白夜の炎

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自民の目的は憲法破棄

2016-06-13 12:08:53 | 政治
「今回の自民党の憲法改正案 と、その後に続くであろう憲法改正  実質は改正ではなく憲法の廃棄


  今回、自民党の憲法改正案はそれだけでも激変ですが、憲法改正を容易にする、という将来のことも含まれていて、安倍首相は決して憲法改正の試みをこれだけで止めようとは思っていないであろうことです。特に、天皇の地位と政教分離の条文、9条、男女の平等、思想・表現の自由などは継続して改変していく可能性はないでしょうか。兵役の義務とか、共同体への奉仕の義務、また宗教上の義務なども将来は書き込まれるかもしれません。大学の役割とか、文化の方針、歴史観などが記載され、さらに新しい行政制度も作られるかもしれません。出生率を上げるための夫婦の目標なども書かれるかもしれません。今回の改憲で、改憲を発議するには衆参両議会の議員総数のそれぞれ過半数の賛成があればよいことになり(自民党改正案 100条)、これまでの3分の2に比べるとはるかに容易に改憲ができる時代になります。

  では今回の改憲の意味はどこにあるかと言うと、西欧が作り出した「憲法」を我が国は廃棄するよ、という意志表示にあるのではないでしょうか。「個人の尊重」の削除はそれを象徴しています。安倍首相がこれまで言及してきたことから考えれば、日本独自の憲法観を今後は示す、というのが今回の改憲の大きな意味でしょう。今後、憲法は政府を縛るものではなく、国民の方針を述べるものである、という憲法観の転換、というよりもむしろ憲法の廃絶があります。そうなると国民の方針を決めるのは「行政府の長」としての首相である、と安倍首相は考えているようですから、首相の思い一つで将来憲法が適宜、書き換えられていく可能性があることを示唆していると思います。ファシズム国家の定義はまさにこれに該当します。行政を行う内閣が憲法を自ら制定する存在になるのですから。改憲案が通ると今後は憲法で政府の権力を縛るのではなく、憲法は政府が国民に統治方針を示す、その時々の上からの告知板みたいなものになる可能性が高いと思います。時々の政治経済状況で方針も変わりますから、その都度、憲法案が政府から発表される時代が来るかもしれません。

  特に今回の自民党改憲案の98条と99条に記された緊急事態宣言は首相が<法律と同等の効果を持つ政令>を創り出せる絶大な権限を与えることになります。外国からの武力攻撃や内乱などの社会秩序の混乱、さらに地震などの災害時を想定したものとされますが、政府が圧政を行ったことに対して民衆がデモやストライキなどを行った場合などにも適用される可能性が高いでしょう。その場合に国会ではなく、行政府に過ぎない内閣が法律を自ら創り出せる、ということは刑法や刑事訴訟法、その他の治安維持関連法を瞬時に首相の意志1つで成立させることができるものです。そうした場合に反政府活動を行った政治家や社会運動家、デモやストライキの参加者が一網打尽になる可能性があります。

  改憲案では緊急事態宣言は事後でもよいので国会の承認を得る必要があるとされていますが、もし与党が衆院で過半数の議席を持っていれば恐らく緊急事態宣言も承認される可能性が高いことになります。そしてまた、緊急事態宣言の最中にできた法律(厳密には政令)によって拘束されたり家宅捜索を受けたりした人々の権利回復が可能になる保証はまったくありませんし、また、これについても事後に国会で承認されれば政府の措置は正しかったことになってしまいます。もし国会の過半数を与党が占めていれば自動的に緊急事態宣言も、またそれによって発令された法律(政令)によって発生した権利侵害などについても、政府の行動は合憲かつ合法ということになってしまいかねません。

  1933年にドイツ首相に就任したばかりのヒトラーは国会放火事件をきっかけとして大統領緊急例を布告し、共産党や社会民主党の国会議員を多数、逮捕し、野党を崩壊に追い込み一党独裁の道を創り出しました。今回の自民党改憲案に盛り込まれた緊急事態宣言がこのような政敵の封殺を目的として行われない保証はありません。今、自民党と公明党は衆参両院で過半数の議席を持っていますから、自民党の憲法改正案が実現した場合は、緊急事態宣言を国会で承認できる状況にありますし、どのような法律(政令)も国民に課すことができる状況にあります。そして、緊急事態宣言の下で起きたことに関しても、事後に国会で多数決によって承認することができるのです。これは政府にフリーハンドを与えることに他なりません。改憲がもし今年に行われた場合に、次の衆院選挙までの期間が問題になってくるでしょう。


■自民党の憲法改正案
(平成24年決定 自民党憲法改正推進本部)
http://www.jimin.jp/policy/policy_topics/pdf/seisaku-109.pdf



■山口定著「ファシズム」2 ~全権授与法(全権委任法)と国家総動員法~
http://www.nikkanberita.com/read.cgi?id=201312031412342


■山口定著「ファシズム」(岩波書店)
http://www.nikkanberita.com/read.cgi?id=201307301109292

http://www.nikkanberita.com/read.cgi?id=201606122203480 より

中谷宇吉郎『科学と社会』より 「一 日本人の科学性」

2016-04-23 17:04:44 | 政治
 一と二を略して三から紹介します。

「三 ・・・一番目に立ったこと、かつ現在もそれが目に立つことは、日本のいわゆる上層部の人達、例えば大臣とか昔の大将とか言う人達に、科学性が全然なかったことである。それが今日の悲運の最大の原因である。もっともこういう風に言うと、それらの人達に科学的の知識があったら、今度の戦争に勝てたというように誤解されるかもしれない。しかしそういう意味ではない。それらのいわゆる指導者たちが、いくら科学に通暁していても、とても勝てる戦争ではなかったのである。ただその人たちに、少しでも科学性があったら、こういう馬鹿な戦争は、決して始めなかったであろうという意味である。・・・」

中谷宇吉郎『科学と社会』より 序

2016-04-22 12:40:48 | 政治
 中谷宇吉郎は「雪」の研究で著名な北海道大学の先生である。既になくなったが、彼が書いた「雪」を岩波新書で読んだ方は多いと思う。

 しかし彼が1949年に「科学と社会」という岩波新書をだしていたことは、今は殆どの人が記憶していないのではないだろうか。岩波でもとっくに絶版となり現在は中古市場でしか入手できない(先日調べたところ500円だった)。

 しかし敗戦と戦災による荒廃の中、自らと自らの仕事である科学に真摯に向き合って書かれたこの本はきわめて貴重な内容を持っている。

 以下では順に本の内容を載せていきたい。ただ全部ではなく一部省きつつ紹介する。これを読んで関心を持たれた方は、ぜひとも近くの図書館、あるいは古書でお読みいただきたい。

「序
 この書で私は、少し柄にないことであるが、敗戦日本の姿を描いてみようとした。・・・今までの日本の科学者は、あまりにも自分の仕事の社会的意義を考えなかった。学者はその研究が、社会の幸福に貢献してもしなくても、そんなことは考えてはいけない。ただ真理だけを追究すれば宵ということが、一部の人々の間では言われていた。そしてそれが純粋な偉い科学者ということになっていた。

 こういう表現は、言葉はある意味ではきれいであるが、ここで真理という文字が、全く無批判的に使われていることに、注意しなければならない。耕さずして食らい、織らずして着ている科学者は、やはり自分のためにそういう努力をしてくれる人々の幸福増進に、できるだけ貢献するように努力しなければならない。・・・・・

 終戦後、急に自分の仕事の社会的意義について考えるようになり、そういう目で周囲を見回してみると、いろいろなことが目に映った。そして現在の姿は、今少し科学的なものの考え方を導入するだけでも、かなりよくなるのではないかという気が多分にした。

 ・・以下略・・・

 昭和二十三年十月 札幌にて  中谷宇吉郎」

丸山眞男「超国家主義の論理と心理」を読む/子安より

2016-03-18 16:18:28 | 政治
「 「かくて我らは私生活の間にも天皇に帰一し、国家に奉仕するの念を忘れてはならぬ」(臣民の道)といっているが、こうしたイデオロギーはなにも全体主義の流行と共に現われ来たったわけではなく、日本の国家構造そのものに内在していた。
           丸山眞男「超国家主義の論理と心理」

1 「超国家主義の論理と心理」

  「超国家主義」は昭和日本のファシズムや全体主義を意味する概念として使われている。たとえば「現代日本思想大系」(筑摩書房)には橋川文三の編集・解説からなる『超国家主義』(第31巻)の巻がある。それは『アジア主義』(第9巻)『ナショナリズム』(第4巻)とは別に立てられた昭和ファシズムとその代表的言説を編集する巻だと考えられる。ところでその巻の編者である橋川はその解説で「日本の近代史においては、たとえばドイツもしくはイタリアに見られるような、明確なファシズム革命というものがなく、いわばなしくずしの超国家主義化が進行したために、その政治的要因として、一般の右翼思想・国家主義思想から区別された超国家主義的契機を、それとしてとり出すことが特別に困難である」といっている。橋川はここで丸山眞男が「どこからファッショ時代になったかはっきりいえない」と日本ファシズムの「漸進的な性格」[1]をいう言葉を引いていっている。私がここで注意したいのは「超国家主義」という日本ファシズムの特性がドイツやイタリアのそれとの区別からいわれることである。こうした「超国家主義」としての日本ファシズムの特質化は丸山によるものである。

  「超国家主義」という概念を戦後日本に定着させたのは、敗戦の翌年に発表された丸山の論文「超国家主義の論理と心理」[2]であるだろう。この論文は戦後日本の思想的言論世界にもっとも大きな影響力をもったものだといっていい。戦後20年に当たって『中央公論』(1964年10月号)が「戦後日本を創った代表論文」という特集をやっている。猪木正道・臼井吉見らの選考委員が18篇の論文を選んでいるが、圧倒的多数の票をもって第一位に選ばれたのは丸山のこの「超国家主義」論文であった。ところで丸山はその論文をこう書き出している。

  「日本国民を永きにわたって隷従的境涯に押しつけ、また世界に対して今次の戦争を駆りたてたところのイデオロギー的要因は連合国によって超国家主義ウルトラ・ナショナリズムとか極端国家主義エクストリーム・ナショナリズムとかいう名で漠然と呼ばれているが、その実体はどのようなものであるかという事についてはまだ十分に究明されていないようである。いま主として問題になっているのはそうした超国家主義の社会的・経済的背景であって、超国家主義の思想構造乃至心理的基盤の分析は我が国でも外国でも本格的に取り上げられていないかに見える。」

   丸山は「超国家主義」とは日本を戦争に駆りたてたところのイデオロギー的要因に連合国が仮に名づけた呼び方だというのである。そうだとすれば「超国家主義」は日本のファシズムなり全体主義をいう概念としてすでにあった概念ではないことになる。むしろ「超国家主義」は丸山のする分析的認識作業、すなわちその「思想構造乃至心理的基盤の分析」作業を通じてはじめて日本の独自的なファシズム、あるいは日本的特性をもったファシズムを指す概念として成立したと考えられるのである。「超国家主義」とは、だから丸山のこの論文が構成する日本ファシズムの概念である。だが丸山自身はこの論文以降、「日本ファシズム」といって「超国家主義」をいうことをあまりしていないように思われる。だが「超国家主義」は丸山のこの論文による概念構成とともに、日本ファシズムの代名詞として一人歩きしている。

  では丸山はどのように「超国家主義」を日本的ファシズム概念として構成していったのか。丸山がいましようとしているのは「超国家主義」の「思想構造乃至心理的基盤の分析」である。もしこの論文によって「超国家主義」概念が構成されたとするならば、その概念は「思想構造乃至心理的基盤の分析」を通じて構成されたものだということである。これは見逃してはいけない大事なことだ。丸山はこの分析、すなわち「思想構造乃至心理的基盤」の分析はあまりなされていないという。というのは、この問題が「あまりに簡単であるからともいえるし、また逆にあまりに複雑であるからともいえる」からだといっている。あまりに簡単であるというのは、「それが概念的組織をもたず、「八紘一宇」とか「天業恢弘」とかいったいわば叫喚的なスローガンの形で現れているために、真面目に取り上げるに値しないように考えられるから」だというのである。

   丸山がここでこちらの「八紘一宇」といった簡単すぎる叫喚的なスローガンに対置しながら、あちらのナチズム・ファシズム運動を代表するものとして挙げるものは何か。「例えばナチス・ドイツがともかく『我が闘争』や『二十世紀の神話』の如き世界観的体系を持っていた」ことを丸山はいうのである。ここに見るのは丸山の政治学的言説に、その言説構成を可能にするものとして終始つきまとう図式的な東西の対比的思考である。なぜ丸山はヒトラーの『我が闘争』やローゼンベルクの『二十世紀の神話』に対置するのに北一輝の『日本改造法案』や大川周明の『日本二千六百年史』をもってせずに、「八紘一宇」や「天業恢弘」といった叫喚的スローガンをもってするのか。ここで『我が闘争』や『二十世紀の神話』に対置するのに北や大川の著作をもってすることの適否が問われることではない。問題なのは『我が闘争』をもつか、もたないから日本ファシズムの特質を導いていく丸山の政治学的分析のあり方である。

   「超国家主義」概念を構成していく丸山の日本ファシズムをめぐる分析視角は、『我が闘争』の有る無しを問うような東西の対比的分析視角である。この東西の対比的分析視角は問われるものの特質を予め規定してしまっているように思われる。

  「国民の心的傾向なり行動なりを一定の溝に流し込むところの心理的な強制力が問題なのである。それはなまじ明白な理論的な構成を持たず、思想的系譜も種々雑多であるだけにその全貌の把握はなかなか困難である。是が為には「八紘一宇」的スローガンを頭からデマゴギーときめてかからずに、そうした諸々の断片的な表現やその現実の発現形態を通じて底にひそむ共通の論理を探り当てる事が必要である。」(傍点は子安)

  『我が闘争』をもたないわがファシズム、すなわち「超国家主義」という概念はこのように「思想構造乃至心理的基盤」の分析を通じて構成されるのである。


2 『我が闘争』はここには無い

 一般にはファシズムという政治イデオロギーを備えた政治的、思想的運動体系が組織的宣伝と大衆教育を通じてファショ的という同調的心理を大衆の間に作り出していく。こうして時代と社会とは全体主義的に再編成されていくのである。たしかにそこには時代と社会のファショ化を主導するイデオロギーがあり、そのイデオロギーを担う主体と組織と運動とがある。だが日本ファシズムには『我が闘争』はないと丸山はいうのである。『我が闘争』がここにはないと丸山がいうとき、それは何を意味するのか。

  『我が闘争』が日本ファシズムにはないということは、最初に引いた橋川の「解説」がいうように、日本ファシズムには「始まり」がないことを意味している。「始まり」がないとは、始まりを画する宣言といった言語的表明がないということである。言語的表明がないということは、始まりを告げるような確信的な表明主体がないということである。このように丸山が日本ファシズムには『我が闘争』はないということは、私が上に「ここには時代と社会のファショ化を主導するイデオロギーがあり、そのイデオロギーを担う主体と組織と運動とがある」といったファシズム運動の一般形としては日本ファシズムを見ないことを意味する。丸山は日本ファシズムをファシズムの特異形として見るのである。「超国家主義」とはこの特異形としての日本ファシズムをいうのである。この特異形としての日本ファシズムを叙述する丸山の論文「超国家主義の論理と心理」は、この日本ファシズムという特異形、あるいはむしろ奇形に対して嫌悪感を含んだサチールをしばしば浴びせかける。「慎ましやかな内面性もなければ、むき出しの権力性もない。すべてが騒々しいが、同時にすべてが小心翼々としている。この意味に於いて、東条英機氏は日本的政治のシンボルと言い得る。」

   日本ファシズムには始まりもなければ、始まりを告げる言葉も主体もない。では何があるのか。ここにあるのは日本的特異形としての国家、すなわち天皇制的国家があるのである。ここでは国家の存立そのものが、「国民の心的傾向なり行動なりを一定の溝に流し込むところの心理的な強制力」をともなったものとして、あるいはそうした心理的な強制力をたえず生み出す権威的源泉としてあるのである。日本ファシズムの特異性とは日本的国家の特異性である。日本ファシズムはこの日本的国家と国家主義の特異性が生み出すものとして「超国家主義」=極端な国家主義といわれるのである。

3 〈国体論的国家〉

   丸山は特異形としての日本的国家を、例によって東西の対比的視角による特質化をもってしている。いま西の〈国家類型〉が丸山によってどのように構成されるかを見てみよう。

  「ヨーロッパ近代国家はカール・シュミットがいうように、中性国家(Ein neutraler Staat)たることに一つの大きな特色がある。換言すれば、それは真理とか道徳とかの内容的価値に関しては中立的立場をとり、そうした価値の選択と判断はもっぱら他の社会的集団(例えば教会)乃至は個人の良心に委ね、国家主権の基礎をば、かかる内容的価値から捨象された純粋に形式的な法機構の上に置いているのである。」

   丸山はここで〈中性国家〉を近代国家の理念型として記述しているのではない。西側・ヨーロッパの近代国家を〈中性国家〉として特質化し、記述しているのである。この記述はすでに虚構である。この〈中性国家〉の記述は、その反対側に〈反・中性国家〉を導くための虚構である。東西の対比的視角による東の国家・社会の特質化的記述は虚構の記述となることを免れない。私はカール・シュミットを呼び出してする丸山の〈中性国家〉の理念型的記述を読みながら、『日本政治思想史研究』で丸山が構成する荻生徂徠の〈作為的社会〉像の記述を思い起こした。「超国家主義の論理と心理」のこの一節を読みながら、あたかも『日本政治思想史研究』の徂徠論の一節を読んでいるかのような錯覚を私はおぼえた。制作主体を前提にもった〈作為的社会〉としてヨーロッパ近代社会像を理念型的に構築し、それを徂徠の〈先王の道〉をめぐる儒家的政治思想に読み入れ、近代に先駆する徂徠の〈作為的社会〉像を丸山はでっち上げ的に構築し、記述するのである。こうしてわれわれが『日本政治思想史研究』に読まされるのは、徂徠の〈作為的社会〉像を江戸に置き忘れて近代化する日本国家社会の前近代的な国家社会構成と思惟様式の持続である。

   明治の啓蒙期にヨーロッパ〈近代〉の虚構的理念型的構成が意味をもったのは、近代化の教えとしてであった。福沢の『文明論之概略』などはそのもっとも良質な例であろう。だが近代先進国家米英との総力戦に敗れた1946年の戦後日本にとって、ー総力戦を戦いうるということは日本もまた近代先進国家であったことを意味するーヨーロッパ〈近代〉の虚構的理念型化の言説はなお教えとしての意味をもっていたのだろうか。それは福沢を唯一の師とする丸山による再度の、そして真正の近代化の教説なのか。それともこれは丸山による西欧近代の対極像としての前近代国家日本の呪詛をこめた否定的再構築の言説であるのか。

   丸山はヨーロッパにおける近代〈中性国家〉の形成過程を、「(政治と宗教との間の熾烈な確執は)かくして形式と内容、外部と内部、公的なものと私的なものという形で妥協が行われ、思想信仰道徳の問題は「私事」としてその主観的内部が保証され、公権力は技術的性格を持った法体系の中に吸収されたのである」と記述していく。ヨーロッパ近代の〈中性国家〉の丸山における理念型的成立とともに、あるいはその成立を前提にしてはじめて〈反・中性国家〉としての日本的国家が記述されることになる。丸山による日本的国家の記述を見よう。

  「日本は明治以後の近代国家の形成過程に於て嘗てこのような国家主権の技術的、中立的性格を表明しようとしなかった。その結果、日本の国家主義は内容的価値の実体たることにどこまでも自己の支配根拠を置こうとした。」

  「そうして第一回帝国議会の召集を目前に控えて教育勅語が発布されたことは、日本国家が倫理的実体としての価値内容の独占的決定者たることの公然たる宣言であったといっていい。」

  「国家が「国体」に於て真善美の内容的価値を占有するところには、学問も芸術もそうした価値的実体への依存よりほかに存立し得ないことは当然である。しかもその依存は決して外部的依存ではなく、むしろ内部的なそれなのである。」

  〈中性国家〉の対極に構成されてくるのは、価値的な実体としての国家である。この価値的実体としての国家である。この価値的実体としての国家とは、19世紀終わりの東アジアで国家の自立的存立をかけた日本が国家に与えていった無二の国家性ナショナリティーである。この無二の国家性を天皇と国家と国民の同時的成立をいう創成神話をもって修飾し、それを「国体」として日本の近代国家存立の理念的基盤としていったのである。

   私がいいたいのは丸山がいう「価値的実体」としての国家、あるいは「国体」論的国家とは明治日本が創りだした国家だということである。それは決して近代日本に成立する国家が自ずから備える性格ではない。福沢は『文明論之概略』で明治初年の国民は〈中性国家〉をとるか、〈国体論的国家〉をとるかの重大な選択を迫られていることをいっている。1875年の福沢において〈中性国家〉はなお可能な国民の選択肢であった。だが1946年の丸山にとって〈中性国家〉は近代日本における〈国体論的国家〉の運命的な肥大を呪詛を以て描き出すための虚構の理念型である。丸山は日本国家の国体論的存立を日本の近代国家の特異性としてとらえ、国体論的国家主義の過剰の展開を〈超国家主義〉として記述していった。

   〈超国家主義〉が日本的全体主義であるのは、それが〈国体論的国家〉への国民の身体的、精神的統合を強制し、あるいは内部からうながす国家主義的支配の体系であるからであろう。ここで丸山の〈超国家主義〉的支配の分析の特異性は、〈国体論的国家〉の存立そのものが生み出す、国民の支配ー服従の特異な心理過程の分析的な記述にある。丸山は国民の支配ー服従の心理過程を陸軍内務班に象徴的に見ながら有名な「抑圧の移譲」という権力支配のあり方を描き出す。

  「さて又、こうした自由な主体意識が存せず各人が行動の制約を自らの良心のうちに持たずして、より上級の者(従って究極的価値に近いもの)の存在によって規定されていることからして、独裁観念にかわって抑圧の移譲による精神的均衡の保持とでもいうべき現象が発生する。上からの圧迫感を下への恣意の発揮によって順次に移譲して行く事によって全体のバランスが保持されている体系である。」

  この「抑圧の移譲」という支配ー服従の体系は天皇制国家の支配ー服従の体系にほかならない。

  「天皇を中心とし、それからのさまざまの距離に於て万民が翼賛するという事態を一つの同心円で表現するならば、その中心は点ではなくして実はこれを垂直に貫く一つの縦軸にほかならぬ。そうして中心からの価値の無限の流出は、縦軸の無限性(天壌無窮の皇運)によって担保されているのである。」

   丸山の「超国家主義の論理と心理」への人びとの称賛は、ほとんどこれらの天皇制国家の支配ー服従の社会心理学的な記述への称賛に行きつく。人びとは争ってこれを引用し、この引用をもって日本ファシズムへの追及を止めてしまった。そのとき人びとは丸山とともに日本ファシズムを隠蔽し、見逃してしまったことに気付かない。


4 日本ファシズムには始まりがある

   日本ファシズムには始まりがないと丸山はいう。彼はこれを日本ファシズムには『我が闘争』がないといういい方でしていた。丸山という現代日本の代表的知識人のこの臭みのあるいい方は、二つのことを意味している。一つには日本ファシズムを〈国体論的国家主義〉の始まりのない漸進的な過激化としてとらえることである。二つには丸山の日本ファシズムの記述は日本的特異性の記述に終始することである。この二つは日本ファシズムを丸山が〈超国家主義〉として概念構成することの両面である。

   丸山は日本ファシズムを〈超国家主義〉として概念構成することによって、すなわち日本ファシズムを〈国体論的国家論〉の問題に還元してしまって、1930年代における世界史的全体主義の成立の問題から切り離してしまう。ドイツ・ナチズムは丸山において日本ファシズムの特異性を暴き出す理念型になってしまう。これは丸山政治学の根底的な間違いである。

   日本ファシズムを世界史的全体主義との関連の中で見るならば、日本ファシズムは昭和ファシズムとして成立した時期をはっきりともつことになる。その時期とは1931(昭和6)年の満州事変が起こった時期である。総力戦を可能にする日本の全体主義的体制下がこの事変とともに始まったのである。全体主義化する昭和日本のただ中に生まれた私はもとよりこの変化を知ることはなかった。だが丸山たちの世代は満州事変とともに始まる日本の体制的変化に気付いたはずである。にもかかわらず丸山は敗戦の翌年に日本ファシズムを始まりのない〈超国家主義〉として、ファシズムの日本的特異型として記述した。「超国家主義の論理と心理」は大きな評価をえた。だがこの論文の成功とともに日本ファシズムをその張本人どもとともにわれわれは見逃してしまったのである。

   われわれはいま安倍と日本会議に日本ファシズムの21世紀的再生を見ている。これは世界的に見て他に例をみない事態である。

  なぜ我々は世界に例を見ない戦前ファシズムの再生復活を許してしまったのか。私は慙愧の思いで戦後過程を振り返っている。われわれは日本ファシズムを見逃してきたのではないか。丸山の「超国家主義の論理と心理」はこの見逃しの一因をなしているのではないか。

子安宣邦 (大阪大学名誉教授)

※本稿は子安氏のブログからの転載です。


注釈

[1] 丸山眞男「日本ファシズムの思想と運動」『増補版 現代政治の思想と行動』未来社、1964.

[2] 丸山の「超国家主義の論理と心理」は敗戦の翌年(1946年)の『世界』の5月号に掲載された。私がいま見ているのは上掲『増補版 現代政治の思想と行動』所収のものである。」

http://www.nikkanberita.com/read.cgi?id=201602112350414

警察・検察が推進する「新捜査手法法案」について

2016-03-01 13:38:38 | 政治
 昨日東京弁護士会館で集会があり、そこで現在国会で審議継続となっている、新たな捜査方法に関する法案が取り上げられた。

多大な問題を含むことは明らかなのでその一部をここに紹介する。

1 盗聴の拡大 
 通信傍受が角田際され、将来的には会話傍受も検討される可能性がある。盗聴の拡大では、現行の薬物などの限定が外され、窃盗、詐欺等の一般犯罪に拡大され、自動的に警察施設に送信され、立ち会いも不要で警察官だけが聞けるようになる。

2 司法取引
 他人の犯罪事実について捜査協力する見返りに、自分が助かる制度であり、人間関係を破壊し、他人を売り渡し、何より取調官のストーリー通りの供述を提供することで、えん罪を助長しかねない。

3 潜入捜査
 身分をごまかしても潜入捜査と、身分を隠したままの匿名の証言(証人保護制度)により、えん罪を引き起こしかねない。

 その他様々な問題がある。

 今国会で審議される予定がある。気をつけなければならない案件であろう。

「政治的公平性は権力が判断するものではない」高市氏発言に田原氏ら危機感

2016-03-01 12:23:42 | 政治
「 高市早苗総務相が、政治的公平性を欠く放送を繰り返した放送局の「電波停止」を命じる可能性に言及したことに対し、田原総一朗氏らテレビの報道キャスター6人が29日、会見し、「高市氏の発言は憲法と放送法の精神に反している」と抗議する声明を発表した。会見では「政治的公平性は一般的な公平公正とは違う。権力が判断するものではない」「誰もチェックしない権力は最後に大変なことになる」などと批判し、日本のメディアと政治の行く末に懸念を示した。

 会見には田原氏のほかに、岸井成格氏、鳥越俊太郎氏、大谷昭宏氏、金平茂紀氏、青木理氏が出席した。

「萎縮が蔓延」「誰もチェックしない権力」に懸念

 冒頭、鳥越氏がアピール文を読み上げた。高市氏の発言は、憲法によって保障されている「放送による表現の自由」や「放送が民主主義の発達に資する」という放送法1条の精神に反していると批判する内容。高市氏が「電波停止」の拠り所とする放送法4条は「倫理規定」であることが定説であり、放送法は戦争時の苦い経験として、政府からの干渉の排除や放送の独立を確保することが意図されていると説明した。

 出席したキャスターからは、口々に高市氏の発言への批判が聞かれた。金平氏は、放送の現場は「いま息苦しい」と語る。権力からの攻撃なら跳ね返せるが、自主規制や忖度、自粛といった雰囲気が「メディアの内側に生まれてきている」と指摘。「過剰な同調圧力から生じる『萎縮』が蔓延している」と危機感を示した。

 岸井氏は、高市氏が電波停止の条件として言及した「政治的公平性」について、メディアとしての姿勢を語った。「政治的公平性は権力側が判断することではない。政治家や官僚は大事なことはしゃべらないか隠す。場合によっては嘘をつく。政府の言うことだけ流すのは本当に公平性を欠く」。さらに「公平公正」いう言葉にみんな騙されると指摘する。「政治的公平性は一般の公平公正とは違う。権力は必ず腐敗し暴走する。それをさせてはならないというのがジャーナリズムであり、ジャーナリズムの公平公正」とした。

 鳥越氏は、「これはある種のメディアへの恫喝。背後には安倍政権の一連のメディアに対する姿勢がある」と、高市氏一人の発言ではないとの見方を示した。そして、「政権のチェックをするはずのメディアが、政権によってチェックされている。誰もチェックしない政権は、最後に大変なことになる」と述べ、戦前の大本営発表などを例に上げ、懸念を表明した。

 田原氏は「高市氏の発言は非常に恥ずかしい発言。直ちに全テレビ局の全番組が断固抗議するべき。だが残念なことに多くのテレビ局の多くの番組は何も言わない」とテレビ局の姿勢に疑問を投げかけた。また、この3月で岸井氏(ニュース23)、古舘伊知郎氏(報道ステーション)、国谷裕子氏(クローズアップ現代)が時を同じくして降板することに触れ、「骨のある人たちが辞める。残念なこと。まるで『高市発言』を受け取って自粛したという行動になりかねない」と述べた。

 青木氏は「ジャーナリズムの矜持に関わるときは組織の枠を超えて連帯して声を上げないといけない時があると思う」と語り、大谷氏は「視聴者に既に多大な影響が出ているのではないか」と自らの取材先での経験を元に語った。大谷氏は、東日本大震災の被災地で「まだ復興していないのに復興しているかのような取材をさせられているんだろう」という住民のメディアへの不信感を痛感したという。会場の記者に「メディア人だから危機感を共有してほしい」と呼びかけた。」

http://blogos.com/article/163805/

[寄稿] 親日附逆者はなぜ断罪されねばならないのか/ハンギョレ

2016-02-24 18:55:46 | 政治
「 「親日」とは何か? いかなる牽制も不能でいつでも露骨な暴力に転落できる無法権力に対する附逆行為(反民族行為)だ。 今生と死の境をさまよっているペク・ナムギ農民の場合を見よ。 植民地時代の反逆者がそっくり権力を受け継いだ社会でなければ、自国民に対して植民地民のように接することは果たして可能だろうか?

 親日附逆派に対する断罪は「民族の精気」ではなく私たちの子供のために必要だ。 権力と暴力がほとんど同義語となったこの社会では、子供たちが果たして正常に成長できるか? 韓国社会の暴力化の一主犯である親日附逆派に対する明確な整理が結局は社会全般の脱暴力化の出発点になるだろう。

 親日附逆問題を論じようとすれば、民族主義者であると誤解されやすい。 実際、多くの場合に親日附逆に対する断罪はまさに民族主義的論拠によって成り立つ。 ところが親日を断罪しようとするなら、あえて「民族」というフレームを中心に論理を展開する必要は本当のところない。 日帝強制占領期間の政治的支配関係は「異民族支配」という次元ではもちろん「民族」を窮極的には避けて通れないが、「親日」の「日」は「民族」としての日本を意味するものでは全くない。 日本「民族」の言語や文化に精通し、日本の同志たちと連帯するということは決して政治的意味の「親日」につながる必然性はない。

 金天海(キムチョンヘ 1898~?)を覚えているだろうか? 蔚山(ウルサン)出身の僧侶であり、啓蒙運動家として1921年に東京に渡った彼は、そこで労働運動に飛び込み、さらには朝鮮共産党日本総局の責任者になり、朝鮮の共産主義者たちが日本共産党に吸収されてからは日本共産党の中央委員になった。 日帝時期には都合12年を監獄で過ごし、最後まで転向を拒否した金天海は多くの日本人同志たちに尊敬され、日本語や日本文化にも造詣が深かった。 ところで、多くの日本人たちと永く親しく過ごした彼を、果たして誰が「親日派」と呼ぶだろうか? 日本語で書いた小説で、日帝時期に差別を受けた朝鮮人の二重的アイデンティティや、「同化」に対する社会的圧力の内面化過程を見事に描写した金史良(キムサリャン 1914~1950)は果たして「親日派」か? 「親日」の「日」は結局「日本」というよりは「日帝」を指す。 「親日派」とは正確に言えば、日帝植民当局という正統性のない権力に参加したり「不当な取引」を自発的に行った、特にすでに広義の支配者的位置にあったか、そのような位置を占めようとした被植民社会構成員を指す。 彼らの行為は、「民族的背信」というよりは「不法な権力に対する附逆」という方が正確だろう。

 階級社会の権力は常に内在的に暴力的だ。 例えば階級支配の関係を本質的に変えようとする人々に対しては法の手続きなどは踏まないケースが多い。 最近新たに脚光を浴びた『蟹工船』で有名な日本のプロレタリア文学者の小林多喜二(1903~1933)を覚えているか? 共産党員の彼は、『1928年3月15日』という小説(1928年)で、警察の拷問を極めて写実的に描き、偶然にも本人もまた結局検挙されて筆舌に尽くしがたい拷問にあって死んだ。 共産党員やアナーキストのような体制の積極的反対者に対して体制は、たびたび拷問という露骨な暴力で対応した。 ところが通常の場合には、日本“内地”、すなわち自国内では日帝当局者といえども拷問のような極端な暴力の使用は自制した。 近代的権力はいくら内在的には暴力的だとしても、それでも「国民」多数の同意をベースにしなければならないために、少なくとも自国内では法・手続きを前面に掲げることになっている。 「国民国家」とは当然そんなものだ。

 ところが自国内ではいくら「自制」するとしても、植民地や占領地では近代国民国家の暴力性は確実に表面化してしまう。 植民地の人民は「国民」ではないか、あるいは「2等国民」であったために、自国内では想像もできないことを植民地では躊躇なくできる。 日本「内地」では急進的活動家でなければ、拷問は一般的でなかったが、植民地朝鮮では被疑者の政治的指向とは無関係に暴力的捜査は日常茶飯事であった。 共産主義者どころか熱烈な反共主義者であり大物親日派であった尹致昊(ユンチホ)のいとこ-後に李承晩(イスンマン)の側近になり朴正煕(パクチョンヒ)時期にはソウル市長と共和党議長まで務めた-尹致暎(ユンチヨン 1898~1996)さえも、穏健な有志たちの団体である興業クラブ事件で1938年に投獄され、相当な水準の拷問にあったと伝えられている。 そのような階級に属する人が、もし「内地人」、すなわち日本人ならば拷問にあったはずがない。 ところが植民地でなら、日本人刑事には最も富裕で保守的な朝鮮人名望家も一介の暴力の対象物に過ぎなかった。

 それでは「親日」とは何か? いかなる牽制も不能でいつでも露骨な暴力に転落できる無法権力に対する附逆行為だ。 「民族」を離れて、このような行為は近代的市民社会を建設しようとする所では容認されえない。 附逆行為をしたことにより、本人も結局は他者に向かってその露骨な暴力を代行することになっているためだ。 親日附逆行為は国内的には土着社会で君臨する暴力組織である植民当局の一員となって、暴力従犯になることを意味するが、国際的にも日帝の加害行為に加担して自らが加害者になることを意味した。 例えば朴正煕(パクチョンヒ)の傀儡満州国歩兵第8師団服務と(おそらく朝鮮人独立活動家を含むと推測される)中国共産党八路軍「討伐」への参加は「民族背信」の次元を越えて、後に東京裁判で有罪判決を受けた戦争犯罪である日帝の中国侵略に加担する行為であった。 事実、相当数の親日附逆派が被侵略国家では「悪質的侵略従犯」の姿を見せた。 例えば、後に韓国文教部長官や複数の大学の総長を務めて朴正煕の「歴史教師」として名を馳せた歴史学者イ・ソングン(1905~1983)は、満州国で日本軍に軍糧米を納入する安家農場を管理した時期、中国人に対する苛酷な態度で中国農民の間で悪名を駆せた。 親日派のこのような中国侵略加担は、結局後に延辺の朝鮮人を見る中国社会の一部の視線に否定的影響を及ぼすなど。長期に亘り多くの罪なき人々に苦痛を抱かせることになった。

 「民族に対する裏切り」というよりは、国内外の権力型暴力への加担こそは「親日派問題」の核心だ。 親日派を断罪するのは「民族の精気を取り戻す」というよりは、暴力社会から正常社会に進むための前提条件だ。 親日派が当初から事実上権力をそっくり継承してきた大韓民国の明白な特徴は、植民地的暴力性がそのまま引き継がれ、むしろ拡大したことだった。 朝鮮人なら誰でも無条件に拷問してもかまわない、という考え方に慣れた親日警察の出身や、中国などで現地人を虐殺することに慣れた日本軍将校出身者は、結局大韓民国という新しい枠内でも自国民に同じ方式で接することを当然視することになった。 光復(解放)70周年が過ぎた今になって、親日派の話を持ち出すのかと言う人々がたまにいるが、その話をおそらく光復100周年になっても続けなければならない理由はまさにここにある。 米国の絶対的保護下で反共の「砦」になって、新生独立国家である大韓民国で権力をそっくり引き継いだ親日派が駆使してきた植民地的対民間統治方式が今もそのままに行われているためだ。

 例えば今生と死の境をさまよっている農民ペク・ナムギ氏の場合を見よ。彼に向けて照準し放水銃を直射した警察の行為は、当然に未必の故意による殺人未遂と規定しなければならない。 正常な社会での警察の業務が「秩序維持」だとするならば、いかなる暴力行為もしなかった農民ペク・ナムギ氏にわざと殺そうとしたように放水銃を撃ったことは「自国民との戦争」に近かった。 それでも、この権力型犯罪行為に対してまともな捜査も責任者の処罰もない。 一部の支配層を除く残りの自国民に対して、言うことをよく聞けば単純な統治対象、言うことを少しでも聞かなければ制圧すべき敵と把握するような統治方式は、果たしてどこから派生したのか? 植民地時代の反逆者がそっくり権力を受け継いだ社会でなければ、自国民に植民地民のように接することは可能だろうか?

 親日派に対する断罪は、その意味が不明で抑圧的感じが強い「民族の精気」のためではなく、私たちの子供のために必要だ。 権力と暴力がほとんど同義語になったこの社会では、子供たちが果たして正常に成長できるか? 大人の社会で蔓延した暴力が学校暴力につながり、子供たちは幼い時からげんこつこそが正義だと習ってしまう。 韓国社会の暴力化の一主犯である親日派に対する明確な整理が結局は社会全般の脱暴力化の一出発点になることを、私は歴史から学び、最も熱望している。

朴露子(パンノジャ、Vladimir Tikhonov)ノルウェー オスロ国立大教授・韓国学

韓国語原文入力:2016-02-23 19:27
http://www.hani.co.kr/arti/opinion/column/731734.html 訳J.S(3856字)」

http://japan.hani.co.kr/arti/opinion/23412.html

(26)外国の緊急事態条項「多数の国が採用」は誇張 首相提案は「独裁権」/沖縄タイムス

2016-02-24 18:52:48 | 政治
「 前回、安倍首相が、国会の関与なしに内閣が法律と同じ効力を持つ政令を出す仕組みを提案していることを指摘した。安倍首相は、こうした緊急事態条項は、「国際的に多数の国が採用している憲法の条文」であり、導入の必要性が高く、また濫用の心配はないと言う(1月19日参議院予算委員会)。これは本当か。外国の緊急事態条項と比較してみよう。


 戦争や自然災害が「いつ起こるか」は予測困難だが、「起きた時に何をすべきか」は想定可能だ。そして、警報・避難指示・物資運搬等の規則を細かく定めるのは、国家の基本原理を定める憲法ではなく、個別の法律の役割だ。このため、外国でも、戦争や大災害などの緊急事態には、事前に準備された法令に基づき対応するのが普通だ。


 例えば、アメリカでは、災害救助法(1950年)や国家緊急事態法(1976年)などで、緊急時に国家が取りうる措置が定められている。また、1979年に、カーター政権の大統領令により、連邦緊急事態管理庁(FEMA)という専門の行政組織が設置された。


 FEMAが関係機関の調整機能を果たすことで、地震やハリケーンなどの大災害に見事に対処してきたと言われる。フランスでは、1955年に緊急事態法が制定され、政府が特定地域の立ち入り禁止措置や集会禁止の措置をとることができる。昨年末のテロの際には、憲法上の緊急事態条項ではなく、こちらの法律を適用して対処した。

 では、憲法上の緊急事態条項は、どのような場合に使われるのか。まず前提として、多くの国の憲法は、適正な法律を作るために、立法には慎重な議会手続きを要求している。柔軟な立法のために、議会手続きを緩和するには、憲法の規定が必要になる。

 例えば、アメリカ憲法では、大統領は、原則として議会招集権限を持たないが、緊急時には議会を招集できる(合衆国憲法2条3節)。また、ドイツでは、外国からの侵略があった場合に、州議会から連邦議会に権限を集中させたり、上下両院の議員からなる合同委員会が一時的に立法権を行使したりできる(ドイツ連邦共和国基本法10a章)。

 フランスや韓国には、大統領が一時的に立法に当たる権限を含む措置をとる規定があるが、それは、「国の独立が直接に脅かされる」(フランス第5共和制憲法16条)とか、「国会の招集が不可能になった場合」(大韓民国憲法76条)に限定される。

 つまり、アメリカ憲法は、大統領に議会招集権限を与えているだけだし、ドイツ憲法も、議会の権限・手続きの原則を修正するだけであって、政府に独立の立法権限を与えるものではない。また、フランスや韓国の憲法規定は、確かに一時的な立法権限を大統領に与えているものの、その発動要件はかなり厳格で、そう使えるものではない。

 これに対し、安倍首相の提案する緊急事態条項は、発動要件が曖昧な上に、政府の権限を不用意に拡大するもので、緊急時に独裁権を与えるようなものだ。こうした緊急時独裁条項を「多数の国が採用している」というのは、明らかに誇張だろう。

 外国の憲法と比較するのであれば、もう少し慎重な態度が必要である。(首都大学東京准教授、憲法学者)」

http://www.okinawatimes.co.jp/cross/?id=383

【社説】 内閣法制局 内部文書を国会に示せ/東京新聞

2016-02-24 18:49:05 | 政治
 東京新聞の社説は正しい。当然政府は資料を開示すべきだ。

「 どのように集団的自衛権をめぐる憲法解釈を変更したのか。内閣法制局は内部検討資料があるのに国会への開示を拒んでいる。憲法上の重大問題だけに、解釈変更のプロセスは明らかにすべきだ。

 日本は相手から攻撃を受けていないのに、武力で同盟関係にある他国を守る-。簡単に言えば集団的自衛権はそう説明できる。政府は従来一貫して、この行使は認められないとしてきた。

 有名なのは一九七二年の政府見解だ。ここでは、自衛の措置をとることはできるが、平和主義を基本原則とする憲法が無制限にそれを認めているとは解されないこと。さらに集団的自衛権の行使は憲法上、許されないことをはっきりと明言している。

 むろん、「憲法の番人」といわれる歴代の内閣法制局長官もこの見解を踏襲している。国民に対しての約束事であり、国際社会に対する約束事であったはずだ。

 ところが、一昨年七月に安倍晋三内閣がその約束事をひっくり返し、集団的自衛権の行使容認を閣議決定してしまった。「専守防衛」という防衛政策を根底から覆すとともに、多数の憲法学者から「憲法九条に反する」という声が上がった。立憲主義が破壊されたという指摘も多かった。

 閣議決定に至って当然、内閣法制局内部でも検討があったはずだが、これまで同局では内部検討の経緯を示した資料を公文書として残していないとしてきた。公文書として保存しているのは、首相の私的諮問機関の資料や与党協議会の資料、閣議決定原案の三種類だけと思われていた。

 しかし、横畠裕介長官は国会で、内部検討資料とみられるデータが存在することを認めた。国会審議に備えた想定問答の作成途中のものだと考えられている。法制局が使うサーバー内に保存されているようだ。

 それならば、国会に対して開示すべきではないか。公文書管理法が定める行政文書にあたらないと判断しているらしいが、そもそも同法は行政の意思決定のプロセスを外部からチェックできる趣旨でつくられている。後の歴史検証にとっても不可欠である。
 この閣議決定は憲法改正に等しい事態だった。それを受けた安全保障関連法も憲法違反の疑いが濃厚で、野党から廃止法案が出ている。国会に提示すべき文書といえよう。内閣法制局が重要文書の開示を拒み続けるのは、国民の「知る権利」の侵害と同じだ。」

http://www.tokyo-np.co.jp/article/column/editorial/CK2016022402000133.html

日本:特定秘密保護法案 公益を守るため見直しが必須/ヒューマン・ライツ・ウォッチ

2016-02-23 18:06:57 | 政治
「(東京)-日本政府は特定秘密保護法案を見直し、国際法が保障する国民の権利に沿った法案にすべきである。国際法の下で日本政府が負う義務を果たすために、法案は、内部告発者やジャーナリストに対する明示で保護し、人権条項を強化するとともに、「特定秘密」の定義を安全保障に著しい脅威となる情報に限定した上で、明確で制限的な秘密指定の基準が確実に設定されるように措置をとる必要がある。

この「特定秘密の保護に関する法律案」は、現在国会で修正協議が行われており、今週前半に衆議院を通過すると見られている。現行法案は政府に対して、防衛、外交、「特定有害活動」とテロリズムに分類される、「その漏えいが我が国の安全保障に著しい支障を与えるおそれがある」情報を「特定秘密」に指定する権限を与え、これらの秘密を漏らした者への罰則を強化する。

ヒューマン・ライツ・ウォッチのアジア局長ブラッド・アダムズは「安倍政権下のこの法案は、知る権利を制限し、公益のためになる情報を明らかにしたジャーナリストや内部告発者までも処罰する内容となっている」と指摘。「この法案が日本政府の国際的義務に適合するよう修正されないならば、国会は法案を否決すべきだ。」

日本にはすでに、機密情報分類に関する一連の法体系が存在する。本法案が成立すれば、安全保障に「支障」をきたすに過ぎない情報の漏えいに対して、実際の危害を示し、民主主義社会に重要な知る権利とその危害を比較考量することを条件とすることもなく、現行法よりも重い罰則が適用されることになる。

日本も締約国である「市民的及び政治的権利に関する国際規約」によれば、知る権利の国家による制限が許されるのは、国の安全を保護するのに「必要な」ときに限られ、しかも、その措置は最小限にとどめ、民主主義国における他の権利の尊重と齟齬をきたさない形でなされなければならない。国家安全、表現の自由、情報へのアクセスの自由に関するヨハネスブルグ原則は、安全保障に関する情報への人権保護の適用について、1996年に国際法の専門家集団が定めた有力な原則であるが、このヨハネスブルグ原則は次のように定めている。「(……)規制が、正統な国家安全保障上の利害を保護するために必要なものであることを示すためには、政府は(a)当該の表現や情報が、正統な国家安全保障上の利害に対する深刻な脅威を生じさせることを証明する義務がある(……)。」

法案は、「特定秘密」を漏らした者を、最大10年以下の懲役及び1,000万円以下の罰金に処すると定める一方で、不正の証拠を明らかにする内部告発者の保護は盛り込まれていない。国際基準は、内部告発者が開示した情報の公益が危害を上回る場合、刑事責任を負わせないことを求めている。

現行の公益通報者保護法は、内部告発を行った労働者を解雇などの報復措置から守る法律であるが、刑事責任から守る規定はない。さらに、漏えいされた政府情報を単に受け取り、伝達し、あるいは開示したジャーナリストや出版関係者までもが刑事責任を負う可能性があり、これは表現の自由の重大な侵害といえる。日本政府は内部告発者と報道機関への保護策を、国家安全保障と情報への権利に関する国際原則(ツワネ原則、日本語訳はこちら)と最低限一致するかたちで定めるべきだ。同原則は、国際人権法の現行の解釈と国家のベストプラクティスに由来する。

特定秘密保護法案は第21条で、法律の適用にあたっては、国民の基本的人権と報道又は取材の自由に十分に配慮しなければならない、と定めている。しかし、出版又は報道の業務に従事する者の機密情報の収集については、「著しく不当な方法」によると認められないときに限って処罰しないとし、その定義はあいまいだ。また、第21条は公益のために情報を収集するそれ以外の人々(研究者、ブロガー、活動家、独立監視団体など)の保護に欠け、情報収集手段の適切性の判断を行政と司法の手に委ねることになる。

法案では、特定秘密の指定および解除の基準も明示されていない。言論および表現の自由の権利の保護・促進に関する国連特別報告者フランク・ラ・リュ氏と、健康の権利に関する国連特別報告者アナンド・グローバー氏は、日本の状況、とくに最近の福島原発事故と健康リスクに関する情報の非開示を踏まえて、同法案が情報の最大限の開示という原則を満たしていないことに、懸念を表明した。ラ・リュ特別報告者は9月、真実への権利についての報告を発表し、重大な人権侵害行為やそれにかかわる情報など、政府の情報非開示が許されない場合が存在すると強調している。

特定秘密の指定と解除の基準については修正議論が行われてはいるものの、公益との関係性や、審査の便宜のため、秘密指定と更新の際に行政機関が理由を書面で示す義務を負うかなどが基準に盛り込まれる様子はない。また、法案は、不正のもたらす困惑や不正の暴露からの政府の保護、政府機関の活動に関する情報の隠匿、特定のイデオロギーの確立、労働不安の鎮圧を目的としているに過ぎないのに安全保障を理由として秘密指定を行うことはできない、と明示すべきである。そして、秘密指定5年後の最初の見直しの後は、司法審査を可能とすべきである。

前出のアダムズ局長は「現在の法案では、日本政府の透明性は著しく低下し、日本が負う国際的人権上の義務に政府は背くことになる」と指摘。「政府は法案を再検討すべきだ。そして、公益ならびに知る権利と、政府の秘密保持とがしっかり均衡を保つことが重要と認めた法律を提案すべきだ。」 」

https://www.hrw.org/ja/news/2013/11/25/251888

老人ホーム連続転落死に見る「介護崩壊」の予兆 90歳入所者が暴露した「“豪雨”の介護現場」のリアル

2016-02-23 15:45:17 | 政治
「 以下のメッセージは、私の知人でもあり、最高齢の“友人”でもある90歳の女性が、先週送ってくださったモノだ。彼女は、有料老人ホームで要介護の夫と暮らしている。

 川崎市幸区の有料老人ホーム「Sアミーユ川崎幸町」で入所者3人を殺したとして元職員の男が逮捕された件で、

「今度の事件もただうわべだけで判断できないものを感じています。介護の現場の実情を一人でも多くの人に知ってもらいたい」

と、メールを送ってくださったのである。

有料老人ホームに住む90歳の友人からの手紙

 容疑者の計画的な犯行は決して許せるものじゃない。「ストレスが殺害動機につながった」といった趣旨の見解も、あまりに直接すぎて引っかかるものもある。

 「他人事ではない」とする“友人”の話には、今の介護現場のリアルが描かれていれていた。そこで、“自分たちの問題”として、まずはお読みいただきたいと思う。

「Sアミーユ川崎幸町で起こったことは、他人事ではないような気がしています。殺害なんて絶対に許されることではないし、虐待も暴力もいかなる場合も許し難いことです。

 でも、入所者の中には大声で喚き散らす人、たえずヘルパーを呼びつける人、自分がわからなくなってしまった人、思うようにならないとヘルパーの手にかみつく人など、さまざまです。

 そんな人達の家族に限って 面会に来ることがなく、ホームに預けっぱなしなのです。

 私は夫とともに、毎日、食堂で食事をしているのですが、食事は終わったのに、食べた感覚がなく『食事を早くください!』『死んでしまいます』と大声でわめいている女性がいて、若いヘルパーが優しく対応している姿に頭の下がる思いがしています。

 ヘルパーさんたちがあまりに大変そうなので、食器を運ぶくらいお手伝いしようと申し出ました。でも、絶対にやらせてもらえません。ナニかあったときに、施設の責任になるからです」

「感謝の言葉だけでは、彼女・彼らが報われません」

 「先週、またヘルパーが2人辞めてしまいました。理由は『給料が少なくて結婚できないから』ということでした。離職者があとを絶たず、なかなか補充もできないので、残ったヘルパー達が、過重労働を強いられているのが現状です。

 ホームには各部屋にインターホーンが設置してありますが、認知症の進んだ入所者が夜間もひっきりなしに押すこともしばしばです。夜勤ヘルパーは、その度に対応しなくてはならない。就寝前に投薬が必要な人もいるので、夜勤の仕事はかなり重労働です。

 ヘルパーの中には夜勤はしない、という条件で勤務している人もいるので、限られたヘルパー達が順番でやっています。すぐに順番がやってくるので、真面目なヘルパーは体重は減るわ、顏はやつれるわで見ていて可哀想になります。私はいつもそんな彼等に感謝と激励の言葉を送っていますが、そんな感謝の言葉だけでは、彼女・彼らが報われません。

 みなさん、献身的にやってくださります。でも、……人間には限界ってものがありますよね」

「高齢者へ3万円支給するなら、介護関係に回すべき」

 「政府は『施設を作る』と言っていますが、その前にヘルパーの待遇を改善すべきだと思います。ヘルパー不足は入所者へ深刻な影響をもたらしているのです。1日4回だったオムツ交換が3回になり、夜間見回りもなくなり、適性があろうとなかろうとスタッフを採用するしかない。悪循環です。

 私は今度の事件で介護ヘルパーが尻込みしてしまわないか、心配です。多くのヘルパー達は献身的に頑張っているのです。待遇改善に向けた世論がもっと高まらないものか、といつも思っています。

 所得が低い高齢者へ3万円支給する余裕があるなら、介護関係に回すべき、だと思います。ここはまさしく姥捨山です。入所者たちはみんなそう言っています。

 入所者は、家庭内介護が限界にきたために、本人の意志ではなく“入れられた”人が多いので、私のように発言できる入所者は滅多にいないと思います。

 私のコメントがお役に立つようでしたら、こんな嬉しいことはありません。どうか薫さんのお力で、たくさんの方に現状を知ってもらってください」

 以上です。

介護施設が、人の「生きる力」を奪いつつある

 これが人生の終の住処、介護の現場のリアルです。

 介護する人、される人、介護施設を運営する人、預ける人……。

 “友人”のメッセージには、介護という現場に関わるすべての立場の人たちの、日常と、苦悩と、懸命さと勝手さと……。そして、自分ではどうにもできないジレンマが描かれていて、正直ショックだった。

 これまでにも介護問題は度々取り上げてきたし、現場の方たちの話をいくどとなく聞いてきたけど、今回改めて、介護施設という“環境の力”が、暴力的なまでに、そこに“いる人”の生きる力を食い荒らす“化け物”になっていると感じてしまったのだ。

 だが残念なことに、現状の「介護」には誰もが「問題あり!」と感じているのに、どこか他人事で。実際に自分の頭の上に“雨”が降ってこないことには、その雨の冷たさがわからない。

 そう。「すごい大変な雨が降ってる」と頭でわかっても、心で感じ取ることが実に難しい問題という問題がある(ややこしい)。

 私自身、自分では介護関係の人たちの話に耳を傾け、現場に足を運び、寄り添っていたつもりだったが、父のことがあって初めて本当の“雨”の冷たさがわかった。

 “プレ介護”状態になった父との関わり方に戸惑う事ばかりで。

 不安と、切なさと、怒りと、悲しさと……。ストレスの専門家なのに、ぐちゃぐちゃで上手く対処できなかった。唯一ホッとできた瞬間は、「なんか今日、パパ元気だ!」と感じられたときだけで。

 散々「生きる力」だのなんだの研究してきたにも関わらず、「人間に本当に生きる力なんて、あるのだろうか?」と思ってしまったり、研究してきた理論も、調査結果も、なんだかえらく遠い世界の出来事のように感じた。

 しかも、なぜがそれを誰にも言えなかった。いや、言いたくなかったといった方が正確かもしれない。

 自分でさえ認めたくない“自分“を感じとる瞬間があって、私自身がそれに耐えられなかったのだと思う。うまく言えないけど……。

増える介護施設での利用者虐待

 実はこの“友人”のメッセージを、他のメディアで取り上げたとき「90歳の方の言うことを鵜呑みにするのか?」「この介護施設だけの話だろ」という意見があった。

 批判を恐れずに言わせていただけば、「90歳を舐めるなよ!」と。“友人”は私よりよほどしっかりしていて、世の中を実に冷静に、客観的に、やさしく、ときに厳しく見つめるまなざしをもっている人生の大先輩だ。

 「うぬぼれかもしれないけど、私はここにいる人たちの代弁者だと思っています」――。 メッセージの最後にはそう加えられていた。

 そもそも介護保険制度は、介護を医療から分離することで始まった制度だ。高齢化が進み、医療の範疇のままでは医療費がかさみすぎるという考えから、医療と介護とに分けられた。専門家の中には、「そもそもこの制度自体、介護にはお金をかけないという視点から始まった経緯がある」と指摘する人もいる。

 人間には限界ってものがありますよね――。

 この言葉の真意を、もっともっと、一人でも多くの人が“我が事”ととして受け止め、考えて欲しくて、“友人”のメッセージをここでも取り上げさせてもらいました。

 厚労省が2月5日に、高齢者虐待防止法に基づき発表したデータによれば、2014年度に特別養護老人ホームなどの介護施設で発覚した職員による高齢者への虐待は300件(前年より35.7%増)で、過去最多を記録した。

 被害の約8割は認知症のお年寄りだった。また、虐待の内容は、殴る蹴るなどの「身体的虐待」が最も多く63.8%。次いで、暴言を吐くなどの「心理的虐待」、「経済的虐待」おむつを替えないなどの「介護放棄」だった。

 また、虐待をした職員の年齢は、「30歳未満」の割合が22%で最も高く、男性の場合は34.4%、女性だと17.3%を占めた。

 虐待の要因は認知症への理解不足といった「教育・知識・介護技術などに関する問題」が6割超と最多で、「職員のストレスや感情コントロールの問題」が約2割だった。

 厚労省の担当者は「知識不足とストレスが合わさって虐待に至ってしまうケースが多いようだ」としているという。

本人が独力で解決できる問題なのか???

 「知識不足とストレス」――か。

 確かにその通りなのだろう。だが、どこか他人事のようで……。もっと環境にスポットを当ててくれよ、と。

なぜ、「虐待」の原因にストレスがなってしまうのか? 
介護の現場の、ナニがストレッサー(ストレスの原因)になっているのか?
そのストレスを軽減するには、どうしたらいいのか? 

 厚労省の役人であればこそ、
「介護の制度やあり方には構造的に問題がある。超高齢化社会に向けて、国は根本的に考え直す必要があるかもしれない」
くらいのことを言ってほしかった。

 いかなる状況であれ、虐待や暴力は許されることじゃない。だが、そこで起こる“事件”は、環境の問題でもあり、心、すなわち感情の問題でもある。お国の“担当者”であれば、それくらいわかるはずだ。 

 批判ついでに言わせてもらえば、「知識習得」っていうけど、物理的にも精神的にもギリギリの状態で働いている介護の現場の人たちに、知識を習得する時間などない。今の状況のままで、たとえ機会を義務付けたところで、本当に効果的な教育が行えるのか?

 「離職者があとを絶たず、その補充もなかなか見つからないので、残ったヘルパー達が、過重労働を強いられているのが現状」(前述の手紙より)で、特に「夜勤」は精神的にも、肉体的にも負担だ。

 虐待が発生している現場では夜勤が月15日以上、勤務時間は280時間にも及ぶ例があり(NPO法人全国抑制廃止研究会調べ)、介護職の方の中には手取りが10万円ちょっとで、生活のためにバイトをしている人もいる。

 2015年12月の介護サービスの有効求人倍率は3.08倍で、全職種平均の1.21倍の2倍超。 14年度の年間離職率は16.5%(介護労働安定センターの調べ)。このうち勤続1年未満で辞めている人が約4割を占めた。約6割が「職員が不足している」と答えた。

学び、磨く時間がどこにあるのか?

 念のため繰り返すが、知識が重要なのは当然のこと。

 だが、いつ、どこで、どうやって知識を習得する機会が作れるのか? 現状をしっかり見据えた上じゃなきゃ、ただの机上の空論に過ぎないのである。 

 しかも厚労省は人手不足解消のために、介護職の資格要件の緩和の措置を打ち出している。団塊世代が75歳以上になる「2025年問題」に備え、質よりも量といわんばかりで、あべこべじゃないか。

 そもそも介護や保育などのヒューマンサービスワーカーたちは、究極の感情労働者(emotional labor)だ。

 かつて肉体労働者が、自分の手足を機械の一部と化して働いたように、感情労働者は自分の感情を自分から分離させ、感情それ自体をサービスにするため、とんでもなくストレスがかかる。

 特に介護現場の感情労働者は、サービス対象となる要介護者の数だけ、感情を切り分け、演じる必要があるため、降りそそぐ“ストレスの雨”も多い。

 認知症のおじいさん、車いすのおばあさん、ベッドで一日中すごす寝たきりの老夫婦……。身体の状態、認知機能、突然の変化、10人いたら10通りの“感情”が求められる。

 それでも“人生の最終章”を、できるだけ“心地よいひととき”を過ごしてもらいたい、少しでも“笑顔”にさせてあげたいとほとんどの介護職の方たちは願っている。

 もちろん鼻っからヒューマンサービスの適性が微塵もない人もいるかもしれない。人手不足から適性を見極める余裕もなく、人を雇っている施設も少なくない。でも、それでも、「多くのヘルパー達は献身的に頑張っている」(前述の手紙より)のである。

年中“雨季”なのに、どこにも傘がない

 
 だが、ギリギリの人数で、長時間労働を強いられ、二言目には「責任、責任」と家族から責められ、高齢者と上手くコミュニケーションが取れなかったり、何度注意しても聞いてもらえなかったり、暴れられたりしたら……、誰だって心が折れる。

 真逆の感情が自分の内部で激しくぶつかりあい、「抱くべき(抱きたい)感情」と「抱いた感情」のズレを修正できず、感情の不協和に陥り、燃え尽きたり、罪の意識にさいなまれたり、本当の自分が分からなくなったりと、極度なストレス豪雨でびしょ濡れになってしまうのだ。

 いわゆるバーンアウト。

 「持続的な職務上のストレスに起因する衰弱状態により、意欲喪失と情緒荒廃、疾病に対する抵抗力の低下、対人関係の親密さの減弱、人生に対する慢性的不満と悲観、職務上能率低下と職務怠慢をもたらす症候群」

 こう定義される状態に陥るのである。

 実際、介護職に携わる3割以上もの人がバーンアウト状態にあるとの報告もあり、「賃金の低さ」だけじゃなく、バーンアウトも離職の大きな理由なのだ。

 つまり、「ストレス」「ストレス」とマスコミも含め言葉を連発し、「ストレスが虐待の原因」などと口にする“先生”もいるが、介護の現場はもともとが“湿潤気候”。梅雨のようなシトシトとした雨と、落雷を伴うゲリラ豪雨が繰り返し降る、ストレスの雨の多い職場だ。

 そういった職場環境では「雨を減らす努力」と「傘を増やす努力」の両方が求められる。

「3万円」を何に使いますか?

 そう。どんなに雨の多い職場でも、傘をたくさん準備し、時には同僚や入所者の家族に傘を借りたり、傘に入れてもらえれば、びしょ濡れにならずにすむ。だが、今の介護の現場には「傘」がない。。

・時間的余裕
・余暇や休息の時間
・専門知識
・専門的スキル
・サポーティブな人間関係(上司、部下、同僚、入所者の家族 etc)
・労働に見合った金銭的報酬
・ねぎらいの言葉などの心理的報酬
・社会からの評価
etc etc…… 

 そういった“傘”がない状態で、土砂降りの雨の中で戦わされている。傘で雨をしのぐことさえできれば、「おじいちゃんやおばあちゃんの笑顔」で、元気になれる。

 「大変だったけど、良かった」――。
  そんな風に思える瞬間が職務満足感を高め、モチベーションを引き出し、いいサービスにつながっていく。

 と同時に、雨を上手くしのいだ成功体験が、そこで働く人たちのストレスに対処する力を育くみ、激しい雷雨に襲われても、折れない生きる力を引き出すのである。

 私が今、書いていることは「夢の世界」だと思われるかもしれない。ふむ。そのとおりだ。でも、こういった傘の多い世界を目指すべきだし、雨を雨と感じなくてすむ教育をすべきだし、そうなれば、「年をとることの不安」も少しだけ軽減できる。

 とはいえ最大の問題は、こんな夢物語を語っている最中にも、土砂降りの雨に濡れている介護職の方たちが山ほどいて、せつない思いをしてるおじいちゃん、おばあちゃんがいるってこと。

 では、どうすればいいか? いちばん手っ取り早く増やせる傘は何か?――。それはとにかく「賃金を上げる」ことだ。

 「所得の低い高齢者へ3万円支給する余裕があるなら、介護関係に回すべき」(前述の手紙より)。

 介護職員の平均月収は21万円程度で、他の職種より10万円ほど低い。これには施設長や看護職員など、比較的高い賃金の職種の方たちも含めた数字なので実際の月収は10万円程度という人も多い。

 この低賃金を一般平均である30万円程度にするには、年間1兆4000億円が必要となる(NPO法人社会保障経済研究所算出)。労働人口で単純計算すると「1人あたり年間3万円弱」。今後、高齢化がさらに進むことを考えれば、将来的には負担額はもっと多くなるに違いない。

 3万円の価値。アナタはどう考えますか?」

http://business.nikkeibp.co.jp/atcl/opinion/15/200475/021900035/?P=1

沖縄に仕掛けられた罠?今井絵理子氏、自民党から出馬に広がる違和感

2016-02-12 19:12:11 | 政治
「9日、ボーカル&ダンスグループSPEEDのメンバー、今井絵理子氏は自民党本部にて参議院選挙への出馬会見を行った。シングルマザーとして聴覚障害をもつ息子を育てている今井氏は、手話を交えた会見で「障害をもっている子どもたちがより明るい希望をもてる社会づくりをしたい」と、出馬にかける思いを語った。今井氏は、先月18日に、自民党から出馬オファーを受けたことを明かしている。


ファンならずとも感じている違和感は、「またタレント議員の誕生か」「政策など何の関係もなく、有名人は選挙の数合わせのためだけに利用される」という失望からくるものだ。もちろん、今回の参院選で今井氏が当選するかどうかはまだわからないが、当選する可能性は限りなく高いだろう。2013年の参議院選挙の際は、自民党比例公認の29名の候補者のうち18名が当選した。自民党は今年の選挙に向け昨年末までに比例で22名の候補を公認している。今井氏を含め、25名程度まで増やす予定だ。

ツイッター上ではハッシュタグ #今井絵理子さん自民から出馬しないで が拡散し始めている。

安保関連法に反対するママの会@沖縄は「安保法案の採決で日本中が揺れた昨夏、インターネットで堂々と戦争反対を表明された今井絵理子さん。沖縄出身の同じママとして、わたしたちはとても励まされました。その今井さんが自民党から参院選に出馬するかも知れないというニュースに触れ、大変驚いたとともに、誤報であって欲しいと願わずにはいられない心境です。」などのコメントを出し、出馬を思いとどまってくれるよう促している。

知名度の高いタレントやスポーツ選手が比例区で出馬し当選した例は多数あるが、今回は少し様相が違っている。今井さんが沖縄の出身であることは自民党にとって大きな意味をもつ。今回の出馬は比例代表であり、選挙区は関係ないが、SPEEDのメンバー全員が沖縄出身であることは広く知られている。今年の参議院選挙で当選した場合、次回改選時に、知名度を生かして選挙区に鞍替え出馬をする可能性も大いにある。現に2010年の参院選で比例当選し、今回改選をむかえる自民党・三原じゅん子議員は、神奈川選挙区から出馬することになった。

先月末の宜野湾市長選挙で、ディズニーリゾート誘致を公約に掲げた自民党公認の佐喜真淳氏が2期目の当選を果たしたことは記憶に新しい。普天間飛行場の、名護市・辺野古への移設をめぐって国と沖縄県との法廷闘争が三件も並行して続いている現状では、政府は沖縄の更なる懐柔策を必要としている。今回、知名度の高い今井氏が比例で当選すれば、島尻安伊子沖縄・北方担当大臣の貴重な援護要員となる。直近の衆議院選で自民党は、沖縄県内全ての小選挙区を県内移設反対派にとられてしまったからだ。

全国の有権者が今井氏に投票する資格を得ることになるわけだが、沖縄県外の有権者が沖縄の基地問題を投票の決め手とする可能性は低い。沖縄の問題ではなく、障害のある子どもたちの福祉政策に期待して投票する人も多く出てくることだろう。しかし今井氏当選の暁には、それがどんな想いで投じられた票であったとしても、今井氏が基地問題をめぐる国と県との対立に巻き込まれることは想像に難くない。」

http://jp.sputniknews.com/opinion/20160210/1581295.html

移民だけが“ヘル朝鮮”の脱出口に見える理由/ハンギョレより

2016-01-24 16:14:34 | 政治
 以下の韓国の状況は韓国だけのことではなく、日本にも、特に日本の若者によく当てはまることだと思います。いかがでしょうか。

「朴露子(パクノジャ)の韓国、内と外

イラストレーション キム・デジュン //ハンギョレ新聞社

 外国へ移住するという若者たちと深層的対話をしてみれば、彼らにとって北欧ないしは欧米地域の相対的高賃金や高福祉が移民欲求をかきたてたとばかりは言えないことが知れる。 彼らの移民志望動機は、第一が民主化の失敗であり、第二は朴槿恵(パククネ)政権の“労働との戦争”だ。

 ところが移民しようが資本主義世界の一般的問題である搾取や疎外、差別などを避けられるわけではない。 結局“労働者”としての自覚を持って、国内でも労働者が人間らしく生きられる世の中を作るために共に闘うことこそがより良い方法ではないかと思う。

 私は今年でノルウェーに来て16年になる。 その間全く変わらないことが一つある。 この16年間、私には多いときは週に数件ずつ、少ない時でも月に数件は「北欧にどうにかして移民できないだろうか」のような類の問い合わせが韓国から届いている。 移民問題と何の関係もない一介の教員労働者である私にそのような問い合わせが来るのは、それだけ韓国に北欧との接点が少なくて、関連する専門家が少ないためだと思う。 最近になってそのような問い合わせが急速に増えたことも確かだ。 それだけ輸出と不動産市場、マルチ商法に依存する韓国経済が、最近大きな危機を予感して多くの人が“脱南”(?)を考え始めたのではないかと考えられる。 電子メールでの問い合わせだけでなく、韓国の青年、学生たちと対話をするたびにいつもリフレインのように「ヨーロッパのようなところに移民して暮らしたい」という言葉が聞こえてくる。 青年たちのこの“脱南ラッシュ”(?)をどのように理解すべきだろうか?

 私は北欧移民とは何の職業的関係もないと言ったが、“移民”問題それ自体は私にとっては“自分の問題”でもある。 私自身が一種の移住移民者だからだ。 初めはソ連の廃虚から韓国に行き、それから韓国のある私立大学で3年間非正規教員として仕事をした後にノルウェーに就職移民に行ったからだ。 私の場合、移民の動機を説明するのは極めて簡単だ。 最初の移民は単純にひもじかったからだった。 1990年代中盤のモスクワでは、特に家賃を払って住宅を借りなければならなかった私のような場合には、一つの大学で契約専任講師として韓国語を教えると同時に、別の三つの大学で時間講師として講義をしても、とうてい飢えを凌ぐことはできなかったために、非正規教員(正確には3年契約の講義専任講師)の賃金で一応生活できたソウルに行ったのだ。 二回目の移民は契約期間が満了したので行ったのだが、その他に自分は基本的に外部者であり韓国学界の構成員にはなれないことを実感したことが大きな動機だった。 同じ“胎生的韓国人”でさえも一部の専攻では特定大学の特定学科を卒業していなければ生涯を“庶子”として生きることを余儀なくされる状況なのに、貧困国出身の外部者に韓国学界への編入が容易なはずがあろうか? ところで、私に向って「どうしても外国へ移住したい」意向を明らかにした韓国の青年の大多数は、ひもじくて言っているわけではなかった。 高卒の青年もいたが、相当数は“名門大”出身であり、少数だが彼らの中にはすでに正社員として就職できた幸運児もいた。 差別にさらされがちなアジア系外部者として、慣れない北欧に行って生涯をそこで社会編入問題と取り組む覚悟をしてまでも、経済大国である大韓民国の若く賢い人材が移民熱を燃やす理由は果たして何なのか?

 もちろん、一義的には多くの若者が資本主義世界の労働者として当然にも自分たちの労働をより有利な条件で売ろうと思うことから移民を望む。 韓国の保守マスコミは異口同音に「高費用低効率」と恨んでいるが、統計的に見れば韓国は高賃金社会では全くない。 勤労者平均年俸(約3千万ウォン)は日本の約80%、ドイツやフランスの60%、アメリカやカナダの50%に過ぎない。 そのうえ高学歴者の就職競争は一層激しく、労働時間ははるかに長く、労働強度もはるかに高く、老齢年金や無償医療・教育サービスとして提供される社会的賃金も質的にも量的にも北欧のそれとは比較にならない。 簡単に言えば、“社会貴族”と言われるごく少数の職群・職種(“名門大”の専任教授、医師、高級公務員や財閥の役員など)以外の場合には“より良い社会”に行ける労働者であれば韓国で仕事をすることは“損害”と言える。 資本家にはるかに多くの時間とエネルギーを奪われていながら、得られる報酬ははるかに少ないためだ。 “ヘル(地獄)朝鮮”の別名は“企業天国労働地獄”なので、まだ“脱出”可能性が多少なりともある若い労働者、ないしは労働者候補生がそんな地獄を抜け出したいと思うのは当然のことではないだろうか? それでも疑問は残る。 特に住宅の賃貸ないし購入費用と子供の育児費用まで考慮するならば、韓国は多くの韓国人にとって薄給の国であるが、果たして賃金だけで疎外と差別に露出しかねない慣れない地域に行って、残った一生を生きる決心がつくだろうか? 1950~70年代とは違い韓国の労働者の賃金は飢餓賃金とまでは言えないのに。

 しかし、外国に移住したいという若者たちと深層的対話をしてみれば、彼らにとって北欧ないし欧米地域の相対的高賃金や高福祉が移民欲求を呼び起こしたとばかりは言えないことを簡単に知ることが出来る。 彼らが言う移民志望動機は、大きく二つに分けられる。

 第一は、“民主化の失敗”と括れる巨大な問題群だ。 もちろん私と話し合った若者たちは、韓国にまだ一部の自由民主主義的制度が残存すること自体を否定はしなかった。 たとえ現在の大統領と執権官僚層が熱心に破壊してはいるものの、まだ制限的ではあっても反対の声を上げて政治・市民団体が現執権者らと合法的闘争を行うことができる。 ところがこのような可能性もますます少なくなっている上に、政治ではなく社会が全く民主化されなくて、むしろ最近では一層再び権威主義化しているということが若者たちを最も苦しめている。 一昨年、“ナッツリターン”事件が話題になったが、事実その事件が外国の空港で、複数の目撃者の前で起きたのでそれなりに知らされて司法処理につながったのだろう、このような“企業における強者の横暴”は韓国企業では常習的であり、減るどころかかえって増えている印象を与える。 会社の中での上司と部下の関係や、大型マートなどサービス業種での顧客と感情労働者間の関係は、民主化・平等化されるどころか一層序列化・暴力化されている。 公開的に維新時期を懐かしむ朴槿恵勢力による国政掌握が韓国政治の後退・再権威主義化の象徴になったが、同じような後退は社会の随所で進行している。 韓国で生きることを“運命”として受け入れた過去の世代の場合には、権威主義的社会関係の強者・上司の暴言や暴力を“妻子のため”になんとか堪えもした。 ところが海外研修が普遍化して、一時は少数の専有物だった外国語駆使力も一般化されたおかげで、若い世代は民主・平等とは逆行している韓国の“ヘル”での人生をもはや宿命として受け入れようとはしない。 かつて多くの女性が無条件に「我慢が肝心」と自らに言い聞かせた家庭内暴力が、この頃では離婚請求理由になり離婚率急増の理由になるのと一脈通じる論理なのに、個人の尊厳と精神の健康を守るために外国に視線を転じる青年たちに果たして石を投げることができようか?

 第二は、朴槿恵政権が行っている“労働との戦争”を、若い労働者や将来労働者になる青年たちが韓国を脱出してでも避けようとしているということだ。 新自由主義は世界のどこでも労働者に残酷だが、朴槿恵時代の韓国ほどに労働者を構造的に絞り取り組織的に無力化させる社会は世界のどこにも見られないほどだ。 例えば、使用者が職場内の恐怖支配に利用することが明らかな韓国雇用労働部の最近出した「低成果者解雇指針」のような文書をノルウェーの労働者が読むならば、19世紀末の搾取工場の話と誤認することが明らかだ。 全国単位の労働者組織の代表を数千名の警察官を動員し逮捕する国家を、果たして韓国以外に挙げられるだろうか? こんなところで労働者として生きることを、運命として受け入れろと言うほうが無理だろう。


朴露子(パクノジャ)ノルウェーオスロ大教授・韓国学 //ハンギョレ新聞社
 “ヘル朝鮮”から出て行きたい気持ちはよく分かる。 しかし、皆が皆できるわけでもなく、出たとしても程度の差こそあれ資本主義世界の一般的問題である搾取や疎外、差別などは避けられないだろう。 結局“労働者”としての自覚を持って、韓国でも労働者が人間らしく生きられる世の中を作るため共に闘争することこそがより良い方法ではないかと思う。

朴露子(パクノジャ)ノルウェーオスロ大教授・韓国学

韓国語原文入力:2016-01-19 21:37
http://www.hani.co.kr/arti/opinion/column/726900.html 訳J.S(3770字)」

http://japan.hani.co.kr/arti/opinion/23142.html

【ケルン集団暴行事件】毅然とした対応を取らないのは左派の自滅行為だ/ハフポトより

2016-01-22 16:23:09 | 政治
「ロンドン―― シリアのアサド政権軍に包囲され、補給路を絶たれたマダヤの町の衰弱した人たちの写真を見て、どれほど多くの人が息を飲んだだろうか? シリアの人道的危機は相変わらず絶望的な状況にあるが、ドイツ・ケルンで大晦日に難民とみられる集団による性的暴行事件が起きてからは、ヨーロッパ全土は右派の大衆主義者による「難民を歓迎しない」感情が勢いを得ているようだ。

1月11日には、スウェーデンのストックホルムで起きた集団による性的暴行が、右派の反発を恐れたスウェーデン警察によって隠ぺいされた疑惑が持ち上がった。ニュースのグローバル化がどんどん進むれている現在に於いては、特にドイツのようなヨーロッパ連合(EU)の国のこととなると、「彼ら」の問題はドイツ国内の問題だけでなく、「私たちの」問題にもなりえる。ヨーロッパのどこであっても、「偏見をもっている」と右派を糾弾するだけでは人々の高まる恐怖心を鎮めることも、議論に勝つこともできない。リベラル派は鏡に向かい、自分を見つめる必要がある。そして、ある程度の妥協をしなければならない。

ケルンの事件が1週間近く経ってから報道されたことで、警察や政府が事件を隠ぺいしたとする非難が、陰謀論のような最悪の様相で広がってしまった。残念ながら、それが何故なのかを理解するのは難しいことではない。女性や10代の少女たちが、大勢の「アラブや北アフリカ出身のような外見」の男たちによって組織的な攻撃をうけたと証言した。女性たちを集団でとり囲み、掴んだり激しくまさぐり、彼女たちの体にはアザが残った。

しかし、当初の報道発表で警察は、その晩は「何事も無く過ぎていった」と主張した。その後、事件が発覚。亡命希望者が関わったという証拠は何もないと繰り返される日々が続き、ケルン市長のヘンリエッテ・レーカー氏は、難民が関わっていることをほのめかすことは「容認できない」とさえ言い切った。

7日に発表された国際警察の報告書の情報を入手したとするドイツの週刊誌「シュピーゲル」は、暴行犯の一部が自分たちはシリア難民であると断言したことが報告書に暴露されていると報じた。一人は警官に向かってこう言ったという。「丁重に扱ってくれよ。メルケルさんが俺を招待してくれたんだからな」。別の男は居住許可証を警官の目の前で引き裂き、「お前らは俺に何もできないぞ。明日また新しいのが貰えるんだから」と挑発するように叫んだ。

私たちは事実に向き合わなくてはならない。事実とは例えば、危険で好ましくない人々が、きちんとした保護を受けるべき難民たちに交じってEUに入る道を見つけてしまうだろうということなどだ。
ケルン事件がドイツで明るみに出た後、イギリスでは右派のメディアだけが、嫌々ながら報道を始めた。警察報告が信憑性を与えたように見えたからだろう。

私たちリベラル派はよく、こういう「無実の難民の中に、腐ったりんごが混じっている」という話を、無視したがる。一部では、さらに日がたってようやく、「移民が関わっているかどうか、本当は誰も知らない」という調子に終始した、左寄りの記事が見られた。多分これは、外国人嫌いが飛びつきそうな類のことだからという理由で、左派の多くは触れたがらなかったためだろう。しかしこれは、少数派や、あるいは、ワンパターンで政治的な同族意識へ、配慮したからなのだろうか?

普段は意見を述べることを恐れない人々が、政治的正しさという理由から警察に情報を提供するの恐れると、健全性が置き去りにされてしまうことを私たちは知っている。こういった曖昧さは、非常に危険だ。真犯人を見つけることを難しくしてしまうだけでなく、分別のある人々を左派から離れさせ、結果、彼らは右派の大衆迎合主義の腕の中へ落ちてしまう。

現在、ドイツ警察はこれまで取り調べを行った人々の半分以上が難民であると公表し、右派は勝利のダンスを踊っている。コメント欄をスクロールしていくと、増え続ける「EUから退去しろ」という要求の中で、「好ましからざる人物」として左派を意味する「Libtards(リベラルと称する間抜け)」や「the left(左)」の言葉が見つかるだろう。

そしてアメリカの読者はこれがまさしく、トランプとその取り巻き連中が付け入るような、「ヨーロッパが脅される」という意見に持ってこいな話だ。9日にケルンで抗議を行っていた反人種差別主義者の言葉で言えば、「チャレンジにオープンであって欲しい。私たちを『保護しても』意味がないんです、それでは人種差別がさらに悪化するだけです」ということだ。

率直に言って、左派の私たちは目を覚まし、世界をありのままに言い表そうとしなければならない。事実に向き合うと、例えば危険で好ましくない人々が、きちんとした保護されるべき難民に混じってEUに入る道を本当にみつけてしまうだろう。そうではないにしても、近い将来、移民反対派の言い分を煽ろうとする右派だけでなく、私たちの公共サービスを張り切って解体するような人々に支配される可能性に直面するかもしれない。

右派の大衆迎合主義は、リベラル派の原則のために立ち上がることにすらしょっちゅう失敗している曖昧なリベラル派を、イデオロギー上のおあつらえ向きのサンドバッグと考えている。ケルンの件では、被害者批判とでも呼ぶべきものさえ目撃した。ケルン市長のレーカー氏は女性に、男性から「腕の長さ以上、離れていること」を含む、公共の祝祭イベントの場での「行動基準 」をアドバイス。「お祝いムード」でいることにさえ警告した。イギリスの民放「チャンネル4」が放送したインタビューでは、あるチュニジア人難民が真面目くさった顔で、「難民のせいじゃありませんよ。そこにいた難民の中の数人が犯人だっかもしれません。合法的な仕事を見つけるまで半年や1年待てなんて言う、ドイツの法と官僚のせいです」と答えていた。おいおい、ちょっと待ってという感じだ。

右派の大衆迎合主義は、リベラル派の原則のために立ち上がることにすらしょっちゅう失敗している曖昧なリベラル派を、イデオロギー上のおあつらえ向きのサンドバッグと考えている。
最近、私の知人の2人の活動家が「少しだが、ドイツは国境を閉じた方がいいのではないかと考えさせられた」と認めた。彼らは、移民関連の仕事から戻ってきたばかりだったが、前線で時間を過ごしたことで、そう感じたのだという。彼らが見たほとんどの移民は、本当の難民ではなかったと彼らは言った。そして私を見ながら、私が彼らのことをナチスだと糾弾するのではないかと思っているようだった。

これは驚くことも無い話だ。ニュアンスや実際的な考え方が、このデジタル時代のイデオロギーの塹壕では、ますます厄介になっている。ツイートやインターネット上のコメント欄で常に簡潔さが求められるがために、認識違いが生じるのはよくあることだ。「あなたはこう考えているのだから、それならああいう風にも考えているに違いない」。この現象は、抑制された討論や左派の中での意見の相違、デジタル時代の反共産主義のようなものを含んでいる。

こういうものが公共サービスや民主的権利を守る非常に政治的な団体から、人々を遠ざけてしまう。例えばあなたが「性的暴行を行う亡命希望者は、国外退去にすべき」と提案したとすると、すぐさまヒトラーと比べられ、為す術も無く非難の的にされるだろう。個人的には私は絶対に政治的中心地の左にいて、反難民感情への危惧を共有しているが(「えり好みおばさん」と呼んでくれてかまわない)、私たちの故郷のイギリスにトーストとお茶を楽しみに入ってくる性犯罪者には、私は線引きをして歓迎しない。

先週、女性と子供を含む4万人のシリア人がアサド政権の戦争によりマダヤに足止めされ、飢餓で死んでしまうので最後の手段として草を食べていると報じられた。しかしここで疑問が湧く。罪のない何千人という難民希望者たちは、余りにいき過ぎたリベラル派のアポロジズム(「言い訳」主義)に対する右派の連続攻撃さえ差し迫っていなければ安息の地を与えられるのに、その難民を救おうとしているヨーロッパの規範や法律を愉快そうに馬鹿する気満々の若者をどう隠すのか?

例えば、性的暴力で有罪となった難民の国外退去を命じられるようメルケルが権限強化を図ろうとすると、左派の一部は「大衆迎合主義の圧力に頭を下げた」と認識した。しかしメルケルは正当ではないのか? 私たちが、移民が恐ろしいケルンの襲撃事件に関わったとするこの痛ましい、しかし信用できる報道に正面から向き合うことに消極的だったために、難民に安らげる場所を与えることを全否定した人々を、私たちは知らず知らずのうちに支持してしまったのだ。」

http://www.huffingtonpost.jp/bonny-brooks/cologne-assault-populism_b_9034114.html?utm_hp_ref=japan

蓮池透さんが著書を『拉致被害者たちを見殺しにした安倍晋三』と題した、その切迫した心境とは

2016-01-18 13:41:50 | 政治

 安倍が人として最低であることが良くわかる。

「北朝鮮による拉致被害者・蓮池薫さんの兄で、「救う会」元事務局長の蓮池透さんが2015年末、著書『拉致被害者たちを見殺しにした安倍晋三と冷血な面々』(講談社)を出版した。刺激的なタイトルの本だが、拉致問題が停滞し、国民的な関心も薄れる中、解決に向けて一石を投じようとの切迫した心境が表れている。

蓮池さんに聞いた。

――思い切ったタイトルにしましたね。

表紙だけで「憂さ晴らしか」と思われることは本意ではないんです。拉致問題の発生から長時間経過したのに、何も変わっていない。今時「拉致問題」なんて言ってもアピールできない。世代交代で記憶も薄れていて、大学生になるとほとんど拉致問題を知らない。政府間の動きもほとんどない。関心を持ち続けてもらうために、捨て身の遺言を書きました。安倍首相を始め、拉致問題に関わったすべての人を、自分も含めて批判して、一応の対案も提案したと思っています。

家族会の内紛や金銭問題も書きました。特に、拉致問題の解決を願ってカンパして下さった分が、拉致被害者に渡らないのは問題です。弟たちはそのカンパを受け取っていないから、お礼のしようがないし、拉致被害者家族も、決して楽な生活なんかできていないという実態を知ってほしかった。日本政府はどうして冷淡なのか。誤解を解くと同時に、その支援の薄さの意味をぜひ分かってもらいたかった。

――あえてこのタイミングで、どうして本を書こうと思ったのでしょうか?

拉致問題が停滞していることに加え、マスコミが知っているのに文字にしない。タブーの中で自制、忖度を続けていることに耐えられなくなってきた。もやもやした気持ちを持ったまま、生涯を終えるのはイヤだ。ブレークスルーしないがために、だらだらと時間が過ぎている。今までずっと耐えてきた堰が切れたんです。

――「拉致問題を最も巧みに政治利用した国会議員」と、文中に書かれている安倍首相への批判は、とはいえ、強烈です。

安倍さん(2002年当時は官房副長官)は、北朝鮮への強硬姿勢を期待されて政権に返り咲いた。ただ、拉致問題は政権浮揚のためだったのかと思います。多くの国民の意に反して安保法制を制定し、やらないといっていたTPPを決着させる。そもそも北の脅威を煽って集団的自衛権を解禁しようとした人が、「北朝鮮と対話する」というのは、政治信条を疑いますよね。確たる戦略があったのか。自分でかけた制裁を解除していくだけなら戦略とは言えない。ストックホルム合意についても「合意した」ということにして安住しているだけなら意味がない。合意に含まれた日本人妻、遺骨の問題はどうするのか。関係者は拉致問題よりずっと高齢で、残された時間は少ない。拉致のために犠牲になるのはおかしい。

再調査に合意した2014年5月の「ストックホルム合意」のとき、安倍首相は首相官邸で自ら発表しましたよね。「2桁の生存者リスト」と日本経済新聞が書いて、盛り上がりましたよね。しかしなぜか、再調査リストの提示は当初「夏の初めか秋の終わり」と言っていたのが、「1年後」になり、今や「期限を設けない」という話になった。いつの間にか責任の所在も曖昧になった。仕方がないから、「日朝協議を3回やった」とメディアを使って情報を流す。やむを得ない理由なら延期すると、安倍さん自身が国民に周知すべきだ。1年というのはものすごく長い。1年なんてどうってことないという考えがあるなら許せない。

弟たちの「北朝鮮には戻らない。日本に留まる」という強い意志が覆らないと知って、渋々方針を転換、結果的に尽力するかたちとなったのが、安倍氏と中山(恭子)氏(当時は内閣官房参与。現・日本のこころを大切にする党代表)であった。
あえて強調したい。安倍、中山両氏は、弟たちを一度たりとも止めようとはしなかった。
止めたのは私なのだ。(74ページ)
(拉致被害者支援法の成立後、)私は、
「国の不作為を問い国家賠償請求訴訟を起こしますよ」
と、安倍氏を追及した。
すると安倍氏は、薄ら笑いを浮かべながら、こう答えたのだ。
「蓮池さん、国の不作為を立証するのは大変だよ」
……いったいどっちの味方なのか。(75ページ)
「『机を蹴飛ばして帰ろう』と言った」といった武勇伝をマスコミが書くわけですよ。やがて「拉致問題に関心が深い」とか「いろいろ功績があった」という都市伝説みたいになった。それは違う。

北朝鮮に拉致されていた弟夫婦ら5人が2002年に日本に戻ったときは「一時帰国」で、やがて北朝鮮に戻すという、非常に理不尽なやり方を日朝間で決めました。それは日本政府の方針で、安倍さんはそのとき官房副長官で政府の一員だった。「安倍さんが5人を日本に引き留めた」と言われているが、政府方針で一時帰国と決めたのだから、止めるわけがない。戻らないという弟たちの意志を政府に伝えたら「じゃあ、本人の意思で北朝鮮に戻さない」ということになったわけで、安倍さんも中山さんも決して止めてはいない。世間を惑わすウソを言わないでほしい。

2003年の憲法記念日に改憲派議員の集会に呼ばれ、困惑したこともある。「何を話すのか」と聞くと、「九条を変えろ」とでもいっておけとのこと……馬鹿だった私はそれを真に受け、「憲法九条が拉致問題の解決を遅らせている」と発言し、その場では称賛された覚えがある。
なんて浅はかな発言だったのだろうと、いま思い出すだけでも冷や汗が出る。(84ページ)
私自身が解決を阻害した面もあります。世論の右傾化の急先鋒だったと言われたこともありました。私は右も左もない、みんなでやらなきゃいけないと思ってやっていたんだけど、私も政治利用されたと言われればそれまで。気づくのが遅かった。

今でも言われます。「あんたが弟を止めたのがいちばん悪い。そのまま送り返していれば、日朝はうまくいったんだ」と。弟をいったん北朝鮮に送り返せば、次は全員帰ってくるという約束があったという説もあるけど、弟と話してそれはあり得ないと思った。これはもう、止めるしかないと思った。

当時の判断について、福田康夫元首相が「本人の意思を尊重した」と、あるインタビューで答えていたけれど、日本が国民の生命、意思を最重視しているのであれば、そんなことをわざわざ言うはずがない。そもそも「一時帰国」という問題を作り出した日本政府に問題がある。そこに「日朝正常化のために家族を黙らせる必要がある」という意図が垣間見えるんです。過激派組織「イスラム国」(IS)に日本人が拘束されたときだって「あらゆる手段を尽くす」と言ったけど、尽くしたのか。

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――通常国会の衆院予算委員会でも質問が上がりました。蓮池さんの著書をもとに質問した議員に、安倍首相は「私は断固として反対した」「違っていたら私は国会議員を辞める」と気色ばんで答弁しました。

どっちもどっちという感じですね。まず、民主党の緒方林太郎氏が質問するという話は、寝耳に水。事前に何の相談もなかった。首相の足を引っ張るための材料を民主党に提供したつもりもない。もう少し建設的な議論をしてほしかった。

安倍首相も大人げないと思いました。「断固として反対した」というなら、ちゃんと拉致被害者の家族や本人にそう伝えてほしかったし、弟を説得してほしかった。実際には日本政府は「いつ北朝鮮に戻るのか」という相談までさせていたから、そこは見解の相違があります。実際、孤独でしたよ。国益か家族の絆か、とても耐えがたい戦いでした。それに、2014年末の総選挙で両親を自民党議員の応援にかり出したことは「政治利用」と言われても否定できないはずです。

――年明けには北朝鮮の核実験もありました。日本独自の制裁強化も報じられています。

核実験はとてもショックでした。また拉致問題は停滞するでしょう。しかし制裁では核も拉致も進まないというのは、歴史が証明している。すでにアメリカや中国といった大国の思惑に翻弄されて、拉致問題は奥深いところへ繰り込まれてしまった感がある。このままでは、とりつく島もなくなってしまうのではないか。私も弟も頭を抱えています。「拉致も核も」というのであれば、独自の外交をまな板に載せる覚悟はあるのか。安倍さんが離れ業をやってくれることを期待しています。

――では、解決に向けての道のりは、どうあるべきでしょうか。

前のインタビューでも言ったけど、過去の問題とセットでやるしかない。しかし「返せ」「解決済みだ」と双方が主張をぶつけ合う構図はまったく変わらない。まず「解決」って何なのか、それを日本側が示すべきです。そこに理性的で冷徹な判断が入っても仕方がない。でも安倍さんは「全員が家族と抱き合うまで」と言う。家族の感情には訴えるかもしれないが、首相がそんな感情的なことばかり言っていていいのか。「任期中に解決する」というなら、責任を持ってやってほしい。

13年は長いですよ。2015年、弟の同級生が立て続けに2人亡くなった。不幸なことが起きていても仕方ない時間がたっている。まず安否確認、信憑性が高いデータを示せと求めること。それが信頼性が高ければ、受け入れるしかないのではないでしょうか。全員を取り返すのが一番望むべきことだけど、それでなければダメだと言い続けたら、北朝鮮は答えようがない。北朝鮮にとってメリットを享受できる方策を日本が考えることも必要です。制裁解除なんてメリットでも何でもないんですから。」

http://www.huffingtonpost.jp/2016/01/15/hasuike-toru-interview-about-book_n_8987092.html?utm_hp_ref=japan