なでしこジャパンの活躍は、私達に大きな勇気をくれた。
彼女たちの試合をみて、励まされた人はたくさんいるだろう。
私のまわりにも、素敵な女神たちがたくさんいる。
自分の夢に向かって、努力している人。なんど打ちのめされても、果敢に挑戦する。
自信と経験に裏付けされた行動力で、周りを引っ張ってくれるひと。
道端のタンポポのように目立たなくても、地道な活動で周りの人々を支え続けているひと。
素敵な女神たちは近くにいる。
なでしこジャパンの活躍は、私達に大きな勇気をくれた。
彼女たちの試合をみて、励まされた人はたくさんいるだろう。
私のまわりにも、素敵な女神たちがたくさんいる。
自分の夢に向かって、努力している人。なんど打ちのめされても、果敢に挑戦する。
自信と経験に裏付けされた行動力で、周りを引っ張ってくれるひと。
道端のタンポポのように目立たなくても、地道な活動で周りの人々を支え続けているひと。
素敵な女神たちは近くにいる。
7月から介護施設の送迎車のドライバーとして採用された。
朝と夕方、施設利用者の送り迎えの仕事である。
開設したばかりの施設で、利用者がまだいないので、今は自宅待機。
そんな時に、突然足のしびれを感じた。病院に行くと「ヘルニアの疑い」あり。
腰には自信があったのに...。
いま、介護ヘルパーの勉強も始めていて、高齢者の障害・疾病の学習をしている。
その内容が自分の近い将来と重なって、不安はつのるばかり。
介護タクシーの申請手続きも停滞中。
友人に不安な気持ちを告げると、「心配ないよ。」と笑い飛ばしてくれた。
少し元気になって、病院へ診察に行くと「ヘルニアではない」らしい。
ほっとして、駐車場に出て顔を上げると、一台の車が目を引いた。
私が介護タクシー「あかね号」にと思っている車種の車が目の前に。
小さいけれど、リフトがついていて、車いすを力強く持ち上げていた。
いままで車道はもちろん、ディーラーでさえ実物を見たことがなかったのに。
俄然、元気になった。
はやく、あかね号に会いたい。
(この病院は、あかねの主治医の病院です。先生は数年前にH大学病院を引退され、開業医をされています。先生の人柄からか病院はいつも患者さんがいっぱい。
不安な時は、いつもここに駆け込んでしまう私です。)
娘が亡くなる数時間前、突然、目をカッと見開いて、看護婦さんの呼びかけに「はい!」と答えた。
その時の顔は、恐怖におびえる悲しげな顔だった…らしい。
その時、私はその場にいなかった。
姉と弟、そして友人が居合わせた。
眠り続ける娘の目は半開きで、角膜は乾き剥がれそうだった。濡らしたガーゼをかぶせて乾くのを防いでいたが、娘の目は死んだ魚の目のようだった。
その目が、その瞬間、生気を取り戻し輝いていたらしい。
一瞬の出来事だった。
私が呼び戻された時には、娘はもう眠っていた。
筋肉の委縮によるもので、単なる生体反応で意識はない。そう思うことで、その場にいなかったことの悔しさを紛らわしていた。
1年くらい前に見たドキュメンタリー。
20代の韓国人夫婦。妻が妊娠した後、つわりがひどく出産まじかになっても吐き気が治まらなかった。
妻は妊娠と同時に胃癌を発症していたのに、つわりと診断され癌が見逃されていた。
あまりにも吐き気が止まらないため、検査をしたところ、すでに手遅れだった。
無事出産が終わっても、退院することもなく、抗がん剤の治療が始まった。
余命3か月の宣告を受けた母の願いは「子供のトルチャンチを祝うこと」だった。
子供の1歳の誕生日を盛大に祝う「トルチャンチ」。そのために、母は癌と戦った。カメラは病床で苦しむ母の姿を包み隠さず撮っていた。
画面が切り替わると、トルチャンチの準備をする親子の幸せそうな姿が映ってた。母もきれいに正装し、幸せそうだった。
その後、画面はまた病院に戻った。
母は危篤状態で、昏々と眠り続けていた。
突然、母が目を見開き、起き上がった。もう起き上がる力などなかったはずなのに…。
韓国語なので意味はわからなかったけど、はっきりした言葉で付き添いの母親に何かしゃべっていた。
そのあと、彼女は静かに息を引き取った。
私は、それを見て確信した。
あれは単なる生体反応なんかじゃない。意志をもった行動だった。最後の力を振り絞った別れだった。
その場に居合わせることができなかった事を、私はずっと悔やんでいる。
病室を離れた理由を考えるとき、私の心は闇に囚われる。
友人が「最近ブログ書いてないね。」と。
そんなことないよ。
書いてるんだけど、それは同じ季節の一年前、二年前、三年前に書いたのと同じもの。
季節が巡ると、毎年、同じ風景が頭をよぎる。
毎年、毎年、それは繰り返される。
時間は、止まったまま。
東北地震から、もうすぐ4か月。
被災された人たちの、それぞれの事情が明らかになってくる。
一人自宅に残された母を、救おうと実家に戻った息子さんが津波にのみ込まれた。
お母さんは近所の方の助けを借りて、避難所に移動していたのに...。
明日が保育園の卒園式なので、早めに保育を終え子供たちを送り出した保母さん。
いつものように園で保育していれば、幼い命を助けられたのに...。
子供たちの勧めで、二人で温泉旅行に出かけていた夫婦。
送り出してくれた子供たちは、津波にのみ込まれてしまった...。
家族で手をつないで逃げたのに、津波にのみ込まれ、偶然触れた小枝に捉まった父親だけが助かった。
手は、しっかりつないでいたはずなのに...。
小さな偶然が重なって助かった命。不幸な偶然が重なって失われた命。
それぞれの命にどんな違いがあるのだろう。
どうして、こんな理不尽なことがおこるのだろう。
わたしたちには、どうすることもできない運命があるのだろうか?