おにぎり2個の里みち歩き 農山漁村の今昔物語

おにぎりを2個持って農村・山村・漁村を歩き、撮り、聞き、調べて紹介。身辺事象もとりあげます。写真・文章等の無断転載禁止

山郷 に 水稲 を 運んできた 久保田用水 < 農村 の 水 19 >

2011年04月29日 00時00分00秒 | 農村の水

写真1 黒川の久保田堰。写真右の水路が久保田堀。写真に案内者W氏とお孫さん

写真2 工事中の久保田堀。写真左奥は久保田堰の方向。写真左端に黒川が流れる。

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 2011年3月21日に紹介した栃木県鹿沼市板荷3区における協働の久保田用水路整備。水は、同じ板荷の黒川上流に設えられた久保田堰(写真1)で取水され、左岸の用水路を自然流下して来る。写真2の工事中のコンクリート用水路を経て、くだんの板荷3区の用水路へ、さらに下流へ。
 この工事地点が問題、錯覚させる。写真2の左右を見ると、この地点の標高は高い、黒川を見下ろしている。されど、水が自然状態で重力に抗うのは難しいはず。長い用水路で勢いをつけた水が一気呵成に流れ上がるのか、はたして如何に。
 聞くと、取水地点、すなわち久保田堰の方が標高は高い。なーるほど、錯覚だったのか、自然法則は貫かれているのだ。
 さらに聞くと、明治初年の建設時、ロウソクを水路敷設予定地に順に並べて点け、対岸・右岸の山から、標高、落差を測った。
 用水通水前、板荷は麦、稗、蕎麦、芋など畑作物が主食糧の山郷。そのため、村民有志140人が明治2年5月1日に日光県に働きかけ、同県開墾方権大属久保田譲之助の協力を得て同月26日に着工し、同年10月20日に竣工。悲願の水が流れるようになった。
 久保田譲之助の名をいただき久保田堰、久保田用水となり、明治41年11月1日、久保田堀普通水利組合が設立される。
 引用・参考文献等:『久保田堰竣工記念碑』
 謝辞:ご案内、ご教示くださったW氏に、あらためて感謝致します。
 執筆・撮影者:有馬洋太郎 撮影年月日:2011年3月13日 撮影地:栃木県鹿沼市板荷
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