アグリコ日記

岩手の山里で自給自足的な暮らしをしています。

咀嚼今昔 1

2011-02-15 09:27:43 | 思い
 最近、齋藤滋著「よく噛んで食べる~忘れられた究極の健康法」(NHK出版)という本を読んだのだが、それに食に関するとても興味深い内容の事が載っていた。過去と現代の食事内容と食事時間、それと、それを咀嚼する回数の比較実験である。そこで、今回はそれを題材に取り上げて「噛むこと」について話してみたい。ただ、この本の内容や実験の有効性などについては、私自身若干の疑問や批判を感じるところもあるので、場面に応じて自分の感想や考察なども織り込んでいく。
 まず著者は、過去の文献などに基づいて弥生時代から現代までの、各時代の日本人の食事を再現している。弥生時代は魏志倭人伝の記述から、また平安から江戸時代までは、各時代の著名な歴史上の人物が食べたとされる食事を復元している。


 そしてそれを実際に現代の20歳代の学生たちに食べてもらい、その時に要した咀嚼回数と食事時間を記録した。その結果をグラフ化したのが下の図である。日本の若者があまり噛まなくなった、その結果、顎が発達せず顔の形も変わってきたと言われて久しい。確かに、元巨人軍の王選手みたいにエラの張った顔を見ることが最近なくなったのは事実である。では実際の咀嚼回数はどうなのだろうか。


 なるほど、こうしてみると、確かに今の時代の若者が噛まなくなった、食事時間が短くなったことが一目瞭然で伺える。食事時間は時代が進むにつれて右肩下がりに短くなってるし、咀嚼回数は「日本」という国が始まって以来なんと6分の1に減っている。つまり現代人は、かの時代からすれば食べものをほとんど丸飲みしてるに等しい。しかしそれらは具体的な食事内容による要素も大きいので、次に実際に各時代の食事メニューを再現した東京都歯科医師会による画像を掲げる(出典は「東京都福祉保健局」。以下、この後に掲げる時代ごとの食事写真はみな同じ)。まずは弥生時代から。


 ご覧のとおり、もち玄米のおこわやクリ、カワハギを始めとする山海の珍味が、今日の温泉旅館の食事同様所狭しと並んでいる。これが魏志倭人伝に記載された卑弥呼の時代の食事だというのだが、しかし正直なところ、これは明らかな「誤解」または「捏造」である。
 魏志倭人伝の中で倭国の食事に関連して述べられているところを抜き出すと、次のとおり。
今倭水人好沈沒捕魚蛤文身
(倭の水人(あま)は水中にもぐって魚や蛤を捕える)
倭地温暖冬夏食生菜皆徒跣有屋室父母兄弟臥息異處以朱丹塗其身體如中國用粉也食飲用邊豆手食
 (倭の地は温暖で、冬も夏も生野菜(または、「菜」はおかずの意か?)を食べる。みんな裸足である。家には部屋があり、父母、兄弟、別々に寝る。朱丹を体に塗るのは、中国の人が白粉を塗るようなものである。食事は竹の器を使い、手で食べる)
其死有棺無槨封土作冢始死停喪十餘日當時不食肉喪主哭泣他人就歌舞飲酒
(人が死ぬと、はじめ十余日間ほど喪に服する。この間、人は肉食をせず、また喪主は哭泣し、他の人々は喪主の側らで歌舞し飲食する)
有薑橘椒荷不知以爲滋味
(生姜・橘・山椒・茗荷もあるが、滋味ある食物として利用することを知らない)

 この記載からどうやって上の写真のような食事が生まれたのか知らないが、ちょっとここにはとんでもない拡大解釈か、もしくは想像の限界に挑戦したかのような印象をぬぐいえない。
 おそらくこのメニューは、「まあ女王・卑弥呼くらいの地位にあればこれくらい食べたかもしれない」的に考えて創作したのだろうが、これではまるで、当時の王朝の、それも漢王朝の公式使節を接待するための「超」特別料理である。毎日こんなものを食べていればたちまち成人病になってしまうし、ましてや霊能者であるとされた卑弥呼がこのようなものを食べたはずがない。これを弥生時代を代表する料理として持ち出すのもいかがかと思われるのだが、なにぶん遠い過去のこととて他に資料がなかったのだろう。しかしこれをもって比較するには到底無理があるということだけは心に留めておきたい。
 一言付け加えると、日本人が現代のように多種類の副菜の皿をお膳に並べ始めたのは、家庭料理としては戦後の復興期を脱してからのことであり、どんなに遡っても戦前の比較的豊かだった一時期以降である。元々小皿に品数を揃えるという習慣は、漢の時代の宮廷料理の風習だった。それを聖徳太子が使節を接待する際に中国風の流儀を用いて並べたのが、わが国での最初だと言われている。それまで日本では他の諸外国同様、そんなに副菜を並べる習慣はなかったのである。
 その後天皇家や貴族の中、特に宴席の場において脈々と受け継がれていたこの風習は、「大切な賓客をもてなす最大級の心遣い」として、時代が下って富裕な商人や豪族の間の、主に宴席の場において広まっていく。そして更に庶民にまで浸透したのは、前述のとおり、日本が一億総富裕化した高度成長期以降である。
 ではそうでない日本式の食事はどうだったかというと、例えば次のとおりである。


 これは平安時代末期~鎌倉時代初期(推定)にかけて記された「異本病草紙」から抜粋した図であるが、ご覧のとおり、さほど身分も卑しくないらしい身の者がご飯を山のように盛り上げ、数品のおかずとともに食べている。これと同様の食事風景は「病草紙」にも、また鎌倉時代の作と言われる「餓鬼草紙」にも登場する。これは裕福な家の酒宴の席だろうが、当時の日本では強飯(こわいい:蒸かした飯)、または姫飯(ひめいい:煮た飯)をこのようにてんこ盛りにして給するのが一般的な食事習慣だったようである。
 今日のように小ぶりの飯茶碗によそうようになったのは、高盛をする代わりに「おかわり」が習慣化した鎌倉時代後期以降のことである。室町時代になると、高盛飯は単に儀式の場合にしか使われなくなる。ちなみに当時もご飯は玄米が主流だったので、白米を食べる超上流階級以外、特に栄養上の問題は起こらなかった。
 だからもし卑弥呼の時代に近い庶民の食事を引き合いに出すならば、どんなに譲っても次のような図になるはずである(情報処理推進機構「教育用画像素材集」より)。飯はおこわかどうかはともかくとして、やはり玄米だった。


 参考とした時代は奈良時代。中央に盛られているのは塩、そして米、汁は青菜を浮かべた簡素なものである。おそらく実際は、ご飯はもっと山盛り。それと塩であるが、現代と違って相応の貴重品だったので、もしかしたら添えられていなかったかもしれない。これが当時の「庶民の食事」である。しかしこの庶民レベルの食事でも、食事時間と咀嚼回数は、おそらくは現代のそれよりもかなり多くなるだろう。米のカス(白米)と違って、玄米は噛まないと旨くないしなにより消化できない。

 次に平安時代(紫式部)の食事である。紫式部は平安中期(10世紀)の、ご存じ宮仕えした女流歌人である。


 白米にブリとアワビ、大根の漬物、カブの汁が添えられている。まあ当時の貴族の食事としてはこんなものだったろうが、しかしこれも到底「庶民」のそれとはほど遠い。これを現代に例えて言うならば、上場会社の社長の、それも相当グルメの食事とでも言おうか。なぜならば平安時代の貴族階級は、全人口のおよそ0.1%ほど(それも東国を除いた数字)でしかなかったし、当時の一般的食事は、前述のとおり玄米の高盛飯だったのである。
 この紫式部の食事、実験によると食事時間は31分で、咀嚼回数は1366回と、弥生時代のそれより激減している(弥生時代の行使接待料理は、食事時間51分、咀嚼回数3990回)。これはもちろん弥生時代の宴席料理と、平安時代の貴族の日常食を比較したことによるものであるし、それに390年続いた平安期が日本史上でも特筆に値するほど、特権階級(いわゆる平安貴族)に富が集中した時期であることにも関係している。
 中央集権体制が確立し、全国津々浦々から特産品を寄せ集め、毎夜の酒宴と遊戯に耽っていた宮廷では、今日の日本そこのけの奢侈遊蕩虚飾享楽夜更かしに満ちた世界だった。しかして当時の食事は貴族であろうと一日2食。風呂は5日に1回という。紫式部の食事は庶民レベルとは比べ物にならないほど豪華で美味だったが、これによって貴族層は心身ともに不健康になっていったのである。


【冒頭の写真は、病草紙より「歯の揺らぐ男」】


(つづく)



コメント    この記事についてブログを書く
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする
« タバコと知能指数 | トップ | 咀嚼今昔 2 »
最新の画像もっと見る

コメントを投稿

思い」カテゴリの最新記事