白夜の炎

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中国の警察国家体制の実態-地球座より

2012-06-30 15:18:02 | EU
 http://chikyuza.net/n/archives/24078 より


「警察国家の証人たち
2012年 6月 29日 時代をみる 中国劉燕子警察国家
<劉燕子(リュウ・イェンズ):作家>


一、徐友漁氏からのメール

 梅雨の六月。日本の大学の招聘で来日した中国社会科学院哲学研究所の元研究員の徐友漁氏からメールが送られてきた。

 徐友漁氏は、西洋の政治哲学や中国の社会思想の研究で著名な良心的知識人であり、「〇八憲章」発表時の署名者三〇三名の中で、国内で署名した者の一人である。さらに、徐氏は、北京電影学院教授の崔衛平とともに「〇八憲章」署名の理由に関する文章を発表し(『〇八憲章与中国変革』中国信息中心、労改基金会、ワシントンD.C.、二〇〇九年所収)、また、崔衛平、莫少平(劉暁波の弁護士)とともに、二〇〇九年三月、プラハで開催されたHomo Homini Award(〝人と人〟人権賞)の授賞式に、劉暁波はじめ「〇八憲章」署名者全員を代表して出席した。その表彰の言葉は「大いなる勇気」を称賛し、「個人の危険をものともせずに『〇八憲章』に署名した人々への支持を示す」と結んでいる。

 徐氏の日本語訳の文献としては、及川淳子女史の翻訳による「我々と劉暁波を切り離すことはできない──劉暁波を釈放せよ──」(『天安門事件から「〇八憲章」へ』(劉燕子編、藤原書店、二〇〇九年、Ⅳ)や「二〇一〇年ノーベル平和賞に関する思考」(『「私には敵はいない」の思想』(藤原書店、二〇一一年、Ⅱ)がある。前者は劉暁波の釈放を求める声明で、徐氏はそこに名を連ねている。また、及川女史は直接交流し劉暁波夫妻や厳しい言論統制に抵抗する「中国公共知識人」や中国共産党の党内改革派に関して労を惜しまず紹介する若手研究者で、著書に『現代中国の言論と政治文化』(お茶の水書房、二〇一二年)がある。

 このようなわけで、私は徐氏とは既に「神交(面識はないが心が通いあう交友関係)」を感じて、メールを交信するようになった。


二、『遭遇警察──中国維権第一線親歴故事──』の紹介

 徐友漁氏から、天安門事件二三周年にあたる今年の六月四日に合わせて出版したばかりの『遭遇警察──中国維権第一線親歴故事──』(徐友漁、華澤編、開放出版社、香港、二〇一二年)が届けられた。サブタイトルの「維権」は権利擁護を意味する。

 この『遭遇警察──中国維権第一線親歴故事──』は、著名な人権派弁護士(中国では維権律師、公益律師とも呼ばれる)の滕彪、NGO「公盟」の創設者で、北京郵電大学講師の許志永、天安門事件の真相究明と名誉回復を粘り強く求める犠牲者の親たちの組織「天安門の母」の発起人である丁子霖・蒋培坤夫妻、人権擁護を訴え続け中国政府に八回も入国を拒否されたため、二〇〇九年一一月から三ヶ月間、成田国際空港の制限エリア内で抗議の「籠城」を続けて入国を果たしたが軟禁状態に置かれている馮正虎、中央電視台(CCTV)の元ディレクターの華澤、盲目の人権活動家の陳光誠の奇跡的な脱出を支援した元英語教師の何培蓉(珍珠)、人気作家の慕容雪村たち二二名が、毛沢東の「階級闘争」時代から胡錦濤の「警察国家」へという「転換」において起きた現実を実体験に基づいて語った証言集である。

 これまで、劉暁波のノーベル平和賞が発表されるや、中国政府は取締りをますます強めたことは多くが指摘してきた。授賞式への出席がことごとく阻止されただけでなく、会食などの名目で祝賀会を開こうとしただけで、公共秩序の攪乱という理由により召喚、拘禁、自宅監視、家宅捜査などを行使した。今年一月、米国に事実上亡命した作家の余傑は、黒い袋をかぶせられて秘密の施設に連行され、全裸で殴る蹴るなどの暴行を受けた。彼は「上からの命令があれば、地球上の誰も気づかぬうちに、お前を生き埋めにする穴を三〇分で掘れる。全国で政府を批判するやつら二〇〇人を全部生き埋めにしても、全世界で誰一人、屁の一つもできやしない」と脅迫されたことを証言している。

 このように中国共産党が独裁体制維持のために「無法無天」で、法も天も無視して悪事の限りを尽くすことを、私もひしひしと思い知らされてきた。そのため、『遭遇警察──中国維権第一線親歴故事──』を読み始めると、目を離すことができず、一気に読み終えた。


三、警察国家の実状

 『遭遇警察──中国維権第一線親歴故事──』出版の目的は、中国の社会生活における「警察化」の特徴、警察による社会生活の監視とコントロール、人権侵害の方法や特徴を記録して歴史に残し、後世の人々の調査や研究のために提供するということである。その「前言」では、次のような実状が述べられている。
 現代中国の社会生活における重要な現象や際立つ特徴は、警察が隅々にまで浸透し、市民の正当で合法的な活動に干渉し、圧力を加え、そして、人権を侵害していることであり、それは文化大革命が終息して以来かつてないほどのレベルに達している。それ故、「調和社会というスローガンは、この警察国家という現実と照らしあわせて、辛辣な皮肉となっている。

 近年の「〇八憲章」の署名と公表、劉暁波のノーベル平和賞受賞、北アフリカの国々から起きた「ジャスミン革命」に対する社会的な反響に対する、いわゆる「維穏(安定維持)」のために、当局はますます警察の力に頼るようになっている。つまり、自己の執政の合法性に関して、もはや自信を喪失しているため、まさに病的な過敏さで、中国の大地のどこでも「不安定な要因」だと判断すると、電光石火、矢継ぎ早の勢いで、その芽のうちに摘み取るという対策をとっている。全面的な社会のコントロールを意味する「社会の管理」という概念を指導的な指針として打ち出し、国家の資源の多くを社会の監視とコントロールに用いている。

 中国の警察による人権侵害のひどさは、既に「公然と日常化」されている。前ソ連や東欧の秘密警察の活動や方法と異なり、中国の警察は神秘的でもなく、また威厳もないことである。中国の公民が警察に呼び出されるのは、偶然でも、個別的でも、例外でもなく、大規模で日常的なことである。また隠れてなされずに、あからさまである。事前に電話で通告することもあるが、予告なしに自宅に乱入し、それが繰り返されて、いつのまにか「常連客」となる。定期的に「お茶やコーヒーを飲もう」、「食事をごちそうしよう」と、まるで飲み食いの仲間になったようにふるまう。
 監視のために、その人物の自宅の入口、集合住宅の階下、「小区(都市部の基層の単位、居民委員会の管轄、いくつか集まると社区となる)」の入口などに、臨時の宿泊所さえ建てる。

 人手が足りないため、月給わずか一千元あまりで出稼ぎの農民工、保安(警備員)、城管(城市管理隊)などを「二警」や「三警」として雇い、一人を見張るため八人も配置して、二四時間三交代制で監視させている。警察が「包工頭(親方)」になり、様々なところから臨時雇用としてかき集めて部隊をつくるが、当然のことながら、みな仕事に忠実ではなく、効率も悪く、士気は低下するばかりである。しかも、ややもすれば暴力を振るうため、民衆の不満は鬱積し、「泄憤(鬱憤晴らしの事件)」が至る所で起きている。このようになるのは、監視を必要とする公民があまりにも多すぎるからである。

 それでも、『遭遇警察──中国維権第一線親歴故事──』で述べられていることは「歴史の真相の全てではなく、一側面に過ぎない」という。同様に、取りあげられている警察は、巨大な警察組織のなかの一部で、交通警察などとは区別される政治警察、思想警察、「文化警察」である。しかし、一部であるとはいえ、それらは公民社会(市民社会)の形成にとって障害となるだけである。

 従って、いつの日か、政治改革が現実味を帯び、「法治国家の樹立」がスローガンではなく、実際の綱領として打ち出されるとき、まず第一に政治警察を解散することが急務となると指摘し、「中国の未来に目を向けるとき、政治警察は必ずや歴史の過去となる」と提起する。


四、徐友漁氏の場合

 徐友漁氏の「抗拒」を読むと、中国政府の最高レベルのブレーントラストである中国社会科学院にさえ保衛局の「維穏弁(安全維持統括事務所)」や監察局(規律違反、腐敗汚職を管轄)が設置されていることに驚かされる。また、「北京市公安局文化保衛署」という知識人、文化人、芸術家、出版編集者、ネットのブロガーやニュー・オピニオン・リーダーを直接監視し、「粛清」するという部門が公然と存在していることにも唖然とさせられる。警察国家の実態の深刻さが次々に出てくる。

 二〇〇四年、徐氏は、劉暁波を中心に起草された天安門事件の真相究明と問題解決を提起した公開書簡に署名した。そのため、治安当局は「体制内」の知識人が「体制外」の「民主運動家」と「共同行動」をとることに過敏に反応して恐怖し、研究所の党書記、所長、監察局から「二度と過ちを犯してはならない」と警告された。
 二〇〇六年からは、両会(全国人民代表大会と政治協商会議)が開催される「敏感」な時期には、警察が「自宅訪問」することが「慣例」となった。

 さらに、二〇一〇年、北京のチェコ大使館が開いた文化活動に参加しようとすると、北京市公安局は社会科学院保衛局と手を組み、徐氏を「維穏弁」に拘禁した。また、徐氏の電話やメールはすべて監視下に置かれた。



五、ペンネーム「一七匹の猫と魚」の場合
 ペンネーム「一七匹の猫と魚」がユーモラスかつシニカルに記録した「小市民奇遇記」では、次のように述べられている。

 二〇〇九年六月、一人のネット・ユーザーは暇をもてあまして退屈なのでバスに乗り、「五星紅旗(中国国旗)」を謳歌する放送を聞きながら、ふと、一本の白菊を買って、天安門広場で国旗を降ろす儀式を見物しようと思いついた。これを歌っていた歌手は、まもなく国家主席になる習近平の夫人で、自分もまもなくファースト・レディになる彭麗媛だった。

 ところが、この一本の白菊が、テロ対策で厳戒態勢の広場の入口における検問でトラブルを起こした。
 「お前らは何人だ?」
 「お前らって言うけれど、違います。ぼく一人です」
 「この花は、何のまねだ」
 「持ってたらいけないのですか」
 「身分証!」
 「持ってません」
 「待て。確認する」
 ……(パソコンで検索する)。

 「広場で何をするつもりだ」
 「国旗を降ろすところを見物しようと思いました」
 「白い菊の花とは、どういう意味だ」
 「法律で禁止されているのですか?」

 ……(広場に停車しているパトカーに入れられ、訊問を受け続ける)。
 「どこで買ったんだ」

 「西単です。一本、五元でした」
 「警戒、警戒。西単に白い菊の花を売るやつがいる」
 すぐさま警官は無線電話で叫びだした。
 「この白い菊は、どういう意味だ」
 「意味?……そんなこと考えていませんよ」
 「必ずある。すべての花には意味があるんだ。例えば、バラには男女の愛、それで、菊は……」
 「ええと、美しくて、純潔で、幸福?」
 「しかし、これは白だぜ」
 「菊の花には白、黄、紫といろいろありますよ」
 「白い菊は供養専用だ」

 「ああ、そうですか……でも供養って? 誰に供養するの?」
 この間、数人の警官が「一七匹の猫と魚」に繰り返し訊問した。
 「どうして、今日、国旗を降ろすのを見に来たんだ?」
 「昨日は時間がなかったし、明日は気が変わるかもしれないし」
 「お前は何か記念するために違いない」
 警官は焦った。

 「ええ? どういう意味ですか? 全然分かりません。もう少し分かるように説明してくれませんか」
 「今日は、六月四日だ」
 「六月四日? どういう日ですか? 特別な日ですか?」

 ……警官たちは答えに窮した。
 その後、「一七匹の猫と魚」は警察局に連行され、数時間後にやっと釈放された。
 「もういい。帰れ。もし、今度供養するときは、まず管理局に登録しろ」
 「違います。国旗を降ろすのを見に来ただけです」
 「もし、と言ってるんだぜ。帰れ」
 このようなエピソードから、上から暴力的に抑えつけて保っている「調和社会」や「安定維持」の恐怖と裏腹な実態がうかがえる。



五、おわりに

 北アフリカや中東の「ジャスミン革命」に呼応して、中国の「茉莉花(ジャスミン)革命」がネットを中心に呼びかけられたとき、弁護士の江天勇や滕彪たちは、頭から黒い袋をかぶせられて連行され、カーテンを閉め切った部屋で連日暴行や訊問を受けた。そして、マスコミの取材はもとより、ネットで発信したり、海外の民主活動家たちに知らせないという条件つきで釈放された。その時、治安当局は「約束を破れば、家族みな〝失踪させられるぞ〟」と脅迫したため、沈黙を破って語られたのはごく一部だけである。
 最近渡米した盲目の人権活動家の陳光誠は、厳しい監視をかいくぐり、奇跡の脱出を成功させて世界を驚かせたが、故郷の兄やおいたち親族は残酷な報復を受け、また、「自由光誠」と訴えて救出活動を支援した市民やネット・ユーザーは、地元の監視員に棒を振り回されて仕返しされた。
 これらは氷山の一角で、知られていない暴力は無数にある。そして、社会の底辺で最も差別や偏見にさらされている農民工や臨時工などは「二警察(第二の警察)」、「三警察」として、暴力の手先となっている。このような者たちをフル稼働する人海戦術で、新しい差別(政治的差別、政治的アンタッチャブル)を作りだしていく。それは独裁体制の重層的な統治構造であり、警察国家とは国家テロ組織であると言わざるを得ない。
 ところが、現在、中国のインターネット・ユーザーは約五億人で、その中のウェイボー(微博、中国式ミニブログ)のユーザーは二・五億人を超えている。そして、ウェイボーは市民社会としての公共空間(public sphere)において情報を交換しあう「プラットホーム」を提供している。日本にいる私にも、中国の国内外の複数の友人から「今日微博」、「周末分亨」(週刊)、「公民社会」(週刊)などの電子情報のニュースが送られてくる。
 確かに、中国の政治構造が真の法治社会へと向かううえで直接的な効果は今のところ見えないが、最近では、情報、公安、検察、司法、人民武装警察部隊を含む、国内治安の権限を一手に掌握している中国共産党政法委員会の周書記が失脚するという「口コミ」が流れている。これは陳勝が「天下苦秦久矣(天下は久しく秦に苦しんでいる)」と語ったような民衆の不平不満の現れであり、やがて活火山となって爆発するだろう。「中国の未来に目を向けるとき、政治警察は必ずや歴史の過去となる」(前出)は、決して根拠のない楽観などではないと言える。

http://www.shukousha.com/column/liu/1635/より転載。

〈記事出典コード〉サイトちきゅう座 http://www.chikyuza.net/
〔eye1979:120629〕」

薄煕来続報-石井知章氏

2012-06-30 14:53:56 | EU
「重慶事件における新左派の役割と政治改革のゆくえ(上)

2012年 6月 21日 時代をみる 新左派石井知章重慶事件

<石井知章(いしいともあき):明治大学教授>

はじめに

 最近、日本では報道される機会がめっきり減ったものの、今回の薄熙来の解任でいわゆる重慶事件の真相のすべてが明らかになったわけでなければ、中国のトップリーダーたちの間で繰り広げられてきた権力闘争に、最終的な幕が下ろされたわけでもない。いつものこととはいえ、この一党独裁国家における情報の根源的非公開性ゆえに、むしろ謎はますます深まるばかりである。

 たしかに、89年の天安門事件以来の政変とも呼ばれた今回の解任劇とは、長年にわたる経済改革と開放政策の努力に背を向ける人物として温家宝が薄を断じることで、その政治手法をめぐり、「政治改革の推進か、文化大革命という歴史的悲劇の再来か」の選択を迫るものであった。その特異ともいえる手法とは、「紅を歌い(唱紅)、黒を打つ(打黒)」、すなわち、毛沢東や中国共産党を讃える文化大革命当時の革命歌などを歌い、かつ黒社会(マフィア、暴力団)を追放するという名目で、実際にはそれとはまったく逆に、自らとは政治的に対立する善良な市民をつるし上げ、きちんとした法的手続きも経ずに冤罪のまま無辜なる人々を弾圧していくという、いわば文化大革命の二番煎じともいうべきものであった。だが、これらは明らかに、市場経済そのものは否定せずに、毛沢東時代への部分的回帰を訴える国家統制派、すなわち「旧左派」に属する「保守派」への人気取りによって築かれた権力基盤をよりどころにして繰り広げられたことである。このことを思想史的に見た場合、この10年余りの間にその影響力を拡大してきた、いわゆる「新左派」(=新保守派)の直接・間接関与を指摘しないわけにはいかない。
 ここでは、こうした政治的対立を生み出している中国の政治・思想的背景をめぐり、いわゆる「新自由主義派」と「新左派」との対立構図の中で、今回の重慶事件を歴史的、かつ思想的に分析し、今後の中国における政治改革の可能性を探る。


1、重慶事件のあらましとその政治的背景

 薄熙来の側近、王立軍重慶副市長が今年2月7日、成都の米総領事館に保護を求めたが拒否され、北京に連行されたという報道を契機に、日本でもその事件の内幕が徐々に明らかにされていった。政治局委員でかつ太子党として知られる薄熙来は2007年、いったん重慶に左遷されたものの、そこで暴力団撲滅・毛沢東讃美で胡錦濤政権に挑戦していく。だが、やがて数々の冤罪の訴えに対する追及を浴び、王立軍による「トカゲのシッポ切り」に追い込まれる。元趙紫陽の側近であり、保守派・軍の反発が根強い温家宝は、3月半ばの演説で、「この社会問題の解決を図らないと文革再来の恐れがある」と語った。この重慶の「運動」では、多くの民間実業家が無実の罪で極刑に処されたり、資産を没収されつつ、80日間で33,000件の刑事事件が摘発され、9,500人が逮捕されたという(『産経新聞』、3月16日)。薄熙来は舞台裏の工作という不文律を破って、毛沢東に似た大衆迎合の政治的手法を用い、指導層を恐れさせた。しかも、ここで重要なのは、薄熙来がいまだに最高実力者としての影の力を及ぼし続けている江沢民の支援下にあった、ということである。その重慶支配の実態とは、犯罪の捏造、拷問による自白、実業家の恐喝、薄の敵対者への復讐、身内への利益供与等であったにもかかわらず、9人の常務委員中6人が、「打黒」運動が始まった2009年以後、足しげく重慶詣でをしていたという事実は、そうしたトップリーダー周辺をめぐる権力構造が背景にあったことを如実に物語っている。

 1989年の天安門事件を契機に政治的には完全に排除された趙紫陽とは異なり、いまも政治的な基盤を残しているのが胡耀邦であり、89年4月の胡の死去に伴い、そのあとをついだ改革派の趙紫陽を補佐していたのが温家宝である。87年の「反自由主義」運動の手法と思想が文化大革命の流れを汲むものと考えていた胡耀邦は、当時の状況を「中堅の文革」と呼び、その後も「小さな文革がくるだろう」と警告しつつも、「やがてそれは歴史の表舞台から徐々に消えていくだろう」との認識を示していた(News Week、4月25日)。この意味でいえば、今回の重慶事件とは、まさにこの「中堅の文革」の再来であったといえる。こうした薄熙来の手法が「重慶モデル」と呼ばれるのに対して、その対極に位置づけられるのが新自由主義的「広東モデル」である。これらは実際の政治、経済、社会をめぐる諸政策に具体的に反映されているという意味では、中国共産党の路線対立そのものでもあった。いずれにせよ、このことが毛沢東時代への部分的回帰を訴える国家統制派、すなわち「旧左派」に属する「保守派」と「新自由主義派」との現実的対立構図を生んできたことだけはたしかである。こうした現実政治の背後で、思想的、かつ学問的に対立してきたのが、いわゆる「新自由主義派」と「新左派」に他ならない。


2、「新自由主義派」と「新左派」との対立構図

 この30年間にわたって国家の開発戦略として採用されてきた「改革・開放」政策の下、中国では「社会主義市場経済」という名の新自由主義的な経済システムが拡大していった。このことが二桁成長という高度な経済発展を実現する一方、とりわけ都市と農村との間の貧富の格差を急激に拡げていったことはいうまでもない。グローバリゼーションが急速に進展した1990年代の後半以降、こうした社会的不公平さの発生原因とその是正のための方策をめぐり、その問題の根源を市場経済化の不徹底と見る「新自由主義派」と、市場経済化を資本主義化そのものととらえるいわゆる「新左派」とが対立してきた。両派の対立は主に、(1)「新自由主義派」が「効率性」を重視するのに対し、「新左派」は「公平さ」を重んじ、(2)「新自由主義派」が公平性の基準として「機会の平等」を、「新左派」が「結果の平等」を取り上げ、(3)「新自由主義派」が不公平社会を生み出した原因を市場経済化の不徹底と政府の市場への不適切な介入であるとしつつ、私有財産制の確立と市場主義原理に基づいた所得の分配の必要性を主張するのに対し、「新左派」は私有財産と市場経済化自体を問題視し、公有制の維持を提唱し、(4)「新自由主義派」がグローバル化を基本的に肯定するのに対し、「新左派」は反対の立場をとるというものであり、二つの陣営ではこれら四つを主な基軸として、多くの論争が繰り広げられてきた。この思想・学問レベルでの論争では、前者が基本的に大勢=体制派を占めつつも、とりわけ2008年の経済危機以降、農村では農地を失い、はるばるやってきた都市では不安定な職さえ失うといった農民工や、先進国並みに拡大する非正規雇用、そしてワーキングプアといった社会的現実の展開など、いわば「新自由主義的」市場経済政策の行き詰まりをめぐって対立してきたといえる。

 だが、毛沢東時代に駆使された国家統制の論理の「部分的」導入によって新自由主義を批判する「新左派」の台頭とは、清末の洋務運動(「中体西用」)以来、往々にして前近代的なものをその内に含む「伝統社会」へと回帰する中で「革新」が図られてきた中国では、ある意味で、きわめて自然な成り行きともいえる社会現象であった。ちなみに、中国の社会主義市場経済を新自由主義の一形態とみなす議論は、D・ハーヴェイの『新自由主義』(作品社、2007年)でも扱われたことから、いまでは一般的な見方として、中国国内ばかりでなく、国際的にも広く受け入れられている。
 とはいえ、実際の政治のレベルでは、旧社会主義的原理の復活を唱える「新左派」の論理でさえ、市場経済至上主義に対する有効な対抗手段とはなれずにきたというのが、これまでの厳然たる事実である。それは一言でいえば、その政治的主張が毛沢東主義を讃える「旧保守派」の言説を「批判的に」補完するものにとどまっていることに由来している。たとえ「新左派」がどれだけ「主観的」にそのことを否認したとしても、その政治的機能を多かれ少なかれ「客観的」に果たしながら現実化しているのが今回の重慶事件である以上、その基本的主張に対する結果責任(M.ウェーバー)が厳しく問われることは、国内的にも、国際的にも、もはや免れ難いことであろう。

 これに対して代表的な「新左派」の知識人の一人で、日本でも大きな影響力を持っている汪暉(清華大学人文社会科学学院教授)は、おそらく批判の矛先が自分に向けられていることを敏感に察したからであろうが、こうした「文革の再演」論が「何の根拠も持たない」ものであり、「それは空洞化したイデオロギーに基づいて作り出されたもの」として、「新たな新自由主義改革のための政治条件」を作り出している、などとする自己弁護の論を公然と表明している(『世界』、2012年7月)。だが、こうした汪暉をはじめとする「新左派」の立論とは、以下で見るように、中国における「近代」と「前近代」の意味を根本的に履き違えた、きわめて巧妙なレトリックによる論理のすり替えであるにすぎない。


3、「新左派」の旗手、汪暉とその文革をめぐる言説の問題性

 その最新の著作である『世界史のなかの中国』(青土社、2011年)で、これまで「新左派」の旗手としての役割を果たしてきた汪暉は、「脱政治化」という言葉をキーワードにして、世界史的なコンテクストにおける中国革命史のなかでも、とりわけ60年代のもつ特別な意味について問うている。

 全世界的に社会運動、反戦運動、民族解放運動が盛り上がった「1960年代」問題について汪は、「21世紀中国」の問題そのものとしてとらえた。日本を含む西側では、この激動の時代をめぐりさまざまに議論されてきたのに対し、中国ではもっぱら「沈黙」が保たれているのはいったいなぜなのか。中国の論壇におけるこの「沈黙」の意味を考えるようになったという汪は、この「沈黙」そのものが、その急進的な思想・政治的実践、すなわち中国の「60年代」の象徴である「文化大革命」を拒否していただけではなく、20世紀の中国全体に対する拒否でもあったとする。ここで汪がいう「20世紀中国」とは、辛亥革命(1911年)前後から1967年前後までを指しているが、それはまた「中国革命の世紀」でもある。それが終わりを告げるのは、1970年代後期から天安門事件(1989年)までの「80年代」であった。

 汪によれば、世界レベルでの20世紀の政治とは、政党と国家を中心に展開しており、その危機は政党と国家という二つの政治形態の内部において生まれたものである。近代政治の主体(政党、階級、国家)が、いずれも「脱政治化」の危機にあるという状況下で、毛沢東主義への回帰によって「新たな政治主体をもう一度さぐってみようとするプロセス」には、「政治領域を再規定しようとするプロセスが随伴することになる」という。だがこれは、一党独裁体制下にある現代中国において、毛沢東時代の「前近代」的手法によって現在の人権抑圧的政治プロセスがまるごと隠蔽されてしまうほど、高度に「政治化」されているという「危機」そのものであることを、完全に包み隠すものである。毛沢東思想の「歴史的遺産をもう一度持ち出して揺り動かそうとすること」は、「未来の政治発展に向けた契機」を含んでいるどころか、今回の重慶問題が如実に示しているように、それとはまったく逆に、「20世紀」的なもの以前の「前近代」への後退をもたらすものである。仮に「新たな政治主体」を探るプロセスに「政治領域の再規定」が前提にされるのだとしても、その作業に不可欠なのは、60年代の毛沢東ではなく、むしろ80年代の胡耀邦、および趙紫陽への回帰であるはずなのに、これまで汪をはじめとする「新左派」の知識人、そしてそれを支えている日本の一部の知識人たちは、その可能性にすら触れようとしない。筆者のみるところ、これらはみな、「脱政治化」という価値中立性を装う言葉によって、対外的にはますます覇権的になり、対内的にはこれまで以上に抑圧的になっている現代中国の一党独裁政治をきわめて巧妙にオブラートで包み込む、「超政治化」のプロセスそのものである。それは現代中国社会が抱える巨大な負の局面をまるごと隠蔽する中国の現体制によって行使される強大な政治権力との親和性の強い、いわば一党独裁政治に対する補完的な言説であるにすぎない。
 さらに汪は、「脱政治化」という命題から、中国の党=国家体制とその「転化」を問題にする。ここではイタリアの中国研究者、アレッサンドロ・ルッソを引用しつつ、「文化大革命」が「高度に政治化した時代」であったと指摘したうえで、「この政治化の時代の終焉は、一般に思われているように70年代中後期に始まるのではなく、『文革』開始後から次第に発生するようになった派閥闘争、とりわけ派閥闘争に伴う暴力衝突の時からすでに始まっていた」と論じた。つまり、「政治化の時代」の終焉とは、80年代ではなく、60年代そのものの「脱政治化」からすでに生じていたというのである。だが、「労農階級」なるものが「前近代」的、あるいは「擬似近代的」論理で成立していた以上、文革の60年代とは、「脱政治化」どころか、むしろ「前近代」的非合理性に基づく高度な「政治化の時代」そのものであったというべきであろう。その歴史的事実を鑑みれば、ここでの汪の隠された政治的意図とは、「文革」という中国にとって厄介な歴史的存在を西洋「近代」と同等とみなす比較の対照性において、いわば「近代ロンダリング」として、可能な限り政治的に「中性化」しようとする虚しい試みである。だが、それにもかかわらず、汪は次のように続ける。

 「文革の終焉は、『脱政治化』のプロセスから生み出されてきたということになる。ルッソによれば、『脱政治化』は『ポスト文革』時代の中国だけに見られる現象ではなく、今日の西洋政治にも見られる特徴だという。支配権が伝統君主から近代的な政党へと転化していくのは、政治的モダニティの根本的な特徴だ。党専政と複数政党政治は、いずれも近代的な党=国体制がその基本的な枠組みになっている。その意味では、この二つの国家モデルは、どちらも党=国と呼ばれるべき範囲を出ない」(前掲『世界史のなかの中国』、39-40頁)。

 ここでも汪の目指すものとは、西洋近代との対照性における「中国近代のロンダリング」である。これは西洋近代の伝統的君主制のもつ一時的統治としての「暴政」と中国のような永続的政体に根付いている「専制」とを混同し、西洋近代がもたらした負の局面と同根のものとして「文革」を解釈しようという欲求の表れである。「文革」における暴政の発生根源そのものが違うのだから、「ポスト文革」なるものも、「近代」(モダニティ)の所産であると看做すわけにはいかない。しかもそのことを、西洋人としての中国研究者であるルッソが論じているというのがここでの重要なポイントであり、「西洋的」近代と「アジア的」(マルクス)前近代との混同を「西洋的」近代の側から正当化するためにルッソが利用されていることが伺える。だがここでは、「外国の学者」による「研究」が中国政府寄りでありさえすれば、「それが現実とどれだけギャップがあろうと、中国政府はこれを採用し、『参考消息』や中国研究を紹介する外国むけの刊行物に掲載した」という何清漣の言葉との親和性を想起すべきであろう(何清漣『中国現代化の落とし穴――噴火口上の中国』草思社、2002年)。

 さらに、汪によれば、20世紀中国の政治は「政党政治」と密接に関係し合っており、政党自身がいわば普遍的な「脱価値化」のプロセスの中に置かれていた。したがって、政党組織の膨張し、政党構成員の人口に占める割合の拡大が、その政党の「政治的価値観」の「普遍化」を必ずしも意味しなくなったとしても、汪にとっては、まさにそのこと自体が中国共産党を含めた「普遍的」現象なのだ、というわけである。ここで政党は日増しに国家権力に向かって浸透と変化を遂げ、さらには一定程度、「脱政治化」し、機能化した国家権力装置へと変わっていったのだという。つまり、ここでも汪は、一党独裁の「中国共産党」をいかにして「西洋近代」の多元的国家における多党制の下での「政党」と同一化するかで躍起になっている。ここで汪は、この「二重の変化」を「党=国家体制」から「国家=党体制」への「転化」と称し、前者には政治的態度が含まれるが、後者では権力を強固にすることに専ら力が注がれたとした。かくして「政党の国家化のプロセス」は、20世紀中国に生まれた「党治」体制を、国家中心の支配体制へと転換するが、それはまた必然的に「国家の政党化」のプロセスでもあるという。だがこのことは、党独裁の中国共産党にこそあてはまるという事実を価値的に「中性化」するものである。

 汪のいう「政治化の時代」の終焉とは、60年代そのものの「脱政治化」どころか、60年代以来の、「前近代」的非合理性に基づく高度な「政治化の時代」そのものであり、「超政治化」という恣意的隠蔽のはじまりですらあった。その隠された政治的意図とは、「文革」という中国にとって厄介な歴史的存在を西洋「近代」と同等とみなす対照性において価値的に「中性化」しようとする、いわば「中国近代のロンダリング」にこそあった。さらに一党独裁の「中国共産党」と「西洋近代」の多元的国家における多党制の下での「政党」との同一化は、党独裁の中国共産党によって行使されるレトリックにこそあてはまるという事実を、同じく価値的に「中性化」するものである。それは「脱政治化」という客観的中立性を装う言葉によって、現体制に対する間接的擁護という自らの政治的立場のイデオロギーを隠蔽しようとする「超政治化」の過程そのものである。

 だが、われわれにとってより深刻な問題はそこにではなく、この「リベラル・デモクラシー」を自認する日本においてすら、「進歩的」中国研究者、あるいは知識人たちの間で、こうした「新左派」を高く評価しつつ、文革を制度的に総括した80年代後半問題をめぐる「沈黙」が共有されていることにある。たとえば、柄谷行人は、その書評(『朝日新聞』2011年3月6日)で、汪暉を「最も信頼する現代中国の思想家」であるとして、筆者にはほとんど「まやかし」としか思えないその「脱政治化」という概念を絶賛している。ここで柄谷は、中国の社会主義「市場経済」を西側先進資本主義国の「脱政治化」なる過程と同一視しつつ、「それはナショナリズム、エスニック・アイデンティティー、あるいは人権問題などの『政治』にすり替えられた。それらは政治的に見えるが、脱政治的なのだ」と、汪の言葉をそのまま反復しているのである。これと同じような汪に対する肯定的評価は、とりわけ丸川哲史によって、『情況』(2012年1/2月)や『atプラス』(2012年2月)などのメディアでも繰り返し行われている。だが、ここで問われるべきなのは、われわれが現代中国における「前近代的」なものの存在そのものを、まさに「事実」として承認できないでいるという事実と、そのことをめぐる根源的な意味である。とはいえ、すでに中国国内でも、今回の重慶事件をめぐり、汪暉など新左派に対してその結果責任を追及する批判的言説が現れ始めていることに留意すべきであろう(荣剑「奔向重庆的学者们」、『共识网』、4月28日)。

〈記事出典コード〉サイトちきゅう座 http://www.chikyuza.net/」

薄煕来続報・重慶の試みをどう評価するか-「梶ピエール」氏の論評

2012-06-30 14:52:02 | アジア
 http://kinbricksnow.com/archives/51796011.html より

「薄熙来事件を政争という視点のみでとらえるべきではない

岩波書店の月刊誌『世界』7月号に、北京の清華大学教授で新左派の代表的な論客、汪暉氏による「重慶事件――密室政治と新自由主義の再登場」 という論考が掲載されている。

中国の内外を問わず大きな衝撃を与えた事件に関する著名な知識人の発言であり、またその内容も色々な意味で興味深いものだった。論考の趣旨はおおむね以下の通りである。


1.今年二月に生じた王立軍の米国領事館駆け込み事件および薄熙来夫人である谷開来の英国人スキャンダルに端を発した一連の政治スキャンダルと、重慶モデルという「社会実験」の評価は、本来区別して論じるべき問題である。

2.重慶モデルという社会実験は農村都市化をめぐる「地方間競争」の一つのモデルであり、もちろんその方式には賛否両論あったものの、基本的にその成果は広く市民の評価に対しに開かれたものであった。それが今年の「両会」以来、「密室政治」のもとに葬り去られようとしているのは憂慮すべきことである。

3.重慶の社会実験を「密室政治」によって葬り去ろうとしているのは、天安門事件後の蠟小平による「南巡講話」で方向性が明らかになった新自由主義的な強権政治を徹底させようともくろむ温家宝、またそのブレーンたる呉敬蓀、張維迎などの右派経済学者達である。

4.現代の「密室政治」の一つの特徴は、メディアを使った意識的な情報操作という手法が積極的に用いられることである。重慶の事件では、薄熙来の失脚後ただちに彼を支持する左派サイト烏有之郷が閉鎖されると共にニューヨークタイムズなどの西側メディアあるいは南方系などの国内右派系メディア、への意図的な情報リーク、を通じてそのような情報操作が行われた。

5.温家宝による一連の「密室政治」の横行が意味するものは、その権威主義的な政治手法と一体となった、「中国の特色ある新自由主義」の完成にほかならない。それは、中国の政治経済体制を西側諸国のそれに近づけ、グローバル資本主義との一体化を促進するもので、それは世界銀行が政府系のシンクタンクと組んで行っている「政策提言」とも呼応するものである。しかしすでに時代遅れとなった新自由主義的改革の導入は国内格差を一層拡大させる一方で政治ニヒリズムを蔓延させ、中国社会により悲惨な状況をもたらすだろう。

……僕はかねがね、重慶の問題は党内の派閥抗争という政治的側面、新左派、自由主義に代表される政治思想の対立という側面、農村都市化という難事業をめぐる社会実験という社会経済的側面、が不可分に絡みついた、きわめて複雑な問題だと考えてきた。

一連の事件については最近『チャイナ・ナイン』を著した遠藤誉氏など、政権内部にパイプを持つウォッチャーによるかなり突っ込んだ分析も出てきてはいるが、あまりにも党内派閥という側面に偏った分析がなされ、農村の土地収用、社会保障改革、戸籍改革といった「重慶モデル」が一定の支持を受けた社会経済面での背景にまで踏み込んだ分析がほとんど出てこないことには苛立ちを感じていた。

その意味では、重慶における社会実験の評価を一連の政治スキャンダルとは別にきちんと評価すべきである、という汪氏の指摘には確かに頷けるところがある。また、薄熙来失脚劇の一連の経緯には不透明な部分があまり多く、「密室政治」によって決められている、という現政権への批判も的を射たものといえるだろう。


■重慶モデルは反・新自由主義か?

ただ、僕が汪氏の言説に共感できるのはそこまで。あとは、全ての元凶は「中国の新自由主義化」を企む温家宝およびその背後にいる国内外勢力にあるとする、あまりに党派的な意図が、華麗なレトリックの裏に透けて見え、かなり鼻白んだと言うのが正直なところ。以下、彼の論説に感じた違和感をいくつかの点にまとめておきたい。

まず第一に、社会経済的な面から重慶モデルを評価するのはいいとして、彼がその本質をつかんでいるとは思えない点だ。たとえば、汪氏は温家宝の進めようとしている(と彼が主張する)鉄道、医療、通信、エネルギーなどの分野における国有企業改革などの政策を「新自由主義的」と批判する。

しかし、彼の言う「新自由主義」の定義は何だろうか?そして「重慶モデル」は彼が考えるほど「反-新自由主義的」なものだろうか?僕の見るところ重慶における農村都市化の実験のポイントは「打黒」といわれる汚職一層キャンペーンに代表されるように「資本家の冨を強制的にとりあげ、貧者に再配分する」ところにあるのではない。それはあくまでも象徴的な意味しか持っていない。

学術書からtwitterでのつぶやきまで、これまで僕が様々なところで述べてきたように、近年の中国では「農民から安く土地を収用し、開発業者に高値で売り払う」ことによって、地方政府が巨額のレント収入を手にしてきた。そのレント収入を、他の地域のように地方政府が金儲けだけを考えた高級住宅や商業地の開発につぎ込むのではなく、土地を手放した農民にも一部(あくまでも一部)を還元しましょう、という姿勢を明確に掲げた点に重慶モデルの最大の特徴がある。

つまり重慶で行われた「再分配」の流れは、「富者の冨を貧者へ」というよりもむしろ「貧者の冨(土地)を政府が一旦とりあげ、一部を貧者へ戻す」というものであったのだ。

付け加えておくならば、このような重慶の改革の方向性は薄熙来が書記に就任する前の2007年6月に同市が「全国都市農村一体化総合改革試験区」に指定された頃からかなり明確だった。その意味で、重慶の「社会実験」は、土地市場に継続的に資本が流れ込み、価格が上昇しつづけるという資本主義的な基礎がなければ本来持続不可能なものだ。

汪氏も言及しているデイヴィッド・ハーヴェイが喝破したように、新自由主義が「国家が提供する制度的枠組みの下での資本の自己拡大運動」なのだとしたら、資本主義と国家介入の混合形態である重慶モデルだって典型的な新自由主義的政策にほかならない。

僕自身が理解しているところでは、重慶における「土地と戸籍の交換」を通じた一連の改革は、土地使用権の売却益という市場による変動要因が大きいものを財源としながら、毎年の事業支出の規模がそれとリンクするようになっておらず、かなり無理な点があったのは確かだ。

ただ、同様の改革をより市場メカニズムを取り入れる形で実施した成都市のケースはかなり成功しているようなので、改革の評価をおこなうには、両都市のより詳細な比較が必要だろう。また、農村コミュニティによる農地の処分権を強化する形で農民の土地に対する「財産権」を強化し、あとは市場メカニズムに従って土地の開発に伴うレントの配分を行う、という「広東モデル」も「重慶モデル」と同じように新自由主義的な農村-土地問題の解決に関する処方箋の一つである(村民自治を求める運動として有名になった烏坎村のケースもこのような土地開発のレントの分配を背景として起こった問題である)。

汪氏あるいは「烏有之郷」に集っていたような新左派知識人が、「広東モデル」は新自由主義的だが「重慶モデル」はそれに真っ向から対立するものだと考えているとしたら、その認識は根本から誤っていると言わなければならないだろう。


■密室政治批判という陰謀論

汪氏の論説に対する批判の二点目は、彼が温家宝による「密室政治」を攻撃するあまり、現代中国社会における様々な矛盾をことごとく温とそのブレーン、ならびに彼らが推し進めようとしている「新自由主義」政策に帰する、という一種の陰謀論になってしまっている点だ。

たとえば彼は、広東省に基盤を持つ南方系メディアを中心として「メディアの政党化」、「政治家のメディア化」が生じているとして、以下のような批判を行っている(『世界』7月号253ページ)。

第一級の党メディアの系統と第二級の党メディアの系統(たとえば南方系など)が緊密に連携をとって、民主、自由、開放の名の下に「真相政治」を弄んだ。それらの基調と温家宝の記者会見のレトリックは完全に一致するものであり、そこで「人民の目覚め」、「改革開放」、「政治民主」などの言葉が使われた。このような虚飾に満ちた言語が密室政治を通じて「真相」を操作するのである。

これでは、あたかも、南方系メディアは温家宝一派の情報操作の手段、第二の「党の舌」に成り下がっていると言わんばかりである。だが、それは本当なのか。南方系メディアの代表紙『南方都市報』は劉暁波氏がノーベル平和賞を受賞した際に、空の椅子を並べた写真を一面に飾ったり、天安門事件の戦車で遊ぶ子供の絵を乗せたり、当局の規制ぎりぎりの「エッジボール」を投げかけてきたことで知られている。「第二級の党メディア」がどう考えても共産党内の支持を得られないような「危ない」記事を載せるものだろうか。それとも、これらの記事も温家宝が書かせたとでもいうのだろうか。
(関連リンク:「抵抗する中国のメディア」梶ピエールの備忘録。、2010年12月19日)


■新左派にも成り立つ陰謀論

汪氏の論説がはらむ問題点の三つ目、そして最も深刻なそれは、自らを特権的な立場に置いたまま「敵」を批判するというスタイルになっているため、論難する対象にむけた批判が自らに対して向けられる可能性に対し無自覚であるか、あるいはわざと気がつかないふりをしている、という点である。要は、彼自身の言説に対しては常に「オマエモナー」というツッコミが成り立つ、ということに尽きる。

たとえば、彼はこんな物言いをしている(『世界』260ページ)。

周知の通り、「文革」は中国においてタブー視されている。徹底的に否定されると同時に、しかし公開的な研究が許されていない。政治公共領域において、これは分析できないもの、申し立てできないものである一方で、「敵」をやっつける口実にはされている。それはまるで呪文のようなもので、批判には使われるが、公開の議論には使われない。

確かにそうかも知れない。それでは、汪氏が温家宝やそのブレーン(?)たる呉敬のような経済学者を非難する際に持ち出す「新自由主義」についてはどうか。それがきちんと定義された分析可能なものであり、空疎な中味のない概念などではない、と言い切れるだろうか?

少なくとも僕には、それが彼らのような左派知識人にとって徹底的な否定の対象であり、論敵を非難する際の「呪文」のような役割を果たしている点では、温家宝による「文革」と似たようなものではないか、と思えてならない。

また、中国政治の専門家、佐々木智宏氏のブログによれば、薄熙来の失脚の後、新華社ならびに人民日報で「新自由主義批判」が繰り返されているという。これは佐々木氏も指摘しているように、温家宝にによる薄熙来の追求を明らかに「やり過ぎ」と考える勢力が党内に一定程度存在し、巻き返しを図っている、ということを示すものであろう。
(関連リンク:「国有企業擁護は温家宝批判か(今日の『人民日報』-20120517)」「新自由主義批判と国家資本主義への反論(今日の『人民日報』-20120517-2)」「新自由主義批判は右派批判(今日の人民日報-20120607)」)

問題は、このような紛れもない「第一級の党メディア」による新自由主義批判の論調と、今回の汪氏の論説に見られる新左派系知識人のレトリックが完全に、とは言わないまでもかなりの程度一致をみせていることだ。汪氏は、このような現象を「第一級の党メディアとそれに近い知識人たちが緊密に連携をとって、「真相政治」を弄んでいる」と「宿敵」たる南方系メディアから批判されたら、どのように反論するつもりだろうか?


■多様な意見が成り立たない「単一権力社会」という中国の政治文化

……以上、いささか意地の悪い書き方をしてしまったかもしれない。ただ、僕がこういったことにこだわるのも、ここにこそ現代中国政治をめぐる深刻な問題が隠されている、と感じるからだ。確認しておきたいのは、汪氏のような左派知識人も温家宝も、表面的な言説の上では、政治の公開性を高めることにより、民衆による権力へのチェック機能が果たされることを理念として掲げているという点である。

そして、薄熙来のような独裁的・強権的な手法を用いる政治家が、その理念に真っ向から対立する者であることも、また自明であるはずだ。そうである以上、本来ならこの両者の間に何らかの協調が生まれ、協力して薄熙来的な強権政治を批判し、政治の公共性を高めた上で具体的な「社会実験」の方法について議論する、という方向に向かってもよかったはずである。

しかし、実際に温の行ったことは、「法治」を掲げつつ、刑事事件の被疑者であるわけでもない薄熙来を長期間にわたり拘束するという、およそ「法」を無視しているとしか思えない強権的な手法により排除することであった。
(関連リンク:丹藤佳紀「中国共産党統治の根源を衝く“異議申し立て”―薄熙来事件の招来した女性教授の勇気ある公開状―」リベラル21、2012年5月9日)

一方の汪氏などの左派系知識人はと言えば、そのような温の強権政治を強く非難しながら、そもそもそれを引き起こした薄熙来の手法の強権性については、まるでそんなものはなかった、あるいはあったとしても「どこにでもみられること」として片付けようとしているように見える。

ここに鏡のようにくっきりと映し出されているのは、「政治」があまりにも肥大化した結果、本来、価値の多様性として認められるはずの意見の相違が、ことごとく「単一権力社会」における正統性争いに回収されてしまうという、近代以降の中国社会が歴史的に引きずってきた宿痾なのではないだろうか。
(関連リンク:福本勝清「アジア的生産様式論争物語 入門編2単一権力社会と多元的権力の社会」21世紀中国総研、2007年9月15日)

さて、以上のような問題について詳細に論じる力量も時間も僕にはないが、最後に一言だけ記しておこう。汪氏のような左派系の知識人が良い意味での「左派」性を保ちながら言論活動を行っていくためには、今回の論考のように様々な社会矛盾の根源を、新自由主義という外部の思想に求めるのではなく、自らもどっぷりとつかった中国政治文化そのものに求め、それを「内破」させていく姿勢がどうしても必要になってくると思う。
(注記:彼の言説に対しこのような感想を抱いたのはこれが初めてではない。汪氏がチベット問題に関して、やはり問題の困難性を「オリエンタリズム」という外部の思想の存在に求めるあまり「出来事」への柔軟な感性を失っているのではないか、という批判は拙著『「壁と卵」の現代中国論 』第10章で行っている。)

この点については、中国だけでなく、日本の政治状況についてもまさに同じことが当てはまると思うので、あえて強調しておきたい。

関連記事:

烏坎村の村民自治と中国における「公共性」(前編)(kaikaji)
「カタストロフ」の煽りは許されるのか?中国の現状と分析者の立つ位置(kaikaji)
【ブックレビュー】「自分探し」としての独裁者=安田峰俊『独裁者の教養』(kaikaji)
理念型としての「中国」と中国の台頭=與那覇潤著『中国化する日本』(kaikaji)
もう一つの「中国モデル」論=中国内外で奇妙に共鳴する「異質論」(kaikaji)
中国土地改革のミッシングリンク=書評『中華人民共和国誕生の社会史』(kaikaji)

*当記事はブログ「梶ピエールの備忘録。」の2012年6月15日付記事、21日付記事を、許可を得て転載したものです。」

小沢一郎氏の公式ブログから-なぜ増税に反対するのか

2012-06-28 16:18:23 | 政治
 以下は小沢氏の公式サイトにのせられた、6月4日付共同通信記者とのインタビュー記事。

 赤字のところは特にもっともだと感じるところ。

 小沢一郎と鳩山以外は、官僚支配を解体・再編するために戦うという姿勢を失ってしまったようだ。

 そういえば反原発でしっかりしていた菅直人は今何をやっているのか。

 菅直人は改めて小沢・鳩山としっかり手を組んでたたかうべきだ。

 党人派の政治家と市民運動出身の政治家が、是非とも日本を変えるためにタッグをしっかり組んでほしい。



 「◎小沢氏インタビュー要旨 

 民主党の小沢一郎元代表に対するインタビュー要旨は次の通り。
 
 ―野田佳彦首相との再会談は平行線に終わった。なぜ消費税増税に反対なのか。

 「首相とは2009年衆院選で掲げた政治理念の理解が違っている。首相は無駄を省いて財源を捻出する努力もしていると言うが、民主党が総選挙で主張したのは国の仕組みの抜本改革であり、それが緒に就いているとは言えない」
 

 ―首相は増税に関する立場の違いは「時間軸の問題」としている。

 「時間軸だけではない。行政の仕組みを根本から変えれば、一時的な財源ではなく継続的な財源が出てくるし、地域経済の活性化もできる」


 ―増税の前に社会保障の全体像を示すべきだとの主張か。

 「当然だ。年金一元化と最低保障年金も議論するといいながら、一体改革ではなく純粋の大増税論議になっている。無原則に大増税を強行しようとするなら、それは談合であって、国民の理解を得られない」


 ―社会保障と税の一体改革関連法案への対応は。

 「賛成できないのに賛成投票するわけがない。ただ、今は賛否をどうすると言う時期ではない」


 ―あなたが反対票を投じれば党議拘束に反し処分を受ける。

 「消費税増税法案に関する党内論議は執行部が一方的に質疑を打ち切って決めたものだ。増税は党の方針だと言うが、09年衆院選マニフェスト(政権公約)は全党が一致して決めた上に国民に約束した。いいかげんな党議よりはるかに重い。それを否定してしまえば民主政治は成り立たず、政党不信が加速する」


 ―反対すれば党分裂だ。

 「今採決したら、増税に反対する議員が党内外で増えているので衆院で法案は否決され、野田内閣は総辞職だ。(造反議員の)処分どころではなく、首相が辞めなければいけなくなる」

 「そうならないよう首相や民主党執行部は知恵を出さないといけない。三方四方が丸く収まる案を出すのが首相や執行部の役割だ」


 ―法案採決の先送りも一案か。

 「私は考える立場にない」


 ―反対しても修正協議で与野党合意が得られれば法案が成立する可能性がある。

 「自民党も全部賛成でまとまることはないと思うが、自民党を賛成させ無理やり修正案を通そうとするのは野合、談合とみられて国民の理解は得られない」


 ―一体改革法案が否決されれば、首相は総辞職せずに衆院解散・総選挙を選ぶかもしれない。

 「今選挙すれば、民主党は惨敗だ。消費税増税が現実味を帯びてきたので、反対論が増えた。国民の8、9割が反対だ」
 「国民の納得を得られるよう、やるべきことをやってから負担をお願いしなければならない」


 ―橋下徹大阪市長が率いる「大阪維新の会」との連携は考えているか。

 「国の統治機構、仕組みを変えなければいけないというのはわれわれの主張も橋下氏と共通している。ただ、連携するかは全然分からない。一寸先でさえ分からないのに、そんな先のことは見通せない」



※6月3日夜配信のインタビュー記事です。
(なお、共同通信社のサイト「47ニュース」にも動画で一部アップしています)

2012.06.04 共同通信社 政治部」

反原発は世論だ!!

2012-06-28 16:15:24 | 原発
「スゴいことになってきた。先週末の22日夜、首相官邸前で行われた反原発デモのことだ。夕方から始まった抗議活動に、仕事を終えた一般市民が次から次に参加。4万5000人の巨大なうねりが官邸を包囲し、「原発再稼働反対!」「野田やめろ!」の大合唱が永田町を揺るがしたのだ。

 実は、この官邸前デモは3月にスタートして以来、毎週実施されてきた。ツイッターやフェイスブックで情報が拡散。回を重ねるごとに参加者が増え、今回、ついに4万5000人――。政治に無関心だった若者たちも熱くなっている。

 国民が怒るのも当然だ。大マスコミの世論調査でも「再稼働を急ぐな」の声は7割に達している。それなのに、野田首相は「国民生活を守るため」とヘリクツをこねて、勝手に再稼働に突っ走った。おまけに、稼働準備が始まっている大飯原発では、不気味なトラブルが頻発している。19日には発電機の冷却水の水位が下がって警報音が鳴り響いたばかりだが、24日も、送電異常を知らせる警報が26回も鳴った。官邸前デモに参加したジャーナリストの田中龍作氏が言う。

「このデモは組織の動員ではなく、一般の市民がツイッターなどを通じ、草の根で集まっています。その人数は毎回、記録を更新し続けている。次回はさらに増えるでしょう。エジプトやリビアで市民がネットを通じてデモを呼びかけ、政権を転覆させた『アラブの春』にそっくりです。あのときも、新聞やTVがウソばかり報じていることに国民が怒り、ネットで革命の火が広がっていった。今回のデモを、国内メディアの多くは無視していますが、神経を疑ってしまいますよ」

 実際、海外メディアもデモを報じたのに、日本でまともに報じたTVはテレビ朝日くらい。4万5000人が官邸を包囲したのに、NHKも報じないのだからア然だ。

 しかし、いつまでも見て見ぬふりができるものか。国民の怒りのノロシはあちこちで上がっている。23日には新宿でも再稼働反対のデモ行進が起きたし、東京・明治公園では2万4000人が集まり、デモを行った。

<地元・千葉でも「NOだ!ヤメロ」の大合唱>
 極め付きは24日、野田の地元の千葉・船橋で開かれた抗議デモだ。2200人が「野田はNOだ!」のプラカードを掲げ、原発再稼働や消費増税反対を訴えた。かつての支持者が「09年の衆院選では野田に投票したが、裏切られた。あのときの票を返せ!」と叫んだほか、「地元の恥だ!」の声も飛び交った。デモ参加者らとハイタッチしていく通行人の姿も目立った。

 野田は26日に消費増税法案の衆院採決を強行するつもりだが、今週末にも、再び官邸前で大規模デモが行われる。再稼働と増税に激怒する市民であふれかえるのは必至だ。国民をナメたら、とんでもないことになる。
(日刊ゲンダイ2012年6月25日掲載)」

6月28日の放射線量-新潟県三条市でがれき処理施設周辺の市民が反対を表明

2012-06-28 16:07:59 | 放射能
新潟県内、窓締め切り、室内、天気晴れ。

0.07μ㏜/h。

 新潟市、長岡市、三条市、柏崎市、新発田市。この五つの市が東北被災地、そして放射性物質汚染地域のがれき受け入れを表明している。

 その一つ三条市のがれきの焼却施設近くの住民自治体のメンバー50人が集まって、今日がれき処理問題を検討した。

 議論では、焼却灰の飛散と、それを吸引した場合の内部被ばくの問題や、農作物への風評被害が生じるのではないかといった意見が出て、自治会として受け入れ反対と決定した。

 昼休みの地元のラジオのニュースです。

小沢一郎を支持する

2012-06-26 17:54:47 | EU
 消費増税法案が衆院を通過。

「 野田佳彦首相が「政治生命を懸ける」とした消費増税を柱とする社会保障と税の一体改革関連法案は26日午後の衆院本会議で与党と自民、公明両党などの賛成多数で可決、参院に送付された。しかし、民主党からは消費増税法案の採決で、小沢一郎元代表を含め、野田政権を少数与党に追い込む目安となる54人を上回る議員が反対票を投じるなど、大量の造反者が出た。小沢氏は離党、新党結成も視野に入れており、民主党は事実上分裂した。

 衆院を通過した関連法案は計8本。現在5%の消費税率を2014年4月に8%、15年10月に10%に引き上げる一方、民主党が衆院選マニフェスト(政権公約)で掲げた最低保障年金創設や、後期高齢者医療制度の廃止、国民年金と被用者年金の一元化は、有識者らでつくる「社会保障制度改革国民会議」の議論に委ねる内容だ。首相は参院での審議を経て、9月8日までの今国会中の成立を目指す。

 首相は26日夕に首相官邸で記者会見し、法案成立に向けた決意を表明する。小沢氏も採決後、自らを支持する衆参両院議員約50人らと会合を開き、今後の政治行動について説明。出席者によると、小沢氏は「今の時点で新党はない」「いろいろな角度を模索し、最善の道を探る」などと語った。

 反対した議員のうち、仮に54人が離党すれば民主党は衆院でも半数を割り込み、政権は窮地に陥る。このため、今後の小沢氏の動向や、同調者の規模が焦点となる。ただ、反対者の中には離党は否定している向きもあり、小沢氏が離党すれば追従する意向を固めている議員は40数人とみられる。 

[時事通信社]」

 第一に小沢はこの件に関して正しい。

 第二に、消費増税は国内市場の縮小を招くだけであり、日本を破壊する。

 第三に、自民・公明の連中は、自分たちがやりたかった増税を民主党にやらせた。ひきょう者たちだ。


 この件に関して小沢を支持する。

 民主党を支持した国民は、消費税反対だから一票を投じたのだ。

 野田は財務官僚「タカ派」の傀儡。

 

薄煕来続報・張徳江/重慶市党委員会書記に当選

2012-06-23 17:54:26 | アジア
 重慶市で開催が遅れていた党大会が開催され、張徳江が正式に氏の書記-市のトップ-の地位に就いた。

 副書記には薄煕来時代以来の市長、黄奇帆と張軒(女性)が就任した。

 黄奇帆が失脚せずにその地位を維持しているのをみると、よほど要領がいいのか、人脈があるのか、あるいはもともと胡錦濤の出先だったのか、と勘繰りたくもなる。

 (タイトル写真は重慶市の新指導部)

→以下の引用及写真はここより : http://cpc.people.com.cn/n/2012/0622/c64094-18366498.html

「新华社重庆6月22日电 中共重庆市第四届委员会第一次全体会议6月22日选举张江为市委书记,黄奇帆、张轩(女)为市委副书记,当选为市委常委的还有马正其、徐敬业、范照兵、刘光磊、徐松南、翁杰明、吴政隆、梁冬春、刘学普(土家族)、徐海荣。中共重庆市第四届纪律检查委员会第一次全体会议选举徐敬业为市纪委书记,李维超、张伟、王勇为市纪委副书记。(完)

  中国共产党重庆市第四届委员会书记、副书记名单

  书 记:张江

  副书记:黄奇帆 张 轩(女)

  中国共产党重庆市第四届委员会常务委员会委员名单

  (共13名)

  张江 黄奇帆 张 轩(女) 马正其 徐敬业 范照兵 刘光磊 徐松南 翁杰明 吴政隆 梁冬春 刘学普(土家族)徐海荣

  重庆市纪委书记、副书记、常委名单

  书 记:徐敬业

  副书记:李维超 张 伟 王 勇(纪委)

  常 委:徐敬业 李维超 张 伟 王 勇(纪委)

  王建东 张晓春(女)左 奇 刘晓文(女)

  张 晋 刘晓东

  中国共产党重庆市第四届委员会常委简历



  张江,男,汉族,1946年11月生,辽宁台安人,1971年1月加入中国共产党,1968年11月参加工作,朝鲜金日成综合大学经济系毕业,大学学历。现任中央政治局委员,国务院副总理、党组成员,重庆市委书记。

  1968--1970年 吉林省汪清县罗子沟公社太平大队知青

  1970--1972年 吉林省汪清县革委会宣传组干事、机关团支部书记

  1972--1975年 延边大学朝鲜语系朝鲜语专业学习

  1975--1978年 延边大学朝鲜语系党总支副书记,校党委常委、革委会副主任

  1978--1980年 朝鲜金日成综合大学经济系学习,留学生党支部书记

  1980--1983年 延边大学党委常委、副校长

  1983--1985年 吉林省延吉市委副书记,延边州委常委兼延吉市委副书记

  1985--1986年 吉林省延边州委副书记

  1986--1990年 民政部副部长、党组副书记

  1990--1995年 吉林省委副书记兼延边州委书记

  1995--1998年 吉林省委书记,省人大常委会主任

  1998--2002年 浙江省委书记

  2002--2007年 中央政治局委员,广东省委书记

  2007--2008年 中央政治局委员

  2008--2012年 中央政治局委员,国务院副总理、党组成员

  2012年-- 中央政治局委员,国务院副总理、党组成员,重庆市委书记

  第十四届中央候补委员,十五届、十六届、十七届中央委员,十六届、十七届中央政治局委员」

福島被曝児童の集団訴訟

2012-06-23 17:14:42 | 放射能
「<3割の子どもの甲状腺に異常>

 福島第1原発事故から1年3カ月後の今月16日、関西電力大飯原発3、4号機の再稼働が決定した。

 15日、国際環境NGO「グリーンピース」が記者会見を開き再稼働のリスクを発表。座談会に出席した弁護士らが、福島原発事故後の悲惨な現状を明らかにした。

 事故後、放射能被曝(ひばく)による健康被害を懸念した郡山市の小中学生14人と保護者たちが、福島地裁郡山支部に、集団疎開を求め仮処分を申請し、現在も仙台高裁で抗告審が続いている。

 福島集団疎開裁判主任弁護士の柳原敏夫氏に聞いた。

「法律では一般人の被曝限度は、年間1ミリシーベルトまでと決まっています。原告の小中学生14人が通う7つの学校の空間線量の積算値は、昨年3月11日以来1年間で12~24ミリシーベルトと推計されます。この訴訟では、市に対し緊急的に安全な地点に教育の場所を移動させることを求めている。しかし、1審では年間100ミリシーベルトを主たる基準にしてそれ以下なら避難させる必要はないと判断。驚きを隠せません」

 被曝の問題は進行中だ。すでに甲状腺に異常が出てきている。北海道深川市立病院内科・医学博士の松崎道幸氏の意見書では、「平均年齢が10歳の福島県の子どもの35%に嚢胞(のうほう)が発見された」という。

「嚢胞」とは分泌液のたまった袋で、甲状腺の内側に、炎症あるいは細胞の性質の変化が起きていると考える必要があるというのだ。福島調査の「嚢胞」保有率は過去のどの調査よりも高率であったという。

「福島県では1年足らずで甲状腺の検査で3割以上の子どもたちに健康被害の兆候が出ました。チェルノブイリで同じような兆候が出たのは4~5年後ですから、福島ではよほど高濃度の被曝をしていると言わざるを得ません。しかし、県の医師らは安心して大丈夫だと主張し、セカンドオピニオンを受けたいという希望者に、受けさせないよう医師らに通達を出しているのが現状です。福島はチェルノブイリより7倍の人口密度があるから、98万人以上が亡くなったチェルノブイリより深刻になる恐れがあります。一刻の猶予もならないのです」(前出の柳原弁護士)

 政府は目をそらしているが、とんでもない事態が起きているのだ。

ソース:http://news.livedoor.com/article/detail/6682777/

政府が目をそらしてる?アホ?

3号炉4号炉が核爆発してるのに、未だ報道では「水蒸気爆発」なんて暢気な事ぬかしとるがな。

政府は全て把握した上で「隠してる」だけ。当然マスゴミにも緘口令は出してるだろうな。

だいたいさ、被爆基準も震災後には10倍以上基準を上げた項目もあるぐらいだぜぇ。

ワイルドないい加減さだろぉwww・・・って笑えねぇ。

▼コレを観れば国が「あの時」何してたかよく判るし、福島は原発の犠牲になったんだなと思わざるを得ない。

http://blog.goo.ne.jp/mode-819/e/b064917b6804347020420f6e3905d823

当時の東電、清水社長が「死を覚悟した」という言葉の裏に、ひとつ間違えば半径300kmが核爆発で吹き飛ぶ状況にあった怖さが隠れてたんだねぇ。

そんな時国会議員が必死でやってた仕事が「菅降ろし」だもん。」

(http://blog.goo.ne.jp/mode-819/e/40c1803dfddd4a6c9d0141af21159b56)


「神舟9号も打ち上げた沙漠の中の発射センター、実は見学も可能だった―香港紙」

2012-06-23 17:07:52 | 科学
「神舟9号も打ち上げた沙漠の中の発射センター、実は見学も可能だった―香港紙

Record China 6月23日(土)16時37分配信

20日、香港紙は「沙漠の中の宇宙センターはそれほど隠された存在ではない」と題した記事で、中国の大型ロケット発射場である酒泉衛星発射センター(別名:東風航天城)の詳細を紹介した。写真は東風航天城。

2012年6月20日、香港紙サウスチャイナ・モーニング・ポストは「沙漠の中の宇宙センターはそれほど隠された存在ではない」と題した記事で、中国の大型ロケット発射場である酒泉衛星発射センター(別名:東風航天城)の詳細を紹介した。21日付で環球時報が伝えた。以下はその内容。



道路端の草むらに毛沢東時代のスローガンが書かれたミサイルがズラリと並んでいなければ、観光客はこのゴビ砂漠の小さな村が中国の弾道ミサイルと宇宙飛行計画誕生の地で、いまだに最も活躍している発射センターであるとは思わないだろう。何の変哲もない建物ばかりで、中国の地方都市で最近はやっている豪華な庁舎と比べると、ひどく見劣りする。

ロケットの打ち上げ回数が増えるに従い、この「東風航天城」の透明度も増してきた。中国本土の人は生活エリアや指揮センター、発射台などを1人400元(約5050円)、食事付きで見学できる。だが、外国人は滅多に入れないようだ。旅行会社に申し込んでも断られる。

中国本土の人の多くが「東風」は甘粛省酒泉市にあると思っているようだが、正しくは内モンゴル自治区アラシャン盟のエジン旗だ。酒泉から「東風」までは車で約4時間。ひっきりなしに軍の車が出入りしているのを見ると、ここが厳重に警備された軍の施設であることを思い知らされる。

面積は約2800平方キロメートル。その大半は居住に適さない砂漠だ。人民解放軍が進駐したのは1950年代末。ここは中国で最初の弾道ミサイルが誕生し、中国初の衛星が打ち上げられた場所で、現在の主な任務は有人宇宙船の打ち上げとなっている。

近年は生活レベルも格段に向上。浄水場も完備され、野菜や牛乳も日常的に口にできるようになった。「ここでは農薬もメラミンも心配ないですよ」と付近の住民は語る。

村で最も大きな建物は観光客用のホテルだが、打ち上げ期間中は政府高官が利用する。広大な墓地には500人の烈士の墓。科学者やエンジニア、打ち上げ事故の犠牲者の魂が眠っているという。(翻訳・編集/NN)」

(http://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20120623-00000015-rcdc-cn)

野田政権の破綻

2012-06-22 15:02:09 | 政治
「≪twitterから≫増税の次はTPPです  孫崎 享


増税の次はTPPです。勿論国民は無視、更に党も無視。滅茶苦茶な政権になってきた。

20日時事「藤村修官房長官はTPP交渉参加判断の手順で”政府が決めることだ”と述べ、民主党内の了承手続きは不要との考えを示した」」

(http://www.nikkanberita.com/read.cgi?id=201206210018524)

 野田政権の破綻と書いたが、要は役人がしたい放題で、その役人はアメリカの奴隷、ということなんだろう。