1本のわらしべ

骨肉腫と闘う子供とその家族とともに

同級生

2011-06-29 17:20:05 | Weblog

娘の同級生たちは、今年の春、高校を卒業した。

大学に進学した子、就職した子。今までのように顔を合わせることが少なくなった。

幼なじみのYちゃん、Nちゃん、Mちゃん、Y君・・・。

K君はサッカーが好きで、クラスでもリーダー的な存在だった。

Nちゃんは負けず嫌いの頑張り屋さん。いつも明るく元気な子。

Yちゃんは娘同様、勉強嫌いで授業中も廊下を歩いていたらしい。

Mちゃんとは、大きくなってからはあまり接点がなかったけれど小さいころは一緒に走り回っていた。

成長した彼らを見れば、あの子の今の姿を想像できるだろうか。

先日、お姉ちゃんに「あかねは今頃どうしていたと思う?」と聞くと

「やっぱり、動物看護の専門学校へ行っていたと思うよ。」と。

私は「お姉ちゃんの大学にお姉ちゃんを追いかけて行ったと思うよ。」と返した。

さあ、どっち?

 

 


生きていく

2011-06-05 14:11:51 | Weblog

三途の川を渡ろうとしたとき、後ろから自分の名前を呼ばれて振り返ったら病室で目が覚めた。そういう話を聞いたことあります。

 

娘の臨終のとき、友人が娘に向かって名前を呼び続けてくれた。

私は、名前を呼び続ける友人の声を遮った。「もういいよ。」

娘はよく闘った。これ以上苦しみ続けることはない。

私は娘の魂を手放した。

 

娘が麻酔でこん睡状態になったとき、ベッドのそばに一人で付き添っていた。

機械の音だけが響く静かな病室の中、痛みや苦しさから解放されて、すやすや眠っている娘。

ほっとした安堵感と、どうしようもない寂しさが入り混じって泣いた。

 

最近、ふと、あの時、娘はどう思っていたのだろうかと考える。

それでも「生きたい!」と思っていたのではないだろうか?

「楽になる」それは周りの人間が想像しているだけで、当の本人たちはそんなこと願っていないのかもしれない。

「生きていくことは死ぬよりつらいことだ。」そう思える日もあるかも知れない。

死は、誰にでも訪れる。いつか必ず訪れる。

その日まで、生きていかなきゃならないなら、どうやって生きていくかは自分で選びたい。

私は、ある薬がなければ、たぶん父と同じ病気で亡くなっていた。この薬で症状をコントロールできるようになったのは10年前。

奇病・難病として原因がわからずに、いろんな病院を転々としていたとき、偶然が重なり、若い医師に出会った。

その医師に出会って初めて、自分の病気が何なのかを知り、症状をコントロールする方法を知った。

副作用もわかっていないし、それは治療薬ではなく症状を抑えているだけなので、いつかは負けてしまうかもしれない。

それでも、娘を看取ることができた。その後も、娘の生きた証を残そうと悪あがきをしている。

 

それでも生きていく。