おにぎり2個の里みち歩き 農山漁村の今昔物語

おにぎりを2個持って農村・山村・漁村を歩き、撮り、聞き、調べて紹介。身辺事象もとりあげます。写真・文章等の無断転載禁止

江戸末期・明治初期 栗橋の絵馬は語る農作業の変化(1)

2017年07月10日 05時51分42秒 | 歴史

写真1 間鎌稲荷社「農耕図絵馬」(焼失) 間鎌村氏子中が1850年(嘉永03)12月に奉納。縦110㎝×横160㎝。絵師は不明。撮影:2003年09月。丸数字は筆者


写真2 間鎌稲荷社「農耕図絵馬」の長床犂(四辺形枠犂・写真1の①) 撮影:2003年09月


写真3 吉川市の長床犂。久喜市(旧栗橋町)と同じ中川流域(下流)。吉川市郷土資料館所蔵。撮影:2002年09月


写真4 三郷市の長床犂。久喜市(旧栗橋町)と同じ中川流域(下流)。三郷市立郷土資料館所蔵。撮影:2002年09月

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 2017年07月08日13:30~15:10、栗橋公民館
 筆者は栗橋歴史同好会員として調査研究結果を発表
 第5回公開例会で、非会員16名の皆様がご参加くださいました
 あらためて御礼申し上げます

 さて、テーマは「江戸末期・明治初期 栗橋の絵馬は語る農作業の変化」
 本論における農作業変化のモノサシは耕起具のスキ・犂
 かつて、牛や馬が田や畑で牽いた犂
 無床犂、短床犂、長床犂に大別される
 床と呼ぶ接地面(写真3のⅠ~Ⅱ)の長短で分類
 農作業変化は人力(鍬)⇒畜力(犂・馬鍬)⇒機械(耕耘機・トラクター・田植機・コンバインなど)の三段階
 
 久喜市・旧栗橋町は二ヵ所に「農耕図絵馬」が奉納されていた(注1)
 その一つ、間鎌稲荷社の「農耕図絵馬」を本日は紹介(写真1・写真2)
 江戸時代末期、1850年(嘉永03)に奉納された絵馬
 絵馬・写真1に次の農作業をみる
 ①湿田で犂による耕起 ②馬鍬によるシロカキ(農民だけみえる)③苗取り ④田植 ⑤稲刈 ⑥扱き箸による脱穀 ⑦クルリ棒による脱穀 ⑧土臼による籾摺り ⑨箕による混合物飛ばし ⑩玄米入り俵を蔵に搬入 ⑪潅水
 ①で使われる、描かれる犂は長い接地面の長床犂

 長床犂は古墳時代から畿内で使われていた
 他方、近世期の東日本は「東北・関東・東海等犂耕の證の見られない地域」「犂耕の行はれざる関東」であった(注2)
 すなわち、東日本は明治期まで犂を使わず、犂耕後発地

 その後発地、栗橋の絵馬にみるごとく長床犂が使われていた
 畜力利用の農作業へ大きく変化
 
 ただし、長床犂を絵師が粉本(見本)を基に描いた可能性はある(注3)
 その一つ、犂とシリガイは一体になっている、不自然(注4)

 考えるに栗橋は日光街道の宿、利根川及び中川の流域
 中川の下流域、日光街道筋の吉川市、三郷市で長床犂が使われていた(写真3・写真4)
 さらに同じ流域、同じ街道筋の草加市、八潮市、足立区、葛飾区でも長床犂は使われていた
 その証左は次のよう
 ①草加市歴史民俗資料館、八潮市立資料館、足立区立郷土博物館、葛飾区郷土と天文の博物館に長床犂が保存されている
 ②東京国立博物館と東京都公文書館に保存される東京府勧業課作成の南足立郡農具圖、南葛飾郡農具圖、荏原郡農具圖に長床犂をみる

 上記のような保存状況や農具圖、絵馬から、江戸末期、栗橋では長床犂が使われ、農作業は大きく変わりつつあった
 (次回は、栗橋の北広島地蔵堂「農耕図絵馬」にみる無床犂のオークワを紹介します)

 注1 残念ながら焼失
 注2 古島敏雄(1967)『日本農業技術史』(時潮社)505頁・518頁
 注3 農業全書の農事図、狩野派が描いた屏風・襖絵など
 注4 シリガイは牛尾の後に描かる横棒。鞍から出る左右2本の綱で牛を傷つけないための棒。一般にはシリガイと犂を綱で繋ぐ
 執筆・撮影者:有馬洋太郎
 撮影日・撮影地:上記

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