白夜の炎

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日中戦争は何であったか 故藤原彰氏(一橋大学名誉教授、旧陸軍士官学校出身)

2016-01-31 16:44:30 | 戦争犯罪
「一、紛れもない侵略戦争

 1931年9月18日の柳条湖事件にはじまる中国東北の占領、さらに1937年7月7日の蘆溝橋事件以後の全面的な中国との戦争は、紛れることのない侵略戦争である。

 第一次世界大戦の惨禍を二度とくりかえさない目的で、世界各国は平和を守るための組織として国際連盟を結成した。しかし連盟規約では戦争の禁止が不徹底だとして、ドイツ、アメリカ、ベルギー、フランス、イギリス、イタリー、日本、ポーランド、チェコスロバキアの九カ国が、1928年8月27日にパリで「戦争放棄に関する条約」(不戦条約)に調印した。日本はこれを翌29年6月に批准し、同年7月に公布している。この条約では当事国が国際紛争解決のために戦争に訴えることを非とし、紛争解決の手段としての戦争を禁止したものである。満州事変も、日中戦争も、国際連盟規約と不戦条約の双方に違反することは明らかで、その当時から世界の非難を受けていた。

 日本の戦争を無責任な軍国主義者の世界征服戦争と非難しているポツダム宣言を、日本は無条件で受諾して降伏したのだから、その時点で日本は戦争が侵略であったことを認めたことになる。さらに日本の戦争責任を裁いた極東国際軍事裁判(東京裁判)では、満州事変以後の日本の戦争を侵略戦争と断定し、東条英機以下の被告を平和に対する罪として処断した。そして1951年9月8日にサンフランシスコで調印された対日講和条約の第11条は、日本国は東京裁判をはじめとする戦犯裁判を受諾するという条項である。すなわち日本は、国際的にその戦争が侵略であったことを国として承認したことになるのである。

 侵略戦争とは何か。1974年の国連総会は「侵略の定義」についての決議を採択した。もちろん日本もこれに加わっている。その決議は、侵略を「一国による他国の主権、領土保全若しくは政治的独立に対する、または国際連合憲章と両立しないその他の方法による武力の行使」と定義した。そして以下のような場合を侵略として例示した。

a、一国の軍隊による他国の領土に対する侵入若しくは攻撃、一時的なものであってもかかる侵入若しくは攻撃の結果として生じた軍事占領、又は武力の行使による他国の領土の全部若しくは一部の併合

b、一国の軍隊による他国の領土に対する砲爆撃、又は一国による他国の領土に対する武器の使用

c、一国の軍隊による他国の港又は沿岸の封鎖

d、一国の軍隊による他国の陸軍、海軍若しくは空軍又は船隊若しくは航空隊に対する攻撃

e、受入国との合意に基づきその国の領土内に駐留する軍隊の合意に定められた条件に反する使用、又は合意終了後の右領土内における当該軍隊の駐留の継続

f、他国の使用に供した国家の領土を、右他国が第三国に対する侵略行為を行うために使用することを許容する当該国家の行為

g、上記の諸行為に相当する重大性を有する武力行為を他国に対して実行する武装部隊、集団、不正規兵又は傭兵の国家による派遣、若しくは国家のための派遣、又はかかる行為に対する国家の実質的関与

 日本の満州占領も、さらに37年以降の日中全面戦争も、右のa・b・e項に明らかに該当している。日中戦争はこの定義にてらしても、紛れもない侵略戦争である。


二、侵略戦争の原因

 満州事変の前夜、日本国内では「満蒙」(東北三省に東部内蒙古を加えた地域のこと)は日本の「生命線」だとする軍部や植民地主義者によるキャンペーンが、大規模に展開されていた。他国の領土を、勝手に自分の国の生存に必要な地域だというのは、乱暴な言いがかりだが、これは国民を戦争に駆り立てるスローガンとしては効果があった。それは日本がこの地域に持っている利権が、日清、日露の二度の戦争で、父祖の血であがなったものだという宣伝が行きとどいていたからである。つまり日本は、日清日露戦争いらい、中国領土の一部である満蒙を獲得すること、すなわち中国への侵略を、一貫して国家目的としていたのであった。

 長い歴史の中で、日本は文化のすべてにわたって、中国に学んできた。文字も、宗教も、さらに生活の用具や習慣までも、中国の文化が多くの場合朝鮮を経由して日本に伝えられてきた。日本人は中国にたいして尊敬の気持ちと親しみをもっていたといってよい。それが明治維新を境に一転して、朝鮮を支配し、中国を侵略する道に突き進むことになった。それは何故だろうか。

 明治維新によって日本は、封建社会から抜け出して、西欧列強を手本に近代国家の形成へと一直線に突き進んだ。だが明治国家の指導者たちがめざしたのは、軍事と経済だけの近代化であって、西欧近代社会の理念であった人権と自由を置き去りにしたものであった。それはブルジョア民主主義を実現したのではなく、強権的国家体制を作り上げたのである。

 明治維新は封建領土を廃止し、武士の特権を奪って、中央集権国家を作り上げた点でたしかに大きい変革であった。しかし西欧のブルジョア革命が行ったような完全な農民の解放は実現できなかった。地主小作制度という封建的土地所有関係を温存したばかりでなく、軍備拡張のために高額な地租を取り上げることでそれを再生産していった。したがって日本社会は、近代化したといっても基本的には貧しい小作、自小作の農民が国家の多数を占めていた。また資本主義の発進にともなって、工業化も進んでいったが、そこでの労働力は、貧困な農村からはみ出した人々に頼っていたので、労働者の賃金は極端に安かった。貧しい農村の存在が、都市の労働者の低賃金を支えるという構造の社会だったのである。

 農村も都市も貧しいということは、国内市場が極端に狭いということに他ならない。国内市場の狭さから、国外市場に依存しなければならないという特徴をもつことになった。しかもその技術的水準の低さから欧米資本主義との自由競争では勝目がないので、独占的な植民地市場が必要であった。はじめから植民地獲得の欲求をもったのである。

 欧米列強の世界分割競争の最後の舞台となった東アジアで、日本は他に先がけて軍事と経済の部門での近代化に成功した。そして近い隣国であり、封建社会から抜けきれないでいる朝鮮や中国を植民地化の対象としたのである。日清戦争も日露戦争も、日本の国土を守るための戦争ではなく、朝鮮を支配するための戦争であり、まさに侵略戦争であった。

 日露戦争の結果として朝鮮を植民地としたあとは、さらに大きな獲物である中国が目標となった。1914年第一次世界大戦にさいし、日本は連合国側に加わってドイツと戦うが、そのねらいが中国山東省にあるドイツの利権の奪取であることは明らかであった。さらにこのとき、日本が中国に突きつけた「対華二十一ヵ条要求」は、大戦による列強の不在に乗じて、中国の植民地化を進めようとするものであった。これ以後の東アジアの歴史は、日本の対中国侵略政策の進展、これにたいする中国民族運動の抵抗という形で推移する。1919年の五・四運動、1925年の五・三〇事件、1927、28年の山東出兵などは何れもそのあらわれであった。

 この間に日本の支配者たちは、自国民にたいし意識的に中国にたいする優越感、中国への蔑視感を植えつけていった。そして中国の民族運動を、日清、日露戦争による日本の果実にたいする不当な反撃だと敵視し、中国の抗日運動を憎悪する国民感情を煽り立てたのである。

 こうして日本は、早熟な帝国主義国としての本質的要求である植民地を中国に求め、国民に対中国敵対意識を植えつけ、対中国侵略戦争に突入していくのである。


三、満州事変の意義

 1931年9月18日、関東軍の謀略である柳条湖事件をきっかけに、日本の満州武力占領が開始された。この事件は日本側が武力行使の口実をつくるため一方的にひきおこしたのものであることは、歴史的事実として明らかにされている。それにつづく満州の武力占領、傀儡国家「満州国」の樹立は、どう言いつくろっても他国への侵略である。国際連盟の総会も日本を非難し、日本軍の撤退を求める決議を42対1で可決したが、日本は連盟脱退をもってこれに応えた。世界が日本に侵略国の烙印を捺したのに、日本はこれに逆らって国際的孤立の道を歩み、さらに侵略を拡大していくのである。

 日本帝国主義にとって満州占領の意義は、大きくいって三つあったといえる。第一は大恐慌によって深刻になっている国内の経済的危機を回避することであった。鉄、石炭などの資源の獲得と、日本資本主義にとって有利な市場を獲得することであった。第二は激化している国内の対立を、対外戦争に転化することで、とりわけ深刻であった小作農民の不満を満蒙の広大な土地への幻想をあたえることで緩和しようとしたのである。第三には、最大の仮想敵国であるソ連にたいして、満州の占領により有利な戦略体制を固めることであった。こうした目的があったからこそ、世界から孤立してまで満州の植民地化に踏み切ったのである。

 このとき、日本の満州武力占領を可能にしたのも、三つの国際的条件が日本にとって有利だったからであった。第一は世界が大恐慌のまっただ中にあり、アメリカ、イギリスをはじめ中国に利害をもつ帝国主義列強が、日本にたいし武力制裁に出る余力がなかったことである。第二は満州にとくに関心をもつはずのソ連が、第一次五ヵ年計画による国内経済建設の最中で、武力介入の意図をもたなかったことである。そして第三は当の中国が国共の内戦に明け暮れ、国民政府は国土を日本に奪われているのに、何の抵抗もしなかったことである。

 こうして日本の満州占領は一時は成功したかにみえた。しかし満州の占領は、かえって日本帝国主義の矛盾を拡大し、その解決のために、いっそうの侵略の拡大を不可避にするという結果を招くことになった。先ず満州の占領によって、日本資本主義は経済的利益を得るどころか、かえって重い負担を招くことになった。軍が主導権をもって行った満州の経営は、この地域を開発するのではなく、軍事戦略を優先させ、経済性を無視して鉄道を敷設することに示されているように、まったく収支がつぐなわれず持ち出しになるものであった。

 また農村対策としての満州移民は、開拓ではなく中国人農民の土地を取り上げ、その反感、抵抗を招くだけに終った。満州における人民の抵抗は、治安確保のために兵力を割かねばならず、日本軍にとって大きな負担となった。満州の治安悪化は、背後からの工作によるものだとして、軍の華北への侵略の拡大への欲求をかきたてた。さらに満州の占領と華北への侵略準備は、中国国民のナショナリズムに火をつけ、抗日民族運動を昂揚させることになったのである。


四、全面戦争への拡大

 満州の経営に行きづまった日本、とくに陸軍は、1935年ごろから華北を第二の「満州国」化しようとして華北分離工作を進め冀東防共自治委員会、冀察政務委員会をつぎつぎに成立させた。また関東軍の傀儡である内蒙軍を緩遠省に侵入させて失敗するなど(緩遠事件)、中国の抗日民族運動を一挙に燃えたたせた。このころになると、中国国民の民族意識のたかまり、幣制改革などの経済的統一の進展などによって、中国はようやく近代的統一国家としてのまとまりを見せはじめていた。しかし中国への蔑視感にとらわれている日本の軍部も政府も、この事態を認識できなかった。そのことが日中戦争全面化の背景にあったのである。

 1937年7月7日の蘆溝橋事件は、6年前の柳条湖事件のような計画的陰謀ではなかった。しかし日本は前年に支那駐屯軍の兵力を一方的に三倍近くに増強し、中国側の反対を押し切って北京西南部の豊台に兵営を作った。この豊台駐屯の部隊が、抗日意識に燃える中国軍の目の前で夜間演習を行ったのだから、事件がおこるのは当然といえる。問題はこの事件を一挙に全面戦争に拡大したことである。

 現地では、日本側の支那駐屯軍も、中国側の第29軍も、局地的な事件として解決する方針で、7月2日には両軍間で停戦協定を成立させていた。ところが同じ7月11日に、東京では近衛文麿内閣が「重大決議」のもとに華北へ増援部隊を送ることを決定し、一挙に戦争拡大に突き進んでいった。そして朝鮮と満州からの増援兵力がほぼ北京(当時は北平といった)、天津地方に集中した7月27日、支那駐屯軍にたいし、「平津地方ノ支那軍ヲ膺懲シテ同地方主要各地ノ安定二任ズベシ」との大命が出され、翌28日総攻撃が開始された。またこの27日、政府は「自衛行動」を開始するとの声明を発表し、陸軍は内地3個師団の動員を開始するなど、中央が主導して戦争を全面化させていったのである。

 このとき陸軍には、参謀本部の第一(作戦)部長石原莞爾に代表される不拡大派があって、中国との戦争に深入りすることは対ソ戦備に妨げになると主張していた。だが陸軍の中堅幹部たちや杉山元陸相は、このさい中国に強大な一撃を与えてこれを屈服させようと主張する拡大派で、近衛首相や広田弘毅外相、さらに昭和天皇までが、こうした一撃論に立っていた。それは彼らが、中国にたかまってきた民族意識と、抗日統一戦線の力量を正しく認識することができず、たやすく中国を屈服させることができると軽視していたからであった。

 8月に入って事件が上海に波及すると、陸軍の上海への派遣を決定し、8月15日に「暴戻支那」を「膺懲」するという政府声明を発表した。これは宣戦布告に代るもので、全面戦争開始の宣言であった。石原作戦部長は対ソ戦重視の立場から、なおも上海への兵力増強に反対したが、昭和天皇はくりかえし兵力増派を催促した。天皇が、大兵力で一挙に決戦を求めて、中国の戦争意志を放棄させようとする短期決戦論者であったことは、「昭和天皇独白緑」で自ら告白していることである。結局石原作戦部長は辞任し、上海方面へは陸軍兵力の増派がつづき、海軍も航空兵力の主力を投入して、南京など都市への戦略爆撃を行った。他国の領土に大軍を侵入させたことも、都市への無差別爆撃を行ったことも、国際法に違反する侵略行動に他ならないものである。

 中国軍の抗戦は、天皇や日本政府や軍首脳の予想とは正反対で、激烈をきわめ、上海の日本軍は大損害を出した。三ヵ月の苦戦の後に、杭州湾に新たな軍を上陸させて、ようやく中国軍を退却させ、その勢いで首都の南京に急進した。そしてこの間に、「南京アトロシティーズ」(南京大虐殺)とも「レイプ・オブ・南京」(南京の強姦)とも名づけられて世界に知られた大残虐事件をおこした。そして戦争は、日本が予想もしなかった長期戦の泥沼に踏み込んでいったのである。


五、残虐行為とその背景

 日本軍の残虐行為は南京で行われただけではない。日中戦争の全期間を通じて、日本軍の侵略にさらされた中国の全地域で、大規模に展開されたのである。南京大虐殺否定論者は、大虐殺そのものがデマだ、でっち上げだという全面否定論が完全に破産したので、現在では虐殺の人数に争点を絞り、犠牲者は数千、或は数万に過ぎず、中国側の30万というのは誇大な数だから、大虐殺ではないと主張しはじめている。しかし人数の問題を絞って大虐殺を否定する矮小化論は、さまざまなトリックを使っている。期間や範囲を限定した上で、捕虜の殺害や敗残兵の処刑は戦闘行為の継続だから虐殺ではないなどと、さまざまな言いがかりをつけて人数を少なく計算し、中国側の言うよりは少ないのだから大虐殺はでっち上げだと主張しているのである。

 だが問題の本質は、南京の犠牲者の数の大小ではない。日中戦争における日本軍の残虐行為の存在とその内容なのである。中国人の犠牲者の人数を問題にするならば、30万どころか全体では1000万をはるかに上廻り、とても計算が不可能なくらいである。中国国務院の人権白書(1991年10月発表)では、蘆溝橋事件以後の8年間だけで「2100万人余りが死傷し、1000万人余りが虐殺された」(雑誌『世界』1994年2月号「白書・日本の戦争責任」による)という。これは公式報告だが、1987年7月に東京と京都で開かれた蘆溝橋事件50周年日中学術討論会では、劉大年中国社会科学院近代史研究所名誉所長が、「死者2000万人」と報告している(井上・衛藤編『日中戦争と日中関係』原書房、1988年)。さらに1995年5月独ソ戦勝利50周年にあたり、モスクワに招かれた江沢民中国共産党総書記は、記念演説で「中国の被害者数は3500万」としている(姫田光義『「三光作戦」とは何だったのか』岩波ブックレット、1995年による)。この膨大な数を前にしては、南京での犠牲者の数の大小をあげつらって「侵略」かどうかなどと議論することの無意味さは明らかであろう。

 日本軍がどうしてこのような大規模な残虐行為を行ったのか。日中戦争を考えるとき、このことを先ず問題にすべきであろう。

 第一に日本は、中国との戦争で国際法に違反し、大量の捕虜を不法に殺害したことを挙げなければならない。華北での戦闘が本格化した1937年8月5日、陸軍省は支那駐屯軍にたいして、この事変には国際法の戦争法規は適用しない、「俘虜」(捕虜の公用語)という名称は使うなという通牒を出した。この方針は、その後もずっと続けられた。このことは、現地の軍では、国際法は守らなくてもいい、捕虜は作るな、という方針だと受けとられたのである。

 南京大虐殺の主要な部分も、捕虜の大量処刑である。南京だけではない。日中戦争の全期間、全戦場において、日本軍は中国人捕虜を、国際法にも人道にも背いて殺しつづけたのである。かつて日本は、日露戦争にさいしてロシア人捕虜、第一次大戦のドイツ人捕虜を、国際法にもとづいて適正に処遇し、文明国だと賞められたことがあった。しかし欧米にたいする場合と中国にたいしてとは、まったく違った基準で対応したのである。それはアジア諸国、中国や朝鮮にたいする差別意識があったからである。中国との戦争では国際法を無視し、俘虜情報局や正規の俘虜収容所も設けず、捕虜の取扱いは現地の軍に任せ、結果としては捕虜の大量処刑、虐殺を放任したのである。

 第二に、非戦闘員である一般民衆にたいする大虐殺が行われたことをあげなければならない。上海の激戦につづく南京攻略戦で、民衆にたいしての掠奪、暴行、放火、殺害をくり返し、とりわけ女性にたいして手当り次第に強姦をつづけた。このことによって、事件が「南京アトロシティーズ」とか、「レイプ・オブ・南京」として、世界に知れわたったのである。しかもこうした一般人民への迫害は、南京にとどまらずこれも戦争の全期間、全地域にわたって展開されたのであった。

 一般民衆の生活や生命を犠牲にすることそれ自体を目的にして、日本軍が実行したのが、中国側の名づけた「三光政策」に該当する掃討作戦である。中国共産党の解放区の掃滅と封鎖を目的に北支那方面軍が行った遮断壕の構築、無人地帯の設定などの作戦は、1941年ごろから本格的に強行された。これは民衆の海の中に溶けこんでいる八路軍に手こずった日本軍が、民衆そのものを敵として、これを掃滅し、そのものを燼滅(焼き滅ぼす)することをめざした作戦で、まさに殺しつくし、奪いつくし、焼きつくすという意味の三光作戦と言えるものであった。

 このような民衆を敵視する作戦がくりかえされた中での中国人民の犠牲は、はかり知れないものがある。殺人、強姦、放火、掠奪その他あらゆる迫害にさらされた。日本軍がなぜこのような非人道的で不法な残虐行為を行ったのだろうか。それは民族をあげての抵抗に直面した帝国主義軍隊が、勝利の見込みをなくしたときに犯す絶望的な蛮行といえるもので、ベトナム戦争に行きづまったアメリカ軍の残虐行為と、同類のものと言える面もある。しかしそれだけにとどまらず、日中戦争の日本軍には、このような行為に走る背景が存在していたのである。

 その一つは、明治維新後の日本が、前に述べたように経済と軍事だけの近代化を追い求め、西欧の近代が理想とした人権と自由という観念を欠落させてきたことである。そうした近代日本の縮図が軍隊であって、兵士の生命が軽視されただけでなく、その人格はまったく認められず、自由は完全に抑圧されていた。自国でも人権と人道を認めない軍隊が、敵地の人民の人権を蹂躙するのは当り前で、非人道的行為にも逡巡することはなかったのである。

 二つには、中国人民の抵抗が予想に反して強かったことに驚き、恐怖心と敵意を燃やしたことである。一撃を与えれば簡単に屈服するだろうと予想していた中国の思わぬ抵抗に、軍の上層部も末端の兵士も、驚愕し憎悪して残虐行為に走ったのだといえる。

 三つめにあげることができるのは、戦争が拡大することで、日本軍は予想もしなかった大兵力を戦場に送ることになった。このため軍隊の素質は極端に低下し、軍紀風紀が頽廃した。また予期しない戦争の長期化に、士気も低下の一途をたどった。これが強姦や掠奪などの不法行為の多発した原因になったのである。


六、戦争責任と補償問題

 戦争が日本の侵略であることは明らかで、戦争責任が日本に存在することは国際的にも認められている事実である。またこの不法な戦争で、中国人民にたいしてはかり知れない大きさの被害をあたえたことも、疑う余地のない歴史なのである。

 ところが現在の日本には、戦争が侵略であったことを認めようとはせず、戦争を美化し肯定しようとする勢力が、政界、財界、学界などに根強く存在しており、その言動がしばしばアジア諸国の人々の怒りを呼びおこしていることも残念ながら事実である。この点で、同じ第二次大戦の侵略国であったドイツと比べると、日本の対応はきわめて不徹底で、ドイツのように戦争責任を明白に認め、公式に謝罪することを戦後の日本は怠ってきたのである。

 1990年代になって、アジア各国の戦争犠牲者が、日本政府を相手にして、謝罪と補償を求める裁判をつぎつぎに起こしている。これにたいして日本政府は、戦争賠償の問題は解決ずみ、個人補償は時効か除斥期間が過ぎているという態度を一貫して取りつづけている。中国に関していえば、1952年4月日本は台湾の国民政府を中国を代表する正統な政府だとして、日華平和条約を結んだ。このとき国民政府は、賠償請求権を放棄した。これはいわば台湾政府を中国を代表するものと認めて貰ったお返しであった。それから20年後の1972年9月、田中内閣は台湾と断交し、北京の中華人民共和国政府を承認して、日中共同声明を発表した。この声明の中では、「中華人民共和国政府は、日中両国民の友好のために、日本国に対する戦争賠償の請求を放棄することを宣言する」と言明されている。これをもって、日本政府は賠償問題は決着ずみとしているのである。

 しかしこれは戦争における国家間の賠償の放棄であって、国家や軍の犯罪によって被害を受けた個人への補償の問題とは別である。まして日本は、米英とは戦争をしても、中国とは41年までは戦争ではなく事変だといっていたのだから、その間の行為は放棄した賠償には入らないはずである。またその後であっても、殺人、強姦、放火、掠奪などの犯罪は、国家の戦争賠償とは別で、個人にたいする補償の問題である。

 同じ侵略国のドイツは、一貫してドイツの犯罪による犠牲者には、誠実に補償をつづけている。連邦賠償法その他の法律で、ユダヤ人をはじめとする被害者に、2020年までかかって年金を払いつづけているのである。東西ドイツの統一後は、未決着であった東ヨーロッパ各国の被害者への補償に取り組んでいる。97年12月28日の朝日新聞は、東欧のナチス犯罪被害者への補償問題で、ドイツ政府とユダヤ人の国際組織が基本合意に達し、ドイツ政府は東欧の犠牲者のために基金を創設して年三回補償金を拠出することになったと報道している。これはすべて個人にたいする補償なのである。

 日本がこれからアジアの中で、真に親しまれ愛される国として生きつづけていくためには、そして中国との間にも民衆のレベルでの友好関係を築き上げていくためには、謝罪と補償は先ず実行しなければならないことである。日中戦争は日本の侵略戦争であったこと、その中で南京虐殺や、毒ガス、細菌兵器の使用や、三光作戦や、おびただしい強姦殺人などの膨大な数の残虐行為を犯したことを率直に承認し、謝罪しなければならない。そして被害者個人への補償問題にも、誠実に対処していかなければならない。それなしに戦争は終らないのである。」

http://www.ne.jp/asahi/tyuukiren/web-site/backnumber/04/hujiwara_nittyuusensou.htm

中国人強制連行

2016-01-31 16:35:46 | 戦争犯罪
「「兎狩り作戦」は実在した -田辺敏雄氏の反論に答える-       /小島隆男


 田辺敏雄氏は『正論』9月号に「中国人8000人連行のウソ」という見出しで、またまた私の証言について、「実存しない、ウソである」と論じている。1942年9月、衛河の堤防を決壊した本人が、「こうした段取りで実行し、結果はこうなった」と告白しているのに、「お前の言っているのは全部ウソだ」と言われると、馬鹿らしいが、反論しないわけにもいかない。

 特に第44大隊の第5中隊は、衛河左岸の決壊地点から直距離にして300メートルも離れていない右岸の地点に「駐屯」していたのに、衛河決壊のあれだけの事件を「知らなかった」と言い切れるものではない。これこそ、戦友会の皆が一様に口裏を合わせ隠蔽しているとしか考えられない。

 1989年7月、私たちがNHKの取材で臨清に行った時は、すでに私たちの知っている臨清ではなかった。城内の中央を大通りが衛河に向かって走り、そのまま市街を通り抜けると、立派な鉄橋が対岸まで数百メートル延びていて、その上を大型トラックが頻繁に走っていた。河原に降りて雨でぬかるみのできた小道を決壊した場所まで行ったが、昔のあの頑丈な堤防の面影は既になく、わずかに士が盛り上がった形でしか残っていなかった。

 中国側で呼んでくれていた当時を知る証人が、我々の質問に答えながら丁寧に説明してくれた。私は、この衛河決壊の件では17のから告訴され、そのいずれの告訴状にも「小島中尉を厳重に処刑してくれ」と書かれていた。

 私に丁寧に説明してくれたこの証人は、被害にあったの住人だった。私は改めてこの人に心から謝罪した。

 私は1942年4月に第59師団が編成された時、第32師団より第59師団に転属したが、同時に第12軍が予備中隊として完全一ヶ中隊を編成した際に、その機関銃小隊長となった。第12軍幹部教育隊(済南)に「駐屯」し、作戦参謀千葉中佐の指揮下に入った。第12軍の作戦には必ず出動したが、出発に先立ち、参謀より将校に対して作戦の目的や注意すべき点など細かい指示があったし、帰隊すると当日の行動についての批評がなされた。

 千葉中佐の言うことは、侵略軍の参謀らしく極めて歯切れがよかった。例を挙げると、1942年の4月の「第二次冀南作戦」(第一二号作戦)では、「敵は日本軍が行動を起こしたことを知ると便衣に着替える。そのため軍人か百姓かの見分けがつかなくなるから、作戦地に入ったら男は全部殺せ」と言い、また同じ年の「章邱剔抉作戦」(しょうきゅうてっけつ)では、「君たちは剔抉という言葉の意味がわかるか? 剔抉とはえぐりとることである。拷問し、痛めつけ、徹底的にえぐり取る(略奪する)ことである」と言った。

 また我々の戦闘についてもこういうことがあった。1942年夏、魯西地区での作戦中、坪井部隊は敵を捕捉しながらも苦戦していたので、これを応援せよとの命令を受けて出動した。坪井部隊は何回か突撃を加えたが成功せず、夜間に入りやっとに突入したが、はすでにもぬけの殻だった。部隊はこの戦闘で100名近い戦死傷者を出した。この時千葉参謀は「他部隊の戦闘に口を出すのは申し訳ないが、私ならに火をつける」と言った。我々が「この日照りのなか、燃やすものは何もありません」と答えると、「君たちは襦袢を着ているだろう、袴下も履いているはずだ。これを燃やせば燃やすものはいくらでもある。敵を動揺させることだ」と言った。場所は魯西の東平湖の西方で、北陽堡という大きなであった。

 本題に入る前にもう一言つけ加えたい。私は証言者として各地でずいぶん発言してきた。その際、多くの主催者は、私に録音や録画の許可を求めてきた。私は一人でも多くの人に証言の事実を知ってもらえることを考え、無条件に同意してきた。しかし、主催者側のほとんどの人は戦争の経験がなく、我々が使う軍隊用語などについてできるだけ説明を加えても、なかなか分かりづらいようだった。でき上がった原稿は、時には校正を求めてくる場合もあるが、たいていは主催者側に任せた。すると、軍隊の階級・職務や中国の地名など、とんでもない言葉で表現されていることがある。

 これは田辺氏も例外ではない。第44大隊の戦友会長千葉氏とは同年配であることは承知だが、前記の証言の会で作成した記録集の中から、私の都合の悪い表現を集めて攻撃材料にしている。たとえば、私は中尉であるのに、関東軍司令部では大尉になっており、先の『正論』の105頁では、戦車中隊長になっている。また有名な天然の河である衛河を運河の名であるとしている。以上のような間違いは笑って過ごせるとしても、見過ごせないのは、これらの間違いを自分に都合よく組み合わせて、「彼の言うことはウソだ」ときめつけている点である。

「兎狩り作戦」について

 今年7月の終わり頃のある夜、サンケイ新聞の記者と名乗る男から電話があったが、私が電話に出るといきなりこう言った。「『北支の治安戦』(防衛庁防衛研究所戦史室著)を見ても「兎狩り作戦」という言葉は書かれていない。あの作戦は、実在しない嘘のものではないか?」と。私は「どこの国に自分の悪業を自ら戦史に残すものがいるか! 人間を強制的に捕らえて連行し、強制労働でこき使ったことを公然と公表し、戦史に書き残す馬鹿があるか!」と反論した。

 また田辺氏によれば、「元44大隊の誰に聞いても、そういう作戦はやったこともなければ聞いたこともないとの回答であり、ウソだ」というのである。

 1942年に入って太平洋戦争が激化し、日本国内の労働力が不足して生産に支障を来たしたので、中国大陸から労働力として使える頑強な人間を捕らえて、日本に強制連行しようということで、「華人労務者の内地移入に関する件」という閣議決定がなされた。各企業は、これより遥か以前からこのことを軍部に申請しており、正式に閣議決定した時には、すでに第12軍では十分な準備を終わっていたと言える。

 1942年8月頃、我々予備隊は、千葉参謀より前記の趣旨を説明されたうえ、どのようにしたら体力のある中国人を効率よく捕らえられることができるのかの訓練課題を言い渡された。課題として出されたことは、一ヶ中隊を幅4キロの横広に展開(各中隊の各分隊は一列縦隊)し、各大隊はいずれもこのように中隊を並列させて、担当する正面の網の中へ中国人を追い込むという方式である。ちょうど兎を捕る時、大きな円を描くように包囲網を作り、各人が石をたたき、缶をたたいて包囲を圧縮しながら、あらかじめ仕掛けた網に追い込んでからめ捕るのと同じ方法である。

 幹部教育隊は連日、教育隊長・金山中佐、教育主任・出口少佐、宮原大尉等が集まり、千葉参謀の指導で協議を行った。もちろん我々予備隊の将校も同席したし、場合によっては意見を求められたりした。

 時期はすでに8月で高粱の背丈も伸び、500メートル近く離れた隣分隊との連絡は並大抵ではなかった。実際にいろいろと試した結果、分隊は日章旗一本を、小隊長所在点には日章旗二枚をつなぎ、中隊長の位置を示すには日章旗三枚を縦につないで、それぞれの標識とし、前進停止は旗の振り方で規制した。広い正面の展開であるため、我々がその通り実施しても、よほどの距離を前進しないと、中隊の隊形が変化する過程はわからなかった。何回も実施した。最初は図上戦術、兵棋戦術へと続き、一ヶ月以上かかって一応の形ができた。

 この間、土橋第12軍司令官もしばしば顔を見せていた。教育隊には飛行隊も駐屯しており、南側に隣接して飛行場があった。この外れの一角に小高い丘があったが、軍司令官はこの丘に第12軍全軍の大隊長以上を集め、私たち予備隊が今までの訓練での取り決めを小刻みに実施する演習を見学させた。

 こうして準備は終わったが、少し補足すると、包囲網の上空を飛行機を飛ばして包囲網の凸凹をなくしたり、頑強な「敵」に遭遇した時のため、軽戦車中隊を配置した。また捕らえた中国人を選別するため、各部隊に憲兵一ケ分隊を配属した。いよいよ準備が整い作戦が始まるわけだが、この続きは先に出た著書『北支の治安戦』の中から引用することにする。

「作戦準備。第一二軍は年度粛正計画に基づき、魯西根拠地を徹底的に覆滅するため早くから準備を進めていた。
 特に土橋軍司令官ら自ら統裁した兵団長以下主要幹部の図上戦術、兵棋教育、実兵指揮の研究を行い、作戦参加諸隊は厳に企図を秘匿しつつ対共戦法を訓練した。
 その作戦構想は、軍は歩兵約一〇大隊をもって範県付近及び東平湖西方の中共軍根拠地を完全包囲急襲して、これを徹底的に覆滅しようとするものである。-略-作戦第一日を九月二七日と予定した。

(注)土橋軍司令官は、かねての研究と冀南作戦の経験により、完全包囲による討匪戦法の普及徹底を図った。その構想の基礎となる機動行程を「集結地」から「展開線」(包囲圏の形成)までを約四〇キロ(自動車による夜間機動距離)、「展開線」から「敵根拠地」(目標の中心点)までを約二四キロ(徒歩による昼間攻撃距離)と算定した。展開正面は一ヶ分隊の間隔を三〇〇-五〇〇メートルとして包囲圏の全周を算定し、横方向の連絡に特に留意し、各隊若干の予備隊を控置させた。包囲圏圧縮後の偵諜剔抉の尋問部隊として政治工作隊、特務工作隊(憲兵)を編成した。これは大平原地で逃避四散を事とする中共軍に対する特別戦法であり、地形、敵戦力が異なれば通用しがたい。」(同書237頁)

 我々12軍の予備中隊は、第32師団の石田隊に配属され、南から包囲線を圧縮することになった。ここでまた「北支治安戦」の記述を取り上げよう。

『東平湖西方剿共作戦』(り号作戦)(9・27~10・5)

 第一期作戦(9・27~29)。目標(攻撃の中心点)単堂(東平湖西方で黄河の左岸)。九月二五~二六日の間に大熊支隊(五九師団)は東昌、辛県付近(北方)に、石田支隊(三九師)は鄲城、鉅野付近(西方)に、高原支隊は濮県付近に兵力を集結し、二六日の夜間機動により、二七日払暁までに予定展開線に進出した。その後、統制線により各隊の前進を指導しながら、逐次中心地区(単堂)に包囲線を圧縮した。各隊は小戦闘を交えつつ、一六時過ぎには単県を中心とする半径約三キロの地域内に前進した。(以下略)

 第二期作戦(9・30~10・5)。各隊主力は原駐地帰還をよそおいつつ、大熊支隊は東昌付近、石田支隊は鉅野付近、高原支隊は鄲城付近において次の作戦を準備し、一〇月一日行動を開始し、二日朝予定の包囲線に展開した後、東平湖西岸に圧縮するよう前進した。(以下略)」同書238頁)

 これが兎狩り作戦の第1回目の作戦であるが、その「戦果」は遺棄死体1251、俘虜1350と「北支治安戦」(239頁)に出ている。

 次に「兎狩り作戦」の第2回目として行われたのが、1942年2月の「第三次魯東作戦」(と号作戦)である。魯西の平原地区と異なり、山岳地帯であるため、円形の包囲網ではなく山東半島の付け根付近の青島‐芝ソウ間に参加部隊全部を横一線に展開させ東進した。その間、山を越え谷を越えて半島の突端まで前進する方法を採った。東平湖地区での作戦を「兎狩り作戦」というならば、これはちょうど網を引くような作戦だった。半島突端まで一週間を予定した。

 わが予備隊は、魯西地区の作戦では、前進する正面のには機関銃を撃ち込んで民を中心部に追い込むとともに、通過するから食料、豚、鶏など徹底的に略奪した。今度の山東半島での作戦では、各面地区より遥かに裕福なが多かったので、略奪には更に拍車がかかった。予備隊の上陸地点の海岸から北へ小さな山を越すと、東から西へ遠浅の湾が開け、そこの塩田には20トン、30トンもあると見られる塩の山が見渡すかぎり積まれていた。わが予備隊は海軍と協力して、住民約2000名を集め、この山を崩して南海岸まで約四キロを運び、約4000トンの塩を略奪して船に積み込んだ。

 この「第三次魯東作戦」の「戦果」については、『北支の治安戦』によると、「作戦開始以来12月8日までの戦果は、遺棄死体1183、俘虜8675」(同240頁)と書かれている。また済南帰隊後、千葉参謀は教育隊と予備隊の将校を集め、訓練を開始してからの各隊の努力を謝したが、その時「この作戦での捕虜は合計すると、8000名以上になる」と発表した。

 こうして「兎狩り作戦」は終わった。第12軍が「兎狩り作戦」といったのはこの二回の作戦であったが、その後は12軍隷下の各師団でこの戦法を応用した作戦が、数多く実施された。

 最後に田辺氏に一言申し上げる。田辺氏は、「第44大隊の誰に当たっても『兎狩り作戦』なんていう言葉は聞いたことも実行したこともない」と言う。現在なら、ひとつの問題を討論する場合、年齢、学歴、地位などに関係なく自由に参加できるが、当時の軍隊では、すべてが「命令」であり、命令系統がある。兵、下士官、時には中隊長でも、上級指揮官の意図を知る術もなく、知らないのが当たり前だった。田辺氏は「誰に聞いても知らない、聞いたことがない」と言うが、これらの人々は、この問題について証人としての資格のない人なのである。

 また、前に述べたサンケイ新聞氏に一言付言する。『北支の治安戦』の160頁に、第41師団(北支那方面軍の直轄部隊)が、第12軍より早い4月中旬以降、「兎狩り作戦」(ただしここでは「兎追い戦法」と言う)を行なったことが出ている。この師団はそれまで山西の山地における経験は豊富だが、大平原の対共戦は未経験であるので、「兎追い方式」を接敵隊形の基本として研究し、訓練したと書かれている。これが、この本の文中に現れた唯一の「兎狩り作戦」についての記事である。

 我々は、中国共産党と中国政府と中国人民の温かい指導によって、自己の良心に目覚め、我々が中国で行った戦闘行為はことごとく侵略であったことを深く反省させられた。「真理は必ず勝利する」という教えも確信することができた。私が誰も知らないと思って隠し通した罪行も、中国住民の告訴状と中国側の調査で暴露され、私は真実の前に頭を下げるしかなかった。

 日本政府があれほど「そういう事実はない」と主張していた従軍慰安婦や強制連行も、証拠を突きつけられて、最後には認めざるを得なくなった。日本の軍隊が中国で行った非人道的な行為を、今さらもみ消そうとしても、終局的には隠しおおせるものではない。田辺氏は「真理は必ず勝利する」ということを、今の内に、よくよく噛み締めておくべきではないだろうか。


(こじま たかお 中国帰還者連絡会会員 1998年2月没)
(出典:季刊『中帰連』第4号)」

http://space.geocities.jp/ml1alt2/data/data1/data1-3-1.html

「慰安婦合意」という国際的な逸脱行為/ハンギョレより

2016-01-12 17:18:15 | 戦争犯罪
「 旧ユーゴ戦犯裁判所で裁判研究官として勤務し、大学で国際刑事法を講義している筆者からすると、最近の韓日政府の慰安婦関連の合意内容には「国際犯罪」という側面を排除する非常に深刻な問題があるが、この部分については、あまり議論が行われていない。
 韓国、ドイツ、日本は「国際刑事裁判所の設立に関するローマ規程」に加盟している。3カ国とも罪刑法定主義を刑法の原則としているため、ローマ規定を履行する国内法を制定しなければならなかった。ドイツ、日本が第二次世界大戦の加害者であることを考慮すると、ローマ規定の履行立法において同じ立場を取り、韓国は2カ国とは異なる態度を示す方が、自然と言えるだろう。しかし、実際には、韓国とドイツは国際犯罪を処罰するための詳細な特別刑法を制定した。一方、日本は、国際刑事裁判所に対する協力法を制定したが、国際犯罪を処罰する履行立法は行わなかった。

 国際刑事裁判所に対する協力法には、国際犯罪の内容が含まれていない。性奴隷、強制労働、国家元首の免責否定、指揮官の責任のように、過去の国際犯罪、特に日本が聖域とする天皇の刑事責任に関する議論が実体法の立法過程を通じて議論されることを恐れたのだ。ローマ規定には、国際犯罪に責任がある者は、国家元首でも免責されないというニュルンベルク原則と、国家元首も部下の犯罪について指揮官としての責任を負うという指揮官の責任が規定されている。日本は、立法においてもドイツと異なり、過去から目をそむけたのだ。

 韓日両国の発表文は、慰安婦問題が最終的かつ不可逆的に解決されることを強調した。最終的かつ不可逆という言葉は、今後、両国政府が合意した内容を超える一切の積極的な行動を取らないというものだ。発表文の内容は、主に国の責任に関するものであることを考慮すると、これは国の責任とは別の形の国際法上の責任、すなわち国際犯罪に対する個人の刑事責任を追及しないということだ。

 国際刑事法は国の責任を追及するのではなく、国際犯罪を犯した個人に対する刑事責任を取り上げている。国連人権(小)委員会に提出された報告書も、慰安婦に関連する犯罪者の処罰を提案している。両国政府はこれから、国際刑事法的アプローチに対するこれまでの無関心を超えて、今後これに関する政府としての議論さえしないという約束を正式に交わしたことになる。国家刑罰権の発動は、政府の意思にかかっている。慰安婦問題について、韓国政府が国際刑事法的アプローチを最終的かつ不可逆的に放棄すると、日本は国連や人権機構で韓国政府が慰安婦問題についての国際犯罪だと主張するかもしれないと、怯える必要がなくなる。


イ・ユンジェ亜洲大学法学部教授//ハンギョレ新聞社
 国際犯罪は被害者に深刻な精神的苦痛を残し、これは、被害者の年齢、性、脆弱性に応じてさらに深刻化する。国が正義の執行を拒否し、加害者に免罪符を与えることで、被害者の苦痛はよりひどくなる。約20万人の韓国女性が性奴隷になって言葉では言い表せない苦痛を経験しており、そのうちの少数だけが生きて帰ってきた。刑事処罰が現実的に困難であっても、刑罰権の放棄は政府が単独で交渉できるような事案ではない。
 国家刑罰権は主権の最も代表的な働きである。このような重要な問題に関する国家間の条約は、政府単独で決定できないように憲法で定められている。つまり、韓日交渉は主権の制約に関する条約の締結・批准に対する国会の同意権(憲法第60条1項)の侵害だ。また、国際刑事法は、個々の国が国際犯罪に対する処罰を放棄することを禁じている。国際犯罪に対する刑事責任には時効が適用されず、赦免も不可能だ。したがって、(今回の韓日間の慰安婦合意は)国際法的には国際刑事法違反となる。

イ・ユンジェ亜洲大学法学部教授(お問い合わせ japan@hani.co.kr )

韓国語原文入力: 2016-01-11 18:36

http://www.hani.co.kr/arti/opinion/column/725655.html訳H.J」

http://japan.hani.co.kr/arti/opinion/23035.html

日韓外相の政治的妥結に対するwamからの提言/WAMより

2016-01-02 20:53:57 | 戦争犯罪
日韓外相の政治的妥結に対するwamからの提言

声明  「政治的「妥結」を、真の「解決」につなげよ

2015 年 12 月 28 日、ソウルで行われた日韓外相会談において「慰安婦」問題を最終的に解決 する合意に至ったと発表された。日韓両政府が合意した内容は、武力紛争下で甚大な性暴力被害 を受けた女性たちに対する被害回復措置としては、国際的な基準から見ても甚だ不十分である。 日本政府は、被害者不在のまま政治的妥結をつきつけ、苦渋の選択を被害者にせまること自体が 暴力的であることを、「女性のためのアジア平和国民基金」の経緯を通じて学んでいないといわざ るを得ない。

アクティブ・ミュージアム「女たちの戦争と平和資料館」(wam)は、日本軍「慰安婦」制度の 歴史的事実を二度と同じ過ちを繰り返さないために次世代に伝え、女性に対する暴力のない平和 な社会をつくるために活動してきたミュージアムである。一人でも多く存命のうちに、すべての 被害者が受け入れられるような被害回復措置の在り方を、アジア太平洋各地の被害者および被害 国の支援団体とともに議論し、具体的な提言としてまとめる作業にも関わってきた。高齢になっ た被害女性たちが早く安堵したいと思いながら、やむにやまれぬ気持ちで声をあげ続ける姿を見 てきた者にとって、被害者が受け入れられる形で「解決」されることは、切実な願いだった。だ からこそ、被害者不在のままに政治的に「妥結」した日韓両政府に対して怒りを禁じ得ない。

一方で、安全保障政策を最重要視する米国の圧力のもと、被害者の声を一言も聞いていないに もかかわらず、日韓両政府が「最終的かつ不可逆的に合意」するという愚かな約束をしたことで、 韓国政府が日本政府に外交的な交渉をすることは、極めて難しい状況になった。被害を受けた女 性たちが感じている大きな怒りと失望を、どうにか希望につなげたい。私たちは、日韓政府の政 治的「妥結」を、被害者が受け入れ可能な「解決」につなげる道を、時間がかかっても丁寧に探 っていきたいと思う。

以下は、今般の日韓両国の合意に基づき、日本政府が為すべき、そして現実的にこれから為し
得る措置の提言である。なおこの提言は、被害者の意思を確認したものではないため、被害を受
けた女性たちの要求はもっと厳しい可能性も、また妥結そのものを拒否する決断もあり得ること
を付記しておく。

1、責任の認知
今回の合意において、日本軍の「慰安婦」にされた女性たちに対して、日本政府は「責任を痛 感している」と、国家の責任を明確に認めたことは率直に評価する。遅きに失したとはいえ、こ れまで使っていた「道義的」「人道的」などという不用意な言葉を使わず、全面的に国の責任を認 めたことは、今後の施策を進めるうえで重要な前提となる。一方で、公共放送をはじめとした報 道各社が、今回の「責任」は「道義的責任を意味する」といった誤った解釈を報道しており、こ れでは政府の努力はまったく意味をなさない。 提言1:日本政府は、責任に「道義的」といった限定をつける報道に反駁し、それ以上でもそれ 以下でもない「責任」を痛感していることを繰り返し表明しなければならない。
1
2、謝罪
安倍総理大臣が内閣総理大臣としてお詫びと反省の意を示したことは評価できる。しかし、安
倍総理大臣のお詫びを岸田外相が「代弁」する形で発表され、安倍総理大臣が朴槿恵大統領に電
話でお詫びを伝達するという形式は、被害者が求めていた公式謝罪としてはとうてい認められな
い。国家の人権侵害に対する謝罪のあり方として、欧米、例えば米国の日系人強制収容所の被害
者への謝罪の形式等と比較しても、はなはだ不十分である。
提言2:内閣総理大臣のお詫びと反省は、安倍総理大臣から、口頭または文書等の形式で、被害
者に直接伝達されなくてはならない。
3、事実の認知
今回の合意の最大の問題点は、「当時の軍の関与の下」という「河野談話」と同じ曖昧な表現に とどまったことである。日本軍「慰安婦」制度に関する事実を、曖昧さのない形で明確に認める ことは、被害女性たちが求めてきた被害回復のために不可欠である。すでに公文書等によって十 分に明らかにされているように、日本軍が設置した慰安所は、当時の軍が立案し、組織的に管理、 運営した軍の後方施設だった。また、女性たちの意に反して連行し、強制的な状況のもとで性行 為を強要した日本軍「慰安婦」制度は、女性たちの名誉と尊厳を傷つけただけでなく、女性の人 権を侵害する甚大な犯罪的行為だった。 提言3:どのような行為に責任を痛感し、「お詫びと反省」をしているのかを明らかにするため、 女性たちを意に反して連行した事実を認めた「河野談話」を踏襲する意志を明確に示すとともに、 慰安所設置の主体が日本軍であった事実、およびこれらの行為が人権侵害であったことを認めな ければならない。
4、韓国が設置する財団への拠出
韓国政府が設置する財団に日本政府が国庫から拠出するという構想は評価が分かれている。私 たちは、韓国政府が設置することで、財団という形式をとりながらも「女性のためのアジア平和 国民基金」とは一線を画したこと、また日本政府が「責任を痛感」したうえで、日本の国庫から 拠出されるお金は、日本政府からの「謝罪の証」であると認められる可能性があると考えている。 提言4:韓国が設置する財団の事業を被害者が受け入れられるようにするためには、これらのお 金が「謝罪(またはお詫び)の証」であることを、拠出の際に日本政府は明確に示さなければな らない。また、「名誉と尊厳の回復、こころの傷の癒やし」を目的とする財団の運営は、被害者と 支援団体の意見を十分に聞いたうえで実施しなければならない。被害者の傷を癒やす目的で実施 する事業であることに鑑み、財団の実施する事業について、日本政府は被害者の意思に反する要 求をしてはならない。10 億円の税金を活かし、「解決」につなげることは、納税者に対する日本 政府の義務である。
5、平和の碑、記憶の継承について
今回の政治的妥結で、最も被害者の心を逆なでしたのは、在韓国日本大使館前の「平和の碑」 を撤去するよう求めた日本政府の態度である。被害者の心の傷を癒やしたいという日本政府の発 言が真意であれば、本来、花を手向ける行為こそが求められている。「慰安婦」被害者を含む市民
2
によって設置された「平和の碑」の撤去は、そもそも交渉内容に入れてはならず、「被害者の納得 する措置」を求めてきた韓国政府は、撤去に向けた努力さえすべきではない。
提言 5:在韓国日本大使館前の「平和の碑」や、米国等で設置される記念碑は、武力紛争下の性 暴力根絶や、被害者の名誉と尊厳の回復を求めるグローバルな市民の行動の表れであることを、 日韓両政府は認識しなければならない。そして、日本の負の歴史を次世代に引き継ぐ意思を示す ために、日本政府はこれらの碑に反対する行為は控えなければならない。
6、真相究明と教育、否定への反駁
真相究明や、教育を通じた歴史の継承について、今回の合意事項ではまったく触れられなかっ た。しかし、自分たちと同じような被害が二度と誰にも起きないように、歴史の事実を教訓とし て伝えていくことは、被害者の名誉と尊厳の回復のために最も重要かつ不可欠な要素である。 提言6:日本政府は、政府保有資料の全面公開、国内外でのさらなる資料調査、国内外の被害者 および関係者へのヒヤリングを含む真相究明、および義務教育課程の教科書への記述を含む学校 及び一般での教育を奨励していかなくてはならない。また、歴史の事実や日本の責任を否定する 公人の発言には、断固として反駁しなくてはならない。
7、国連等の国際社会に対する働きかけについて
「国連など国際社会でたがいに非難、批判することを控える」と両国が表明したことは、日韓
両国が日本軍「慰安婦」問題を、グローバルな女性の人権課題だと認識していないことの表れで
ある。韓国の被害者を含め、日本軍によって重大な人権侵害を受けた「慰安婦」被害者が被害回
復を求めるのは当然の権利であり、日本政府が真摯な対応をしない限り、国際社会からの要求は
継続することを認識すべきである。とりわけ、国連ユネスコ記憶遺産への日本軍「慰安婦」に関
する記録の登録は、武力紛争下で軍隊から性暴力を受け、生き抜いた女性たちの生の記録として
保護に値するものであり、重要な世界的遺産として、本来であれば日本政府が自ら推進すべき事
業である。
提言7:日本政府は、国連人権機関の勧告を真摯に受け止め、女性の人権の確立、日本軍「慰安
婦」制度の歴史の記憶化に向けた国際社会の取り組みを妨害してはならない。
今回の政治的「妥結」を、最終的な「解決」につなげられるかどうかは、日本政府のこれから の行動にかかっている。日本軍の「慰安婦」にされたために、戦後の 70 年をも過酷な人生を強い られた被害者たちが、最後のひとときを安堵し、心安らかに過ごせるよう、私たちはどのような 努力も惜しまない。そして、この日韓政府の合意事項の行方を、固唾をのんで見守っているであ ろうアジア太平洋各地の被害者に対しても、同様の被害回復措置をとることを求める。
2015 年 12 月 31 日 アクティブ・ミュージアム「女たちの戦争と平和資料館」(wam)
〒169-0051
東京都新宿区西早稲田 2-3-18 AVACO ビル 2F」

http://wam-peace.org/20151231/http://wam-peace.org/20151231/

追悼 戦争で片腕を失った水木しげる先生が描いた「従軍慰安婦」。

2015-12-02 16:38:38 | 戦争犯罪
水木しげるさんがなくなられた。

水木さんが書いた従軍慰安婦の漫画。

載せているブログから転載させていただきました。

多くの方々に見ていただきたいと思います。

→「追悼 戦争で片腕を失った水木しげる先生が描いた「従軍慰安婦」。」
http://blog.goo.ne.jp/raymiyatake/e/ab43aa09a246ca265aaa7ac4f53aa4e6

ブレア元首相の告白

2015-10-30 14:32:07 | 戦争犯罪
 ブレア首相の発言。イギリス人が中東をどのように見て、どのように扱っているのかがよくわかる。

「 「ヒットラーは民族大虐殺を考えていなかった。大虐殺をそそのかしたのは、パレスチナ人のムフティー(聖職者)だ」と、ユダヤ人のイスラエル首相ネタニヤフが2015年10月20日、新キャッチコピーを発表しました。 するとすかさず、「うちのヒットラーが殺りました」と、ドイツ政府が反論の自供をしました。 ネタニヤフの真意は、<パレスチナ民族はテロリスト>のイメージ捏造にあったようです。 が、大量虐殺を再再度認めたおかげで、ドイツはアラブ民族難民の受け入れから手を引けなくなりました。 ヨーロッパは、アラブ難民でむせかえっています。 そんな時、トニー・ブレアー元英国首相でイラク戦争準主犯(殆ど主犯)が、「ゴメン!イラク戦争は間違いだらけ」と、自供を始めました。 飛んで火に入った自供を検証してみましょう、、

*その1、凄い自供内容:
 2015年10月25日、CNNのインタヴューで、英国元首相トニー・ブレアーが、「2003年の米英主導のイラク侵攻は間違いだった」と、自供した。「我々が入手した情報が間違っていたという事実について謝罪する。(イラク政権は)国民に対して化学兵器を使用していたようだが、それは我々が想像していたような形態ではなかった」と、自供した。「計画の誤りや、政権を排除すればどうなるかという認識に関しても、明らかな誤りがあった」と、さらに謝罪した。
 図々しいというか、、自分の犯した戦争大犯罪にまったく反省の色を見せず、元英国首相ブレアー現弁護士はイラク戦争分析もどきの自白をテレビ・インタヴューで披露した。

*その2、凄い計画犯罪:
 英紙メール・オン・サンデーは10月18日、「イラク戦争開戦(2003年3月)の1年前からブレア英国首相(当時)が米国に参戦を約束していた」と、報じた。
 パウエル米国務長官(当時)は2002年3月28日付のブッシュ大統領(当時)宛てた文書で、「イラクに関しては、軍事作戦が必要となれば、ブレアは米国と行動を共にする」と報告している。
 文書はさらに、ブレア英国首相(当時)について「二つの点を彼は納得している。一つは脅威が現実的であること。もう一つは、フセイン大統領打倒に成功すれば、中東での成功はその後さらに大きく広がるという点だ」と述べている。こうした内容は、クリントン前米国務長官私用メール公務使用問題で開示された一群の文書にも含まれていたそうだ。
 さあ~大変だ!ブレアーイラク戦争犯罪容疑者の自白は、クリントン前国務長官のメール問題にまで広がってきた。
 ブレアーイラク戦争犯罪容疑者はさらに、「欧米の介入についての政治的論争はまだ結論が出ていない」とも言う。冗談じゃない、<イラク侵攻は戦争犯罪>という国際社会の結論は出ている。そして、この戦争犯罪容疑者は、「イラクでは介入を試みて派兵した。リビアでは派兵せずに介入を試みた。シリアでは一切の介入を試みず、政権交代を要求している」とも言う。さらに、「我々の政策はうまくいかなかったかもしれないが、それに続く政策がうまくいったのかどうか、私にははっきりしない」と、戦争犯罪容疑者は恥ずかしげもなく自供を続けた。
 やっぱり、、リビア侵攻もシリア侵攻もイラク戦争犯罪人たちが絡んでいたんだ。犯罪容疑者自身が白状しているんだから、間違いない。
 戦争犯罪容疑者が言うところの<我々の政策>で、いかにたくさんの人を殺したのか?この戦争犯罪容疑者は全く意に介していない。人殺しって、実に無神経なものですね!

*その3、凄いISIS関与発言:
 このブレアー戦争犯罪容疑者は、「2003年のイラク進攻がISIS台頭を招く根本原因だったという見方には<一片の真実>がある」と述べ、「もちろん、2003年にサダムを排除した我々に2015年の状況に対する責任がないとは言えない」と、遠回しにISIS関与も自白した。
 ブレア戦争犯罪容疑者がイラク戦争について、このタイミングで罪を認め<謝罪>を口にしたことに関して、主要な英国メディアは、開戦時に関する政府調査での罪状を軽減するためではないかと推測している。「イラク進攻の決断は戦争犯罪では?」と、CNNが質問すると、ブレア戦争犯罪容疑者は「あの当時は自分が正しいと思ったことをした、、今になってそれが正しかったかどうかは、それぞれで判断すればいい」と、答えた。「それぞれで判断すればいい」とは、どういうことなんだ!<それぞれ>って誰と誰を指すのだ?我々世界の庶民は<判断>に苦しんでしまう。
 その一方、「米国が旧イラク軍の解体を決めたことで、国内の治安に空白が生まれ、それが後にISIS誕生につながった」と、専門家たちは既に<判断>を下している。

*その4、ICC国際刑事裁判所 に告訴しよう!:
 2009年12月13日、「イラク侵攻の理由は何でもよかった」と、ブレアー戦争犯罪容疑者は英国BBCテレビで既に白状している。イラク戦争の目的は<油と国土とフセインの首>だったことを、ブレアーの自白が証明している。

 何が腑に落ちないって、、戦争犯罪容疑者みずからが2度にわたって戦争犯罪を自白しているのに、国際社会はなぜ黙っているのか?不可解極まりない?
 2005年3月1日、ヨルダンの弁護士でフセイン国際弁護団初代団長ジヤド・ハサウナが初来日した。筆者が通訳兼ガイド兼雑役を勤め、東京、山梨、名古屋、大阪、広島と、講演や記者会見でイラク戦争とフセイン裁判の非合法性を訴えた。フセイン国際弁護団は後に編成変えして、フセインの娘ラガドが陣頭指揮を執り奮戦した。が、2006年12月30日、フセインは米軍製絞首台の露と消えた。ジヤド初代団長はICC国際刑事裁判所にアメリカとイギリスの戦争犯罪を訴えようと動いた。が、未だに実現していない。

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写真の左から二番目がジヤド弁護士です。

 戦争犯罪容疑者が犯した戦争犯罪を自白したのは、事実だ。そして、その戦争で、大虐殺が行われたのも事実だ。
 ヒットラーは第二次世界大戦中に1370万人を殺した。(内ユダヤ人は約600万)
 ブッシュとブレアーは、イラク・リビア・シリア戦争で、推定200万人以上を殺した。 これだけ人を殺して、なおかつ700万のイラク人と、100万を超すアラブ人の難民を路頭に迷わせているブッシュとブレアー、、「ゴメン」じゃ済まないでしょ!!ICC国際刑事裁判所に出廷して、未だにヒットラー戦争犯罪のつけを払い続けているドイツの子孫のように、孫子の代まで、イラク・リビア・シリア戦争の賠償を続けてください。 金を出すのが嫌なら、200万人の命と、800万人の生活を返してください!!

 それにつけても、戦争犯罪容疑者No1の元アメリカ大統領ブッシュは、どうして自首してこないんでしょうか??

文:平田伊都子 ジャーナリスト  写真:川名生十 カメラマン

〈記事出典コード〉サイトちきゅう座http://www.chikyuza.net/
〔eye3116:151029〕」

クワラスマミ報告/国連 

2014-10-18 16:44:14 | 戦争犯罪
 日本政府が修正を求めたのはこの報告についてですが、まずは内容を読んでからにしましょう。

 「付属書1」「女性に対する暴力 戦時における軍の性奴隷問題に関して-朝鮮民主主義人民共和国、対韓民国、および日本への訪問調査に基づく報告」
 →http://www.awf.or.jp/pdf/0031.pdf

従軍慰安婦の記憶・水木しげるさん

2014-04-21 19:13:44 | 戦争犯罪
 以下は水木しげるさんが書かれたものから。

「【「慰安所はまさに地獄の場所だった」…水木しげる】

戦争中の話だが、敵のいる前線に行くために、「ココボ」という船着場についた。

ここから前線へ船が出るのだ。

そういう所には必ずピー屋がある。

「ピー屋」というのは女郎屋のことである。

ピー屋の前に行ったが、何とゾロゾロと大勢並んでいる。

日本のピーの前には百人くらい、ナワピー(沖縄出身)は九十人くらい、朝鮮ピーは八十人くらいの男たちが並んでいた。(※当時の日本は沖縄人も日本人と見做さず、朝鮮人同様に「慰安婦」の扱いをしていた)

これを一人の女性で処理するのだ。

僕はその長い行列を見て、一体いつできるのだろうと思った。

一人三十分としてもとても「今日中にできる」とは思われない、軽く一週間くらいかかるはずだ。

しかし兵隊はこの世の最期だろうと思ってはなれない、しかし・・・・・いくらねばっても無駄なことだ。

僕は列から離れることにした。

そして朝鮮ピーの家を観察したのだ。

ちょうどその時、朝鮮ピーはトイレがしたくなったのだろう、小屋から出てきた。

※※(彼女がナニカを排泄する様子の描写)

…とても、この世のこととは思えなかった。

第一、これから八十人くらいの兵隊をさばかねばならぬ。

兵隊は精力ゼツリンだから、大変なことだ。

それはまさに「地獄の場所」だった。

兵隊だって地獄に行くわけだが、それ以上に地獄ではないか。

と、※※トイレに行った朝鮮ピーを見て思った。

よく従軍慰安婦のバイショウのことが新聞に出たりしているが、あれは体験のない人にはわからないだろうが・・・

やはり「地獄」だったと思う。

だからバイショウはすべきだろうナ。

(*水木しげるの他の著作「水木しげる伝~戦中編~」によれば、彼女たちはこの後、病院船でココポを離れたが、途中潜水艦にやられ、全員が死亡したという。)

「本日の水木サン―思わず心がゆるむ名言366日」より抜粋 」

https://www.facebook.com/photo.php?fbid=581000398674768&set=a.101612309946915.1559.100002944383549&type=1&theater/伊藤豊氏のFBより

加害の記憶・従軍慰安婦

2014-04-21 18:38:53 | 戦争犯罪
「中国の女性たちを強姦する日本兵に私は避妊具を配った-。先の戦争で自ら手を染めた後ろ暗い過去と向き合い、告白を続ける人が相模原市南区にいる。元牧師の松本栄好さん、92歳。「傍観していた私は『戦争犯罪人』だ」。歴史への反省がかすむ社会に今、伝え残したいことが多くある。「従軍慰安婦は確かに、いた。私が証人だ」 



 筒状の器具を性器に差し込み、のぞき込む。炎症で赤くなっていないか。できものは見当たらないか。月に1度の性病検査。軍医の手伝いが衛生兵、松本さんの任務だった。

 女性の体を思ってのことではなかった。

 「兵力を維持するためだった」

 戦地や占領地では日本軍人の強姦が問題になっていた。住民の反感を買えば、治安の悪化を招き、占領はおぼつかない。一方、不衛生な現地の売春宿では性病に感染する恐れがある。病気になれば兵隊として使い物にならなくなる。強姦防止と性病予防が慰安所の目的だった。

 中国山西省盂県に出征したのは1944年2月。当時21歳。城壁で囲まれた大隊の拠点に慰安所はあった。

 「慰安婦としていたのは20代ぐらいの6、7人。日本の着物ではなかった。兵隊たちが『朝鮮ピー』と呼んでいたので、彼女たちが朝鮮の人々なのだと分かった」

 半年後、分遣隊として数十キロ離れた上社鎮という占領地区に移り、慰安所は強姦の歯止めになるどころか性的欲求をあおり、拍車を掛けていることを知る。

 「慰安所は大隊本部にしかなかった。だから兵隊たちは『討伐』と称し、村々で食料を奪うのと同時に女性たちを強姦していった」

 犯す前、松本さんは避妊具を手渡した。「気を付けろよ」。病気になるなという念押しだった。

 強姦は当時の軍刑法でも禁じられていた。「私はトルストイの禁欲主義に傾倒していて、性行為への嫌悪感が勝っていた」。それでも、目の前で繰り広げられる光景に疑問も罪悪感も湧かなかった。

 

■問題は強制の有無か

 やはり分遣隊が「討伐」に繰り出したある日、逃げ遅れた女性を拉致した。

 「20~30代ぐらいまでの7、8人。兵隊たちにとっては『戦果』だった」

 従軍慰安婦の問題をめぐっては、軍の関与と強制性を認めた河野洋平官房長官談話の見直しを求める声が一部の政治家から上がり続ける。第1次安倍政権では「政府が発見した資料の中には、軍や官憲による、いわゆる強制連行を直接示すような記述も見当たらなかった」と明記した政府答弁書が閣議決定されている。

 松本さんは首を振り、証言を続ける。

 「女性たちは自ら歩かされ、連れてこられた。悲鳴を上げたり、騒ぐこともなかった。あの状況で逃げ出したり、抵抗したりすることにどんな意味があったか。抵抗すればいつ危害が加えられるか分からない。その絶望になぜ思いをはせないのか」

 女性たちは駐屯地の兵舎の片隅に監禁され、「兵隊たちはそこで代わる代わる強姦した。私は避妊具を配り続け、やはり女性たちの性病検査を行った」。

 1週間ほどたち、隊長の判断で女性たちを村に戻すことになった。松本さんは「女性たちの体力が低下したからだ」と思った。隊長は交換条件として、村長に命じた。

 「ほかの女を連れてこい」

 別の2人が連れてこられた。

 松本さんは言う。「慰安婦だけの問題ではない。中国や韓国の人たちが怒っているのは、それだけではないと認識すべきだ」

 村々での強姦、慰安所ではない兵舎での監禁。女性たちの体に刻み付けられた暴力の残虐さに違いなどない。なのに人集めの際の強制性の有無を論じたり、慰安婦制度ばかりに焦点が当てられることは問題の本質から目を遠ざけることになると感じている。

 「私たちは中国や朝鮮の女性を性の奴隷として扱っていた」

 そして、自身がそう認識することができたのも戦後になってからという事実にこそ目を向けなければならないと、松本さんは言う。

 

■語らないことの責任

 ニワトリや豚を盗むように女性を連れ去り、犯す-。「戦地は倫理、道徳、品性、誇りも何もないモラルのない人間がつくりあげられていく人間改造場だった」。松本さんは中国や朝鮮の人々には何をしても構わない、という空気が蔓延していたと振り返る。

 「当時の教育を見詰めないといけない。戦時動員の名の下、国家主義を浸透させるために『日本よい国 きよい国 世界に一つの神の国』と自国の民族の優位性を強調する教育が行われた。その過程でとりわけ中国や朝鮮の人々への蔑視と傲慢さが、私たちの心の内に生み出されていった」

 復員後、牧師となったが、自らも加担した蛮行を口にしたことはなかった。

 「戦争体験を多少話したことはあったが、通り一遍のこと。罪の自覚から話せなかった」

 慰安婦の女性と会話を交わしたことはあったはずだが、どんな言葉をしゃべり、どんな表情をしていたかも記憶にない。「覚えていようと思わなかったためだ」。やはり消し去りたい過去だった。



 転機は8年前。牧師を引退し、親族が住む神奈川に居を移していた。旧知の教会関係者に証言を頼まれた。使命感があったわけではない。「求められるなら話してみよう、と」。市民団体などから次々と声が掛かるようになり、反響の大きさに語る責任があることに気付かされた。

 証言するということは過去の自分と向き合うことだ。「正直、つらい。できれば黙っていたかった」。過去の否定は、いまの自分を否定することでもある。

 同じように人は望みたい歴史にしか目を向けようとしない。

 「何をしてきたのかを知らなければ、同じ過ちを繰り返す。語らないことでまた責任が生じる」

 従軍慰安婦をめぐる議論が再燃するのと時を同じくし、憲法9条を見据えた改憲や集団的自衛権の解釈変更の議論が政治の舞台で進む。「この国は戦後ではなくもう戦前と言っていい」。そして問い掛ける。

 「悪いのは政治家だけだろうか。そうした政治家を選んできたのは、過去と向き合ってこなかった私たち一人一人でもあるはずだ」

◆旧日本軍従軍慰安婦と河野談話

 戦時中、日本軍の戦地や占領地に造られた慰安所で朝鮮半島や中国、フィリピン、インドネシアなどの女性が兵士らに性的暴力を受けた。女性たちは暴行・脅迫や甘言、人身売買により連れられてきた。慰安所設置の計画立案から業者選定、女性集め、慰安所管理までが軍の管理下に置かれていたことは各種資料で裏付けられている。

 日本政府は1993年に河野洋平官房長官談話で軍の関与と強制性を認め「おわびと反省」を表明した。

 談話をめぐっては2007年に第1次安倍内閣が、軍や官憲が強制連行した証拠は見つかっていないとする政府答弁書を閣議決定。第2次内閣では、安倍晋三首相が談話の見直しを示唆。韓国の反発だけでなく米国の懸念を招き、日米韓首脳会談を前にした今年3月に談話の継承を明言。一方で談話の作成経緯についての検証は行うとしている。

【神奈川新聞】」

http://www.kanaloco.jp/article/70041/cms_id/76481

韓国龍山基地に残る旧日本軍施設

2013-05-17 14:52:18 | 戦争犯罪
 他国を滅亡させ、歴史的遺産を破壊し、そのあとに軍事拠点を構築する。

 そうして彼の地の人々を支配し、自らは優等民族だと自己満足に浸る。
 
 その意識はとめどなく拡散して、ついには彼の地の女性を性欲処理の道具にしてもかまわないとまで考え、そのための組織を軍の資金と名によって実現する。

 そしてそこで暮らし、長年を過ごした戦争世代によって、その意識が戦後日本に持ち越され、きちんとした内在的批判のないまま今日に至る。

 その結果、橋下徹のような知性もまともな人権感覚もない輩が登場し、世界に向かってとんでもない発言をするに至る。

 さらにそのような人物を、そのような輩と知りつつ、人気者に仕立てたテレビ局-日本テレビその他-があり、それを支えた連中がいたはずだ。

 そのような日本の原点の一つが以下の場所。是非ともきちんと整備管理してください。


「創刊企画 龍山(ヨンサン)基地遺跡の再発見

龍山(ヨンサン)米軍基地内 日帝時の兵営施設そのまま保存
"近代建築物の宝庫…類例のない歴史文化遺産"

 2016年に返還されるソウル龍山(ヨンサン)米軍基地内に1906~1945年にかけて日帝が作った朝鮮駐屯軍兵営施設が130棟以上そっくり残っていることが確認された。 これと関連してパク・ウォンスン ソウル市長は16日「(国土交通部が推進中の)龍山(ヨンサン)基地跡公園造成はソウルの100年を決定することになる選択」とし、市民の意見を反映して基地跡全体を生態公園として長期造成する‘龍山公園造成特別法’改正を推進すると明らかにした。

 <ハンギョレ>が最近ユ・スンヒ民主党議員を通じて入手した<軍駐屯地内近代建築・施設一斉調査委託研究報告書>を見れば、龍山基地内には計1245棟の建物があるが、このうち132棟が1906年以後に日帝強制占領期間に築造され保存されていると発表された。 この報告書は文化財庁の委託を受けて建築史研究者であるキム・ジョンホン培材(ベジェ)大教授チームが2011年7~8月に国内で初めて実施した現場調査結果を基に作成したものだ。 保安を理由に調査が不可能だった建物50余棟を含めれば残存する日本軍兵営施設は更に増えるものと見られる。

 兵営施設は主に基地の北側地域(メインポスト)と南側地域(サウスポスト)に残っているが、それぞれ58棟、66棟が集まっている。 また、基地内の極東工兵団部隊(FEDコンパウンド)に5棟、キャンプ コイナー、キャンプ キム、国連軍家族住居地域(国連コンボイ)にもそれぞれ1棟がある。 メインポストには兵営施設が、サウスポストは宿舎が主にあった所で、建物は全て保存状態が良く、メインポスト側は米軍勤務施設として、サウスポスト側は宿舎として使われている。 キム教授は建物の配置を通じて日帝強制占領期間の日本軍の指揮本部と野戦軍配置構造を垣間見ることができると説明した。 国内で特定地域に100棟を超える近代建築物が過去の景観を維持したまま保存されている事例はここが唯一だ。

 キム教授は「130棟を超える日本軍の兵営建物が残っているのは日本にも類例がない」として「100年前の日本の韓半島・大陸侵略の実体を示す世界的な歴史文化遺産」と話した。 また、外部に突出したバットレス(主壁を支える外部構造物)を活用した軍兵舎施設は古典主義から近代建築へ移る過渡期の様式を見せており、洋式応接間、ペチカにオンドルを組み合わせたことも特徴だと彼は付け加えた。 キム教授は「龍山駅と連結された龍山基地は、世界戦争史の流れにより日本軍が戦争に対応する方式をそっくり見せる近現代人類文化遺産の価値を持つ」と評価した。

 一方、パク・ウォンスン市長は龍山公園造成方向を問う<ハンギョレ>の書面質問に送った返事で「現在は米軍駐屯地であるため一般人の接近は不可能だ。 内部がどうなのか分からない状態で保存、撤去を語るより、基地跡内部を公開することが優先だ。 以後に市民の共感の中で、保全しなければならない建物は保全し、撤去しなければならない建物は撤去しなければならない」と話した。

イム・ジョンオブ、チョン・テウ記者 blitz@hani.co.kr

韓国語原文入力:2013/05/16 22:13
http://www.hani.co.kr/arti/culture/culture_general/587841.html 訳J.S(1626字)」

http://japan.hani.co.kr/arti/politics/14728.html

シリアがサリンの実戦使用/???

2012-12-07 20:23:12 | 戦争犯罪
英米を中心に西側のメディアは本格軍事介入の前に、対象国や対象とする政権・個人を激しく攻撃する情報を流す。

 湾岸戦争のときには一斉にサダム・フセインが如何に愚かで残虐かという特集を雑誌や新聞が一斉に組んだ。

 イラク侵攻の際の大量破壊疑惑は言うまでもない。

 そして今回は打倒したくて仕方ない-そのように見える-アサド政権がサリンを実戦に使用する可能性がある、という情報が駆け巡っている。

 それから化学兵器は確かにフセインがイラン・イラク戦争や、国内のクルド人弾圧のために使用したが、化学兵器自体で決定的な勝利を得るのは簡単なことではない。

 使用条件はかなり制約されるし、今回のように首都ダマスカスの近郊での使用となると、場合によってはみずらの支持母体に危害が及ぶ可能性もある。

 サダム・フセインもバクダッド近郊で使ったわけではない。
 
 今までの経緯を考えると眉に唾つけて聞いた方がよいのではなかろうか。

 なお写真の図はサリンの化学構造です。御参考までに。


「シリア政権のサリン兵器「深刻に懸念」 米、対抗措置も

 【ワシントン=望月洋嗣】パネッタ米国防長官は6日、ワシントンでの記者会見で、シリアのアサド政権が化学兵器を使用する可能性について「深刻に懸念している」との見方を示した。アサド政権が反体制派をサリンで攻撃した場合、対抗措置を取る考えも強調した。

 米メディアは、米政府高官の話として、シリアがサリン使用の準備を終えたなどと報じている。パネッタ氏は「反体制派が首都ダマスカスに進軍するにつれて、アサド政権が化学兵器の使用をより真剣に検討することになると懸念している」と発言。米政府がシリアの化学兵器について得た情報から、「深刻な懸念」を抱いているとした。

 一方、クリントン米国務長官は、訪問先のダブリンで、ロシアのラブロフ外相らとシリア問題を話し合った。ロシアはアサド政権を支える立場だが、化学兵器の使用を容認しない点では米国と一致している。」

http://www.asahi.com/international/update/1207/TKY201212070014.html

甘い!!

2011-12-09 16:32:49 | 戦争犯罪
「<沖縄不適切発言>前防衛局長、停職40日に

毎日新聞 12月9日(金)13時18分配信


 一川保夫防衛相は9日午前の記者会見で、田中聡・前沖縄防衛局長が米軍普天間飛行場(沖縄県宜野湾市)の移設問題を巡り不適切発言をした問題で、今後の閣僚給与全額を自主返納すると発表した。渡辺周副防衛相、下条みつ、神風英男両政務官も政務三役としての給与1カ月分を自主返納する。田中前局長は同日付で停職40日の懲戒処分とした。

【田中防衛局長の聴取内容全文】沖縄不適切発言 防衛相発表

 一川防衛相は記者会見で「田中前局長の発言は沖縄県知事をはじめ、県民に大変申し訳ない。改めておわび申し上げたい」と陳謝。普天間移設については「大変厳しい環境になりつつあるが、引き続き信頼関係の構築に向け最大限努力したい」と述べた。中江公人事務次官については監督責任を問い、減給30分の1(1カ月)の懲戒処分とした。

 田中前局長は先月28日夜、那覇市内で報道関係者とのオフレコの懇談会に出席。普天間移設の前提となる環境影響評価書の提出時期を一川防衛相が明言しないことについて「犯す前に犯しますよと言いますか」などと、沖縄を侮辱するような発言をした。【朝日弘行】」

 退職させるべき。専門能力以前に人としての常識が疑われる。

 それともこのような品性の人間ばかりなのか。

防疫列車 (満鉄)

2011-11-23 15:22:48 | 戦争犯罪
防疫列車 (満鉄)


 以前にもこのブログにのせたもの。

 まだ調べていないが、731部隊と無関係だったとは考え難い・・・と思っています。

 ちなみにフィルムのナレーションは以下の通り(初めの部分省略)。

「・・・・ 防疫機関のない奥地において、常に移動的に急性伝染病の予防・防疫に任じつつあるこの豪華列車は、病原体の検索、患者の収容、汚染物質の消毒、検診ならびに治療を目的として、機関車、発電車、消毒車、解剖車、試験手術車、診療車、患者収容車、隔離車、炊事車、従事員宿泊車の10両に、濃緑色に白線一本を引いて瀟洒な列車を編成し、夏も冬も大陸の隅々まで、満州防疫陣の尖兵となって活躍しているのであります。」


 この列車がどこの管轄下で、実際どこで活動したのか、まずそこから検討しなければいけないだろう。

お知らせ―アジアの中に居場所を見つけるために

2011-11-11 21:24:15 | 戦争犯罪
 731部隊細菌戦・資料センター⇒http://www.anti731saikinsen.net/

 身近な中国で引き起こした問題の解決もできないようで、どうして世界全体の未来のマネジメントができるのでしょうか。

 信頼される国になるためには、身を正すのが第一歩です。

 上のセンターを一度訪ねてみてください。

強制連行問題

2011-10-12 15:46:25 | 戦争犯罪

「2011年10月12日10:53

日帝強制占領期 厚生年金加入名簿 初公開

強制動員5713人‘補償の道’
ユ・ソンヒ記者

作業場・報酬など詳細な記録

10人中9人は一銭も受け取れず

日本政府相手に脱退手続き

現在価値への換算など争い予告

△名前:パク・スンドク(1932年6月生・当時 満13才)

△創氏改名後の姓名:シンジョン チョンジャ(新井)

△勤務地:不二越鋼材工業(株)△標準報酬月額:3円(45ウォン)

△資格取得日:1945年3月1日△資格喪失日:1945年8月31日

△給付内訳:なし(脱退手当て支給内訳なし)

 日帝強制占領期に強制動員され厚生年金に加入した韓国人被害者たちの名簿が初めて公開された。これに伴い、強制動員被害者が日本企業や日本政府を相手に金銭的補償を要求できる道が開かれるものと見られる。

 国務総理室所属‘対日抗争期 強制動員被害調査および国外強制動員犠牲者等支援委員会’は11日、ソウル、鍾路区(チョンノグ)の同委員会会議室で記者会見を行い 「2004年から日本政府に要求してきた‘強制動員被害者厚生年金加入名簿写本’を去る8月、日本政府から譲り受けた」として、5713人の資料を公開した。

 厚生年金は1944年6月に日本政府が5人以上の作業場に勤めるすべての労働者を強制加入させた年金保険制度だ。

 今回公開された名簿には労務者たちの名前、性別、生年月日、事業主の名前、事業所名称はもちろん標準報酬月額などが記録されており、この間強制動員された場所さえ分からなかった被害者たちの実態と規模を把握するのに多いに役立つ展望だ。

 この名簿を分析した結果、強制動員作業場416ヶ所の名前が確認され、その内89ヶ所はこの間知られていなかった所であることが判明した。

 また、この名簿には10代前半の年齢で日本の作業場に動員された‘朝鮮女子勤労挺身隊’被害者15人の名前も入っている。

 今回確認された強制動員被害者5713人の内 673人(11.7%)は年金脱退と障害などを理由に手当てを受け取ったが、残りの5040人(88.3%)は一銭も受け取ることができなかったことが分かった。

 1965年に韓日協定が締結される前に脱退手当てを受け取ったことが確認された651人はこれを根拠に名目手当て額数に2000ウォンを掛けただけの‘支援金’を委員会から受け取ることができる。

 しかし手当ての支給が確認されなかった5040人は日本政府を相手に脱退手続きを踏み手当ての支給を受けなければならない。委員会関係者は「脱退手当て金は韓日協定の対象ではなかったため、日本はこれら5040人に脱退手当て金を支給する法的義務がある」と明らかにした。

 しかし脱退手当て金を現在の価値に換算し返還させることは容易ではないと思われる。2009年、日本社会保険庁は勤労挺身隊に連行され強制労働させられたヤン・クムドク(当時78)ハルモニなど7人に物価上昇率を反映させずに当時の貨幣価値である99円(約1300ウォン)を脱退手当て金として支給し非難を買った経緯がある。

 委員会関係者は「日本政府に‘強制動員補償特別法制定’を圧迫するなどの外交的努力が必要だと思う」として「政府次元で厚生年金集団脱退手続きなどを支援するか否かなどを議論する」と話した。

一方、委員会は外交部を通じ日本政府から4200件余りの追加名簿が存在するという事実を通報されており、残りの強制動員被害申告者12万人の名簿も日本政府に照会を要求する計画だ。

ユ・ソンヒ記者 duck@hani.co.kr

原文: http://www.hani.co.kr/arti/society/society_general/500324.html 訳J.S」