東京さまよい記

東京をあちこち彷徨う日々を、読書によるこころの彷徨いとともにつづります

芋坂(続)

2016年03月05日 | 坂道

前回、谷中の芋坂に行き記事にしたが、その後ふたたび訪れた。このあたりの地図を見て、ちょっと気になることがあった。

坂上 坂上 坂上から広場 坂中腹 谷中墓地の方から緩やかな坂道を下って芋坂跨線橋のたもとに至ると、この右側に芋坂の標柱が立っているが、その反対側に、一、二枚目の写真のように、線路に沿ってまっすぐに北西へ下る坂道がある(現代地図)。

坂下側で大きく右にカーブして広場につながっているが、そこで行き止まりである。この広場を坂上から撮ったのが三枚目の写真で、近くの街角案内地図には区立芋坂児童遊園とある。

以下、坂上から坂下を往復した順に写真を並べる。

前回の芋坂の記事で、この芋坂は、線路のため、烈しく分断されているだけでなく、坂の主要部が完璧に消滅しており、谷中の墓地側と根岸の団子屋側にかすかに痕跡をとどめているに過ぎない、と書いたが、この坂と、むかしの芋坂との関係がよくわからない。もしかしてこの坂がかつての芋坂ではないのか、との疑問を抱いたのである。もしそうだとすると、芋坂の主要部が残っていることになる。

根岸谷中日暮里豊島辺絵図(安政三年(1856)) 御江戸大絵図(天保十四年(843)) 坂中腹 坂中腹 一枚目の尾張屋清七板江戸切絵図(根岸谷中日暮里豊島辺絵図(安政三年(1856)))には、天王寺の東わきに湾曲した道筋に「芋坂ト云」と示され、坂マークである多数の横棒が描かれている。

二枚目の御江戸大絵図(天保十四年(843))にも、坂名の表記はないが、天王寺の東に大きく湾曲した道筋があるが、ここが芋坂であろう。

両者ともに、天王寺の方から芋坂にアクセスしたときの最初の坂道(下り)が、いまの坂と同じ向きに下っている。

江戸期の地図は、その特徴が誇張されデフォルメされているため実際の道筋とは違っていたように思われるが、それは細部のことで、大まかにはそんなに違っておらず、むしろ、その特徴をよく表していたように思われるが、この芋坂もそうともいえそうである。

坂下 坂下 坂下の広場 坂下の広場 現代地図を見ると、谷中墓地の方から下ってきて左折し北へ進み跨線橋の手前で左折し広場の方へ下る道筋は、東側に突き出た台形状を呈している。坂下のカーブの先は、線路を直角に横断すれば、根岸側の善性寺前に至る芋坂下の道につながっている。

実測東京全図(明治11年)を見ると、天王寺の東側に台形状の道筋があり、ここが芋坂と思われるが、その一部がいまの坂と同じ向きである。

明治地図(明治40年)にも台形状の道筋があり、線路が開通しているが、坂下の線路手前に妙楊寺(尾張屋清七板では「妙餘寺」)があり、その前を根岸の方へ延びている。

昭和地図(昭和16年)には、面白いことに台形状の道筋に加え、現在の跨線橋に相当する位置にまっすぐに延びる道筋があるが、これは現在と同じ跨線橋かもしれない。台形状の方も坂下でまっすぐに延び線路を横断している。

昭和22年の航空写真には、台形状の道筋が写っており、この坂がある。

昭和31年の地図には、跨線橋があるが、この坂は示されていない。

以上から、いまの広場へと下る坂道がかつての芋坂のように思われてくるが、そのようにはっきり書いている文献がなく、確たる自信があるわけではない。それでも、かつての坂道と完全に一致する道筋ではないかもしれないが、あるいは比較的最近できた道かもしれないが、ほぼ同じ道筋をたどっているような気がする(都内の歴史ある坂にはそのような坂も多いと思われる)。そのように思ってこの坂道を上下すれば、かつての芋坂の雰囲気をちょっとだけ味わえそうである。

この芋坂も近くの紅葉坂と同じように、上野台地の崖をトラバースするように斜めに上下する坂であったといえそうである。

坂下 坂下 坂下 坂下 「御府内備考」の谷中之一の総説に、次の記載がある。

『芋坂
 感應寺の後、三河島の方へ行坂をいへり、【江戸紀聞】』

 感應寺とは、天王寺のこと。

同じく、谷中町の書上に次の記載がある。

『一芋坂 幅貳間程、長三拾貳間程、
 右は感應寺東脇、當町飛地地先東叡山の間谷中村通りに有之候、』

長さが三十二間程とあるので、一間=1.81mとすると、58m程度。跨線橋の手前を下るいまの坂とほぼ同じである。

坂中腹 坂中腹 坂上 善性寺・芋坂下 芋坂下を進むと善性寺の門前であるが(現代地図)、ここに四枚目の写真のように荒川区教育委員会の標識が立っていて、次の説明がある。

『将軍橋と芋坂(善性寺)
 善性寺は日蓮宗の寺院で、長享元年(1487)の開創と伝える。寛文四年(1664)六代将軍徳川家宣の生母長昌院が葬られて以来、将軍家ゆかりの寺となった。
 宝永年間(1704~1711)、家宣の弟の松平清武がここに隠棲し、家宣のお成りがしばしばあったことから、門前の音無川にかけられた橋に将軍橋の名がつけられた。
 善性寺の向い、芋坂下には文政二年(1819)に開かれたという藤の木茶屋(今の「羽二重団子」)がある。
   芋阪も団子も月のゆかりかな  子規
       荒川区教育委員会』

その将軍橋と思われる橋が上記の尾張屋清七板江戸切絵図に描かれているが、無名である。

参考文献
横関英一「江戸の坂 東京の坂(全)」(ちくま学芸文庫)
山野勝「江戸の坂 東京・歴史散歩ガイド」(朝日新聞社)
岡崎清記「今昔 東京の坂」(日本交通公社)
石川悌二「江戸東京坂道辞典」(新人物往来社)
デジタル古地図シリーズ第一集【復刻】江戸切絵図(人文社)
デジタル古地図シリーズ第二集【復刻】三都 江戸・京・大坂(人文社)
「嘉永・慶応 江戸切絵図(尾張屋清七板)」(人文社)
市古夏生 鈴木健一 編「江戸切絵図集 新訂 江戸名所図会 別巻1」(ちくま学芸文庫)
「大江戸地図帳」(人文社)
「東京人 特集 東京は坂の町」④april 2007 no.238(都市出版)
「古地図・現代図で歩く明治大正東京散歩」(人文社)
「古地図・現代図で歩く戦前昭和東京散歩」(人文社)
「古地図・現代図で歩く昭和三十年代東京散歩」(人文社)
「江戸から東京へ 明治の東京」(人文社)
「大日本地誌大系 御府内備考 第二巻」(雄山閣)

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする