東京さまよい記

東京をあちこち彷徨う日々を、読書によるこころの彷徨いとともにつづります

荷風と歌

2014年06月12日 | 荷風

荷風と歌といっても、永井荷風が和歌を詠んだり音楽の曲を歌うことではなく、荷風の愛人であった関根歌のことである。荷風は、その生涯にわたって、たくさんの女性とつき合ったことは、その日記「断腸亭日乗」などから有名であるが、もっとも長続きしたのはこの歌である。これもよく知られている。

永井荷風と関根歌 「断腸亭日乗」に「歌」という名で歌がはじめて登場するのは昭和2年(1927)9月4日である。

「九月初四 病床に在り、晩間麹街の妓阿歌病を問ひ来る、」

荷風は、その三日前の日乗に「夜半遽に悪寒を感ず、体温三十八度に昇る」(9月1日)とあるように、風邪をひき熱をだしたが、そのお見舞いに歌がやってきた。その前日(8月31日)に次の記述がある。

「八月卅一 快晴、秋涼襲ふが如し、日暮松莚子に招がれ大伍清潭の二氏と共に南鍋町風月堂に会飲す、帰途窃[ひそか]に麹坊の妓家を訪ふ、是日午後春陽堂店員全集印税残金七千余円持参、」

この南鍋町(銀座、数寄屋橋近く)の風月堂からの帰りに寄った妓家の荷風のお目当ては、秋庭太郎によれば、麹町三番町九番地川岸家抱寿々龍であったが、この寿々龍の本名が関根歌であった。ひそかに訪れたというのがいかにも秘密めいている。これ以前に見知りであったようであるので、日乗を遡ると、同年8月9日に次のような記述がある。

「八月九日 晴れて暑し、秋海棠の花秋に入りてより俄に色増しぬ、紅蜀葵は根に蟻多くつきて花もなくて枯れんとす、百合の花全く散り尽しぬ、終日蔵書を曝す、晩間麹坊の妓家を訪ひ夜ふけて帰る、十日頃の月佳く風涼し、」

暑い日中に曝書に専念し、夜になってから麹町の妓家を訪れたが、歌が目当てであったのであろう。この日のような夏の曝書(本の虫干し)と、秋の落ち葉掃きが荷風の楽しみであった。この二日後、上野から汽車に乗って軽井沢に向かっている。荷風が東京を離れるのは珍しいことだが、軽井沢ほてるで松莚子などと一緒になっている。

もとにもどって、9月4日の歌の来訪(見舞い)に荷風は喜んだらしく、次の日、さっそく行動に移している。

「九月初五 秋の日しづかに曇りて風なし、正午邦枝日高の二氏来訪、夜麹坊の妓家に夕餉をなす、」

風邪が治ったのか、早速歌に会いに行っている。かなり現金なような感じがするが、夢中になると我を忘れてしまう(もっとも荷風だけに限ったことではないだろうが)。

「九月十日 快晴、東南の風烈しく溽暑甚し、此夜中秋なり、空晴渡りて深夜に至るも一点の雲なく、月色清奇、近年になき良夜なり、麹坊の妓阿歌を携へ神楽坂を歩む、夜涼の人織るが如し、」

その五日後、歌と神楽坂を歩いている。ふだんならなんと云うこともない天候でも、こういったときであると、近年にない良い夜となる。雲がまったくなく月の光が清らかな夜。

「九月十二日 快晴、秋暑益甚し、去年の春書捨てたりし短篇小説捨児といふものを改竄す、?他下邦枝氏来訪、風月堂にて晩餐を倶にす、驟雨を太牙楼に避く、帰途窃に阿歌を見る、阿歌妓籍を脱し麹町三番町一口坂上横町に間借をなす、」

歌は、芸者をやめ、三番町の一口坂上の横町に間借りをした。荷風が身請けすることを決めたのであろう。

「九月十四日 朝来大雨午後に歇む、改造社々長山本氏邦枝君と共に来る、同社全集一円本の中余の拙集出来したるを以てなり、夜お歌と四谷通の夜肆[店]を看る、」

「九月十七日 聲[陰]晴定まらず、本郷菊坂の古書肆[店]井上より樺山石梁の詩文集を郵送し来る、夜お歌と神田を歩み遂にその家に宿す、お歌年二十一になれるといふ、容貌十人並とは言ひがたし、十五六の時身を沈めたりとの事なれど如何なる故にや世の悪風にはさして染まざる所あり、新聞雑誌などはあまり読まず、活動写真も好まず、針仕事拭掃除に精を出し終日襷をはづす事なし、昔より下町の女によく見らるゝ世帯持の上手なる女なるが如し、余既に老いたれば今は囲者置くべき必要もさして無かりしかど、当人頻に藝者をやめたき旨懇願する故、前借の金もわづか五百円に満たざる程なるを幸ひ返済してやりしなり、カツフヱーの女給仕人と藝者とを比較するに藝者の方まだしも其心掛まじめなるものあり、如何なる理由にや同じ泥水家業なれど、両者の差別は之を譬ふれば新派の壮士役者と歌舞伎役者との如きものなるべし、」

自分はすでに老いたので妾を囲う必要もそんなにないが、当人がしきりに芸者をやめたいと願うので、借金もわずか五百円に足らない程度であるのを幸いに返済してやったのである、などと記しているが、荷風一流の照れ隠しである。

歌は21才といい、容貌十人並とはいいにくく、15,6の時に身を沈めたとのことだが、どうしたわけか世の悪風にはそんなに染まらず、新聞雑誌などはあまり読まず、活動写真も好まず、針仕事や拭き掃除に精を出し一日中たすきを外すことがなく、昔より下町の女によく見られる世帯持の上手なる女のようだ、などとほめているが、要するに、荷風は歌を気に入ったのである。

「十月十三日 市ヶ谷見附内一口坂に間借をなしゐたるお歌、昨日西ノ久保八幡町壺屋といふ菓子屋の裏に引移りし筈なれば、早朝に赴きて訪ふ、間取建具すべて古めきたるさま新築の貸家よりもおちつきありてよし、癸亥[きがい]の震災に火事は壺屋より四五軒先仙石家屋敷の崖下にてとまりたるなり、されば壺屋裏の貸家には今日となりては昔めきたる下町風の小家の名残ともいふべきものなり、震災前までは築地浜町辺には数寄屋好みの隠宅風の裏屋どころどころに残りゐたりしが今は既になし、偶然かくの如き小家を借り得てこゝに廿歳を越したるばかりの女を囲ふ、是また老後の逸興と云ふべし、午後平井辯護士来談、」

関根歌 とんとん拍子に話が進んで、ついに、お歌は、一口坂から西久保八幡町の菓子屋壺屋裏に引っ越しをした。ここは、仙石山のほとりで、偏奇館の近くであった。壺中庵(こちゅうあん)と名付けたが、以降、断腸亭日乗には毎日のように登場する。このとき、荷風49才、歌21才。

歌は、明治四十年(1907)二月十一日東京小石川表町十一番地に生まれた。歌女の芸妓時代に父は上野桜木町に住み、煙草店を営むかたわら事務員をしていたが人品よく、母も意気な人柄であったという(秋庭太郎)。

ちょうどこの頃、荷風は、別の女性と別れ話でもめていた。

「十月八日 雨。春陽堂黄物持参す。正午女給お久また来りて是非とも金五百円入用なりと居ずはりて去らず。折から此日も邦枝君来合せたれば代りてさまざま言ひ聴かせしかど暴言を吐きふてくされたる様子、宛然切られお富の如し。已むことを得ざる故警察署へ願出づ可しといふに及び漸く気勢挫けて立去りたり。今まで心づかざりしかど実に恐るべき毒婦なり。世人カツフヱーの女給を恐るゝ者多きは誠に宜なりと謂ふ可し。余今日まで自家の閲歴に徴して何程の事あらむと侮りゐたりしが、世評の当れるを知り慚愧に堪えず。凡て自家の経験を誇りて之を恃むは誤りのもとなり。慎む可し慎む可し。」

女給のお久が正午にやってきて五百円をくれといってなかなか帰らない。ちょうど来ていた邦枝君も言い聞かせたが暴言を吐きふてくされた様子で、ちょうど切られお富のようである。やむをえず警察に届けると云ったらようやく気勢がそがれたようで帰った。実におそるべき毒婦である(言い過ぎのような気もするが、それだけ凄みがあって怖かったのだろう)。それでも、後悔したようで、カツフヱーの女給を相手にした経験があるといって、そればかりに頼るのは誤りの元である、つつしむべし、つつしむべし、といっている。

しかし、お久との揉め事は、これで終わったわけではなく、さらに続く。その三日後(10月11日)の日乗に次の記述がある。

「十月十一日 曇る、午前今川小路山本書店に赴き市島春城氏蔵書売立品の中購求したき古書入札の事を依頼す、それより三才社に立寄り新着洋書二三部を購ひ近近鄰の風月堂にて昼餉を食し家に帰る、驟雨沛然たり、黄昏強震、雲散じて月出づ、初更中央公論の草稿をつくり畢りしかば勝手に至り茶をわかさむとするに、表入口の方に人の足音聞ゆ、おそるおそる窺見るに女給お久なり、主人旅行中と荅ふべき旨老媼に言含め、裏口より外に出で山形ホテルの電話を借り日高君の来援を求む、路傍にて日高君と熟議の上市兵衛町曲角派出所に訴へ出づ、巡査来り遂に女給を鳥居坂警察署に引致し去りぬ、派出所の電話を借り余も出頭すべきや否や問ひ合せし処今夜はそれに及ばずとの返事を得、日高君も安心して帰宅せり、門扉に堅く錠を卸して寝に就きしは正に十二時半頃なり、」

この日、午後七~八時頃、原稿を書き終えてお茶をわかそうとしたとき、表玄関の方から足音が聞こえたので、おそるおそるのぞいて見ると、お久である。女中に旅行中と答えるように言い含め、裏口から山形ホテルに行き、日高に応援を頼んだ。相談の結果、市兵衛町曲角の派出所に訴えた。巡査が来てお久を連れて行った。

日高浩は、十数年もの間、荷風に師事し、一頃は荷風の秘書の如き時代があったといわれた。この頃もそんな時であったかもしれないが、麻布笄町にいて、お久が押し掛けてくると、荷風は、すぐに応援を頼んでいるので、頼りにしていたのであろう。

「十月十二日 午前七時巡査門を叩き警察署に同行せられたしと云ふ、自働車を倩ひ鳥居坂分署に赴く、刑事部屋にて宿直の刑事一通りの訊問あり、お久は昨夜より留置場に投け込みある故午後四時頃再び出頭すべしと云ふ、帰宅して後電話にて日高氏に顛末を報ず、日高氏来る、相談の上余が知れる辯護士平井と云ふ人を招ぎ三人打連れ時刻をはかり再び警察署に抵る、待つ事一時間ばかり呼出しあり、一室に於て制服きたる警官まづ余を説諭して曰く、こんなくだらぬ事で警察へ厄介を掛けるのは馬鹿の骨頂なり、淫売を買はうが女郎を買はうがそれはお前の随意なり、その後始末を警察署へ持ち出す奴があるかと、次に檻房より女を呼出しお前も年は二十七とか八とかになれば男の言ふ事を間に受けることはあるまい、だまされたのはお前が馬鹿なのだ、金ばかりほしがつたとて事は解決せぬ、今日は放免するから帰れと言ふ、警官の物言ふさま恰も腐つた大福餅を一口噛んでは嘔き出すと云ふやうな調子なり、永坂上にてお久を平井辯護士に引渡し、余は日高君と山形ほてる食堂にて夕餉をなす、葡萄酒を飲み此のたびの事件甚面白ければその顛末を書きつゞりたきものなりと語り興じて、初更家に帰る、細雨霏霏たり、」

次の日、日高、平井弁護士と一緒に三人で鳥居坂分署に行くと、制服の警官がこんなくだらない事で警察に厄介をかけるのは大馬鹿である、女の後始末を警察に持ち込むな、などと説教された。続いて、お久を連れて来て曰く。だまされたのはお前が馬鹿なのだ、云々。警官の物言いは、腐った大福餅を一口噛んではき出すような具合であった。永坂上でお久を平井弁護士に引き渡し、日高と二人で山形ホテルで夕食をとった。ワインを飲みながら今回の事件ははなはだ面白いからその顛末を書き綴りたいと語り合った。

以上がお久との揉め事の顛末である。荷風は、今回の事件ははなはだ面白いからその顛末を書き綴りたいなどと強がったことを記しているが、内心は忸怩たるものがあったに違いない。警官の説教を一々事細かに記していることからもそう思ってしまう。しかし、自分のことも相手のことも等しく記していることを考えれば、起きたことを客観的に見て、事実は事実としてありのままに書いている。

お久との事件があった日(10月12日)の次の日、上記のように日乗によれば、歌が西久保八幡町の壺屋裏に越してきている。歌との仲が進展する一方で、同時進行的にお久と別れ話で揉めていたわけであるが、後世から野次馬的にみれば、順調な恋物語よりも揉めた別れ話の方がはるかに面白い。二つがほぼ同時に進行しているため、いっそうそう感じられるのであろうか。

「十月二十日 快晴、樺山石梁の常毛紀行を読む、佐藤一斎の紀に比して及ばざるものあり、午後平井辯護土毒婦お久の事件落着せし旨を報ず、壷中庵に宿す、」

この日、平井弁護士から連絡があり、お久の事件が落着したが、まだ毒婦と云っている。秋庭太郎が日高から聞いたところによれば、荷風は、軽少な金をお久に与えて絶縁したという。

「十月廿一日 晴れて暖なり、午後家に帰る、山本書店市島春城翁旧蔵の書数部を送り来る、沢田東江の来禽堂詩草梁田蛻巌の詩集前編等なり、此口去年大島隆一氏より借り来りし成嶋柳北手沢の文書を使の者に持たせて返付す、?他時葵山翁来る、倶に山形ほてるに赴き晩餐をなす、虎の門にて葵山翁と別れ窃に壷中庵に抵りまた宿す、是夜壷中庵の記を作り得たり、左の如し。
   壺中庵記
西窪八幡宮の鳥居前、仙石山のふもとに、壺屋とよびて菓子ひさぐ老舗が土蔵に沿ひし路地のつき当り、無花果の一木門口に枝さしのべたる小家を借受け、年の頃廿一二の女一人囲ひ置きたるを、その主人自ら?患して壷中庵とはよびなしけり、朝夕のわかちなく、此年月、主人が身を攻むる詩書のもとめの、さりとては煩しきに堪兼てや、親しき友にも、主人は此の菴[いおり]のある処を深くひめかくして、独り我善坊ヶ谷の細道づたひ、仙石山の石径をたどりて、この菴に忍び来れば、茶の間の壁には鼠樫の三味線あり、二階の窗[窓]には桐の机に嗜読の書あり、夜の雨に帰りそびれては、一つ寐の長枕に巫山の夢をむすび、日は物干の三竿に上りても、雨戸一枚、屏風六曲のかげには、不断の宵闇ありて、尽きせぬ戯れのやりつゞけも、誰憚らぬ此のかくれ家こそ、実に世上の人の窺ひ知らざる壷中の天地なれど、独り喜悦の笑みをもらす主人は、抑も何人ぞや、昭和の卯のとしも秋の末つ方、こゝに自らこの記をつくる荷風散人なりけらし、
   長らへてわれもこの世を冬の蝿」

次の日、お久問題からの開放感もあってか、壺中庵記などというおのろけをつくっている。ここは親しい友にも秘密にし、一人で我善坊ヶ谷の細道伝いに仙石山の石径をたどって、この庵に忍んでくれば、・・・

東京徘徊の達人、種村季弘は、愛宕山「路地奥」再訪の記で、この壺中庵記を引用して、「ちぇっ、いい加減にしやがれ、といいたいところだが、・・・」などと記している。

参考文献
「新版 断腸亭日乗」(岩波書店)
秋庭太郎「考証 永井荷風(下)」(岩波現代文庫)
「新潮日本文学アルバム 永井荷風」(新潮社)
種村季弘「江戸東京≪奇想≫徘徊記」(朝日新聞社)

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