1本のわらしべ

骨肉腫と闘う子供とその家族とともに

記録と記憶

2009-01-19 08:31:43 | Weblog
主人がビデオテープの整理をしていた。
「落ち着いたら、あの子のビデオをゆっくり見たいな。」と思っていた。
家事をしながらチラチラ画面を見ていた。

「ぱぱ~。ぱぱ~。」ビデオを撮っている主人に向かって、大声で叫んでいる。
叫んでは、ニィーっと笑い、のけ反る。それを何度も何度も繰り返す。
日付を見ると3歳の頃の映像である。
パッツンおかっぱ、親の欲目で見ても美人になる顔ではないな。私の小さい頃にそっくり。
主人が「ビデオがあってよかったな。おかげで記憶が鮮明に蘇る。」
確かに、3歳の娘がテレビの中にいる。
あの子は確かに存在していた。

16歳のあの子は何処にいるのだろう。

ホスピス

2009-01-16 11:36:36 | Weblog
2年前の今頃。
先生から「もって、あと1ヶ月です。」というお話があった。
ある朝、病院について娘の顔を見ると、こめかみが異様に落ち込んでいる。昨日の夜、帰るときには気付かなかったのに。いつもポーカーフェイスの私もこのときばかりは目に涙がにじむのを隠せなかった。急いで「ちょっとトイレ」と席を立った。
娘は恐ろしい勢いで衰弱していた。
顔や上半身はやせ衰えているのに、下半身はパンパンに腫れている。
手術の傷跡がはち切れんばかりだった。もう少し生きていたらきっと傷口が開いていたと思う。

このころホスピスのことを考えていた。
今の病院ではナースコールを押しても直ぐには来てもらえない。苦しいときに直ぐに来て処置もしてもらえないだろう。すばやく痛みや息苦しさを取り除いてもらうにはホスピスに移るべきだろうか。そう考えていた。
看護婦さんの中にも、以前入院していた高校生がホスピスに移って随分楽に過ごせるようになったと話してくれる人がいた。
先生に相談して一度ホスピスを訪ねることにした。

そこは穏やかな山の中。
物音ひとつしない静かなところだった。
病室も広くて家族が寝泊りできた。ほかの子供たちもここから学校に通えばいい。
主人と話して、ここに移ろうかと考えていた。
見学が終ってホスピスの看護婦長さんと面会した。
婦長さんは「お話を伺いましたが、私はここが娘さんに合っているとは思いません。ここは死を受け入れ静かに死を待つ人がくるところです。お嬢さんはまだ闘っておられます。
リハビリを頑張っておられます。彼女からそれをとり上げてはいけません。」

そうでした。娘は生きようとしていたのです。
子供にホスピス、終末医療はいりません。
以前、情報を集めるために伺った小児病棟の先生に「ホスピスについてどう思われますか?」と訊ねたことがあります。
先生は即答で「彼らは最後の最後まであきらめません。生きようとしています。
そんな彼らにもうあきらめなさい。なんて言えません。子供に終末医療はない。」

あれで良かったのか。今でも答えは出ない。

本当は甘えたかった

2009-01-16 08:48:32 | Weblog
今日の中日新聞の記事。
生まれつき体の弱い妹を持った女性Aさんの話である。
彼女の妹は小さい頃から入退院を繰り返していた。
Aさんは「お姉ちゃんだから」「お姉ちゃんのくせに」と言われて育った。
小学生の頃、いつか本当のお母さんが迎えに来てくれるのを夢見ていた。

以前、このブログでも触れた事がある。
病児の兄弟の心のケアの問題である。病児の年上の兄弟でさえそうであるなら、年下の兄弟ならなおさらである。
病気の子供は病気との闘いに必死で頑張っている。でもその陰でその兄弟も同じくらいつらい気持ちを抱えている。しかも兄弟の心境は複雑で、自分の兄弟が病気で苦しんでいるのを知って、自分の寂しさを我慢してしまう。わがままを言えば親を失望させたり、嫌われてしまうのではないかと恐れ、今以上に「良い子」を演じてしまう。
親は精神的にも物理的にもいっぱいいっぱいです。
特に、あとわずかしか生きられない子のためなら敢えて他の子を犠牲にせざるをえません。
娘には4歳上の姉、5歳下の弟がいます。
姉は高校生でしたので、病気が切迫していることも知っていました。頭で理解してくれてはいましたが、受験の時期と重なっていたこともあって、精神的には追い詰められていたと思います。
弟は小学校2年生。まだまだ甘えたい盛りでした。学校から帰っても上の子が戻るまでは一人でお留守番。
私は、消灯まで病院にいて家に帰ります。
とにかく寝るときだけは一緒にいてやろうと決めていました。お布団に入って今日一日の話をします。それだけは欠かさないようにしていました。
でもこれも病院が付き添いのできない病院だったからできたことです。
不安げな娘を一人病室に残して帰るのは辛いことです。病院が許可してくれていたらきっと泊まっていたでしょう。娘にはかわいそうな事をしましたが、2年という長丁場を他の兄弟が乗り越えられたのも、娘の我慢があったからこそだと思います。

いま下の息子は言います。
「おらは一人で寂しかったんだから。」

遺灰

2009-01-13 15:37:12 | Weblog
今朝の朝日新聞に「遺灰から貴金属回収、自治体収入に 遺族には知らせず」という記事があった。

公営火葬場から出る遺灰に含まれた貴金属を自治体が回収して換金したり、遺灰そのものを売却したりして、一部の自治体が収益を収入に組み入れていることが分かった。名古屋市は年間約1千万円、東京都も約300万円の売却益があった。こうした処理は遺族側には知らされていない。
火葬し、収骨されたあとの遺灰には歯の治療や人工骨などで使われた金、銀、パラジウムなどの貴金属が含まれている。

こういう記事だった。
2年前の火葬場を思い出す。
火葬が終って、骨を拾いに入った時、まず目に入ったのが手術の時に使われた金属。たくさんの板片・ボルト・ナット。こんなにたくさんの金属が体の中にあったのかと驚いた。
それから、のど仏の骨を探し、小さな骨壷に入れる。
その後、頭蓋骨を小さく割り、足、手、肋骨それぞれの部位から1つずつ拾って大きなほうの骨壷に入れた。「残された遺骨・遺灰はどうなるんだろう?」と考えたが、全部の骨を持ち帰ることは不可能だった。

遺灰の所有権をめぐっては、収骨前は遺族の所有、収骨の後は市町村の所有とした1939年の大審院(現在の最高裁)の判決があり、多くの自治体は「遺族が持ち帰らなかった段階で所有権は放棄された」(名古屋市健康福祉局)との立場をとる。
回収する理由について同市の担当者は、遺灰は市の財産で業者が売却して利益を得るのは好ましくないとし、「年間約1千万円の収益があり、回収しないともったいない話。市の財源になっている」と話す。
一方で、貴金属の回収や遺灰の売却をしていない自治体の中には、遺族感情への配慮や所有権の問題などを理由に挙げるところもある。
北九州市は「人体を換金するのは不遜(ふそん)」と市民から反発の声があがり、91年度以降、売却をやめた。市の要綱で「残灰は遺体の延長で敬虔(けいけん)に処理する」と定めている。神戸市は「財産権もからむので、売却しない」としている。横に遺灰から回収した金の延べ板が写っていた。

確かにあそこにあった金属片は娘の体の一部だった。



芋づる式に

2009-01-09 20:18:48 | Weblog
ひとつの記憶から、別の記憶たちが芋づるを手繰るように蘇る。

2年前のお正月。
大晦日から3日まで外泊許可をとって、娘が帰ってきた。
その頃には痛み止めのロキソニンが効かなくなっていたので、
モルヒネの錠剤が処方された。
病院に戻る日の夕方。福祉タクシーのおじさんが迎えにきてくれた。
大人4人がかりで、バスタオルと足を持って「せーのーで」と車椅子に乗せる。
それから、やはり4人がかりで階段を降りる。
ところが、その日はそうはいかなかった。
車椅子に移った娘が「お尻が痛い。」と言いだした。褥瘡(床ずれ)がひどく痛むらしい。この様子では病院までもたないだろう。
でも褥瘡の処置は明日に延ばせない。モルヒネも外泊日数分しか出ていない。今夜には薬が切れる。
仕方がないのでナースセンターに電話をかけると「動かせないようでしたら褥瘡の処置の道具とモルヒネを取りに来てください。」という返事だったので、急いで主人が病院へ向かった。
福祉タクシーのおじさんには謝って帰っていただくことにした。今まで何度もドタキャンしたが、おじさんはいつも笑って「また明日ね。」と帰っていかれる。
主人が戻ってから褥瘡の消毒をした。
私は病院で先生が処置をされるのを見ているので、その通りにやってみる。
体を90度横に起こして、みんなで支える。起こしている間、本人はかなり辛いので手早くやらなければならない。器材、ガーゼ、ラップ等を前もって準備しておく。それまで娘の褥瘡を見た事がなかった家族は息を呑んだ。直径5センチはあった。クレーターのように肉がえぐれていた。そこに黒いものが見える。移植した蝶骨を止めたボルトの頭だった。

次の日、娘は病院に向かった。

Wii

2009-01-09 08:30:23 | Weblog
2年前のお正月、我が家にWiiがやってきた。
1月2日、朝から近くのスーパーに並んで抽選。30パーセント位の確立でWiiの購入権利が当たる。Wiiが当たるんじゃなくて買う権利が当たるのである。
主人は早々と並んだ。何時間かして主人と息子が四角い箱を抱えて帰ってきた。
その頃、人気だったWii Sportsのソフトも一緒に買ってきていた。
久しぶりに病院から帰宅していた娘を喜ばそうと一生懸命の主人。
姉と弟がゲームを始めた。だんだん白熱してくる。
不意に和室の襖が閉まった。
娘は、その頃3度の手術のため寝たきりで、動かせるのが右手だけになっていた。
Wii Sportsはテレビゲームだけれど体全体を使って遊ぶゲーム。娘には出来なかった。楽しそうに盛り上がる姉弟を見ていて、最初は嬉しそうにしていたが、だんだん不機嫌になっていった。
その後、慌てて他のゲームを買いに走ったのは言うまでもない。

これが、亡くなる1ヶ月前のこと。
まさか、この1ヶ月後に亡くなるなんて予想だにしなかった。
娘は治ると信じていたし、体も元通りになると思っていた。少しは不自由は感じるかもしれないがリハビリを頑張れば自分で立って歩けると信じていた。
この先、骨肉腫に打ち勝って退院してきた時、自分の体の現状を知ったとき、娘はどんな反応を見せるだろう。
治療中は生き残ることに精一杯だが、その後は残った障害、後遺症と闘わなければならない。
人目を人一倍気にする娘。また、そういうお年頃である。
「きっとグレるだろうな~。」

いま思えば呑気な母だった。