荷風は、昭和11年(1936)11月、前回の記事の9日に続いて、数回写真機を持って外出している。以下その日乗を引用する。
「十一月十二日。天気牢晴。正午窓前蝶の舞ふを見たり。一は白一は黄なり。立冬の節を過ること数日にして蝶を見るは珍しきことなり。午後写真機を携へ、小石川金剛寺阪上に至り余が生れたる家のあたりを撮影す。蜀山人が住みたりし鶯谷に至りて見しが陋屋立て込み、冬の日影の斜にさし込みたれば、そのまゝ去りて伝通院前より車に乗りて帰る。燈刻尾張町不二アイスに飯す。帰宅後執筆。
〔欄外墨書〕金冨町四十五番地赤子橋 」
この日(11月12日)、荷風は、小石川金剛寺坂上に至り、金富町の生家跡を訪ね、その辺りを写真撮影した。坂上近くの鶯谷に至ったが陋屋が立て込み、冬の日影が斜にさし込んでいたので、そのまま立ち去った。西向きの地で日が傾いたため逆光で写真撮影を諦めたのかもしれない。
「十一月十六日。小石川服部坂上に黒田小学校とよぶ学校あり。余六七才のころ通学せしことありき。今より五十二三年前の事とはなるなり。然るに右学校にてはこの事を探索し今夏七月ごろ寄附金を募集のため校員を遣し来りしことありき。余之に応ぜざりしに、昨夜またもや勧誘員を銀座金春新道喫茶店きゆうぺるに派遣し、演芸会の切符を売付けむと、余の来るを待ちゐたりし由。右茶店より通知の電話あり。余は事の善悪に係らず、現代人の事業には一切関係することを欲せざれば、いづれも知らぬ振にて取り合はざるなり。此日薄晴。風なく暖なれば墨堤に赴き木母寺其他二三個所の風景を撮影し、堀切より四ツ木に出で、玉の井に小憩し、銀座に飰して家にかへる。」
この日(11月16日)、やや晴れ、風がなく暖かかったので、墨堤に行き、木母寺(現代地図)など二三箇所の風景を撮影し、堀切より四ツ木に行き、玉の井で一休みし、銀座で夕飯を食して家に帰った。
「十一月十八日。曇りて蒸暑し。午後三菱銀行に徃き、それより電車にて今戸橋に至り山谷堀の景を撮影すること二三枚。日本堤を越え田町の袖摺稲荷及び山谷の合力稲荷に賽す。いづれも震災後の仮普請なり。遊郭に入りて見るに仲の町に菊花を植ゑたれど花少なく虎の門の縁日などよりも見劣りしたり。角町の角に藝者検番出来、二階にて仲の町藝者大勢何やら総踊のようなものを稽古せり。水道尻に出で公園の池畔に休む。震災前の大門の焼残りたるを庭の一隅に据ヘたり。新に世直し地蔵尊を立てたり。日未だ暮れざれば田中町より橋場に出で、白髯橋をわたり玉の井に至り鎌田方に少憩し、銀座に出でゝ家にかへる。」
この日(11月18日)、曇りで蒸し暑かった。午後三菱銀行に行き(前日に朝日新聞記者から「濹東綺譚」の原稿料を小切手で受け取っている)、そこから電車で今戸橋に至り山谷堀の風景を二三枚撮影した(左の昭和16年地図参照)。日本堤を越え田町の袖摺稲荷(現代地図)と山谷の合力稲荷(現代地図)に参詣した。
「十一月二十日。快晴雲翳なし。午後本所五ノ橋自性院に徃き境内の景を撮影して後大島町の大通を歩む。日は忽ち晡なり。白髯三ノ輪行のバスを見たれば之に乗りて寺嶋町に至りいつもの家に少憩し、銀座に飯して家にかへる。」
この日(11月20日)、快晴で雲一つなかった。午後本所の五の橋の自性院(現代地図)に行き、境内の風景を撮影してから、大島町の大通りを歩いた。たちまち夕方になり、白髭三ノ輪行きのバスが来たので、これに乗って寺嶋町に行き、いつもの玉の井の家で休憩し、銀座で夕飯をとって家に帰った。
「十一月廿四日。快晴。午後浅草千束町大音寺に徃き墓地を撮影す。近鄰の人らしき男あり。梵字を石一面に刻したる墓を指さし山谷の鰻屋重箱の墓なりと言ふ。又倒れたる石の中の一ツをば吉原の町名主の墓なりと教へたり。されど法名のみにて俗名を刻せざれば明確ならず。銀座に出でふじに飰してかへる。」
この日(11月24日)、快晴で、午後、浅草千束町の大音寺(現代地図)に行き墓地を撮影した。この後、銀座に出て、不二アイスで食して家に帰った。
「十一月三十日。快晴。風なし。午後玉の井に徃きて路地の光景を撮影す。浅草公園を過る時燈影忽燦爛[さんらん]たり。銀座不二あいすに夕餉を食し、喫茶店さくら屋にて諸氏に逢ふ。この夜霧深し。」
この日(11月30日)、快晴で風がなかった。午後、玉の井に行って路地の光景を撮影した。浅草公園を過ぎるとき灯が美しく輝いていた。銀座の不二アイスで夕食をし、喫茶店さくら屋にて諸氏に会った。この夜霧が深かった。
この日も玉の井の路地を撮影した。左の写真は、昭和12年(1937)4月に刊行された私家版「濹東綺譚」に収められた荷風撮影の玉の井の写真である。この日の撮影かは不明であるが、そうかもしれない。
以上のように、11月9日の玉の井に続いて、12日、16日、18日、20日、24日、30日とあちこちへ撮影に出かけている。まとめると、次のようになるが、玉の井などの墨東・下町が主で、山の手は小石川の生家の辺のみとなっている。当時の荷風がどこに関心を持っているかよくわかる。
11月9日 玉の井やその周辺
12日 小石川金冨町の生家の辺り
16日 墨堤の木母寺
18日 今戸橋から山谷堀
20日 本所の五の橋の自性院
24日 浅草千束町の大音寺
30日 玉の井
参考文献
「新版 断腸亭日乗」(岩波書店)
秋庭太郎「考証 永井荷風(下)」(岩波現代文庫)
「古地図・現代図で歩く戦前昭和東京散歩」(人文社)
「新潮日本文学アルバム 23 永井荷風」(新潮社)