりにてんてこ舞いだった。

 オフサイトセンターにいた東電原子力担当副社長の武藤栄も「ごめん、なんだって?」「何をとめているの?」「3号機の状況を?」と、何を言われているのかわからずじまい。最後は「了解」、と言って会話をやめた。

 一方、福島県は保安院の暴挙に反旗をひるがえした。午前9時に関係部長会議をマスコミに公開する形で開き、その場で3号機の異常を国に代わって公表する、と言い出した。

 しかし、保安院は「絶対にプレス発表はだめだ」と強い態度に出て、県の公表を押しとどめた。3号機の核燃料はすでに30パーセント壊れており、格納容器の気体には大量の放射性物質が含まれる状態になっていると考えられる。このままいくと、人為的に放射性物質をまき散らすドライベントが、住民に何の知らせもないままおこなわれる恐れがある。

――― 要するに、もう注水できているという状況にして公表しないと、それをしない段階でしてしまえば、そこでまた混乱というか、いたずらに国民の不安をあおってしまうというようなところが入って、それをそのまますぐには知らせなかったのかとも読めるようなところで、ただ、基本的には本店対応ということになるんですかね。ここは。
吉田「なります。ここは私はほとんど記憶ないです。広報がどうしようが、プレスをするか、しないか、勝手にやってくれと。こっちは、現場は手いっぱいなんだからというポジションですから、しゃべっていることも、ほとんど耳に入っていないと思います」

――― それでちょっと何か、あれっという感じだったんですね。

吉田「はい」

――― 基本的には、ここであるところの本店の広報班などが中心となって、その辺りの報道関係の対応は。

吉田「(前略)彼は官庁連絡班長です。そこを止めるという話なのと、広報班のほうは、誰が言っているかわかりませんけれども、広報班長等がプレスをするという話と、官庁との連絡、そこでの話でありますので、どちらでも本店マターの話なので、発電所は知りません。こんなことは勝手にやってくれと、こういうことですね」

――― 要するに、国側の都合で、注水を始めたらすぐに知らせてくれ、その状況については刻々と知らせてもらって、おそらく報道のタイミングを計っているんだと思うんですね。それを本店の広報班なりが、高橋さんかな。連絡する係が向こうに伝えて、タイミングを見計らってと思っていたら、NHKの報道で抜けてしまって、一時退避の事実がですね。それで、これを踏まえた対応をしなければならないという流れになっていっているみたいなんですけれども。この辺はもう、現場としては本店にお任せの。

吉田「そうです。外の話はもうお任せで、うちはだから、圧力が上がるというのと、いつ水を補給しに行くかと。退避させた後ですね。そこだけで頭がいっぱいで、広報などは知りませんと、こういうことです」

の清水正孝社長=2011年3月13日午後10時54分、東京都千代田区内幸町の東電本店、竹谷俊之撮影
 吉田は、3号機の海側にある原子炉に注ぎ込む水の水源、逆洗弁ピットへの水の補給に全力を挙げていた。暴れる3号機をなんとか冷却しなければならなかった。

 ピットに水を補給する四つの手立てのうち、ろ過水タンクの2000トンの水を移す方策はタンクがいつの間にか空っぽになっており失敗した。成功していたら30時間注水できただけに痛かった。

 4号機のタービン建屋の地下にたまった水をくみ上げる方策も、水が引けていたことがわかり失敗に終わった。

 一方、1号機の近くの物揚場という岸壁から、2台の消防車をホースで直列つなぎしてポンプの力を増して海水をくみ上げる方策は、午前9時20分に成功したとの知らせが入った。これで毎時30トンの海水が確保できる。
 自衛隊も給水車を福島第一原発に向かわせ、水を補給してくれることになった。

 しかし、3号機の格納容器の圧力上昇のほうは依然気が抜けなかった。午前10時10分、いったん上がった炉水位がまた下がり、核燃料が再び水面から顔を出した。
――「こっちは、現場は手いっぱいなんだから」

 しかし、情報統制は解かれない。NHKが午前9時半ごろ、3号機の格納容器の異常上昇と作業員の一時退避の話をスクープして伝えても、情報統制はまだ解かれないでいた。

 結局、午前11時1分、3号機が爆発。吉田によるとその際、原子炉の圧力は下がり、ドライベントの必要性はなくなった。

 住民に何も知らせないまま人為的に大量の放射性物質をまき散らす愚は避けられたが、3号機の危機を詳しく聞かされず水の補給に向かった自衛隊員は、ちょうど水を補給し始めたところで爆発に遭った。上空に噴き上げられたコンクリートの塊が真上からたたきつけるように落ちてきて、あやうく命を落とすところだった。

 吉田の言葉から、暴走する原発を止めようとする第一線の者には、住民のことを考える余裕がないことがわかる。だが、原子炉の刻一刻の状況を理解できるのは一線に立つ現場の者をおいてほかにない。

 現場が発信する情報でもって住民避難を呼びかける思想・仕組みをつくらずに、周辺住民を原発災害から適切に逃がすことなど不可能に近い。監督官庁や電力会社が危機情報を隠すことを是とする国においては絶望的だ。(文中敬称略)」

http://digital.asahi.com/special/yoshida_report/2-2m.html

吉田調書 第2章 1 真水か海水か

2014-05-27 17:31:43 | 原発
「1号機への海水注入を、官邸に詰めていた東電フェロー武黒一郎の中止指示を無視し、廃炉も恐れず続行したことで、一躍英雄視された福島第一原発所長の吉田昌郎。その吉田が、3号機への海水注入について、廃炉を避けるため極力淡水を使え、という官邸のある者の指示を受け入れ、無理して淡水に切り替え、危険性を増大させていた事実は意外に知られていない。
吉田「だから、たぶん、武黒から。指示という意味では。だと思う。だから、可能性として、武黒が一点と、そのわきで安井さんか誰かがそれに関しておっしゃった可能性も否定できないんですけれども、せいぜい絞るとすると、そんなような感じで、武黒が、そのわきにいた安井さんというぐらいしか考えられないな、という感じなんです」
――― 13日の6時台に官邸から本店へかかって、それが回されてきて、電話を取って、要約すると、海水を使うという判断が早過ぎるのではないかというコメントが来て、海水というのは、それを使うと廃炉にするということにもつながるだろうし、極力、ろ過水とか、水を使うことを考えてくれというような内容なわけですね。
吉田「ここは申し訳ないけれども、この前も話したように、私の記憶はまったく欠落していたので、ビデオを見て、ああそうだったかなと逆に思い出しているぐらいなんで、本当に誰と電話したかも完全に欠落しているんです。ですから、そこは可能性だけの話しかないです」

写真|停電に備えて百貨店などが早めに閉店した東京・銀座は、午後7時すぎにもかかわらず真っ暗だった=2011年3月17日、越田省吾撮影
 東日本大震災発生2日後の2011年3月13日未明、福島第一原発3号機は最初の危機を迎えていた。
 運転員が午前2時42分に、原子炉への次の注水手段がうまくいくのか十分確認しないまま、それまで炉に水を注ぎ込んでいた高圧注水系と呼ばれるポンプを手動で止めたことで危機は生じた。吉田に知らせず行われた操作だった。
 注水が止まった3号機は、炉の水位がぐんぐん下がった。午前5時14分、福島第一原発技術班は、午前7時半ごろに核燃料が損傷し始め、午前9時半ごろには炉心溶融するとの1回目の予測を報告した。

 福島第一原発は原子炉への新たな注水方法を検討した。高圧注水系ポンプの再起動は、必要なバッテリーが調達できず断念した。
 代わりに吉田が選んだ方策は二つ。炉が高圧でも注入できるホウ酸水注入系のポンプで注水する方法と、原子炉圧力容器についているSR弁という弁を開けて炉を減圧したうえで消防車のポンプで注水する方法だった。
 ホウ酸水注入系は高圧で水を入れられる切り札的存在だが、ポンプを動かすには480ボルトの交流電源が必要だ。
 福島第一原発は地震で鉄塔が倒れ、外部からの交流電源が失われている。そのため、福島第一原発にかけつけた電源車が発電した6900ボルトの電気を、被災を免れた4号機の配電装置につないで480ボルトに降圧し、3号機までケーブルで引っ張ってくることにした。
 一方、消防車を使った減圧注水のほうは、SR弁が開き次第、消防車で海水を入れると、吉田は決めていた。午前5時42分、消火栓につながるタンクがすべて空だとの報告があり、淡水は足りないと考え、決断した。
13日朝、3号機に海水注入を指示する吉田昌郎所長
00:00/00:00
 「本店、緊急です、緊急です、緊急割り込み!」。午前6時43分、吉田あてに電話が入った。武黒とともに官邸に詰めている東電の原子力・品質安全部長の川俣晋からだった。
――― まず優先的には真水ということになっているんですが、そういう発言に至った理由なんですけれども、そこは何が一番。
吉田「やはり官邸です」
――― それがやはり一番ですか。
吉田「一番です。当初言っていたように、私は海水もやむを得ずというのが腹にずっとありますから、最初から海水だろうと、当初言っていたと思います。その後に官邸から電話があって、何とかしろという話があったんで、頑張れるだけ水を手配しながらやりましょうと。ただ、水の手配はうちだけではできないんで、自衛隊も含めてお願いしますよという形で動いているというのがこの時点なんですね。ある程度自衛隊が動いてくれれば水の補給は可能であるかなというところ、まだ期待があった時点なんで、海水に切り替えるというか、そこまでは思っていないというところ、非常に微妙なところだと思います」
――― (前略)水という観念では海水にしたほうがなどということを言われて、要するに、消防庁とか、仙台消防署とか、来てくれるという話はいっぱいあるんだけれども、結局、いま、情報があるのは千葉支店の1台で、現実に動いているのはそれしかないではないかというようなところから、これで2号だ、3号だ、両方面倒見られるわけがないということで、海水という発言になったんでしょうけれども、今度来る千葉支店の消防車の車は、2号のほうの水源にとりあえずはして、というようなことで、このときはおっしゃっているわけですね。所長の腹としては、それでもう何もないとうことになれば、海水もやむなしということになっているんですか。
吉田「はい」
写真|福島第一原発1、2号機の中央制御室で、懐中電灯で照らしながら計器データを確認中の作業員=2011年3月23日昼、原子力安全・保安院撮影、提供
 「官邸」からの電話の趣旨は、海水を使う判断は早過ぎる。廃炉につながるから極力、ろ過水なり真水を使うことを考えてくれ、というものだった。
 吉田が政府事故調の聴き取り調査において「記憶はまったく欠落している」と主張するのが、この東電原子力・品質安全部長の川俣晋からの電話の部分だ。電話の相手が、川俣から誰かに代わったというが、それが誰かは覚えていないというのだ。
 吉田はいったん、東電フェローの武黒一郎、原子力安全・保安院付の安井正也の名前を挙げた。しかし、記憶が完全に欠落していると主張して、逆にこの二人ではないことを強くにおわせた。一方、原子力安全委員会委員長の班目春樹、内閣官房長官の枝野幸男、そして首相の菅直人は、違うとはっきり説明した。
 結局、吉田は、誰だったか思い出せないということで通した。が、とにかく吉田は、官邸にいたある人物から、3号機の廃炉を避けるため、海水注入ではなく淡水を入れろと言われ、応諾した。
――「誰と電話したかも完全に欠落しているんです」

 解せないのは、1号機で武黒の指示を聞かず海水注入を続行したあの吉田が、今回はいとも簡単に電話の主の要求をのんだことだ。
 その瞬間、福島第一原発の現場からは、「水がねえんだから」との声が飛んだ。
 その後も、まず福島オフサイトセンターに詰めている東電原子力担当副社長の武藤栄が「もう海水を考えないといけないんじゃないの? これ官邸とご相談ですか」と疑問を示した。東電本店に詰めているフェローの高橋明男も、「吉田所長、水はどこから持ってくるの。手当てのめどは立っているんですか」と心配した。
 電話の主はどれほど強い要求をしたのだろう。吉田はそんな周囲の心配に耳を貸さず、淡水注入に切り替えた。
 その結果、福島第一原発の現場は苦労の連続となった。すぐに使える淡水は、消防車による注入で使えるのが80トン、ディーゼル駆動消火ポンプで使えるのが800トンしかない。それぞれ2時間、20時間で費えてしまう量だ。
 技能訓練棟のプールの水など所内のあらゆる淡水を集めてくることになったが、急なことでなかなかうまくいかない。応援に来るはずの消防車もなかなか来ない。自衛隊の水もこの日は届かなかった。
 切り札のホウ酸水注入系のポンプも、4号機の配電装置から電気を引っ張ってくるケーブルが1号機の爆発で損傷し、使えないことが判明した。
――「官邸から電話があって、何とかしろという話があった」

 そうこうしているうちに3号機の炉の圧力が上昇してきた。そうなると、ディーゼル駆動消火ポンプは水を吐き出す圧力が低いので、炉の圧力が高いと水を注ぎ込めない。結局、淡水注入は、消防車を使う分の80トンしかできず、午後0時20分ごろ終わった。
 吉田は「あの、もう、水がさ、なくなったからさ」と海水注入を指示した。吉田はものの10分もあれば段取り替えを終え、海水注入が始まると見込んでいた。しかし、実際に始まったのは午後1時12分。52分間もの間、3号機にはまったく水が注ぎ込まれなかった。
 目の前の炉の挙動、淡水の確保の見通し、こうしたものを一切無視して、廃炉を防ぎたいという、遠く離れた東京の「官邸」からの要求を受け入れた結果、吉田は危機を拡大させてしまった。
13日昼過ぎ、淡水がなくなったと報告する吉田所長
00:00/00:00
写真|緊急災害対策本部に臨む菅直人首相(左から3人目)=16日午後4時9分、首相官邸、飯塚悟撮影
――― 2号機はそのまま海水からいきますよというような話があって、このころはここには出てきていないんですけれども、これについては官邸なりというのはないですか。
吉田「なかったですね。記憶にないですね」
――― あと、山下さんというお方は、どういう立場の方ですか。
吉田「山下は、本店の復旧班の班長なんですよ。(後略)」
――― 山下さんは、海水というのは、そのまま材料が腐食する、腐ってしまったりしてもったいないということで、なるべく粘って真水を待つという選択肢もあるというふうに理解してよいでしょうかと。これは当然、あるんだったらそれでという考えはあるんでしょうけれども、そう、ないものねだりできないからというところの時期なんですね。もうこのころは。
吉田「そうです」
 52分間、水が注ぎ込まれなかった3号機は、炉の状態が悪化の一途をたどった。
 炉水位は回復せず、午後1時23分には原子炉建屋の二重扉の内側で毎時300ミリシーベルトという極めて高い放射線量を観測したとの報告が入った。内側はもやもやしていたといい、爆発性のある水素を含む水蒸気が原子炉格納容器から漏れ出していた可能性もある。
 ここで2号機の注水方法を考える時期がきた。吉田はさすがに2号機については最初から海水でいくと宣言した。午後1時13分のことだ。「官邸」もまずいと思ったのか、2号機の海水注入は「事業者がやるんなら良い」とあっさり許可した。
3号機の炉圧上昇の報告を受ける吉田所長
00:00/00:00
 しかし、東電内では、こんな痛い目に遭った後でさえ、なんとか廃炉を回避するため海水を使わないでいこう、という考え方はなくならなかった。
 例えば本店の復旧班長は、吉田の2号機海水注入宣言から7時間たった時点でも、廃炉回避のため、淡水でいくべきだと主張した。
 「こちら側の勝手な考えだと、いきなり海水っていうのはそのまま材料が腐っちゃったりしてもったいないので、なるべくねばって真水を待つという選択肢もあるというふうに理解して良いでしょうか」
 吉田が「理解してはいけなくて、もうラインナップがあそこのラインナップをして、供給源を海の供給源にしてしまいましたから、今から真水というのはないんです。時間が遅れます、また」「言いたいのは真水でやっといた方が、要するに塩にやられないから後で使えるということでしょ」と主張しても、「はい、そういうことです」と引こうとしない。
 吉田が「それは、私もずっとそれを考えたんだけど、今みたいに供給量がですね、圧倒的に多量必要な時にやっぱり真水にこだわってるとえらい大変なんですよ。だからもうこれは海水で行かざるを、この状況で行けば海水でいかざるを得ないと考えてると、こういうことです」と説明すると、「はい、現段階のことは理解しました」と答えた。

 原発の暴走を止めるにはとにかく水を入れて冷やすしかない。眼前に広がる太平洋は水を無尽蔵にたたえる。淡水が足りない以上、その海水を使うのは当然だ。
 しかし、鉄でできた精密機械である原発は、いったん海水を入れるとさびて二度と使えなくなる。廃炉だ。そうなると電力会社は多額の損失を計上しなくてはならず、倒産も視野に入る。
 「官邸」や東電には、危機がかなり進行した後も、できることなら廃炉を避けたいという考えが存在していた。(文中敬称略)」

http://digital.asahi.com/special/yoshida_report/2-1m.html

吉田調書 第1章 3 誰も助けに来なかった

2014-05-27 17:27:04 | 原発
「東日本大震災発生3日後の2011年3月14日午前11時01分、福島第一原発の3号機が爆発した。

 分厚いコンクリート製の建屋を真上に高々と吹き飛ばしたところを無人テレビカメラに捉えられ、ただちに放映された、あの爆発だ。

――― 水が欲しいときっとなるだろうから、そうだったら、何はともあれ外との間のパイプラインをつくってしまえという指示をどこかで出したのかなと思っていたんですが、パイプラインを何でもいいからつくってくれと、そんなことまでは頭が動かないのか、それとも、言っても先ほどのように。

吉田「それはわからないです。私はこの中にいましたので、外からどういう動きをしていたかはちっともわからないんで、結果として何もしてくれなかったということしかわからない。途中で何かしてくれようとしていたのかどうか、一切わかりません」 

――― わかりました。私はそこまででいいです。

吉田「逆に被害妄想になっているんですよ。結果として誰も助けに来なかったではないかということなんです。すみません。自分の感情を言っておきますけれども、本店にしても、どこにしても、これだけの人間でこれだけのあれをしているのにもかかわらず、実質的な、効果的なレスキューが何もないという、ものすごい恨みつらみが残っていますから」
――― それは誠にそうだ。結果として誰も助けに来てくれなかった。

吉田「後でまたお話が出ますが、消防隊とか、レスキューだとか、いらっしゃったんですけれども、これはあまり効果がなかったということだけは付け加えておきます」


 3月12日午後の1号機の爆発に続き、日本史上2度目の原発の爆発も、ここ福島第一原発で起きてしまった。
 外で作業にあたっていた人が怪我をした。当時、原子炉への注水は、3号機の海側にある逆洗弁ピットというくぼみにたまった海水を、消防車で汲み上げておこなっていた。その屋外作業に大勢がかかわっていた。

 また、自衛隊がちょうど給水車で原子炉に入れる水を補給しにきていた。作業をしていた6人は被曝し、何人かは怪我もした。

 福島第一原発では所長の吉田昌郎以下、所員の落ち込みようは激しかった。吉田はサイト、すなわち発電所のみんなの声を代弁し、午後0時41分、テレビ会議システムを使って、声を詰まらせて東電本店に次のように訴えた。

 「こんな時になんなんだけども、やっぱり、この……、この二つ爆発があってですね、非常にサイトもこう、かなりショックっていうか、まあ、いろんな状態あってですね」

 社長の清水正孝の答えは、次のようなものだった。

 「あの、職員のみなさま、大変、大変な思いで対応していただいていると思います。それで、確かに要員の問題があるんで、継続につき検討してますが、可能な範囲で対処方針、対処しますので、なんとか、今しばらくはちょっと頑張っていただく」

 東電本店はヒトだけでなくモノの面でも福島第一原発を孤立させていた。


 福島第一原発では、いまや原子炉の冷却の主軸である消防車のポンプを回すための軽油も、中央制御室の計器を動かすのに必要な電気を発電するためのガソリンも、ベントなどの弁を開けるのに必要なバッテリーも足りなかった。
 所員はこれらの必要物資を、10km離れた福島第二原発、20km南のスポーツ施設Jヴィレッジ、場合によっては50km南の福島県いわき市の小名浜コールセンターまで取りに行っていた。

 東電本店は福島第一原発まで運ぶよう運送業者に委託するのだが、3月12日に1号機が爆発し、避難指示の区域が拡大してくると、トラックがその手前までしか運んでくれなくなったのだ。

 トラック業者だけでない。福島第一原発は、同じ東電の福島第二原発からガソリン入りのドラム缶をもらうときも、中間地点にあるコンビニエンスストア、通称「三角屋のローソン」や、ホームセンター「ダイユーエイト」の駐車場にそれぞれが運搬車で乗り付けて、引き渡してもらっていた。

 福島第二原発としては、福島第一原発に直接行ってしまうと、運搬車が放射性物質に汚染され、除染しないと乗って帰れなくなるからだった。


――― この注水の作業なんかについては、消防車の運転操作なんかの委託をしていた、日本原子力防御システムですかね、そういうところだとか、南明興産というところですね、こういうところも協力していただいている?

吉田「最初は協力してくれる」

――― 途中からは。

吉田「線量が出てから」

――― 線量が上がり過ぎて、その人たちの作業はできなくなったと。それ以降は、東電の。

吉田「自衛で」

――― その自衛消防隊の方だけでやっていたんですか。

吉田「はい。何人か奇特な方がいて、手伝ってくれたようなことは聞いているんですけれども」

――― それは。

吉田「南明さんとかですね。ほとんど会社としては退避されたような形で、個人的に手伝ってといったらおかしいんですけれども、そういうことは聞いております」 (中略)

――― 3月16日以降とかは、がれきの整理などのために、例えば、がれき撤去のための作業用の車両みたいなもの、ブルドーザーなり何なり、そういうものは届いていたんですか。

吉田「バックホーが数台もともとこちらにあったのと、間組さんがどこかから持ってきてくれて、主として最初のころは間組なんです。土木に聞いてもらえばわかりますけれども、間組さんが線量の高い中、必死でがれき撤去のお仕事をしてくれていたんです」

――― これは何で間組なんですか。

吉田「たまたま、私もよくわかりません。そのときは線量が高いんですけれども、間組が来てくれたんです」

――― この辺周辺の撤去などの作業をしてくれたんですか。

吉田「それもやりましたし、6号への道が途中で陥没したりしていたんです。その修理だとか、インフラの整備を最初に嫌がらずに来てくれたのは間組です。なぜ間組に代わったかというのは知らない。結果として間組がやっているという状況だったので、たぶんいろいろお話をして、一番やろうという話をしてくださったんだと思います」


 東日本大震災発生当日の2011年3月11日午後9時44分、新潟県にある東電柏崎刈羽原発を1台の化学消防車が福島に向けて出発した。消防関係の業務を東電から請け負っている南明興産という会社の社員3人が乗っていた。

 交流電源をすべて失った福島第一原発で、原子炉を緊急に冷やすポンプがすべて使えない状態になっていた。吉田らが代わりに思いついたのは、消防車を使って外から原子炉に注水する方法だった。過酷事故時の対応を定めたアクシデント・マネジメント・ガイドには書かれていない世界初の試みだ。

 ところが、福島第一原発の消防車3台のうち、使えるのは1台だけだった。1台は津波にやられ、もう1台は構内道路がやられて1~4号機に近づけないところにあった。

 消防車を操れる人間はもともとごく少数。それもそのはず、東電の社員は誰も消防車を運転したことがない。ホースを消火栓につないだり、ホースとホースをつなぐなどの消防車周りの作業もしたことがない。

 南明隊は到着するやいなや、あちこちにかり出された。

――「実質的な、効果的なレスキューが何もない」

 福島第一原発では、消防車から原子炉への注水の経路がめまぐるしく変わった。防火水槽やタンクの淡水を入れていたかと思うと、次は逆洗弁ピットというくぼみにたまった海水を入れる。その次は海の水を直接汲み上げて入れる。そのたびに消防車を動かし、ホースをつなぎ変えた。南明隊は途中、東電の要請で部隊増強を図った。

 消防車周りの仕事はたいてい屋外作業となる。そのため、常に高い値の放射線にさらされたし、1号機や3号機が爆発した時はがれきの雨に打たれた。

 吉田も気遣ってはいたが、なにせ彼らの代わりができる人間が東電にいなかった。

 一方、がれきの撤去作業では、一部のゼネコンが一肌脱いだ。

 福島第一原発では15日以降、各号機の核燃料プールの冷却が大きな課題になっていた。特殊な消防車で地上から放水することが考え出されたが、がれきが、各号機へ消防車が近づくことを拒んでいた。

 がれきは、1、3、4号機の相次ぐ爆発で発生したもので、がれき自体が高い値の放射線を発していた。

 それを人と重機を投入して片付けた。これもまた高い値の放射線量のもとでやってのけた。


――― こういう爆発があって、例えば3月13日とか14日というのは、保安院の方というのはどうなんですか。

吉田「よく覚えていないんですけれども、事象が起こったときは、保安院の方もみんな逃げて来て、免震重要棟に入られたんです。それから即、オフサイトセンターができたので、オフサイトセンターに全部出ていった。私の記憶がなかったので、先ほどDVD議事録を見ていたら、武藤が途中で大熊にあったときのオフサイトセンターから保安検査官をこちらに送り込むという話はあったんです。結局あれは14日だったんですけれども、来られなかったんです」

――― 来なかったんですか。

吉田「はい。私は記憶がないんだけれども、今みたいに24時間駐在で来られるようになったのは、もうちょっと後だと思います」

――― 保安院の方が来られると、例えば情報を得ようと思ったら緊対室に来ますね。

吉田「はい」

――― そのときというのは、所長に何かあいさつなりというのは、向こうからするんですか。そのまま本部の円卓の辺りにいるんですか。

吉田「我々別に保安検査官を拒絶するつもりもないし、来られるようなときに来られればよくて、彼らは保安院の制服を着ていらっしゃいますから、いらっしゃるということで、ごく普通に会議の中に入ってもらえばいい、という形で対応しています」

――― それは円卓に保安院用の席があるんですか。

吉田「もともとはなかったんです。そんな話があって、保安院の人に座っていてもらえという話をしたんです」

――― それはいつごろですか。

吉田「最初に武藤から電話があって、保安院さんが来るという話のときに、短期間で1回来られたかも知れないんです。14日ごろにね。そんな記憶もあるんです。ちょこっといらっしゃった。オフサイトセンターが福島に引き揚げるとなったときに、みんな福島に引き揚げられて、結局、16日、17日ぐらいまで、自衛隊や消防がピュッピュやっているときはいなかったような気がするんです」

――― サイト内に来られたとすれば、例えば保安院の事務所の方にずっといるわけではないんですか。

吉田「住むところは免震棟しかないわけですから、事務所には行きようがないんです。線量もあるし、被曝もあるしね」

 各原発には、原子力安全・保安院、今なら原子力規制庁に所属する原子力保安検査官が、常駐する制度になっている。
 東日本大地震発生時、福島第一原発内にも当然いて、地震後一時、免震重要棟に入っていた。だが、しばらくして南西5kmのところに福島オフサイトセンターが立ち上がると、そこへ移動した。

 2日後の3月13日午前6時48分、そのころオフサイトセンターに詰めていた東電原子力担当副社長の武藤栄が、吉田に、保安検査官が福島第一原発に戻ると連絡してきた。

 「保安院の保安検査官が、そちらに4名常駐をしますと。12時間交替で1時間ごとに原子炉水などプラントデータを、報告をするということになります」

 吉田は即座に「保安検査官対応!」と受け入れ態勢を整えるよう部下に指示した。
 保安検査官はその後しばらくしてやって来たが、3月14日夕方、2号機の状況が急激に悪化するとまたオフサイトセンターに帰ったとみられる。そして、15日朝、オフサイトセンターが原発から60km離れた福島市へ撤収すると、いっしょに行ってしまった。

――「みんな福島に引き揚げられて」

 一方、原発から5km離れたところにあるそのオフサイトセンターだが、原発事故があったら、10以上の省庁から40人超が集まり、原発や周辺自治体と連携して、情報を収集・発信する拠点になると定められていた。甲状腺がんを防ぐ安定ヨウ素剤の配布指示でも大きな役割を担っていた。

 それなのに、今回の事故では半数強しか来なかった。班が七つ立ち上がり、それぞれが班長の指揮のもと作業にあたることになっていたのだが、班長が3月末近くまで来ない班もあった。

 最も大変な事態が進行しているときに、原発を操作できる唯一の組織である電力会社が収束作業態勢を著しく縮小し、作業にあたる義務のない者が自発的に重要な作業をし、現場に来ることが定められていた役人が来なかった。

 これが多くの震災関連死の人を出し、今もなお13万人以上に避難生活を強いている福島原発事故の収束作業の実相だ。(文中敬称略)」

http://digital.asahi.com/special/yoshida_report/1-3m.html

吉田調書 第1章 2 ここだけは思い出したくない

2014-05-27 17:25:28 | 原発
「東日本大震災発生3日後の2011年3月14日午後6時。福島第一原発2号機は、重大な危機にさらされていた。1号機、3号機でも手こずった原子炉格納容器のベントが、2号機では本当にどうやってもできなかった。原子炉の中心部である圧力容器の水蒸気を逃がす「SR弁」を人為的に開けて、圧力が下がったところで消防車で注水し原子炉を冷やす試みも、なかなかうまくいかなかった。
――― この後ぐらいに、要するに、SR弁がなかなか開かないというところから、夜に行くぐらいのころ、本店も含めてなのかどうかはともかく、実際の退避は2Fの方に行っていますけれども、退避なども検討しなければいけないのではないかみたいな話というのは出ていた?
吉田「出ています、というか、これは、あまりに大きい話になりますし、そこでうちの本店から言ってきたわけではなくて、円卓で言いますと、円卓がありますけれども、廊下にも協力企業だとかがいて、完全に燃料露出しているにもかかわらず、減圧もできない、水も入らないという状態が来ましたので、私は本当にここだけは一番思い出したくないところです。ここで何回目かに死んだと、ここで本当に死んだと思ったんです」
 「これで2号機はこのまま水が入らないでメルトして、完全に格納容器の圧力をぶち破って燃料が全部出ていってしまう。そうすると、その分の放射能が全部外にまき散らされる最悪の事故ですから。チェルノブイリ級ではなくて、チャイナシンドロームではないですけれども、ああいう状況になってしまう。そうすると、1号、3号の注水も停止しないといけない。これも遅かれ早かれこんな状態になる」

写真|福島第一原発1、2号機の防護管理ゲートの北側の風景。津波で破壊されたがれきが散らばっている=2011年3月23日、経済産業省原子力安全・保安院提供
 2号機ではいったん13日に、格納容器から排気塔につながるベントライン上の弁を二つとも開け、いつでもベントできる状態にしていたのだが、14日午前11時1分の3号機の爆発で、うち一つが閉じて、開かなくなってしまった。
 午後4時15分に原子力安全委員会委員長の班目春樹から直接電話があり、ベントができないなら原子炉圧力容器のSR弁をすぐに開けろと言われた。が、これも作業を始めてから1時間たったが開かなかった。
 ベントの弁と同様、平素は簡単な操作で開くのだが、125ボルトの直流電源を供給するバッテリーが上がってしまったのか、うんともすんとも言わなかった。
 福島第一原発では、所員の自家用車からはずしてきたり、福島県内のカー用品店で買ってきたりして、12ボルトの自動車用バッテリーをかき集めていた。東電本店や、新潟県の柏崎刈羽原発などほかの発電所からも送ってもらった。それらを10個直列につないで120ボルトのバッテリーにして装着してみたがうまくいかない。
――「ここで何回目かに死んだと、ここで本当に死んだと」

 10個では電圧が定格より5ボルト足りないからと11個つなぎにすれば良いのではないか、いや、これは電圧でなく電流が足りないから120ボルトのバッテリーをもう1セットつくり、2セットを並列つなぎにしたほうがいいのではないか、と試行錯誤を繰り返したがなかなか開かなかった。
 このままSR弁が開かないと圧力容器内の圧力は高止まりし、消防車の低いポンプ圧力では、いつまでたっても炉に水を注ぎ込むことができない。
 早く水を入れて冷やさないと、炉はますます高温高圧になる。水が蒸発して水位が下がり、核燃料が水面から顔をのぞかせることになる。
 核燃料は水からむき出しになると、そこから2時間で自らが発する高熱で溶け落ちる。いわゆるメルトダウンだ。さらに2時間で圧力容器の壁を溶かして穴を開けてしまう。メルトスルーと呼ばれる事態だ。
2号機の状況をめぐるやりとり
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 吉田が口にした「チャイナシンドローム」とは、アメリカの原発がメルトスルーし、高温でどろどろになった核燃料が格納容器をも突き破り、接するものを次々と溶かしながら、重力により地球の中心に向かい、さらに突き進んでちょうど地球の裏側の中国に到達するという仮想の話を主題にした、ジェーン・フォンダ主演の米映画の名前だ。
 そこまでの惨事となるかどうかはともかく、打つ手がない以上、2号機はメルトスルーに向かっていく。格納容器が破られれば、プルトニウム、ウラニウム、アメリシウムなど猛毒の放射性物質が、生活環境に大量にばらまかれる。
 その際には膨大な量の放射線が所員を一気に大量被曝させるであろう。吉田は、となると、1号機と3号機も原子炉の冷却作業ができなくなり、3機ともメルトスルーするという恐ろしい事態が起きてしまうと思い、ある行動に出た。
写真|福島第一原発1・2号機中央制御室の当直長席で、機器データを記録する作業員=2011年3月23日、原子力安全・保安院提供
吉田「そうなると、結局、ここから退避しないといけない。たくさん被害者が出てしまう。もちろん、放射能は、今の状態より、現段階よりも広範囲、高濃度で、まき散らす部分もありますけれども、まず、ここにいる人間が、ここというのは免震重要棟の近くにいる人間の命にかかわると思っていましたから、それについて、免震重要棟のあそこで言っていますと、みんなに恐怖感与えますから、電話で武藤に言ったのかな。一つは、こんな状態で、非常に危ないと。操作する人間だとか、復旧の人間は必要ミニマムで置いておくけれども、それらについては退避を考えた方がいいんではないかという話はした記憶があります」
 「その状況については、細野さんに、退避するのかどうかは別にして、要するに、2号機については危機的状態だと。これで水が入らないと大変なことになってしまうという話はして、その場合は、現場の人間はミニマムにして退避ということを言ったと思います。それは電話で言いました。ここで言うと、たくさん聞いている人間がいますから、恐怖を呼びますから、わきに出て、電話でそんなことをやった記憶があります。ここは私が一番思い出したくないところです。はっきり言って」
 ここで吉田がとった行動は、東電の首脳と、官邸にいる首相補佐官細野豪志に直接、2号機の惨状を伝え、所員の引き揚げを考える時期がきていると意見することだった。
 テレビ会議システムを使うと、緊急時対策室にいる所員全員に聞かれるので、廊下に出て、携帯電話で密かに報告した。
 退避命令に関しては、実は吉田は今回の福島原発事故の収束作業中、何度か発している。爆発や放射線被曝から所員を守らなければいけないと考えたときだ。
 例えば3月14日朝に3号機の格納容器の圧力が急激に上昇したとき、吉田はテレビ会議システムを使って、「何もできなくなっちゃうんですけども、現場の作業員、うちの社員、一回こちらに退避させてよろしいですか」と了解を求めたうえで、退避命令を出している。
 それが、今回の局面では、携帯電話で東電本店と官邸にこっそり伝えた。吉田の不安は極限にあったと言っていい。

写真|福島第一原発2号機の炉水位低下について記者会見で説明する経産省の西山英彦大臣官房審議官=2011年3月14日午後9時54分、東京・霞が関で、越田省吾撮影
――― それに対して、おふた方、武藤さんなり、本店側の人間に対して電話したときの向こうの反応はどうでした?
吉田「別にどうということではなくて、そういう状況かということなんです。それでOKだとか、そうではないとかいう話ではないんですけれども、私は、そういう危険があるよと、わかったと、そういう感じなんですね。私の行動としては、廊下にいた協力企業の方のところに行きまして、みんな、よくわからないでぼーっと見るなりしていますから、この人たちを巻き込むわけにいかないと思って、一生懸命やってきましたけれども、非常に大変な状況になってきて、みなさん、帰ってくださいと。退避とは言わないです。帰ってくださいと。帰っていただければというお話をして、あとはこっちに戻って来て、こっちも声なかったですよ。その時点で。あとは待つだけですから。水が入るかどうか、賭けみたいなものですから。それだけやったら、あとはほとんど発言しないで、寝ていました。寝ていたというか、茫然自失ですよね」
――― それは、SR弁がなかなか開かないとか。
吉田「開いたんです。開いたんですが、なかなか圧が下がらないところから、SR弁を開けるところはまだ操作ですから、何やっているんだ、どうなっているんだとなるんですけれども、SR弁が開いたにもかかわらず、圧が落ちない。そら、見たことかと。結局、サプチャンのほうが高いですからね。落ちないんではないかと。落ちないで、燃料がどんどん水位が下がっていっているなと」
 「もう一つは、あまり時間がなかったものですから、ポンプが、消防車の燃料がなくなって、水を入れるというタイミングのときに、炉圧が下がったときに水が入らないと。そこでもまたがくっと来て、入れに行けという話をしていまして、これでもう私はだめだと思ったんですよ。私はここが一番死に時というかですね」
写真|原子炉格納容器の組み立てが進む東京電力福島第一原子力発電所2号機=1970年
 午後6時、2号機のSR弁がようやく開き、しばらくして炉の圧力が下がり始めた。これで消防車による注水が可能になると所員は安堵の雰囲気に包まれた。が、喜びは束の間だった。
 午後6時28分、こともあろうに、消防車が燃料切れを起こして注水できていないとの報告が入った。SR弁が1時間半の格闘の末にようやく開き、炉が減圧し始めたのに、これでは燃料の軽油を補給するまで炉に水は一滴も入らない。
 所内には「最後これかい、って感じだなあ」との声が飛んだ。おまけに軽油を消防車への補給のため運ぼうとした小型タンクローリーがパンクで動けないとの情報も入った。
 緊迫の度合いを深めた福島第一原発で吉田は、官邸と東電本店に2号機の状況を報告した後、下請けの協力会社の人たちに福島第一原発から離れるよう勧め始めた。
――「寝ていたというか、茫然自失ですよね」

 東電本店も、福島第一原発の所員を福島第二原発に移動する手配を開始した。所員の数の確認をおこない、一度にバスで全員運べるかの計算も始めた。
 午後7時40分、「東電のバスはですね、マイクロが20人乗りが2台、中型が1台、30人乗り」「そのほかに構内のバスが7台ありますが、運転手は何人いるか、ちょっといま確認中です」と報告された。
 東電本店は、福島第二原発での受け入れ態勢づくりと、吉田が指揮を執る福島第一原発の緊急時対策室を、福島第二原発に移す作業も始めた。
 午後8時17分、福島第二原発の所長、増田尚宏は次のように知らせてきた。
 「2Fのほうは、えっと、1Fからの避難者のけが人は正門の脇のビジターズホールで全部受け入れます。そして、それ以外の方は全部、体育館に案内します」
 「緊対を我々の2Fの4プラント緊対と、えっと、1Fから来た方が使える旧の緊対と、緊対を二つに分けて用意しておきますんで、そこだけ、本店側は、その両方の使い分けをしてください」
 しかし、東電は結局、3月14日夜は福島第二原発行きを実行しなかった。
 社長の清水正孝は午後8時20分に「あのう、現時点でまだ最終避難を決定しているわけではないということをまず確認してください。えー、それでいま、あのう、しかるべきところと確認作業を進めております」と発言している。その、しかるべきところとの調整がつかなかったのだ。
最終避難について話す清水正孝社長
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 危機に立ち向かって原発事故を抑え込む、原子力災害抑止隊と呼べるような組織は存在しない。自衛隊は、国の平和と安全に重要な影響を与える事態や大規模な災害に対し、迅速かつ的確に対処し得るような即応態勢を維持、向上させているというが、関連機関との連携が前提で、自分たちは原発を制御する技術や知識を持っていない。
 原子炉を制御して事故を収束にもっていける者は、電力会社員以外にはいない。だが、福島第一原発が起きる前も今も、彼らの行動をしばる規定はない。しばることの是非が声高に議論されたこともない。(文中敬称略)」

http://digital.asahi.com/special/yoshida_report/1-2m.html

再論 福島第一原発 1 号機の全交流 電源喪失は津波によるものではない /伊東良徳

2014-02-25 15:40:05 | 原発
 以下は岩波書店『科学』掲載の1頁冒頭部分と、26頁・結論部分の一部である。

 この論文は東電福島原発1号炉が、津波到達以前に全電源喪失に陥っていたことを論証しており、極めて重要である。そのため岩波書店も無料で全文を公開している。
http://www.iwanami.co.jp/kagaku/eKagaku_201403_Ito.pdf

 是非HPで全編ご覧いただきたい。

 「1 本稿の目的及び結論

 福島原発事故において事故を破局的な事故に至らせた原因である全交流電源喪失*1について,日本政府と東京電力等はすべて津波によるものであるとしている。しかし,少なくとも福島第一原発1号機において全交流電源喪失は2011年 3月11日15時37分かそれ以前に生じているところ,1号機敷地への津波の溯上は 15時 38分以降であり,時間的前後関係からして全交流電源喪失の直接の原因は津波ではあり得ない*2。

 本稿は,このことを,福島第一原発を襲った津波の唯一の実測データである沖合 1.5 km 地点に設置されていた波高計による実測波形と,津波が福島第一原発を襲う過程を撮影した一連の写真という 1次資料の分析検討により論証しようと試みるものである。」

 「9. 3 東京電力第 1回進捗報告の結論のまとめ方について東京電力の第1回進捗報告は,6. 7 項で紹介したように,津波の写真等の検討では「写真18の前後には」原子炉建屋付近に津波第 2波(2段目)が到達していたものと判断されるとしており*53,この報告書には他に 1号機敷地への津波溯上時刻について明示的な判断をしている部分はない。そしてこの報告書では写真 18の撮影時刻は 15時 37分06秒頃とされている*54。

 そうすると,東京電力の第 1回進捗報告での 1号機敷地への津波溯上時刻は 15時37分 06秒前後と認定されるのが,東京電力のこの報告書での論理の運びからみて常識的である。ところがこの報告書は,4m 盤上の海水ポンプの異常発生時刻や,報告書で限定的な溯上であると明示している東京電力主張の第 2波(1段目)による 4号機南側敷地への溯上など,防波堤の内側の原子炉建屋のある敷地10m 盤への溯上と直接的に結びつかない事象に15時36分台の数字を付けて羅列し,
「当社は敷地への津波到達時間は15時 36分台と
考えている」と結論づけている*55。

 これは極めて非科学的・非論理的なものというべきである。9. 1 項の点もそうであるが,8節で論じた東京電力と筆者の最大の対立点をおいて東京電力の第1回進捗報告の論理で考えても,東京電力が論じているところからは1号機敷地への津波溯上時刻を 15時36分台とすることは無理であり,15時37分台にはみ出してしまう。それを最後にむりやりに 15時36分台と結論づけるのは,1号機系の非常用電源喪失が15時 36分台であることが否定できないので何があっても津波の敷地溯上時刻を15時37分より前にするという意図によるものとしか考えられない。

引用した資料をダウンロードできるサイト

写真1~18
 http://photo.tepco.co.jp/date/2012/201207-j/120713-05j.html
写真B1~3
 http://photo.tepco.co.jp/date/2011/201105-j/110519-01j.html
国会事故調報告書,参考資料
  http://warp.da.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/3856371/naiic.go.jp/index.
html

東京電力中間報告書,最終報告書
  http://www.tepco.co.jp/nu/fukushima-np/interim/index-j.html
東京電力第1回進捗報告
 http://www.tepco.co.jp/cc/press/2013/1232870_5117.html
東京電力2013年5月10日発表
  http://www.tepco.co.jp/nu/fukushima-np/handouts/2013/imag
es/handouts_130510_09-j.pdf
新潟県技術委員会全体会議の配付資料
 http://www.pref.niigata.lg.jp/genshiryoku/gijyututop.html
新 潟県技術委員会課題別ディスカッション関係資料(地震動によ
る重要機器の影響)
 http://www.pref.niigata.lg.jp/genshiryoku/1356773829562.html
規制庁事故分析検討会配付資料
 http://www.nsr.go.jp/committee/yuushikisya/jiko_bunseki/
政府事故調報告書
 http://www.cas.go.jp/jp/seisaku/icanps/
日本政府が IAEAに提出した報告書
 http://www.kantei.go.jp/jp/topics/2011/iaea_houkokusho.html」