アグリコ日記

岩手の山里で自給自足的な暮らしをしています。

氷雪の門 2

2010-11-19 09:28:04 | 思い

 次に、「軍隊の規律」という面から見たソ連軍というものについて述べよう。これは大戦当時、米国やソ連に敗退した際に取り残された一般日本人民がどう扱われたか、どのような行動の選択をしたか、に関連するとても大切なものを含んでいる。日本人民の「集団自決」「自害」は、決して武士道の言うところの「生きて捕虜の辱めを受けず」のみを根拠とするものではない。大戦中多くの人民、特に婦女子が進んで自決の道を選んだのは、それなりのワケがあったのである。

 まず具体的にソ連軍が満州において終戦前後に「民間の日本人」に対して行った行動を見てみよう。以下は。(「ソ連軍によるレイプ、虐殺、侵略を許すな!」よりの部分的引用である。

 昭和20年8月20日頃であったろうと思う。・・・(中略)・・・ぶきみという程静かな日が続いていたので、新京の街で何が起こっていたのか解らなかった。
 そんな日病院の玄関で大声で騒ぐ声にびっくりして、私は板でくくりつけた足をひきずりながら玄関に出て見て驚いた。12、3の少女から20ぐらいの娘が10名程タンカに乗せられて運ばれていた。それは、まともに上から見ることの出来る姿ではなかった。その全員が裸で、まだ恥毛もそろわない幼い子供の恥部は紫に腫れ上がって、その原形はなかった。大腿部は血がいっぱいついている。顔をゆがめつつ声を出しているようだが、聞き取れない。
 次の女性はモンペだけをはぎとられて下(しも)の部分は前者と同じだが、下腹部を刺されて腸が切口から血と一緒にはみ出していた。次の少女は乳房を切られて、片眼を開けたままであったから死んでいるのかも知れない。次もその次も、ほとんど同じ姿である。
「ああ女とはこんな姿でいじめられるのか・・・」。次々に病室に運ばれて行く少女を眼のあたりに見て、その非情なソ連兵の動物的行動に憤りを感じると同時に、道徳も、教養も平和な中にのみあるのであって一つ歯車が狂ってしまったら、そんなものは何の役にもたたないのだ。
・・・(中略)・・・1週間私はこの病院にいて毎日毎日この光景を見て、その無残、残酷さに敗戦のみじめさを知った。
 銃でうたれて死ぬのは苦痛が一瞬であるが、自分の体重の3倍以上もある毛むくじゃら男数名になぶられた少女や娘等はどんな苦しみであったろうか。(中略)また女医さんに聞いたことだが、「10名に2、3名は舌を噛んで死んでいるんです。また何名かの方は胸を圧縮されて息絶えている人がありました」と語られたことを想い出す。
(「文芸春秋・特別号」(1983年9月)に掲載された「読者手記53編」からの抜粋)

≪命日に有志、靖国の提灯供える≫
 「事件」は終戦後の昭和二十一年六月に起きました。その年の春、ソ連軍(当時)の支配下にあった満州・新京(長春)の長春第八病院で、三十四人の従軍看護婦が仕事を続けていました。
 そこへ、数キロ離れたソ連陸軍病院から「三人の看護婦を派遣せよ」という命令が届きます。約一カ月後にはもう三人、そしてさらに三人と、看護婦の派遣命令が続きますが、誰一人として帰ってきません。
 しばらくたって、瀕死の重傷を負った看護婦の一人が長春の病院のドアをたたきました。ソ連軍の病院に派遣された一人が、決死の思いで逃げ帰ってきたのです。
 「わたしたちは看護婦の仕事ではなく、ソ連軍将校の慰みものにされているのです。もう、人を送ってはいけません…」。その看護婦が息もたえだえに語ったのは衝撃的な事実でした。
 そしてその二日後の六月二十一日、悲劇が起きました。長春の病院に残っていた二十二人の看護婦が青酸カリを飲んで自ら命を絶ったのです。遺書には、「ソ連軍に暴行されるよりは死を選びます」という内容のことが書かれていました。看護婦たちは、ソ連軍の非道ぶりに“死の抗議”をしたのでしょう。
 看護婦たちの遺骨は当時の婦長さんの手によって、日本へ帰りました。(以下略)
(産経新聞2003/07/27 【双方向プラザ】「看護婦22人眠る「慈蔵尊」参りたい」より抜粋)

 悲惨な話であるが、これらは当時として、広く知れ渡った「常識」的話であった。日本人は狭い島国において同胞同士戦いを交えるうちに「武士道」という、ある意味人道的見地を含み込んだ「戦士の志」を育んだ。しかし、西欧人や中国人は違ったのである。彼らは広い大陸を駆け巡って価値観も文化もまったくかけ離れた民族・人種と刃を交えてきた。そうして身に着けた彼らの「戦い」に関する概念は、ただ「勝てばなにをしてもいい」「異民族・異国民は自分たちと同じヒトではない」であった。

 そのいい例が、大東亜戦争以前の東南アジアからインドにかけての記録である。宗主国民である白人たちは、被支配者であるアジア人をどのように扱ったか。とても人間としての扱いではなかった。今となればそのことについて記述された日本語の書籍や資料は、GHQの「焚書」のゆえに悉く燃やされてしまった。でも調べようと思えば、今でもネットの隅や歴史の書架の中に見出すことができる。

 もうどこの出典だったか忘れたのだが、昔、確か外国の新聞社か何かが「世界各国の軍隊の規律」について調査しランク付けした資料を読んだことがある。それによるとワースト1が「ソ連軍」、続いて「中国軍」。これらの国は兵士が敵兵や一般人を略奪・強姦・虐殺するに躊躇なく、規律に関して上からの命令が遵守されない、世界で最も粗暴な軍隊という。そして「日本軍」は、リスト中最も規律正しく厳格であるという内容だったと記憶している。

 軍兵士の規律の低さは、なにもソ連や中国に限ったことではない。アメリカを始めとする西欧諸国も、これほどまで酷くはないとしても、概ね似たようなものを持っていた。次は「酒たまねぎや ura「連合軍の捕虜虐殺(アメリカ)」より抜粋した内容である。出典にある「リンドバーグ」は、1944年に南太平洋の米軍の戦場視察と慰問を行った内容を日記に認めている。サイト主の蔵書「日本の反論」(米田健三著 並木書房 2006年)からの引用なそうである。

「日本兵士殺害に関する将軍の話----実戦参加経験がないまま帰国する軍曹が、せめて一人だけでも日本兵を殺したいと不平を漏らした。
 偵察隊に捕らえられた一人の日本兵捕虜が軍曹の前に引き立てられた。軍曹は言った。
 『俺にはこいつを殺せないよ!やつは捕虜なんだ。無抵抗だ』
 『ちぇっ、戦争だぜ。野郎の殺し方を教えてやらあ』
 偵察隊の一人がそういうと、日本兵に煙草と火を与えた。煙草を吸い始めたとたんに、日本兵の頭部に腕が巻つき、喉元が一方の耳元から片方の耳元まで切り裂かれた。
 このやり方全体は、話をしてくれた将軍の全面的な是認を受けていた」(リンドバーグ日記六月二一日)

 「ニューギニアの密林を越えて、ホーランディア飛行場周辺に日本空軍の残骸が散乱していた。着陸後、将校連と会議。談たまたま日本兵捕虜の数が少ないという点に及ぶ。
 『捕虜にしたければいくらでも捕虜にすることができる』
 と将校の一人が答えた。
 『ところがわが方の連中は捕虜をとりたがらないのだ』
 『(原文伏字)では二〇〇〇人ぐらい捕虜にした。しかし、本部に引き立てられたのはたった一〇〇人か二〇〇人だった。残りの連中にはちょっとした出来事があった。もし戦友が飛行場に連れて行かれ、機関銃の乱射を受けたと聞いたら、投降を奨励することにはならんだろう』
 『あるいは両手を挙げて出てきたのに撃ち殺されたのではね』
と、別の将校が調子を合わせる」

 「我が軍の将兵は日本軍の捕虜や投降者を射殺することしか念頭にない。日本人を動物以下に取り扱い、それらの行為が大方から大目に見られているのである。われわれは文明のために戦っているのだと主張されている。ところが大平洋における戦争をこの目で見れば見るほど、われわれには文明人を主張せねばならぬ理由がいよいよ無くなるように思う」(七月一三日)

 「安全でかなり贅沢な将校クラブに座しながら、これらの日本軍を『黄色い奴ばら』と表現するアメリカ軍将校の言に耳を傾けねばならないのである。彼らの欲求は日本兵を無慈悲に、惨たらしく皆殺しにすることなのだ。オウィ島に来て以来、敵に対する畏敬の言葉も同情の言葉も聞いた覚えはまったく無い」(七月二一日)

 「私は突っ立ったまま、密林の焼け焦げた跡や、日本軍が身を隠している洞窟と思しき断崖の黒点を眺めやる。あの焼け爛れた地域の地表下に極限の苦悶隠されているのだ   飢餓、絶望、そして死体や死に瀕した男たち。ただ祖国愛と信ずるもののために耐え、よしんば心底で望んだとしても敢えて投降しようとしない。なぜならば両手を挙げて洞窟から出ても、アメリカ兵が見つけ次第、射殺するであろうことは火を見るよりも明らかだから」(七月二一日)

 「われわれがもし日本兵の歯をもぎとったり、ブルドーザーで遺体を穴の中に押しやり、さらった土をかぶせてやったりする代わりに、人間にふさわしい埋葬を営んでやることが出来るのであれば、私はわが国民性にもっと敬愛の心を抱けたに相違ない。ブルドーザーで片付けたあとは墓標も樹てずに、こう言うのである。『これが黄色い奴らを始末するたった一つの手さ』と」(七月二一日)

 「山道の片側にある爆弾でできた穴の縁を通り過ぎる。穴の中には五人か六人の日本兵の死体が横たわり、わが軍がその上から放り込んだトラック一台分の残飯や廃物で半ば埋もれていた。わが同胞が拷問によって敵を殺害し、敵の遺体を爆弾でできた穴に投げ込んだうえ、残飯や廃物を放り込むところまで堕落するとは実に胸糞が悪くなる」(七月二四日)

『第二次大戦におけるソ連軍の蛮行は周知の事実だが、米軍については極めて人道的であったがごときイメージが長い間流布されてきた。記録映画などに登場する日本占領前後の米軍将校のほとんどが、降伏した日本軍兵士や民間人に食糧を支給し、医療を施す善良な姿で映っている。だから、「鬼畜米英という教育はまちがいだった。玉砕は犬死にだった。文明国の軍隊はあんなにも寛大だったのだ」という論理がまかり通ってきた。しかし、前線の諸記録に垣間見られるのは、むしろ日本人が軍民を問わず玉砕を選ばざるをえなかった米軍の残虐さである(「日本の反論」p161~162)

 この他にもリンドバーグは、「捕虜になれたのは英語を話す投降兵(つまり米兵に媚びて命乞いをする兵士)」のみだったということも言っている。その他は基本的に皆殺しにされた。日本兵は動物扱いで、捕虜になる資格は与えられなかったのだそうだ。このことが、戦後帰還兵の口からも事実をありのままに伝えられない結果を産むことになった。

 一般に「日本軍=帝国主義・冷酷非情」「アメリカ軍=解放軍・人道的」という図式が戦後の教育を受けた広範な世代の意識に刻み付けられている。かく言う私も長い間そんなもんなのかなと思い込んでいた。しかしどうやら現実は違うようなのである。アメリカは自国と連合軍の正当化を、数ある情報操作の中でも最も力を入れて徹底的に行ってきた。自らの行った卑怯な謀略と有史以来最大の無差別殺戮を糊塗するためには、是が非でも責任のすべてを「日本国家」になすりつけなければならなかったのである。日本人、あなたは悪くないんですよ。そう、悪いのはすべて「日本とその軍隊」なのです。日本国民のマインドコントロールはこのことが基本となっている。

 一方GHQの総力を挙げた情報操作から漏れ出た、「連合軍の行った事実」に関する資料は幾つもある。上記では公正を期すためにアメリカ人の記録を取り上げたが、例えば日本人の中にも、サイパンから生還した 田中徳祐陸軍大尉は、その著書の中で自ら目撃した数多くの事例を挙げている。

  1.  「米軍は虐待しません」の呼びかけを信じて洞窟から出てきた婦女子全員が素っ裸にされ、数台 のトラックに積み込まれた。「殺して!」「殺して!」の絶叫を残してトラックは走り去った。
  2.  滑走路に集った老人と子供の周りにガソリンがまかれ、火がつけられた。忽ち阿鼻叫喚の巷と化した 滑走路。我慢ならず我兵が小銃射撃をしたが、米軍は全く無頓着に蛮行を続ける。
  3.  火から逃れようとする老人や子供を、米兵はゲラゲラ笑いながら火の中へ蹴り飛ばしたり、銃で 突き飛ばして火の中へ投げ入れる。二人の米兵は、草むらで泣いていた赤ん坊を見つけると、両足を 持ってまっ二つに引き裂いて火中に投げ込んだ。「ギャッ!」といふ悲鳴を残して蛙のように股裂き にされた日本の赤ん坊とそれを見て笑ふ鬼畜の米兵士。
  4.  こんなに優勢な戦闘にも拘らず、米軍は毒ガス弾(赤筒弾)攻撃まで仕掛けてきた。
  5.  マッピ岬に辿り付いた田中大尉は、岩の間に一本の青竹を渡し、それに串さしにされた婦人を見た。 更に自分と同じ洞窟に居た兵士や住民が五体をバラバラに切り刻まれて倒れてゐるのを眼前に見た。
  6.  米軍の残忍非道から名誉と身を守るために「天皇陛下万歳」を奉唱してマッピ岬から太平洋に見を 躍らせた老人、婦女子や、左腕に注射針を刺し、君が代と従軍歌「砲筒の響遠ざかる・・・」を斉唱 しつつ自らの命を断った十余名の従軍看護婦達。

「サイパンの戦い - Wikipedia」より)

 サイパン戦では多くの在留日本人が殺害され、また集団自決した。2万人いたと思われる邦人の半数が亡くなっている。そしてその多くが沖縄出身者であった。これら悲惨な事実が生存者を通して沖縄に伝わり、およそ1年後の沖縄戦で「いっそ米軍の手にかかるなら・・・」と数多くの集団自決に結びついたとの指摘もある。かつて喧伝されたように、集団自決は大本営があえて「鬼畜米英」「女はみな凌辱される」と嘘の情報を流したことが理由ではない。現実に米兵は鬼畜にも等しい所業を行ってきており、その事実が伝播された結果引き起こされたものとも言える

 現に米軍進駐後に沖縄でなされた米兵による強姦事件は、うんざりするほど多いのである。終戦から数年間は、はっきりと記録に残るだけで月に数件というペースで起きている。(「米兵による戦後沖縄の女性犯罪」参照)。かくして戦後多数の混血児が生まれることになった。

 元々西欧社会において「戦争に行く」とは、「勝って帰れれば大金持ち」的な、一攫千金を狙って参加する面が歴史的にあった。実際英国などには、祖父や曾祖父が戦争に行って手に入れた財産と称号によって富を築いたという家が今でもたくさんあるという。兵士は負けた相手の兵士や女をどう扱おうが、何を焼こうが奪おうがお構いなしなのである。元々それが唯一の楽しみで徴兵に応じている。上官からしてそうだし、仮に上層部が注意してもこの習慣は容易に変えることができない。その点綱紀厳正で相手国民を「同じ人間」として扱った日本軍とは対照的である。それでは次に、「日本軍」は実際にはどのような軍だったのかを見てみよう。 

 (つづく)

 

 

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