白夜の炎

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思想史講座で「江戸思想を読む」 子安宣邦(近世日本思想史 大阪大学名誉教授)/ベリタより

2016-03-18 15:04:24 | 歴史
「  4月からの思想史講座で「江戸思想を読む」を始めます。その理由を書きます。福沢諭吉は明治の変革に際し、「一身にして二生を経るが如し」といっています。これは明治維新の体験を文明論的転換の体験としていったものです。

  しかし明治維新を文明論的転換としていうとき、その転換は非文明的な前近代社会から文明的な近代社会への転換として理解され、自覚されることになります。福沢だけではない。多くの日本人における明治の変革の体験というものは、そうした文明論的な転換の体験であったように思います。だが昭和の日本人にも継承されてきたこの文明論的転換の自覚は、はたして日本の近代を文化的、精神的に豊かにしたでしょうか。

  維新を文明論的転換として見るとき前近代として否定的に見られる江戸時代は知的、文化的に一つの成熟に達した時代です。この江戸を否定的にしか継承しない近代日本は自らを貧しくさせていると思わざるをえません。精神的にいよいよ貧しい現代日本にあって、己れ自身を豊かにするものとして、「一身にして二生を経る」体験をもう一度、受け身ではなく積極的に追体験してみようではありませんか。これが私の思想史講座で「江戸思想」を読む理由です。


子安宣邦(近世日本思想史 大阪大学名誉教授)


■子安宣邦さん
  思想史家として近代日本の読み直しを進めながら、現代の諸問題についても積極的に発言している。東京、大阪、京都の市民講座で毎月、「論語」「仁斎・童子問」「歎異抄の近代」の講義をしている。近著『近代の超克とは何か』『和辻倫理学を読む』『日本人は中国をどう語ってきたか』(青土社)
(子安氏のツイッターから)

■子安宣邦のブログ -思想史の仕事場からのメッセージ-
http://blog.livedoor.jp/nobukuni_koyasu/



■「中国問題」と私のかかわり ~語り終えざる講演の全文~ 子安宣邦(大阪大学名誉教授 近世日本思想史)
http://www.nikkanberita.com/read.cgi?id=201512072209271

■<大正>を読む 子安宣邦 和辻と「偶像の再興」-津田批判としての和辻「日本古代文化」論
http://www.nikkanberita.com/read.cgi?id=201602111256064

■丸山眞男「超国家主義の論理と心理」を読む ~丸山の「超国家主義」論は何を見逃したか~ 子安宣邦(近世日本思想史 大阪大学名誉教授)
http://www.nikkanberita.com/read.cgi?id=201602112350414

■「日本思想史の成立」について-「台湾思想史」を考えるに当たって 子安宣邦(近世日本思想史 大阪大学名誉教授)
http://www.nikkanberita.com/read.cgi?id=201602262033155

http://www.nikkanberita.com/read.cgi?id=201603171506134

イェール大学図書館「南京事件」を撮影したとされる映像を含むフィルムの寄贈を受け公開/国会図書館

2016-01-31 14:15:03 | 歴史
「イェール大学図書館、「南京事件」を撮影したとされる映像を含むフィルムの寄贈を受け、一部はデジタル化して公開
Posted 2016年1月27日
2016年1月22日付けのYale Newsが、イェール大学神学大学院図書館が、最近、マギー(John G. Magee)氏の孫から寄贈を受けた、「南京事件」の映像を含むフィルムのリール13点について紹介しています。

同フィルムは、イェール大学の卒業生でもあるマギー氏が、1920年代から1930年代の中国で、宣教師として活動していた間に、16ミリフィルムのカメラで撮影したものであり、13リールの内2リールが、「南京事件」に関するもので、残りの11リールは1920年代から1930年代の南京や他の地域での街頭の様子や礼拝などの日常生活を撮影したもので、1931年9月の揚子江(長江)の洪水や、1927年11月1日に英国国教会で行われた2番目の中国人司教の聖別式の映像などが含まれているとのことです。

寄贈されたフィルムは、第二次世界大戦中の南京や上海での出来事のドキュメンタリーを制作しているショア財団(The USC Shoah Foundation)によってデジタル化され、そのうち日本が侵攻した際に撮影された2リールの抜粋が、同図書館の“The Nanking Massacre Project”のウェブサイトで公開されているとのことです。

Donated film reels contain footage from the Nanking Massacre(Yale News)
http://news.yale.edu/2016/01/22/donated-film-reels-contain-footage-nanking-massacre#.VqdXa2YYzNg.twitter

The Nanking Massacre Project(イェール大学神学大学院図書館)
http://divinity-adhoc.library.yale.edu/Nanking/index.html

The Nanking Massacre Project>photos&Film
http://divinity-adhoc.library.yale.edu/Nanking/Photographs.html
※Magee_Reel_1_clip.mp4、Magee_Reel_9_clip.mp4がデジタル化された映像です。」

http://current.ndl.go.jp/node/30555

110年前の行商組織に両班・日本商人まで加入/朝鮮日報より

2016-01-24 15:22:42 | 歴史
「 20世紀初め、「チャンドルベンイ」と呼ばれる褓負商(ほふしょう、行商人)の組織に、中国・日本の商人も加入していたことが確認された。韓国学中央研究院(韓中研)のチョ・ヨンジュン、シム・ジェウ、チョン・ギョンモク教授と韓神大学のヤン・ソンア研究員が共同で出版した『チャンドルベンイの組織と記録』(韓中研出版部)で明らかにされた研究結果だ。研究チームは、忠清南道礼山・唐津一帯の褓負商組織「礼徳商務社」の組織員リストと規定をハングルに翻訳し、解説を加えた。礼徳商務社は、1851年から6・25戦争(朝鮮戦争)直後の1954年にかけて、およそ110件の資料を残した。

 今回出版された『チャンドルベンイの組織と記録』で注目されるのは、1906年から07年の組織員リストだ。このリストには、中国商人の華商・王文魁と日本人商人の上野為吉が、礼徳商務社の幹部に当たる「副接長」として登場する。外国商人と韓国商人については対立関係ばかりで見がちだが、協力・協調も同時進行していたというわけだ。チョ・ヨンジュン教授は「外国商人まで参加することで、組織の性格も、当初の『行商人の同業組合』から『地域の商人連合』あるいは『地域共同体』へと拡大・変化したと見ることができる」と語った。

 1860年代以降は両班(ヤンバン=朝鮮王朝時代の貴族階級)や僧侶も褓負商の組織に参加した、という事実も興味深い。平安道竜川郡守を務めた鄭俊鎔(チョン・ジュンヨン)は、1905年から06年にかけて、礼徳商務社のリーダーに当たる「領位」を務めていた。五衛将を務めた元官僚も参加していた。1889-90年のリストには、忠清南道唐津にある霊塔寺の僧侶の名前も載っている。1898年にソウルで褓負商を中心に「皇国協会」が結成されたことから考えると、当時の中央・地方権力が、商人を動員するため積極的に抱き込みに乗り出した、という解釈も可能だ。チョ教授は「純粋な商人組織というよりも、商業を名目としつつ、同時に政治を含むさまざまな目的で組織を運営した可能性がある」と語った。

 礼徳商務社は、6・25戦争直後の1954年の時点でも、およそ50人の組織員を確保するほどしっかりした組織を維持していた。褓負商組織が、植民地時代や光復(日本の植民地支配からの解放)、戦争を経ながらも命脈を保つことができたのは、相互扶助や自律など、厳格な規律を強調していたからだ。1850-60年代の組織規律には「市場で押し売りした者、むち打ち30発」「同僚に手荒なことをした者、むち打ち30発」「弔問をしない者、むち打ち15発、罰金5銭」などといった内容が盛り込まれている。また1883年の規律には、多数決による接長選出という「民主的選挙手続き」も含まれている。

 チョ教授は「褓負商が1970-80年代まで五日市などで命脈を保つことができた原動力を、組織規律からも読み取ることができる」と語った。

キム・ソンヒョン記者

朝鮮日報/朝鮮日報日本語版」

http://www.chosunonline.com/site/data/html_dir/2016/01/23/2016012300449.html

出征慶応ボーイ 戦争日常の隣に 三田で遺品展/東京新聞

2014-10-07 14:28:45 | 歴史
「 太平洋戦争に赴いた慶応大生の学生生活や出征前の心境に迫る企画展「慶應(けいおう)義塾と戦争 残されたモノ、ことば、人々」が七日、同大三田キャンパス(東京都港区)で始まった。自由への憧れや恋心を吐露した遺品の数々は、収集に取り組んだ学生らが「しゃれた慶応ボーイだった」と親近感を抱く先輩たちの日常と、後に続く過酷な戦争との垣根の低さを浮き彫りにしている。 (辻渕智之)

 資料は慶大福沢研究センターの都倉武之准教授(34)や学生ら十人がOBらに昨夏から募り、提供された千点余のうち約百点を展示。学徒出陣した本人や遺族らが亡くなり処分される寸前だった資料も少なくない。

 「私は明確に云(い)へば自由主義に憧れてゐ(い)ました。(中略)現在、日本が全体主義的な気分に包まれてゐるからです」。陸軍の特攻隊員として戦死した経済学部出身の上原良司は自由への渇望を遺書に記した。

 愛読書のページごとに数個の文字を○で囲んでもいた。つなぎ読むと「きょうこちゃん さようなら きみがすきだった」。幼なじみに打ち明けられなかった思いだった。当時、慶大創始者の福沢諭吉は自由主義者とみられ、その学風は矢面にも立った。戦死した経済学部出身の学徒、原亮は中隊長が訓話で「福沢諭吉ノ害ニツイテ触レル」と日記に書き残した。

 展示では、遺族らが寄せた個別の資料を組み合わせ、例えば法学部政治学科F組だった「親友三人の学生生活」を描き出した。うち一人の手紙は、三人で作詞作曲してよく歌った歌も登場する。「♪肩をならべて行く道の 通りすがりにつんだ花 君によく似た花ゆえに 胸にさして我れ行かん」

 青春を謳歌(おうか)していた三人は海軍入りを志望。一人だけ不採用だった学生は「親友(トモ)の顔、望み叶(かな)ひて輝ける 取り残されし我身(わがみ)をかこつ」とぼやいている。三人のうち、陸軍に入隊したこの学生を含む二人が戦死している。

 展示に取り組んだ法学部修士課程の小山太輝さん(23)は「当時の慶応ボーイは写真一枚見ても立ち居振る舞いからクール。そうした面白い発見がある半面、先輩たちが当たり前に過ごした日常の中に戦争があり、軍隊があったと分かった」と話した。慶大で学徒出陣など戦死者は二千二百人以上が確認されている。

 企画展は三十一日まで。図書館展示室(日祝閉館)とアートスペース(土日祝閉館)で入館無料。問い合わせは、福沢研究センター=電03(5427)1604=へ。
(東京新聞)」

http://www.tokyo-np.co.jp/s/article/2014100790135852.html

中曽根元首相が「土人女を集め慰安所開設」! 防衛省に戦時記録が

2014-10-06 20:05:43 | 歴史
「中曽根元首相が「土人女を集め慰安所開設」! 防衛省に戦時記録が

Business Journal 2014.08.29

 朝日新聞の慰安婦訂正記事で右派陣営が勢いづいている。「朝日は責任をとれ!」と気勢をあげているのはもちろん、自民党の政務調査会議は河野談話も朝日報道が前提だとして「河野談話を撤回し、新たな官房長官談話を!」とぶちあげた。また、同党の議連では朝日新聞関係者、さらに当時の河野洋平元官房長を国会に招致して聴取すべき、という意見までとび出している。
 
 だが、朝日や河野洋平氏を聴取するなら、もっと先に国会に呼ぶべき人物がいる。それは第71代日本国内閣総理大臣の中曽根康弘だ。
 
 大勲位まで受章した元首相をなぜ従軍慰安婦問題で審訊しなければならないのか。それは先の大戦で海軍主計士官(将校)の地位にあった中曽根元首相が、自ら慰安所の設置に積極的に関わり、慰安婦の調達までしていたからだ。

 何かというと左翼のでっちあげとわめきたてて自分たちを正当化しようとする保守派やネトウヨのみなさんには申し訳ないが、これは捏造でも推測でもない。中曽根元首相は自分の“手記”の中で自らこの事実を書いており、しかも、防衛省にそれを裏付ける戦時資料が存在していたのだ。そこには、部隊の隊員によるこんな文言が書かれていた。

「主計長の取計で土人女を集め慰安所を開設」

 まず、“手記”の話からいこう。中曽根が慰安所設立の事実を書いたのは『終りなき海軍』(松浦敬紀・編/文化放送開発センター/1978)。同書は戦中海軍に所属し、戦後各界で活躍した成功者たちが思い出話を語った本だが、その中で、海軍主計士官だった中曽根も文章を寄稿していた。

 タイトルは「二十三歳で三千人の総指揮官」。当時、インドネシアの設営部隊の主計長だった中曽根が、荒ぶる部下たちを引き連れながら、いかに人心掌握し戦場を乗り切ったかという自慢話だが、その中にこんな一文があったのだ。

「三千人からの大部隊だ。やがて、原住民の女を襲うものやバクチにふけるものも出てきた。そんなかれらのために、私は苦心して、慰安所をつくってやったこともある。かれらは、ちょうど、たらいのなかにひしめくイモであった。卑屈なところもあるし、ずるい面もあった。そして、私自身、そのイモの一つとして、ゴシゴシともまれてきたのである」

 おそらく当時、中曽根は後に慰安婦が問題になるなんてまったく想像していなかったのだろう。その重大性に気づかず、自慢話として得々と「原住民の女を襲う」部下のために「苦心して、慰安所をつくってやった」と書いていたのだ。

 ところが、それから30年たって、この記述が問題になる。2007年3月23日、中曽根が日本外国特派員協会で会見をした際、アメリカの新聞社の特派員からこの記載を追及されたのだ。

 このとき、中曽根元首相は「旧海軍時代に慰安所をつくった記憶はない」「事実と違う。海軍の工員の休憩と娯楽の施設をつくってほしいということだったので作ってやった」「具体的なことは知らない」と完全否定している。

 だが、これは明らかに嘘、ごまかしである。そもそもたんなる休憩や娯楽のための施設なら、「苦心」する必要があるとは思えないし、中曽根元首相の弁明通りなら、『終りなき海軍』の“手記”のほうがデタラメということになってしまう。だが、同書の編者である松浦敬紀はその10年ほど前、「フライデー」の取材に「中曽根さん本人が原稿を2本かいてきて、どちらかを採用してくれと送ってきた」「本にする段階で本人もゲラのチェックをしている」と明言しているのだ。

 いや、そんなことよりなにより、中曽根元首相の慰安所開設には、冒頭に書いたように、客観的な証拠が存在する。 

 国家機関である防衛省のシンクタンク・防衛研究所の戦史研究センター。戦史資料の編纂・管理や、調査研究を行っている研究機関だが、そこにその証拠資料があった。

 資料名は「海軍航空基地第2設営班資料」(以下、「2設営班資料」)。第2設営班とは、中曽根が当時、主計長を務めていた海軍設営班矢部班のことで、飛行場設営を目的にダバオ(フィリピン)、タラカン(インドネシア)を経てバリクパパン(インドネシア)に転戦した部隊だが、この資料は同部隊の工営長だった宮地米三氏がそれを記録し、寄贈。同センターが歴史的価値のある資料として保存していたものだ。
 
 本サイトは今回、同センターでその「第2設営班資料」を閲覧し、コピーを入手した。

 宮地氏の自筆で書かれたと思われるその資料にはまず、「第二設営班 矢部部隊」という表題の後、「一 編制」という項目があり、幹部の名前が列挙されていた。すると、そこには「主計長 海軍主計中尉 中曽根康弘」という記載。そして、資料を読み進めていくと、「5、設営後の状況」という項目にこんな記録が載っていたのだ。

「バリクパパンでは◯(判読不可)場の整備一応完了して、攻撃機による蘭印作戦が始まると工員連中ゆるみが出た風で又日本出港の際約二ヶ月の旨申し渡しありし為皈(ママ)心矢の如く気荒くなり日本人同志けんか等起る様になる
主計長の取計で土人女を集め慰安所を開設気持の緩和に非常に効果ありたり」

 さらに「第2設営班資料」のなかには、慰安所設置を指し示す証拠となる、宮地氏の残したものと思われる手書きの地図も存在していた。

 それはバリクパパン「上陸時」の様子(昭和17年1月24日)と、設営「完了時」の様子(17年1月24日~同年3月24日)を表す2点の地図資料だ。バリクパパン市街から約20km地点のこの地図から、中曽根たちが設営したと思われるマンガル飛行場滑走路のそばを流れるマンガル河を中心に民家が点在し、またマンガル河から離れた場所に民家が一軒だけポツリと孤立していることがわかる。

 そして2つの地図を見比べてみると、“ある変化”があることに気づく。「上陸時」から「完了時」の地図の変化のひとつとして、その孤立した民家の周辺に、設営班が便所をおいたことが記されている。さらにその場所には「上陸時」にはなかった「設営班慰安所」との記載が書き加えられている。

 つまり、上陸時に民家だった場所を日本軍が接収し、「設営班慰安所」に変えてしまったと思われるのだ。 

 もはや言い逃れのしようはないだろう。「主計長 海軍主計中尉 中曽根康弘」「主計長の取計で土人女を集め慰安所を開設」という記載。それを裏付ける地図。中曽根元首相は自分で手記に書いたこととぴったり符号するではないか。

 しかも、「土人女を集め」という表現を読む限り、中曽根主計長が命じて、現地で女性を調達したとしか考えられないのである。

 実際、インドネシアでは多くの女性が慰安婦として働かされており、彼女たちは日本軍に命じられた村の役人の方針で、どんなことをさせられるのかもしらないまま日本兵の引率のもと連れ去られたことを証言している。そして、年端も行かない女性達がいきなり慰安所で複数の日本兵に犯されたという悲惨な体験が語られ、その中には女性このパリクパパンの慰安所に連れてこられたという女性もいる。
 
 つまり、中曽根首相がこうした“強制連行”に関与していた可能性も十分あるのだ。

 朝日新聞の訂正で勢いづいた保守・右派勢力は銃剣を突きつけて連行したという吉田証言が虚偽だったという一事をもって、強制連行そのものを否定しようとしている。さらには従軍慰安婦への軍の関与そのものを否定するかのような虚偽を平気でふりまいている。

 しかし、もし、強制連行はない、軍の関与もないといいはるならここはやはり、「土人女を集め」たという元主計長・中曽根康弘を国会に喚問して、どう「集め」たのか、「苦心」とはなんだったのか証言させるべきではないのか。一メディアの誤報をあげつらうより、そのほうがはるかに「歴史の検証」になると思うのだが、いかがだろう。
(エンジョウトオル)」


産経新聞社長と中曽根元首相が慰安所づくり自慢「女の耐久度、どこの女がいい悪い、3千人のための慰安所」

2014-09-22 15:55:09 | 歴史
「そこで、直接には「産経新聞」の報道ではありませんが、産経新聞社社長・フジテレビ社長・フジサンケイグループ会議議長・フジサンケイグループ最高顧問を歴任し、フジサンケイグループを築いた人物による「サンケイ出版」による発表ですから、十分に「歴史から目をそらすまい」とした「産経新聞」社社長が「史実に基づき」発表したものと考えていいと思いますので、以下紹介します。
鹿内信隆・櫻田武著『いま明かす戦後秘史 上巻』(サンケイ出版)40~41ページ
鹿内信隆・櫻田武著『いま明かす戦後秘史 上巻』(サンケイ出版)40~41ページ
上の画像は、鹿内信隆氏と櫻田武氏の著書となる対談本『いま明かす戦後秘史 上巻』(サンケイ出版、1983年11月30日発行)の40~41ページです。この本にある「対談者略歴」によると、出版当時の肩書きは、鹿内信隆(しかないのぶたか)氏が、サンケイ新聞社社長・フジサンケイグループ会議議長・ニッポン放送取締役相談役・フジテレビ取締役相談役・「彫刻の森美術館」館長で、櫻田武氏は日経連名誉会長・政府の財政制度審議会会長・国鉄諮問委員会委員長とあります。

上の画像にあるように、「慰安所の開設」について、陸軍経理学校で学んでいたと鹿内氏は語っています。テキストに書き起こすと以下です。

鹿内 (前略)軍隊でなけりゃありえないことだろうけど、戦地に行きますとピー屋が……。
桜田 そう、慰安所の開設。
鹿内 そうなんです。そのときに調弁する女の耐久度とか消耗度、それにどこの女がいいとか悪いとか、それからムシロをくぐってから出て来るまでの“持ち時間”が将校は何分、下士官は何分、兵は何分……といったことまで決めなければならない(笑)。料金にも等級をつける。こんなことを規定しているのが「ピー屋設置要綱」というんで、これも経理学校で教わった。この間も、経理学校の仲間が集まって、こんな思い出話をやったことがあるんです。

【鹿内信隆・櫻田武著『いま明かす戦後秘史 上巻』(サンケイ出版、1983年11月30日発行)40~41ページより】

陸軍経理学校において、「慰安所の開設」のノウハウを事細かく教え込まれていたことを、「産経新聞社社長」が証言しているのです。この産経新聞社社長の証言とは真逆のことをつい先日も「産経新聞」は、「正論 実体のない「従軍」冠した罪重い」という記事の中で次のように報道しています。
「従軍」は「従軍看護婦」などのように軍と公的な関係を持つ人々に関わる冠辞である。そのような実体を有しない人々を指す「従軍慰安婦」なる呼称は、戦後のある時期から使われ始めた通俗的な用語であるから、公文書で用いたり学術用語として使用したりすることなど極力避けるべきである。「従軍」と冠せられたがゆえに「強制連行」という動詞に容易につながる結果を招来したとも考えられるから、河野談話そのものの撤回を強く求めるゆえんである。

出典:産経新聞8/20付正論  実体のない「従軍」冠した罪重い 国学院大学名誉教授・大原康男
ようするに上の報道は、「慰安婦は日本軍とは公的な関係はないのに従軍慰安婦などという用語を使うから問題がいろいろ起こるのだ」と言いたいわけですね。これは、産経新聞社社長だった鹿内氏の証言とはまったく真逆です。鹿内氏は、「慰安所の開設」について、現地で調達し「慰安婦」にする女性の「耐久度」や「消耗度」からはじまって、「どこの女がいいとか悪い」とか、そして、等級による“持ち時間”や料金の規定にいたるまで事細かく陸軍経理学校の授業で勉強していたと証言しているのですから、「慰安婦は日本軍とは公的な関係はない」などと言えるわけがないのです。この真逆の証言に対して、「産経新聞」は、現在の編集長が言っているように、どちらが「捏造」「ウソ」「虚偽報道」なのか、「正確な史実を内外の人々に知ってもら」うために、「事実が判明すれば、その都度、記事化して正し、必要があれば訂正を行うのが当然の報道姿勢」ですから、自らの言葉に責任を持って現在の「産経新聞」の乾正人編集長は、「記事化して正」すべきでしょう。そうでなければ、朝日新聞を批判する資格が「産経新聞」にはそもそもないということになると思います。
松浦敬紀著『終りなき海軍』(文化放送開発センター出版部)の90ページと98ページ
松浦敬紀著『終りなき海軍』(文化放送開発センター出版部)の90ページと98ページ
それから、上の画像は、松浦敬紀著『終りなき海軍』(文化放送開発センター出版部、1978年6月15日発行)の90ページと98ページの画像です。ここでは、中曽根康弘元首相が戦時中に23歳で3千人の総指揮官だったことを自慢した上で、その3千人の大部隊のために、「私は苦心して、慰安所をつくってやった」と証言しているのです。3千人の総指揮官だった中曽根元首相が「慰安所をつくってやった」と証言しているのに、「慰安婦は日本軍とは公的な関係はない」などと2014年の8月20日に報道している「産経新聞」こそ、「歴史から目をそらし」「史実に基づかない報道」をしている新聞なのではないでしょうか。こうした「産経新聞」の報道で「事実を歪(ゆが)めては国際的な信用は得られない」でしょう。」

http://bylines.news.yahoo.co.jp/inoueshin/20140909-00038966/

日清戦争とは?

2013-09-15 17:30:37 | 歴史
 2013年8月2日(金)に行われた、日本近代政治史が専門の歴史学者、北海道大学名誉教授の井上勝生(かつお)氏への、岩上安身によるインタビュー。

「 井上氏は、髑髏(どくろ)の話から語り始める。1995年7月、北海道大学の古河講堂において6体の頭骨が発見され、そのうちの1体の中から「書き付け」が見つかる。その文面は、要約すると、「明治27年、韓国で東学党が蜂起した。全羅南道の珍島(チンド)は、最も悪党がはびこったが鎮圧した。蜂起した首唱者(活動家)、数百名を殺し、遺体が道路に横たわり、首魁者(リーダー)は晒し首にした。この頭骨は、そのうちの一つ。珍島の視察に際し、採集したもの」という内容。北海道大学の前身である札幌農学校の出身で、韓国統監府に赴任している男性技師が、朝鮮半島南西部の小島である珍島で、「東学農民」の遺骨を研究目的に「採集」し、日本に持ち帰ったものとみられることが判明する。

 北海道大学では、朝鮮総連や韓国の研究者らが構成した交渉団との間で、頭骨の返還交渉を進める。井上氏は、頭骨が学内で見つかった経緯を調べるための調査委員会のメンバーとして、交渉団の研究者らと情報交換や調査を進めていく。その過程で、これまで当然のように日本の教科書に記述され、学生が歴史の授業で習う「日清戦争」や「東学党の乱」について、日本にとって都合の悪い事実を隠すための「歴史の捏造」があるのではないかと、井上氏は次第に疑問を抱くようになる。

 1894年春に起きた東学農民による蜂起のあと、同年秋から翌年にかけて、朝鮮半島全土で起きた大規模な抗日運動を弾圧するために、広島大本営が「東学党討滅隊」を朝鮮半島に派遣する。そして、無差別・無慈悲な殺戮作戦を討滅隊が遂行したという事実が、当時の軍人が克明に記録していた陣中日記によって明らかになる。だが、この殺戮作戦は、陸軍参謀本部が編纂(へんさん)した、日清戦争の史実を記録する「日清戦史」には全く記載されていない。しかも、陣中日記からは、当時の陸軍兵站総監・川上操六が仁川(インチョン)の司令部に送った、「東学党に対する処置は厳烈なるを要す。向後(こうご)悉く(ことごとく)殺戮すべし」という戦慄の電報も明らかになる。

 井上氏は、日清戦争が日本側の謀略によって引き起こされたものであることや、日本軍兵士の戦死が隠蔽された疑惑、さらに「東学党」と呼称すること自体への疑問など、様々な疑惑や疑問について、調査結果や関係者の証言などを織り交ぜながら、詳しく解説する。【IWJテキストスタッフ・久保元】」

http://iwj.co.jp/wj/open/archives/94362

「歴史記述について」/内田樹氏

2013-06-03 14:32:38 | 歴史
 内田氏がこの間問題にし続けている、国民国家とグローバル化する企業、という問題が的確に論じられている。


「歴史記述について

歴史認識問題というものが存在する。
平たく言えば、歴史の認識が「国ごと」に違っているということである。
最近では日中・日韓・日米の「歴史認識」の違いが外交関係をぎくしゃくさせている。
あらゆる国民国家は自国の起源を有史以前の遠い過去に遡らせようとし、未来永劫に存在し続けるものとして表象する。
平成25年は皇紀2673年であるから建国は紀元前660年。隣国の壇君朝鮮はもっと早くて紀元前2333年の建国という話になっている。

同じく、どの国も永遠に存続するという前提を採用している。
中央銀行が発行する紙幣の価値を担保するのは「未来永劫に続く国家」だけだからである。
どこの国も、自分の国の歴史的ふるまいの正しさを過大評価し、誤謬や非行は過小評価するか、そもそも「なかったこと」にする。
たぶん人々はそれぞれの国が勝手な歴史を書くことを当然の権利だと思っているのだろう。
けれども、国民国家ごとに歴史認識が異なるというのは、一定の歴史的条件が整ったために生まれた一過性の現象であり、それゆえそれ自体が歴史学の研究対象であるべきだと私は思っている。

近代国民国家が制度的に認知されたのは1648年、ウェストファリア条約においてである。
このときから国土を持ち、国民がおり、常備軍と官僚層を備え、固有の言語、宗教、生活習慣、食文化などをもつ国民国家というものが基本的な政治単位に登録された。

誕生の日付が存在する制度であるから、いずれ賞味期限が切れる。
そして今、私たちは国民国家という政治制度そのものの「終わりの始まり」に立ち合っている。「世界のフラット化」を志向するグローバル資本主義がその障害となる国民国家を空洞化する方向に踏み出したからである。
国民国家がその存立条件としているすべてのもの-国境線・固有の言語・固有の貨幣・固有の度量衡・固有の商習慣など-は資本・商品・人間・情報のボーダーレスな移動を求めるグローバル資本主義にとって単なる「障壁」以外のものではない。
多国籍産業やヘッジファンドは国境を開放し、ビジネスランゲージも決済通貨も度量衡も統一することを求めている。企業が短期的に巨大な収益を上げ、CEOや株主たちが個人資産を最大化する上で端的に「国民国家は邪魔になった」ということである。
私たちの国でも、このグローバル化に即応した「歴史の書き換え」が進行している。
「慰安婦問題」や「南京事件」について日本を免罪しようとする「自虐史観論者」たちの語る歴史がそれである。
彼らが「慰安婦制度に軍部は関与していない」とか「南京事件などというものは存在しなかった」ということをかまびすしく言い立てるのは、その主張が国際的に認知される見通しがあるからではない。
全く逆である。
日本以外のどこでも「そんな話」は誰も相手にしないということを証明するために語り続けているのである。
彼らが言いたいのは、「自分たちが語る歴史だけが真実だ」ということではなく、それよりもさらに次数が一つ上の命題、すなわち「あらゆる国の歴史家たちは『自分たちが語る歴史だけが真実だ』と主張する権利がある」ということである。
彼らは自分たちが語っている自国史のコンテンツについての同意を求めているのではなく、「誰もが自己都合に合わせて、好きなように自国史を書く権利をもつ」ことにについての同意を求めているのである。
あらゆる国家は歴史を自己都合に合わせて捏造する。
だから、およそこの世に、国際社会に共有できるような歴史認識などというものは存在し得ない。
「国民の歴史」は原理的にすべて嘘である。

だから、誰もが歴史については嘘を語る権利がある。
これが自虐史観論者たちが(たぶんそれと知らずに)主張していることである。
誰もが嘘をついている。だから私も嘘をつく権利がある。そして、公正にも万人に「嘘をつく権利」を認める。
彼らはそう考えているのである。

この論法は「慰安婦制度」について、どの国にも似たような制度があると言い募った大阪市長のそれと同じである。
誰もが自己利益のために行動している。私はそれを咎めない。だから、諸君も私を咎めるな。
この命題は一見すると「フェア」なものに見えるが、遂行的には「持続的・汎通的な正否の判定基準はこの世に存在しない」という道徳的シニスムに帰着する。

それは要するに「とりあえず今勝っているもの、今強者であるものが言うことがルールであり、私たちはそれに従うしかない」という事大主義である。

同じことが歴史記述においても起きようとしている。
誰もが嘘をついている。私もついているが、お前たちもついている。だから、誰もその嘘を咎める権利はない。
このシニスムが深く浸透すれば、いずれあらゆる「国民の歴史」を、自国の歴史でさえ、誰も信じない日がやってくる。
彼らがめざしているのは、そのことなのである。
「国民の歴史」とはどこの国のものも嘘で塗り固められたデマゴギーにすぎないという判断が常識になるとき、人はもう誰も歴史を学ぶことも、歴史から学ぶこともしなくなる。
そのとき国民国家は終わる。

国民国家は「国民の歴史=国民の物語」を滋養にしてしか生きられない制度だからである。
そして、それが滋養として有効であるためには、どのようなかたちであれ、「他者からの承認」が要る。
他者からの承認を持たない物語、「その『歴史=物語』を信じるものが自国民以外にひとりもいないような『歴史=物語』」を服用しているだけでは、国は生き延びることはできない。
だが、今起きているのは、まさにそういうことである。

ウェストファリアシステムが有効だった時代に、人々はそれぞれ自己都合に合わせて「勝手な歴史」を書きながらも、複数の矛盾する記述がいつか包括的な歴史記述のうちに統合されて、各国の自国史がその中の「限定的に妥当するローカルな真実」になることを夢見ていた。

だが、グローバル化の時代には、もう誰も「包括的な歴史記述」を夢見ることはない。
もうそんなものは必要がないからだ。
もう国民国家を存続させる必要がないからだ。」

http://blog.tatsuru.com/2013/06/03_1138.php

スポーツ界セクハラも暴力の戦争の後遺症

2013-05-24 16:13:59 | 歴史
 以前大阪の私立スポーツ系高校の教師による暴力事件の原因について、旧軍隊の暴力体質が戦後日本のスポーツ界に持ち込まれたことが原因だと書いた。根拠は慶応大学野球部OBの座談会である。

 別に慶応に限ったことではない。600万を超える男たちが戦場に向かい、軍にいたのだ。そこでは陸軍なら内務班で凄惨なリンチを受けるのが「普通」だった。

 今ではその実体験を耳にすることは難しいかもしれないが、私が子供のころは、30-40代の軍隊経験者がいくらでも周りにいたので、しょっちゅう耳にした。

 彼らは国に戻った後そのやり方をあらゆる場所に持ち込んだ。学校もその一つだったということだ。

 セクハラも同じだ。橋下の慰安婦に関する発言自体が、如何にこの国が戦時の性的暴行に深く染まっているかを具体的に証明している。

 軍が強制-そこには甘言やだましも当然含まれる-によって朝鮮、中国、インドネシア、オランダなどの女性を慰安婦という名前の性的奴隷にし、兵士の性欲のはけ口という、道具として「使った」のである。人を『道具』として「使う」。これは奴隷である。

 そのようなことさえ分からないのは、本人たちがその犠牲者を利用して利益をこうむった連中の後継者だからである。

 そしてそのような連中が戦後世界に、破綻した性道徳観念のまま復帰し、女性を下に見る意識のもと、先輩-後輩、あるいは指導者と指導されるものという上下関係のもと、好き放題してきたことは想像に難くない。

 戦争の時代の社会・政治のあり方を徹底して批判し、乗り越える努力をしてこなかったことが、このような事態を招いたのである。

 職場のパワハラ・セクハラも同じ。

 今や日本の職場の劣悪さはネットを通じて世界に知れ渡り、優秀な人材は集まらなくなっているという。

 (「いま日本で働くということ」→http://www.huffingtonpost.jp/2013/05/21/story_n_3311122.html)

 戦前の思想にとらわれている連中の再教育が必要だが、それをなすべき政治・経済・社会のリーダー層自身がその思想の後継者だ。

 もう一回東京裁判が必要かもしれない。

藤井治夫氏逝去

2013-04-10 17:48:48 | 歴史
「訃報

 9条連共同代表のお一人である藤井治夫さんが、3月1日の朝、脳出血で突然倒れ、3月2日午前0時30分逝去されました。享年84歳でした。

 藤井さんは1960年代に軍事問題の研究をはじめ、多くの著作を発表しました。

 『密約――日米安保大改悪の陰謀』(2000年創史社)、『トップシークレット 日米共同作戦の徹底研究』(1992年光人社)、『戦争がやってくる』(1991年筑摩書房)、『国家秘密法体制』(1989年日本評論社)などがあります。

 『密約』のエピローグで藤井治夫さんは、イギリスの歴史家トインビー博士の講演を引用して、「原子力時代のデモクラシー」について鋭い指摘をしています。

「原子力時代に生きている私たちは、毎日、洪水のような情報に埋もれ、……核時代あっては、暗やみをもってではなく、眼がくらむほどに明るい光線をもって真実がかくされる。代議士たちはどんな質問を本当にすべきかを知ることが、ほとんど不可能になった。なんでも分かっているようで、じつは強烈なライトで眼がくらみ、いちばん大切なことが見えなくなっていないのか」 と。

 軍事問題評論家として、多忙な毎日の中で、私たちに多くの示唆を与えて下さった藤井治夫さん。いつも暖かい眼差しで、9条連結成当時から一緒に歩んで下さった藤井治夫さん。毎月の事務局会議に熱心に足を運んで下さった藤井さんの社会変革への情熱に、あらためて敬意を表します。そして深く感謝します。
 安らかにお眠りください。

    (『世界へ未来へ 9条連ニュース』 No.207 2012年3月20日号より)」

http://www.jca.apc.org/beheiren/621FujiiHaruosannSeikyo.htm

ナチの記憶-風化させない

2013-04-02 17:55:50 | 歴史
「【世界の街から】

ベルリン 終わりなき検証託す               2013年3月27日


 「ナチスが私をユダヤ人にしたのです」。ホロコーストを生き延びたユダヤ人の女性作家インゲ・ドイチュクロンさん(90)は、ベルリン市内での講演会を意外な言葉で切り出した。

 ナチスが権力を掌握し、ユダヤ人への迫害が始まった一九三三年春、十歳の彼女は自分がユダヤ人だと初めて知らされた。伝えた母は「あなたは少数派なの。だから自分の身は自分で守りなさい」と諭した。

 四三年から終戦まで彼女と母はベルリン市内のあちこちで隠れ住み、ナチスの追及を逃れた。強制収容所送りの危険を冒して彼女たちをかくまい、食料や衣服を運んだドイツ人がいたおかげだ。

 一方で大半のドイツ人は蛮行に協力し、黙認した。自らの体験を書き、語り続けてきたドイチュクロンさんは「なぜあれほど短期間にナチスが強大な力を得たのか、今でも分からない。もっと調べる必要がある」と話す。

 ネオナチ政党が非合法化されない現状にいら立ちつつも、「今のドイツは生きた民主主義」と反省を深めた戦後の歩みを評価する。

 あなたがこの世を去ったらナチズムの記憶は風化してしまうのでは-。質疑応答で問われた彼女は希望を込めて答えた。「ナチスの検証はこれからも必要だし、続けられると信じている」
(宮本隆彦)」

http://www.tokyo-np.co.jp/article/world/worldtown/CK2013032702000228.html

ひめゆりの記録

2013-01-16 20:00:01 | 歴史
「 【糸満】ひめゆり平和祈念資料館(島袋淑子館長)はこのほど、元ひめゆり学徒らの収容前後に焦点を当てた資料集「生き残ったひめゆり学徒たち-収容所から帰郷へ」を発刊した。生き残った学徒らが家族に再会するまでの体験手記をまとめ、癒えることのない心の傷や思いをつづった。島袋館長は「戦争は命だけでなく生き残った人々の心を深く傷つけた。苦しみを抱えて生きるつらさを知ってほしい」と話している。

 同館はこれまで、沖縄陸軍病院に動員された1945年3月23日から6月18日の解散命令を経て米軍に収容されるまでの戦場体験を中心に伝えてきた。取り上げることが少なかった「収容前後」や、遺骨収集の体験などをまとめることで「沖縄戦への理解を深めてほしい」と、発刊した。

 「収容所から帰郷へ」「学友の遺骨をさがして」がテーマの手記を中心に学芸員のコラムや解説、写真を付けて構成。89~2003年の「資料館だより」に掲載された元学徒19人と、発刊に合わせて新たに集めた5人の計24人の手記をまとめている。

 同館室長の宮城喜久子さん(84)は、終戦から10カ月後の遺骨収拾で、三つ編み姿のまま白骨化した友人との再会などをつづった。「戦争の悲惨さを伝えることも大事だが、心身に残した深い傷は戦後もずっと消えないことを分かってほしい。平和を守って」と訴える。

 戦で亡くした友人らを思い「生きていても、つらく深い悲しみや苦しみが続いた」と振り返る島袋館長。「戦争は仕方がないとか、平和憲法を変えた方が良いという話を聞くと、戦争を知らない世代が増える世の中が怖い。しっかり継承してほしい」と話した。

 資料集は1500円、同館で販売。関連の企画展も3月31日まで開かれている。」

http://article.okinawatimes.co.jp/article/2013-01-16_44023

国家・集団のあり方について/ハンギョレより

2012-10-24 10:21:58 | 歴史
「朴露子(パク・ノジャ、Vladimir Tikhonov) ノルウェー、オスロ国立大教授・韓国学

 私にとって最も困難を感じる時は、チベットから来られた知識人、学生の方々やチベットを支援するノルウェーの活動家たちにチベットの独立問題に関する私の考えを問われる時です。一言ではもちろん一本の論文でもまとめることはあまりに難しく、あまりにもニュアンスの多い問題だからです。もちろん原則は極めて簡単です。マルクス主義/社会主義の基盤は民主主義であり、民主主義の基本原則の一つが民族自決権の無条件認定なのです。これはローザ・ルクセンブルクとの論争でレーニンが闡明したことで、私も普段からそう信じています。

 つまり、たとえばチェチェン独立運動を私は原則上支持しなければならないと思います(チェチェン民族の独立闘士たちが用いるあらゆる方法のすべてを支持するわけではありませんが)。私のように朝鮮の独立活動家たちを研究している人間の立場としては、当然チベットの独立運動家たちも支持しなければならないのではないでしょうか。一面においてはそのように考えられますが、ここではある「脈絡」を参考しなければなりません。私の研究する申采浩(シン・チェホ、1880~1936)先生や朴憲永(パク・ホニョン、1900~1956)先生は、たとえ双方の意見の違いは大きかったにしても(一人はアナーキスト、一人は共産主義者でした)、反帝民衆革命家というレベルでは一致していました。そのため、二人とも「民族独立」を日本の同志たちも一緒に参加する革命闘争の結果と考えていましたし、二人ともその独立はまた新しい社会的(無政府共産主義/共産主義的)な革命の始まりと捉えていましたし、二人ともその新しい革命が日本などを含む国際的な性格を帯びたものであると信じていました。

 つまり、1920年代以降、実際に左派が主導した朝鮮独立運動は反帝的で国際連帯的で国際革命的でした(金九(キム・ク)などが率いた右派的な独立運動はこれとは性格がかなり異なっていました)。果してこのような性格の独立運動は今チベットや新彊にあるでしょうか。果してブッシュから勲章をもらい、ブッシュの父が起こした湾岸戦争を「正義の戦争」と規定したダライラマは「反帝」ないし「革命」、「民衆」となんらかの関係があるでしょうか。そのような脈絡を無視して、チベット問題も、いかなる錯綜した民族問題も到底語ることはできません。

 レーニンの「民族独立権擁護」の原則は当然原則としては正しいものです。ただし、レーニンもそうだったように、この原則を適用する際は何よりも私たちの階級の利害関係という脈絡を考慮しなければならず、この脈絡を無視して原則のみを絶対化してはなりません。たとえば、個人的な経験を話してみましょう。私は1988~1991年の間、数回にわたりラトビアなどのバルティック共和国の独立のためにデモをしました。個人的に「リガ」という都市(ラトビアの首都)がとても好きだったし、ラトビアの民謡と詩が好きだったので、ラトビアを事実上強制占領したスターリンの非レーニン的な民族政策に怒りを感じていたのです。独立したくてもソ連軍隊の力のために独立できないラトビア人たちの境遇が、日常的な差別を受けている私のようなユダヤ人たちの境遇に似ているような気がしたりしました。

 それで、ラトビアなどが独立した時はとても嬉しかったのです。もちろん独立するやいなや、ロシア人であれユダヤ人であれ、ほとんどすべての種族的な他者たちへの市民権付与を拒否し、極めて厳格な「帰化試験」に通ることを要求した独立国ラトビアの初めての立法(1991年10月15日)に驚愕してしまいましたが。にもかかわらず、このような光景を目の当たりにしながらも、「スターリン主義の暴力に対するどうしようもない過剰な反発、理解してやらなければならない」と自慰(?)しながら、引き続きラトビアの独立を熱裂に支持しました。ところが、今日のラトビアを見て、自分の「民族自決権絶対化」は極めて愚かなものだったのではないか、と思います。

 先ず依然としてラトビア住民たちの14%は「非国民」として残されています(http://en.wikipedia.org/wiki/Non-citizens_(Latvia))。そのほとんどは白ロシア、ロシア、ユダヤ系労働者や下級事務員たちです。しかし、「国民」であれ「非国民」であれ、ラトビアの人口は急激に減っています。独立した当時は約270万人だったのが、今は190万人になるかどうかです。多数の貧民たちが養育費を負担しきれず、出産を避け(大韓民国と似た形です)、働けるなら誰しも速やかに希望のないラトビアを離れようとしています。オスロの工事現場などでも、最も困難な「土方」の仕事をする人たちには「独立した」ラトビア人たちをしばしば見かけることができます。

 大卒たちも大量に移民していますが、労働者たちが最も多く離れています。国内には仕事がないから。独立するやいなや、「貿易の自由」「自由な輸出入」を闡明した民族主義者たちの自由放任主義政策のおかげでソ連時代の企業などはほとんどつぶれてしまい、工業労働者たちの数は「独立」の20年間に40万人から10万人に、すなわち4分の1(!)に減りました。一時はラジオ、バス、ピアノ、そして半導体を生産した国が今は主に食糧品と児童ポルノ、そして西側の観光客たちのための様々な「エロティック・サービス」などを生産しています。特にヨーロッパ連合(EU)加入後は、企業への補助金支給や輸入制限などが基本的に不可能になり、労働者たちの失業や移民は慢性化しました。西側の観光客たちは売春街だらけのリガという都市をとても愛護(?)していますが、「ラトビアのような貧困」は今やヨーロッパの多くの言語で慣用句になりました。ラトビアの平均月給は650ユーロ、最低賃金は280ヨーロです。パンと牛乳の価格はベルリン並みなのにですね。言い換えれば、年金生活者と低賃金労働者たちの地獄になってしまったようなものです。

 もちろんラトビアが労働者と貧民たちの地獄になったことは「独立」そのもののせいではありませんでした。まあ、独立しなくてもロシアとともに資本化への道を歩んだなら、結果は確実に同じだったと思います。今のロシアを見ても、状況は大同小異であり、ただしヨーロッパ連合に入らなかったためにラトビアのようにたくさんは移民できないだけです。問題は、「独立 vs 非独立」ではなく、周辺部の貧しい国には資本主義が殺人的に有害だということです。中心部や大韓民国のような準中心部の民衆たちにも当然ながら有害ですが、ラトビアやロシアではその惨状の深さはかなり違うということです。独立しようがするまいが、資本主義を導入してはならなかったし、おそらく理想的には、ロシアなどの旧ソ連の多くの共和国たちの民衆たちと一緒に資本主義でない「より良い社会主義」、スターリン主義の余毒から自由な民主的な社会主義のために闘わなければならなかったはずです。真の問題は、「民族独立」ではなく、「資本主義 vs 現実社会主義の改善可能性」だったのです。ところが、私にしてからが20余年前はこの問題をこのように階級的な立場で正しく捉えることができなかったので、今はこのことに関してとても後悔しています。マルクス主義の第一原則は、いかなる問題であれ何より先に階級的な立場、「資本主義と反資本革命の可能性」という立場で見なければならないということです。「民族自決権」がいかに民主的な基本権であってもです。

 チベットが独立した場合には、チベットの漢族系住民などは果してラトビアのロシア人やユダヤ人より平等な扱いを受けられるでしょうか。ナトーとヨーロッパ連合に加入したラトビアとは違い、果して帝国主義勢力からどの程度距離を維持することができるでしょうか。現在中国の中央政府が実施している農民たちへの無償医療支援などの福祉プログラムを維持することはできるでしょうか。国際資本たちの要求にまともに立ち向かうことができるでしょうか。チベットの独立にどんなに歴史的な理由が充分にあっても、毛沢東と小平などのチベット関連政策にどんなに誤謬があっても、たとえ今の状況が「福祉制度が稼動する内部植民地」と規定できても、チベットの独立を望む人々なら先ずはこの質問に答えなければならないでしょう。むしろ中国の各民族の勤労大衆たちと共に、より良い生活、「改革開放」の限界を超えて持続的に非資本主義的方向に進むことのできる生活を目指して一緒に闘ったほうがいいのではないでしょうか。中国全体がより親民衆的な方向に進み、草の根民主主義が先ず安着すれば、チベット人たちの不満も自然に次第に解けていきはしないでしょうか。当然ながら原則上チベット人たちは独立を要求する権利はあります。しかし、マルクス主義者の立場では、その独立が果してチベットのあらゆる勤労者たちの利害関係、さらには地域全体の階級闘争状況にどんな影響を及ぼすのかは同時に考えてみなければならないでしょう。

韓国語原文入力:2012/10/18 19:41
http://blog.hani.co.kr/gategateparagate/52675 訳J.S(3861字)」

http://japan.hani.co.kr/arti/opinion/13130.html

戴笠の資料刊行

2012-04-15 14:13:48 | 歴史
「戴笠生前手稿、函电等珍贵史料在台湾正式解密
常 工
2012年04月11日10:02 来源:人民网-《人民日报海外版》


  戴笠,一个曾经响当当的神秘人物,国民党特务头子、西安事变、抗日战争……这些词都和他有关,并且一直以来因为“保密”的原因,被披上了一层神秘面纱。近日,戴笠生前手稿、函电等珍贵史料,在台湾正式解密,其中包括他当年历经西安事变的相关手稿和资料,都将一一公诸于世。

  史料因人而神秘

  戴笠,字雨农,1896年出生于浙江省江山县,早年曾在浙军当兵,后脱离部队到上海,结识蒋介石、戴季陶等人。

  1926年戴笠入黄埔军校6期,毕业后任蒋介石侍从副官。1928年开始进行情报活动。1930年建立国民党第一个特务组织调查通讯小组,创立“十人团”,深得蒋介石宠信。1932年,蒋介石秘密成立“中华复兴社”(“蓝衣社”)特务组织,戴笠被任命为处长。1938年特务处扩大为军事调查统计局(军统),戴笠任副局长。1942年兼任“中美合作所”主任。1946年3月17日,因飞机失事身亡。素以残酷无情著称的戴笠,号称“蒋介石的佩剑”、“中国最神秘的人物”。

  据台湾媒体报道,此次公开的戴笠全部史料共59卷,内容包括政治、经济、军事、情报、组织、行动、训练、司法、电讯、人事、经理、总务、一般指示、西安事变等,共计2万余页,多数是首度曝光的一手情资。

  比如有传说西安事变后,戴笠曾陪同宋美龄赴西安处理事变,一度被软禁在地下室,他曾以为必死无疑,还写下一封遗书。不想,事件顺利解决,回到南京后还得到嘉奖。像这样的史料,随着档案的开放,一般读者可由此一窥戴笠的神秘一生。

  抗战史料先期出版

  其实,早在去年10月,为纪念辛亥百年,台湾相关部门就先期出版《戴笠与抗战史料汇编》解密部分档案,透过戴笠手稿与台军方提供的部分档案,让抗日战争时期那段充满神秘色彩的情报工作公开于世。

  据悉,《戴笠与抗战史料汇编》共分6册出版,包括“军情战报”、“经济作战”等,内容全部是戴笠在抗战期间的手稿汇编。“军情战报”以抗战时戴笠所搜集、整理及呈报的各项军情战报为主;“经济作战”描述当时物资抢购、抢运、金融作战等内容,包括戴笠指挥印假钞,搞乱日本统治区金融的多个手令。

  根据已出版的书中资料显示,作为国民党情报组织的负责人,当时戴笠光是化名就有27个之多。除“张叔平”、“马健行”等平常姓名外,他还使用双字与单字化名,包括“涛”、“灵”、“余龙”、“裕隆”、“冬”、“雨”、“雷云”等。

  “军统局”作为国民政府在抗战时期设置的重要情报机关,搜集日伪动向、军政情报,并做经济检查、物资争取等工作。过去相关研究成果虽不少,但利用当局档案或直接史料进行研究的并不多见。“戴笠史料”和台湾军方情报机构部分案卷,不但是第一手史料,还披露过往不为人知的信息,深具史料价值。」

社会主義とは何か―ハンギョレサバランより

2012-03-28 14:59:13 | 歴史
「[朴露子ハンギョレブログより] 社会主義とは何か?

朴露子(パク・ノジャ、Vladimir Tikhonov) ノルウェー、オスロ国立大教授・韓国学

 私の住んでいた末期のソ連を振り返ると、とても情けないことが一つありました。

 ロシアという周辺部的な国家の極めて根の深いある種の「西欧コンプレックス」の発露かもしれませんが、掲げられたスローガンは常に「アメリカを追い越せ」でした。

 ソ連末期の平均的労働生産性はアメリカの約60%に過ぎず、このことは少なくとも知識人層には広く認識されていたにもかかわらず、指導者たちが常にこれを意識し、「アメリカの労働生産性に追い付き追い越さなければ、私たちの体制の勝利は不可能だ」と念を押したりしました。

 大衆的に売られる統計集にはソ米の鋼鉄生産、トラクター(耕運機)の生産台数、穀物生産などが比較・対照されており、ソ連が生産統計でアメリカを追い越す事例が生まれる度に、このことが直ちに中央放送のニュースになったりしました。

 また、そのような比較が出される度にアメリカは「先進的資本主義国家」と称されたりしました。

 レーニン主義的な社会主義に良い点はたくさんあったものの、私たちの立場から問題になるところといえば、社会主義建設の基本になるだろうと認識される「先進圏」のあの高い労働生産性、生産能力に対する行き過ぎた、近代至上主義ともいえる羨望です。

 もとよりそのような近代至上主義的・工業至上主義的部分もあったのですが、その上にさらにソ連末期の幹部層のそれとない(あるいは時には露骨な)資本主義的な性向の問題までが付け加えられました。

 彼らは公の席では「アメリカの水準を追い越す」と吹聴するものの、プライベートではまさにその「敵の米帝」で一度でも暮らしてみたいといった欲望をさらけ出したりしました。

 ロシアの慢性的な「西洋コンプレックス」、レーニン主義に基づいた「生産の先進性」の強調、そして幹部層の資本主義的な堕落―これらの要因は次第に亡国の悲劇を招く基盤を作っていたのです。

 しかし、原理原則からすれば、果たして「アメリカのように多く生産し、消費すること」が本当に社会主義なのでしょうか。

 当然、米帝から常に防御しなければならない状況で度外れな技術的後進性は致命打になりうるとはいえ、資本主義的な世界体制全体の資本力と知識力、情報力が集中したアメリカに比べ、伝統的にヨーロッパの周辺部に属してきたロシアのような国が急に生産・消費のあらゆる面で上回るということは最初から信じがたいことでした。

 ロシアもさることながら、ロシアよりさらに近代的な資本主義の発達が不十分な中国、北朝鮮の場合は、「生産競争」のみを強調するのは土台無理な話でした。

 つまり、毛沢東が大躍進運動が始まった1958年に行った演説で「20年後にはアメリカを追い抜く」と言ったフルシチョフに追い付き、鋼鉄生産部門では「15年後、我々はイギリスに追い付き追い越すことができる」と大言壮語し、あたかも「イギリスより鋼鉄をたくさん作ること」を「社会主義」の代名詞のようにしてしまったことは、甚大な誤謬でした。

 毛沢東主席の新中国建国の主導や土地改革の快挙、たとえ暴力的で多くの面において非生産的で徹底しなかったとはいえ、党内の官僚化に対する闘争や全人民のための医療、基礎教育の供給などの業績は極めて素晴らしいものでありましたが、「イギリスに追い付く」という話で誤って導かれ結局、災いを生むことになる大型キャンペーンである大躍進運動を主導しようとした毛沢東は、社会主義者というより、むしろ「超高速近代化」だけを切望する後進国民族主義的な指導者に遥かに近かったといえます。何故なら、社会主義社会においては鋼鉄をいくら生産したかよりは、その鋼鉄を生産した「人間」がどのように生きているかが問題だからです。

 社会主義的な生き方は、資本主義的な生活より豊かなものでは絶対にないでしょう。

 地球の資源にはどうせ限りがあるし、社会主義者たちの課題は、この資源を早く使い果たして私たちの世代の消費を無制限に増やすことではなく、限られた資源をできるだけまんべんなく平等に分配し、その限られた資源を利用する共同体内を民主主義と思いやり、そして生きる喜びで満ち溢れるようにすることです。

 たとえば、米帝と自動車の生産台数を比べながら、「私たちがもっとたくさん作る」と誓うよりは、社会主義国家は自動車を最小限に必要とする、大衆交通優先の社会を作っていくべきではないでしょうか。

 農民など自動車を本当に日常的に必要とする一部を例外にし、都市では大衆交通網、特に環境にやさしい地下鉄、電車などの拡充に焦点を当て、ラッシュ時に止むを得ず自動車を必要とする人々には10~15世帯による自動車共同使用などを積極的に勧めることが、最も社会主義的ではないでしょうか。

 資本主義体制の目的は自動車生産による資本の利潤最大化であるのに対し、私たちの目的は環境保全と交通事故率の最小化、石油などの資源の保存、そして個人が常に社会に頼れる安定した思いやりのある社会的環境の造成ではないでしょうか。

 目的がまったく異なるだけに、社会主義的社会を資本主義的な思考の枠組みにおいて想像しても無駄であり、ソ連や中国の指導者たちが資本主義的「生産至上主義」を乗り越えられなかったのは歴史の悲劇にほかなりません。

 米帝から自己を守らなければならなかったソ連や1970年代以前の中国は、当然ながら労働生産性の向上などを強調せざるをえませんでしたが、実は社会主義体制では「労働者」としての人間ではなく、全人的な人間の発展が重要です。

 人間がいくら多く生産するかよりは、労働環境がどの程度快適なのか、休み時間は充分なのか、休み時間に音楽や舞踊、読書などを楽しみながらいかに自分を啓発し他人のために自分の能力を発揮できるのか、職場内の人間関係はいかに平等で互いに気を配りあっているか、これらが社会主義社会としての核心的な問題です。

 実際、このような次元では旧ソ連や東欧圏の社会は資本主義国家に比べ遥かに進歩した社会でした。


 総人口の内、年間約2千5百万人が精神神経科に助けを求め、しかも約6百80万人が牧師や神父などに神経病や慢性的な不安、心理的疾患などの問題で助けを訴えるほどに「効率性向上」への圧力が殺人的でいじめ現象が痼疾化し、常に解雇の危険にさらされているアメリカの職場に比べれば、ソ連の職場はとても陽気な所でした。

 両親を始め私の知っているいかなる既成世代のソ連人も職場での疲れ過ぎ、不当な圧力、いじめなどについて不平を言うのを一度も聞いたことがありません。

 両親も会社に行く時はいつも笑いながら、楽しく通っていました。つまり、労働生産性はアメリカに比べて遥かに低くても、労働者の生活は多くの面で遥かに楽しかったのです。

 問題は、欧米圏の資本家たちをベンチマーキングして窮極的には資本家になろうとした旧ソ連の幹部たちには、「幸せな労働者」が必要だったのではなく、「早く早く」より多くの物を生産するロボットのような労働者たちが必要だったということです。

 そのため、実際に労働者の生活はアメリカに比べて遥かに「社会主義的」だったにもかかわらず、指導層の「アメリカを追い越せ」の注文は絶え間なく叫ばれ、遂にアメリカに追い付くこともなく今のような欧米圏の経済的、文化的植民地に墜落してしまったのです。

 私は北朝鮮の指導者たちが「強盛大国」を叫ぶ度に非常に残念な気持ちになります。社会主義者なら「強盛大国」などより、思いやりと愛があり幸福あふれる社会を願う筈です。ひとりひとりが尊重され互いに思いやり愛し合う唯一の体制がすなわち社会主義だからです。

原文: http://blog.hani.co.kr/gategateparagate/42845 訳J.S」