アグリコ日記

岩手の山里で自給自足的な暮らしをしています。

咀嚼今昔 2

2011-02-16 20:11:19 | 思い
 次に源頼朝の食事(12世紀・鎌倉時代)を見てみよう。玄米おこわにイワシの丸干し、味噌汁と梅干。なんだか平安期の貴族の食事より質素である。しかしまあ、平安貴族が豊かすぎたのだから、これも本来の食の姿に復する形になったとは言える。また貴族と違い肉体を動かして仕事に当たる武士階級は、奢侈を戒め質素を旨とし、白米を食べるなどという習慣を好まなかったのも事実だろう。日本の食の歴史を紐解くに、平安貴族層と現代日本国民が特に著しく(時として誤った栄養学の元に)滋養健康を犠牲にして、食味や楽しみに耽る食生活をしていると言える。


 源頼朝の食事では、咀嚼回数が紫式部の2倍、現代の4倍以上になっている。食事時間は平安時代とほぼ変わらない(食事時間29分。咀嚼回数2654回)。質実剛健な鎌倉時代の武士階級の食事は、今回復元した江戸末期までの食事の中では、おかずの量の多いこと、ご飯の量の少ないことを除いては、一番庶民のそれに近いものと思われる。よって咀嚼回数も、食事に要する時間もより実態に近い。
 日本人の食事回数は、室町頃までが昼食・夕食の一日2回(だいたい10時と16時頃)。昼食は平安期以降は、特に西国では粥、東国ではかて飯(米に野菜などを混ぜて炊く)を食べているようだ。朝粥やかて飯という習慣は、多くの地域で大戦前まで残っている。
 後醍醐天皇の御勅作「日中行事」(13世紀)に、「朝の御膳は午の刻(11時~13時)なり」「申の刻(16時~18時)に夕の御膳まいる」とある。鎌倉時代の頂点に立つ者も、やはり一日2食だったのである。
 一日3食が広まりだしたのは安土桃山から江戸時代にかけてで、食糧増産と治安の安定に伴い、支配者層・富裕層から順に変わっていったようである。

 次に徳川家康の食事であるが、最初に触れておくが、家康が麦飯食だったことは有名である。彼は若い頃の生活と苦労を忘れずに天下を取った後も生涯麦飯を常食としていた。しかしこれは、当時の戦国武将がみなそうだということではない。

 家康の30歳前の若い頃、毎年夏になると麦飯を食べていた家康を気遣い、ある日小姓がひそかに、お椀に白米を入れて、表面だけ麦飯を覆って出した。
 これに対して家康は「私の心がわからないやつ」と嘆き、「私はケチだから麦飯を食べるのではない。いまは戦国の時であり、兵士は心を休める暇もなく、衣食も不自由なのに、どうして私だけが贅沢できよう。しかも日頃倹約して、これを軍用費に回すためである」と言ったと伝えられている。

 また天正年間(1573~1592)、伊達政宗が「家康の食事のおかずは魚の粕漬けだけだったので驚いた」という記録もある。とにかく武勇はともかく、質素倹約と遠慮智謀によって天下を取った家康のことだから、これらは意外と説得力がある。では彼の食事はどうだったのか。


 麦飯とカブの味噌汁はいいとして、それに納豆、里芋とゴボウの煮物、焼いた鯛、ハマグリの塩蒸しがついている。しかしこの麦飯、探しても麦がどこにあるのかわからないほどに麦が少ない。おかずに魚の味噌漬けだけで食べた家康のことだから、実際に食べたのはこんな名ばかりの麦飯ではないはずだ。このメニューでは全然「粗食」とは言えない。
 ハマグリは当時、三重県や愛知県近辺で豊富に獲れた水産品である。表現にも「その手は桑名の焼き蛤」の謂いが残ってるし、家康の本拠・三河でもしごく日常的に獲れていた。しかし戦後の海洋汚染と干潟の埋め立てで、特に1970年代からは漁獲量がほぼ0になっている。現在売られているハマグリはほとんどが中国産であり、国産品は超高級食材になっている。
 当時、三河時代の家康の食卓にハマグリが顔を出すのは不思議なことではなかったし、もちろん天下人となってからも疑問の余地がない(ただし、江戸に居を移してからは別である。当時の輸送能力で、果たして生のハマグリが江戸まで運べたろうか?)。
 しかしである、将軍となってからも生涯麦飯を食べ続けた家康が、おかずとして、そう頻繁に鯛やハマグリを食卓に載せただろうか。確かに時には鯛やハマグリを食べることもあっただろう。でもそれは、そんなに日常的なことではなかったのではなかろうか。むしろ麦飯に塩納豆をかけて味噌汁をすすってる家康像の方が、私にはしっくりくるのである。
 だからこれもなんとなく、机上の空想的な食事メニューのような気がしてならない。戦前まで一般的な日本人の食卓には、米(多くは玄米かかて飯)と汁、それに塩か、1~2品の僅かな量の副菜(沿岸部を除いてほとんどが野菜類と豆)くらいしか載らなかった。その代り食べる米の量は多く、例えば大永六年(1526年)福井県敦賀の気比神社に残された文書によると、「庭師には二度の食事にそれぞれ飯三合、大工には昼に四合と酒・夕に三合」を給した旨が記されている。肉体労働者(おそらくその中でも官給をもらう高待遇の者たち)は一日6~7合食べていたというのだからちょっと驚きだ。
 米を測る単位「合・升・斗・石」が全国的に統一されたのは、織田信長と豊臣秀吉によるものであり、またそれに続く江戸時代(1669年「新京升」の採用。後にこれが、明治政府によって公定の升に定められる)である。だからここで言う「合」は、今日の合とは違った量だったのだろう。
 また江戸時代の下級武士の給与である「扶持」は、男で「一人一日玄米五合」と定められている。この扶持は蔵米や現金の他に与えられ、家族のうち女は3合換算、他に家来の分も加えて支給される。たぶんこの米を全量食べたわけではなかったろうから、実際の食事量は幾分少ないかもしれない。けれどこのように今よりも数倍量の米を食べていて初めて、武士も労働者も一般人も、頑健で病気知らずの体を維持していたのである。


 そしてこれが、徳川幕府13代将軍である家定の食事である。彼は幕末の変動期に安政4年(1857年)、米国総領事タウンゼント・ハリスを江戸城で引見している。身長149cm程度。幼少時から病弱で、一説には脳性麻痺だったと伝えられる。なんでも菓子作りが趣味で、蒸かしイモを家臣連に振る舞ったゆえに「イモ公方」のあだ名まである。彼は安政5年(1858年)に享年35歳で逝去した。
 かまぼこや白身魚の吸い物、カレイの煮物など、さすがは当代最高位の将軍の食事である。白米を食べるところなど、彼が脚気を持病としていたゆえんだろう。これが国内繁栄を極めた江戸時代の極致、当代一贅沢だったはずの日常食なのだ。今の食卓と比べてどうだろうか。
 ちなみに、白米が庶民の間に広まっていったのもこの頃である。記録上では江戸・元禄の頃に富裕な商人層や江戸への出稼ぎ者が白米を食べ始めたとの記載があるが、それはあくまで文献に特筆されるほどの「一部」の人の間に流行ったことであり、その習慣が全国的に広まるまでには、それから明治、大正、昭和初期と実に200年以上の時間を要している。かの宮澤賢治も「一日に玄米四合と味噌と少しの野菜を食べ」(「雨ニモ負ケズ」1931年)と詠んでいるが、それは昭和初期というその時代的にはなにも特殊なことではなくて、当時の小規模農家としてはごく普通に見られる質素な食事形態だった。
 日本人が日に3度の食事を摂り始めたのは鎌倉時代、永平寺の開祖道元が、中国からその習慣を持ち帰ってからとされている。それが次第に支配階級や僧侶たちの間に伝わって、江戸時代中期以降には支配階級である武士階級が、朝・昼・晩の三食を摂るようになった。
 それがやがて町民の間にも普及していった。武士だけではなく、江戸時代は都市を中心にとても豊かな時代となった。江戸では食べものの屋台や店が立ち並び、間食の機会も増えて、鮨やそば、てんぷら、薬食い(肉食)など、今日でいうグルメの走りを見ることもできる。徳川家定の食事を持ち出さずとも、庶民の一食当たりの食事時間と咀嚼回数がそれ以前より若干減ったろうことは十分推察できる。しかしこの時代はまだ、農村部においては玄米やかて飯一日2食が日常だったのである。そのことは明治時代の軍隊食を見ればわかる。
 明治政府が平民を集めて軍隊を作った時に、兵の徴集のために3度の食事、しかも白米飯を配給することにした。三食を用意して、しかも嫁ももらって暮らしていける条件を作ることにより、概して農村部よりの志願兵を募ったのである。この目論見は大いに当たり、新政府の富国強兵策推進の基礎となった。「一日三食白米支給」は当時の庶民にとってそれほどまで魅力的だったのである。当時の軍隊では、配給された米を自分が食べずに実家に仕送りした兵も多かったという。これによって一気に一日三食の習慣が全国的に普及するに至った。
 

 そして昭和初期、宮澤賢治以降大戦までの庶民食である。この時代は後に台湾や朝鮮を国土とし、そこからの米の移送があったので比較的裕福でもあった。史上初めて日本人全員が米の飯を口にできた時代である。しかしその時でも、庶民は収入に応じて麦飯か玄米・かて飯、菜っ葉の味噌汁をベースとし、大豆やたくあん、野菜の煮物などをおかずにしていた。この食事習慣が、史実に残る大東亜戦争を戦い抜いた日本人の身体を支えたのである。しがないこの小さな島国が、富裕な大国アメリカとソ連、連合諸国らを相手にできた原動力は、まさにここにあったと言える。ちなみに大戦時の首相・東条英機も玄米食だった。

 そして当世の食事。

 パンとコーンスープ。ミックスグリルににんじんソテー、フライドポテトとオレンジジュース。このようにして歴史をなぞってみると、これはなんだか日本人の食事じゃないようだ。けれど肉は豊富だし(気づいたろうか、過去の日本の食卓には肉などなかった)、豪華さは庶民レベルとしては過去に例がないくらい素晴らしいものである。まるでこのまま「アメリカ人の食事です!」と言ってもおかしくはない。まあこんな典型的なものでなくても、今や大概の食卓にはカレーやスパゲッティ、食パン、サラダ、ラーメン、ハンバーグ、フライなどが並べられているだろう。
 そしてこの食卓が、今日の日本の病気蔓延を引き起こしたのである。今や日本人の健康と体力は、まさに過去に例がないくらい劣ったものとなってしまった。高たんぱく食によって見かけだけは大きくなったでくの坊、それが現在の日本人である。さぞや宮澤賢治も嘆いているに違いない。


【冒頭の写真はわが家の干し柿。最近売っている干し柿は、昔のものと比べて随分柔らかくなったようだ。食味を追求したのだろうが、その反面、「噛めない子ども」「噛めない大人」を反映したものとも言える】


(つづく)

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