1本のわらしべ

骨肉腫と闘う子供とその家族とともに

カン吉の引越しのこと

2007-12-28 21:13:56 | Weblog
以前、「ペットのこと」でお話したカン吉は我が家に来て4年になります。
ロシアリクガメあるいはホルスフィールドリクガメ、ヨツユビリクガメと呼ばれています。
大きいもので24~28cmになるそうです。
寿命は40年位。草食で果物や葉野菜を食べます。リクガメの中では比較的飼いやすい種類で、高価な飼育設備は必要ありませんが日向ぼっこと温浴は欠かせません。
天気のよい日にはバケツに入れて散歩です。草むらに放してやると草をムシャムシャ。「亀はのろい」と思っていましたが、これが結構速い。ちょっと目をはなすとどこかへ行ってしまいます。

我が家に来たころのカン吉は体長7cmでしたが今では13cmになりました。
最初のゲージは狭くなってしまったので新しいゲージに引っ越しました。

写真は娘が古いゲージに書いた「カン吉の家」。家族の顰蹙を買った例の「らくがき」。

カン吉はいまだに性別不詳。カン吉のままです。

卒業アルバムのこと

2007-12-28 19:01:35 | Weblog
今日は仕事納めの日。
朝から晩まで仕事がビッシリ。
運転中に携帯電話が鳴りました。話をしている途中から涙があふれて
前が見えません。でも次の仕事まで時間の余裕がないので車を走らせます。

電話の相手は娘の中学校の担任の先生でした。
「いま卒業アルバムを製作中なのですが、アルバムに娘さんの写真を載せたいと思います。ご両親の承諾をいただきたくてお電話させていただきました。」
もちろん、あの子の籍は中学校にありませんので、クラス写真には載せることはできません。思い出のページに友達と写っている写真を載せてくださるというお話でした。
卒業アルバムのことなんてすっかり忘れていました。
上の娘のときは「あって当然」の卒業アルバムでしたので、あの子の卒業アルバムが「存在しない」ということを考えもしなかったのです。
先生が電話をくださらなければアルバムを注文することも思いつきませんでした。

卒業アルバム注文したよ(^^)v

隔離のこと

2007-12-27 21:41:00 | Weblog
抗がん剤の投与が終わって1週間くらい経つと吐き気も治まり食欲も出てきます。でもその頃から白血球の値が下がってきます。正常な白血球の値は2000~8000/ulですが治療後1週間くらいで1000近くに落ちてしまいます。弱っている時、白血球はさらに下がり続け、娘の場合600にまで下がりました。
1000以下になると、感染予防のため個室に隔離されますが、母親である私はマスクをして病室にいることが許されました。しかし600になると部屋に入ることは許されません。食事を届けるために入室すると5分くらいで追い出されます。
娘はしばらく一人でテレビを見たり、本を読んだりして過ごさなければなりません。
先日の日経新聞の春秋欄にこんな記事が載っていました。

カーテンで仕切った二坪の床は患者用と付き添い用、二つのベッドでほぼ埋まる。国語辞典や算数ドリル、医療器具、ペットボトル、薬がひしめく。小児がんの子と親はこんな狭い空間で病との闘いを強いられるという。
子はつらく親も厳しい。寝にくいベッド。短時間での食事や風呂。着替えも落ち着いて出来ない。出費とストレスが無用ないさかいを生む。
こうした問題に悩まされずに済むような日本初の小児がん専門病院を作ろうと阪大病院の小児科医や患者の親たちがNPO法人チャイルド・ケモ・ハウスを立ち上げた。
施設の中心は治療場所。周りに患者の個室、その外に家族の部屋。家族は外から直接出入りでき、子供は中心部で自由に遊べる。患者と家族の部屋の仕切りはガラス壁なので隔離が必要なときも互いに顔を見ることはできる。

小児がんは不治の病から治る病気に変わりつつあります。
生還した子供たちは抗がん剤の後遺症に苦しみ、治療中の精神的な打撃を引きずって生きていかなければなりません。
今までは生き残ることだけが最終目標でしたが、これからは闘病生活の質を高めていく必要があります。
チャイルド・ケモ・ハウスが現実のものとなるよう祈るとともに「私にできることは何か」考えていきたいと思います。

勇気のこと

2007-12-25 12:12:10 | Weblog
昨日、久しぶりに勇気「COURAGE」という本を読みました。
バーナード・ウェーバー作、日野原重明訳。絵本です。

こんなにいろんな勇気があるんだ。
すごいのから、いつでもやれるぼうけんまで。
でも、どれもが立派な勇気、勇気。

クイズ大会でむずかしい問題にずばり答える勇気。
チョコレートバーのひとつは明日にとっておくのも勇気。
消防士や警察官として頑張るのも勇気。
目の前にあるのは、また同じ飽き飽きしたドッグフードじゃないと思い込んで食べる勇気。(犬)
やきもちを感じてもそんなそぶりを見せないのも勇気。
別れなければならないときには、さよなら言えるのも勇気。
いっしょに二人が励ましあうのも勇気。

たあいもない勇気、見逃しがちな勇気、みんな立派な勇気。

この本を贈ってくれた友人もきっとこの本に勇気をもらったのでしょう。
私はその人から「友達を信じる勇気」「自分を信じる勇気」をもらいました。



千の風のこと

2007-12-25 07:35:28 | Weblog
昨年末の紅白歌合戦で「千の風になって」という歌が流れ、評判になりました。
娘が亡くなった後、数人の知人から本をいただきました。

私のお墓の前で泣かないでください。
そこに私はいません。眠ってなんかいません。
千の風に、千の風になって
あの大きな空を吹きわたっています。

最初にその文章を読んだときは感動し救われたような気がしました。きっと親しい人を亡くした多くの方が傷ついた心を癒されたことでしょう。
でも、やっぱり何かが違うのです。なぜかしっくりこないのです。
きっと身近な人を亡くした人は同じ気持ちだと思います。
確かにお墓に眠ってなんかいません。でもあの子は風にもなっていません。
どこにもいないのです。

キリスト教も仏教も残された者のためにあるのではないでしょうか。死に別れた家族が天に召され神のもとで幸せに暮らしている。そう考えることで別れの悲しみを癒すことができる。毎日、仏壇に手を合わせ語りかけることで故人とともに生きる。

そういえば去年の年末、娘は家で「千の風になって」の特集番組を見ていました。じっと目を凝らして・・・。
何かを感じていたのでしょうか。

私はブログの中で「神も仏もいない。霊なんか存在しない。死後の世界なんかない。」と言ってきました。
だけど仏壇にむかってあの子に話しかけます。クリスマスにはプレゼントを買ってお供えします。お花も欠かしません。沖縄に行ってあの子を探そうとしています。

先日の中日新聞に「死者との交わり」と題した奈良康明氏の「千の風になって」考が記載されていました。
そこに「『生者の思い出に残る死者の人格』を霊とみてよいと考える。」とありました。死者と言葉を交わしかかわっていくこと、それが生きていく励みになる。それが死者とともに生きること。

自分の滅茶苦茶な行動を「それでいいんだよ。」と慰められている気がしました。
結局、あの子はどこにもいないんですけどね...。




腫瘍のこと

2007-12-24 01:19:17 | Weblog
あの子が亡くなる1週間前、「奥歯で物が噛めない。」と言いはじめました。
よくみると奥歯の奥の歯茎(親知らずが生えてくるところ)に肉のかたまりの様なものがあります。食べかすが引っかかっているのかと思い歯ブラシでこすりましたが取れません。
これが表面に現われ始めたガンでした。
主人の大腸ガンは赤黒い薔薇のようでした。あの子のは何ともたとえようがない形で、肉がはじけたような、しいて言えばイソギンチャクのようなものでした。
歯科の先生に「歯肉炎だね~。よく消毒しておいて。」と言われ食事の度にイソジンで消毒していました。
亡くなる前日も歯科の先生に「だいぶ小さくなってきたからもうちょっと頑張ってね。」と言われて、あの子は安心しました。
ガン末期になると顔や肩、背中いろんなところに腫瘍が出てくるそうです。
そうなると隠しておく事がむずかしくなるので、「どうやってごまかそうか」と悩んでいました。

でも悩む必要はありませんでした。翌日、彼女は眠りにつきました。

仲間のこと

2007-12-22 12:15:23 | Weblog
私にはたくさんの仲間がいます。
それぞれ違ったつながりのある仲間。
人それぞれ性格も置かれた環境も違います。
たくさんの仲間が、それぞれが違った形で私を支えてくれていました。
娘の心を支え続けてくれた仲間。私が病院に行けないときいつでも1つ返事でお弁当やオムツを届けてくれた仲間。遠く離れていてもいつも心配してくれてメールで電話で励ましてくれた仲間。私の心のよりどころである音楽を続けられる様に心を砕いてくれた仲間。声をかければ、いつでも手をかしてくれる仲間。遠くから見守り続けてくれた仲間。
たくさんの仲間に支えられて、ここまでやってこられました。

ありがとう。

幻の島のこと

2007-12-22 06:43:59 | Weblog
コバルトブルーの海に浮かび上がった白い島。幻の島。
船から、車椅子に乗って笑っているあの子を探しました。
やっぱりいません。
日常の生活であの子を感じる事ができなくて「ひょっとして好きだった沖縄にいるかも知れない。」と探しに出た旅でした。
「死後の世界なんてない。」とか言いながら、言ってることとやってることがチグハグで滅茶苦茶です。
でも不思議なことが続きました。
夜の島探検で車を走らせていると、道路の真ん中でヤエヤマアオガエルのペアが交尾中だったり、巨大なヤシガニが出てきたり。オオコウモリが私たちに会いに来てくれたかの様に飛んで来たり。
次の日、マングローブを歩いていると私たちの行く先に1本の枝が伸びていました。その枝先で白い鳥が羽を休めています。
カンムリワシの幼鳥です。私たちが近づいて行くと飛び立っていきました。
ガイドの方が「珍しいですね。ラッキーですよ。」と話しておられました。
きっと何でもないことなのですが、すべてをあの子と結びつけようとしている自分がいました。

滞在中、お天気にも恵まれ最高の旅でした。
あの子は付いてきてくれたでしょうか?この海に残ったのでしょうか?

散骨のこと

2007-12-14 18:53:24 | Weblog
沖縄に行く事が決まってから、私の中でだんだんと大きくなってきた企みがあります。主人に話したら一笑に付されると思っていたので黙っていました。
でも出発を明日に控えて黙っているわけにもきません。
ついに告白「あの子の骨を持っていこうと思うんだけど。」
以外にも「俺もそう思っている。目のまわりの骨がいいかな。海がよく見えるように。」・・・負けた。
驚きました。亡くなった母の位牌に手を合わすこともしない主人です。霊だの死後の世界だの一切信じなかったあの人が...。
私自身、骨に意味があるのかどうかわかりません。あの子が亡くなって以来、死後の世界なんてないと、痛感しています。
でも、遺骨をお寺にも預けず墓にも入れず側に置いておきたい気持ちもあるのです。

日本では散骨についての法律はありません。海や山など特定の人の土地でないなら
なおさらです。
ただし、マナーは守らなくてはなりません。
細かく砕いて粉にする。
人目につかない様にひっそりと行う。

少しだけ、あの子の骨を持っていきます。

沖縄旅行のこと 2007

2007-12-14 18:15:55 | Weblog
明日から家族で沖縄に行ってきます。
去年の12月、娘を連れて沖縄に行ってからちょうど1年が経ちました。

そういえば沖縄の景色やホテルの事を何もおぼえていないのです。
娘を無事に小浜島のホテルまで連れて行くこと。そして生きて病院に連れ帰ること。
それが私の仕事でした。周りを見渡す余裕がなかったのですね。
先生方に「沖縄に行きたい。」と申し出たとき、驚かれました。「無謀」の一言。婦長さんからも「気圧の変化でなにが起こるかわからない。飛行機は途中で止まれないんですよ。」と言われました。
病院が危険を承知で沖縄に行かせたとなると責任問題になるということで「一旦退院して親が勝手に連れて行く。」と一筆したためたくらいです。
それほど危険な旅でしたが先生の「医師としては行かせられないが親としては行かせてあげたい。」の言葉をいただいて出発しました。
肺にできた腫瘍のため呼吸困難を引き起こすこと、ガン末期特有の急な発熱と痙攣、床ずれからの細菌感染など心配事はたくさんありましたが1番の気がかりは「床ずれの痛み」でした。5分として同じ体勢でいる事が出来ません。車椅子の背もたれを起こしたり倒したりして調節します。
長い飛行時間、待ち時間。病院を出てからホテルのベッドにたどり着くまで12時間。その長い時間を持ちこたえる事が出来るか?それが1番心配でした。
何かあった時は、いつでも引き返す覚悟でした。
前にお話したように、飛行機では固定されたストレッチャーに寝かします。ストレッチャーにリクライニング機能が付いていることを期待していたのですがやはり付いていません。2時間体を起こすことが出来ないのです。
乗ったとたん娘は「これじゃ無理。絶対行けない。」と言いました。私は「いいよ、帰ろう。」と言いました。娘はしばらく考えてから「いい。頑張る。」ポツリと言いました。
それからが大変です。足を上げたり下ろしたり。
窓の下に沖縄の海が見えた時、娘の痛みは絶頂だったと思います。でも、じっと海を見つめていました。痛みを忘れたかのように。

沖縄に着いたら、すぐに診療所に向かいました。診療所で抗生物質の点滴と床ずれの消毒。先生は土日返上で毎日処置をしてくださいました。

小さな漁船に車椅子を積み込んで向かったのは「幻の島」。それは干潮時にだけ表れ満潮時には海の底に沈んでしまう真っ白な砂の島です。ホテルの従業員の方が4人で車椅子を島に下ろしてくれて、娘は海の水に手を浸し嬉しそうに微笑んでいました。そのときの笑顔は今も家の壁に飾ってあります。

幻の島で娘が待っているような気がします。飛び切りの笑顔で...。
迎えに来たよ!