白夜の炎

原発の問題・世界の出来事・本・映画

中谷宇吉郎『科学と社会』より 「一 日本人の科学性」

2016-04-23 17:04:44 | 政治
 一と二を略して三から紹介します。

「三 ・・・一番目に立ったこと、かつ現在もそれが目に立つことは、日本のいわゆる上層部の人達、例えば大臣とか昔の大将とか言う人達に、科学性が全然なかったことである。それが今日の悲運の最大の原因である。もっともこういう風に言うと、それらの人達に科学的の知識があったら、今度の戦争に勝てたというように誤解されるかもしれない。しかしそういう意味ではない。それらのいわゆる指導者たちが、いくら科学に通暁していても、とても勝てる戦争ではなかったのである。ただその人たちに、少しでも科学性があったら、こういう馬鹿な戦争は、決して始めなかったであろうという意味である。・・・」

中谷宇吉郎『科学と社会』より 序

2016-04-22 12:40:48 | 政治
 中谷宇吉郎は「雪」の研究で著名な北海道大学の先生である。既になくなったが、彼が書いた「雪」を岩波新書で読んだ方は多いと思う。

 しかし彼が1949年に「科学と社会」という岩波新書をだしていたことは、今は殆どの人が記憶していないのではないだろうか。岩波でもとっくに絶版となり現在は中古市場でしか入手できない(先日調べたところ500円だった)。

 しかし敗戦と戦災による荒廃の中、自らと自らの仕事である科学に真摯に向き合って書かれたこの本はきわめて貴重な内容を持っている。

 以下では順に本の内容を載せていきたい。ただ全部ではなく一部省きつつ紹介する。これを読んで関心を持たれた方は、ぜひとも近くの図書館、あるいは古書でお読みいただきたい。

「序
 この書で私は、少し柄にないことであるが、敗戦日本の姿を描いてみようとした。・・・今までの日本の科学者は、あまりにも自分の仕事の社会的意義を考えなかった。学者はその研究が、社会の幸福に貢献してもしなくても、そんなことは考えてはいけない。ただ真理だけを追究すれば宵ということが、一部の人々の間では言われていた。そしてそれが純粋な偉い科学者ということになっていた。

 こういう表現は、言葉はある意味ではきれいであるが、ここで真理という文字が、全く無批判的に使われていることに、注意しなければならない。耕さずして食らい、織らずして着ている科学者は、やはり自分のためにそういう努力をしてくれる人々の幸福増進に、できるだけ貢献するように努力しなければならない。・・・・・

 終戦後、急に自分の仕事の社会的意義について考えるようになり、そういう目で周囲を見回してみると、いろいろなことが目に映った。そして現在の姿は、今少し科学的なものの考え方を導入するだけでも、かなりよくなるのではないかという気が多分にした。

 ・・以下略・・・

 昭和二十三年十月 札幌にて  中谷宇吉郎」

我々はモルモットだった」 1941年、潜水艦で渡独 88歳神谷さん体験語る

2016-04-21 14:25:48 | 放射能
「 1941年の太平洋戦争開戦直前、独裁者ヒトラー政権下のナチス・ドイツに潜水艦で渡った元逓信博物館長の神谷和郎さん(88)=東京都大田区=がこのほど、栄町のふれあいプラザさかえで講演し、13歳だった当時の体験を語った。参加した17歳までの少年約40人は本名も出身地も明かすことが禁じられ、飢えや渇きを乗り越えてドイツ製品を手に入れて帰国。神谷さんは、日本軍がその後「遣独潜水艦作戦」を本格化させるのを前に「我々はモルモット(実験台)に使われた」と振り返った。(成田支局 今井慎也)

 ◆目的知らされず

 神谷さんは愛知県の中学1年生だった41年5月ごろ、海洋少年団の一員として現在の蒲郡市に集められた。「水泳をやると言われたが本来の目的は知らされなかった」という。現地には13~17歳の少年が全国から集められたが、本名や出身校は言うのは禁止。神谷さんは同じ読み方の「紙屋」から「ペーパーショップ」と名付けられた。

 蒲郡からは木造船に乗り、水と食糧不足をしのいで約50日かけシンガポールへ到着。ここから12~13人乗りの「ロ号潜水艦」に分乗してドイツを目指した。昼間は潜行し夜は海上を進む毎日。「艦内は狭く廊下で寝かされた。暑さでのどが渇いて仕方なかったが、何とか生き延びた」と振り返る。

 アフリカ大陸南端の喜望峰沖などを経由してドイツにたどり着くと、少年たちにはドイツ製品収集の指令が下された。神谷さんはめがねとストップウオッチ、革靴を指示された通りに入手。帰りのバス内にはエンジンや無線機なども積み込まれていたという。

 出発から約7カ月後の同年12月ごろに名古屋港に帰国。「体はがりがりにやせ骨と皮ばかりだった」という。その後も仲間同士での連絡は禁じられた。

 ◆「派遣はほかにも」

 41年6月の独ソ開戦で、日本軍は同盟関係にあったドイツへの陸上交通が閉ざされたため、42年から潜水艦による物資輸送を行う遣独潜水艦作戦を実行。これ以前に潜水艦でドイツに渡った神谷さんは「われわれは訪日したヒトラーユーゲント(青少年教化組織)の答礼として派遣された。派遣はほかにも数回あった」と証言。「軍主導での本格作戦を前に、我々はモルモットとして使われた」と述懐した。」

http://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20160419-00010003-chibatopi-l12

【難民問題を考える】難民認定は未来を拓くパスポート~シリア人一家を訪ねて~

2016-04-20 18:01:15 | 国際
「金は出すが、人は受け入れない――増え続けるシリア難民の問題が最大の懸案事項の一つだった国連総会で、日本が表明したのはそういう方針だった。ヨーロッパが多数の難民を受け入れているほか、アメリカ(10万人)、オーストラリア(1万2000人)、さらにはベネズエラ(2万人)などの南米各国も受け入れを表明している中、日本は依然として門を閉ざし続けている。そんな日本にも、9月中旬までに60数名のシリア人がやってきて、難民申請をしている。そのうち難民と認定されたのは、一家族3人だけだ。
埼玉県内で生活する、そのシリア人家族を訪ねた。難民認定されたのは、ジャマールさん(23)と中学2年生の妹(13)、それに母親さんの3人。難民認定されたことで、シリアに残っていた父親を呼び寄せることができ、今は4人で2DKのマンションで暮らす。
自宅が破壊され、出国を決意

自宅でくつろぐジャマールさん。
自宅でくつろぐジャマールさん。
一家はシリアの首都ダマスカスに住み、ジャマールさんはダマスカス大学で英文学を学んでいた。母親は国営テレビで働き、パンやお菓子の職人の父親は、カタールに単身赴任して仕事をしていた。住まいは100平米ほどの広さがあり、ジャマールさんはアルバイトの必要もなく、勉強やサッカーに集中することができた。
かつてのジャマールさんには、サッカーのシリア代表チームに入りたい、大学院に進んで修士号もとりたい、などたくさんの夢があった。しかし、その夢は内戦によって砕かれた。アサド政権に対する批判が高まるにつれ、政府の弾圧が激しくなった。それでも止まない批判に対し、政権は軍隊を使って国民を迫害。軍は、あちこちに柵を設けて人々の行動を制約し、反政府側との武力衝突もしばしば。とても学校には通えない状況になった。人々が次々に逮捕され、様々な攻撃を受けた。母親も身の危険を感じるようになり、とうとう自宅のあるビルが、政府軍によって爆破され、一家は出国を決意。2013年2月に国を出た。
難民認定を待つ日々

まずは3人でエジプトに渡り、そこで7ヶ月滞在。まずは母親一人が甥が住んでいるスウェーデンに渡ろうとしたが、ビザが下りなかった。そこで、日本人女性と結婚していた叔父を頼ることにした。レバノンの日本大使館で観光ビザの発給を受けた3人は、有り金をはたいて航空券を買い、そのまま東京へ。2013年10月に日本の土を踏んだ。
叔父の家に半月ほど身を寄せた後、東京の入国管理局の事務所で難民申請を行い、さらに4ヶ月ほど叔父宅に滞在した。その後、わずか一間のアパートで、母子3人で生活した。
「入管の人はとても親切で、申請の手続きは簡単だったが、その後が長かった」とジャマールさん。
手続きに関しては、NPO法人難民支援協会から紹介された弁護士に頼み、1年半の間、結果をただひたすら待つしかなかった。
「日本に来て、最初の1年が人生の中で最悪の生活だった。最初の6ヶ月は仕事をすることを禁じられていたため、借金をして食いつなぎました」。
その後、レストランの仕事にありついて1年しゃにむに働いた。週6日、一日の労働時間は15時間に及ぶこともあった。母親も半年間ほど一緒に働いた。父親は、カタールでの仕事を失ってから、シリアに戻って生活していたが、とても職はない。ジャマールさんらは貧しい暮らしをさらにやりくりして、父親に仕送りをした。
難民認定されるとされないではこんなに違う

今年3月になって、昨年12月付で難民と認められたと伝えられた。なぜ、知らされるのに3ヶ月もかかったのかは分からない。
「日本がほとんど難民認定をしない、というのは、後から知りました。そんな中で、認定された我が家は本当にラッキーだった」と胸をなで下ろした。
認定後、一家を取り巻く状況は大きく改善した。それまでは半年ごとに入管で在留許可の延長をしてもらわなければならず、できる仕事も限られていた。難民認定されたことで、就業制限はなくなった。医療費が無料になり、日本語の学校に6ヶ月通うことができ、経済的援助も至急されるようになった。今の2DKの住まいも斡旋してもらえた。家族を呼び寄せることができるようになったため、5月に父親が来日。2年3ヶ月ぶりに、一家が顔を合わせることができた。
「日本には感謝しています。ただ、時間がかかりすぎたために、これまでに100万円もの借金を背負ってしまいました」
日本は、難民認定をしていないシリア人も、さすがに強制送還まではせず、人道的配慮として短期の在留は認めているが、そういう立場は、1年ごとの更新が必要など不安定で、日本語教育などの定住支援や経済的な援助がなく、家族の呼び寄せもできない。
ジャマールさんは、仕事先などで日本人の友だちが沢山できた、という。日本でサッカーチームにも入った。両親もコミュニティーセンターの日本語の講座にせっせと通い、少しずつ言葉を覚え、交友関係を広げている。両親ともに、もうひらがなやカタカナは読めるようになった。妹は、地元の中学校にすっかりなじみ、すでに日本語は自在。英語のスピーチ大会では優秀な成績を取り、埼玉県代表に選ばれた、という。
気候も日本とシリアは似ており、イスラム教徒のためのハラール食はネットで入手できるので、今のところ日常生活に困ることはほとんどない。妹と2人で1室を分け合う今の住まいは、いささか手狭に見えるが、「一間に3人で暮らしていた時のことを思えば、問題ありません」とジャマールさん。
断ちがたい祖国への思い

それでも、ふるさとへの思いは断ちがたい。一家は、毎日、シリアの情報をスマートフォンなどでチェックしている。政府軍による銃撃の様子やそれによって殺された人たちの遺体の写真が日々更新されている。
母は、それを見るたびに涙が止まらない。
「私たちはここで恵まれた生活ができるけれど、シリアに残された人たちが毎日死んでいます。それを思うと、毎日涙が出ます」
今なお父親の両親や親戚などはシリアに残っており、その生活も心配だ。両親が、メディアに名前を出せないのは、家族や親戚が迫害を受けるきっかけになりはしないか、という不安が拭えないからだ。
難民認定で将来を考えられるように

父親が作ったケーキ
父親が作ったケーキ
そんな重い気持ちを抱えながらも、一家は前向きだ。両親は、早く日本語が上手になって、仕事に就きたい、と考えている。父親は、細かく細工した砂糖菓子を作るのが得意なので、その技術を生かせる仕事があれば、なおありがたい、と言う。ジャマールさんは、奨学金をもらえることになったので、2017年から都内の大学に通う予定。ただし、それまでに日本語能力試験2級に合格しなければならないため、子どもに英語を教えるアルバイトをしながら、猛勉強中だ。
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安定した在留資格が得られ、家族が揃ったことで、ジャマールさんは日本の中での人生設計を考え、将来を思い描くことができるようになった。
「シリアの状況は、5年や10年は収まらないだろう。大学卒業したら、ビジネスを起業したい。父の技術を生かしたファミリービジネスができれば」とジャマールさん。
母国のアラビア語に加え、英語が堪能、さらに日本語に磨きをかければ、ほかにもいろんな可能性が開けるだろう。今は支援を受ける立場だが、将来、仕事をして税金を納めるようになれば、日本社会に貢献することもできる。祖国が内戦状態となって以来、今を生き延びるだけで精一杯だった彼が、難民認定によって、長く忘れていた「未来」を考えられるようになった。
そんな彼の話を聞いていると、すべての財産をなげうって、身の危険から逃れて異国にたどり着いた人たちにとって、難民認定は未来を切り拓くためのパスポートなのだと、つくづく思う。ジャマールさん一家のように、社会に溶け込み、その中で懸命に生きようとしている人たちに、日本はもっと未来を提供できるのではないだろうか。


江川紹子
ジャーナリスト
神奈川新聞記者を経てフリーランス。司法、政治、災害、教育、カルト、音楽など関心分野は様々です。」

http://bylines.news.yahoo.co.jp/egawashoko/20151021-00050693/