新聞<7/23付朝日新聞>を読んでいて、目に留まった詩がありました。山形県の農民詩人:木村迪夫さんの祖母つゑさんが、ご詠歌の節回しで歌った言葉を木村さんが綴った詩です。
にほんのひのまる
なだてあがい <なぜ あかい>
かえらぬ
おらがむすこの ちであがい <ちであかい>
1946年5月末、中国戦線に出征していた長男が1カ月前に現地で病死していたことが分かり、三日三晩泣き明かした後につゑさんが即興的に歌い始めたのが、上記の詩です。
それ以前に、次男が太平洋の孤島で戦死したことが伝えられ、その時には天皇陛下のために名誉の戦死をしたと赤飯を炊き、祝ったそうです。
二人目の息子の死で、母親としての我が子たちへの込み上げる思いが一気にあふれ出し、この歌(詩)になったのではないかと思います。
ふたりのこどもをくににあげ
のこりしかぞくはなきぐらし
よそのわかしゅうみるにつけ
うづのわかしゅういまごろは <うづ:家のこと>
さいのかわらでこいしつみ
この歌は、蚕の世話をしながら毎日つゑさんが歌っていた歌だそうです。歌声が通りにも聞こえ、近所の人は気味悪がって家を避けるようになったとのこと。それが、10年続いたそうです。
家の大黒柱を失い、寡婦となった木村さんの母:みねさんは、貧しい家を支えるために「畑バカ」と言われるほど、朝から晩まで黙々と働いたそうです。その母が、88歳で亡くなるまで、歌い続けた歌があるそうです。
ああ あの顔で あの声で
手柄頼むと 妻や子が
ちぎれる程に 振った旗
遠い波間に また浮かぶ
※元になったのが、戦時中に流行した「暁に祈る」の歌詞。
ただ、本当の歌詞は「遠い波間」ではなく「遠い雲間」となっている。
つゑさんの母親としての慟哭の思いが切々と心に響きます。
帰らぬ我が子をその手で抱きしめることも、そばで見送ることもできなかった無念さ。
みねさんには、最後の別れとなった時のこと(その時に交わした言葉やその時の顔や声が、その時のままの止まった状態で)が、心に刻まれていたのではないかと思います。
戦争によって失われた命とそのことを辛い思い出として背負い続けて生きる命。改めて命の尊さと人間として生きることの重さを強く感じました。