おにぎり2個の里みち歩き 農山漁村の今昔物語

おにぎりを2個持って農村・山村・漁村を歩き、撮り、聞き、調べて紹介。身辺事象もとりあげます。写真・文章等の無断転載禁止

11:30 東桜島・折田丸の汽笛

2015年05月18日 05時40分11秒 | 農村

写真1 郵便船・折田丸は11:30頃、モエンザッで汽笛を鳴らす。郵便局は○印・千年樹アコウの右側にあった
 畑のある海抜100mほどの所から撮る。モエンザッ:弊ブログ2013年03月07日



写真2 湯之港からモエンザッを望む。1955年頃、ガンギ・船着き場は整形溶岩で築かれ突き出ていた


写真3 湯之港のガンギから南岳を望む。ガンギの付け根は、1955年頃の夕方、海水で洗われる黒毛和牛で賑わった(弊ブログ2013年03月05日


写真4 筆者が着いてから2回目の爆発。1回目は弊ブログ2013年03月02日。湯之港近くから撮る


写真5 桜島の対岸、鹿児島市与次郎2丁目から望む桜島、我が故郷東桜島町・湯之
     定時郵便船・折田丸が寄港した野尻、赤水も見える


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 2015年05月14日(木)、NHKBS・こころ旅
 東村山市の芳林山梅岩寺、俳優火野正平が昼前11:30に鐘を10回撞く
 住職と合わせて12回
 住職曰く、かつて、鐘音を聞き、畑のオンナノシュウ・女の衆がお昼の準備に帰宅
 オトコノシュウ・男の衆は30分ほど遅れて帰る

 筆者は想起、1955年頃の故郷・東桜島町に聞こえる11:30の汽笛を
 郵便船・折田丸が燃崎・モエンザッを曲がる際、鳴らす
 畑の祖母は言う、“おいたまいがきたからかえろかい”(折田丸が着たから帰ろう)、と
 すなわち、折田丸の汽笛は、梅岩寺の鐘音と同じだった

 折田丸は古里温泉~東桜島・湯之~持木~野尻~赤水~鹿児島(現北港)を走る焼玉エンジン木造船
 同船は次のような朝夕の定時連絡船
  朝06:30頃、古里港から東桜島・湯乃港に着き、通勤・通学者を乗せて出港、上の航路で鹿児島へ
 
  昼前11:30、モエンザッで汽笛を鳴らし、持木港に着く
  同港で、郵便袋を肩にかける船員が東桜島特定郵便局を目指して走る、船と競走の如く
  走る道は持木と湯之の間に走る海岸段崖の縁を通っていた
  その道の中間ほどに郵便局が建っていた
  船員は約2km走り、次港の湯之で船に戻り、折田丸は古里温泉へ向かう
  
  15:30頃、古里温泉から湯乃港に着き、船員は郵便局へ走り、郵便袋を受け取り持木港へ走る
  船は野尻港、赤水港を経て鹿児島へ

  19:00頃、モエンザッで汽笛を鳴らし、通勤・通学者を乗せて帰る

 時は移り、折田丸は現在走ってない

 注1 燃崎・モエンザッは1476年(文明8)大噴火の流出溶岩が造った小半島。持木町と野尻町の間に突出
    現在の郵便局は海岸段崖から大きく離れた国道224号の近く
 執筆・撮影者:有馬洋太郎 撮影日:写真1~写真4;2013年02月11日 写真5;同月10日
 撮影地:上記

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瀬戸内の朝陽と夕陽の間に

2015年03月07日 08時45分17秒 | 農村

写真1 山陽本線車窓の朝陽


写真2 夕陽照る瀬戸内の海 周防大島町(以下同じ)


写真3 ミカンたわわ


写真4 放棄されたミカンの段々畑


写真5 防風生垣の内にミカン稔る 手入れ行き届く


写真6 ウェットスーツの潜り人 この時季、11月下旬、密漁?


写真7 おばあちゃん2人 世間話


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 2010年11月21日、日曜日、JR岩国駅前で深夜バスを降りる
 JR大畠駅へ向かう車窓から瀬戸内の朝陽(写真1)

 同日、周防大島文化交流センター(旧東和町)から安下庄(旧橘町)へ歩く(弊ブログ2013年11月26日
 当館は民俗学者宮本常一の関連資料を所蔵展示し、隣りに作詞家星野哲郎記念館

 歩くまにまに農業、農村、漁村の一端を見撮(上の写真)
 これら光景は周防大島のみならず、多くの農山漁村、島々に見られる

 執筆・撮影者:有馬洋太郎 撮影日:2010年11月21日 撮影地:山口県周防大島町

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農家・農村の女性1 夫に「出て行かれちゃった、私」

2015年02月27日 01時41分40秒 | 農村

田植後に補植する女性(本文と無関係) 2008年05月02日 埼玉県幸手市


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 農家・農村に暮らす女性の来し方について、筆者は複数の女性に聞取りを実施。
 本日は、高度経済成長期に夫が建設・土木作業に出て、家に残された女性Aさんの話。
 次のよう。

  注1 <  >の中は筆者の質問等  注2 **  **の中はAさんの夫の話
  注3 (  )の中は筆者による補足 注4 無印がAさんの話

 <(1956年・昭和31年)結婚の頃は、なさってたの、養豚を> 始めたとこへ来たの(3軒隣りに婚入した)①。
   それでねー、聞いてください、よっ
 <はい、はい> それでね、養豚始めてさ、そーしたら、出稼ぎが(夫の出稼ぎが昭和35年から)始まって、出て行かれちゃった、私②
 <あら、ら> で、私におっつけて、(私は)農家やって、養豚やって、家事やって、子育てやって③
 <忙しかった、一人4役だった、5役だった。そのとき、種豚は何頭ぐらいいたんですか> そーんなにいないけど、ま、今でも小屋があるけど、
   でも6頭ぐらい。 **うん、あのね、6頭とゆうのは、1年に2回取れんだよね**
 <そうとう取れる> そっ、農閑期利用で。そんでさ、農家が、なーに、稲がさ、田圃が終わって、ちょっと閑なると、
   (豚の)子どもができるようなってんだから、閑がなーいんだ、よっ、嫌ーんなっちゃう④
 <旦那さんは、外で働くし> そっ、で、子どもを教育するんで、ほ、みんな、大学でしょ、だーからさ、教育費に(出費が嵩む)⑤
 <じゃ、お子さんが大学終わるまで豚やってた> そっ
 <結婚なさってから、ずーと豚をやってたの、おっつけられて> 仕様がない、でも、おカネが入んないんとゆんでさ、
   子ども2人、3人でしょ、で、みんな二つちがいに産んでたから、私も。
   だーからさー、子ども、教育費、かかるわ、かかるようなっちゃって、大学
 <豚のおかげで、また奥さんのおかげなんだ> そっ、また、その頃、養豚が良かった、子取りがねー
   **高く売れたの。そしたらね、子どもが、学校行くてんだよ。そっーくり持っていかれちゃった⑥**
 <奥さん、頑張ったんだ> そう、頑張らなくちゃ、追いつかなかったから、大変でしたよ、ほんとに、ここまで来る道のりは。
   もー、これ以上頑張りきんないよねー。そしたらさ、最近はねー、若者がお勤めでしょ、
   だから、けっきょく、やっぱし(家に残ったAさん夫妻が農業を守るしかない)⑦。
   もー、ねー、連休利用しなかったら、自分たちも、かなわないから⑧

 <考察>
 上記文中の下線部は、次のように考えられる。
 ① Aさんの生家は兼業農家。Aさんに農作業経験はない。その彼女が、3軒隣りに住む農業専従の夫と結婚。
   通婚圏の狭いことを知る。
 ② 1956年(昭和31)の結婚時、経済の高成長が始まり、需要の伸びが予想された養豚を始めた。
   しかし、1960年(昭和35)、地域の建築・土木作業に人手なく、Aさんの夫(当時25歳)は、誘われて従事。
   60歳代まで従事。専業農家から兼業農家への大転換。
 ③ 夫が建築・土木作業に出て、残されたAさんは、義父母がいるとはいえ、乳飲み子を抱えながら、
   水稲、養豚、家事をこなさねばならなかった。
   まさに、1人4役、当時言われた「主婦農業」、「三ちゃん農業」の典型。
   また、Aさんは、育児と農業を両立するのが「嫁」の務めと規範づけられていた当時の典型である。
 ④ 農繁閑期のあった伝統的農業から、養豚により、年中多忙の周年農繁期の農業となり、
   残されたAさんは、息つく閑もない状況になった。
 ⑤ 農家の長男は、農業とイエを継ぐというAさん夫妻の世代の規範は崩れ、長男は農業高校でなく、
   非農業高校や大学に進学するようになり、教育費負担が家計を圧迫するようになった。
   単に、教育費が嵩むだけでなく、自給中心の暮らしや農業から、商品経済の真っ只中に乗り出さざるを得なかった暮らしと農業を知る。
   そのため、Aさんは養豚で稼ぎ、夫は農外就労で稼ぐ道を選択。
 ⑥ 1961年の旧農業基本法で謳われた「選択的拡大」品目の養豚に絡む肥育素豚供給経営の優位を知る。
   その優位で稼いだカネは、Aさん夫妻が、自分たちのために使うのでなく、老後資金でなく、子どもたちの高等教育費に消えた。
 ⑦、⑧ Aさん宅は、長男が安定恒常勤務に就き、イエを継いだ。Aさんは、譲って楽になるかと思っていたが、
     そうは問屋が卸さなかった。
   水稲作業は、Aさん夫妻が関わらざるを得ず、思うようにはなっていない。多世代同居の高齢者農業を知る。 
   高齢のAさん夫妻だけで田植はできないので、また農外勤務の長男が田植年休を取るのは不都合なので、
   田植は、4月末~5月初旬の、いわゆるゴールデンウィークに実施されるようになった。
   ゴールデンウィークの田植は、Aさん夫妻の結婚時にくらべ1ヶ月半ほど早まり、前進。
   その田植前進が可能になったのは、水稲品種改良だけでなく、圃場整備に伴う農業用水の施設化・機械化により、
   短期間に多くの農家が集中して田植水を使っても、足りる状況がつくり出されたためである。
   最後に、育児及び家事と農業との両立が当然と考えられた時代、精神的に、身体的に辛かったAさん、
   現在も農作業に従事するAさん。
   子どもたちを育てあげ、先祖から預かった農地やイエを長男に譲り渡せた、ゆとりと安堵感をAさんと夫に感じた。

 聞取り・執筆者:有馬洋太郎 聞取日:2006年05月20日 聞取り地:埼玉県久喜市
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自然堤防に名残り棕櫚

2015年02月18日 00時00分00秒 | 農村

写真1 自然堤防の土手に棕櫚 整枝の男性


写真2 自然堤防の土手に棕櫚

写真3 写真4

写真3 自然堤防上に神明神社と棕櫚 平方新田(手前)と深井新田(前方)の境
 1本道は神明神社横で平方新田から下り、深井新田へ上がる

写真4 一輪車ひく男性 自然堤防上の1本道 男性に棕櫚利用等を伺う

写真5 写真6

写真5 自然堤防上の1本道に棕櫚
写真6 棕櫚の皮は細く長く、絡まりフワフワ

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 JR武蔵野線吉川駅から江戸川右岸堤防へ歩く(弊ブログ2015年02月04日
 目的地は旧太日川の自然堤防上にある集落、平方新田と深井新田

 道すがら、シュロ・棕櫚を植栽する屋敷が多い
 両新田でも目に入る

 平方新田で遇った男性(1950年生まれ・写真4)にシュロの利用を伺う
 次のよう
   シュロの使いみちは二つだった
   一つはヨシズを造るためのシュロ縄
   二つは浅井戸水の濾過材

   当地では農家がヨシズを造り販売していた
   旧太日川の河道跡や江戸川にヨシ・葦が繁茂
   そのヨシと自家産シュロ縄を使ってヨシズを編んでいた
   江戸川ではヨシ原を焼いていた

   当地の飲料水は井戸から汲みあげていた
   浅井戸の水は濾過を要するほど濁っていた
   シュロ皮、砂利、砂を重ねた濾過セットを拵えた
   それを2~3セット重ねて通水
   澄んだ水になり、飲めた

 なるほど、シュロ・棕櫚は有効利用されていた
 今見るのは名残り棕櫚

 執筆・撮影者:有馬洋太郎 撮影日・撮影地:写真1~写真5;2015年02月02日・埼玉県吉川市
 写真6;2015年02月15日・埼玉県久喜市

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壊される水塚 伐られる屋敷林

2015年02月10日 00時00分00秒 | 農村

写真1 2009年12月05日のA氏屋敷構え(弊ブログ2014年12月19日) 屋敷林とミツカ・水塚(洪水時の避難用家屋)が設えてある


写真2 5年後 2014年12月21日のA氏屋敷構え ミツカの避難用家屋は取り壊され 屋敷林の樹木は少なくなった


写真3 2009年12月05日のA氏屋敷構えを南西から見る シュロ・棕櫚が植えてある


写真4 5年後 2014年12月21日の南西から見るA氏屋敷構え ミツカの避難用家屋はなく、屋敷林の樹木は少なくなり シュロは切られた


写真5 2009年12月05日のA氏のミツカ 盛土と避難用家屋のセットで存在


写真6 5年後 2014年12月21日のA氏のミツカ 盛土だけ残る

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 関東平野、埼玉県久喜市域は利根川や中川など大小河川の流域
 洪水に備えてミツカ・水塚(避難用家屋・蔵)を設える屋敷がある(上の写真)
 ミツカは盛り土して周りより高い(写真5・写真6)

 さらに、屋敷の北から北西を囲む木々、いわゆる屋敷林を設えてある(上の写真)
 防風や防寒のために、洪水に備えて、燃料確保などのために

 ミツカと屋敷林は、暮らし方などの変化に伴い厄介な存在と化しつつある
 ミツカを撤去する家庭、屋敷林を伐る家庭もある

 引用・参考文献等:弊ブログ2011年04月26日05月10日27日
 執筆・撮影者:有馬洋太郎 撮影日:写真説明に記す 撮影地:埼玉県久喜市
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