1本のわらしべ

骨肉腫と闘う子供とその家族とともに

韓流ドラマのこと

2007-10-31 12:51:57 | Weblog
娘が大部屋から個室に移ったのは亡くなる1週間前でした。その日は金曜日で外泊する予定でしたが午後から熱が出はじめ、家に帰れなくなりました。
血中の酸素も少なくなってきたので個室に移り酸素吸入がはじまりました。
家に帰れないのは残念でしたが、個室なので私も泊まれます。家族も夜遅くまで居てやる事ができます。テレビも好きな番組が見られます。
その頃、娘は韓流ドラマにはまっていました。ひいきの俳優がいたわけではなく、わかりやすいラブロマンスがお気に入りだったようです。
個室に移ってからは二人で一緒にDVDを観ました。
最後に観たのは「心震わせて」というドラマ。ひと家族のメンバー個々の出来事をオムニバス形式に綴った作品で、悲しくも心温まるドラマでした。
1巻に2話、6巻で12話のドラマですが亡くなる前々日の夜12話を見終わりました。次の日には、娘は薬で眠りましたので意識がある最後の日でした。
12歳で発病し、13、14歳の誕生日を病院で迎えました。
発病する少し前にあこがれていた男の子と両思いである事がわかり大喜びしていました。
でも愛を育む時間もないままに入院、治療が始まってしまい、その子とはそれっきりになってしまったようです。
きっとドラマのヒロインと自分を重ね合わせて観ていたのでしょう。本当の恋はできなかったけどたくさんのドラマの中で恋をしていたと思います。

在宅介護のこと

2007-10-29 20:44:17 | Weblog
手術の甲斐もなく病巣が広がり治療が断念された後、病院のケアマネージャーからお話がありました。「このまま病院にいるより自宅に帰って、最期の時までご家族と一緒に過ごされてはいかがでしょうか?」
しかし娘には床ずれがあります。毎日の消毒が必要ですし、抗生剤の点滴も必要です。車椅子に移るにも4人の手が必要です。自宅で十分な手当てがしてやれるでしょうか?
ケアマネージャーは「お母さん、いまは制度が変わって自宅にいながら病院にいるときと同じようなケアを受ける事ができるんですよ。まずは地元の福祉委員に相談してください。」そう言われて私は、地元の福祉センターに行きました。
ところが実際にふたを開けてみると、ケアマネージャーの話とはまったく違いました。毎日来てもらえると思っていた看護婦さんは最高でも週に二日、ヘルパーさんも週に数時間と決まっていました。おまけに介護制度の悪化で有料ヘルパーさんを頼めなくなった患者さんがボランティアのヘルパーさんを利用するので人手が足りないというのです。これでは家で十分な手当てをしてやれません。
福祉委員と一緒に病院に戻り、ケアマネージャーに現状を話しました。
「そんなはずはない。」とケアマネージャー。
「これが地域の現状です。」と福祉委員。

そんなことは、もうどうでもいいのです。
娘は治ると信じているのです。治って学校に行くために毎日リハビリを続けているのです。「もう治らないから家に帰って家族と過ごそう。」なんて言ったらあの子は折れてしまいます。
子供に告知なんてありえません。
娘の病室には、亡くなる前の日までリハビリの先生が来てくださいました。


沖縄旅行のこと その4

2007-10-29 17:36:47 | Weblog
娘を小浜島のホテルに連れて行く物理的な条件はそろいました。
しかし、これだけでは娘の沖縄旅行は実現しません。
前回述べたように、娘には大きな床ずれができています。骨と肉が露出しているのです。そこから菌が入れば抵抗力の落ちている体です、たちまち体中に毒素が回って命を失うことになります。
病院では毎日抗生剤の点滴と傷の消毒を行っています。消毒は最低でも3人の手が必要です。体を支え、注射器で骨と皮の間を洗います。その後、サランラップで傷をふさぎガーゼを当てます。清潔な場所とお医者様が必要でした。
小浜島には小さな診療所がありました。そこの先生に連絡をとり、日曜日も含めて滞在中、毎日看ていただけることになりました。。ホテルから診療所まではホテルの従業員の方が二人、車に娘を乗せ診療所まで送り迎えをしてくださいます。


やっと旅行が実現できる確信が持てたので、担当医の先生方に相談しました。
先生の言葉は「いまの状態では医師としてOKを出すわけには行きません。しかし親としてのお気持ちはわかります。」でした。
私は「いま沖縄に行かなければ、あの子は病院の天井だけを見ながら死んでいくでしょう。その前に青いきれいな空を見せてやりたい。たとえ沖縄に着く前に飛行機で息絶えたとしても後悔はしません。」
先生は理解してくださいましたが、病院としては認められないということで一度退院し、帰ってきた時点で再入院するという方法をとりました。
空港までは娘が好きだった介護タクシーのおじさんに運んでもらいました。
それぞれの空港でもたくさんの職員の方が娘のために手を尽くしてくださいました。
ホテルではホテルのスタッフの方に、診療所では看護婦さんや先生にお世話になりました。
JALのSさんをはじめたくさんの人たちのおかげで娘の沖縄旅行は実現しました。不可能を可能にしてくださった皆さんに感謝しています。

沖縄旅行のこと その3

2007-10-29 16:40:09 | Weblog
飛行機の席は確保できました。
次はホテルです。
石垣島に飛行機が到着するのが夜8時です。石垣から小浜島に渡る船は終了しているので石垣で1泊しなければなりません。石垣空港の周りには車椅子で行けるホテルはありません。空港からホテルに移動するにはリフト付の介護タクシーが必要でしたので石垣のタクシー会社に電話をして介護タクシーをさがしました。石垣で1台だけあると言うタクシー会社に問い合わせると営業は夕方の5時までという返事でした。事情を話しましたが、営業時間は変えられないという事で断られました。
1つの難関を越えると次の難関が待っていました。
ここから先に進むことは出来ません。
石垣で泊まる予定にしていたEホテルに断りの電話を入れました。「残念ですが…。」そこでこの旅行は終わるはずでした。
ところが次の日、そのEホテルのフロントのSさんから電話がありました。
「何か方法がないかと探していたら福祉関係の会社に介護タクシーがありました。これでお嬢さんをホテルにお連れできます」と。
地獄に仏とはこんな時に使うのでしょうね。
Sさんのおかげで難関をクリアできました。

娘は手術の後から床ずれのため、お尻に大きな穴が開いていました。肉がえぐれて骨が露出していたのです。そのため、普通のベッドマットでは横になる事が出来ませんでした。床ずれ患者用のエアマットが必要でした。このマットは病院にさえありませんでしたのでフランスベッドのレンタルを利用していました。そんな特殊なマットが離島にあるわけがありません。
いま病院で使用しているものとは別にもう一つレンタルして島に送ることにしました。マットが用意でき、後は宅急便で送るだけでした。
ところが宅配業者に電話をすると「いまは12月で荷物が混んでいます。沖縄までなら間に合いますが、石垣にはその日にお届けする事が出来ません。」という返事が返ってきました。
「ここまでか?」
エアマットの手配などでお世話になっているフランスベッドの営業の方に何か方法がないか聞きました。「いつも使っている運送業者なら間に合うと思う。そこに頼めば?」とアドバイスをもらい連絡をとると何とか間に合わせられるということでした。
これで石垣島にエアマットが届けられることになり石垣島まではたどりつく事ができました。
次はリクライニングできる介護ベッドです。たとえ床ずれのためのエアーマットがあっても寝たきりでは痛みが出てきます。娘は10分おきにベッドを倒したり起こしたりして体重の移動を行います。そうすることで傷に力が集中しないようにしているのです。
石垣島のホテルにはバリアフリーの部屋があり、そこに介護用ベッドがおいてありました。
しかし、小浜島には介護ベッドがありません。いつもお世話になっているフランスベッドのレンタルも沖縄本島までしか運べないと言います。
もう一度石垣のSさんに相談しました。
空港からホテルまで介護車を出してくれる福祉業者の方が、介護ベッドを小浜島まで船で運んで組み立ててくれると言うのです。
毎回、難関をクリアするたびに涙があふれました。不可能だった沖縄旅行を可能にしてくれた人々のやさしさに感謝しました。

沖縄旅行のこと その2

2007-10-26 18:29:17 | Weblog
何度か連絡を取り合っているうちに、JALのスタッフのSさんに切羽詰った私の気持ちが伝わり、機体手配の部署になるべく早く結果を出すように連絡をしてくださいました。
それでも早くても2週間前でないとわからないということでした。
沖縄本島までなら、4週間前にわかるので「確実に行けるほうにしたほうがいいのか」と考えました。
沖縄本島のホテルを調べましたが、部屋のベッドに寝た状態で海と空が見えそうなホテルはありませんでした。それでも行けなくなるよりはいいと思い、Sさんに連絡しました。
Sさんは「お母さん、私はお嬢さんを小浜島にお連れすることに賭けてみたいのです。あきらめないで。」と言って下さいました。
私は覚悟をきめました。「最後まであきらめないでいよう。」
それからしばらくしてSさんから連絡がありました。
「お母さん、喜んでください。席が確保できました。」
感謝!

沖縄旅行のこと その1

2007-10-26 12:04:02 | Weblog
娘は「病気が治ったら海に行きたい」と言っていました。「海と広い大きな空が見たい」と。
沖縄の旅行雑誌を見ていた娘と私の友人は1枚の写真に釘付けになりました。
広い窓から美しい沖縄の海と空が見えるホテルの部屋の写真でした。
娘は、その頃にはもう寝たきりで起き上がる事ができませんでしたから、部屋のベッドに寝ていても海と空が一望できるその部屋が一目で気に入りました。
「絶対にここに行く!」
そこは八重山諸島の中央にある小浜島でした。西表島のとなりに位置する小さな島です。名古屋から沖縄那覇へ、そこから飛行機を乗り継いで石垣島へ。さらに船で小浜島へと渡らなければなりません。
余命3ヶ月と宣告されて、さらに床ずれのため移動の困難な娘をその島まで運ぶのは至難の技です。
旅行会社に相談しましたが「たぶん無理でしょう。」という返事が返ってきました。
しかし、あきらめてなんていられません。それこそ「わらにもすがる思い」でJALに電話をかけました。
「車椅子の方や病気の方にご搭乗いただく事ができます。ストレッチャーを座席に取り付け、そちらに体を固定していただきます。お医者様の診断書を添えてお申し込みください。」という答えでした。
早速手続きをはじめたところ「ストレッチャーを取り付けた機体は1日中そのままで飛び続けます。そのため実際の利用便だけではなく、その機体の運航に関係するほかの区間にも座席の確保が必要となります。一部の機体ではストレッチャーの装着が不可能な場合がございます。 お客さまの場合、名古屋→那覇間・那覇→石垣間の2航路についてお調べしてからご搭乗が可能かどうかお返事いたします。」
その返事が搭乗日の4日前になると言うのです。
ストレッチャー1台を取り付けるのに座席約10席を確保しなければなりません。4日前に座席がそんなに空いている保証はありません。ホテルだってキャンセル覚悟で予約しなければなりません。
小浜島はとても遠いです。

体温のこと

2007-10-25 06:49:59 | Weblog
低体温の弊害についてお話しましょう。
体温が1℃低下すると
1.免疫力は 37%低下。かぜや色々な病気にかかりやすく、治りにくい。
2.基礎代謝が 12%低下。1日200~500kcal代謝が低下し、1ヶ月で体重が1 ~2kg増える。
3.体内酵素の働きが 50%低下。栄養の消化だけでなく、エネルギー生産力も  低下する。
4.ガン細胞は低体温を好む。特に35℃を最も好み、39.3℃で死滅する。
  
人間の臓器の中で癌にならないのは心臓です。「心臓は細胞分裂しない事」と  「心臓の温度が熱い事」が大きな理由であると言われていますが脳も細胞分裂しないけれど癌になるので、温度が高いことが大きな理由であろうと考えられます。ちなみに心臓の温度は40℃です。
  
娘の平熱は35.6度、主人も平熱は35度台。
ガンの摘出手術後、退院時に「生姜など体を温める食物を摂り適度な運動で体温を上げるように」と指導される病院もあります。

リハビリのこと

2007-10-24 04:50:38 | Weblog
手術の後のリハビリのことをお話します。
部位にもよりますが手術の翌日から始まることが多いみたいです。
娘が入院していた病棟は整形外科ですので、入院患者のほとんどが50~70代の方でした。腰、膝の人工関節置換手術がおおかったですね。
手術の後は1日個室で術後のケアがありますが翌日にはもうリハビリが始まります。腰の手術をされた方は個室から自分の足で大部屋に帰ってきます。
「え~、そんなに早く?」と驚きましたが、リハビリが遅くなるほど回復が遅くなってしまうらしいです。
娘の部屋のおばさま達も最初は痛々しいのですが、あれよあれよ言う間に回復していきました。もちろん簡単なことではありません。リハビリの先生との戦いです。
きびしくて嫌われている先生についた患者さんほど回復は早かったように思います。「なにくそ!」という気持ちがなければあの痛みは乗り越えられないでしょう。
娘の場合、前にお話したように左腕の骨は自分のものではなく上腕の筋肉もほとんど取っていましたので指が動く様になるのか心配でした。でも2週間もするとボールを握れるようになり1ヵ月後には両手でゲームをやっていました。
しかし足のほうは褥瘡(床ずれ)があったため順調には進みませんでした。
それでも「早く動けるようになって、学校に行きたい」一心で頑張っていました。
亡くなる直前までリハビリは続きました。

抗がん剤の治療のこと その3

2007-10-23 00:56:01 | Weblog
先生の好意で、お正月を家で過ごすことができた娘は、元気を充電して病院に戻りました。年明けにはCTとMRIを撮り、手術の計画を立てる予定でした。
昨年、抗がん剤投与後に撮った写真ではがん細胞が死滅し、病巣部と健康な骨の間に、くっきりと境が出来ていました。
ところが年明けに撮った写真では、死滅したがん細胞と新しいがん細胞が混在しているのです。境もはっきりしません。
この写真を見て先生の顔が一瞬にして曇りました。「残念ですが、薬が効かなくなっています。」
やっと天国に這い上がってきたのに、いきなり地獄に突き落とされた気がしました。
先生方も「このまま治療を打ち切るか、手術に踏み切るか」迷われたようです。白血球の値が低いこともあって抗がん剤投与はしばらくお休みでした。
4月に入ってから幸いにも肺に転移がなかったので、手術に踏み切ることにしました。今回は左上腕骨と右ひざ関節の2箇所。上腕骨はほとんど肉腫に侵されていたので鎖骨代用、肩関節は人工関節を入れました。普通、骨肉腫の手術は1箇所なので摘出と再建手術で4~5時間で終わるそうですが、娘の場合2箇所しかも腕の再建に時間を要したので14時間かかりました。
それから1ヵ月後に、左ひざ関節と骨盤の手術をしました。
じつは上腕骨と両膝関節のことは娘に話してあったのですが、骨盤にも広がっていることは娘に話していませんでした。苦しい抗がん剤投与が無駄だったとはとてもいえなかったのです。
しかし手術の後、目を覚ました時に骨盤にもメスが入っていたと知ればもっとショックでしょう。手術の前日、骨盤にも出来ていることを話しました。
娘は「なんで隠すの。私の体のことなんだから、隠さないで全部話して。」と怒りました。その後、先生からお話があるときは必ず娘も同席しました。
翌日、2度目の手術も無事終わりました。



告知のこと

2007-10-21 22:57:36 | Weblog
娘が骨肉腫と診断されたとき、病名を告げるべきかどうか迷っていました。
告げられないままに、紹介された病院に向かう道中でした。
「がんセンター」という矢印があちらこちらにあるではありませんか。娘の目に留まらないかと気が気ではありません。
娘は「お母さん、私ガンなの?」と聞きました。
私はとっさに「そう骨のガンだよ。でも取ってしまえば大丈夫でしょ?」と言いました。
娘が発病する半年前に主人は大腸がんの手術をしていました。進行ガンでしたので「転移、再発の可能性がある」と言われていましたが幸いにも転移もなく無事に生還しました。
そのおかげで我が家では「ガンは治るもの」でした。おかげで娘も「自分は治る」と信じる事ができました。
骨肉腫にかぎらずガンの治療はきびしいものです。
自分がガンであること、死に直面していることを知っていないと耐えられるものではないと思います。年齢の差はありますがいつかは話さなくてはならないでしょう。
娘もあまりにもつらい副作用で治療を放棄しようとした事があります。私は「いま治療をやめたらガンに体を乗っ取られて死んじゃうんだよ。」こう言うしかありませんでした。