白夜の炎

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日中戦争は何であったか 故藤原彰氏(一橋大学名誉教授、旧陸軍士官学校出身)

2016-01-31 16:44:30 | 戦争犯罪
「一、紛れもない侵略戦争

 1931年9月18日の柳条湖事件にはじまる中国東北の占領、さらに1937年7月7日の蘆溝橋事件以後の全面的な中国との戦争は、紛れることのない侵略戦争である。

 第一次世界大戦の惨禍を二度とくりかえさない目的で、世界各国は平和を守るための組織として国際連盟を結成した。しかし連盟規約では戦争の禁止が不徹底だとして、ドイツ、アメリカ、ベルギー、フランス、イギリス、イタリー、日本、ポーランド、チェコスロバキアの九カ国が、1928年8月27日にパリで「戦争放棄に関する条約」(不戦条約)に調印した。日本はこれを翌29年6月に批准し、同年7月に公布している。この条約では当事国が国際紛争解決のために戦争に訴えることを非とし、紛争解決の手段としての戦争を禁止したものである。満州事変も、日中戦争も、国際連盟規約と不戦条約の双方に違反することは明らかで、その当時から世界の非難を受けていた。

 日本の戦争を無責任な軍国主義者の世界征服戦争と非難しているポツダム宣言を、日本は無条件で受諾して降伏したのだから、その時点で日本は戦争が侵略であったことを認めたことになる。さらに日本の戦争責任を裁いた極東国際軍事裁判(東京裁判)では、満州事変以後の日本の戦争を侵略戦争と断定し、東条英機以下の被告を平和に対する罪として処断した。そして1951年9月8日にサンフランシスコで調印された対日講和条約の第11条は、日本国は東京裁判をはじめとする戦犯裁判を受諾するという条項である。すなわち日本は、国際的にその戦争が侵略であったことを国として承認したことになるのである。

 侵略戦争とは何か。1974年の国連総会は「侵略の定義」についての決議を採択した。もちろん日本もこれに加わっている。その決議は、侵略を「一国による他国の主権、領土保全若しくは政治的独立に対する、または国際連合憲章と両立しないその他の方法による武力の行使」と定義した。そして以下のような場合を侵略として例示した。

a、一国の軍隊による他国の領土に対する侵入若しくは攻撃、一時的なものであってもかかる侵入若しくは攻撃の結果として生じた軍事占領、又は武力の行使による他国の領土の全部若しくは一部の併合

b、一国の軍隊による他国の領土に対する砲爆撃、又は一国による他国の領土に対する武器の使用

c、一国の軍隊による他国の港又は沿岸の封鎖

d、一国の軍隊による他国の陸軍、海軍若しくは空軍又は船隊若しくは航空隊に対する攻撃

e、受入国との合意に基づきその国の領土内に駐留する軍隊の合意に定められた条件に反する使用、又は合意終了後の右領土内における当該軍隊の駐留の継続

f、他国の使用に供した国家の領土を、右他国が第三国に対する侵略行為を行うために使用することを許容する当該国家の行為

g、上記の諸行為に相当する重大性を有する武力行為を他国に対して実行する武装部隊、集団、不正規兵又は傭兵の国家による派遣、若しくは国家のための派遣、又はかかる行為に対する国家の実質的関与

 日本の満州占領も、さらに37年以降の日中全面戦争も、右のa・b・e項に明らかに該当している。日中戦争はこの定義にてらしても、紛れもない侵略戦争である。


二、侵略戦争の原因

 満州事変の前夜、日本国内では「満蒙」(東北三省に東部内蒙古を加えた地域のこと)は日本の「生命線」だとする軍部や植民地主義者によるキャンペーンが、大規模に展開されていた。他国の領土を、勝手に自分の国の生存に必要な地域だというのは、乱暴な言いがかりだが、これは国民を戦争に駆り立てるスローガンとしては効果があった。それは日本がこの地域に持っている利権が、日清、日露の二度の戦争で、父祖の血であがなったものだという宣伝が行きとどいていたからである。つまり日本は、日清日露戦争いらい、中国領土の一部である満蒙を獲得すること、すなわち中国への侵略を、一貫して国家目的としていたのであった。

 長い歴史の中で、日本は文化のすべてにわたって、中国に学んできた。文字も、宗教も、さらに生活の用具や習慣までも、中国の文化が多くの場合朝鮮を経由して日本に伝えられてきた。日本人は中国にたいして尊敬の気持ちと親しみをもっていたといってよい。それが明治維新を境に一転して、朝鮮を支配し、中国を侵略する道に突き進むことになった。それは何故だろうか。

 明治維新によって日本は、封建社会から抜け出して、西欧列強を手本に近代国家の形成へと一直線に突き進んだ。だが明治国家の指導者たちがめざしたのは、軍事と経済だけの近代化であって、西欧近代社会の理念であった人権と自由を置き去りにしたものであった。それはブルジョア民主主義を実現したのではなく、強権的国家体制を作り上げたのである。

 明治維新は封建領土を廃止し、武士の特権を奪って、中央集権国家を作り上げた点でたしかに大きい変革であった。しかし西欧のブルジョア革命が行ったような完全な農民の解放は実現できなかった。地主小作制度という封建的土地所有関係を温存したばかりでなく、軍備拡張のために高額な地租を取り上げることでそれを再生産していった。したがって日本社会は、近代化したといっても基本的には貧しい小作、自小作の農民が国家の多数を占めていた。また資本主義の発進にともなって、工業化も進んでいったが、そこでの労働力は、貧困な農村からはみ出した人々に頼っていたので、労働者の賃金は極端に安かった。貧しい農村の存在が、都市の労働者の低賃金を支えるという構造の社会だったのである。

 農村も都市も貧しいということは、国内市場が極端に狭いということに他ならない。国内市場の狭さから、国外市場に依存しなければならないという特徴をもつことになった。しかもその技術的水準の低さから欧米資本主義との自由競争では勝目がないので、独占的な植民地市場が必要であった。はじめから植民地獲得の欲求をもったのである。

 欧米列強の世界分割競争の最後の舞台となった東アジアで、日本は他に先がけて軍事と経済の部門での近代化に成功した。そして近い隣国であり、封建社会から抜けきれないでいる朝鮮や中国を植民地化の対象としたのである。日清戦争も日露戦争も、日本の国土を守るための戦争ではなく、朝鮮を支配するための戦争であり、まさに侵略戦争であった。

 日露戦争の結果として朝鮮を植民地としたあとは、さらに大きな獲物である中国が目標となった。1914年第一次世界大戦にさいし、日本は連合国側に加わってドイツと戦うが、そのねらいが中国山東省にあるドイツの利権の奪取であることは明らかであった。さらにこのとき、日本が中国に突きつけた「対華二十一ヵ条要求」は、大戦による列強の不在に乗じて、中国の植民地化を進めようとするものであった。これ以後の東アジアの歴史は、日本の対中国侵略政策の進展、これにたいする中国民族運動の抵抗という形で推移する。1919年の五・四運動、1925年の五・三〇事件、1927、28年の山東出兵などは何れもそのあらわれであった。

 この間に日本の支配者たちは、自国民にたいし意識的に中国にたいする優越感、中国への蔑視感を植えつけていった。そして中国の民族運動を、日清、日露戦争による日本の果実にたいする不当な反撃だと敵視し、中国の抗日運動を憎悪する国民感情を煽り立てたのである。

 こうして日本は、早熟な帝国主義国としての本質的要求である植民地を中国に求め、国民に対中国敵対意識を植えつけ、対中国侵略戦争に突入していくのである。


三、満州事変の意義

 1931年9月18日、関東軍の謀略である柳条湖事件をきっかけに、日本の満州武力占領が開始された。この事件は日本側が武力行使の口実をつくるため一方的にひきおこしたのものであることは、歴史的事実として明らかにされている。それにつづく満州の武力占領、傀儡国家「満州国」の樹立は、どう言いつくろっても他国への侵略である。国際連盟の総会も日本を非難し、日本軍の撤退を求める決議を42対1で可決したが、日本は連盟脱退をもってこれに応えた。世界が日本に侵略国の烙印を捺したのに、日本はこれに逆らって国際的孤立の道を歩み、さらに侵略を拡大していくのである。

 日本帝国主義にとって満州占領の意義は、大きくいって三つあったといえる。第一は大恐慌によって深刻になっている国内の経済的危機を回避することであった。鉄、石炭などの資源の獲得と、日本資本主義にとって有利な市場を獲得することであった。第二は激化している国内の対立を、対外戦争に転化することで、とりわけ深刻であった小作農民の不満を満蒙の広大な土地への幻想をあたえることで緩和しようとしたのである。第三には、最大の仮想敵国であるソ連にたいして、満州の占領により有利な戦略体制を固めることであった。こうした目的があったからこそ、世界から孤立してまで満州の植民地化に踏み切ったのである。

 このとき、日本の満州武力占領を可能にしたのも、三つの国際的条件が日本にとって有利だったからであった。第一は世界が大恐慌のまっただ中にあり、アメリカ、イギリスをはじめ中国に利害をもつ帝国主義列強が、日本にたいし武力制裁に出る余力がなかったことである。第二は満州にとくに関心をもつはずのソ連が、第一次五ヵ年計画による国内経済建設の最中で、武力介入の意図をもたなかったことである。そして第三は当の中国が国共の内戦に明け暮れ、国民政府は国土を日本に奪われているのに、何の抵抗もしなかったことである。

 こうして日本の満州占領は一時は成功したかにみえた。しかし満州の占領は、かえって日本帝国主義の矛盾を拡大し、その解決のために、いっそうの侵略の拡大を不可避にするという結果を招くことになった。先ず満州の占領によって、日本資本主義は経済的利益を得るどころか、かえって重い負担を招くことになった。軍が主導権をもって行った満州の経営は、この地域を開発するのではなく、軍事戦略を優先させ、経済性を無視して鉄道を敷設することに示されているように、まったく収支がつぐなわれず持ち出しになるものであった。

 また農村対策としての満州移民は、開拓ではなく中国人農民の土地を取り上げ、その反感、抵抗を招くだけに終った。満州における人民の抵抗は、治安確保のために兵力を割かねばならず、日本軍にとって大きな負担となった。満州の治安悪化は、背後からの工作によるものだとして、軍の華北への侵略の拡大への欲求をかきたてた。さらに満州の占領と華北への侵略準備は、中国国民のナショナリズムに火をつけ、抗日民族運動を昂揚させることになったのである。


四、全面戦争への拡大

 満州の経営に行きづまった日本、とくに陸軍は、1935年ごろから華北を第二の「満州国」化しようとして華北分離工作を進め冀東防共自治委員会、冀察政務委員会をつぎつぎに成立させた。また関東軍の傀儡である内蒙軍を緩遠省に侵入させて失敗するなど(緩遠事件)、中国の抗日民族運動を一挙に燃えたたせた。このころになると、中国国民の民族意識のたかまり、幣制改革などの経済的統一の進展などによって、中国はようやく近代的統一国家としてのまとまりを見せはじめていた。しかし中国への蔑視感にとらわれている日本の軍部も政府も、この事態を認識できなかった。そのことが日中戦争全面化の背景にあったのである。

 1937年7月7日の蘆溝橋事件は、6年前の柳条湖事件のような計画的陰謀ではなかった。しかし日本は前年に支那駐屯軍の兵力を一方的に三倍近くに増強し、中国側の反対を押し切って北京西南部の豊台に兵営を作った。この豊台駐屯の部隊が、抗日意識に燃える中国軍の目の前で夜間演習を行ったのだから、事件がおこるのは当然といえる。問題はこの事件を一挙に全面戦争に拡大したことである。

 現地では、日本側の支那駐屯軍も、中国側の第29軍も、局地的な事件として解決する方針で、7月2日には両軍間で停戦協定を成立させていた。ところが同じ7月11日に、東京では近衛文麿内閣が「重大決議」のもとに華北へ増援部隊を送ることを決定し、一挙に戦争拡大に突き進んでいった。そして朝鮮と満州からの増援兵力がほぼ北京(当時は北平といった)、天津地方に集中した7月27日、支那駐屯軍にたいし、「平津地方ノ支那軍ヲ膺懲シテ同地方主要各地ノ安定二任ズベシ」との大命が出され、翌28日総攻撃が開始された。またこの27日、政府は「自衛行動」を開始するとの声明を発表し、陸軍は内地3個師団の動員を開始するなど、中央が主導して戦争を全面化させていったのである。

 このとき陸軍には、参謀本部の第一(作戦)部長石原莞爾に代表される不拡大派があって、中国との戦争に深入りすることは対ソ戦備に妨げになると主張していた。だが陸軍の中堅幹部たちや杉山元陸相は、このさい中国に強大な一撃を与えてこれを屈服させようと主張する拡大派で、近衛首相や広田弘毅外相、さらに昭和天皇までが、こうした一撃論に立っていた。それは彼らが、中国にたかまってきた民族意識と、抗日統一戦線の力量を正しく認識することができず、たやすく中国を屈服させることができると軽視していたからであった。

 8月に入って事件が上海に波及すると、陸軍の上海への派遣を決定し、8月15日に「暴戻支那」を「膺懲」するという政府声明を発表した。これは宣戦布告に代るもので、全面戦争開始の宣言であった。石原作戦部長は対ソ戦重視の立場から、なおも上海への兵力増強に反対したが、昭和天皇はくりかえし兵力増派を催促した。天皇が、大兵力で一挙に決戦を求めて、中国の戦争意志を放棄させようとする短期決戦論者であったことは、「昭和天皇独白緑」で自ら告白していることである。結局石原作戦部長は辞任し、上海方面へは陸軍兵力の増派がつづき、海軍も航空兵力の主力を投入して、南京など都市への戦略爆撃を行った。他国の領土に大軍を侵入させたことも、都市への無差別爆撃を行ったことも、国際法に違反する侵略行動に他ならないものである。

 中国軍の抗戦は、天皇や日本政府や軍首脳の予想とは正反対で、激烈をきわめ、上海の日本軍は大損害を出した。三ヵ月の苦戦の後に、杭州湾に新たな軍を上陸させて、ようやく中国軍を退却させ、その勢いで首都の南京に急進した。そしてこの間に、「南京アトロシティーズ」(南京大虐殺)とも「レイプ・オブ・南京」(南京の強姦)とも名づけられて世界に知られた大残虐事件をおこした。そして戦争は、日本が予想もしなかった長期戦の泥沼に踏み込んでいったのである。


五、残虐行為とその背景

 日本軍の残虐行為は南京で行われただけではない。日中戦争の全期間を通じて、日本軍の侵略にさらされた中国の全地域で、大規模に展開されたのである。南京大虐殺否定論者は、大虐殺そのものがデマだ、でっち上げだという全面否定論が完全に破産したので、現在では虐殺の人数に争点を絞り、犠牲者は数千、或は数万に過ぎず、中国側の30万というのは誇大な数だから、大虐殺ではないと主張しはじめている。しかし人数の問題を絞って大虐殺を否定する矮小化論は、さまざまなトリックを使っている。期間や範囲を限定した上で、捕虜の殺害や敗残兵の処刑は戦闘行為の継続だから虐殺ではないなどと、さまざまな言いがかりをつけて人数を少なく計算し、中国側の言うよりは少ないのだから大虐殺はでっち上げだと主張しているのである。

 だが問題の本質は、南京の犠牲者の数の大小ではない。日中戦争における日本軍の残虐行為の存在とその内容なのである。中国人の犠牲者の人数を問題にするならば、30万どころか全体では1000万をはるかに上廻り、とても計算が不可能なくらいである。中国国務院の人権白書(1991年10月発表)では、蘆溝橋事件以後の8年間だけで「2100万人余りが死傷し、1000万人余りが虐殺された」(雑誌『世界』1994年2月号「白書・日本の戦争責任」による)という。これは公式報告だが、1987年7月に東京と京都で開かれた蘆溝橋事件50周年日中学術討論会では、劉大年中国社会科学院近代史研究所名誉所長が、「死者2000万人」と報告している(井上・衛藤編『日中戦争と日中関係』原書房、1988年)。さらに1995年5月独ソ戦勝利50周年にあたり、モスクワに招かれた江沢民中国共産党総書記は、記念演説で「中国の被害者数は3500万」としている(姫田光義『「三光作戦」とは何だったのか』岩波ブックレット、1995年による)。この膨大な数を前にしては、南京での犠牲者の数の大小をあげつらって「侵略」かどうかなどと議論することの無意味さは明らかであろう。

 日本軍がどうしてこのような大規模な残虐行為を行ったのか。日中戦争を考えるとき、このことを先ず問題にすべきであろう。

 第一に日本は、中国との戦争で国際法に違反し、大量の捕虜を不法に殺害したことを挙げなければならない。華北での戦闘が本格化した1937年8月5日、陸軍省は支那駐屯軍にたいして、この事変には国際法の戦争法規は適用しない、「俘虜」(捕虜の公用語)という名称は使うなという通牒を出した。この方針は、その後もずっと続けられた。このことは、現地の軍では、国際法は守らなくてもいい、捕虜は作るな、という方針だと受けとられたのである。

 南京大虐殺の主要な部分も、捕虜の大量処刑である。南京だけではない。日中戦争の全期間、全戦場において、日本軍は中国人捕虜を、国際法にも人道にも背いて殺しつづけたのである。かつて日本は、日露戦争にさいしてロシア人捕虜、第一次大戦のドイツ人捕虜を、国際法にもとづいて適正に処遇し、文明国だと賞められたことがあった。しかし欧米にたいする場合と中国にたいしてとは、まったく違った基準で対応したのである。それはアジア諸国、中国や朝鮮にたいする差別意識があったからである。中国との戦争では国際法を無視し、俘虜情報局や正規の俘虜収容所も設けず、捕虜の取扱いは現地の軍に任せ、結果としては捕虜の大量処刑、虐殺を放任したのである。

 第二に、非戦闘員である一般民衆にたいする大虐殺が行われたことをあげなければならない。上海の激戦につづく南京攻略戦で、民衆にたいしての掠奪、暴行、放火、殺害をくり返し、とりわけ女性にたいして手当り次第に強姦をつづけた。このことによって、事件が「南京アトロシティーズ」とか、「レイプ・オブ・南京」として、世界に知れわたったのである。しかもこうした一般人民への迫害は、南京にとどまらずこれも戦争の全期間、全地域にわたって展開されたのであった。

 一般民衆の生活や生命を犠牲にすることそれ自体を目的にして、日本軍が実行したのが、中国側の名づけた「三光政策」に該当する掃討作戦である。中国共産党の解放区の掃滅と封鎖を目的に北支那方面軍が行った遮断壕の構築、無人地帯の設定などの作戦は、1941年ごろから本格的に強行された。これは民衆の海の中に溶けこんでいる八路軍に手こずった日本軍が、民衆そのものを敵として、これを掃滅し、そのものを燼滅(焼き滅ぼす)することをめざした作戦で、まさに殺しつくし、奪いつくし、焼きつくすという意味の三光作戦と言えるものであった。

 このような民衆を敵視する作戦がくりかえされた中での中国人民の犠牲は、はかり知れないものがある。殺人、強姦、放火、掠奪その他あらゆる迫害にさらされた。日本軍がなぜこのような非人道的で不法な残虐行為を行ったのだろうか。それは民族をあげての抵抗に直面した帝国主義軍隊が、勝利の見込みをなくしたときに犯す絶望的な蛮行といえるもので、ベトナム戦争に行きづまったアメリカ軍の残虐行為と、同類のものと言える面もある。しかしそれだけにとどまらず、日中戦争の日本軍には、このような行為に走る背景が存在していたのである。

 その一つは、明治維新後の日本が、前に述べたように経済と軍事だけの近代化を追い求め、西欧の近代が理想とした人権と自由という観念を欠落させてきたことである。そうした近代日本の縮図が軍隊であって、兵士の生命が軽視されただけでなく、その人格はまったく認められず、自由は完全に抑圧されていた。自国でも人権と人道を認めない軍隊が、敵地の人民の人権を蹂躙するのは当り前で、非人道的行為にも逡巡することはなかったのである。

 二つには、中国人民の抵抗が予想に反して強かったことに驚き、恐怖心と敵意を燃やしたことである。一撃を与えれば簡単に屈服するだろうと予想していた中国の思わぬ抵抗に、軍の上層部も末端の兵士も、驚愕し憎悪して残虐行為に走ったのだといえる。

 三つめにあげることができるのは、戦争が拡大することで、日本軍は予想もしなかった大兵力を戦場に送ることになった。このため軍隊の素質は極端に低下し、軍紀風紀が頽廃した。また予期しない戦争の長期化に、士気も低下の一途をたどった。これが強姦や掠奪などの不法行為の多発した原因になったのである。


六、戦争責任と補償問題

 戦争が日本の侵略であることは明らかで、戦争責任が日本に存在することは国際的にも認められている事実である。またこの不法な戦争で、中国人民にたいしてはかり知れない大きさの被害をあたえたことも、疑う余地のない歴史なのである。

 ところが現在の日本には、戦争が侵略であったことを認めようとはせず、戦争を美化し肯定しようとする勢力が、政界、財界、学界などに根強く存在しており、その言動がしばしばアジア諸国の人々の怒りを呼びおこしていることも残念ながら事実である。この点で、同じ第二次大戦の侵略国であったドイツと比べると、日本の対応はきわめて不徹底で、ドイツのように戦争責任を明白に認め、公式に謝罪することを戦後の日本は怠ってきたのである。

 1990年代になって、アジア各国の戦争犠牲者が、日本政府を相手にして、謝罪と補償を求める裁判をつぎつぎに起こしている。これにたいして日本政府は、戦争賠償の問題は解決ずみ、個人補償は時効か除斥期間が過ぎているという態度を一貫して取りつづけている。中国に関していえば、1952年4月日本は台湾の国民政府を中国を代表する正統な政府だとして、日華平和条約を結んだ。このとき国民政府は、賠償請求権を放棄した。これはいわば台湾政府を中国を代表するものと認めて貰ったお返しであった。それから20年後の1972年9月、田中内閣は台湾と断交し、北京の中華人民共和国政府を承認して、日中共同声明を発表した。この声明の中では、「中華人民共和国政府は、日中両国民の友好のために、日本国に対する戦争賠償の請求を放棄することを宣言する」と言明されている。これをもって、日本政府は賠償問題は決着ずみとしているのである。

 しかしこれは戦争における国家間の賠償の放棄であって、国家や軍の犯罪によって被害を受けた個人への補償の問題とは別である。まして日本は、米英とは戦争をしても、中国とは41年までは戦争ではなく事変だといっていたのだから、その間の行為は放棄した賠償には入らないはずである。またその後であっても、殺人、強姦、放火、掠奪などの犯罪は、国家の戦争賠償とは別で、個人にたいする補償の問題である。

 同じ侵略国のドイツは、一貫してドイツの犯罪による犠牲者には、誠実に補償をつづけている。連邦賠償法その他の法律で、ユダヤ人をはじめとする被害者に、2020年までかかって年金を払いつづけているのである。東西ドイツの統一後は、未決着であった東ヨーロッパ各国の被害者への補償に取り組んでいる。97年12月28日の朝日新聞は、東欧のナチス犯罪被害者への補償問題で、ドイツ政府とユダヤ人の国際組織が基本合意に達し、ドイツ政府は東欧の犠牲者のために基金を創設して年三回補償金を拠出することになったと報道している。これはすべて個人にたいする補償なのである。

 日本がこれからアジアの中で、真に親しまれ愛される国として生きつづけていくためには、そして中国との間にも民衆のレベルでの友好関係を築き上げていくためには、謝罪と補償は先ず実行しなければならないことである。日中戦争は日本の侵略戦争であったこと、その中で南京虐殺や、毒ガス、細菌兵器の使用や、三光作戦や、おびただしい強姦殺人などの膨大な数の残虐行為を犯したことを率直に承認し、謝罪しなければならない。そして被害者個人への補償問題にも、誠実に対処していかなければならない。それなしに戦争は終らないのである。」

http://www.ne.jp/asahi/tyuukiren/web-site/backnumber/04/hujiwara_nittyuusensou.htm

中国人強制連行

2016-01-31 16:35:46 | 戦争犯罪
「「兎狩り作戦」は実在した -田辺敏雄氏の反論に答える-       /小島隆男


 田辺敏雄氏は『正論』9月号に「中国人8000人連行のウソ」という見出しで、またまた私の証言について、「実存しない、ウソである」と論じている。1942年9月、衛河の堤防を決壊した本人が、「こうした段取りで実行し、結果はこうなった」と告白しているのに、「お前の言っているのは全部ウソだ」と言われると、馬鹿らしいが、反論しないわけにもいかない。

 特に第44大隊の第5中隊は、衛河左岸の決壊地点から直距離にして300メートルも離れていない右岸の地点に「駐屯」していたのに、衛河決壊のあれだけの事件を「知らなかった」と言い切れるものではない。これこそ、戦友会の皆が一様に口裏を合わせ隠蔽しているとしか考えられない。

 1989年7月、私たちがNHKの取材で臨清に行った時は、すでに私たちの知っている臨清ではなかった。城内の中央を大通りが衛河に向かって走り、そのまま市街を通り抜けると、立派な鉄橋が対岸まで数百メートル延びていて、その上を大型トラックが頻繁に走っていた。河原に降りて雨でぬかるみのできた小道を決壊した場所まで行ったが、昔のあの頑丈な堤防の面影は既になく、わずかに士が盛り上がった形でしか残っていなかった。

 中国側で呼んでくれていた当時を知る証人が、我々の質問に答えながら丁寧に説明してくれた。私は、この衛河決壊の件では17のから告訴され、そのいずれの告訴状にも「小島中尉を厳重に処刑してくれ」と書かれていた。

 私に丁寧に説明してくれたこの証人は、被害にあったの住人だった。私は改めてこの人に心から謝罪した。

 私は1942年4月に第59師団が編成された時、第32師団より第59師団に転属したが、同時に第12軍が予備中隊として完全一ヶ中隊を編成した際に、その機関銃小隊長となった。第12軍幹部教育隊(済南)に「駐屯」し、作戦参謀千葉中佐の指揮下に入った。第12軍の作戦には必ず出動したが、出発に先立ち、参謀より将校に対して作戦の目的や注意すべき点など細かい指示があったし、帰隊すると当日の行動についての批評がなされた。

 千葉中佐の言うことは、侵略軍の参謀らしく極めて歯切れがよかった。例を挙げると、1942年の4月の「第二次冀南作戦」(第一二号作戦)では、「敵は日本軍が行動を起こしたことを知ると便衣に着替える。そのため軍人か百姓かの見分けがつかなくなるから、作戦地に入ったら男は全部殺せ」と言い、また同じ年の「章邱剔抉作戦」(しょうきゅうてっけつ)では、「君たちは剔抉という言葉の意味がわかるか? 剔抉とはえぐりとることである。拷問し、痛めつけ、徹底的にえぐり取る(略奪する)ことである」と言った。

 また我々の戦闘についてもこういうことがあった。1942年夏、魯西地区での作戦中、坪井部隊は敵を捕捉しながらも苦戦していたので、これを応援せよとの命令を受けて出動した。坪井部隊は何回か突撃を加えたが成功せず、夜間に入りやっとに突入したが、はすでにもぬけの殻だった。部隊はこの戦闘で100名近い戦死傷者を出した。この時千葉参謀は「他部隊の戦闘に口を出すのは申し訳ないが、私ならに火をつける」と言った。我々が「この日照りのなか、燃やすものは何もありません」と答えると、「君たちは襦袢を着ているだろう、袴下も履いているはずだ。これを燃やせば燃やすものはいくらでもある。敵を動揺させることだ」と言った。場所は魯西の東平湖の西方で、北陽堡という大きなであった。

 本題に入る前にもう一言つけ加えたい。私は証言者として各地でずいぶん発言してきた。その際、多くの主催者は、私に録音や録画の許可を求めてきた。私は一人でも多くの人に証言の事実を知ってもらえることを考え、無条件に同意してきた。しかし、主催者側のほとんどの人は戦争の経験がなく、我々が使う軍隊用語などについてできるだけ説明を加えても、なかなか分かりづらいようだった。でき上がった原稿は、時には校正を求めてくる場合もあるが、たいていは主催者側に任せた。すると、軍隊の階級・職務や中国の地名など、とんでもない言葉で表現されていることがある。

 これは田辺氏も例外ではない。第44大隊の戦友会長千葉氏とは同年配であることは承知だが、前記の証言の会で作成した記録集の中から、私の都合の悪い表現を集めて攻撃材料にしている。たとえば、私は中尉であるのに、関東軍司令部では大尉になっており、先の『正論』の105頁では、戦車中隊長になっている。また有名な天然の河である衛河を運河の名であるとしている。以上のような間違いは笑って過ごせるとしても、見過ごせないのは、これらの間違いを自分に都合よく組み合わせて、「彼の言うことはウソだ」ときめつけている点である。

「兎狩り作戦」について

 今年7月の終わり頃のある夜、サンケイ新聞の記者と名乗る男から電話があったが、私が電話に出るといきなりこう言った。「『北支の治安戦』(防衛庁防衛研究所戦史室著)を見ても「兎狩り作戦」という言葉は書かれていない。あの作戦は、実在しない嘘のものではないか?」と。私は「どこの国に自分の悪業を自ら戦史に残すものがいるか! 人間を強制的に捕らえて連行し、強制労働でこき使ったことを公然と公表し、戦史に書き残す馬鹿があるか!」と反論した。

 また田辺氏によれば、「元44大隊の誰に聞いても、そういう作戦はやったこともなければ聞いたこともないとの回答であり、ウソだ」というのである。

 1942年に入って太平洋戦争が激化し、日本国内の労働力が不足して生産に支障を来たしたので、中国大陸から労働力として使える頑強な人間を捕らえて、日本に強制連行しようということで、「華人労務者の内地移入に関する件」という閣議決定がなされた。各企業は、これより遥か以前からこのことを軍部に申請しており、正式に閣議決定した時には、すでに第12軍では十分な準備を終わっていたと言える。

 1942年8月頃、我々予備隊は、千葉参謀より前記の趣旨を説明されたうえ、どのようにしたら体力のある中国人を効率よく捕らえられることができるのかの訓練課題を言い渡された。課題として出されたことは、一ヶ中隊を幅4キロの横広に展開(各中隊の各分隊は一列縦隊)し、各大隊はいずれもこのように中隊を並列させて、担当する正面の網の中へ中国人を追い込むという方式である。ちょうど兎を捕る時、大きな円を描くように包囲網を作り、各人が石をたたき、缶をたたいて包囲を圧縮しながら、あらかじめ仕掛けた網に追い込んでからめ捕るのと同じ方法である。

 幹部教育隊は連日、教育隊長・金山中佐、教育主任・出口少佐、宮原大尉等が集まり、千葉参謀の指導で協議を行った。もちろん我々予備隊の将校も同席したし、場合によっては意見を求められたりした。

 時期はすでに8月で高粱の背丈も伸び、500メートル近く離れた隣分隊との連絡は並大抵ではなかった。実際にいろいろと試した結果、分隊は日章旗一本を、小隊長所在点には日章旗二枚をつなぎ、中隊長の位置を示すには日章旗三枚を縦につないで、それぞれの標識とし、前進停止は旗の振り方で規制した。広い正面の展開であるため、我々がその通り実施しても、よほどの距離を前進しないと、中隊の隊形が変化する過程はわからなかった。何回も実施した。最初は図上戦術、兵棋戦術へと続き、一ヶ月以上かかって一応の形ができた。

 この間、土橋第12軍司令官もしばしば顔を見せていた。教育隊には飛行隊も駐屯しており、南側に隣接して飛行場があった。この外れの一角に小高い丘があったが、軍司令官はこの丘に第12軍全軍の大隊長以上を集め、私たち予備隊が今までの訓練での取り決めを小刻みに実施する演習を見学させた。

 こうして準備は終わったが、少し補足すると、包囲網の上空を飛行機を飛ばして包囲網の凸凹をなくしたり、頑強な「敵」に遭遇した時のため、軽戦車中隊を配置した。また捕らえた中国人を選別するため、各部隊に憲兵一ケ分隊を配属した。いよいよ準備が整い作戦が始まるわけだが、この続きは先に出た著書『北支の治安戦』の中から引用することにする。

「作戦準備。第一二軍は年度粛正計画に基づき、魯西根拠地を徹底的に覆滅するため早くから準備を進めていた。
 特に土橋軍司令官ら自ら統裁した兵団長以下主要幹部の図上戦術、兵棋教育、実兵指揮の研究を行い、作戦参加諸隊は厳に企図を秘匿しつつ対共戦法を訓練した。
 その作戦構想は、軍は歩兵約一〇大隊をもって範県付近及び東平湖西方の中共軍根拠地を完全包囲急襲して、これを徹底的に覆滅しようとするものである。-略-作戦第一日を九月二七日と予定した。

(注)土橋軍司令官は、かねての研究と冀南作戦の経験により、完全包囲による討匪戦法の普及徹底を図った。その構想の基礎となる機動行程を「集結地」から「展開線」(包囲圏の形成)までを約四〇キロ(自動車による夜間機動距離)、「展開線」から「敵根拠地」(目標の中心点)までを約二四キロ(徒歩による昼間攻撃距離)と算定した。展開正面は一ヶ分隊の間隔を三〇〇-五〇〇メートルとして包囲圏の全周を算定し、横方向の連絡に特に留意し、各隊若干の予備隊を控置させた。包囲圏圧縮後の偵諜剔抉の尋問部隊として政治工作隊、特務工作隊(憲兵)を編成した。これは大平原地で逃避四散を事とする中共軍に対する特別戦法であり、地形、敵戦力が異なれば通用しがたい。」(同書237頁)

 我々12軍の予備中隊は、第32師団の石田隊に配属され、南から包囲線を圧縮することになった。ここでまた「北支治安戦」の記述を取り上げよう。

『東平湖西方剿共作戦』(り号作戦)(9・27~10・5)

 第一期作戦(9・27~29)。目標(攻撃の中心点)単堂(東平湖西方で黄河の左岸)。九月二五~二六日の間に大熊支隊(五九師団)は東昌、辛県付近(北方)に、石田支隊(三九師)は鄲城、鉅野付近(西方)に、高原支隊は濮県付近に兵力を集結し、二六日の夜間機動により、二七日払暁までに予定展開線に進出した。その後、統制線により各隊の前進を指導しながら、逐次中心地区(単堂)に包囲線を圧縮した。各隊は小戦闘を交えつつ、一六時過ぎには単県を中心とする半径約三キロの地域内に前進した。(以下略)

 第二期作戦(9・30~10・5)。各隊主力は原駐地帰還をよそおいつつ、大熊支隊は東昌付近、石田支隊は鉅野付近、高原支隊は鄲城付近において次の作戦を準備し、一〇月一日行動を開始し、二日朝予定の包囲線に展開した後、東平湖西岸に圧縮するよう前進した。(以下略)」同書238頁)

 これが兎狩り作戦の第1回目の作戦であるが、その「戦果」は遺棄死体1251、俘虜1350と「北支治安戦」(239頁)に出ている。

 次に「兎狩り作戦」の第2回目として行われたのが、1942年2月の「第三次魯東作戦」(と号作戦)である。魯西の平原地区と異なり、山岳地帯であるため、円形の包囲網ではなく山東半島の付け根付近の青島‐芝ソウ間に参加部隊全部を横一線に展開させ東進した。その間、山を越え谷を越えて半島の突端まで前進する方法を採った。東平湖地区での作戦を「兎狩り作戦」というならば、これはちょうど網を引くような作戦だった。半島突端まで一週間を予定した。

 わが予備隊は、魯西地区の作戦では、前進する正面のには機関銃を撃ち込んで民を中心部に追い込むとともに、通過するから食料、豚、鶏など徹底的に略奪した。今度の山東半島での作戦では、各面地区より遥かに裕福なが多かったので、略奪には更に拍車がかかった。予備隊の上陸地点の海岸から北へ小さな山を越すと、東から西へ遠浅の湾が開け、そこの塩田には20トン、30トンもあると見られる塩の山が見渡すかぎり積まれていた。わが予備隊は海軍と協力して、住民約2000名を集め、この山を崩して南海岸まで約四キロを運び、約4000トンの塩を略奪して船に積み込んだ。

 この「第三次魯東作戦」の「戦果」については、『北支の治安戦』によると、「作戦開始以来12月8日までの戦果は、遺棄死体1183、俘虜8675」(同240頁)と書かれている。また済南帰隊後、千葉参謀は教育隊と予備隊の将校を集め、訓練を開始してからの各隊の努力を謝したが、その時「この作戦での捕虜は合計すると、8000名以上になる」と発表した。

 こうして「兎狩り作戦」は終わった。第12軍が「兎狩り作戦」といったのはこの二回の作戦であったが、その後は12軍隷下の各師団でこの戦法を応用した作戦が、数多く実施された。

 最後に田辺氏に一言申し上げる。田辺氏は、「第44大隊の誰に当たっても『兎狩り作戦』なんていう言葉は聞いたことも実行したこともない」と言う。現在なら、ひとつの問題を討論する場合、年齢、学歴、地位などに関係なく自由に参加できるが、当時の軍隊では、すべてが「命令」であり、命令系統がある。兵、下士官、時には中隊長でも、上級指揮官の意図を知る術もなく、知らないのが当たり前だった。田辺氏は「誰に聞いても知らない、聞いたことがない」と言うが、これらの人々は、この問題について証人としての資格のない人なのである。

 また、前に述べたサンケイ新聞氏に一言付言する。『北支の治安戦』の160頁に、第41師団(北支那方面軍の直轄部隊)が、第12軍より早い4月中旬以降、「兎狩り作戦」(ただしここでは「兎追い戦法」と言う)を行なったことが出ている。この師団はそれまで山西の山地における経験は豊富だが、大平原の対共戦は未経験であるので、「兎追い方式」を接敵隊形の基本として研究し、訓練したと書かれている。これが、この本の文中に現れた唯一の「兎狩り作戦」についての記事である。

 我々は、中国共産党と中国政府と中国人民の温かい指導によって、自己の良心に目覚め、我々が中国で行った戦闘行為はことごとく侵略であったことを深く反省させられた。「真理は必ず勝利する」という教えも確信することができた。私が誰も知らないと思って隠し通した罪行も、中国住民の告訴状と中国側の調査で暴露され、私は真実の前に頭を下げるしかなかった。

 日本政府があれほど「そういう事実はない」と主張していた従軍慰安婦や強制連行も、証拠を突きつけられて、最後には認めざるを得なくなった。日本の軍隊が中国で行った非人道的な行為を、今さらもみ消そうとしても、終局的には隠しおおせるものではない。田辺氏は「真理は必ず勝利する」ということを、今の内に、よくよく噛み締めておくべきではないだろうか。


(こじま たかお 中国帰還者連絡会会員 1998年2月没)
(出典:季刊『中帰連』第4号)」

http://space.geocities.jp/ml1alt2/data/data1/data1-3-1.html

空自と英戦闘機部隊 今秋にも共同訓練へ/NHK

2016-01-31 16:29:47 | 軍事
 こうやって戦闘のしかたを勉強、というより思い出していくのだろう。

 イギリス人は植民地の分割支配で有名だが、未だにそれを世界で展開している。

 インドとパキスタン。

 中東の分断。

 チベット。

 そして日本と中国。


「防衛省は、イギリス空軍の戦闘機の部隊を日本に初めて招き、ことし秋にも航空自衛隊との共同訓練を実施することにしていて、中国が海洋進出を強めるなか、東アジア地域でイギリス軍との連携を強化するきっかけにしたい考えです。

中谷防衛大臣は今月上旬、日本を訪れたイギリスのファロン国防相と会談し、ことし中に、イギリス空軍の戦闘機「ユーロファイター・タイフーン」の部隊を日本に初めて招くことで合意しました。これを受けて防衛省は、ことしの秋にも、航空自衛隊との共同訓練を実施する方向で調整を進めています。

防衛省の担当者は「同じ価値観を共有するイギリスが、東アジア地域での存在感を高めれば、海洋進出を強める中国へのけん制にもなる」と話しており、この共同訓練の実施を、東アジア地域でのイギリス軍との連携を強化するきっかけにしたい考えです。また、実戦経験が豊富なイギリス空軍との訓練は、航空自衛隊の能力強化にもつながるとして、今後、具体的な実施時期や地域について調整を進めることにしています。」

http://www3.nhk.or.jp/news/html/20160131/k10010392181000.html

イェール大学図書館「南京事件」を撮影したとされる映像を含むフィルムの寄贈を受け公開/国会図書館

2016-01-31 14:15:03 | 歴史
「イェール大学図書館、「南京事件」を撮影したとされる映像を含むフィルムの寄贈を受け、一部はデジタル化して公開
Posted 2016年1月27日
2016年1月22日付けのYale Newsが、イェール大学神学大学院図書館が、最近、マギー(John G. Magee)氏の孫から寄贈を受けた、「南京事件」の映像を含むフィルムのリール13点について紹介しています。

同フィルムは、イェール大学の卒業生でもあるマギー氏が、1920年代から1930年代の中国で、宣教師として活動していた間に、16ミリフィルムのカメラで撮影したものであり、13リールの内2リールが、「南京事件」に関するもので、残りの11リールは1920年代から1930年代の南京や他の地域での街頭の様子や礼拝などの日常生活を撮影したもので、1931年9月の揚子江(長江)の洪水や、1927年11月1日に英国国教会で行われた2番目の中国人司教の聖別式の映像などが含まれているとのことです。

寄贈されたフィルムは、第二次世界大戦中の南京や上海での出来事のドキュメンタリーを制作しているショア財団(The USC Shoah Foundation)によってデジタル化され、そのうち日本が侵攻した際に撮影された2リールの抜粋が、同図書館の“The Nanking Massacre Project”のウェブサイトで公開されているとのことです。

Donated film reels contain footage from the Nanking Massacre(Yale News)
http://news.yale.edu/2016/01/22/donated-film-reels-contain-footage-nanking-massacre#.VqdXa2YYzNg.twitter

The Nanking Massacre Project(イェール大学神学大学院図書館)
http://divinity-adhoc.library.yale.edu/Nanking/index.html

The Nanking Massacre Project>photos&Film
http://divinity-adhoc.library.yale.edu/Nanking/Photographs.html
※Magee_Reel_1_clip.mp4、Magee_Reel_9_clip.mp4がデジタル化された映像です。」

http://current.ndl.go.jp/node/30555

Japan adopts negative interest rate in surprise move/BBC

2016-01-29 16:39:54 | 経済
"In a surprise move, the Bank of Japan has introduced a negative interest rate.

The benchmark rate of -0.1% means that the central bank will charge commercial banks 0.1% on some of their deposits.
It hopes this will encourage banks to lend, and counter the ongoing economic slump in the world's third-largest economy.
The European Central Bank also has negative rates, however, it is a first for Japan.

The decision came in a narrow 5-4 vote at the Bank of Japan's first meeting of the year on Friday.
"The BOJ will cut interest rates further into negative territory if judged as necessary," the Bank of Japan said, adding it would continue as long as needed to achieve an inflation target of 2%.
Some analysts have cast doubt over how effective the rate cut will be.
Why has Japan made this move?

Japan is currently facing very low inflation, which means that people and companies tend to hold on to their money on the assumption that they can get more for it later in time. So rather than spend or invest it, they will keep it in the bank.
Charging a percentage to keep money in the central bank might encourage commercial banks to lend it out. That would boost both domestic spending and business investment.

It is also aimed at driving inflation up, which is another incentive for people and businesses to spend rather than save.
In a press conference, the BOJ's governor Haruhiko Kuroda pointed at the global economic outlook when explaining the cut.
"Japan's economy continues to recover moderately and the underlying price trend is improving steadily," he said, but warned that "further falls in oil prices, uncertainty over emerging economies, including China, and global market instability could hurt business confidence and delay the eradication of people's deflationary mindset".

Earlier in the day, fresh economic data had again highlighted concerns over economic growth. The December core inflation rate was shown to be at 0.1% - far below the central bank target.

Asian shares jumped and the yen fell across the board in reaction to the announcement. Japanese banks though saw their shares drop on the news as lenders are likely to see their margins squeezed even more.


Mariko Oi, BBC News: 'Kuroda bazooka'

The decision to implement a negative interest rate has been dubbed "Kuroda bazooka" after the governor of the Bank of Japan.
Haruhiko Kuroda, is well known for making surprise moves that shock investors. Only a few weeks ago, Mr Kuroda told the parliament budget committee that he would not introduce more stimulus for the economy.

So today's announcement caused the stock market to jump while the yen fell sharply against major currencies.
The option of lowering the cost of borrowing below zero has been on the cards for Japan's central bank since the early 2000s and it was the first in the world to consider it.

But when it comes to implementing the policy, Denmark, Sweden and Switzerland were first, followed by the European Central Bank which had to do everything it could to keep the EU economy afloat after the eurozone economic crisis.


Last resort

There are doubts, however, over how well the new policy will work.
"Negative interest rates are one of the last instruments in the BOJ's tool box," Martin Schulz of the Fujitsu Institute in Tokyo told the BBC. "But their impact is unlikely to be strong."

Mr Schulz cautioned that in the eurozone, negative interest rates are being used to tackle a financial crisis, whereas Japan is in a protracted slow growth environment.

"In Japan, credit didn't expand not because banks were unwilling to lend but because businesses didn't see the investment perspective to borrow. Even with negative interest rates, this situation will not change."

"Businesses don't need money - they need investment opportunities. And that can only be achieved by structural reforms, not by monetary policy," he said.

The decision comes in addition to the BOJ's massive asset-buying programme, which over the past years had failed to boost growth."

http://www.bbc.com/news/business-35436187

日銀 新たな金融緩和策決定 当座預金金利マイナスに

2016-01-29 16:37:43 | 経済
「日銀は、29日まで開いた金融政策決定会合でこれまでの大規模な金融緩和策に加えて金融機関から預かっている当座預金の一部につけている金利を、マイナスに引き下げる新たな金融緩和に踏み切ることを決めました。
日銀は29日までの2日間、金融政策決定会合を開き、さきほど声明を発表しました。
それによりますと、日銀が市場に供給するお金の量を年間80兆円のペースで増やす、今の金融緩和策については維持します。
そのうえで新たに、日銀が金融機関から預かっている当座預金のうち一定の水準を超える金額につけている金利について、現在の0.1%からマイナス0.1%に引き下げる金融緩和策を導入することを決めました。
マイナス金利は来月16日から導入するとしています。
この決定は、9人の政策委員のうち賛成5、反対4と僅かの差で決まりました。
これによって、金融機関が必要以上の資金を日銀に預けておくメリットが薄れることから、日銀としては、日銀の口座に積み上がっている金融機関の資金をより積極的に貸し出しなどに振り向けるよう促すねらいがあると見られます。
新たな金融緩和策を導入した背景について日銀は、原油価格の一段の下落に加え、中国をはじめとする新興国や資源国の経済の先行きが不透明なことなどから、金融市場が世界的に不安定になっていることがあるとしています。これによって企業や消費者のデフレ意識の転換が遅れ、物価の基調に悪影響が及ぶリスクが増えていると説明しています。
目標の2%物価上昇率にはほど遠い状況
日銀の黒田総裁が、デフレ脱却を目指して大規模な金融緩和を打ち出したのは、2013年の4月4日でした。2%の物価上昇率を目標として掲げ、2年程度の期間で達成するため、市場に供給する資金の量を2倍に増やすという大規模な金融緩和で、記者会見では、黒田総裁みずから「これまでとは次元が異なる」と評しました。
この金融緩和に真っ先に反応したのは株や為替などの金融市場です。
円相場は、緩和発表前日の2013年の4月3日の時点では1ドル=93円台だったのが、円安ドル高が進み、去年6月には、一時、1ドル=125円86銭まで値下がり。
日経平均株価も2013年4月3日の終値は1万2362円だったのが、去年6月には、2万868円銭まで値上がりし、それまでの「円高株安」が「円安株高」へと一転するきっかけとなりました。
特に、自動車メーカーなどの日本企業が苦しんでいた円高が円安に転じたことで、大企業を中心に業績が改善し、過去最高益に達する企業が続出しています。
このため、春闘で従業員のベースアップを実施するなど賃上げに踏み切る企業が増えたほか、物価も当初は上昇基調が続き、大規模緩和の導入前には前の年と比べてマイナスだった消費者物価指数は、おととし4月には消費増税の影響を除いて1.5%程度の上昇率に達しました。
しかし、おととし夏以降に原油価格が急激に下落したことで、消費者物価は、上昇率が鈍り始めました。
日銀は、「デフレ脱却に向け正念場」だとして、おととし10月、国債などの買い入れをさらに増やす追加の金融緩和に打って出ましたが、このところ原油価格が一段と値下がりした影響で消費者物価指数は0%前後にとどまり、大規模緩和の導入から2年9か月以上たっても目標とする2%にはほど遠い状況になっていました。
こうしたなか、黒田総裁は、物価の上昇に向けた動きに変化があらわれたら、ちゅうちょなく追加の金融緩和に踏み切るという姿勢を見せていました。」

http://www3.nhk.or.jp/news/html/20160129/k10010390301000.html

辺野古代執行訴訟 破綻した国の「継続性理論」

2016-01-29 16:18:25 | 軍事
「 昨年12月20日、私は沖縄タイムス「行政の継続性 国の切り札」の中で、国の主張は「時代錯誤」とし、県との間で本格的な法廷論争を期待すると記した。というのも、国側の訴状を見れば明らかなように、国側は今回の代執行訴訟における主要争点を二つに限定している。

 (1)翁長知事が仲井真前知事の埋め立て承認を取り消したことは、「行政の継続性」(以下、公定力)を破壊するもので、明らかに違法。

 (2)埋め立てについて仲井真前知事の承認は正当・合法である(埋め立て論争)。

 注意しなければならないのは、国側はこの二つについて、並行的なものではなく、(1)が主要論点であり、(2)は付随的なもの、つまり、前者を判断すればもう後者は審理するまでもなく、国側の勝訴は明らかであると主張しているということである。

 この国側の自信のほどは、県側が複数の証人申請を行っているのに対し、国側は全く証人申請を行っていない、という事実からも推測されよう。つまり、軍事基地優先か、それともジュゴンの保護が重要かの優位性を証明するには多くの専門的な証人や証拠が必要となるのに、これをほとんど無視しているのは、公定力の理論一つで勝てるともくろんでいるとみてよいのではないか。

 先の紙面ではこの公定力について詳しく触れることができなかったので、今回はこの公定力とはいかなるものか、「学説」(判例の検討は別途行う)を中心にして検証を行い、国側の論理破綻を指摘したい。


■国側の主張する「公定力」とは何か
 国側の訴状によれば


 「行政処分はそれが仮に違法であったとしても、無効の場合は別として、取り消し権限あるものによって取り消されるまでは、何人もその効果を否定することはできない」というものであった。


 その上であえてそれを取り消す場合には


 「処分の取り消しによって生ずる不利益と、取り消しをしないことによる不利益を比較衡量し、しかも該処分を放置することが公共の福祉の要請に照らして著しく不当であると認められるに限り、これを取り消すことができる」(最高裁判所昭和43年11月7日判決)というのである。


 この主張を簡単に解説すると


 (1)前知事の処分には公定力がある。したがって原則として取り消すことができない。

 (2)翁長知事はあえてこれを取り消したが、この場合、二つの要件を満たさなければならない。

 ・取り消すことによって得られるもの、大浦湾(辺野古湾)の環境回復は、軍事基地を造るよりもはるかに価値がある。

 ・このまま埋め立てを続けることは、県民・国民の幸福(公共の福祉)にとって著しく不当である
 (3)一方、国側は翁長知事の取り消し処分は(1)と(2)に違反している。なぜなら、軍事基地の建設は、日本とアメリカの長年の検討の結果であり、これを中止させることは、双方の「国益」を失う。そもそも辺野古移設は、普天間基地被害を解消するためのものである。すでに辺野古基地建設のため莫大な費用(税金)が投入されている。これらと比較すると大浦湾の保全の価値の利益は問題にならないくらい少ない。


 付け加えれば、このような「利益考量」を行えば、埋立が合法か違法かなどという論は、無意味なことであり、仮にそれが違法だったとしても、あくまで軍事基地の建設は必要で、取り消すことは認められないというのである。

 しかし、誰が見ても、埋立が「違法」であっても、軍事基地が認められるというのはおかしい。なぜこのような理論が通用するのか。これがこの代執行裁判の大きな特徴であり、マジックなのである。


 これまで、市民が国や自治体を被告とする行政裁判は、全国で山ほど行われてきた。もちろん、この公定力をめぐる裁判例も若干ある。しかし、今回のように国側が自治体を相手に真正面から公定力を論じるのはおそらく史上初めてである。

 少し皮肉っぽく言うと、国側にとっても高等裁判所裁判官の人事あるいは国側代理人の最強メンバーの編成という舞台装置の整備と並んで、このような大上段の理論武装をしなければならないほど、今回の裁判は史上かってない「大裁判」だということなのであろう。


 では学説はこの公定力はどのように説明してきたか。国がその震源として挙げたのが「行政学の父」としてのドイツの行政法学者オットー・マイヤーである。

■「公定力の震源」 オットー・マイヤー

 オットー・マイヤーは、今からほぼ100年前、立憲君主制を背景とするプロイセン憲法(1850年)、ビスマルク憲法(1871年)、そして当時世界で最も進歩的、自由主義的・民主主義的な憲法といわれたワイマール憲法(1919年)の体制下で「行政権」を研究。ドイツ最大の「論理的教条主義者」といわれるようになった。

 彼の学説は、その後も、ワイマール憲法とは正反対のファッシズムを構築したナチス憲法(1933年)の下でも揺らぐことなく、君臨し生き続けた。ここから有名な「憲法変われど、行政法変わらず」という格言が生まれている。

 それでは、マイヤーの行政法はどのようなものであるか。

 端的に言うと、

・行政権は本質的に「偉大なる事実としての国家」に源泉を持つ万能なものである

・だが、それはあくまでも「法規」のもとにあり、その中で、行政権の優越的地位に基づき、国民を支配する。

 この理論は、一方で立憲君主制の中では「法規」の名前で「君主」の裸の権力による暴走を抑え、他方でナチズムの下では国民の権利を守るために機能したといわれる。

 「公定力理論」はこのような全体の脈絡を背景に、行政権の神髄を語る骨太な理論として構築された。

 「行政処分は、権限ある行政庁が公益のため、自ら適法なものと確認して行う国家権力の発動であるから、裁判所の判決と同様、それ自体権威を有し、適法性が推定される」とする。

 そしてこの理論は、国側は戦前の美濃部達吉によって紹介され、戦後も田中二郎、塩野宏、そして、藤田宙靖など名だたる行政法学者(最高裁判所判事や文化勲章受章者など)に受け継がれてきたとし、これを、今回の代執行裁判で、最も早くかつ簡単に勝てる議論として、訴状の冒頭に持ってきたという次第である。



■公定力理論の変化

 しかし、現代日本は「立憲君主制国家」ではなく「国民主権の近代国家」である。国家の思想も制度も180度変わった。

 オットー・マイヤーの行政法はプロイセン憲法時のものであり、ここでの国家体制は「君主」が頂点にある。日本はこのプロイセン憲法をモデルに明治憲法を制定したが、君主は日本の場合「天皇」であった。明治憲法によると「天皇イコール神」であり、行政は神の僕として、神の言葉にしがって仕事を行う。それは「権威」あるものであり、原則として誤りはない。それゆえ、国民の行政に対する異議申し立ても厳格に制限される。このような体制の下では、マイヤー行政法の導入もある意味で至極自然なことであり、この行政法が天皇体制を支えた。

 しかし、昭和憲法の制定は革命的なものであった。権力者は、天皇から国民に転換されたのである。行政権は「偉大なる事実としての国家」から演繹されるものではなく、主権者たる国民から信託されたのである。行政権は、天皇ではなく内閣に属するものであり、かつ三権分立のもと最高で唯一の国会のコントロール下に置かれとして具体化された。そして、行政は国会の定める法律を実施するだけでなく、国民に対し、情報を公開し、裁判を含めて、様々な異議申し立てや参加を許容しなければならないとされるようになったのである。

 明治憲法から昭和憲法への転換はいわば「革命」とでもいうべき根源的な価値観の転換であり、マイヤーからみても、ワイマール憲法およびナチズム体制をもはるかに超える事態が出現している、と認識され納得されたであろう。したがって、このような行政をめぐる環境の大きな変化は当然のことながら「公定力理論」にも大きな変化を生み出す。



■公定力理論の終焉

 つまり、行政は、もはや「権威の象徴」ではなく、国民の信託の下での代行者である。また、行政行為は、裁判所内部での異議申し立てしか認めない「判決」と同じようなものではなく、いつでも、誰でも、どこでも、異議を申し立てることができる「意思表示」の一つとして考えなければならない。さらに「違法ではあっても取り消されるまで有効」というような不可侵で永久不変なものではなく、適宜、修正されたり、撤回されたりしなければならない。

 もちろん、行政の意思表示は、私人と私人との個別的な意思表示と異なり、一方的に、一度に多くの国民を対象として行われることがある。

 道路建設を一つの意思表示としてみると、計画決定から事業決定、土地収用などへというように「連続展開」し、さらには民事や刑事裁判と異なって、行政に独特な行政不服申立・行政事件訴訟法があるなど、通常の市民間の意思表示とは異なる部分も多く持つが、国民の信託に基づき、それは適宜修正されなければならないという本質は変わりないのである。

 これは、行政の今日的な実態をみればさらに説得力を増す。

 日本では戦後高度経済成長以降、行政は従来の消極的な権力行政(軍隊・警察そして税と個別的な許認可など)の執行から、福祉・公共事業、国際的な対応などへと国民の生活に全面的かつ広範囲に介入するようになった。それこそ、朝起きて就寝するまで、水道、電気、交通、教育や労働、介護、保険、そして医療から葬儀まで「行政」なしには、一日たりとも過ごすことができない時代となっているのである。

 ここではそれぞれの行政には触れないが、行政の仕事は、時代の変化を受けて変転極まりなく、絶えず「変化と修正」の連続を不可避としている。「違法であっても取り消されるまでは有効である」というような行政の固定化は、行政だけでなく、国民の生活全体を窒息させてしまうだろう。変転し、絶えず修正される行政には「間違い」も必然であり、国会・国民はもとより、内閣も既存の行政について絶えず、時代や国民の要望に応えて点検していかなければならないのである。

 重要なことは間違いを認めないことではなく、間違いを犯した場合の被害者に対する損害賠償などをルール化したうえで、直ちに修正することである。このような行政の実態と考え方は、公定力論に関する「学説」にも変更を迫るであろう。

 国側の引用した学説は、古くは明治憲法下のものから、戦後初期から中期にかけての学者のそれが多く、そこには残念ながら、ここまで見てきた行政概念の転換は、充分には反映されていないようである。

 現にそれ以降の学者、例えば桜井敬子・橋本博之著「行政法」(第4版 弘文堂、2010年)は「公定力の根拠」として

 「かっては、行政行為には適法性の確定が働くからであるという説明がなされた。この見解は、国家は正しい処分を行うものである公権力に対する信頼が背景にあり、一種の権威主義的な考え方があるといえる。

 しかし、行政が行う判断が正しいという論理必然性はなく、今日、このような国家権力に対する権威主義的な考え方を維持することはできない。現在、公定力は、過去の行政法理論の延長上に、脆弱な根拠に基づいてかろうじているにすぎない」

 と断言していることに、注目すべきであろう。

 公定力理論は破綻したのである。

■二重効果論と利益衡量

 公定力理論の終焉は、オットー・マイヤーの「憲法変われど、行政法変わらず」ではなく、「憲法変わり、行政法も変わる」によって生まれた。そしてそれは国側の公定力論だけでなく、それに引き続く「利益考量論」にも変化をもたらす。

 そこでもう一度、国側の利益考量論を復習しておくと、原則、仲井真知事の処分は取り消せない。やむを得ず翁長知事がこれを取り消す場合には、取り消したほうが圧倒的に国民の利益になる、ということを証明しなければならない、というのであった。これについて国側は、軍事をめぐる日米双方の国益を筆頭に置き、これに勝る価値はほかに存在しない、としていた。

 しかし、裁判は政治の場ではなく法律の場である。法律の場であるということは、軍事が上か、ジュゴンが上かというような命題を「裸」で持ち出すのではなく、あくまで両知事の処分が公有水面埋立法に照らして、合法・正当かということ判断するということなのである。この点はまず、国側の主張が公定力理論にこだわりすぎたためか、冒頭に見たように、いきなり利益衡量論として日米双方の国益などを持ち出すようなそれこそ、自ら県を批判してやまない「政治論」に堕してしまっているのではないか。これが第一の問題点である。次いで、公有水面埋立法の下での解釈にあたっても、国側の主張はいかにも公定力論に引きずられているようである。

 オットー・マイヤーの時代、あるいは日本の戦前あるいは戦後初期まで、行政は、国家と国民・個人の間を規律するものであった。そこでは、行政の国民に対する優越性が認められていた。日本の多くの学者が追随したのも、この行政法が「国家と国民の関係」つまり二面的な関係を規律する法である、という観念が前提になっていた。しかし、先に見たように現代の行政は、国家と国民の関係を大幅に、しかも質的に転換させている。

 公有水面埋め立てについてみれば、埋め立て自体は、確かに、国家と国民(沖縄防衛局はそもそも国民かという根源的な問題はここでは触れない。以下、受益者とする)の関係の問題である。しかし問題は、現代の行政の困難は、国と受益者以外にこの行為によって不利益を受ける国民(環境や財政あるいは文化といったようなものも含む)というものを無視できない、ということなのである。これは先の二面的関係に比していえば三面関係から成り立っているといってよい。これを学界では「二重効果論」という。

 二面関係から三面関係へ、このような行政の本質に変化が認められるようになったのは、それこそ国民の側からの、工場建設の認可と公害の発生、薬の認可と薬害あるいは、商品表示と消費者、そしてダム、道路、埋め立てなどをめぐる公共事業と強制移転や環境破壊などの問題提起があったからである。不利益者の存在とその法的位置づけの重要性はもはや行政だけでなく、裁判所にとっても、また議会にとっても回避できないものになっている。

 二重効果論に即していえば

(1) 古典的な行政法理論では、不利益を受けるものの、法による行為で国民が間接的に受ける利益は「反射的」なものにすぎないとして無視した。

(2)無視された側は、情報公開、人権侵害などの実態の宣伝、審議会などへの参加要求、議会での追及などを開始し、不服審査や裁判を行うようになった。

(3)政府もこれら国民の要求や運動により、次第に情報公開法、不服審査・行政事件訴訟法などの一般法の制改定、さらには裁判所による原告適格の拡大や処分の取り消し、さらには行政処分に対する様々な懐疑を生み出し、

(4)河川法など一部実定法の改正や自治体による条例の制改定

 などとして発展し、具体化されていっているのである。

 この流れを概括的に言えば、受益者だけでなく、不利益を被る国民も「対等」に行政処分の当事者として位置づけられる、というものであり、場合によって、受益者が受ける利益よりも、国民の受ける不利益が大である場合には、処分は行われないし、すでに行われた処分を取消しあるいは撤回もありうるということなのである。ここには国家の国民に対する優越性とか、受益者は保護されるが不利益者は保護されない、などという法理論は存在し得なくなったということを確認しておこう。


■代執行訴訟はこう見る

 そして、このような視点で代執行裁判を見ると、国側の公定力理論とそれに引き続く利益衡量論は、この受益者・沖縄防衛局の利益にのみ固執し、対等な当事者である国民を軽視。さらに公有水面埋立法の下での法的な利益考量を飛び越えていきなり政治論を行っているように見えるのである。

 反対に、このような視点で見ると、私が世界2015年12月号「沖縄・辺野古 公有水面埋め立て承認の取り消しを考える」で分析・解説したように、翁長知事が任命した第三者委員会の「検証検査報告書」(2015年7月16日)は、この二重効果論の展開に誠実に答える優れた傑作である、と思えて仕方がないのである。報告書の結論は公有水面埋立法の下で、利益者と国民の利益考量を行った結果、仲井真前知事の処分には「法的な瑕疵がある」、つまり「違法」であるということであった。国も県も、この点について世界最高の「知と証拠」を持って正々堂々議論する、というのが私が先に指摘した「本格的な法廷論争」という意味なのである。」

http://www.okinawatimes.co.jp/cross/?id=369

【識者評論】辺野古代執行訴訟 行政継続性、国の切り札 

2016-01-29 16:16:09 | 軍事
「今回の行政代執行裁判には、国によれば二つの論点がある。一つは仲井真弘多前知事が行った公有水面埋め立て承認処分を、翁長雄志知事が取り消したのは、「行政の安定性」を害する。もう一つは、仲井真前知事が行った埋め立て承認は合法であって違法ではないという。そして、「裁判はこの第一の論点ですべて決着がつき、第二の論点はもうほとんど審議する必要性すら認められない」と、国が言っていることを、直視しなければならない。

» 基地と原発のニュースをフクナワでも

 国側の決定的な切り札となっているのが「行政の継続性」という行政法学上の独特な概念(公定力)で、「行政処分は国家権力の発動であり、裁判所の判決と同じようにそれ自体が、権威を有し、いったんなされた行政処分は違法だとしても、取り消されるまで、何人もその効力を否定できない」というのである。

 国はこれを学説と判例によって根拠づける。学説は行政法学の父と言われる「オットー・マイヤー」(1846~1924年)を元祖とする。現代日本でも行政法学界の重鎮である田中二郎や塩野宏東京大名誉教授などによって支持され、最高裁判所の判例(1968年11月7日)によって確定している。

 これによれば、仲井真前知事の行った処分は「権威」があり原則取り消しできない。仮に翁長知事が取り消す場合は「取り消すことによって得られる利益が、取り消し前よりもはるかに大きい」という場合に限られる。これまでの日米双方の交渉の経過、沖縄の軍事的地位などを衡量すると、その結果は明らかで「勝負あり」という。

 オットー・マイヤーはドイツ立憲君主制時代の学者だ。その学説は「国家統治」から出発する「官治主義的」なもので、ワイマールとナチスという両翼の政治体制に耐えた。ここから「憲法変われど、行政変わらず」という格言が生まれた。

 しかし、戦後日本は国家統治の国から国民主権の国に180度変わった。行政は国民の信託によって仕事を行うにすぎない。そして行政の違法性の判断は裁判所が行う。この国民主権と三権分立の日本国憲法構造の下では、「違法であっても有効だ」というような神がかりのような議論は入り込む余地がない。違法な処分はあくまで違法で、取り消されて当然なのであり、そこには双方の利益を衡量するというような発想もあり得ないのである。

 しかし、残念ながら沖縄県側の主張もこの点に関する反撃は極めて弱く、法廷での本格的な論争を期待したい。(法政大学名誉教授・五十嵐敬喜、公共事業論)」

http://www.okinawatimes.co.jp/article.php?id=151481

中谷元防衛相が自衛隊に破壊措置命令

2016-01-29 16:08:08 | 軍事
「[東京 29日 ロイター] - 北朝鮮が長距離ミサイルを発射する兆候があることを受け、中谷元防衛相が自衛隊に破壊措置命令を出したことが29日、分かった。政府筋が明らかにした。自衛隊はミサイル迎撃能力を備えたイージス艦などを展開し、警戒を強める。

米政府関係者によると、北朝鮮のミサイル発射場周辺の活動が活発化しており、数週間以内に打ち上げを実施する可能性があるという。

菅義偉官房将官は29日の閣議後会見で、「(北朝鮮が)事前の予告なく挑発行動に出る可能性は否定できない。いかなる事態にも対応できる態勢はしっかりとっている」と語った。

日本は2014年にも、北朝鮮のミサイル発射に備えて破壊措置命令を発令。自衛隊は海上配備型迎撃ミサイル(SM3)を搭載したイージス艦を日本海に派遣した。」

http://jp.reuters.com/article/nakatani-north-korea-idJPKCN0V70B2

ロシア、サウジ等と協調減産か?

2016-01-29 16:04:06 | 産業
「[ニューヨーク 28日 ロイター] - 28日の原油市場では、石油輸出国機構(OPEC)とロシアによる協調減産への期待が広がり、価格が一時急騰した。ただアナリストの多くは、実現の可能性に否定的な見方を示している。

バークレイズ(ニューヨーク)のコモディティアナリスト、マイケル・D・コーヘン氏は「誤った期待」と題した顧客向け投資ノートで「OPECによる減産のうわさは、市場のセンチメントを変える試みにすぎない。われわれは懐疑的」と指摘した。

28日の原油価格上昇は、サウジアラビアによる減産提案を示唆したロシアエネルギー相の発言が背景。同相によると、サウジは産油国が生産量をそれぞれ最大5%削減することを提案したという。原油価格はその後、湾岸諸国関係者が計画を否定したことで上げ幅を縮小した。

マッコーリー・グループ(ヒューストン)のアナリストは「減産調整でOPECとの協調を検討するというロシアのスタンスを示したものに過ぎない」との見方を示している。

原油市場ではこのような団結スタンスは異例。たとえロシアとOPECによる5%減産が実現しても、日量では200万バレルで、価格崩壊の原因である供給過剰からみるとごくわずかな量にすぎない。

ソシエテ・ジェネラル(ニューヨーク)のアナリスト、マイケル・ウィットナー氏は「実現してもマイナス200万バレルで、イランからはプラス100万バレル。効き目があるとは思えない」と述べた。

バークレイズやマッコーリー、その他の金融機関もこのような減産の可能性は低いとみている。

ウィットナー氏も、サウジは以前イラクやイラン、ロシアといった主要産油国との協調なしには減産しないと述べており、この4産油国間の合意実現は難しいとの見方を示した。

同氏は「ロシアやイラクは態度に軟化がみられるが、イランは制裁が解除されたところで、増産姿勢を崩さないだろう」と指摘した。」

http://jp.reuters.com/article/russia-oil-cuts-analysts-idJPKCN0V708X

習近平国家主席、受刑者およそ3万人特赦

2016-01-29 15:59:10 | アジア
「中国政府系メディアが報じたところによると、習近平国家主席は、昨年末までに受刑者3万1527人に対する大規模な特赦を行った。そのうち、事件当時に18歳未満だった服役者の割合は94%。

 国営の新華社通信ニュースサイト、新華網の26日の報道によると、今回の特赦の対象者は、中国共産党の下で抗日戦争などの戦争に参加したことがある者、75歳以上で体に重い障害があり、自立した生活を営むことが難しい者、事件当時に18歳未満で、懲役3年以下の者、または残りの刑期が1年以下の者だった。

 習主席は、昨年8月29日から国家主席特赦令への署名を開始している。

 今回の特赦は1975年毛沢東が行って以来40年ぶりで、非戦争参加者がはじめて対象になっている。米人権団体「米中対話財団(Dui Hua Foundation)」の幹部ジョン・カンム氏は米メディアに対し、「毛沢東以外の歴代トップ(小平、江沢民、胡錦濤)が踏み切れない特赦を習近平が行った。(最高指導者としての)自信をみせている」と見解を述べた。中国問題専門家からは「習近平氏が全面的に政権の主導権を握ったことを意味する」との見方もある。

(翻訳編集・桜井信一)」

http://www.epochtimes.jp/2016/01/25146.html

石油に一体何が本当におきているのだろう?/F. William Engdahl

2016-01-29 13:58:50 | 国際
「石油に一体何が本当におきているのだろう?

New Eastern Outlook
2016年1月24日
F. William Engdahl

もし世界経済の成長や停滞を決定する何らかの単一商品の価格があるとすれば、それは原油価格だ。現在の世界石油価格の劇的な下落に関しては、余りに多くのことがあてにならない。2014年6月、主要な石油は、一バレル、103ドルで取り引きされていた。石油と石油市場の地政学を研究してきた多少の経験から、私は大いにうさんくさいものを感じている。私には納得がゆかないいくつかの物事について、皆様にもお伝えしよう。

1月15日、アメリカ石油価格指標、WTI(ウェスト・テキサス・インターミディエイト)の取り引きは、29ドルでひけたが、2004年以来最低だ。確かに、世界には、少なくとも一日約100万バレル、過剰生産があり、それが一年以上続いている。

確かに、イラン経済制裁解除は、供給過剰の市場に新たな石油をもたらし、現在の市場の価格下落圧力を増すことになろう。

ところが、アメリカとEUの対イラン経済制裁が、1月17日に解除される数日前、イラン国営石油NIOCのセイード・モフセン・ガムサリ国際局長は、イランは“…生産増大が決して価格を更に低下させないような形で市場に参入するつもりだ…市場が吸収できるだけの量を生産するつもりだ。”と述べた。だから、経済制裁解除後、イランの世界石油市場への新参入は、1月1日以来の急激な石油価格下落の理由ではない。

中国経済の崩壊とされるものとともに、中国の石油輸入需要が崩壊したというのは事実ではない。2015年11月までの一年で、中国より多く、実により多く、8.9%も、年々輸入し、一日660万バレルで、世界最大の石油輸入国となっている。

劇的に増大している現在の世界石油市場における政治リスクの煮えたぎる大釜状況に加わったのが、2015年9月以来の、テロリストのインフラに対する恐るべき空爆で、正当に選出されたシリア大統領、バッシャール・アル・アサドの依頼に応えるというロシアの決断だ。更に、NATO加盟国のトルコが、シリア領空で、ロシア戦闘機を撃墜するという厚かましい戦争行為をおかして以来、レジェップ・タイイップ・エルドアンのトルコと、モスクワとの間の関係の劇的な決裂もある。こうした全てのことからして、石油価格は、下落でなく、上昇するはずなのだ。

戦略的に重要なサウジアラビア東部州

さらに加えて、サウジアラビア国民であるニムル・アル・ニムルを処刑するという、サウジアラビア国防大臣で、事実上の王、ムハンマド・ビン・サルマン王子による、正気と思えぬほど挑発的な決定だ。アル・ニムル、尊敬されていたシーア派宗教指導者は、2011年、サウジアラビアのシーア派の権利を要求したテロ活動のかどで告訴された。超厳格なワッハーブ派スンナ宗派ではなく、シーア派の教えを奉じている約800万人のサウジアラビア人イスラム教徒が暮らしている。彼の犯罪は、抑圧されているシーア派少数派、おそらくはサウジアラビア国民の約25%に対し、権利を拡張するよう要求する抗議行動を支持したことだ。サウジアラビアのシーア派国民は、王国の東部州に圧倒的に集中している。

サウジアラビア王国の面積はドイツ連邦共和国の倍だが、住民はわずか400万人という東部州は、おそらくは地球上で最も価値のある不動産区画だ。国営石油会社のサウジアラビア・アラムコは東部州のダーランが本拠だ。

サウジアラビアの主要な石油とガス田は、世界最大の油田ガワールを含め大半が東部州陸上、海上にある。ガワールを含めサウジアラビア油田からの石油は、世界最大の原油ターミナル、ラスタンヌーラ・コンプレックスの石油ターミナルから何十もの国々に出荷されている。サウジアラビアによって汲み上げられる一日1000万バレル近くの石油の約80%がペルシャ湾のラスタンヌーラに送られ、そこで西に向かう超大型タンカーに積まれる。

東部州には、サウジアラビア・アラムコのアブカイク・プラント施設、一日700万バレルの能力を有する同社最大の石油加工・原油安定化設備がある。アラビアン・エクストラ・ライトと、アラビアン・ライト原油の主要石油加工サイトで、ガワール油田から汲み出される原油も扱っている。

しかもたまたま、東部州の油田と精油所の大多数のブルーカラー労働者は…シーア派だ。彼らは最近処刑されたシーア派宗教指導者ニムル・アル・ニムルに同情的だともいわれている。1980年代末、サウジアラビアのヒズボラ・ヘジャズは、石油インフラを何度か攻撃し、サウジアラビア人外交官殺害もした。彼らはイランで訓練を受けたとされている。

しかも現在、政治的緊張に加えて、片や、両脇を卑屈なアラブ湾岸協力会議諸国によって守られたサウジアラビアとエルドアンのトルコ、そして片や、アサドのシリアと、シーア派国民が60%のイラクと、現在ロシアによって軍事的に支援されている隣国イランとの間で、新たな不安定化の要素が高まりつつある。情緒不安定な、30歳のビン・サルマン王子が、王に任命されようとしていると報じられている。

1月13日、中東シンクタンクのガルフ・インスティテュート、独占レポートで、80歳のサウジアラビアのサルマン・アル・サウード国王は、王位を退位し、息子のムハンマドを王にする計画だと書いている。報告書は、現在、王は“現在の皇太子で、アメリカのお気にいり、強硬派のムハンマド・ビン・ナーイフをも、現在の皇太子兼内務大臣の地位から排除するこの動きへの支持を求めて、兄弟を順次訪問している。進展に詳しい情報源によれば、サルマン国王は兄弟たちに、サウジアラビア王政の安定のためには、継承を、横方向や斜め方向の継承ではなく、王が権力を、自分の最も相応しい息子に渡す直系継承に変える必要がある。”と書いている。

2015年12月3日、ドイツ諜報機関BNDは、気まぐれで、すぐ感情的になると彼らが見ている人物、サルマン王子が益々権限を強化しつつあることを警告するメモをマスコミに漏洩した。シリア、レバノン、バーレーン、イラクとイエメンへの王国の関与をあげて、サルマン王子に言及して、BNDはこう述べていた。“サウジアラビア王家の年長メンバーによるこれまでの慎重な外交姿勢は、衝動的な干渉政策によって置き換えられるだろう。”

石油価格の更なる下落?

世界の石油と天然ガス埋蔵の中心地中東を巡って、この不穏どころではない状況において、不穏な要素が蠢いており、実際ここ数週間、既に昨年12月、40ドル帯という低価格で一時的に安定していた石油価格が、今や更に25%も下落し、約29ドルで、見通しは暗い。シティグループは、20ドルの石油がありうると予想している。ゴールドマン・サックスは最近、世界石油市場を再び安定化させて、供給過剰から脱出するには、一バレル、20ドルという安値が必要かも知れないと言い出した。

今後数カ月で、何か非常に大きな、非常に劇的なものが、世界が全く予期していない何かが世界石油市場で形成されつつあるという非常に強い直感を私は持っている。

前回、ゴールドマン・サックスと、そのウオール街のお仲間が、石油価格で、劇的な予測をしたのは、2008年夏のことだった。当時、アメリカのサブプライム不動産メルトダウンが広がり、ウオール街銀行への圧力が高まるさなか、その年9月のリーマン・ブラザーズ崩壊直前、ゴールドマン・サックスは、石油は一バレル200ドルに向かっていると書いた。当時、147ドルという高値にあった。当時、私は、世界石油市場では膨大な過剰供給が存在しているという事実に基づいて、全く逆の可能性が高いという分析を書いたが、それをわかっていたのは、奇妙にもリーマン・ブラザーズだけだった。中国国際航空や、他の巨大な中国の国営石油顧客に、200ドルになる前に、あらゆる石油を147ドルで買い占めるよう説得するため、価格上昇をあおる助言として、JPモルガン・チェースなどのウオール街銀行は、200ドルという価格を宣伝しているのだと情報通の中国筋から聞かされた。

ところが、2008年12月、ブレント原油価格は、一バレル、47ドルに下落した。2008年9月、元ゴールドマン・サックス会長だったアメリカ財務長官ヘンリー・ポールソンの意図的な政治決定によるリーマン危機が、世界を金融危機と深刻な不況に突き落とした。ゴールドマン・サックスや、シティグループや、JPモルガン・チェースなどの他のウオール街主要巨大銀行にいるポールソンのお仲間は、議会に7000億ドルもの未曾有のTARP資金を持った緊急援助権限の白紙委任状を与える議会によう強いるため、ポールソンが、リーマン危機を企んでいたことを、事前に知っていたのだろうか? この出来事で、石油先物のレバレッジ・デリバティブを利用して、自分自身の200ドル予測がはずれる方に賭けて、ゴールドマン・サックスと、お仲間は莫大な利益をあげたとさされている。

まず、シェール石油‘カウボーイ’を処分する

現在、2009年あたりからアメリカ石油算出増大の最大の源であるアメリカ・シェール石油業界は、大量破産の瀬戸際ぎりぎりのところで踏みとどまっている。ここ数カ月、シェール石油生産は、かろうじて下落し始め、2015年11月、約93,000バレルだ。

大手石油会社カルテル-エクソン・モービル、シェブロン、BPとシェルは、二年前に、シェール・リース権を、市場で投げ売りしはじめた。現在、アメリカのシェール石油業界は大手ではなく、BPやエクソンが“カウボーイ”と呼ぶ 中規模の積極的な石油会社が支配している。歴史的に、大手石油会社に資金供与してきた、JPモルガン・チェースやシティグループなどのウオール街銀行は、大手石油会社自身と同様、世界で最も重要な市場を、彼らが再度支配できるのだから、現時点でシェール・ブームが破裂しても、涙をながすことなどありえない。シェール“カウボーイ”に、過去五年間に何千億ドルも貸しこんだ金融機関は、4月に、次の半期ローン見直しを迎える。価格が20ドル近辺をうろついていれば、新たな遥かに深刻な実際のシェール石油会破産の波がおこるだろう。もしそうであれば、カナダの巨大なアルベルタ・タール・サンド石油を含め、非在来型石油資源は間もなく過去のものとなるだろう。

それだけでは、石油は、巨大石油会社や、ウオール街の銀行にとって快適な70-90ドル・レベルに回復しない。中東のサウジアラビアと湾岸アラブ同盟諸国からの過剰供給は劇的に減らさなければならない。ところが、サウジアラビアには、そうしようという兆しが皆無だ。それで私はこの全体像が心配になるわけだ。

今年後半、石油価格を劇的に押し上げるような何か極めて醜悪なものが、ペルシャ湾で醸成されつつあるのだろうか? シーア派と、サウジアラビア・ワッハーブ派石油国家との間で、実際の武力戦争が醸成されつつあるのだろうか? これまでのところは、主として、シリアにおける代理戦争だ。シーア派宗教指導者処刑と、イラン人によるテヘランのサウジアラビア大使館襲撃以来、サウジアラビアや、他のスンナ派湾岸アラブ諸国による外交関係断絶となり、対決は遥かに直接的なものとなった。サウジアラビア財務省元顧問のホセイン・アスカリ博士はこう語っている。“イランとサウジアラビアがぶつかる戦争があれば、石油は一夜にして、250ドル以上になり、再度100ドル・レベルに下落しかねない。もし両国が、お互いの積み込み設備を攻撃すれば、石油は500ドル以上に高騰し、損害の程度次第では、そのあたりにしばらく留まることになる。”

あらゆることが、世界が次の巨大オイル・ショックに向かっていることを示している。それは、いつも石油を巡るものであるように見える。ヘンリー・キッシンジャーが、1970年代中期、ヨーロッパとアメリカが、OPEC石油禁輸と、ガソリン・スタンドでの長蛇の列に直面した際の、オイル・ショック当時に言ったとされているように“もし石油を支配できれば、全ての国々を支配できる”。この支配妄想が、急速に我々の文明を破壊しているのだ。地球上で最大の石油の大物になろうとして競争するのではなく、平和と発展に力を注ぐべき頃合いだ。

F. William Engdahlは戦略リスク・コンサルタント、講師で、プリンストン大学の学位を持っており、石油と地政学に関するベストセラー本の著書で、オンライン誌“New Eastern Outlook”に独占的に寄稿している。」

http://eigokiji.cocolog-nifty.com/blog/2016/01/post-c3be.html

安保法制について考える前に、絶対に知っておきたい8つのこと/ 伊勢崎賢治から

2016-01-27 14:11:36 | EU
「国連PKO上級幹部として、東ティモール、シエラレオネの戦後処理を担当。また日本政府特別代表としてアフガニスタンの武装解除の任に就き、紛争屋として、戦場でアメリカ軍、NATO軍と直接対峙し、同時に協力してきた東京外国語大学教授の伊勢崎賢治氏。日本人で最も戦場と言う名の現場を知る氏が昨年刊行した『日本人は人を殺しに行くのか 戦場からの集団的自衛権入門』から、安保法制について考える前に、有権者全員が心に留めておきたいことを以下に記す。(構成 / 編集集団WawW ! Publishing 乙丸益伸)


1.集団的自衛権と集団安全保障は明確に違うもの

そもそも集団的自衛権の「集団」と、集団安全保障の「集団」では意味が違います。前者における集団は「同盟国」のみを指し、後者における集団は「国連加盟国全体」を指しています。 (p.25)

「集団的自衛権」という文脈(略)の時に出ていく武力組織はNATOなどの有志連合でその指揮権は、攻撃に参加している各国が持っています。(略)つまり、各国は各々の「国益」のためにそれを行使するのです。(略)一方の「集団安全保障」という文脈での「集団」とは、(略)「国連加盟国全体」を指しています。この時に出ていく武力組織は、国連が承認し、国連が指揮の責任を持つPKO(国連平和維持活動)の多国籍部隊――PKF(国連平和維持軍)であることが基本です。(略)「国連的措置」(集団安全保障のこと;構成者注)とは、自分とは利害関係の全くない国の問題でも、(略)皆で窮地に陥った人々を助けようという性格のものです。こちらは、明確に“世界益”のために行われるものです。(p.29)


この二つがごっちゃになると、世界情勢を見る場合に、大きな混乱が生じることになる。


「集団的自衛権」は、あくまで“国益”のために行われるものであるため、時に各国のエゴがむき出しになることもあります。一方の「国連的措置」は“世界益”のために行われるものであるため、一国上の都合やエゴは、建前上、出せません。(p.30)

PKOの活動など――は清らかなイメージを付随させやすいものです。そのため、あえて「集団安全保障」という日本語訳を使い、「集団的自衛権」と混乱させることで、その行使の禁止の箍(たが)を外してしまおう、と考えている勢力がいるのではないかと、私は思っているのですが……。 (p.30)


どういうことかは、追々説明していく。


2.自衛隊の海外派遣を推進したのは「湾岸戦争のトラウマ」という名の外務省の勘違いだった

集団的自衛権の問題は、アメリカとの関係に左右されるといっても過言ではありません。つまり、アメリカに国際的な事件が起きるたびに、日本は集団的自衛権の解釈について頭を悩ませてきたのです。 (p.36)


湾岸戦争当時の1991年6月に、日本は、海上自衛隊の掃海部隊をペルシャ湾に派遣して以降、1992年6月にPKO協力法を成立させた。その3か月後の9月にカンボジアPKO、翌1993年5月にはモザンビークPKO、1994年9月にはルワンダ難民救護派遣、1996年2月にはゴラン高原PKO派遣……。


こうして、自衛隊の海外派遣へと突き進んできた日本国政府ですが、そのモチベーションは、本当に、一般に報じられている通り、「日本が国際貢献をするため」というものだったのでしょうか。(略)一番大きかったのは、外務省側の思惑で、外務省自身が「湾岸戦争のトラウマ」と呼んでいるものです。この説明は、湾岸戦争当時の海部内閣で、首相の演説担当・国会担当の内閣参事官として官邸にいた、江田賢治さん(元「維新の党」共同代表、当時通産官僚)の2007年10月22日のブログの記事が詳しいので、一部引用します。

「湾岸戦争の時には130億ドルもの支援をしながら「汗をかかない」と批判されたと、「湾岸戦争のトラウマ」をことさら強調する論者も多い。しかし待ってほしい。「湾岸戦争のトラウマ」を言うなら、私も、その当事者の一人である。当時は海部内閣であったが、私は総理の演説担当・国会担当(内閣副参事官)として首相官邸にいた。(略)
確かに「カネだけ出して汗をかかなかったから」日本は批判されたのだ、と言うのは、当たっていないことはないが、多分に以下のような特殊事情があったことに留意すべきである。(略)
実は、この「湾岸戦争のトラウマ」とは、直接的には、当事国のクウェートが戦後出した米国新聞の感謝広告に「JAPAN」がなかったというコンテクストで使われるのだが、しかし、これも考えてみれば当たり前のことなのだ。
実は、90億ドル支援(当時のお金で約1兆2000億円)のうち、クウェートに払われたのはたった6億円だったという事実を知らない人が多い。1兆円以上のお金は米国のために支出されたのだ。クウェートの首長は石油王で、イラクがクウェートに侵攻している間は、実は隣国のサウジの超高級ホテルのスウィートルームで優雅な生活を送っていた。その石油王にとって6億円程度は「はした金」にすぎないわけだから、感謝しようにもその気がわいてこないのは、ある意味しょうがないことなのだ。
言いたいことは、「湾岸戦争のトラウマ」を例にあげながら、しきりに「お金だけではだめだ」「汗をかけ」「自衛隊を出さなければ」と言っている人には、背後に、こうした事情、経緯があったことを知った上で発言してもらいたいということだ。「おカネ」は決して卑下すべき貢献策ではない。時と場合によっては、効果てきめん、感謝される貢献策となりうることも肝に銘じておくべきであろう。」

(略)つまり、外務省と、自衛隊の海外派遣を推進したい政治家の言う「湾岸戦争のトラウマ」とは、外務省のミスであり、アメリカからのメッセージの背後にある本心を読み違えた思い込みだったのです。(p.49)


3.アメリカのエゴ丸出しの戦争に、日本はまたも勘違いで加担していた

イラク戦争は、アフガニスタン戦争よりもさらにひどいものだったといえます。なぜなら、この時、イラクに侵攻するためのアメリカの集団的自衛権の行使に対し、国連安保理の決議は出なかったからです。つまりイラク戦争は、(略)アメリカのエゴ丸出しの戦争だったのです。(p.62)

しかも、アメリカが戦争の根拠とした、「イラクが保有しているはずの大量破壊兵器の存在」は、ブッシュ政権の捏造だったことはアメリカ自身の調査、そしてメディアによって、後に明らかにされるのです。おまけに、サダム・フセインがアルカイダを支援していた証拠も見つかりませんでした。(p.62)


アメリカ同時多発テロの時、世界貿易センタービルの倒壊で亡くなったのは約2700人。対して、アフガンとイラクに派遣されたことで亡くなったアメリカ兵は6000人超。そして、アフガン戦争で、1万9269人もの民間人が亡くなり、イラク戦争開始後の3年で巻き込まれて亡くなった民間人の数は15万1000人……。


皆さんは、アメリカ同時多発テロの後に大きく報道された「Show the flag」という言葉を覚えているでしょうか。同時多発テロ直後、アーミテージ米国務副長官が日本政府に対して協力を求めた言葉として広く報じられ、実際に、日本がインド洋に自衛隊を派遣する大きな原動力になりました。しかし悲しいかな、日本はこの言葉を、またしても勘違いして受け取ってしまっていたことが分かったのです。(p.79)

というのも、日本はこの時、「Show the flag」を文字通り「イラクに日本の(自衛隊の)旗を見せろ」という意味で受け取っていました。ところが、(略)アーミテージは、「旗幟を鮮明にしろ」――日本がどちらにつくかはっきりしなさい――と言っただけで、「自衛隊をイラクに派遣しろ」と言ったわけではなかったのです。(p.80)

ここに、自衛隊を海外に派遣するための口実である「湾岸戦争のトラウマ」に、「Show the flag」という口実が加わったのです。(p.80)


4.安倍内閣が集団的自衛権行使容認を欲する理由も、湾岸戦争のトラウマ、ショーザフラッグと同じ系譜

なぜ安倍内閣は、ここまで集団的自衛権の行使容認を欲するのか?


安倍首相は、「集団的自衛権の行使を容認しないと、有事の際に、アメリカが助けてくれなくなって困る」と言っているのです。(p.104)

閣議決定まで終わった「集団的自衛権の行使を容認する理由」がそれである証拠として、安保法制懇のメンバーの一人で、(略)元外務官僚の岡崎久彦さんの言葉を引用しましょう。彼は、2014年5月19日に、ハフィントンポストに掲載されたインタビューの中で、(略)次のように答えています。

「もう東アジアの安全保障というのがね、日中関係、米中関係なんてものはないです。中国対日米同盟、このバランスで全部考えなきゃいけない、共同で行動することを考えないかぎり、日本の安全は今考えられない。日本一人でもアメリカ一人でも守れないもん。アメリカ一人で守れと言ったらアメリカ引きますよ、だって勝てないもん。一番の問題は、日米同盟が危険にさらされた時ですよね、アメリカだけ、アメリカの第7艦隊がやられていて、日本が助けにいかなかったら、アメリカもう(同盟)やめたと、そうなる可能性はありますね、それが一番怖いですね。」 (p.104)


そして伊勢崎氏は、安保法制懇の第1回目の報告書に、「集団的自衛権の行使が必要な理由」として、岡崎さんがハフィントンポストに答えた内容と、ほぼ同じことが書かれていることを、本書の102ページに記している。


問題は、安倍内閣が「集団的自衛権の行使容認」に動いている理由が、「湾岸戦争のトラウマ」と、まったく同じ系譜にあるものだということです。「湾岸戦争のトラウマ」が、日本の外務官僚の勘違いによってもたらされたものであったことは、すでにお話した通りです。 (p.105)

5.アメリカは日本に自衛隊の派遣を求めていない?

では本当にアメリカは、日本の集団的自衛権の行使容認を欲しているのか?


日米関係を語るとき、よく「日本(が出すの)は金だけでいいのか」という議論になり、日本人に肩身の狭い思いをさせています。しかし、戦争を始めるのにも終わらせるためにもお金が必要であるという状況の中で、日本がこれまで、アメリカの戦争に莫大な貢献をしてきたことを、日本人はもっと自覚するべきです。(p.119)

また、「思いやり予算」こと、日本が負担する在日米軍駐留経費のことも忘れてはいけません。沖縄から飛び立った海兵隊が、イランやアフガニスタンに赴いているのです。(p.119)

さらに、世界の約5分の1を担当する世界最大の艦隊・米海軍第七艦隊が、事実上横須賀と佐世保を母港としているのをはじめ、在日米軍基地の担当範囲は非常に広く、アメリカが関与する紛争多発地帯をほぼ包括しています。さらに燃料や爆弾の貯蔵においても、日本は海外最大の保管庫になっています。(p.119)

だから、アメリカから日米同盟を解消することは、アメリカから日本を見はなすことは、特に中国の存在が、地球を良い意味でも悪い意味でも支配する現在、そして近未来において、絶対にありえません。(p.120)


ではなぜ、アメリカが日本に自衛隊を出すよう圧力をかけてきているように見えるのか?


選挙で有利に戦うための短期的な「利害」にしか興味のない政治家は、日本の専売特許ではありません。もちろんアメリカの政局をも支配しているものです。こういうアメリカの政治家にとって、自分で勝手に「湾岸戦争のトラウマ」を背負いこんでいる日本人は、たいへん好都合なのです。なにせ、これをちょっと耳元で囁くだけで、日本人は簡単に震え上がってくれて、それだけで、お金をATMのように引き出せるようになるのですから。(p.123)

今回の集団的自衛権行使容認騒動は、日本側の叶わぬ片思いのようなものです。恋い焦がれるあまり、アメリカが欲していないものでも何でも貢ごうとする……。なんとも切なくなる話です。(p.122)


6.集団的自衛権の行使によって失われかねない「日本の美しい誤解」の存在について

アフガニスタンにおいて実感した話です。(略)アフガニスタンの場合、(略)主要な占領政策はNATO加盟国を中心に分担して行うことになりました。新しい国軍はアメリカ、警察はドイツ、日本は非NATO加盟国ですが、武装解除の責任を負うことになりました。(p.127)

アメリカもNATOも手を焼いて何もできずにいた軍閥間の戦闘に非武装で入り込んで行き停戦させ、スローではあるものの重火器の引き渡しを着実に実現してゆく私たち(日本;構成者注)に対し、いつしかアメリカ軍の関係者たちは「日本は美しく誤解されている」と言うようになったんです。(p.128)

アフガニスタンの軍閥は、冷戦時代から大国のエゴの真っただ中にいた連中です。アメリカを基本的に信用していません。しかし日本は、アメリカから独立しているものと思われていたのです。それは誤解もいいところなのですが、私たち日本には、アフガンの軍閥たちに見られる足元自体がなかったのです。「日本に言われちゃしょうがない」――。あの時、軍閥やその配下の司令官たちは、我々が武装解除に向かった先々で、例外なくこう言い、武装解除に従いました。(p.129)

また、私たちの活動とは別に、イラクでは、日本の自衛隊が(基地にロケット弾が着弾しながらも)銃撃戦を一度も経験せずに任務を完了しました。なぜこれが可能だったかと言えば、地元のイスラム指導者が、「自衛隊を攻撃することは反イスラム」であるというおふれを出したからです。日本は、イスラム圏において、それほどまでに良いイメージを持たれていたのです。(p.131)

なぜか? そのルーツの一つは、日露戦争にあるようです。私もよくアフガンの軍閥に言われたものです。「ジャパンはスゲーよな。俺らも勝ったけど」と。また、アメリカにヒドイ目に遭わされた経験があるイスラムの民は、日本に「勇敢な被害者」という印象を持つようです。日本は経済大国でありながら、彼らの痛みが分かる唯一の国だと、彼らは考えているようです。(p.132)


……そんな日本のすばらしい国際的なパブリックイメージ(美しい誤解)が、今回の集団的自衛権の行使容認を契機として、失われてしまう危険性があると伊勢崎氏は指摘する。それはあまりにもったいないことだと。


7.自衛隊は“今”すでに、海外で人を殺さなければいけない一歩手前にまで追い込まれている

集団的自衛権の行使容認によって、国際的に、日本が苦しい立場に追い込まれかねない現状の中、今回の集団的自衛権の行使容認論議の中には、マスコミにも忘れられている重要な論点が存在しているという。


日本の報道では、集団的自衛権の行使容認の話ばかりにスポットライトが当てられていますが、決して見逃してはいけないことがもう一つあります。それは、安保法制懇の提言のなかには、「集団的自衛権の行使容認」の他に、「国連的措置(集団安全保障;構成者注)であるPKOの活動の幅を、これまで行っていた後方支援活動から、海外での軍事的行動を含む本体業務にまで広げるべき」ということも含まれているということです。(p.86)


日本では、PKOの活動は安全というイメージが流布されているが……、


もちろん、「日本はPKOに派遣している自衛隊が危機に陥ったら、兵を引くだろう」という見立てもあるでしょう。しかし、残念ながら、その甘い見立てが、いままさに自衛隊を危機へと追い込んでいるということも、ここで指摘しておかなければなりません。(p.235)

陸上自衛隊がPKO要員として、2012年1月から派遣されている南スーダンにおいてのことです。(略)2013年12月、南スーダン政府軍に対して反政府軍がクーデターを起こしました。(略)陸上自衛隊が駐屯している首都ジュバでの武力衝突に発展。(略)今、南スーダンは、第二のルワンダ化が心配される世界で最も危険な地域の一つになっているのです。(p.235)


……そして、2013年12月のある日の朝、自衛隊は、宿営地に隣接する国連施設のゲート付近に、数千人規模の避難民が集まり始め、昼過ぎに、開門して避難民を国連の施設に収容するという事態を実際に経験した。


ここで問題なのは、(略)「武装集団は、避難する一般市民に紛れて行動する可能性もある」ということです。もしも、保護を求めて自衛隊の基地に流れ込んできた住民のなかに、武装集団が紛れ込んでいたら? それを追って敵対勢力の武装集団が、熱狂状態にある群衆に紛れて迫ってきたら? 自衛隊はどういう立場におかれるのでしょうか。もはやその不安は、遅きに失していると言っていいでしょう。(p.239)

今回の閣議決定では、当然のごとく、「国際協調に基づく『積極的平和主義』の立場から、国際社会の平和と安全のために、自衛隊が幅広い活動で十分に役割を果たすことができるようにすることが必要である」とされました。しかし、ほとんどの国民がその危険性を知らず、マスコミも易々と見逃してしまい、誰一人として気づかないというお粗末な状況でした。日本は、将来でなく、今現在の時点でも、無辜の民間人と区別のつかない「敵」を殺さざるを得ない状態にあり、帰ることもできないでいるのです。(p.240)


それゆえ伊勢崎氏は、「現状のPKO活動からの自衛隊の全面撤退」を説く。なぜなら、PKOの活動も、日本側の勝手な思い込みで、日本が世界に貢ぎ倒しているだけなのだから……。


今現在、国連のPKO部隊(PKF)に大勢の兵を送り込むのは実は、国連加盟国の中でも、発展途上国の仕事になっているからです。これは、国連のPKFに部隊を送ると、国連からお金をもらえるため、発展途上国にとってはいい外貨稼ぎの場になっているからです。つまり、PKFに派遣される兵士の人数は足りているため、もう日本は、PKF関連の仕事に兵(自衛隊)を送る事業から卒業していいのです(実際、私は、ここまで大隊レベルの大きな部隊派遣にこだわる“先進国”を他に知りません)。(p.169)


あなたはこの事実を知っていただろうか?


8.日本は世界に残された最後の希望

PKOから自衛隊が撤退したら、もう日本は国際貢献できないではないかと思う方もいるかもしれない。しかし、現状のPKO活動よりも、もっと、真の意味で、日本が世界の平和に資することのできる自衛隊の活動(日本独自の貢献の方法)が存在している。


日本独自の貢献の方法――しかもそれがアメリカの国益にもなるもの――とは何なのでしょうか? そのヒントは、COIN(アメリカ陸軍・海兵隊のフィールドマニュアル:Counter-Insurgency)にあります。これは、イラク戦の米最高司令官だったペテロイアス 将軍(略)が、(略)2006年に、それまでの米軍の戦略ドクトリン(教義)を方向転換させたものです。(略)COINとは「対テロ戦マニュアル」のことなのです。(p.132)

なぜアメリカの圧倒的な軍事行動をもってしても、軍事力ではとるに足りないテロリストに勝てないのか? その理由の一つは、テロリストの側に、我々にはない圧倒的なまでの「非対称な怒り」が存在していることです。(略)我々を迎えるあちら側は、我々を傍若無人な侵略者(特に、イスラム教徒にとっての異教徒)であると見なしています。我々が黙ってそこに立っているだけで、彼ら個人個人とその集団を貫くのは、彼らのアイデンティティを賭けた怒りです。しかもそれは、我々の攻撃による同胞や家族の犠牲によって増幅し続けるのです。この「非対称な怒りの増幅」こそが、テロとの戦いに終わりがない所以です。そこで生み出されたのがCOINだったのです。(p.133)

COINが訴えかけるのは、「Winning the War : ウィニング・ザ・ウォー(敵を軍事的にやっつける)」ではなく、「Winning the People : ウィニング・ザ・ピープル(人心掌握戦に勝つ)」です。そのためには、(略)優良な国軍と警察を擁し、ちゃんとした「沙汰」を提供し、「秩序」を保つことのできる――すなわちinsurgents(テロリスト達;構成者注)が入り込んでくる隙間のない――現地政府をつくるしかないのです。(略)これは、“ネーション”(国家)という概念が存在しなかった無法地帯に、それをつくるという作業なのです。(p.136)

“ネーション”づくり。アメリカは、イラクにおいて失敗し、続くアフガニスタンでも失敗しています。(略)しかしこれは、失敗というより、まだ成果をあげていないと言わなければならないものです。なぜなら、COINに代わるドクトリンはまだ出現しておらず、恐らくこれ以上の方法は、将来に渡って出現しないだろうからです。(p.138)

2014年末の軍事的勝利なき撤退を前にして、アメリカやNATOでは、COINのこれからを占う専門的な議論が盛んになりつつあります。しかし実は、2006年にCOINをまとめるヒントとなったのは、日本がアフガニスタンで成功させた武装解除だったのです。COIN制定の前、アフガニスタンのアメリカ軍関係者の間でよく言われていたのは、「アフガンの成功をイラクへ」でした。その「アフガンの成功」とは、私たち日本の武装解除の成功のことだったのです。(略)日本が非武装で行った武装解除の成功がこそが、当時、アフガンに“ネーション”を建設する一縷の希望になっていました。日本が非武装で行った武装解除の成功が、ペテロイアス将軍の作ったCOINの元になったものなのです。(p.138)

アメリカ軍の増派といい、アフガン新国軍の計画兵力といい、オバマ大統領の「戦争計画」が迷走するなか、NATOは首脳会議において、今年2014年の末までに、アフガンに展開しているNATOの治安部隊13万人の大半を撤退させる方針を示している。つまり、この2014年は、NATOが、史上初めて、軍事的勝利のないままに戦争に区切りをつける歴史的な年になる。


2014年度末のNATO軍の撤退は、アフガンに「力の空白」をもたらし、再度勃興しつつあるタリバンに、おおいに有利に働くだろう。これが、OEF(不朽の自由作戦)という名の集団的自衛権の行使によって、アメリカ軍兵士に、1万9984人の負傷者と、2343人の死者を出した後の結果なのである。


これが、アメリカが今、そして、これからも苦しみ続けるであろう「集団的自衛権の行使」の実態です。今年2014年に、NATOは一応の区切りをつけますが、それは、単に経済的・政治的に(厭戦ムードが支配する)この戦争を維持できないからです。そして、「安倍政権の集団的自衛権」は、アメリカが陥っている現在のこの状況に、何の関心も払っていないのです! こんなことで、「アメリカの最も重要な友人」などと、よく言えるものだと、私は内心思っています。(p.139)

では、アメリカの国益になりながら、同時に日本が世界に貢献できる最上の方法とは何か? それは、(略)今こそ、日本版COIN――すなわち、非武装が原則だからこそできる「ジャパンCOIN」――を引っさげ、世界に“参戦”することです。(略)それが、真の世界貢献と(アメリカからの;構成者注)主体性獲得への第一歩になります。(p.140)

そのためには、安倍政権の言う「集団的自衛権の行使」など、一切必要なものではありません。(p.140)

日本はアフガンにおいて、内政干渉だと反発されることなく行政改革を行い、民衆に信頼される“ネーション”を打ち立てることができるはずです。それは、アメリカを中心に、西洋社会がおしなべて苦手としていることです。(p.140)


では、日本の「美しい誤解」を損なうことなく、集団的自衛権の行使容認も必要なく、非武装を原則として、真の世界平和と、アメリカの国益にも叶い、日本が真の主体性を取り戻すことのできる「ジャパンCOIN」、「非武装の自衛隊による真の世界貢献」とは何か――。


小さな政治ミッションでしかなかったアフガニスタンのUNAMA(国連アフガニスタン支援団)のマンデート(任務)を“少し”拡大し、「国連軍事監視団」を設け、アフガニスタンとパキスタン国境上の監視役として、NATOの代わりに、常駐させることだと考えています。(p.146)

このような国連軍事監視団の任務は、中立性を発揮しなければ両者の信頼を損なうため、紛争当事者国に利害関係のない国の要員が向いています。そして、同じ理由から、非武装で行うことが原則です。(p.146)

だから私は、この任務に、日本が手を挙げるべきだと考えているのです。ここにこそ、日本が「武力を使わない集団的自衛権の行使」――ジャパンCOIN――を実行する、大きな余地が生じていると考えています。(p.146)

国連軍事監視団は、伝統的に「安保理の眼」とも言われ、国連の本体業務中の本体業務です。大尉以上の軍人が多国籍のチームを作り信頼醸成にあたる、非常に名誉ある任務です。その任務に、日本が手を挙げるのです。これは、国際社会・アメリカに対し、日本が持ちうる「強み」と「補完性」を最高の形で発揮できる方法であると同時に、真の積極的平和主義の先駆けとなるための、極めて現実的な方法です。(p.146)

しかもそれは、国連的措置に関する任務であるため、日本の美しい誤解を損なう集団的自衛権の行使容認を行う必要はありません。さらに非武装で行う任務なので、憲法9条の問題においても、一切揉める必要がないものなのです。 (p.147)


こんなにいい方法があるのに、伊勢崎氏以外に、ほとんどこのような話をしていないのはなぜか? それは、政治家も含めた日本人が、海外情勢、戦場のリアルな動静に徹底的に疎いからであろう。その結果、日本は、伊勢崎さんが「日本側の叶わぬ片想いのようなもの」と表現するようなこと(湾岸戦争、イラク戦争への自衛隊派遣と集団的自衛権の行使容認)を、必要もないのにアメリカに貢ぎ続けてきたのである。しかもそれは、結果的に日本の国益を損なうものであり、ほとんど国際貢献にもなっていない、最悪の本末転倒だった……。

今こそすべての日本人が、国際情勢のリアルについて学びなおすべき時だろう。手遅れになる前に。


「日本にこれができなかったら、世界から希望の光が消えてしまう――」


伊勢崎氏は、本書で、そう訴えかけている。」

http://synodos.jp/international/14646