1本のわらしべ

骨肉腫と闘う子供とその家族とともに

父のこと

2008-02-22 07:51:07 | Weblog
私の父は30年近く前に亡くなりました。
遠くの病院に転院するので、「その前に会っておこう。」と私が実家に帰ったその日から容態が急変し、次の日の午後亡くなりました。
風邪から気管支炎をおこし呼吸困難のため救急車で運ばれて約1ヶ月後のことでした。もともと持病があったので治療のため大きな病院に転院する予定になっていました。
後から聞くと、医者からは「風邪をひくと良くないので気をつけるように。」と言われていたのに、そのことを家族の誰にも言っていなかったのです。

男ばかりの4人兄弟で育ったせいか、口の悪い頑固な親父でした。
いつも眉をしかめ、職人気質で口数は少なく、口を開けば大きな声で怒鳴る。
たった一人の子供を除いて、父に近づいた子供はいないと記憶しています。
その子は私の従兄の子供で、自閉症を持った子でした。
その子は、父の外面でなく、内面を見ていたのでしょうか?

職人であった父は自分の好きなように生きました。
仕事が終わると子供全員をお風呂に入れ、晩御飯。
それが終わると「自分の仕事は終わった。」とばかりにご近所さんと飲み屋へ。
お酒は強いほうではなかったので、たぶん飲み屋の雰囲気が好きだったのでしょうね。
母は我慢の糸が切れて、何度か家出を決行しようと思ったらしいのです。
でも昔のことです。実家に帰るには真っ暗な中、子供の手を引いて峠超えをしなければならなかったので、思いとどまったようです。
今の様に車があれば、とっくに離婚していたかもしれませんね。

ずっと、亭主関白だと思っていたのですが、今思えば、母は父を上手くコントロールしていた気がします。

そんな父が亡くなってから、ずっと私は父に守られている気がしていました。
胸騒ぎがしてブレーキを踏んだおかげで大事故に遭わずにすんだ時など、不思議な体験をするたびに父に手を合わせていました。

しかし娘は私の側にいません。
一周忌が終わってからさらに娘は遠い存在になりました。
寄り添って生きてきたほど、虚無感は大きいのでしょうか?

父が亡くなった後、母はこの虚無感と共に生きてきたのでしょう。

いまのこと

2008-02-13 02:40:51 | Weblog
今の心境を表すのにぴったりな言葉は
「からっぽ」
喜びもないかわりに不思議と悲しみもない。

このブログは骨肉腫と闘っている家族を応援したくて立ち上げたつもりでした。
でもいつの間にか自分自身を支えるブログに代わっていました。
めまぐるしく進化している医療現場。私の経験や知識なんかでは追いついていきません。
でも、このブログのおかげで娘のことを見つめなおす事ができました。
くすちゃんがコメントしてくれたように、悲しみは「薄紙を剥がすように」薄らいでいくでしょう。そして悲しいかな、娘の記憶も薄らいでいきます。
ブログという形で残す事ができて本当によかった。



最期のこと

2008-02-10 21:21:01 | Weblog
その後、また容態は落ち着きを取り戻しました。
定期的に痰を取りに看護婦さんが来てくれます。
看護婦さんがいてくれる間にトイレを済ませておこうと病室を離れました。用をすませて戻ろうとすると、また友人が呼びに来ました。

看護婦さんと当直の先生が駆けつけていました。
娘が大きくゆっくりと息をした後、詰め所に連動している心電図がおかしいと看護婦さんが駆け込まれ、家族は外に出されたそうです。看護婦さんが「あかねちゃん、あかねちゃん。」と呼びかけたその時、息子ははっきりと聞きました。娘の「はい!」という元気な返事を。

そういった現象は、死に向う過程で起こる生体反応だそうですが、私は娘の最期のサインを2回も見逃してしまいました。
この1年、それを後悔し続けました。

先日、友人がその事に触れました。
「あの子は、あんたにはさよならが言いたくなかったんだよ。」

2007年2月10日21時21分。
娘は14年の生涯を終えました。


その日のこと

2008-02-10 12:14:38 | Weblog
2月10日。
朝5時30分、電話がなりました。
昨夜から病院で付き添っていた主人からです。
「夜中に危なかったんだけど今は落ち着いている。今のうちにみんなで病院に来たほうがいいだろう。」
二人の子供を連れて、病院へ向かいました。

先週、個室に移ってからはずっと私が付き添っていました。
いままでは休日の前は主人が交代してくれていたのですが、今回は娘が
「お父さんのイビキがうるさくて眠れない。お母さんと代わって。」
というので、私が付き添っていました。
昨日深い眠りについたので、「今後に備えて1晩家で休んだほうがいいだろう。」と主人が代わってくれました。
夜中に呼吸が荒くなり、当直の先生を呼んだらしいのですが暫らくすると落ち着いたので朝まで様子を見ていたらしいのです。

私たちが病院に着いた時は呼吸も落ち着いていました。
しかし徐々に荒くなり、「夕方までは、もたないだろう。」という予感がありました。
目は半開きで、角膜が急速に乾燥し白濁して行きます。ペラペラと剥がれそうになっています。
「こんな目になっちゃったら、持ち直して元気になった時に目が見えなくなってしまう。大変だ。」と思い、ガーゼに水を含ませて目の上に被せます。
乾いたら新しいガーゼと取り替えるのですが、あっと言う間に乾いてしまいます。

その日、三重県にいたときの友達に電話しました。
娘はその子に心配をかけたくなかったんでしょうね。年賀状でも病気のことは触れていませんでした。もう少し髪が伸びたら車椅子で会いに行こうと思っていた様です。
本当は意識のある間に知らせたかったのですが、そんなことをしたら勘の鋭い子です、きっと気がついてしまうでしょう。

その子は風邪で熱のある体をおして会いに来てくれました。
やはり意識のある間に内緒で呼んでおけばよかった。

その後、容態は持ち直し「先生は今日が峠だと言われたけれど、ひょっとしたら持ち直すのでは?」という安堵の気持ちが湧いてきました。
その病院には、危篤の患者に付き添う家族のために泊まれる部屋がありました。少し離れたところにあるので、部屋の確認のために主人と病室を離れました。本来なら1分でも娘から離れたくなかったのですが子供のいない所で話さなければならない事があったので出かけてしまったのです。

宿泊の部屋についた頃、友人が悲痛な表情で追いかけてきました。
携帯に連絡しても電波が届かなかったようです。

「娘が目を覚ました。」というのです。
突然、体が動いて目をカッと見開いた。その目は、それまでの死んだ魚の目のようでなくはっきりと見えている目だった。その顔は恐怖に怯えているようだった。
あの顔は絶対に忘れる事ができない。

上の娘はそう言いました。





2月9日のこと

2008-02-09 22:04:57 | Weblog
2月9日。
朝から呼吸が次第に困難になってきました。
先生が「眠らせてあげましょう。」と話されて薬の量が増やされました。午前11時頃から娘は深い眠りにつきました。
もう呼吸も苦しそうではありません。眠っています。
ベッドの側について見守っていました。もうおしゃべりすることもできないと思うと寂しさがこみ上げてきます。
「やっぱり起きていてほしかった。」

数ヶ月前から、娘の胸骨の腫瘍が目立つようになってきていました。
ちょうどウルトラマンのカラータイマーのようで「これなんだろう?」というあの子に「脂肪の塊じゃないの」とごまかしていました。
数日前に先生から「私たちはあかねちゃんを救うことができませんでした。でも、いつか必ずあかねちゃんの仇を討ちます。そのためにも是非、胸の腫瘍を採取させてほしい。」と言われていました。娘には「検査のために少し採っていい?」と聞いたのですが「痛いからヤダ!」と断られました。
もう痛みを感じることもなくなったので、午後、腫瘍の採取を決行しました。

それから夜まで、眠り続けるあの子と二人で静かに過ごしました。

最後のメールのこと

2008-02-08 06:19:45 | Weblog
母さん、今日のお昼は

2月8日午前9時57分これが本当に最後のメールです。
朝あの子がぐっすり眠っているのを確認して病院を出た直後に来たメールです。

あの子は好き嫌いがとても激しい子でした。
病院の食事は2年間ほとんど食べていません。最初は私が作ったお弁当。そのうちそれにも飽きてしまって「コンビニで何か買ってきて。」と言うようになりました。
ルームメイトのカズちゃんのご主人が毎回差し入れてくださるおかずも楽しみの一つでした。個室に入ると、この差し入れが食べられないので残念がっていました。
カズちゃんは娘より数ヶ月先に入院されていました。おばあちゃんと孫くらいの年の差がありましたが娘はカズちゃんと呼んでいました。カズちゃんは膠原病のために骨がもろくなり手術をしないと寝たきりになると先生から言われていました。
とても危険な手術でした。
「一か八かでやってみるわ。」持ち前の明るさでそう話されたカズちゃん。
手術は成功し、カズちゃんが退院される日、今まで弱音を吐かなかったあの子が言いました。「みんな私より後から入院してきたのに先に退院してしまう。カズちゃんまで退院しちゃう。」
返す言葉がありませんでした。

寒くなると温かいものをほしがりました。昼食は、コンビニで「レンジで暖める」ラーメン・うどん・ペペロンチーノ・カルボナーラ。夜は母作のおかずにトン汁といったメニューでした。

ここ数日は口の中にできた腫瘍のため噛む事がままならなくなっていましたので冷奴やうどんを食べていました。この日のメニューは確か「冷奴とコーンスープ」でした。

いそいで病院に戻ります。

今日のメールのこと

2008-02-07 08:16:36 | Weblog
カウントダウン、残された3日間。
去年の今日のことを思い出していました。
あの子が送ったメールです。
「いいよ (^0^)/」
これは、あの子が最後に私の友人に送ったメールです。
彼女とは小さい頃から気が合ってとても仲良しでした。
育った環境(姉と弟に挟まれて育ち、自分は親に嫌われていると思って育ったところなんかソックリです。)が似ていたからでしょうか?
私には言えない事も彼女にはよく話していたようです。

小学校4年で転校した時のことです。
なかなか環境の変化についていけない娘だったので私はよく「お友達できた?」と聞いていました。あの子は「うん。」と答えていたのですが、友人には「友達なんていないよ。」と話していたそうです。私には本当の事が言えなかったみたいですね。

そんな彼女に対しても「しばらく会いたくない。」と言っていたのですから本当につらかったのでしょう。痛み止めが点滴になってからは随分楽になったようで、会う余裕ができていました。
友人から来た「今夜病院に会いに行っちゃう☆良いかな?」このメールに送った返事がさきほどのメールです。

短いですがちゃんと顔文字が付いています。

いいよ (^0^)/

亡くなったあとのこと

2008-02-04 07:51:53 | Weblog
娘が亡くなる日の朝のこと。
看護婦さんが「お嬢さんに着せたい服があったら用意しておいて下さい。」と言われました。
容態も落ち着いてきていたので、家に取りに戻りました。
退院したら着せようと思い買ってあった洋服が何着かあったので「どれにしようか」と迷っていました。
「そうだ。あんなに行きたがっていた学校。制服しかない。」
そう思ってクリーニング済みのセーラー服を摑んで病院に戻りました。

亡くなった後、看護婦さんが体を拭いて、制服を着せてくれました。
動かせるのは右手だけ。どうやってセーラー服を被せるのだろう?腰を浮かせることもできないのにどうやってスカートをはかせるのだろう?そんなバカなことを考えていました。

もう痛みを感じることもないのですね?


その後、地下の祭壇のある部屋に運ばれます。そこには担当医の先生方が待っていて下さいました。そこでお別れをしてから、連絡しておいた葬儀屋さんの車で家に帰りました。

先生に「その日が遠くないこと」を聞かされてから私の中に二人の母親がいました。
「絶対に死ぬわけない」と信じている母親。
「死んだあと娘のために何をしてやればいいのか」と考えている母親。
以前、病院が契約している業者に遺体を運んでもらうと葬儀もそこに頼むことになると聞いた事があります。
「娘には温かいお別れを」と思っていた”母親”は地元の小さな葬儀屋の電話番号をメモっていました。


2月2日のこと

2008-02-03 09:01:06 | Weblog
2月2日金曜日。久しぶりの外泊に心ウキウキの娘。
午後の床ずれの処置が終われば介護タクシーで家に向かいます。
午前中の血液検査とレントゲンの結果を待っていました。
検査件数が多いらしく、なかなか結果が出てきません。「福祉の足」のおじさんも待機してくれていました。
4時頃、結果が出ました。
血中の酸素濃度が不足していて外泊は中止。おまけに「大部屋には酸素吸入の機械がないので個室に移ります。」と言われて娘は「そんなに苦しくないので個室には行きたくない。」と抵抗。
先生に事情を説明しに行くと「飲み薬の痛み止めも限界に来ています。これを機会に点滴の痛み止めに切り替えます。肺の状態を見ても、これから酸素が必要になってきます。もう大部屋に戻ることはないと思います。」
そのときは、その話を聞いても納得できないくらい娘は元気でしたが、お医者さまにはわかるんですね。
その日からは私も一緒に個室で過ごしました。痛み止めのせいで午前中はトロトロとしているのですが、昼過ぎからは意識もはっきりしていました。私は午前中、あの子が眠っているうちに家に帰って用を済ませて昼ごろ病院に戻ります。たまに早く目覚めると私の携帯にメールが来ます。
最後のメールは2月8日「今日のお昼は?
この”怒りマーク”は本当によくメールに出てきました。
この頃のメールを見るとお気に入りは”たまごサンド”だったようです。
亡くなる寸前まで食べていたんですね。

二人で韓流ドラマ「心震わせて」を観ていました。
12話のオムニバスドラマ。亡くなる前日、全巻見おわりました。

心残りにならなくてよかった。